夜に紅い血の痕を

著 久史都子

第九章 小さな針目

第八章に戻る | 第十章へ | もくじへ |

    ページ内ジャンプ 1.漁火《いさりび》  | 2.鉄爪  | 3.師弟ごっこ | 4.遅刻  | 5.誓い
1.漁火《いさりび》


 夜空を映す黒い湖面。水平線のあたりに揺れるかがり火を、アレフはうろんな光に感じた。人を底なし沼へ導くという、湿地に生じる青白い燐光の話を思い出す。ウォータの生ぬるい気候に慣れられず、気分が滅入るせいかも知れない。

 波間に映る灯が死地へ導いているのは、人ではなく透き魚。大湖の沿岸に仕掛けた網へ半透明の小魚を追い込む手こぎ舟の明りだという知識はある。だが、ぬかるんだ道や、板に干された魚、棒に掛けられた魚網から漂う臭いが、深い森の腐敗した沼を連想させる。

 しばらくは湖岸の街ウォータから動けない現状を、泥に足を取られ深みから抜け出せないもどかしさに、なぞらえているのかも知れない。

 理由は手形の割引料。しょせんはニセ商人。あきないの対価ではなく、路銀を都合するために振り出しては現金化する手形。バフルから離れるにつれ、決済の期日は伸び、利息代わりに両替商に取られる割引料は無視できない額となる。

 サウスカナディ城へ立ち寄る為に仕立てた馬車。あれもかなりの散財だったが、そのために振り出した手形の割引料だけで、馬車馬がもう1頭は買えた。湖面に三角の陰を落とす、アシぶきの小屋で身を寄せ合って眠る一家なら、1年は楽に暮らせる金だ。

 金の生る木など存在しない。金の出所をたどれば、東大陸で似たような暮らしぶりをしている者達の稼ぎからむしりとった税。小麦を買う金にも事欠き、時おり餓死者を出していた数十年前と今とでは、財政状況がいちじるしく違うとはいえ、無駄にしていいものではない。

 だが、手持ちの資金のうち半分以上を、ウォータの教会や両替商経由でキニルの口座に移す手続きは煩雑で、あと何日かかるか分からない。最終的には天候次第。鳥が運ぶ通信筒と、烽火塔の色煙、手旗信号による確認が済むまで動けない。

 一つの場所に長く留まれば、必然的にくちづけを与えた者が増えることになる。それだけ正体を暴かれる危険も増える。昼間は寝室にこもり、夜はこうしてランタン片手に散策をする習慣を、奇異に思い始める者もいるだろう。

 夜道を照らす光が要らぬ目を持ちながら、あえて手に持つランタンこそが本物の鬼火か。ホヤのまわりを飛ぶ蛾のごとく灯火に惹きよせられてくる者に、金のかかった身なりを見せつけるための光明。

 懐にのんだ財布の重さを期待させ、ひとけのない場所に誘わせて、これまで二人ばかり餌食にした。だが今夜もアテが外れた。そういった者達の間でも、良からぬウワサが広がり始めているのかも知れない。

 となれば、夜も明けぬうちから一人で起きている者の戸を叩き、なんとか開けさせて家に入り込むしかない。この町の住人は働き者だ。豊富に取れる魚油が安いせいだろうか。深夜まで……あるいは朝早くから、明りを灯して手間仕事に勤しんでいる。

 静かに波が打ち寄せるアシの向こう、繊細な葉を閉じて眠る木の下にも小さな明りが一つ。仕事をしているのは三十路前の女が1人。他の家から少し離れているのも、都合がいい。多くもらうつもりはない。ほんの一口。これ以上、くちづけを与えた者を増やさないためには、特定の相手を決め長もちさせるという手もある。

「夜分遅く申し訳ありません。少し難渋しております。この戸を開けていただけますか」
ていねいに優しく、魅了の力を込めた声で誘う。夜半から集中して細かな仕事をした夜明け前。眠気をもよおし、正常な判断力が失われる頃合。

 立ち上がる気配とあくびとため息。わずかに開いた戸からのぞいたトビ色の目の婦人に笑みかけ瞳を捕らえた。上気した頬とため息に、期待が高まる。
「中に入れていただけますか。お手間はとらせません」

 開かれた板戸の向こうは狭い土間にテーブルと寝台。狭く質素だが清潔に整えられていた。頭をすりそうな低い天井だが、思ったほど湿気はひどくない。そして部屋の中央に、四角い枠にかかった美しい色彩と、使われた糸が並んでいた。

「どう、なさったのですか」
「あなたの助けがどうしても必要で」
 わずかに残った理性の結び目を解きながら、戸を閉め、そっと抱きしめる。
「私のものになっていただけますね?」
 うなづいた彼女のおとがいを上げさせ、なめらかな首筋に唇をはわせた。

 拒絶の意思がカケラも感じられないのが嬉しい。ここ最近味わってきたのは、金目当てで襲ってきて逆に餌食となった者達ばかり。驚愕や怒り、恐怖や憎悪といった荒々しいもので一杯の心は、魅了の呪もかかりづらい。結局は力づくということになる。それも嫌いではないが、己が心の嫌な部分をかき立てられる。そして、あの娘の事を思い出す。

 噛もうと口を開いた瞬間によぎる、怯え震える細い肩の感触。罪が無いといえば、あの娘もこの婦人も同じ。一瞬やめようかとも思ったが、結局いつものように牙を突きたてた。

 塩味と旨味と粘性。冷たい体を温める熱さ。血以外のものは水すら受け付けない身だが、黒い茶だけは口にしても吐き気を覚えなかった。生命力すら補ってのける良く出来た代用品。だが、足りないのは鉄臭さと生臭さだけではない。

 結ばれる心。流れ込む思いと記憶。人の命を味わう充足感。
 疲労した婦人の……ミリアの意識が昂ぶりと虚血で闇へと沈む。

 飲みすぎを案じたが、治癒呪をかけた直後、荒れているが形のいいくちびるから安らかな寝息がもれた。苦笑して寝台に運び、残り布を様々な色糸でつづり合わせた薄い寝具をかける。

 眠りを妨げないよう、油を入れた皿に灯心を挿しただけの簡単なランプを吹き消した。ランプを戻したテーブルの上には青色を中心に選ばれた色糸と針山。かたわらには布の芯板を利用した背もたれの無いイス。そして、完成間際の刺繍を張った枠が架かっていた。

 専用の針に通した色糸で布の織り目を一つ一つすくい上げて表した、本物より美しく緻密な空と湖。雨季と乾季で収入が大幅に違う不安定な漁師の生活を支える、奇跡の手わざ。この細密な刺繍で衣装を飾ろうとすれば、ヘタな宝石よりも高くつく事になる。

 紅葉したツタを縫い取ったエイドリル殿の豪奢な上着。熱帯の花鳥をほどこした華やかなファラ様のドレス。見た事はあったが身につけたことはない。広大で豊かな土地を治める太守にのみ許された贅沢。それが、このような場所で生み出されていたとは。

 黒く堅い木の柱と梁は古い。だが、石を組んだだけの簡単な炊事場と赤土を突き固めただけの床、そして風通しのいいアシで編まれた壁と屋根は新しい。この家は乾季だけのもの。大湖の周囲が冠水する雨季は、柱だけを残して壊され、家財道具を背負って高台に住む親戚に身を寄せる落ち着かない暮らし。

 奪ったものと、仕事の遅れで生じる損失を埋め合わせるために、金貨を置いた時
「それは、やめてください」
 寝台の上から抗議の声があがった。
 怒り、いや矜持か。貧しくとも我が身と命、そして心を金銭に換えはしないという誇り。

「失礼した。では、ミリアが刺した美しい湖をみせてもらった謝礼、という事では」
「それは既に手付けを払われたよそ様の物。あなた様の物ではございません。お金を頂くいわれにはなりません」
 血の絆が強いるおそれを封じ、意を通すためにひたと見つめていた瞳がゆるんだ。

「難渋してあばら屋を訪ねた旅人を、わたしが信頼して招き入れ、求められたものを捧げたのでしょう。見返りを目的に困っている者を助けたりはしません」
 魔力で操った心も、行動の後は真実となる。否定はミリアをないがしろにする事に繋がる。

「あなた様が名も知らぬ娘さんの行く末を、いまだに案じているように」
 喉に口づけた時、心にかかっていた事を読まれたか。

「もう少しお仲間を信用なさればよろしいのに。絆を断たれたせいで、可哀想な娘さんの生死すら知ることが出来なくなって、ご心配なのはわかります。でも、殺されているというのは考えすぎでしょう。
ティアさん、ですか。馬を売ったお金を全額手にしていたからといって、そのために友人を亡き者にするような方でしょうか?」

 金を山分けする前に連れ戻されただけだという、ティアの言葉を信じたい。だが、日ごろの言動を見ていると、つい最悪の光景を想像してしまう。あそこに隠れていると屋根の上から指差した場所に娘の姿は確認できなかった。人がいる気配は感じたが、それが別人の物では無いという確証がない。

 記憶も声も名も、娘を特定する手がかりをあえて知らないままにしていた。ティアの術式でわずかな心の繋がりを断たれた後は、顔を見る以外、生存を確認する手段が無い。だが、それは禁忌だった。目が合えば切ったはずの絆が結びなおされる恐れがある。

「なかなか信用しがたくてね」
「きっと無事でいると思いますよ」
 微笑み、そのまま目を閉じて再び眠りに落ちていく。しもべの意思を尊重して金貨を戻した。別の何かを考えるしかない。

 外に出ると、門口に置いてきたランタンを手にドルクが立っていた。ずいぶんと深刻な顔をしている。

「酒場で飲んでいたとき、気になる話を耳にいたしました」
 
 3.師弟ごっこ | 4.遅刻  | 5.誓い | ページtop

2.鉄爪



 両替商からの帰りに引っ掛ける酒は一杯だけ。だが隣り合った者には惜しみなく奢るのが、最近のドルクの習慣だった。タダ酒が嫌いな者などいない。そして、酒場の亭主の機嫌が良くなるという点が一番重要だ。

 酔客がもらす言葉を聞き流す振りをしながら覚えている、カウンターの向こう側にいるオヤジや給仕。役に立つ話は彼らから聞ける事が多い。
 横で酔いつぶれてしまった油屋の若衆。その魚臭い手から傾いた酒杯を外してやった時、白いものが混じった長い眉毛の亭主が話しかけてきた。

 今年のトラッパ酒の出来といった差しさわりのない話の後……
「ときどきお客様と一緒にうちで食事をしていただいている元気なテンプルのお嬢さん。それと蚊を嫌ってお部屋にこもっておられる若い方。お連れさんはそのお2人でしたよね」
 ドルクはにこやかに頷いて先をうながした。

「あの銀髪は生まれながらのもの、ですよね。元気なお嬢さんの髪色といい、ずっと北や南の果てならともかく、日差しの強いこの辺りではあまり見かけない色ですので」
「……ここらやキニルあたりでは、あまり良く思われていないのは存じております。でも、決して卑しい身の上ではございません。ここの払いを踏み倒したり盗みを働くような事は」

「そんな疑いはカケラも。ちょっと思い出したことがありましてね」
 首を振り、愛想笑いと共に、酔い覚ましの黄色い果物を一切れ差し出した亭主が語る内容に、ドルクはタネを吐き出すことも忘れて甘い果実を飲み込んだ。

「何日か前に、こう黒髪を耳の辺りで切りそろえた司祭と大酒のみの聖女が、ダークブロンドの聖女見習いと銀髪黒衣の若者を見かけなかったかと尋ねたのですよ。どうやらウォータ中の宿を尋ねて回っていたようで。もしかするとお客様方を探していたのではないかと」

「心当たりはありませんが……知り合いかも知れません。2人の名前は」
「聞きませんでした。互いに愛称で呼びあってましたな。ルーシャとかアニーとか。追い抜いたとしたら南へ戻る必要があるとか話していました。お探しでしたらしばらく滞在なさるか、伝言を残しながら南へ向かわれれば出会えるかと」

 足元が崩れていくような不安をドルクは感じた。亭主の背後に並んだ、酒樽に焼き付けられた刻印や、酒瓶のラベルを見つめながら、最悪の事態を脳裏に浮かべる。街道沿いの主要な都市は教会とテンプルの支配地域。素性が割れ、本気で追われたら逃げようが無い。

 だが教会に出入りしているティアからは、何も聞いていない。彼女は聡い。接する者たちが何か隠し事をしていれば、すぐに気付く子だ。

 そのルーシャとかいう司祭はどこかで我らに不信を抱いて、個人的に探しているのかもしれない。

 アレフ様は夜の散歩に出てしまわれたあと。
 モルのようなイカれた者ならともかく、夜、不死者と分かっていて挑む者はいないと、己を説得して部屋に戻り横になった。昼の護衛のためにも夜は休息を取る。そうでなくては身が持たない。

 安眠とは程遠い悪夢にうなされるばかりの夜を過ごし、夜が明けるかなり前に主を探しに出た。
 雨季でも冠水しない高台に作られた石作りの街にはいらっしゃらない。坂を降り低地に向かう。高床の素朴な家が並ぶ小便臭い下町にも気配が無い。

 やっと存在を感じたのは湖岸。泥と水と魚の臓物の臭いがまじりあう漁師小屋の一角。声を上げられない弱き者に付け込む主の所業にため息がもれる。フトコロ狙いの賊を誘うのも、訴え出られぬ弱みに付け込むずるいやり方か。

 たよりない光を放つランタンが置かれた小さな小屋の前で、主と女の声に気付いた。逢瀬をおえたあとの男女の睦言を盗み聞いているような後ろめたい気分になる。艶めいた妄想を振り払い、出てきた主に見聞きした事柄と懸念を心話で伝えた。

(不信を招くような何かがあったとすればキングポートかチェバ)
 主がゆっくりと首を横にふる。
(くちづけを与えた者たちの記憶に、その黒髪の司祭はいない。あえて心当たりを探せばドライリバー城跡の賊。あの時、ティアを案じて馬で駆けつけたテンプルの者がいた。顔は見ていないが)

 あの時は主に気付かれぬよう、離れた位置から見守っていた。確かにティアと騎馬の2人組が話しているのを目にした。2人が去ってから主に駆け寄ったから、ドルクも顔は見ていない。正体がはっきりしない追っ手。不安がふくらむ。

「それより、金を受け取ってくれない刺繍職人が喜びそうな贈り物を、何か見つくろってくれないか」
 危機感のない主の物言いにドルクは目を閉じた。わざと大きなため息をつく。

 夕方、細密な刺繍を成すのに使えて売り払ってもそれなりの値となる、無色で透明度の高い枠つきの水晶レンズを主の前に置いた。その横に尖った刃のついた鋼のナックルを添える。
「護身用です。全力で殴ればミスリルを編みこんだ法服やチェーンメイルぐらいなら切り裂けるはず。相手が怯んだスキに、闇に紛れてお逃げください」

 寝起きだった主の顔が、強ばり引き締まる。
 明日の夜からは悪夢にうなされる回数が、少しは減りそうだ。

 
2.鉄爪  | 4.遅刻  | 5.誓い | ページtop

3.師弟ごっこ



 日が傾いた頃、ハンスはやっと目を覚ました。酒臭い床に転がっていたビンを拾い上げる。こぼれそこねた最後の一口を迎え酒にあおった。

 材木商を営んでた親は数年前に逝った。家業を継ぎ財産を手堅く管理している優しい妹夫婦の仕送りで、今日も酒に逃げ込める。

 頭痛にうめきながら寝汗でしめった寝台から抜け出し、無精ひげにこびりついたヘドのあとをこすり落とす。
 今日はニッキィに稽古《けいこ》をつけてやる日だった。喉といっしょに正気を焼いてくれるカルカ酒は日が落ちるまでお預けだ。

 下宿屋のおかみが吊り下げカゴに入れてった乾きかけのパンを、黄色い水瓜の汁気で飲み下して腹ごしらえする。カゴの下に置いてあった麻のシャツを着込み剣帯を締めた。そして、二度と抜かないと決めた剣を下げる。

 梯子を降りて湖岸へ歩き出した。目指すのは湖水に洗われる狭い砂地。そこでは小さな友達が、枝からナワで吊るしたアシ束を相手に、古い柱材を切って削って布を巻いた木刀を振るっているはず。
 今日は打ち込みの相手をしてやる約束だ。いくら十一歳のガキ相手でも、マトモに食らえばタダでは済まない。シラフでなければ危ない。

 岸辺でもよおして、アシ原の向こうにかすんで見える木の下の小屋を見ながら小用を足した。あそこに住むまだ十分に若く美しい未亡人を狙っている男は少なくない。ハンスがニッキィに声をかけたのも、大事な一粒種を手なづけて母親を……という下心があったからだ。

 しかし、漁に出かけ湖に消えてしまった亡夫が遺した思い出は、彼女が刺す刺繍と同じくらい鮮やかに美しく心に刻まれているらしい。彼女の刺繍を特に高値で買い取っていく仲買人は、競うのもバカらしくなるほど立派な男だ。それでも彼女はなびかない。そしてハンスには、亡夫に勝てる美点も甲斐性もない。

 今じゃ元々の目的なんてどうでもいい。字を覚えたがり剣術の稽古にも熱心なニッキィの相手をするのは、酒で酔うより心地良い。家でもテンプルでも、ごくつぶしと言われ続けた自分が、ニッキィの前では英雄でいられる。生まれ変わるためにテンプルの試験を受けようと剣術の稽古を始めた、十五の頃を思い出す。

 ニッキィはハンスがまだテンプルの剣士だった時の事を聞きたがる。ホラ話に少しばかり真実を混ぜた武勇伝を、目を輝かせて聞いてくれる。ニッキィといるときだけは酒が無くても平気だ。昔、敵と間違えて仲間に剣を振るってしまった記憶に苦しまされずにすむ。

 あいつこそが本当の英雄だった。ハンスよりも何倍も腕がたって勇敢だった。仲間を逃がすため最後まで追っ手を押し止め、何とか振り切って合流しようとした時……
 やめよう、ニッキィが水際でこっちを見てる。

「悪ぃ、待たせた」
 今日はえらく真剣だ。木刀を握りしめた指が血の気を失っている。心して相手をしなければ。
「母ちゃんが、おかしいんだ」
 黒い巻き毛の下の必死な目。日焼けした顔はこわばって、声は低くかすれていた。

「仕掛け網にかかった魚の水揚げの手伝いと舟の掃除が終わって親方んトコから戻ったとき、家の方へから来る旅人風の2人組みとすれ違った。暑苦しいマント着込んだ若い男の顔が、変に青白くて唇が赤くて、ぞっとした」
 肩を震わせるニッキィを見て、武勇伝のカタキ役を誇張しすぎたと反省した。明けきらない薄暗がりの中では、アシの穂や水鳥だって得体の知れない化け物に見える。

「ウチの中は暗くて静かで、刺繍の道具が出しっぱなしだった。いつもなら朝メシの用意してる母ちゃんは寝床で……声かけても目を覚まさないんだ。顔色も少し悪くて、喉に赤い傷が二つ、ついていた」
「それで、母ちゃんは目を覚ましたのか」

「揺すったら起きた。うたた寝してただけだ、首の傷は虫に刺されたあとだって笑うけど、元気がないんだ。親方がくれた雑魚でスープ作って朝メシ食ってる時も、ため息ばっかりついてた。今は普通に刺繍してるけど」

 あるいはと思った。ミリアが夫を亡くしてもう十年になる。若い恋人が出来てもおかしくない。

 吸血鬼のしわざだと思い込んでいるニッキィをなだめるため、明け方、護衛にいってやると約束した。
「母ちゃんの朝飯を食わせてもらうのが報酬だ」

「夜は? 魔物は夜に血を吸いに来るんだろ」
「結婚してない女の人ンところにオレが泊まるのは、ホラ、くちヤカましいオバちゃんとかいるからな」
「じゃあ、今夜は漁の手伝い休んで、ボクが母さんを守る」
「そいつはいい。そんなヤツ、一発かませば逃げてくさ。ニッキィは本当にスジがいいからな」

 オレが先に目をつけてたんだ。急に出てきた若い男にミリアを取られるんじゃ腹のムシが収まらない。ここはひとつ手塩に掛けて仕込んだ弟子に、恋路をジャマしてもらおうじゃないか。




「この先に、イイ女をそろえたヒミツの店があるんでさぁ」
 それは楽しみだと笑って、小柄な男の眼前にランタンを掲げた。こげ茶の瞳孔がすぼまるのを見取って、アレフは炎から熱を奪った。

 視界を閉ざす闇にまどう男の背後に回り、火の消えたランタンを置く。魚や人の臓物を掻き出すのに便利そうなナイフが、ベルトの背側に挟まれていた。抜いて捨てると、男は振り返り空気をかき回した。数歩離れて虚勢にまみれた言葉に耳を傾け、怯えた顔を眺める。

 ゴム林の向こうにあるのは放棄された舟小屋。居るのは美女どころかむくつけきゴロツキども。腕力や体格については小男の恐怖心による誇張もあるだろう。それでも、大勢を相手にするのは面倒だ。

 ここで済ませる。
 金属の硬い輝きをまとった右手を、汗ばんだ背中に向かって伸ばした。

「はなせっ」
 自力では巻き付いた腕を振りほどけないと気付いた者は大抵そう叫ぶ。叫んだ獲物を逃してやった事などないくせに。女色に目がくらんで身ぐるみ剥がされる者たちを見ていながら、同じ目に遭う時がいつか来ると思わなかったのか。

 うなじから鎖骨に向かって唇を這わせる。運命を悟ったのか盛り上がっていた背中や腕の筋肉がなえ、半ズボンとサンダルの足が垂れた。表層に触れさせていた力を、抵抗をやめた心の奥まで伸ばし、高揚感と悦楽を引き出す。本能をとろけさせ、欲求をねじまげ、みずから首を反らせるよう仕向ける。弱々しく抗っていた意識は牙を突きたてた瞬間、砕けた。

 血をすすり摂りながら、男の心に人から奪うなとカセをはめる。この地は温かく豊かだ。奪わずとも生きてゆけるはず。ウォータで最初に喰った者は物乞いとなり、2人目は作業場で魚のアラを煮込んでいる。この男が今後どうなるかまでは知らない。不幸になる者が減るならそれで十分。

 これは欲望を満たすついでの掃除。善行だと言うつもりも無い。
 腹の奥に溜まった温もりを楽しみながら、忘我から覚めない男を道ばたに下ろす。ランタンを拾い上げて灯し、散策を再開した。

 町への道を戻る。
 寝静まった家々の間で歯ぎしりやイビキといった人々の立てる雑音を楽しんだ。嬌声と喘ぎが闇に溶ける妖しげな界隈に足を踏み入れ、窓辺の明りに滑らかな肌をさらして誘う女たちに笑み返す。仕舞いかけた酒場で飲みもしない蒸留酒を頼み、漁に出る者達のために蒸した魚とイモを売る店の支度を見守った。

 朝焼けが広がりはじめた頃、湖岸に向かった。
 ミリアの心にかけたカセは、誰にも話すなという禁忌と、求める時には応じよという要求。なめし皮の袋に収めた拡大鏡を置いて来るついでに、一口だけ楽しんで今日は終わりにしよう。

 明りがもれるうすい板戸のカンヌキは外されている。温かな明りに照らされた簡素な調度は、昨夜と変わりない。ミリアが唇を引き結び焦っているのは、夜明けを案じての事だろうか。生成りのブラウスの胸元で組まれた手が血の気を失っている。

 笑みかけようとした瞬間、間近で上がった甲高い声に驚いた。右スネを打たれた痛みにヒザと手をつく。目に映ったのは武器を振りかざした人影。とっさに右腕で払った。金属とは違う、硬い物に手甲の刃が食い込む。力づくで振り抜いた。

 払い飛ばした襲撃者が、アシの壁をへこませてヘタり込む。軽すぎる手ごたえに違和感を覚えた時「ニッキィ!」ミリアの悲鳴が耳をえぐった。
「……子供?」
 日に焼けた小さな体。大きく見えたのは恐怖のせいか。木切れを握りしめたままの細い指。胸を赤く染めていく血。

 急いで治癒呪をかける。つぶれかけた肺を復元し、折れた骨を繋ぎ、肉を合わせようとした時
「やめて!」
 術式の完成に向けていた集中力が断たれた。かがみ込んでいたニッキィの上から一歩しりぞく。
「息子には手を出さないで」
 手を広げてミリアが呼ぶ。治療を続けなければならないのに、テーブルの向こうから見つめるとび色の瞳から目が離せない。

「私はどうなってもいいから……」
 温かく柔らかい体の感触が腕に蘇る。赤く鮮烈な味と香り。命の源に触れる悦び。何もかもとろかす快楽の予感に、今、何をしていたのか分からなくなる。確か危急の……いや、思い出せないのなら、重要な事ではないのだろう。

 ミリアが首を反らせ、昨夜つけた二つの傷を見せつける。半眼の目が笑って誘う。
 熱い脈動を味わうために肩を抱きしめると、安心したようにとび色の目が閉じた。
 赤く染まった薄い胸がよぎったが、噛み痕に再び牙をうずめた瞬間、口中にあふれた命の奔流が全てを押し流した。

 だが今夜はもう食事を済ませている。すぐに限界がきた。ひとしきり楽しんだあと、ミリアにも充足感を分け与え、夢に誘う。安らかに眠ったミリアを昨日と同じように寝台に横たえ寝具をかけた。
 枕元に拡大鏡を置き、帰ろうとして壁際からの強い視線にたじろいだ。

 胸のキズを押さえ肩で息をしている少年。
 治癒の最中だった。
 ミリアを味わっている間、忘れていた。いや、意識に上らないよう封じられていた。親の強い思いが起こした厄介な奇跡。

(血の呪縛が祟るのは、吸われた方だけじゃないってことね)
 つまりは血の絆を介してしもべに操られたのか。情けない
 
2.鉄爪  | 3.師弟ごっこ  | 5.誓い | ページtop

4.遅刻



 ハンスは数年ぶりに朝日を見た。
 青光りするハエが目の前を飛ぶ。水面を渡る風に鮮やかな緑がうねる。草原と見間違えそうだが正体は浮き草。その実を茹でてカラを剥き、すり潰して発酵させたトラッパ酒は口当たりの良いにごり酒。蒸留すればカルカ酒だ。杯を重ねればたちまち足に来る。

 だが、今日は一滴も飲んでない。普段なら寝床でツブれている明け方に起き出し、こましな服に袖を通した。道をしっかり踏んで、ニッキィの家へまっすぐ向かう。髭もあたり花を持っていこうかと思ってやめた。今日は逢引ではなく“護衛”に行くのだ。

 お節介焼きのオバさんが道端で見かけない中年の男と話している。服装からすると旅人だ。腰にたばさんだ斧は物々しいが、物騒な雰囲気じゃない。陽気にうなづきながら、こっちに笑顔を向けている。

「あの方はずいぶん立派な剣を差していますね」
「おやノンべのハンスじゃないか、こんな時間に出てくるなんて珍しいねぇ」
「今日は飲んでねぇよ」
「しゃんと服きて剣を差してると、ホレちまいそうだよ」
 お世辞だとは分かっていても顔がゆるむ。

「酒でダメになっちまったけど、この人はテンプルの剣士だったんだよ」
「凄いですね。一度お手合わせ願いたいですな」
 男の目が細くなる。値踏みされているみたいだ。笑って肩をすくめてみせる。男の太い腕を見るまでもない。打ち合ったら3合ともたずに負けちまう。

「とんでもない。オレなんざ」
 首を振ると、男は茶目っ気たっぷりにカルカ酒の小杯を口に持っていく仕種をした。
「こっちのほうでひと勝負」
「そりゃあ、いい」
「まったく、あんたときたら。
ハンスは底無しだよ。体のためにやめときなさい」
 
「残念だなあ」
 本気で残念がっている様子の男にハンスは片目をつぶってささやいた。
「今はちょいと用事があって……あとで酒場で会えたらひと勝負」
「昼まっから飲むのもなんですしね。夕方にでもどうです? 奢りますよ」
 タダ酒ならばと顔がゆるむ。しばらく立ち止まって詳細に場所と時間を打ち合わせた。ニッキィと約束した朝食の時間に少し遅刻したかも知れない。

 2人に手を振って歩き出した時、さわやかな朝の光の中に異分子が混ざっているのに気付いた。黒いマントを羽織った青年が歩いてくる。なるほど、こいつか。色の薄い髪が日の光に映えている。白い顔は滑らかで唇は不機嫌そうに結ばれていた。邪魔者が居たんで思いが果たせなかったんだろう。

 ざまあみやがれ。
 これからあんたが抱きそこねた女が作った朝飯を食うんだ。ミリアの子と同じテーブルにつくんだよ。本当の夫や父親みたいにさ。

 すれ違ったとき夜を感じた。まわりは朝だというのに冷んやりとした暗い空気が顔をなでる。その中にただよう匂いに眉をひそめた。知っているのに思い出せない。考えいるうち、ニッキィの家の前に立ってる木の下まで来た。

 血の匂いだ。
 振り返ると、青年ははるか遠く、先程飲み比べの約束をした男の側まで歩み去っていた。男はオバちゃんに手を振り、青年の後に従うように去ろうとしている。

 まさか……今は朝じゃないか。
 第一この大陸にヴァンパイアはいない。
 嫌な汗が脇を伝う。あいつを追うべきか。
 元気な笑顔と、愁いを隠したほほえみがよぎった。

「ニッキィ……!」
 母ちゃんを守るんだと木刀を振っていた。女たらしの軟弱な若造なら追い払える。むしろやり過ぎて取り返しのつかないケガを負わせないか心配なくらいだ。でも、もし“本物”だったら?

 ハンスはわずか3歩の距離を走ってニッキィの家に飛び込んだ。
 そうあってくれと願った、あたたかいテーブルは無かった。窓は締め切られ、薄暗い台所には火の気がない。
 死んだように眠っているミリア。壁際にうずくまってすすり泣いているニッキィ。

「ニッキィ!」
 ハンスは駆け寄った。上げた顔は涙にまみれ、胸は血に染まっていた。鋭い刃物で裂かれた破れが2本斜めに走り、右手には、両断された木刀の残骸が握り締められていた。

 生きていた。
 心底ほっとした。同時に信じてやらなかった自分の愚かさに腹が立った。もし“本物”だと分かっていたら、戦えとは言わなかった。吸血鬼が諦めるまで母親を連れて身を隠せと忠告するんだった。

 寝台のミリアも青ざめているが呼吸は落ち着いている。術にかかって眠っているのだろう。そしてノドには“あいつ”の食事の後が残っていた。




 濡れ布巾に縞瓜を包んでぶら下げてきた婦人をドルクは呼び止めた。体調の思わしくない若い友人を案じて見舞いに行くところだと婦人は笑った。水菓子の美味い屋台を聞くフリをして何とか足止めした。すると今度は、元テンプルの剣士などという物騒な経歴の持ち主までやってくる。アレフ様は少しばかり厄介な贄を召されたようだ。

 (終わった)
 そう告げられてため息がもれた。甘味の話に混ざる夫へのグチ、それに酒談義が加わるという、混沌とした会話を何とか終えてホッとする。アシ原の向こうから足早にくる主と、酒好き男が何事もなくすれ違う。

「ハンスもミリアんトコへ行くんなら、あたしゃ、お邪魔だね」
 片目をつぶって見せる婦人に、訳知り顔で笑み返し、とっておきの屋台を教えてくれた礼を述べた。そして、足早に湖岸を離れようとしている主を追う。

 思えばこれまで、外に出られる時はわたくしを始めとする護衛が随行していた。それが密やかな逢瀬であっても。声の届かぬ場所に控え、余人が立ち入らぬよう目を光らせていた。そういうものだという諦観を崩し、自信を持たれるキッカケとなったのはドライリバー城跡でのムチャな単独行か。

 わが主の顔も名も、知る者がまずいない異郷の地ウォータ。
 無名の旅人に向けられるのは適度な注目と無関心。思いかげずに得た休日をひたすら1人歩きに費やされるのは、初めてのご経験だからだろう。心の向くまま1人で町を探索できる喜びに目を輝かせておられた。

 お供は無理だと申し上げた際の、歩き始めたばかりの幼子を思わせる笑顔。多少の乱行とモメ事の後始末は覚悟していた。だが、近づくものを足止めしろと命じられた時の、すすり泣くような心話はいったい。

「何があったのですか」
 家々が高床の廊下を共用しあう下町に入り、狭い赤土の道を急ぐ者たちの間をすり抜けながら、ささやいた。
「子供が……いた」
 奔放な夜歩きを楽しまれるうちに警戒心をお忘れになったか。訪ねる前に相手の都合を聞くという発想は……まぁ、一度口付けを与えたしもべ相手に遠慮なさるような方ではないし、今さら忠告さしあげても仕方ない。

「その子を呪縛なさいましたよね?」
 横に振られる黒いフードに詰め寄った。
「何をお考えなのです。顔を見られたのでございましょう? あの剣士に話してしまったら」
「息子には手を出すなと、しもべに……血と引き換えに頼まれた」
 子供が見ている前で母親を召されたか。なんとむごい事を。いや、今は同情している場合ではない。

「もう宿には戻らないで下さい」
 戸惑ったように振り向かれたアレフ様は、まだ事態がお分かりでないらしい。
「よろしいですか。宿や酒場で銀髪黒衣の若者を探していたテンプルの者がいて、そこに貧しい子供の言う事とはいえ今回の件が加われば、良識という幻が破れてしまいます」

 考え込む主の腕を掴み、さらに声を潜める。
「両替商を1人、呪縛して代理人になさってください」
「そのことは……何も強硬な手段を用いずとも」
 ウォータについた直後にも進言した。あの時も却下された。だが、今は引き下がれない。

「多すぎる金は、人の心と道義を捻じ曲げてしまうものです。顧客が2度と戻ってこないと分かれば、信用を第一と考える誠実で善良な者にも、邪念が生じましょう。まして、その半額なりとも教会に寄付するならば」

(魔性の者が人から搾取して成した財を、奪い返した英雄との誉れも得られましょう)
主の顔に生じる惑いと諦め、そして後悔と決意を読み取った。

「めぼしはつけてございます。教会との距離のとり方を心得た有能で勤勉な男。そろそろ開店の支度をしているはず。ご案内いたします」
 主の横を抜けて、先に立って坂道を登る。

 あとは、宿でまだ眠っているティアに、金を持たせた使いを遣って支払いを済ませ、なるべく早い便の馬車で町から……いや、足取りをたどり難くするには、いっそ舟を雇い対岸に渡ってしまう方が良いかもしれない。

 幸い、今日の大湖は穏やかだ。風を操れば簡単な一枚帆の小舟でも数日のうちに北の湖岸につくだろう。





 明り取り窓だけでなく、ハンスは台所の煙出しまで開けた。新鮮な朝の光と風が、魚油の生臭さと夜気を払う。
 座学を怠けていた若いころの自分を呪いながら、すりへった指貫を外して爪の色を確かめ、ミリアの脈を診た。爪が白く反り脈が弱い時は危ないと学んだ気がする。

「……母ちゃんは?」
「今は眠っている。大丈夫、すぐに気がつく」
 爪はうす紅色で脈も力強く思えた。下まぶたやベロの色を確かめるのは止めておこう。それよりニッキィを手当しなくては。

 母親を心配して覗き込んでいたニッキィを、イスに座らせた。
「また来たんだ、あいつが」
「えらかったな、母さんを守るために戦ったんだな」
 目を閉じ首を振るニッキィの、裂けて血で汚れたシャツをめくった。血は乾きかけていて……傷が見当たらない。

「痛むか?」
 問いかけるとニッキィも首をかしげた
「今、痛くない」
 そろそろと脱がせたシャツに、台所の大ツボの水を振りかけて薄い胸を拭う。日に焼けた健康な肌が現れた。

 からかわれたのだろうか。
 魚の血を、ハサミで切った服につけての悪ふざけとか。
 だが、母ひとり子ひとりの余裕のない暮らしだ。冗談で服を台無しにするとは考えられない。

「痛かったのに、息も出来ないくらい痛くて」
 不信に思われているのを感じたか、ニッキィがハンスの腕を掴んだ。
「目を開けたら真っ暗で、母ちゃんの叫び声がした。光が戻って……“あいつ”の黒いマントが目の前をおおってたんだ。僕からはなれた “あいつ”は母ちゃんの血を……」
「もう話さなくていい」
 苦しそうなニッキィの言葉をさえぎった。だが少しの沈黙のあと言葉は続いた。

「母ちゃんを寝かして、ボクを怖い顔でにらんでた。殺されるって思った。魔法をかけられて胸がすごく痛んで……そっか、傷を治したんだ。きっと、母ちゃんが血と引き換えに頼んでくれたんだ。守るはずだったのに助けられるなんて。悔しいよ」
 敗北も後悔もまっすぐ語るニッキィ。自分が11歳の時どうだったか考えると、恥ずかしくなる。

 奥から大きなあくびが聞こえた。
 ハンスとニッキィが見つめる前で身を起こしたミリアは、微笑んだ。
「いらしてたんですねハンスさん、私ったらまた居眠りを」
 首に手を当てた後、笑みがぎこちないものに変わる。

 「朝食をご馳走するお約束でしたよね」
 立ち上がったが、ふらついた。ハンスは手にしたシャツを捨てて支えた。
 「寝ててください。オレが作ります。あいつには、もう手を出させません」
 ミリアの目が見開かれる。
 「遅刻してすまない。ニッキィを危ない目に遭わせてしまった」

 あんなところで大酒勝負に誘われなければ間に合ったかも知れない。
 そうか、あの男は手下か。
 “あいつ”が食事をしている間、ニッキィの家へ向かおうとする者をさりげなく引き留めていたんだ。

「今日から実家か知り合いの家に泊まって下さい。なんならオレの部屋でもいい。家にいなければ諦めるハズだ」
「ご迷惑は……おかけできません」
 きっぱりとした口調だった。
「大丈夫です。私は大丈夫。甘えさせていただけるなら、ニッキィを泊めてやってください」

 ヴァンパイアの口づけは快楽を伴うという話を思い出した。ミリアの身も心もヤツに奪われたというのか。気丈に朝食の支度をする後ろ姿を見ているうちに、悔しさと怒りがふくれあがった。

 よこしまな呪縛から解き放つ方法はひとつ。悪の根源を打ち滅ぼすこと。

 教会に浄化の術を使える者はいるだろうか。一度も出入りしたことがないから、まず信じてもらえるかどうかが問題だ。

 いや、俺1人でもやってやる。ヤツの昼間の隠れ家を探し出して胸を貫き首を落とす。腰の剣に施されている破邪の紋が、サビに食われてなければいいのだが。

 ただし、ミリアに気付かれてはならない。ヤツと心が繋がっている。
 全ては、ミリアが作ってる朝メシを食って、おだやかにここを出てからだ。
 
2.鉄爪  | 3.師弟ごっこ | 4.遅刻  | ページtop

5.誓い


 石と焼きレンガの白い建物は、立派だけどムシ暑い。カビのあとが無いのは地元の硬い木で作られた扉ぐらい。そのうえ宿賃がバカ高いなんて、納得できない。下町に何軒かある木とアシで作られた風通しのいい安宿のほうが、ぜったい安眠できる。
 太陽の光は容赦なく射し込むけど。

 宿の清算を終えたあと、収まらないハラのムシをだまらせようと、ティアは宿の一階にある食堂に行った。ハンパな時間で客がいない。ちょっとした貸しきり気分。

 イモの下ろし汁を乾かして練って茹でたフルフルした玉の上に、飾り切りした果物と花びら乗せてハチミツかけた、高くて量の少ない甘味をかっ込む。屋台なら同じ値段でオケ一杯は食べられる。見た目がすこし悪い黒ミツをかけたヤツだけど。

 果物とくんせい肉のサラダが来たとき、場違いなオッサンと目があった。酒やけした赤ら顔。ポコンと出たハラを包むのはシワの目立つシャツ。半スボンのすそはスリ切れて、サンダルは泥で汚れてる。気取った白磁のティーセットの間に置かれた、屋台の木皿みたいに浮いてる。

 一口大のウリと香草と薄紅色の肉片をフォークで突き刺してたら、昼のカウンターを預かる太った給仕と、オッサンの話が耳に入ってきた。

 聞いているうちに、厚いロングスカートに包まれた太ももが汗ばんできた。左手で摘み上げ少し風を送る。法服は石造りの宿同様、ウォータの気候になじまない。格式ばってばかりで、重くて暑くて風通しが悪くて、不快。
 そして、オッサンの話もフユカイだ。

 屋台でサイフを忘れていった頭の白い若い男を捜している……か。あのバカ、ドジ踏みやがったな。いきなり宿を引き払うなんて変だと思ったんだ。

 それにしても、うまいことはぐらかすなぁ、給仕さん。さすがはシニセの伝統と格式。怪しくても客は客。部屋付きの女中には悪さしてないし、心づけは弾んでたし……
 オッサンがこっち来た。

「聖女、見習いさんか。見かけなかったかな。黒い服着た髪の白い、でも若い男なんだが」
「そういうオジさんは、もと聖騎士さま?」
 剣の柄についてる破邪の紋にフォークを向けた。なぜかオッサンは恥ずかしそうに柄を手でおおった。

「銀髪の若ゾウなら1人知ってるよ」
 目がキツい。こりゃ舎弟を痛めつけられた元締めがメンツのためにお礼参り、ってんじゃないな。アレフが噛んだのは、オッサンの友達か情人《イロ》か家族……子供かもしれない。

「あたしのツレだけどね。男のクセにシミとかソバカス気にして、閉じこもってる自称イロ男。あたしに言わせりゃ青っちろい本のムシ。司祭見習いになっても体がついてかなくて、すぐに親元へ帰っちゃうんじゃないかな」

 ちょっとアテが外れた顔してる。
「酒で育む友情って憧れるなぁ。男が男に惚れるってヤツ? 一緒に探してあげよっか」
「いや……あんたみたいな若い子は、もう巻き込みたくない」
 最後は呟くような小声だった。オッサンはうつむいて出て行った。

 お金に添えてあったドルクの手紙をポケットから出してもう一度目を通す。駅に立ち寄って南へ向かう便の乗車予約を3人分。その後、ウェンズミート行きに変更。でも乗らずに両替商で落ち合う。つまりニセの足跡を残せってことか。

 湖を舟で渡ろうとか、考えてるんだろうな。
 今は乾季で大湖はせまいし。

 左手に少し違和感を覚える風精の紋。こいつで昼はあたし、夜はアレフが舟を走らせれば、3日ぐらいで向こう岸に行ける。でも、嵐が来たらどうするんだろ。風に舟を押させるくらいは出来るけど突風や大雨を封じる力なんて、あたしにもこの子にも無いぞ。




 黒い柱に白い土カベ。開け放たれた窓辺に濃い緑と赤い大輪の花がゆれる。青いチョウが蜜を吸い、ツタをかたどった真鍮《しんちゅう》のシャンデリアの間を飛び惑う。
籐編みのイスにかけたアレフは、黒と茶の縞が美しいテーブルで何枚もの委任状にペンを走らせていた。

大金を扱う店舗は石造りで堅牢だが、大口の顧客を迎える応接間は中庭の離れ。高床式で風通しの良い木造の建物はまぶしすぎて、落ち着かない。
 故郷では必需の暖炉は、ここでは形式的なものらしい。スス汚れひとつない窪みには大きなガラス鉢が据えられ、浮き草の下で銀と金の小魚が遊んでいる。

 時おり眼前の男の秀でた額に刻まれたシワに目をやる。まだ書類に向けられている瞳は捉えてないが、薄い布を巻きつける様に相手の身と心を包む力を少しずつ強めていく。

 昼間、人を呪縛するのは困難だ。指輪が生む夜の結界に力を削がれるだけではない。陽光の下まで行けば安全だという確信が呪縛を退ける。クインポートの自称町長の時は血を啜ったにも関わらず失敗した。今朝方も痛い目に遭った。

 直近の出来事を強引に忘れさせるのは難しくないが、しもべという恒常的な支配関係を築くにはある程度の同意が必要となる。自発的にせよ、仕向けたものにせよ。そして手持ちの呪法では、闇への本能的な恐怖と、非日常がもたらす動揺に付け込まねば、快感を触媒とした崇拝を刷り込むことも出来ない。

 ならば、正式に頼んでみるしかない。
 商人ならば不利益を上回る利益を提示すれば、説得できるだろうか。

「他にも移したい口座がある、条件次第でそれらの手続きもお任せしたい。そう、申し上げたら、オーネスさんは、引き受けていただけますか?」
 ささやきながら、心話も送る。黒く細い目がわずかに見開かれる。書類を整える作業に入り、若い店員をドルクが昼食を奢ると連れ出してから、幻術をまとうのはやめていた。

「他に口座ですか。名義はどのように」
 アーネストも架空の名だと気付いているか。これが元をたどれば表に出せない種類の金だということも。
「それぞれ別の名義で、別の者に手続きを進めさせています。ここを立たねばならなくなったので、監督をあなたにお願いしたいのですが」

「条件とは手数料の額でしょうか」
 冷や汗と震え。あえて聞くのは、分かっていても否定したいからか。
「隠し持った手鏡で、うつして確かめる程には疑っていたのでしょう?」
 体は金縛りにした。だが声は上げられる。誰かが来る前に、強引に噛んで記憶をいじる位は出来るだろうが。

「手前にとって、ずいぶん不利な取引に思えますが」
「他の商人も教会も知り得ない遠い地の出来事を、先んじて把握できるのは十分に有利でしょう。有能な両替商であれば」
「時に資産を数倍に増やすことも……ですか」

 表面上は取り戻された冷静さ。だが心の天秤はいまだ定まっていない。眉間のしわは深くなり、その奥では損と得、道義と利がせめぎあっている。

「オーネスさんが、お断りになるなら……先ほどのお話は忘れていただいて、私は他の店に取引をもちかけるまでのこと」
 二重の脅迫だということに、すぐ気付いたようだ。

 断ったところで今から噛まれるのは変わらない。深く呪縛され操り人形となりながらも富を得るか……わずかな記憶を失って心の自由を守る代わりに、商売敵の隆盛を後ろから見上げるか。

 追い詰められながらも、平静をとりつくろおうと揺れる目に、親しみを込めて微笑みかけた。魅了の力は込めない。あと提示できるものは誠実と信頼。
「こちらにお任せした口座を含めて、5つ。うち2つはもう送金の段階にあるものの、残る3つの進展度はほぼ同じ。私の、アルフレッド・ウェゲナーの意を受けて動く者となっていただきたい」

 名前が与える衝撃を静かに見守る。言うことを聞かぬ子供を脅しつけるおとぎ話の魔物が目の前に現れたバカバカしさと、原初的な恐れと、偽名でありながら全てが正式に整いすぎている矛盾の解消。

 諦めたような笑みが、やがて愉快そうでどこか空ろな笑い声に変わった。
「私を引き取り、この店の跡取りとして仕込んでくれた伯父ですが、ウェンズミート家の公子の御用を若い頃に一度だけ務めたと自慢そうに語る、困った男でした。そのせいで教会との取引に不利をこうむっていたというのに」

 汗のしたたる暑さの中でも、礼儀正しく閉じられていた襟元のボタンが外される。
「熱病で亡くなった伯父が聞いたら、うらやましがるでしょう。太守直々の口づけを頂いたと知れば」
 豊かな鉱山をひとつ任されていた公子と、最果ての実り少なき乾いた地を治める副太守。正直どちらが上かは分からない。

 念のため視線で縛りながら立ち上がり、テーブルを回って、オーネスの肩に手をかけた。閉じられたまぶたも、反らされた首もわずかに震えている。

「どうぞ、ご随意に」
 無防備にさらされた喉に口づけた。




 湖面に映る夕雲を、広がる波紋が砕く。
 夕方になると、ニッキィは湖に向かって石を投げる。投げる石がなくなれば泥を掴んで投げる。次から次に生まれる不安や怒りを大湖に投げ込まないと、当たり前の顔をして家へ帰れないらしい。
 ハンスはそんな幼い友人の背中を見守るしかない。

 教会は信用できないと分かった。
 それがニッキィをひどく落ち込ませた。

 ミリアを襲った吸血鬼を探して、ハンスが宿と駅をまわり、タカリに間違われて邪険にされたり、野良犬のように叩き出された翌日。乾季は人が立ち入らない高台の漁師小屋や、心当たりの廃屋を回っていた時。

 母親にもう看病はいらないと言われたニッキィは、教会の門を叩いた。

 1日1銀貨というバカ高い授業料。教会は貧しい子供を相手にしない。ニッキィは無視された。だが、門前で叫び続けた。怒鳴られ、こづかれ、突き飛ばされても諦めなかった。
 根負けした準司祭が、母親を診てやると言うまでは。そして、家につくまで準司祭の手を離さなかった。

 噛み傷を診た準司祭は、魔物の呪いを解くには準備が必要だと一度は帰った。抜け目ないニッキィに身分を示す腰の紐を奪われてから。

 遅い午後、準司祭は仲間を連れて戻ってきた。そして多額の寄付を要求した。払えないとうつむいたニッキィに、恩着せがましい笑顔を見せた。
 魔物から人を救うのが使命だから今回は特別にタダで秘術を行なってやる。魔物のトリコになっている母親は嫌がって助けを呼ぶかもしれないが、夜明けまで決して入るな。そう言ったらしい。

 隠れ家探しから戻ったハンスがニッキィから話を聞き、親切ごかしな言葉の裏に不穏なものを感じて家に飛び込んだとき……連中はミリアを裸にして胸や足を触っていた。鞘に収めたままの剣を振り回し連中を叩き出した。捨て台詞と呪いの言葉を吐いて走り去る連中の後姿にツバを吐いた。そこまで腐っていた事にハンスもガク然とした。

 ハレンチな悪行を隠そうと、連中はニッキィと母親に関する淫らな中傷まで流した。親しい友人やニッキィの親方は一笑に付した。だが、下宿屋の女将に、不道徳な女と付き合うなと苦言を呈されたハンスは滅入った。

 ニッキィは、どうして……と、問いもしない。
 大湖のように全てを飲み込み、日々の糧を得るために仕事に向かい、作り直した木刀を振る。ミリアも黙々と刺繍を続けている。

 ニッキィが石投げを止めた。無気味に鳴き交わすサギを見上げ、足早に家に向かう。ハンスは黙って後ろを歩いた。

 ニッキィが漁に出ている間、ハンスは災厄の源を捜し続けていた。だが、あの日を境に、それらしいヨソ者を見かけたという話は聞かない。ここらで飲み比べを持ちかけたヒゲの男も消えた。もうウォータを出ていったのかもしれない。

「あいつら、また」
 不意にニッキィが駆け出した。灰色の法服が家の前に見える。ハンスが駆けつけたとき、ニッキィは木刀を司祭の喉元に突きつけていた。

「何しに来た!」
「お話を聞きに来ただけよ」
 横の聖女は笑顔だ。黒髪を耳のあたりで切りそろえた司祭が軽く手を動かし、ニッキィの木刀を絡め取った。
「無闇に人に向けるもんじゃない」
 かがんで視線を合わせ、ニッキィに木刀を返す。こいつらは……本物だ。

 ルーシャとアニー、そう2人は名乗った。ニッキィとハンスが見守る前で、ミリアにいくつか質問して、ひどく深刻そうな顔をしていた。口づけを受け呪縛されているミリアはあいつの事を決して話さない。

 特徴や服装を話したのはニッキィだ。2人はニッキィの勇気をほめながら、ヤツが鋼の手甲をはめていた事や、どこから仕掛けて、どう突き飛ばされたかを、実際にその場所に立って実演しながら聞きだした。攻撃を防いだ木刀の破片や、切り裂かれた服まで見たがった。

 ニッキィの傷ひとつない胸を見ても疑わない。どんな魔法だったのか、ニッキィに話させた。呪文や印を覚えている限り再現させた。こいつらは、俺以上に本気であいつを滅ぼそうとしている。

 礼を言って辞去する2人のあとを追った。
「なかなかスジのいいお弟子さんですね」
 思わぬ賛辞に照れながら、隠れ家を探していると打ち明けた。
「目の付け所はいいと思いますが、もうこの町には戻らないでしょう」
 やはりという思いと徒労感、そして安堵が広がる。

「ティアという聖女見習いを見かけませんでしたか。茶色に近い金髪の娘です」
 あいつを探すのでなければ、決して入ろうと思わなかった立派な旅宿。その食堂で、高そうな水菓子や料理を食っていた娘を思い出した。

「ヴァンパイアに呪縛され糧として連れ回されているらしいの」
 連れは銀髪の若ゾウだとあの娘は言っていた気がする。
「隠れ家は白サギ亭だったのか」
 昼の眠りをむさぼっていた部屋にハンスが踏み込もうとすれば、総がかりで白亜の館から叩き出されたろう。それでも悔しさがこみ上げる。

「見つけたぞお」
 黒い胴着の男が叫んでいた。ランタンを振りながら向こうから駆けてくる
「少し前に急ぎの旅人に雇われて、まだ戻らない舟を見つけた! 雇ったのは3人組。小生意気な聖女見習いとヒゲの男と銀髪の若いの」
 司祭と聖女がうなづき合う。カルカ酒を飲んだように心が熱くなった。

「オレも、その……手伝いたいんだが」
 勢いで口にしてしまった。剣も抜けないのに。
「お申し出はありがたいのですが、この先は私らも命がけになります。出来れば気心の知れた仲間だけで挑みたいので」
 落胆と共に恥ずかしさが込み上げる。

「あなたはニッキィの英雄でしょ」
 聖女が剣の柄を包む。修復の呪が唱えられ、剣が抜かれた。くもり一つ無い刃が肩に当てられる。
「ここであの親子を守ってあげて。一度は騎士を目指したのなら」
 震える声でハンスは誓いを唱えた。
「オレはここでニッキィとミリアを守る。命をかけて」
 誓いの言葉を心に刻みながら剣に口づける。

 若い頃はふざけて剣の誓いを幾つも立てた。飲み代のツケを来月こそは払うと酌婦に誓って、破ったこともある。

 だが、今回は違う。
 この誓いだけは破らない。たとえ思いが報われなくても。
第八章に戻る | 第十章へ | もくじへ

-Powered by 小説HTMLの小人さん-