夜に紅い血の痕を

著 久史都子

『夜に紅い血の痕を』第十章 収束

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1湖上の嵐


 果ての見えない朝もやに向かって投網が打たれた。舟が揺れ、いびつな円形に湖面がざわめく。歯痛に呻きながら網を手繰っていた船頭が笑う。派手な水音がした。網に絡んだ大魚が、ナイフの柄で殴られる。エラと尾に刃が滑り込み命を奪う。

 アレフはヒザを抱いて、魚から滴る血を見ていた。背後には屈託の無いティアの寝息と、遠慮がちなドルクの気配。
 大湖を渡るのに選んだ舟には、一本の櫂と帆柱。そして古い帆を吊っただけの簡便すぎる幌。横になれるのは二人。雨露も陽光も満足にしのげない。

 舟べりで船頭が引くウロコが顔に当たった。船頭は詫びるどころか、目もくれない。

 この舟で最初に供された夕食を固辞して以来、居ないものとして扱われている。かれこれ三日目。よほど気分を害したらしい。好都合だが居心地は悪い。

 解体された魚が、水を吸った木豆と共に、すすけた鉄ナベに放り込まれた。
 ドルクが身を起こし湖水で手と顔を洗い、朝の支度を手伝う。

 小さな素焼きの炉にかけられたナベが吹きこぼれる頃、ティアが起き出してきた。
「また魚と豆……ヒゲグロって小骨がウザいんだよね」
 文句を言いながら、図々しく一番大きな塊りを取り、豆を器に盛りあげる。

 魚肉を貪る三人に背を向け、陽避けの下で横になった。食器に当たるサジの音。湖に投げ捨てられる骨。発酵し形を無くした塩漬けの小魚に、果実酢を混ぜたソースの臭いも鼻につく。

 ドルクが洗い物を終える気配に薄目を開ける。船頭が三角の主帆を張っていた。風の精が帆に戯れ、舟がかたむく。

 ミノムシの様に身を縮めマントをきつく巻きつけていた手を、ティアに引きずり出された。
「はい、交代」
 未熟な風の精が宿主を替える。少し負荷が減った。だが昼光は容赦なく力を削る。
 目まいの後、気を失うように眠りに落ちた。


「地の結界を封じた球って、どうなってんの」
 目を開けると、青空を灰色に侵食する大きな雲が見えた。輝く縁から放射状のヒダとなって降る光は少し和らいでいる。
 陽光を防ぐ結界に力を奪われ、半日近く夢も見ずに眠っていた様だ。

 ティアの手にコハク色の輝きを封じた水晶球が握られていた。ベルトの物入れを勝手に漁ったのか。財布の残金を正確に思い出そうとして、諦めた。

「精霊の紋や魔方陣とは違うよね。使い魔とか自動人形みたいなもの? 風の精も封じられる?」
 昼の間、風の精霊を御し続けるのに飽いたか。

「力持つ魔術書や護符に近い、術式そのものを込められる書き換え可能な呪具。風の精も封じられるが……彼女は気まぐれだ。恒常的に舟を推させるなど、とても。
 制御できない突風は起こせるだろうが」

「じゃあ火は封じ込められる? 火炎呪、使い放題になれるとか」
「触媒が、何か燃える物が移送できない以上、使い放題とは」
「やっぱ油いるんだ。テンプルの火炎呪と変わんないのね」

 話が物騒になってきた。冷気の呪とホーリーシンボルなら込められる……というのは、言わない方が良さそうだ。

 とはいえ水晶球に込められない術式の方が多い。この術具の最大の利点は、魔導を学んでない者でも使えることだろうか。イヴリンに預けてきた水晶球は、期待以上に役目を果たしている。

 目を閉じ、名代を務めるイヴリンに接触を図る。今のところ、東大陸に重大な問題や大規模な災害は起きていない。気配が消えたしもべもいない。

 ウォータで口付けを与えた者たちにも、意識を向けてみた。オーネスの苦労をねぎらったあと、恐る恐るミリアに触れる。

(お召しでしょうか)
 応じたのは硬く敵意すら感じる心話。当分は訪ねられないと告げた。失望に勝る安堵に呪縛の弛みを感じる。

 苦笑して離れようとした時、ミリアの心に法衣を着た黒髪の司祭がよぎった。
 妙に深刻な顔をした、ルーシャと名乗る司祭。詳しく見ようとした時、雷鳴が耳を打った。意識が引き戻される。

「来るよ、すごいのが」
 ティアが指差す方向。黒い雲から落ちる雨が、白い壁となっていた。



 馬車が横風で揺れる。ルーシャの頬を緑の葉がかすっていった。おそらく風に吹き千切られたのだろう。西の空を閉ざす闇は暴風のきざし。死と破壊をまき散らして行き過ぎる黒い災厄だ。

「うっとおしいな、もう雨季かよ」
 窓を閉ざしながらハジムがボヤく。仲間の顔さえよく見えない薄闇に沈む車内。風の音が強くなった気がした。
「乾季でも嵐は来る」
 オットーが天井を見上げてため息をつく。屋根に縛りつけた装備が気になるのだろう。

 御者が馬にムチをくれる音が響き、揺れと車輪の騒音がひどくなった。おそらく次の駅……タログで嵐をやり過ごすつもりのようだ。蒸し暑く視界もおぼつかない車内で、ルーシャは吐き気をこらえた。

 どれくらい車酔いに耐えたのだろう。他の者には短い時間かもしれない。馬車の揺れが減り、木の門が開かれる音がした。人の声、複数の馬のいななき。嵐が来る前になんとか駅に着いたらしい。

 扉が開けられ、ステップを下ろしながら御者が駅宿を指差す。降りるとそこは車庫の前だった。駅の職員と御者は、馬と車体と荷の安全で手一杯。乗客は自力で石造りの宿まで走れということらしい。

 降りだした大粒の雨の中、ルーシャはアニーの手を引いて走った。あたりを白く染める閃光と耳が潰れそうな雷鳴に悲鳴が上がる。

 乗客同士で励ましあい、なんとか宿に飛び込んだときには、肩と髪はずぶぬれ。皆の足元は浸水したかのような惨状を呈していた。

 
「こんな嵐でなければねぇ」
 体を拭く布を持ってきた女中は、申し訳なさそうに鎧戸に目をやった。ルーシャたちが割り当てられた部屋からは、森と大湖が見えるらしい。横殴りの雨や小枝が当たる音を聞けば、景色を眺めるなど無理だとわかる。

 頼りないロウソクの光が透き間風に揺れる。心を落ち着ける酒を舐めながら、ルーシャはいい機会だとホーリーテンプルへの報告書をしたため始めた。

「律儀に報告なんかすると、また前みたいに意地悪されちゃうよぉ」
 しなだれかかってきたアニーの手にはトラッパ酒の瓶。これから口にするのは酔わないと話せない事柄らしい。

「モルの欲張り野郎は、自分以外の司祭がヴァンパイアを倒す栄誉によくするなんて、絶対認めないよぉ。メンター副司教長サマは、タテマエはともかく、討伐には何だかんだで反対だし」

「アーネストとかいうヴァンパイアが使った治癒呪。あれはテンプルの術法じゃない。いくら成長期の子供とはいえ、傷跡一つ残さないなんて、アニーには出来るか?」
 首をかしげる同僚の肩をつかんで座らせた。

「ミルペンの時とは違う。少なくとも副司教長派の人間を、モル司祭が不死化させたモノじゃない。邪魔されるイワレは無いはずだ」

「じゃあ、賊をひとり連れ去り、湖岸の未亡人をたぶらかしたのは誰よ。砂漠の城を訪ねる時は女の子を水袋扱いして、今も聖女見習いを連れまわしてるヴァンパイアは、東大陸から来た旧時代の生き残りって事になるわよ」

「アレフか。だとしたらオレは人形劇の様に感動的に死なねならんな」
 自嘲的な笑みを浮かべたオットーは、淡々と武具の手入れを続けている。

「さすがに始祖は出張って来ないだろう。中央大陸の動静を探り足がかりを作るよう命じられた操り人形のはずだ」
 もし、手足となる下位の吸血鬼を作り出し、呪いを広げていたとしても、元凶を滅ぼせば全てが灰と化す。だからこそ、始祖は安全な棲み家から出てくる事はない。

「“闇の子”か。そいつ、舟で湖を渡ってんだろ。ここまで来る間、ヨソの舟がついたって話は聞いてないよな」
「ここタログの港か、もっと北の漁港で上陸したかも知れない」
 ハジムが唇を舐めて笑う。
「今も湖の上なんじゃないかな。そんで舟がひっくり返って、魚のエサになっちまってたら、笑えるよな」

「不謹慎だ。舟には雇われた船頭と……聖女見習いも乗っている」
 たしなめながらも、舟が二度と見つからない可能性の高さを思った。結末をこの目で確かめられない。そんな曖昧な終わり方もあるだろう。

 それともうひとつ、この嵐がもたらす効用を思いついた。
「今、風は北西から吹いている。沈まなかったとしても、嵐で舟が吹き戻される事も考えられる。今度こそ、追いつけるかも知れない」


「ぬれたくないだと?」
 アレフの抗議に、船頭は笑った。
「服だの日焼けだの気にしてる場合か。転覆して湖に放り出されりゃ、ぜんぶ終わりだ。文句言うヒマがあったら手伝え」

 雨水と昼光から身を守ってくれる幌は、手早く取り去られた。強い風が湖面を泡立たせ、しぶきが顔にかかる。帆はとっくに外され舟べりにくくり付けられていた。

 苛烈な太陽は黒い雲に隠れている。だが、身を伝う雨に力を削られないよう結界を張るなら、負担は続く。

 局地的な嵐ぐらい私が散らしてみせる。
 そう言いかけて諦めた。見上げれば限界まで発達し頂上が潰れ広がる雷雲。人工的な風の精の手に負える規模を越えている。

 外された幌は何本かの綱を通され、船尾から湖に投げ込まれた。水面下で凧《たこ》のように広がる。舟を流さない為の措置らしい。

 揺れる舟べりにしがみついると、腰に命綱を結ばれた。
「ここを引っ張れば解ける。舟が沈んだら、後は泳げ」

 ここは湖だ、外洋ではない。家ほどもある大波は起きない。
 だが、すぐに思い知った。
 人の背丈程度の波でも小舟を投げ飛ばしくつがえす力はある。滅びの危機を身近に感じた。

 雨混じりの風がぶつかり舟がさらに傾く。水が流れ込んだ。ティアが荷から木の器を出し、水をすくいはじめた。見習ってナベを使い舟底に溜まった水をかきだす。

 水しぶきと雨で視界は狭い。横殴りの雨の衝撃は痛いほどだった。そんな中で船頭は波と風に目をこらし、舟尾で舵と小帆を操っていた。だが舟の上下動は収まらない。帆柱は揺れ、風に泣く。

「こいつを引き抜いた方がイイなら、やりますよ」
 風に互する大声でドルクが叫んだ。振り向いた船頭に指し見せたのは帆柱か。確かに重心が下がれば転覆の危険が少しは減る。

「いつも揺れない地面の上で暮らしてるあんたらに出来るもんなら、まぁやってみな」
 船頭は叫び返し、目を湖面に戻した。

(まずは、中ほどのネジを)
 心話でささやかれ、ナベを荷に戻し、揺れる帆柱にしがみついた。鉄の太い止め具を苦労して外す。上部だけ傾いた帆柱をドルクと協力して抜き、なんと舟底に下ろした。ティアが手早く綱で舟べりに固定する。振り返って首尾を確認した船頭の顔に、初めて賞賛と感謝が浮かんだ。

 だが、嵐はさらに白く激しくなる。風と波で舟体がきしむ。
 舟底の水がかさを増す。どんなに手を尽くしても、無駄かも知れない。

「ねぇ、風の精で舟を包める? あんたが体を濡らしてないように、舟の周りだけ、小さな結界で封じるとか出来ない?」
 嵐そのものを何とかするのは無理でも、小さな無風地帯を作るのは可能かも知れない。だが、その先を考えて首を振った。

「風を完全に封じれば、小帆と舵がきかなくなる。舟の向きを変えられなければ、うねりに対して無防備になる」
 だが……弱めるだけなら。
 ずっと風を操り続けることになるが、湖に放り出されるよりはマシだ。

 物入れから鉄粉の小瓶を出し、雨水を受けた。熱を与えて乾かした板に、血の代用品となる赤い液体で風の方陣を描く。

 術式の発動と同時に吹きつける風は弱まった。
 だが、反動がキツい。削いだ風力が身をさいなむ。
 嵐が行過ぎるのはおそらく夜半。
 それまで耐えられる自信はない。だが、やめれば全てが終わる。


 やがて夜がおとずれた。
 本来なら十全に力を揮える時間。だが複数の術を操っているせいだろうか。時々意識が薄れそうになる。

 ティアとドルクは水をかきだし続けているが、次第に腕が上がらなくなっているようだ。船頭も疲労しているのか、時おり帆と舵を操る手が滑る。暗さで波が見えないのかも知れない。

 各々が命を繋ごうと必死になっても、生き延びられるかどうか分からない。こんな過酷な状況では、不死の身はあまり意味が無い。むき出しの自然の前では、水や光に弱く生きた人間しか糧に出来ない吸血鬼は無力だ。文明の下でしか存在出来ない、一種の贅沢品か。

 そもそも支配者層自体、余裕があってはじめて生じる幻想かもしれない。権力と権威は、恐怖を縦色に憧れを横糸にして編まれた、目に見えない衣にすぎない。

 とりとめもない思考を突風が吹き払う。舟が大きく傾き転覆しそうになった。船頭の意を読み取り、舟べりからドルクと一緒に身を乗り出した。ひと回りして舟の傾きは収まった。

 雨は弱まってきているが、うねりと風は強いまま。時折ひらめく雷に、鋭く波が照らし出される。

 ミリアの記憶に残る黒髪の司祭。ドルクが酒場で聞き込んできた噂の主と同一人物だろうか。

 だとしたら、いま遭難しかけているのは、彼のウラをかこうとした結果だ。ここまでの苦労と危険に、見合う脅威なのだろうか。こちらの素性に気付いているかどうかも、判らないというのに。

 西の空に星の瞬きが見えた。雲が一部切れたようだ。まだまだ気は抜けないが、終わりが見えた。

 生存のため、あえて危険に踏み込むのは判る。ティアの様に、身内を奪われた復讐のために危険に飛び込むのも、理解できなくは無い。

 だが、黒髪の司祭が、不死者の討伐などという危険をあえて犯す動機は何だろう。権威も名誉も一時の幻想だ。命をかける価値など無い。

 本当に追ってきているなら、同じ嵐を見ているはず。この風と雷鳴を彼はどう感じたのか。もし会うことがあるなら、聞いてみたい。 
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2.赤道の町


 大湖の北端に位置するエクアタ。宿でも酒場でも、いまは幸運な舟の話で持ちきりだ。嵐に遭いながらも、大湖を縦断してきたウォータの漁舟《ぎょしゅう》。
「船着場は私だけで行きますね」
「……オレらは宿の方、だな」
 ルーシャは仲間三人の背中を見送った。

 熱い赤土が視界を歪ませる。照りつける日差しが頭を焼く。ルーシャはたまらず露天でヤシ葉の帽子を求めた。緑の幾何学模様を頭にかぶって、湖岸に向かう。

 どうやら結末はこの目で……
 いや、決着はこの手でつける事になりそうだ。

 行く手に見えてきた大湖は赤い。流入する川が雨水と共に赤土を運び、嵐が湖水をかき混ぜたのだろう。晴れ渡った空と湖岸に迫る緑が鮮やかに映えて、不吉なくらいに美しい。

 湖を見るたびに悔やまれるのは、ウォータでの聞き込みだ。追っている相手を人間だと思いこんでいた。不用意にアニーを同行させた。仲間を、吸血鬼の支配下にある者の目に触れさせてしまうとは。

 自分が危機にさらされるのは仕方ない。だが、アニーを巻き込んだのは、失態だ。最悪を考えなかった甘さが悔やまれる。

 この先はアニーと私が表に立つ。オットーとハジムの存在は敵に隠し通す。闇に堕ちて間もない吸血鬼だとしても、楽に倒せるとは思わない。待ち伏せや不意打ちといった手が使えるなら、それに越したことはない。

 船着場の一角にひとだかりがあった。
 おかげで幸運な舟は簡単に見つかった。
 白っぽい木の舟体。畳まれた灰色の布。破れかけた幌に魚網。ルーシャの目には、周りに泊まっている漁舟と同じに見えた。

 まわりには、おのが手柄の様に船頭の勇気と腕を語る者。幸運にあやかろうというのか、舟に触るもの。
 賭博師風の男がナイフで舟べりを削ろうとしていたので、一喝して止めさせた。喝采をおくる見物人たちが、船頭の居場所を教えてくれた。


 カワセミ亭は風がよく通る開放的な安宿だった。その一室を占有する船頭は、日やけた顔に笑みを浮かべて眠っていた。起こさないように忍び寄って、首筋と手首に目を向ける。

 噛み痕はない。だが、大湖あたりのシャツは、エリもソデも大きく開いている。目に付きやすい部位をさけ、別の場所を差し出したのかもしれない。

 ルーシャが揺すり起こすと、船頭は不機嫌そうに目を開けた。そして、ヤシ帽子を指差して笑った。法服にそぐわないのは分かっている。だが、相手を笑わせ話しやすくするなら、単なる日除けにとどまらない、なかなかのお買い得品だったといえる。

「オレを雇った黒服か? 酔狂でワガママな金持ちの若様だろうよ。せっかくシマウオのイイのを用意したのに。オレの料理を食いやがらねぇ。あんたらの同類じゃないのか?」
 ルーシャが宿の者に頼んだ縞瓜を船頭がかじる。頭の上に向けられる目がまだ笑っている。

「あんたが着てるみたいな、灰色の法服きた娘もいたぞ。
あの娘はオレの料理をうまそうに食ってくれたなぁ。ちょっと食いすぎってくらいに」

 糧として連れ回されている見習い聖女。確か名はティア。大食いは失った血を補うためだろうか。馬丁の子の読みどおり、まだ殺されていない。転化もしていないなら、呪縛の元を滅ぼせば助け出せる。

「他に気づいた事はありませんか。この先、同僚になるかもしれない、ワガママな金持ちとやらの扱い方を、聞いておきたいのですよ」
「ありゃ役にはたたんよ。寝てばっかりだ。帆柱を外したり、波で跳んだ舟を戻す時は少し手伝ってたが……水をかいだすのは途中でやめちまった。根性がない。多分、修行ツラさに逃げ出しちまうんじゃねえかな」

 舟頭が大笑いした時、下から女将が呼ぶ声がした。舟頭に酒手を渡して、ルーシャはハシゴを降りた。

 女性のツレが来ていると女将は叫んでいた。だが、下で待っていたのは剣をさし白い布ヨロイをまとったオットーだった。大事をとったのだろう。

 配慮はさすがだが、舟頭はおそらく操り人形ではない。悪口と低い評価。それが主を守るための何らかの芝居でなければ、だが。

「足取りがわかりましたか」
「紅鶴亭にそれらしい旅行者が入っていくのを見たというものがいた。アニーが確かめた。ウェルトンという名で今も泊まっている」



「おとう様の大切な方?」
「そうだ。そそうの無いようにな」
 常夏の地では午睡の時間。静まり返った館の一角で、アレフは廊下でのやりとりに耳を傾けていた。

 オーネスに託されたロウ引きの封筒。それをツテに入り込んだ地主の白い屋敷。客間で相対した当主を視線で縛り、強引に血の絆を結んだ。その時、心を占める飢えを読まれてしまった。

 ウォータではたらふく飲んでいた。だが、水上で昼光にさらされ、嵐を乗りきるために風を弱め、同行者の体力回復のついでに、歯根まで侵していた虫歯も治した。
 少し力を使いすぎた。

 ここを辞去したら、真昼の眠りにつく町で適当な獲物を探すつもりでいた。強い日差しは人から理性と気力を奪う。暑さにうだされて見る極彩色の夢。そこに黒い悪夢も紛れこめるはず。

 しかし、手ずから鎧戸を閉める白髪混じりの当主に引き止められた。

「あなた様の喜びは私どもの喜びです」
 最上の贄を捧げたい。そう申し出る口元に浮かぶ浅ましい笑み。不愉快なものを見てしまう予感はしていた。だが、強すぎる日差しと渇きが、辞退の口実を押し込める。数瞬まよってから口にしたのは感謝と期待。

 陽光と共に風も締め出した客間は蒸し暑い。白い袖なしドレスに、薄い日除けを羽織った娘は戸惑ったように一礼した。
「グラースの娘、リファでございます」

 亡き妻の連れ子とはいえ、娘を贄として差し出すとは。所望しておきながら、なぜか裏切られた気分だった。

 無上の喜びを娘にも経験させてやって欲しいという願い。父性愛に別の色が混ざりこんでいる気がした。だがこれ以上、血のつながらない娘への感情を追求するのは、ぶしつけだろう。

「こちらこそ、お見知りおきを」
 透かし彫りの椅子から立ち上がりながら、切れ長の目をとらえた。長椅子に呼ばれたなら逃げ出すつもりでいるリファを、偽りの恋にいざなう。

 多少大げさに古風な礼をしてみせた。雰囲気に流されたように差し出された右手の甲に軽く唇をつける。温かく小さな手を裏に反し、手首に牙を立てた。

 驚きと痛みで反射的に引かれようとする手首を、強く掴む。上目遣いにリファを見つめ、あらためて魅了しなおす。痛みを忘れ頬を染めるのを見取ってから、動脈を食い破った。

 貰いすぎないよう、唇の色をうかがいながら、溢れる命を楽しむ。

 治癒呪をかけ、リファが厭《いと》っていた長椅子に寝かしつけた。幸福そうな寝顔を満たされた気分で眺める。陽が高いうちは身も心も重い。まどろみに浮かぶ夢のかけらは暗く赤い。絶えず誰かの声が聞こえる。

 いや、これはドルクからの心話か。舟頭からの使いに呼び出されて、今は安宿の一室。
(黒髪の司祭と剣士、そして恐らくもう一人が紅鶴亭に)
(ティアは)
(駅馬車の手配に向かわせました。夕方の便で立ちます。アレフ様は直接駅へ)

「オレはあいつらに、魔法が使えるって事は言わんかったからな。歯を治してくれた礼だ」
 舟頭の落ち着かない視線。決まりが悪そうな口調。金をつかまされたか。だが、こちらにも知らせてくれた。
 礼を兼ねて口止め料をはずむようドルクに命じる。

「いらねえよ。湖の渡し賃はもう貰ってる。嵐を読み違えて巻き込んじまったのに、あんたらのお陰で命拾いしたんだ。こっちが礼金を払いたいぐらいだ」
 照れたような舟頭の顔を最後に、心を引き戻す。

 暗い客間でフードを目深にかぶり、陽光の下へ出る覚悟を決めた。
 馬車を用意するという、グラースの申し出を断る。しもべとなった親子の安全を考えれば、関係を周りに悟られるような事はなるべくさけたい。

 傾き始めた陽を反映し、足元に引く幻の影は少し長い。

 午睡から覚めた賑やかな町を抜け、かげろう揺らめく駅にたどり着いた。乗客たちの喧騒にほっと息をつき、ドルクとティアの居場所を感じ取る。

 嫌な予感がした。宿ではなく駅で待ち伏せされているとしたら……。

 心を覗けぬ者が、ティア以外に幾人か存在するような気がする。特定しようと駅を見渡した時、脳裏にバフルヒルズ城の惨状がよぎった。

 もし、ここで禁呪を使われたら。
 いや、単なる火炎呪でも効果範囲が広ければ、駅にいる数十人を巻き込む事になる。

 身をひるがえした瞬間、足元に輝きが走った。
 駅全体を包む方陣。
 慌てて跳び離れた直後、ホーリーシンボルの眩《まばゆ》い光が視界をおおう。

 不死の身を解き壊す破邪の光。
 その源泉は術者の精神力と大地の力。

 わずかでも痛手を軽くするために、アレフは宙へ跳んだ。そのままフードがめくれるのも構わず、駅を囲う柵を越える。

 陽光が目を射る。距離感を誤り地面に叩きつけられた。足が異音と共に曲がり、肩がひしゃぐ。

 肩は痛むが、足は無痛。
 絶望しかけた。ホーリーシンボルから逃げ切れず消滅したかと。だがブーツの中に塊りは有る。失われたのは皮膚と肉の一部か。

 今は傷を確かめている時ではない。人家と群衆から離れる事が重要。

 身を起こし、這うように沼地へ向かう。再生をはじめた足が剥き出しの痛みに燃える。苦鳴を喉から押し出し、よろめきながら立ち上がった。無理やり足を踏み出す。地面から離れた手で物入れを探り、鋼の手甲をはめた。

 追ってくる気配はふたつ。
 心は読めない。やはりテンプルの者か。

 踏み締められない足が赤い泥にすべる。アシの茂みに転がり落ちた。生ぬるい水が跳ね上がる。沼の臭いと泥の感触に、少し冷静さがもどった。

 ドルクの位置を探る。
 従者はまだ駅の敷地内。ホーリーシンボルの輝きに立どまり騒ぐ人々を、必死にかきわけている。

 獣人の目に映っているのは、柵の外に飛び出したふたつの背中。剣をぬいた白マントの男と、滑稽な帽子の法服の男。騎士と司祭。

 確か城に侵入したのは三人。あれがテンプルの討伐隊の基本編成だとしたら。
 聖女はどこにいる?

「ティア!」
 元気な気配は駅舎内。相変らず心は読めない。感じられるのはのっぴきならない緊張。おそらく彼女の戦いは始まっている。

 今は助けに行けない。 
 ティアが負けたとしても、最良の想定……裏切り者や破戒者ではなく、被害者として遇されるのを期待するしかない。
 その為には少しでも遠くに離れ、ドルクが追いつくまで、滅ぼされず、追っ手を殺さないこと。

(全力で殴ればミスリルを編みこんだ法服やチェーンメイルなら切り裂けるはず。相手が怯んだスキにお逃げください)
 助言を思い出しながら、アレフは眼前の敵に意識を向けた。

 耳がかすかな呪をとらえる。これは炎か。対抗するために耐火の術式を組み上げる。同時に身を縮め、沼から一気に跳んだ。追尾してくる炎を空中で散らす。

 着地点に降り下ろされる剣を手甲で受けた。
 脇に焼け付く痛み。
 騎士の左手にはナイフが握られていた。とっさに相手の胸を蹴って離れた。足に残ったのは異様に強固な感触。白マントの下はプレートメイル。兜と盾がないとはいえ、大仰な防具をつけてあの走力。獣人でもあるまいに。

 避けきれぬ剣に対抗して対物障壁をまとう。障壁を貫く剣撃だけなら何とかしのげる。だが、騎士に気を取られると数歩後ろに控える司祭が放つ呪を食らう。それに脇の傷の治りは足より遅い。ナイフは銀かミスリル。しかも破邪の紋も施してあったらしい。

 炎をかわした隙を突かれて、今度は左足を剣で貫かれた。動きが止まった瞬間、ナイフが喉に刺さる。脊髄をやられたのか手足から力が抜ける。そのまま地面に倒れた。

 司祭がホーリーシンボルの詠唱に入る。上には馬乗りになった重い騎士。

 とっさにベルトの物入れの水晶球に意識を集中した。湖を渡るため、地の結界が封じ込んであったはず。
 短縮呪に組みなおす際、ホーリーシンボルを構成する地の呪も解析した。反転して展開すれば少しは緩和できるかもしれない。

 だが、胸に向かって振り下ろされようとしている剣を見て、組んでいた地の呪で石つぶてを飛ばした。
 同時に、金属音が響いた。上の騎士が呻いて転がり落ちる。銀鎧の背には斧によるヘコミ。司祭が突き飛ばされて詠唱を中断する。咆哮と共に褐色の塊りが目の前に現れ、喉のナイフを抜いてくれた。

「おのれ、獣人っ」
 騎士の剣を器用にナイフで受けるワーウルフの背は大きく見えた。脊髄から異物が抜けたせいか、手足の感覚が戻る。
(ここは引き受けます。どうかお逃げください)
(だが、ティアは)
(あなた様が滅びない限り、わたくしども蘇ります!)
 ドルクから放たれる吼える様な覚悟に、頬をはられた気がした。

 足は癒えた。だが肺と喉の深手で声は出ない。呼吸が不用な身でも、呪の詠唱には呼気と声が要る。たった一つの取柄を失った以上、体術では到底かなわぬ相手に勝つ手段はない。闇を味方に出来る夜ならまだしも、陽はまだ高い。

(すまない)
 後ろを見ずに全力で走った。
 追撃の火炎呪を身をていして防いでくれたドルクが、騎士に斬られる痛みにも振り返れなかった。胸を貫かれ、首を落とされた従者が事切れる瞬間も足を止められなかった。

 夜になれば……必ず見つけ出して蘇生させる。その決意だけを支えに走った。



 枝をツルで編んだ粗末な扉を押し開ける。半割りの丸太を組んだ床にアレフは倒れこんだ。
 板に貼られた生乾きの毛皮。積まれた薪。炉とナベ。生皮を漬け込んだ大ツボに脂の染みた作業台。猟師小屋か。

 死骸も枯れ葉も、速やかに食われ腐り土に返る暑い森。人の手で腐敗を止められた獣皮が放つ、かすかな血の臭いに導かれたようだ。

 忠実な従者も、庇護すべき娘も見捨てた。私だけが逃げて、沼地から暗い森に跳び込んだ。

 ツルを引きちぎり下草をかき分け、暗く赤い樹の下を駆け抜けた。頭上で鳴き交わす鳥。鮮やかな虫と名も知らぬカエルの声。合い間に殺せと叫ぶティアの声を聞いた気がする。

 死と血の臭いが染み付いた床で、喉と脇腹の痛みに触れた。不死の身に備わった復元力や通常の治癒呪では治らない。呪を唱え方陣を組み、記憶していた『傷つく前の体』を部分的に再構成した。穴の開いた服まで元に戻る。なぜか笑えた。

 間もなく日が暮れる。気がゆるんだとたん心が引っ張られた。意識的に止めていた従者へ流れる魔力。

 観えたのは葦原に捨て置かれたムクロ。心臓に杭打たれた体。足の間に置かれた生首。人狼の状態ならまだしも、人の姿に戻った遺体を無残に破壊し愚弄《ぐろう》したのか。あの二人の感性が理解できない。

 遺体の周囲に人の気配は無い。イモータルリングを基点にドルクの周囲に方陣を組み上げた。まずは停滞の術式で腐敗を止める。結界は屍に集まる虫と鳥を払う。この先は杭を抜き、頭を元の場所に戻してからだ。

 次はティアの安否だが……生きている。治癒を要する負傷もしてないようだ。相変らずおよその位置しか分からない。エクアタの市中。それも東部の方、おそらく教会だ。
 日がある内にティアを連れて教会にこもったとも考えられる。人質を盾に向こうの領域へ招待された時の事も考えておいた方がいい。

 気分が悪くとも、今は敵の事を考えなければならない。彼らが追跡を続けていた時の警戒に、使い魔を組み上げ周囲に放った。
 
 ただ、一点だけ彼らを見直した事がある。
 駅に仕掛けられていたのは禁呪や火炎呪ではなかった。手間がかかるわりに効果時間が短く消耗が激しいホーリーシンボル。死人にだけ効く呪法。駅に集っていた人々が感じたのは、眩しさと爽快感のみのはず。

 もしかすると、考え方を異にする者達なのかも知れない。城に侵入した三人や、禁呪でバフルを悲劇に落としたモル。そして目的の為には手段を選ばないティアとは。

 夕闇の中を歩いてくる者がいる。
 苦もなく読み取れる心に緊張がとける。射落とした美しいサルを背負った小屋の主。欲望がうごめいた。

 こんな時にも渇きを覚えるのが滑稽に思えた。たとえ命は奪わなくとも、見境なく人を食らうなら悪鬼かも知れない。この森の獣が猟師を恐れるように。少なくとも人の目には……彼らの目には、死をもたらす者に見えたのだろうか。どんな手段を用いても退《しりぞけ》るべき存在だと。

 だが、盗人と思われるのはもっと腹立たしい。
 休ませてもらった礼に数枚の銀貨を置いた。

 高床の小屋から音を殺して跳び降りる。
「誰だ」
 鋭く問う声と、簡易の火炎呪を唱える気配を無視して走った。牢屋のようなイチジクの巨樹を回り、奇妙な形のキノコを崩し、アリの命を踏む。

 あたりが闇に包まれた頃、沼地に戻った。

 熱い大気のせいか低く大きな星空の下。打ち込まれた杭を引き抜き、重く冷たい頭を抱えて首に戻した。紅い指輪に記憶されていた“死ぬ少し前”の状態へと遺体を再構成する。

 見開いた目に映る異郷の星座。時間と場所を把握しかねる従者を引き起こす。
「ずいぶんとブーツが汚れておいでで」
「命を盾に逃がしてくれた。その覚悟に応えようとして、走りすぎた」

 灯火がもれる柵の向こうに目を向ける。
「さっきまで死んでいたところ悪いが、ティアがどうなったか、確認するのに付き合ってくれないか」


 閑散とした夜の駅。
 荷置き場に残っていたのは見慣れた旅行鞄のみ。
「割り印をした荷札の控えは?」
「連れの聖女見習いが持っていたはずですが、なぜか見当らないのでございます」
 汗かきの係り員は、納得したように頷いた。

「ここで大立ち回りしてた娘か。年増の聖女と拳士に縛られて……なんでも教会を脱走したとか言ってたが。顔にアザあるし猿ぐつわもされてて、痛々しかったなぁ。
もしかして、駆け落ちだったのかい? 後ろの兄ちゃんと」

 被害者として保護されたのではなく、拘束され連行されたのか。だが、計算高いはずのティアが、なぜ暴れた。殺せと叫んでいたのは現実か。死ねば遺体は捨てられ、ドルクの様に……合流できたからだろうか。

(ティアの望みは父親の仇討ちです。テンプルの者の力では討てない。あなた様の協力だけが頼りでした。ですから)
 ティアはおそらく諦めない。テンプルの英雄であるモルを倒す事を。そして彼女を捕らえた者も彼女の師も、協力しないだろう。

 それでもティアはたった一人で挑み、多分、敗れる。それはだけは何としても避けたかった。
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3.不誠実な正直者


「うら若い女性に、その仕打ちはイカガなものかと」
 渋面の教長を、ハジムが廊下へ押し戻す。だが苦言を呈したくなる気持ちは、ルーシャにも分かる。

 イスに縛られた十代半ばの小柄な聖女見習い。蜜色の長い髪は乱れ、紺色の目には涙。日に焼けたほほに食い込む猿ぐつわ。婦人用の宿坊に運び込んだ時から、廊下は見物人で一杯だ。

「これを見てもか? あの娘の縄を解いたら、あんたらの目だって」
 ハジムは顔の包帯をめくったようだ。教長と廊下の見物人から悲鳴がもれた。拳士の左眼は赤黒い穴になっている。

 ヴァンパイアを取り逃がしたルーシャとオットーが、獣人を何とか倒して駅に駆けつけたとき、駅舎から逃げてくる人々にぶつかった。

 待合室の長イスは壊れひっくり返っていた。娘を床に押さえつけているハジムは血に染まっていた。呻きながら縄を幾重にもかけていたアニーは、息と身なりを乱していた。
「猿ぐつわ外したら、風を呼んで逃げようとするの。危なくて」
 赤黒く腫れた顔で言われては、うなづくしかない。

 アニーの骨折と痛めたスジはルーシャが治した。だが目は複雑で精妙すぎる。回復呪では治せない。

 身をていして馬丁見習いを逃がした、優しく勇気ある聖女見習。伝聞と現実のティアはあまりに違う。駅から逃げ去った、ひょろ長い銀髪のヴァンパイア。ヤツの邪悪な意思に縛られ、心ならずも暴れているなら、悲しすぎる。

「そろそろ、あんた達も出て行ってくれる?」
 犬でも追い払うようなアニーの仕草。ルーシャが困惑してオットーと顔を見合わせていると、アニーは首筋を指して見せた。
「こことは限らないでしょ」

 仕方なく、ハジムに続いて部屋を出た。だが聞きたがりが群がってくる廊下も居辛い。結局、割り当てられた宿坊に落ち着いた。

「で、どんなヤツだった」
 ハジムにまで同じ事を聞かれて、ルーシャはげんなりした。
「背はオットーと同じくらい。駅の柵を跳び越えたのには驚いた。その後、足をひきずってたが」
 浄化の光が効いたのか、単にクジいたのかは分からない。

「どういう理由かは分からないが、太陽に耐性がある。光を浴びても顔は白いままだった。
獣人の手下もいた。倒して処置したが、ユーリティス……いや東大陸の吸血鬼も獣人を持っていたかな」

 オットーは壁際で溜め息をついていた。背を飾る静流紋を潰されたヨロイを未練がましくなでている。
「代わりは支給されんだろうな。銀の剣も折って五年経つがあのままだ」
「明日、鍛冶屋に頼めよ。それより、オットーはどう思った」

「お前が言っていたとおりだ。拳術の初心者。体は細い。荒事にも慣れていない。ただ、呪なしでルーシャの火を散らした。肺と喉を潰しても安心できない。石つぶてを飛ばしてきた」

 真剣に考え込んでいるハジムが、ルーシャには不思議だった。
「再戦があるとは思えない。逃げ足は速かったよ。手下を見捨てて一目散だ。街道を離れて辺境に潜まれたら見つからないかも知れない」
「あの見習いの娘に執着してんなら、取り戻しに来るだろ」

「それはどうだろうか」
 ティアが暴れた理由。ヤツが逃げおおせるまで、アニーたちを引き止めておけとと命じられての事なら、彼女は捨て駒だ。湖岸の未亡人も、馬丁見習いも、ヤツは捨て置いた。
 犠牲者の全てを吸い尽くし、殺すまで諦めない死人の執着と、あの妙に滑らかな顔は結びつかない。

 扉を叩く音がした。
「入るわよ」
 通信筒を手にしたアニーが、マユをひそめる。暑い中を旅してきた男三人の部屋だ。ご婦人には少し辛い臭気が、こもっているのかもしれない。

「やっぱネックガードの下か?」
 ハジムの問いに、アニーは首を振った。
「外してみたけどキレイだった。若いっていいわね。シワもたるみも無い」

「んなこと、聞いてねぇ」
「手首に胸、腕に脇、ヒザ裏に足首。耳の後ろにこめかみ、あと下着を脱がして太ももの付け根も見たけど、牙の痕は無かった。舌やアソコまでは調べてないけど」

「船でもヤツは首筋を噛んでいる。あまり下品な口づけはしない気がする」
「とりあえず、オマル椅子に縛りなおしてきた。また漏らされたら大変だし。
 それと、本山から親書がきてたって。差出人は副司教長サマ」

 ぞんざいに投げられた通信筒を、ルーシャ両手で受けた。銀の筒には赤い封緘。フタをあけ、巻いた小紙片を、ロウソクの光で読んで、困惑した。

「どうしたの」
「偽ヴァンパイアの追跡は速やかに止めよ。もし聖女見習いティア・ブラスフォードを保護したなら、すみやかにホーリーテンプルまで送り届ける。それを第一の任務とす。だ、そうだ」

「なんだそりゃ。偽なのは手紙の方じゃないのか」
「筆跡は本物に見える」
 優雅で読みやすい字。かつては師として仰いだ、穏やかさと老獪さが同居する笑顔を思い出した。

「手負いの獣みたいなあの娘が、名指しされるほど大物なのか」
 ハジムが目を押さえる。そのあたりは彼女自身に聞くしかない。風を封じる方陣を描けば大丈夫だろうか。

 だが、再びアニーの部屋に戻って、娘の様子が一変している事に気付いた。今は敵意は感じられない。暴れもせず、こびるような視線を向けている。

「かなり手荒に体を検めたとか」
「少しは。けど妙にしおらしいわね。暗い部屋に一人ぼっちってのが効いたのかも」

 ふと、鎧戸の隙間に気配を感じた。念のため部屋に施した結界を確かめる。異常は無い。だが、奇妙な胸騒ぎを覚えた。

 ともかく血に染まった綱を解き、ヨダレが染みた猿ぐつわを外す。ロウソクに映える髪をアニーが手ぐしで整える。露になった小さな顔を、ルーシャは悔恨と共に見つめた。

「久しぶりですね」
「ごめん、なさい」
 くぐもった力の無い声。

「顔見知りだから油断した。でなきゃ眼をツブされたりしない」
「駆け落ちした男を処刑台送りにしたお嬢ちゃんだよねぇ。見た目にダマされて気を抜く方がどうかしてんのよ」
 言い訳をアニーに叩き潰されたハジムが、悔しそうにコブシを握る。

 最初に会ったのは賊が巣食っていた城跡の丘。目的は副司教長の愛弟子救出。あの時、娘は助けを必要としている風には見えなかった。横に馬車もあった。だから自力で戻れると判断して別れた。

 ちゃんと保護していれば、ここまで遠回りせずに済んだ。それが悔やまれる。

 賊を商会の自警組織に引き渡し、教長に報告した折、肝心の娘が戻っていないとなじられた。行方を捜すために、駅や港で足取りを追った。そして黒衣の若者と、吸血鬼のウワサを結びつけた時には……三駅分、半日の距離が開いてしまっていた。

「賊がひとり、消えています。殺しましたか」
「よこせって言われた。凄く飢えてて、引き渡すしかなかっ……オジサンが死んだかどうかは、分かんない」
 低くかすれた声。ウソを言っている様には聞こえない。

 追いつきかけたチェバで完全に足取りを見失い、再び見出したのは、ここよりはるか南。ドライリバー東岸の宿場町。
「馬丁の子をどうやって解呪したんです?」
 あの子は確かに呪縛から自由だった。

「一つだけ頼みを聞くって……血を小ビンにもらった。ラスティル聖女の解呪の術式を使って解いたの」
 ラスティルという名に聞き覚えはない。だが、アニーはうなづいている。解呪法を編み出した聖女は実在するようだ。

「なぜ、陽の下で動けるのかな」
「仕組みまでは知らない。真昼は日陰でじっとしてた」
 済まなそうに伏せられる目。理由など分からずとも活動時間が特定できればいい。それに、娘が答えられそうな、もっと大事な質問がある。

「東大陸から船で来たんですよね」
 うなづいた娘の目を見つめる。
「ティア・ブラスフォード、君を呪縛しているのは、アレフの闇の子ですか?」

 目は真っ直ぐなまま閉じられ、開かれた。
「公子《プリンス》か守護《ガード》か、分からない」
 位階は明らかではない。だが、思ったとおり旧時代の生き残りだ。

「なぜ、暴れたんです」
「遠ざかっていったから。置いていかれるくらいなら殺された方がマシだって、焦って。でも、今は離れすぎて何も感じない」
 不意に、娘がハジムを見上げた。
「ごめんなさい、あたしに目を治させてください」

「治せるもんならな。出来るのか」
 不安そうなハジムにうなづいて見せた。テンプルの法術戦術の開発速度は目まぐるしい。十年前に学んだ治癒呪が時代遅れとなっていてもおかしくはないが。

 イスに座ったハジムの眼窩に、娘が展開した方陣は、ひと目では解析できない複雑さだった。唱えた呪にも聞き覚えが無い。
 娘が手を離し、ハジムが左目を開ける。

「見えない。こっちの目にはぼんやりした光しか」
「……赤ちゃんと同じだって。……新しい目に頭が慣れるまで一年以上かかる」
 なんだか間延びした話し方だ。

「慣れるか。修行すればいいのか」
「赤ちゃんと一緒ってんだから、ガラガラで遊べばいいんじゃないの。最初は見つめて、次は目で追って」
 アニーがふざけて、いないいないバァをする。

「メンター師が心配している。君を保護してホーリーテンプルへ送り届けるようにと通達が来てた」
 まずはティアを送り届ける。そして我々が証人となって事実を伝える。

 ヤツは独りになり警戒心も強くなっているはずだ。ティアが見捨てられたのなら、催眠術を使って向こうの位置を知る方法も使えない。四人で足取りを追うのはもうムリだ。副司教長に各教会を動かしてもらうしかない。

「夕食はまだよね。何か食べるもの貰ってくる。ルーシャも来て」
 扉の前で手招きするアニーの目は笑っていない。
「ほら早く、五人分をこの細腕で運ばせる気?」

 扉を閉めた直後、ひと気のない廊下でささやかれた。
「あの娘は嘘はついてない。でも正直じゃない」
「呪縛は解けていない上に、隠し事もしていると? 何とかって聖女の解呪は可能、なのか」

「ラスティルは私の同期よ。優秀すぎる子だった」
「だった?」
「父親の分からない子を宿して聖女をやめた。テンプルは目立つ女を許さないから」
 アニーがため息をつく。そしてルーシャの肩に手を置いた。

「しおらしい娘なんて、バカか演技のどちらかよ。
 あのティアって娘はバカじゃない」



 悪夢が身を潜めた密林は、はるか後方。
 街道をゆく馬車から見えるのは明るい草原。長い影を落とす高木の向こうには、草を食む無数の牛。道を食い荒らす事もあるようで、思わぬ揺れがルーシャに吐き気を誘発する。

 十年前はもっと暗かった。地下に埋設された水路が、細長い森を作り出し、街道を草の層でおおっていた。
 陽を嫌う魔物が駆った大地を往く船。最速を誇ったのは、均一な草丈の道のみ、だったらしい。

 ようやく人が手にした光の道に、再び闇を広げるわけにはいかない。

「煙が見える。迂回するぞ」
 御者の声に、ルーシャは喉を焼くヘドを飲み込んだ。横からティアが気遣わしげに覗きこむ。グラスロードを外れたとたん、馬車のスプリングが激しくきしみ、速度が落ちた。

 乾季の火事は草原を蘇らせる自然の恵みだが……
「野火じゃないな」
 ハジムが眉をひそめる。左目の視力が落ちた分、鼻が効くようになったらしい。牛が逃げてくる左前方。黒煙を上げる城壁が地平からせり上がってきた。

 ジガットの町は規模のわりに守りが弱かった気する。襲ったのが野盗の群れか、放牧地の境界でモメていた隣町なのかは分からない。確かなのは手遅れだという事だ。あそこまで火が回っているなら、襲撃者は略奪を終えて立ち去った後だ。

 不用意に救助に行って、よそ者への恨みを向けられてもつまらない。駅馬車と保護した少女を危険にさらす事にもなる。いま出来るのは、寝心地のいい宿坊を備えたジガットの教会が焼け残るよう祈る事だけだ。

「ばか」
 つぶやく声。車酔いを紛らわせようと窓から顔を出していたルーシャが振り向くと、照れたようにティアが手布を差し出した。
「火事って雨を呼ぶのね」
 後方に過ぎ去ろうとしているジガットを見ると、城壁の上に黒い雲が生じていた。ススを含んだ黒い雨が、生みの親である火事をしずめる。皮肉な光景だ。

 もし隣町とのいさかいなら、ジガットの報復に巻き込まれるかもしれない。大事をとった御者は、ふた駅ぶん馬車ウマに無理を強いた。 
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4.対話


 平穏なネインの村に駅馬車が止まったのは夜半。馬だけでなく乗客も限界だったらしい。小さな駅宿はすぐに満室となった。

 男女相部屋となった一室で、二つしかない寝台は女性ふたりに譲った。床に外套と借り物の毛布を延べる。さっきの手布の礼に、ルーシャは通信筒をティアに渡した。

「君は愛されていますね」
 かれこれ十一本目。立ち寄った全ての教会にルーシャ宛の通信筒があった。全てが同じ内容。偽吸血鬼を追うな。ティアを保護したなら速やかに連れて戻れ。

 教室が一つしかなく、ワラの塊を土で固めただけの、粗末なネインの教会にまで届いていた。女色には心ひかれぬ師が、いまさら老いらくの恋とは考えにくい。だが師弟愛というには偏執的だ。

 ルーシャが報告書をハトに託し、エクアタの駅から飛ばしてだいぶ経つ。そろそろ内容の違う通達にお目にかかりたい頃合だ。

 ティアの監視をアニーとオットーに任せ、ルーシャとハジムは階下の酒場に降りた。上の三人のための野菜のツボ煮込みとパンを亭主に頼む。

 ヒゲの下働きが、料理と一緒に頼んでもいない酒ビンを盆に載せて客室へ上がるのを見て、ため息をついた。酔っ払ったアニーに絡まれながら、硬い床で眠るのはむずかしい。

 ルーシャが頼んだ押しムギのカユが来る前に、挽き肉と米の菜包みが、ハジムの前に置かれた。その健啖ぶりをうらやましく眺めながら待っていると、亭主が語るジガットの惨劇が耳に入ってきた。
 命からがら逃げ延びた者から聞いたらしい。

 城郭内に転がる無数の死体。哀願に応えたのは嘲笑。命乞いは剣に断ち切られ、幼児と老人が火にくべられた。女と家畜は縄打たれ一列になって、財貨を積み上げた荷馬車の後を引きずられていった。

 人を食らう者がいなくなったあと、人は奪い殺し焼くようになった。些細な言いがかりをつけては繰り返される惨劇。
 人さらいの引渡しに応じなかった……今回はそれが理由らしい。反目しあっていた町同士。口実は何でも良かったのだろう。

 食欲のないまま、置かれたカユに見え隠れするムギのスジを数える。付き合いで座っているハジムが居眠りをはじめた。珍しい事もあるものだと、微笑ましく寝顔を見ていた時。

「ここ、いいですか」
 他にも空いている席はある。同席の目的を探ろうと目を上げた瞬間、ルーシャは凍りついた。

 深く被ったフードから覗く細いあごは白く、口元は鮮やかに紅い。背後に天井から吊り下がったランタンがあるのに、テーブルに黒衣の男の影はうつっていなかった。

「破邪の呪など唱えませぬように。ここにいる者が咲かせる血の花。私には好ましい見ものでも、あなたの好みではないでしょう?」

 いつのまにか酒場は静まり返っていた。ルーシャが見渡すと、客も給仕も喉元にナイフやフォークを自ら突きつけ、無言で微笑んでいる。催眠術……いや、死をも望むとなれば血による呪縛。

 悪夢の様だった。



 ワインとカルカ酒を混ぜた紅玉色の液体を、ドルクは三つのグラスに注いだ。ベストのポケットには、幻術を封じた水晶球。灰色の前掛けがおおっているとはいえ、ふくらみは目立つ。客室の狭いテーブルを整える手を、汗が湿らせる。

 褐色の髪の間から地肌が透けて見える男が、酒を口に含み、パンを裂く。筋張ったその手に斬られ首を落とされた記憶は、ドルクには無い。だが、殺した側は忘れていないはずだ。

 鎧こそ脱いでいるが、男が座る寝台の上には少し短めの剣。ベルトには銀のナイフ。トドメを刺すより手数を重視した軽めの武器。室内でも十分に力を発揮するだろう。一方、給仕を装うドルクはクギひとつ帯びていない。幻術が破れたら終わりだ。

 熱いツボにかぶさったパイ生地を落とし入れる際に、粉薬をソデから落とす。階下の拳士はこれで眠らせた。グラスを一気にあけて、勝手に二杯目を注いでいる聖女にも効くだろうか。大酒飲みは時として、痛みと薬にドン感だ。

 聖女と同じ寝台に座っているティアは、事前に心話で打ち合わせたとおり、パンだけをかじっている。予定していたジガットでの再会は無理だと伝えられた時は、ひどく不機嫌だったらしい。急ぎネインで仕掛けなおした今は、無表情だ。

「食べないの? めずらしいわね。疲れちゃったかな。それとも焼かれた町の臭いにアテられたのかなぁ」
 皿に盛った野菜のツボ煮をかきこみ、パイ皮を噛み砕いた聖女が、ため息をつく。

「見ず知らずの他人の心配はほどほどにね。偽善者と思われたいのなら別だけどさ。人が出来ることなんてホンの少し。出来もしない、する気も無い事を、考えるのは時間のムダ」
 半端な雨を降らせただけで、結局は救いを求める声を全て無視して逃げてしまわれたアレフ様に、お聞かせたい言葉だ。

 口当たりは良くてもキツい酒に剣士が酔うまで。
 料理に仕込んだ眠り薬で聖女が眠るまで。
 司祭を引き止めておく事ぐらいは、お出来になると信じてはいるが……少し心もとない。

「気持ちが悪いのかな。どこか痛む?」
 聖女がしつこくティアを気遣う。同行していた時の様に、ひとの分まで遠慮なく食べていたとすれば、パンしかかじらないのは異状と思われても仕方ない。だが薬入りの料理を食わされては、二階の窓から逃げられなくなる。

 意を決して、ドルクは部屋を出た。眼下には、酒場を無言で出て行く客。司祭は座ったまま。ハッタリは成功したようだ。

 教会の権威をタテに、無体を働く司祭をこらしめたい。仕掛けるのはちょっとした悪ふざけ。打ち合わせどおりに芝居をしてくれたら、渡した紅い指輪と引き換えに、表に立っている女給が金貨を一枚づつくれる。

 イモータルリングによる呪縛と暗示。思わぬ収入にニヤついていた客たちは、与えられた役割を演じきったようだ。

 急いで部屋に戻り、ドルクは息を弾ませた。
「下が、変です。静かで人がいません」

 すぐに反応したのは剣士のほう。だが、剣を杖に廊下へ向かう歩みはフラついている。聖女は……立ち上がろうとして、よろけて寝台に倒れこんだ。まだ意識はあるが動けまい。

 ティアは手早くブーツをはき、スタッフを手にした。聖女のポケットからサイフを掠め取り、荷から皮包みを引きずり出す。

 ドルクは窓を開け、敷布をはすかいに結び、綱がわりに窓から垂らした。途中までは寝台にくくりつけた敷布をつたい、軒のところで地面に跳び降りる。

 駅の広場には、立ち尽くしている女給と客たち。女給が金貨と引き換えに回収した紅い指輪をドルクは受け取り、厩《うまや》へ急いだ。アレフ様が脱出するまでに、馬車を整えなくてはならない。

 だが……無事に酒場を出てこられるのだろうか。今は司祭だけでなく、剣士とも対峙されているはずだ。



「食事を続けてください。私は……もう済ませたので付き合えませんが」
 笑みを含んだ柔らかな声。ツメを隠したしなやかなネコの手を、ルーシャは連想した。

 ほほをなで上げる死の予感。身は駅宿の酒場にありながら、古い記憶が呼び覚まされる。ホコリっぽい修練場。水が滴る地下迷宮。技量と共に繰り返し叩き込まれた言葉が耳元に蘇る。


 ヴァンパイアと対決する時は魔眼を警戒せよ。目を介して心を侵し、記憶を歪め偽りの快楽を植えつける。意志が弱ければ魂と体の自由を奪われる。強き壁を心に備えねばならぬ。

 死人ゆえに加減を知らぬ手は、骨をも握り潰す。間合いに飛び込むときは、常に動き、四肢を掴ませてはならぬ。


 眼前のヴァンパイアはフードを深くかぶり、目は見えない。かえって黒い布の向こうに光る、力持つ瞳を意識させられる。

 磨耗した木目の上につかねられた白く長い指。脅威だが、イスを蹴って下がれば間合いの外だ。

「注目の的では落ち着けませんか」
 眠り続けるハジムの横でヴァンパイアが右手を上げた。酒場の客たちが一斉に外へ出て行く。
「声が届かなくとも、心に命じれば彼らは身を紅く染める……でも見えなければ少し気が楽でしょう」

 この事態に至ってもハジムは目覚ない。しもべとなった亭主に一服盛られたか。安らかな寝息。致死性の毒ではなさそうだ。

 つまり、魔物の狙いは、私か。

 エクアタの報復だろうか。
 無力だと見下していた“人”に滅ぼされかけ、みじめな敗走を強いられた事への。失いかけた傲慢な誇りを取り戻す為の。
 あるいは闇の命を与え、獣人を預けてくれた主の叱責を避け、体面を守るための。

 もし追ってくるなら、動機は自尊心だとアニーが言っていた。転化したてのヴァンパイアは、人より優れていることを誇示したがる。ミルペンで殺しに興じていた、愚かな不死者の様に。

「西の果てのキングポートから密林のエクアタまで、執拗に私を追ってきたのはなぜです。英雄の名声欲しさですか」
 最初は救うためだった。罪を重ねる若者を、その病んだ心を哀れんでいたと言ったら、このヴァンパイアは怒るだろうか。

「ルーシャ!」
 オットーの叫びが落ちてきた。だがアニーの声がない。報復だとすれば、破邪呪と火炎呪を使った私だけでなく、首を刺し心臓を貫こうとしたオットーも対象か。邪魔なアニーはハジムと同じ様に、眠らされたのかも知れない。

「お静かに。お仲間の眼を再び失いたくなければ、ですが」
 魔物の言葉に、階段を駆け下りるオットーの足が止まった。

 やはりティアは繋がっていたか。ハジムの目を治した奇跡の様な回復呪。立ち寄った教会で歳若い司祭や聖女に聞いたが、類似の方陣も呪も見聞きしたことが無いと言われた。
 おそらく、ウォータで子供の深手を痕も残さず治したものと、同じ術式。

「お前こそ、何のために海を渡ってきた」
「太守を滅ぼし、城にいた文官にまで禁呪をかけたモル司祭を……殺す、ために」
 仇討ちか。
「そのために、生き血を貪り悲しみを広げているのか」
 モルは気に入らないが、仮にも仲間を殺すと明言した魔物を見過ごす事は出来ない。

「人も人を殺し、悲しみを広げていますよ」
「詭弁だ!
確かに人は殺し財を奪うかもしれない。だが、命は盗まない。他人の心を捻じ曲げ、意に反した忠誠を強いたりしない」
 黒いフードがかすかに動揺した気がした。

「血を、命を、売り買いするのは罪だ。道具の様に利用されるなんておかしい。人は平等であるべきだ!」
 それが理想に過ぎないのはわかっている。現実に人は売られ買われ使い捨てられている。魔眼にも似た心を操る術式や、血の呪縛に似た作用を持つ毒物も存在する。

 だからといって、眼前の魔物を認める事は出来ない。
「変わりませんか……三百五十年前と」
 呟きの意味を問おうとした時、ヴァンパイアが立ち上がり、滑るようにカウンターへ向かった。

 数枚の金貨を積まれた亭主が、ソーセージの様な指から紅い指輪を外し、白い手に渡した。直後に、悲鳴を上げ腰を抜かす。はいずってヴァンパイアから逃れようとしている。
 亭主はしもべではなかったのか。

 あの紅い指輪、ティアの指にもはまっていた。父親の形見だと言っていたが……あれが血の絆の代わりか。
「娘は引き取ります。あなた方はティアの望みを叶えられない」

 弾かれたようにオットーが部屋に向かう。
 だが、多分もう遅い。
「娘はあなたの保護下を離れました。私を追うなと通達も出ているのでしょう」

 ヴァンパイアがマントを跳ね上げ、右手であたりを払った。握られているのは灯火を反射する水晶玉。床に輝く方陣が広がった。
「手を引いて下さい」

 これはホーリーシンボル? だが、方陣の形が少し違う。身を梳く清冽な力を感じない。力ある言葉も添えられていない……ただの光?

 すべてを白一色に染めた光が収まった時、黒い姿はもう無かった。

 光に驚いた泊り客が数人、顔をのぞかせた。首をひねりながら、半分ぐらいの客が酒場に戻ってくる。

 三百五十年前といえば教会が創始された頃。
 当時を知る者はただひとり。東大陸の太守、始祖アルフレッド・ウェゲナー。
 もし、そうなら、副司教長の通達は……

 弟子を、若い娘を犠牲にしても、ここに居てはいけないヴァンパイアを見逃せというのか。教会へ多額の寄付をしているシンプディー家をはじめとする貿易商の利益を守るために。その富に支えられたメンター師の権力を守るために。

 それとも、分かりやすい原理主義と積み重ねた功績で、急速に人望を集め、力を増しているモル司祭を、手を汚さずに排除しようとしているのか。ヴァンパイアを利用して。

「知ったことか!」
 ルーシャは握りしめたサジを投げつけた。
 
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5.追跡の果て


「そっちが意識を向けない限り、心話って通じないと思ってたんだもん」
「それは礼儀上で、危急の時は関係ない」
 アレフはため息をついてみせた。いつ起こるか知れない災害を即時に伝えられずして、何のための血の絆か。

「だって、父さんはずっと助けを求めてたのに、応えなかったじゃない!」
 幌の下に沈黙が降りる。夜道を噛むふたつの車輪と二頭分の蹄《ひずめ》の音が、不意に大きくなった気がした。

 確かに、初めてティアに意識を向けたのは、火刑に処された時。窒息したティアの蘇生と再生のため指輪を介して力が流れ出した瞬間。
 だから殺されようとしたのか。
「すまなかった」
 改めて突きつけられた怠慢と逃避の罪は、苦さを通り越して痛かった。

 いや、まだ逃避をしているのかも知れない。今むかっているキニルと、そこで犯した大罪から。回り道も、湖岸での滞在も、過去に向き合うのを避けようとしての事なら……あの者達に追われたのは、逃避への罰か。

「でも毒を使うとは思わなかったな。どれくらいで死ぬの?」
「料理に入れたのは眠り薬。夜明けには動けるように……」
「バッカじゃないの。あいつら絶対に諦めないよ」

「だが、副司教長の通達が」
 今なら、父に届いた進言と警告の出所がわかる。モルを危険視しているティアの師。クインポートでひときわ立派な楼閣を構えていた貿易商に、血縁で深く繋がる副司教長。

「アレフ様を刺した剣士のヨロイ。わたくしが斧でつけた傷がまだ残っておりました。潤沢な資金による豊富な武具が連中の強みのはずですのに。彼らはとおに独自の判断で動いているのかも知れません」

 御者台からのドルクの言葉に、切りそろえた黒髪と強い目を思い出した。真っ直ぐに向けられてきた、揺るがない意思。
「追ってくるのか……四人だけで」

「おそらく馬で。夜が明けたら少しグラスロードを外れた方がよろしいかと。休む時は駅宿ではなく民家に」
「野宿でいいんじゃないの。天気がよければピクニックに見えるって」
 ティアは妙にのんきだ。
「彼らと再び戦う事になったとしても。私やドルクが人を殺す事になっても、ティアさんだけは手を汚さないで下さい。二度とテンプルに戻れなくなります」
 彼らは私を滅ぼそうとムキになっているかも知れないが、ティアには危害を加えないだろう。



 夜間は北を目指し、晴れた昼時だけ南向きに日除け布を張って休んだ。時おり立ち寄る村で日々の糧を調達し、馬を換える。
 いつしか、大地を彩る植物は少し色あせ黒ずみ、空と雲もぼやけ、くすんだ色合いとなっていた。

 グラスロード沿いの町に寄る時は、目立たぬよう1人で向かい、“食事”も済ませる。しもべとした者達から、黒髪の司祭のことが伝わるたびに、背後に迫る足音を感じた。

「キニルに向かっているのは、バレてんでしょ?」
 モル司祭が本山に呼び戻されたなら、討とうとする者がキニルを目指すのは自明のこと。

「だが、あの街には百万もの民が暮らしている。東大陸に住む者が一つの街にかたまっているような混沌の都。紛れ込んでしまえば、安全なはずだ」
「あそこの守備隊、ダレまくってるもんね」

 闇に響くティアの笑い声。星の位置から見て、明日にはキニルに入れるはずだ。

 その前に、寄りたいところがあった。
「あの丘は、昔のままかな」
「グラスロード沿いですから、おそらく」
 馬首を東よりにめぐらせながら、懐かしげにドルクが星空の彼方を見た。

 空が白む頃、懐かしく苦い場所に立つことが出来た。キニルをかこむ五つの丘の一つ。南へ向かうグラスロードの脇に、草がなびく窪地がある。

 目を覚ましたティアが、夜明け前の冷たい空気に息を白く染め、くしゃみをする。
「何にもない場所ね。城跡の丘よりつまんない」
「そこの窪地で、両腕を断たれたオリエステ・ドーン・モルが開放された」
「モル……教会の創始者の方か。腕無しでよく生き残れたよね。水飲むのも大変なのにさ」

「ガディ・マフとウェデンが迎えに来ていた」
「剣聖と聖女。七聖の最初の二人だっけ」
「二人をここまで連れてきたのはドルク。切腕の刑から丸一日、何も口にしていないモルのために水代わりのワインを託したのは、私だ」

 三百五十年前、他の太守が言うように、処刑するべきだったとは今も思えない。あの男は理想を語っていただけだ。あまりにも真っ直ぐな痛みを伴う理想をかかげ、その先に人々の幸福があると信じて走り続けた。

 モルの夢に賭けてみようと思ったのは、貧しかったせいかもしれない。毎年の様に出る餓死者。領民の嘆き。土地の生産力に限界があるなら、あとは人を耕すしかない。

 世界中で通用する文字と数字。それによって生まれる大規模な商業。実現した時、教会に巨大な富が集中すると予測はしていた。だが、集まる金はしょせん帳面上のもの。実体は伴わないと侮っていた。金がいかに暴力と親和性があるか、分かっていなかった。

「あの時こうしていたら、なんて考えるの、時間のムダ……らしいよ。
 ワインを上げなかったら、開祖モルは行き倒れてたかも知れない。ずっと夜は明けないまま。
 その代わり、こんなに魅力的なあたしに出会えなかった。それって、大損だと思うな」

 冗談なのか本気なのか分からないが、とりあえず笑っておけばいいだろう。

 草原と低木の彼方に、霧をまとったキニルの街が見える。城郭もなくのっぺり広がる平原の都市。昼前には入れそうだった。

 明るくなっていく道を軽快にかける馬車。馬にも目的地が近いと分かるのかも知れない。

 地平線が赤く染まり、太陽が目を射た瞬間、馬がいななき、体が浮き上がった。
 地面に肩がぶつかり、馬車が横転したと分かった。

 他の者の安否と、事故の原因を知ろうと身を起こした瞬間、上から何かが降って来た。細い縄が絡み合い結ばれた……これは網か。

 動くたび手足にからむ目の大きい網。引きちぎろうとした腕を貫く刃の痛み。眩しさにやっとなれた視界に飛び込んできたのは、二度と会いたくなかった剣士の不敵な笑み。

 右手がしびれる。ナイフに貫かれたのは二の腕の神経束。肩口に振り下ろされる剣を、アレフは身を斜にして避けた。腕の傷がこじられる痛みに呻きながら、体に絡む網を踏んでいる騎士のスネを蹴った。よろける騎士から、かろうじて取った間合い。ベルトの物入れから水晶玉を掴み出して掲げた。
 
 強い光を予想して閉じられる目。騎士が警告を発し跳び離れる。絡む網をかなぐり捨てながら冷気の呪を唱えた。方陣を敷いたのは風上の少し離れた地点。この辺りは湿度が高い。白く輝く霧のドームが生じた。

 拍子抜けしたように半円の霧を見上げる騎士。そのスキに、知覚を周囲に広げる。

 ドルクは獣人化して、拳士とスタッフをふるう司祭に対抗している。ティアは砕けた馬車の向こうで聖女とやりあっている。得物は馬車の下敷きだが、刀子でしのいでいるようだ。

 二頭の馬が折り重なるように倒れ、その上に馬車が乗り上げていた。折れた足に絡んでいるのは両端に金属の球がついた縄。
 日の出と同時の襲撃。近くに、鼻息の荒い馬が四頭。少し前から、彼らは馬車に併走していたのか。幻術をまとい姿とヒズメの音を消し……見事な手並みだ。

「灰に返れ!」
 吼えながら走る騎士に、マントを脱いで投げつける。死角から手首を掴んでひねろうとしたが、ヨロイにはばまれた。逆に振り飛ばされる。着地し、のけぞった頬を剣がかすった。

 跳び離れた時、風に流されてきた霧があたりを包んだ。日がかげり、全てがぼんやりと灰色ににじむ。

 闇雲に振られる剣を避けながら、左薬指にはまったルナリングを歯で引き抜いた。水晶玉と共に物入れに放り込み、右手用の手甲を左手にはめる。てのひら側となる刃は攻撃には使えない。だが、盾代わりなら十分。

「ケアー!」
 水晶球を通じた言霊で、亜空間上にシーナンが組み上げた頭脳を模したオートマタに接触する。
「心を開いてください」
 ティアの心の障壁が消え、見ている光景が表層意識と共に心に流れ込む。ドルクからの光景もケアーに送り、敵味方の正確な位置を割り出させ、それぞれの意識に返す。

 技量に頭数。死線を潜り抜けた者同士が持ち得るという息の合った連携。全てにおいて敵わないのは分かっている。どこまで術で補えるか……だが、互いに助け合わねば勝機はない。

 最も不利なのはドルク。身軽な拳士が相手では重い斧は当たらない。空振りしたスキに思わぬ位置から司祭が操るスタッフが突き出される。既にアバラ一本と右ヒザをやられている。立っていられるのは獣人の強靭さゆえ。

 なら、まず司祭を何とかする。
 酸素をまとわりつかせた小火球を投げつけた。法服は少し灼熱したが穴は開かない。だが、火傷を押えた時、ティアの刀子が横腹に刺さった。回復のために離脱しうずくまる影に、ささやかな勝利を味わう。

 直後に脇に衝撃を覚えた。いつの間にか背後に迫っていた騎士の剣が、腹に食い込んでいた。生身なら胴を両断されかねない勢いで吹っ飛ばされる。あばら骨を幾本かやられ、傷が肺に達したのか血にむせた。

「ったく、手間がかかる」
 ティアの唇が回復呪を紡ぐ。指輪によって結ばれた絆から流れ込む癒しの力。

「お嬢ちゃんを黙らせる! 治されちゃキリがねぇっ」
 霧を巻いてティアに向かって走る拳士。その背中に火球を飛ばしたが、避けられた。火球を操りたくても、眼前の騎士が振り下ろす剣と、思わぬ位置から突き出されるナイフから目そらせない。

(ドルク、頼む)
 だが獣人の前にスタッフを構えた司祭が立ちはだかる。もう回復したのか。

 ふたりを相手にしていたティアの意識が、不意に途切れた。気絶した細い体が縛り上げられるのを感じながら、助けに行けないもどかしさに呻いた。

「聖女見習いは保護したわ」
 保護……ならばティアは捕らわれても殺されない。

 安堵は、目の前に現れた黒い拳士が浮かべる不敵な笑みを見たとき、消えうせた。

 思わぬ方向から飛んで来る蹴り技と拳。これはティアもやっていた技。だが、はるかに重い。物理障壁をめぐらせていても、全身に痛みが溜まっていく。横合いから突き出される刃も痛みと出血を強いる。

(すみません……アレフ様)
 司祭と聖女の杖術によって、腹と喉を突かれたドルクが倒れるのを感じた。治癒は始まっているが、しばらくは立ち上がれそうにない。

 エクアタの時のように一時退く事を考えた。だが、ここは平原。すでに三人に囲まれ退路を断たれていた。それに、今度はドルクの遺体を、焼かれてしまうかもしれない。

 突かれ、斬られ殴られる。呪なしの術を使う余裕もない。全ての魔力を回復に向けても追いつかない。

 突然、足元に白い輝きが広がった。
 数歩離れた位置で、印を結び呪を唱える司祭が目に入る。
 
 地面に描き出された法陣。これは破邪の呪。目の前にせまる完全な消滅に震えた。
 全てが終わるのか。
 血の絆を介してつながった者たちの顔が心をよぎる。親しい顔に、ジガットの炎と血の海が重なった。

「こんなところで、滅びてたまるかっ」
 背後から刺されるのも構わず、目の前に突き出されたスタッフを脇に押さえ込んで下がり、よろめいた聖女を殴り飛ばす。
 同時にうめき声と血を吐いて、背後の騎士が倒れた。背中にドルクの斧が生えていた。間に合わせの修復で強度が足りなくなった部分に、奇跡のように太い刃が深くめり込んでいた。
 
 退路が出来た。だが
「よくもっ」
 横合いから拳士が繰り出した蹴りで、法陣の真ん中にたたき伏せられた。

 ホーリーシンボルの効果範囲から離れなければならないのに、手足が思うように動かない。肉と筋を斬られ骨を割られ、血も流れすぎた。痛みと脱力感が全身を包む。

 最後に残った力で斧を投げたドルクはそのまま倒れ、伸ばした手が草を掴んでいた。

 司祭の術式が完成する。
 霧の中で清浄な光が眩しさを増し、地面と霧を真っ白に染め上げる。

 不意に何かが割れ砕ける音がして、呪は途切れた。大地に広がっていた法陣が跡形もなく消え失せる。

 司祭はゆるりと後ろを振り返り、たおれた。




 ティアが目を開けると、独りだった。
 日の光を白くさえぎる霧の中で感じたのは、手足を縛られたきゅうくつな痛み。

 習慣で巡らせている心の壁を解くと、戦いが戻ってきた。最後の力を振り絞ろうとしているドルクの覚悟と、囲まれて活路を失ったアレフの焦り。

 砂混じりの細い風を呼んで縄を削る。死にかけた馬の哀しい鳴き声に、ホーリーシンボルの詠唱が混ざる。

 死んだふりしてたドルクが斧を投げた。剣を振りかぶったまま、オットーが倒れる。さすがはオッサン、見事な不意打ち。
 でも、アレフは……

 ダイアナを殴り飛ばしたのはいいとして、何でハジムにカカト落とし食らって倒れんのよ。それも法陣のド真ん中ってあり得ない。

「ごめん、約束はムリだから」
 操られてたフリして、全部アレフのせいにして、お咎めナシなんて最初から望んでない。

 手首が剥けるのもかまわず縄を引きちぎる。馬車の下からスタッフを引っこ抜いて、横に払って走った。

 ホーリーシンボルが発動される直前、ルスランの頭を後ろからスタッフで横殴りにした。

 手加減、出来なかった。
 驚いて、振り返って、くたっと地面に倒れてった。

 地面に赤い水たまりを作りながら、あたしを見上げてる目は、無念と哀れみ。ルスランにとってあたしは、もう少しでヴァンパイアの呪縛から救い出せた可哀想な操り人形。

 霧が薄れていく。
 朝焼けを映してるけど、もう何も見えてない眼。頭骨を砕いた感触が、しつこく手に残る。
「仕方ない、よね」
 だって、本当に強かったから。殺らなきゃアレフは消滅してた。

 仲間を奪ったあたしを呆けたように見てたハジムに、アレフが術をかける。気力を奪う呪いみたいなやつ。あたしを介して治した左目にやっと気付いたんだ。今さら遅いっての。


 終わった。
 誰かが通りかかる前にみんな隠した方がいいよね。でも死体って重い。もう、近くの茂みでいいや。半日ほど見つからなければそれで十分。血とかは土をかけとけばいいかな。

 背骨をやられて死に掛けてるオットーは……
「恨まないで下さいよ!」
 ドルクが這いずって、剣でトドメ刺してくれた。

「吸血鬼のくせに、陽の下で動けるなんて反則」
 げ、ダイアナおばさんてば、倒れたまま笑ってる。殴られたとき頭でも打ったかな。
「見習いの子は解放してやって! 疑いをそらすのに法服が要るなら私が代わりになる。もう糧にするのは、やめて。罪を重ねさせないで」
 泣かせること、言ってくれてるし。

「なら……ネックガードを」
 アレフもイジワルだな。連れてく気ないくせに。
 うそ、首の防具、外しはじめた。
 本気、なんだ。
 この人達、あたしを助けに来たんだ。
 そんなの、重いよ。

「ここでティアさんを放り出されたりはしません。少し無理をされて喉が渇いておられるだけです」
「うん……治癒呪かけるね」
 オットーの首に剣を突き立てたまま、座り込んでるドルクのキズを治した。
 斧をぬぐったドルクが、オットーの死体を引きずっていく。

 振り向くと、オバサンはアレフに抱きしめられていた。
 心かくすのヘタだから、きっと連れてく気なんて無かったのも、あたしの事も全部バレちゃってるんだろうな。血の絆って便利そうで使いにくい……ウソがつけないって残酷だ。

 アレフが、木陰で空を見つめているハジムの横にダイアナを寝かせる。事情を知らなかったら、2人して木陰で逢引きしてるみたいだ。

「すまない、私が不甲斐ないばかりに、手を汚させる事になって」
「何を今さら」
 立ち上がったアレフは、なぜか不思議そうな顔をしてる。

「心や命まで失う危険を冒して、彼らが私を討とうとした理由が分からない。追うなと指示されていたはず」
「マジで分かんないの?」
 うなづかれて、考えて……思い当たった。

「そっか、アレフって生まれた時から領主の跡取りで、立場と目標が決まってたんだ。
でも普通は無いんだよ。自分でなりたいモノ探して決めて、人生の全部をかけて、なろうと頑張る」
 あたしの三十倍は生きてるジジイに、大マジメに人生語るのって、ちょっと照れる。

「あたしも物心ついたときから身の振り方、ずっと考えてたよ。代理人は世襲じゃないから。
小さい頃は金持ちのお嫁さんとか、食べ物屋さんとか、他愛ないもんだけど」
「でも、聖女になった」
 懐かしい気分が、胃をねじる苦い思いに変わる。

「クインポートの教会で文字を習ううちに……あんたを滅ぼせば父さんがあたしを見てくれるって思う様になったから。
聖女は手段。あたしは父さんの娘になりたかった。父さんに恨まれても、一緒に処刑されてもいいから。父さんの一番になりたかった」
 アレフが顔をそむける。今はこれぐらいにしておこう。

「この人たちは……きっと英雄になりたかったんだよ。吸血鬼を倒して夜明けをもたらす、人形劇の主人公になりたかった。だから気に病む事ないよ。こうなるのも、覚悟してたはずだから」

 全てを負うのはあたし。アレフを巻き込んでここまで連れてきた。そして、こいつらに捕まった。

 次からは、あたしが戦いを仕切ろう。カタキ討ちなんて空しいと心の底では醒めてるアレフに、不本意な責任や罪悪感を押し付けるわけにはいかない。

 何より、強敵に遭うと防御で手一杯。浮き足立って、ロクな指示も出せないまま、自滅しちゃうタチみたいだし。
 ドルクかあたしが指図する方が生き残る確率、高そうだもの。
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