夜に紅い血の痕を

著 久史都子

第七章 廃城の花

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1.自由の大地


 船長に病気のことを口止めされた時、ティアの胸を刺した痛みは、お祭りやってるみたいな大通りを見た瞬間ふっとんだ。
 馬車が走りながら楽にすれ違える広い道。
 両側の白い建物や街路樹に渡した綱から、店の紋や商品を染め抜いた色とりどりの布が垂れている。

 ここキングポートと故郷クインポートは姉妹都市。そのヨシミで東大陸との貿易が禁じられた後も、両都市の商船だけは行き来が許されてるって聞いた。
 確かに通りの作りとかは似てる。けど賑わいは段違い。お店が道の果てまで並んでて人も大勢。よそ者もいっぱい歩いてて、あたし達があまり目立たない。

 初めて来たときは、街の事情とか分かんなかったしお金も無かった。不安の中でただ目的にしがみついて前へ進むのに夢中だった。
 二度目はモル司祭のお供って立場だから好き勝手できなかったし、ウロつくより宿で拳術と法術を磨く方が大事に思えて、何も目に入ってなかった。
 こんなにキレイな街だったんだ。

 まずは、乾燥ハーブを売って自由になる金をつくろう。それと、教会でモルの足取り聞いて次の街までの旅費の無心……あ、ドルクにクギ刺すの忘れてた。
「今度は邪魔しないよね」
「何のことですか」
「あたしとこいつが恋仲とかフカして、バフル教会からの支援うけられなくしたじゃない」
 その上、倒した“なりそこない”から戦利品を頂くのもダメってんじゃ……今の立場、なんて言うんだっけ。囲い者、イソウロウ、食客? 用心棒か。

「あたし教会に寄るから」
 埠頭の方を……というより、船を振り返ってばかりだったアレフがあたしを見たのが何かおかしかった。怯えたり後悔するぐらいなら人を襲わなきゃいいのに。
「心配なら一緒にくれば?」
 そろそろ昼前だ。人形劇をやってるかもしれない。だったら愉快な見ものになる。

 クリやグミの木の上へ塔を突き出してるキングポートの教会には、貿易でもうけた商人からの寄付がたんまり集まる。毎日のようにパンを施してた。あたしが中央大陸で最初に食べたのも教会のパン。子供たちに配ってた麦芽アメももらった。もの欲しそうに見てたせいかな。もしかするとまだ子供に見えたのかも。

 三年前と同じように、ボロを着た老人や松葉杖ついた人、幼児を抱いた女の人がパンのために行列してる。木陰には子供がいっぱい集まって歓声を上げてた。見習い司祭が打ち鳴らす太鼓やシンバルの音もする。日光から逃げたいのか、アレフが木陰に足を向けた。狙い通りだ。

 子供たちが見つめるのは赤い布をかけた台。そこでヨロイを輝かせて手づかい人形が戦ってる。白や青の派手な法衣を着せられた手づかい人形もいる。人形劇の筋立ては単純でひとつだけ。それでも、子供たちは台の下に隠れた見習い司祭や代理教官が操る人形の戦いに夢中だ。教会が本当に見せたいのは、麦芽アメに押された共通文字。覚えて欲しいのは最初に合唱する数え歌や、締めに唱和するテンプルの基本教義なんだろうけど。

 三頭身の戦士が挑んでるのは、他の人形の倍はある黒い怪物。死人を示す緑色の顔、ガラスの目と赤く染まった口が大きく鮮やかで、牙がやけに目立つ敵役。小さな赤い舞台で演じられているのは、子供たちとあたしの夢。アレフにとっては悪夢。

 フードごしに人形劇を見ている顔を、下から覗き込んでやった。酢になったワインを間違って飲んだみたいな顔してる。それが無表情に変わった。
「アレフ、覚悟!」
 戦士のセリフにあたしも振り返った。捨て身で突撃する戦士。貫かれる怪物。そして司祭の人形がホーリーシンボルを唱え、白い紙ふぶきの中で黒い人形はよじれながら台の下に消える。聖女役の人形の介抱も空しく、最後はいつも戦士が死ぬ。

「……情報早いな。あたしが前に見たときはヴァンパイアの名前、ロブだったのに」
 活劇とお涙ちょうだいの人形劇のあとは、子供たちに基本教義を唱えさせる。『明けない夜はない』『人の手になるものは人によって必ず破れる』『不死者は人の命を盗む盗人にすぎない』それは前と変わらない。

 でも、だれが公敵が変わったことを、この教会に伝えたんだろう。モル……違う。あいつが東大陸を離れた時、まだアレフは目覚めてなかったはず。
 知り合いだったらどうしよう。その前に、あたしの見習いの資格、剥奪されてるかな?
 考えてても仕方ない。事情を聞かなきゃ何も始まらない。

 歩き出した直後、肩を強い力でつかまれて引き戻された。



 花こう岩で組まれカキ殻の粉で化粧をほどこした白い街に足を踏み入れた時から、馴染みの……そしてあり得ないはずの感覚にアレフは悩まされていた。

 記憶を封じると同時に絆もほとんど断ってしまったジェームズ親子は、壁と鉄柵に囲われた丘の邸宅街に入り、意識を向けても微かな気配を感じるのみ。人足に遠慮しながら、上陸前に押し付けられた全員分のハンモックを干す作業に忙殺されている見習い水夫も関係ない。
 まったく別の……しもべの気配。

 教会に近づくほどに絆の気配も近づく。意識を向ければすぐに何者か判明するだろうが、場所が場所だけに接触するのが怖くなる。
 相手を知ることは、こちらの居所を知られる事。
 慎重に慎重を重ねても足りない。

 昨夜、自分の詰の甘さを思い知らされた。

 船内では誰にも見られぬよう注意深く事を運んだつもりだった。実際には疑惑の中心にいた。仮病や人を装う幻術だけでは不足だった。
 人々の日常感覚や常識といった分別くさい思い込みこそが、強力な幻術となっていた。

 首筋に冷たい牙が当たる瞬間まで、そんな災難は他人事だと無邪気に信じている人々のお陰で、無事この地に立てた。だが、いつ狂騒的な暴力に変わるか予測できない集団幻想を、過信するのは禁物だ。

 不快で扇動的な人形劇から目をそらし、意地の悪い笑みを浮かべ、しつこく覗き込んでくるティアを無視しようと努力していたとき、感じていた気配が誰のものかわかった。
 目覚めた直後に貪った三人の自称英雄たち。

 心を無にして静かに意識を向ける。
 三人が感じているのは、吸血された者特有の疲労感。昼食にたいする期待。そしてアレフが感じていたのと同じ、もう一つの己を感じる奇妙な感覚。

 感覚の理由に彼らが思い当たる前にこの街から去りたい。
 そんな衝動を抑えて見続けようとしたとき。
「アレフ、覚悟!」
 人形につけられた自分の名に動揺して、わずかに心が漏れた。

 とっさに三人を眠らせたが、かえって事態を不味くした気がする。夜にでも記憶を封印して絆を弱めるか、いっそ正気を完全に奪って発言の信用度を……

 それより、ラットル。
 ティアを火刑にしようとした司祭。
 三人をここまで送り届ける道中、恩着せがましく、ありもしない手柄を証言するよう強制していた虚栄心の強い司祭。その居所を読み取る前に眠らせてしまった。

 鐘楼を備えた建物へと向かうティアの肩を慌てて掴んだ。
 手を叩かれる前に、心話を送り込む。
(そのスタッフの元の持ち主がここに居るかもしれない)

 軽く舌打ちしたティアに右手を弾かれた。
「……やっぱ殺しておけばよかった」
 肩越しの恨みがましい目。殺害を止めた事をまだ根にもっているのか。目を逸らすついでに、テンプルの基本教義を子供たちに叫ばせている、三体の人形を視線で示す。
「それ、彼らがここで療養している。私が近くにいると感づかれた」
「血の呪縛が祟るのは、吸われた方だけじゃないってことね」

 皮肉な笑みを浮かべて教会へ向かうティアから一方的な心話が送りつけられた。
(あんたの操り人形が何か言い出したらデマかせ並べて切り抜ける。ラットルがいたら叩きのめす。あ、でも教会内では殺らないから安心してね)

 ティアが何を保障したところで、安心など出来ないが、ついていけばもっと厄介なことになりそうだ。待つしかないが……陽光の下は辛い。

「近くに宿がありました。金貨を見せれば部屋を用意してくれるでしょう」
 足音も無く近づいたドルクのささやきに、かすかなうなずきで返す。
「それと……ティアさんが離れているうちに“食事”を済まされますか?」

 腕の中に命の温かみを感じながら、首筋に口づける瞬間を思えば気持ちは高ぶるが、身体はすくむ。ここではどう言い繕おうとも法を犯す行為だ。

「お任せいただけるなら、夕方、目覚められる頃にはご用意出来るかと」
 ゆっくりと首を横に振った。どんな理由を付けても宿に人を連れ込むのは危険だ。ドルクに任せれば……おそらく贄となった者は後腐れないよう殺される。

(では、狩りをなさいますか)
 他聞をはばかる話題は、心話か。

 人形が戦っていた赤い舞台が片付けられ、戦士や司祭になりきった子供らが、はしゃぎながら行き過ぎる。無邪気な姿を見送りながら、幼な子の喉の感触を想起している自分が嫌になる。
(他領の民を無断で贄にするのは、禁じられている)

 建前で進言をさえぎり、人形や小道具を木箱に納めていた見習い司祭に声をかけた。
「私と共にいた聖女見習いに、伝えてもらえますか? そこの、ミサゴの旗を掲げている旅宿に居ると」
 快諾を得て、パンを求めて並ぶ者達を横目に、宿へ向かう。

 道にまだらな影を落とす並木の端で、ドルクが追いすがってきた。
「庭の花を盗れば泥棒ですが、野の花を摘むのに断りをいれる者がいましょうか?」

(無断も何も、エイドリル様も他の太守もとうに滅びております。この地に生きる人間は誰の物でもありません。人間共もそう信じております。自分達は自由だと。
 庇護者を失った人間をアレフ様がどうなさろうと咎める者はおりません)

「ですが野生化した家畜に手を出せば思わぬ反撃を招きましょう」
(狩るのでしたら群れからはぐれた弱い者を)

 心の奥に恐れと罪の意識を押し込めながら、人を襲うよう勧める従者の矛盾が面白い。
 ドルクの命はアレフの命に結ばれている。心が痛むからといって、命を繋ぐ行為を……血を啜るのをさまたげることはない。

「この街では、やめておこう」
 くちづけを与えた者が増えれば危険が増す。その事は船で学んだ。一人なら問題にならない。だが、二人目、三人目となれば、偶然という言葉は力を失う。この街にはすでに既に五人。たまたま集まっただけとはいえ、多すぎる。

 部屋の支度が整うまでと案内された宿の一階を占める食堂は、早めの昼食を取る客で混み始めていた。魚を掴み飛び立とうとしている猛々しい鳥の木像に見下ろされながら、バフル産のワインを含んだドルクが、不快そうに首を振る。飲めないグラスをもてあそびながら、気になっていたことを口に出してみた。

「ドライリバー城はどうなっているかな」
「劣悪な船倉で海を越えてきたワインと同じでしょう。混乱期を経た王城にかつての香気など」
「実際に見たわけではないだろう」
「お確かめになりたいのですか?」

 一つの丘をふもとまで覆いつくす壮麗な城だった。ウェゲナー家の為に用意されていた南斜面の棟ですら、東大陸のどの建物より大きく贅沢に造られていた。
 鏡のような花こう岩のテラスから眺めた景色が脳裏に蘇る。平原をうねる大河の彼方に、この街の灯がまたたいていた。

 部屋が整った旨を伝える亭主の言葉に立ち上がると、ドルクもグラスを置いた。
「では、為替を換金するついでに、ドライリバー城へ行く手段を調べてまいります」

 テーブルを片しにきた給仕は嬉しそうだ。高価なワインがほとんど手付かずだからか。せっかくの余禄が劣化しているとも知らずに。いや、本来の香りを中央大陸の者が知る術などないか。

 それに、ワイン工房を所有しながら一口も味わった事のない身の上では、給仕を笑う資格はない。

 部屋へ案内される間、前をいく亭主のうなじを眺めながら、飢えの予兆である苛立ちを自覚した。
 最後の食事は四日前、船上だった。陽光と水で力はだいぶ減じたが、足下に地の力を感じる地上でなら、もうしばらくは耐えられる。

 それにしても、しもべが五人もいて一滴の血にもありつけないとは。所領であるなら「疾く来よ」とでも念じれば、すぐに満喫できるものを。
 ……これが人の世界、自由の大地か。

 鎧戸を閉めカーテンを引き、薄闇に沈んだ寝室でものうく身を横たえる。
 まだ波に揺られているようで訪れる眠りが浅い。きれぎれの夢の中に望郷の兆しを感じていた。
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2.正義と生活


「あなたがティア・ブラスフォードでしたか。よくぞ無事で」
 なんなんだ、この太った教長は。階級をムシした愛想の良さは。汗ばんだ丸っこい手も、生ぬるくって気持ち悪い。

 前にここに来たときは、顔も見せなかったくせに。
 教会の宿房は改修中だと、宿屋の紹介状をモルに押し付けたあとは、知らんぷりだった。出航の時も、教会関係者はだれも見送りに来なかった。船代も出してくれなくて、クインポートの教会に、いわば着払いしてもらうはめになった。

 引退間際の男のシットってヤツかな。手柄たてる幸運にめぐまれた若い天才司祭への。
 だけど吸血鬼の始祖を倒せば大手柄。ねたましくてもムシは出来ないよね。あの、インケン野郎の威光をカサに着るのはヤだけど、路銀くれるまではガマン。

「メンター副司教長の愛弟子でいらしたとは」
 なんだ、そっちか。
 冷たい仕打ちは、副司教長派とモル派のハバツ争いか。ったく、いい大人が下らない理由で大マジメにイジワルするなんて。アホというかバカというか、オロカ者?

「シンプディー家を通じて、早く無事をお知らせしなくては」
 メンター先生の生家……腹違いの兄ちゃんがキングポートで支店やってたっけ。教会に多額の寄付してる大商人の機嫌を取りたかったわけだ。ということは師匠のツテで金借りるって手もあったか。

「あの、モル司祭と……ラットル司祭は?」
「ああ、モルなら先を急ぐといって、船でついたその日に馬車で立った。ラットルのヤツは、三人の哀れな犠牲者の付き添いでここへ来た次の日、やはり馬車で行きおった。
まったく、討伐隊の帰還は自分たちで最後だなんて、イイ加減な事をホザきおって」

 ラットルはあたしのこと何も話さなかったんだ。ブンなぐったのが効いたかな。

「あたしも追います。駅馬車か、隊商でもいいや。紹介状ください。旅費も」あ、いま面倒くさそうな顔した「ホーリーテンプルに戻ったら、教長さんのお心遣いとご親切は、メンター先生にくわしく報告しますから」
 広くて重そうな机に便せん出して、むすっと羽ペンを走らせる教長を、笑顔で監視する。

 首にかけたカギを使って、豚を浮き彫りした金箱から出してよこしたのは皮の小袋ひとつ。中身は全部金貨だった。これなら宿泊費込みでウォータまで行けるかな。

 受取りに署名してたら、ついでだとメンター先生への手紙を書かされた。結局、金貨を内ポケットに入れることが出来たのは、『教長さんに大変お世話になりました』と書いて検閲うけた後だった。

「ところで、城跡の掃除はすんだんですか」
 手紙を読み返してにやけてた教長が、わざとらしくため息をつく。
「今までの罪を悔い、街の者や旅の者に迷惑をかけぬよう説得をしておるのだが、なかなか」
「つまり、何にもしてないんだ」
「うちには騎士や拳士が常におるわけではないからの」

 やっぱあいつら野放しか。教会に集まる金をうまく使えば一掃できるのに。テンプルの善意と正義なんて、しょせん人形劇の中だけだ。

「お邪魔しました」
 これ以上詳しく聞けそうにないし、もらう物ももらった。そろそろお腹も減ってきた。教官用のパンを分けてもらったら、連れを探しにいこう。
 適当に宿をあたって、一番いい部屋で昼間から寝込んでるヤツがいないか聞けばすぐ分かるよね。偽名はリチャードのままかな。

 ニオイで探し当てた食堂入り口で、マジメそうな見習い司祭に話しかけられた。
「さっき人形劇みてくれてましたよね。黒いフードの人と一緒に」
 三人分のパンと野菜煮込みのツボを左脇のカゴに入れてる。パシリくんか。

「ミサゴ亭で待ってるそうです」
 リチギに伝言……昼間の寝所をバラすなんて、バカか?
 あたしが尋ねまわる方が危険と思ったのかな。
 とりあえず、お礼を言ってパンをもらいに行こうとしたら、袖をつかまれた。

「東大陸のナマリ、ですよね。あの人もあなたも」
「それが、ナニ?」
「東大陸の人は、なんでヴァンパイアと戦おうとしないんですか?」
 真っ直ぐな質問。さすがは人形劇担当サンだ。

「自分たちのことなのに、モル司祭様に任せっぱなしじゃないですか。僕、アレフの犠牲になった討伐隊の人の世話してるんです。最近、呪縛がヒドくなってきてます。魔物が力を増してきてるんです。早くなんとかしないと、みんな餌食になるのに」
 それ、単に呪縛のモトが近づいたからだわ。

 けど……
 あたしはなんで、あの時ホーリーシンボルを中止したんだろう。
 今もだ。
 滅ぼす気なら、こいつが面倒みてる三人を証しに、告げ口すればいい。

 高い天井を支える黒いハリや、奥の壁に描かれた七聖の漆喰画に目を向けて考えた。
 金目当て、力目当て、仮の不死が便利だから。理由は色々あるけど……。

 分かった。
 得にならないからだ。
 お金がかかるし、面倒くさいし、ケガしたくないからだ。

 みんな他人事だと思ってるから本気で戦わない。報復が怖いから、何もしない。
 正義だとか、あるかどうか分からない将来の危機より、今日の生活や自分とまわりの安全が大事だから。

「キングポートの人はどうして城跡をほっとくの?」
 問い返してやったら、口ごもって答えないでやんの。
「みんなに累がおよばないよう、東大陸から来たあたし達がなんとかしたげよっか?」

 あいつらは奪った荷をどうやって換金してるんだ?
 この街に、連中を利用してるヤツがいるんじゃないかな。
 テンプルを敵に回すことになる仇討ちに、アレフを巻き込んだあたしみたいに。

「城跡に行く気ですか、無茶です」
「……冗談よ。気にしないで」

 けど、やってみてもいいかもしれない。
 あの二人が本当に使い物になるかどうか、わかるから。



 嫌な視線を感じる。あかがね色の布に金貨の山を染め抜いた両替商へ入った時からだ。
 フトコロの重い皮袋と腰の剣を意識しながら、ドルクは素早く振り向いた。目に映ったのは、森の木よりも密集したうごめく人の集まり。全員が怪しく、そして無害にも見える。視線のヌシがどの顔か特定できない。

 まっすぐ宿には戻れない。なるべく大通りを歩いて、間口と窓の大きい店に入り、相手を特定する。そして出来ればやり過ごす。気を配りながら、適当な店を探していた時、軒先から下がるハーブの束をくぐって、薬屋から出てきた見習い聖女と目があった。

「あのヤブ治療士、銀貨五十枚じゃどうヤリクリしても半月しかやってけないっての」
 薄焼きパンに紫や赤のジャムを盛り上げ、口に放り込み、香茶で飲み込む。その作業の合い間に、グチとも悪口ともとれる様々な話題がサンゴ色の口唇から飛び出す。こちらの言いたい事はあいづちに混ぜるしかない。
 この娘と共に食卓を囲むようになってから、ずっとこの調子だ。

「あ、消えたね。ロコツなのは」
「……他にも居ますかね?」
 香茶に発酵バターをひとさじ投げ込みながらティアがうなづく。
「テンプルの法服みても諦めないなんて、いい度胸よね」
 見習いの小娘でも、法服の背景には巨大な富と組織と権威がある。それを物ともしない引ったくりというのは、異様だ。

「やっぱ、裏で繋がってんのかも」
 中央大陸で表向き秩序を司るのは教会とテンプルの戦士。実際は有力者や商人たちが雇う私兵や用心棒が抑えている。それらが強盗や人さらいと結託しているとなると、キングポートの裏に広がる混沌と闇は根深い。

「儀礼的なショートソードだけってのがマズいんじゃない? 東大陸じゃ過度の武装はご法度だけど、ここは何でもアリよ。一人か二人で刃こぼれしたり脂で鈍るお上品な得物以外に、なんか心得ないの?」

 ティアの視線の先には、錆びた大剣を看板代わりに立てた、薄暗い武器店があった。
「弓とオノならば少々」
「じゃ、いってらっしゃい」

 満足のいく弓はなかったが、革の鞘《さや》に収まった大ぶりな手オノを買って腰に吊った。エラの張った店主の勧めで鉢金と、服の下に着込める鎖の胴衣も買う。ティアの言葉を信じるなら、敵は複数。乱戦となるなら守りも固めておいたほうがいい。

 衛士としての不死は、負傷した直後の能力低下までは補ってくれない。治癒で主の力を消耗させ、共倒れになっては何のための守護か。

 戻ると、軽いお茶と、尾行者を諦めさせる目的で立ち寄った露店のテーブルに、川魚の揚げ物と玉子ソースの麺が並び、早めの夕食の態となっていた。

「キングポートの名物なんだって。旬のアカスジ魚の揚げ物」
 ティアは幸せそうな顔で、薄紅色の魚肉のかたまりを口に押し込んでいる。
「本当の旬は三ヶ月先ですがね」
「“リック”はまだ伏せってんの?
可哀想だよね。旅の楽しみなんて景色半分、残りは土地それぞれの料理なのに」
「この街では、食事をする気になれないと」
「船ではけっこう食い散らかしてたじゃない。昨日はすんごいビビってたけど、そのせい?」

 船のほぼ全員が食堂周辺に集まり注視する中、上甲板に昇った二人のうち、一人がどうにかなれば疑惑は確信になる。脱出しようにも未熟な風の精霊は、主を岸へ運ぶどころか水中に落としてしまったろう。

 主が抱く恐れは、今まで個人……ティアの浄化呪や妄執そして暴力に対してだった。普通の人間の集団に対して、深刻な恐怖を覚えたのは昨夜が初めてのはず。悪い傾向ではないが、いささか臆病すぎる気もする。

「フトコロの大金でこれから馬車借りて携帯食料とか買うつもり? 紹介状あるから、駅馬車とか隊商に無条件で混ぜてもらえるよ。夕方の便で北の町まで行っちゃう?」
 敵討ちを望むティアとしては、一刻も早くモルを追いたいのだろう。
「申し訳ありませんが、リック様がドライリバー城をご覧になりたいと。それに今度の旅には馬車を操れる者を同行させたいので、これから紹介所に」

 ティアが笑みを浮かべるのはナゼだろう。
「あそこって、出るのよねぇ」
「幽霊でございますか」
「もっとおっかないモノ。二人前の食事でたるんだお腹が、ギュっと引き締まるような」
 それも、どこか引きつった、痛そうな笑みを。

「身寄りの無い使用人は探さなくていいよ。人間が周りにたくさんいると食欲なくなっちゃう神経の細い怖がりさんでも、遠慮なく楽しめる名物が城跡にはびこってるから」



「たとえ半日のご利用でも、お昼寝しかなさってなくとも、一日分の料金をいただくことになりますが、よろしゅうございますか?」
 アレフの前に差し出された明細には、宿泊費とほぼ同額のワイン代が記載されていた。船便代、間に入った取次業者、宿の正当な取り分だけでは、出荷価格の二十倍という値段の説明はつかない。

「あの程度の酒に、黄金が積まれるか」
 味は分からないが香りの変質は感じた。揉めるのも面倒なので、額面どおりの金貨は積んだが、皮肉で口元が歪む。

「あちらから来た方には不思議でしょうが、東大陸のものは何でも高値がつくのですよ。古い闇が残る禁断の地。風雅と退廃への憧れ。そんな形の無い値打ちが上乗せされます。
 お客様も、花街に繰り出せは妓女がほっておきますまい。その言葉と髪ならば」
 世辞と聞き流すには何か引っかかるが、亭主が素性に気づいている気配は無い。

 衣類や日用品をつめた鞄を手に、亭主らに見送られて宿を出た。
 日は西に傾き、街は長い影で彩られている。家路を急ぐ人々を、身をはすにして避けながら、賑やかな大通りを抜けた。柳の揺れる河岸をたどると程なく、馬車溜まりに行き着いた。湿気のせいか馬糞の臭いが故郷より強い。

 長い街道の始発点には、装備が不ぞろいな数騎の護衛が水場まわりでたむろしていた。高い柵と門に守られた広場には十数台の荷馬車や乗合馬車が並んでいる。その最後尾、二頭立ての乗合馬車の前に、新たな荷物を背負ったドルクと、スタッフと髪を陽に輝かせて待つティアが立っていた。

 御者の手で、屋根に鞄が上げられ固定されるのを確認した後、乗合馬車のステップに足をかけようとして、見えない障壁を感じた。馬車の四スミに刻まれた赤い精霊の紋。指で耐火の簡便な方陣をなぞった時、教会の鐘が十二回ひびいた。

 出発の時間だと御者台から急かされ、三人掛けの席に身を落ち着ける。横にはドルクが座り、前にはくすんだ青いドレスを席の半ばまで広げた婦人とティアが掛けていた。扉を閉めようとしたした時
「待ってくれいっ」
駆けてきた勢いのまま跳び込んできた行商人風の男に、窓際を奪われた。詰め物の薄い席に尻骨がぶつかる音が響く。顔をゆがめ呻きながら扉を閉めた男の大きなため息に、ムチの音が重なり、馬車が動き出した。揺れるたびに、男が床に置いた鞄がヒザに触る。

 汗を手布でぬぐいながら何度も謝る男に、儀礼的に笑顔でうなづいているうち、言葉は脈絡なく続いていった。川に沿って大きく曲がった道の景色や、今年の麦の出来。
 赤い夕日が射し込む車内で話しているのは、行商人風の男ひとりだった。

「にいさん、海を渡って来なさったね」
 不意に何か探るような目で見つめられた。さっきまでと同じように、あいまいにうなづきながら、愛想の奥に秘められた、油断のならないものを感じた。
 不自然な態度にならぬよう控えていた読心の手を、触れている右肩から心の表層に伸ばす。

「氷の海に住む獣の毛皮や、ナニを乾燥させた精力剤を、若い頃に商ってましてね。花模様の海獣の皮をしょって山越えて市まできてたオバさんが、にいさんみたいな薄い髪の色してました。そうそう、猟師してるダンナも子供も同じ髪。村のモンはみな銀髪なんだとか」
 言葉と心に浮かべた光景が違う。
 海獣の皮を男が見たのは、入れあげた銀髪の女のエリ飾りとしてだ。口にしているのは、その女から寝物語に聞いた故郷の話。

「その村のもんは、濃い髪色のよそ者と結婚しても銀髪の子ばっかり成すとかで。嫁いだ女はいいが、村の外へ婿にいった男は浮気ができんと笑うてました。にいさんも浮気のできんタチですなぁ」
「私は……銀の髪の子が生まれるとは」
 優勢の因子がどうのという前に、子をなす事はおろか共寝も出来ない身に言われても返答に困る。

「にいさんは猟師さんには見えませんな。もしかして氷の海のモノをお商いで?
やっぱり、商売でひと財産なしたオオダナの跡取りさんでしょう。私も、もう少しあっちでガマンしてたら、ひと財産くらいは……若気の至りいうやつで、広い中央大陸の方が夢を叶えられそうな気がしましてね。有り金はたいて船に乗ったんですな」

 男はしゃべりながら売掛帳とりだし、隠すようにつけ始めた。書いているのは金額には違いないが……人の値段だ。同乗者を値踏みし算定し終えた男がうなづき、白い手布を口に当てる。

「失礼して……」
 窓から首を出し、ハナをかむふりをしながら、馬車から紙片と手布を飛ばした。
「ああ、買ったばかりの……ま、いいか」
 白々しく、残念そうに首をふる。

 男の内と外の差に戸惑い、紙に書き付けた金額の意味を考え……とんでもない結論に達した。
 この馬車は間もなく襲撃される。
 乗客の身柄と引き換えに、金をせしめようとする一団に。
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3.襲撃

「ところでにいさん、どこまで? そっちの聖女さんに連れられて、ホーリーテンプルで司祭になる修行されるんですかね。学問が多少できなくても、寄付金が多ければ楽に通るらしいですなぁ、選抜試験というやつは」
 この行商人を装った男と仲間の狙いは、私の持つ金か。

 ドルクに心話で伝え、男の手首をつかもうとした瞬間
(今はおやめください。最初からわかっておりましたから)
 従者の静かな返答に驚いた。ティアに視線を向けると、軽蔑したような表情の中で目だけが真剣に光っていた。

(そいつにナイフ突き立てられたくなかったら、あたしの質問に「いいえ」って答えんのよ! でも、言ったことの“実行”はすぐにしてね)
 心話の意味を問い返す前に、ティアの言葉が始まった。
「そのバカ、ほんとデキが悪くてさぁ、初歩の術も全然覚えられないの。あたしが何度やってみせてもダメ。昨日教えた耐火の術、せめて呪の暗記ぐらいはしたんでしょうね?」

「いいえ」
 言われたとおりに答えながら、ティアのため息に顔を伏せた。
「こうよ」
 ティアが印を結び耐火の呪を唱え始める。だが、実際に力は発生していない。
 咳払いに促されて、馬車の四隅に施されていた耐火の紋を術の基点に、馬車全体を包む障壁を呪なしで作り上げる。
(馬も包む!)
 注意されて、急いで障壁の範囲を広げた。

「ねえさんは術の方が得意なんですか」
「これぐらいならね。でもあたしはまだ見習いだから、簡単な術しか使えない。けど、癒しの手ぐらいは……オジさんはどっか悪いところない? 次の駅で診たげるよ。治せる病気は少ないから、格安で」
 男が愛想笑いを浮かべ、首を振る。

 やがて、背後から複数の馬蹄の響きが迫ってきた。ななめ前方のなだらかな丘にも複数の騎影が夕日の中に姿を晒す。先頭をいく六頭立ての駅馬車が速度を上げる気配があった。四頭立ての荷馬車のうち、荷の軽いものが後に続くが、荷の重い馬車や、この乗合馬車の様に馬の頭数が少ない、思うように速度を上げられない後部の数台が遅れ始める。

「なんで、数日前に襲われたばかりだから、今回は大丈夫のはずなのに」
 くすんだ青いドレスの女が、車窓から身を隠すように頭を抱える。では、街道で馬車が襲撃されるのは日常の出来事なのか。この地域を任された代理人はなぜ連中をほっておく。城の衛士を呼べない理由でも……そうか
 『庇護者を失った』とは、こういう意味か。

 ここでは、個々の力と運が全て。法の保護など無い、自由の大地。

 前を行く馬車群と、遅れだした後方の一団の間に、火の術が炸裂する気配があった。あたりが輝き、遅れて音が襲う。熱さは耐火の呪で防げたが、馬は棹立ち、二台の馬車が衝突し、今乗っている馬車も急停止した。

 駅には護衛が数人いたはずだが、彼らは前方の荷主か客に雇われた者達だったようだ。後備に就く者は見当たらなかった。助けに戻って来る様子も無い。

 不意に横の男に羽交い絞めにされた。首筋に刃物の感覚がある。
「聖女さん、呪を唱えるのはしばらく遠慮してもらうよ。外にいる仲間には、さっきも見たの通り、術に詳しいやつがいる。使ったらすぐ分かるんだからな。あんたが護衛してるこの坊ちゃんが、どうなるか分かんないよ」

(そいつらの仲間の術者は、たぶん司祭崩れ……分かるといってもテンプルの術だけ。大掛かりな術式でなければ、あんたの魔法は気づかれない。あいつら、殺れるよね?)
 ティアの物騒な心話で、かたまっていた思考が戻る。刺されれば痛いが、それで死ぬほどヤワな身ではない。落ち着いて考えれば、たいした危機とはいえない。
 だからこそ、術で人を殺せといわれても
(出来ない)

「あんた、通じてたの?」
 すすり泣きの合い間に、くすんだ青いドレスの女がにらむ。
「悪いなぁ、コイツと一緒の便でなければ、アネさんは無事の道中だったのに。諦めて、その青玉の指輪よこしな。それでカンベンしてやる。あんた馬車代を値切ってたし身代金とれる身寄りもなさそうだ。連れてっても人買いに値切られて赤字だ」

 指輪を置いて女が馬車を降り、泣きながら来た街道を駆け戻っていく。止まった馬車を囲む一団は女に下卑た野次を飛ばしたが、そのまま見送った。女が下着に隠した全財産を、幸い男は気づかなかったらしい。

「そっちの危ないオノをもった兄さんは、得物を外に放り出してから、馬車を降りてくれるかい。その次は聖女さんだ。へんなマネはするなよ」
 見慣れない大きなオノをベルトから外し、左手で車窓の外へ投げ落としたドルクが馬車を降りていく。

(全員の位置は特定できてるんでしょ。殺ってよ!)
 席を立ったティアがにらむ。
(金を払えば無事に解放してくれる。ならば抵抗しない方がいい。彼らはリチャード・ウェルトン名義で預けた金貨しか狙ってない。ほぼ同額の金が別の名義で幾つか預金してある。数日の遅れが出るだけで、旅に支障は無い)

「そら、聖女さん急いで」
 ため息をついたティアが荒々しく馬車を降りる。

(ですが、アレフ様……その男の眼に黄玉の指輪は映っておりますよ。希少な賢者の石とは分からなくとも、お宝には見えましょう)
 ドルクからの心話に、慄然とした。

 赤い円盤となって地平に向かってはいるが……まだ、太陽は沈んでいない。

「にいさん、足元のカバンをゆっくり開けてくれるかい。それでポケットの中身をひとつひとつ出して全部カバンの中に入れる。外のお仲間と無事に再会したかったら、正直にな」
 男の指示通り留め金を外すと、バネ仕掛けでカバンは四角く開いた。中には商売道具とは思えぬ酒ビン一つ。手に入れた金品を値踏みして山分けする際、一杯ひっかける習慣らしい。

 ポケットを右手でさぐろうとすると、左の指先でつまんで出せと耳元で怒鳴られた。では、お言葉に甘えて不器用にモタついて、時間稼ぎをさせてもらおう。

 最初に、金袋をカバンに落とした。ビンにぶつかり滑り落ちる重い金属音に息を荒くした男は、金の一部を仲間から隠し切る方法がないか考え始めた。ベルトの物入れから出した水晶玉に多少警戒したものの、何か出し控えた物がないか、確かめる事も忘れている。

「外せるうちに、その指輪も入れといてくれ」
「手のスジを切ったら指が伸びなくなるからか」
「にいさん、察しがいいねぇ。手も組めなくなるから司祭様になるのは諦めて、マジメに家業を手伝うんだね。オレは優しいから、左手だけにしといてやるよ。しばらくは痛くて転げまわるかも知れんが、すぐに片手が使えない生活にもなれるさ」
 金を払えば無事に解放……とは、いかないらしい。

「それに金持ちなら腕のいい治療師を呼べるだろ。丸まった肉を引っぱって縫って、もう一度手を動くように出来るような名人をさ」
 スジを切っても、骨を一本折るだけでも、人は痛みで動けなくなる。馬を止めるために彼らが火球を使ったように、ヤケドを負った生き物も満足に動けなくなる。殺さなくても動けなくする方法はある……生き物ならば。

 外から感嘆の声が上がった。
「おっかねぇ聖女サマだな。隠しナイフかよ。その脚と腕につけた得物も外すんだ。いきなりチョッカイかけなくて良かったぜ」
 カシラと思しきダミ声だった。ナイフを突きつけている男の心に、ティアの半裸がよぎる。妄想にすぎないが、おそらく外で彼女は下着姿をさらしている。

「女性をはずかしめる気か?」
「安心しなよ、俺らは若い女にしか興味ないから。にいさんがいくらキレイでも剥いたりしない」
 ティアなら素裸でも、不用意に近づいた相手を殺しかねない。為合《しあ》い時に使っていた技を生身の人間が受けたらひとたまりも無い。いや、その前に、彼女が受けるはずかしめは……

 ティアの心に接触をはかる。
 いつものように拒絶されない。だが、なんだ、この妙に高揚した感情は。

(攻撃呪は使えないと思われてるから、喉は潰されないと思う。殴られたり締められたぐらいなら、すぐ回復できるよね、指輪外さない限りはさ。一通り相手して、こいつらが油断したあたりで殺る予定だけど……今度は邪魔しないよね)

 昂ぶった心話の背景には男性のような攻撃欲と結びついた衝動。憎悪と復讐の感情に透けて見える地獄のような日々。過去の体験と取り囲む男たちを重ね、彼らの死の瞬間を妄想しながら満面の笑みを浮かべるティアの内面に引きずり込まれそうになり、慌てて心話を絶った。

 ティアは約三年前、若い女の身でホーリーテンプルまでたどり着いた。この中央大陸を旅して。最初は男装するなどといった知恵も働かず、戦う力もなく、守る者もないまま。それがどんな旅だったか……

「にいさん、そんなに震えんでも、命までは取らんから」
 男ののんきさに失笑しそうになった。この男は幸いだ。ティアが身に飼っている闇と、憎悪に裏打ちされた凶暴な意思に比べれば、世間知らずの魔物が抱える飢えなど高が知れている。

「命まで取るわけにはいかないか、いくら悪人でも」
 ティアと戦った時、初めて食らったのは確かヒジ。そして決め技の前にカカト。
 アバラと足の甲なら、命に別状はない。

「あなたをソデにしたイルマさんから聞きませんでしたか。薄い髪色をした者は村を出ても正業につけず、夜に生きるしかない。その昔、年頃になっても髪の色が薄いままの者は、魔に魅入られ闇に飲まれるさだめを負っていた。そんな不吉な昔話のせいで」

「にいさん、いまは昔話なんか……なんでイルマの事を」
 男が動揺した瞬間、右足を素早く振り下ろす。ブーツの下で、骨が砕ける嫌な感触がした。手が弛んだ直後、左ヒジをわき腹に叩きつけ、そのまま身をひるがえして男に向き合う。叫びかけた口を押さえ、左手でナイフを持つ腕を掴んで握り締めた。

 男の手からこぼれたナイフが座席に突き立つのと同時に、完全に太陽が地平に沈んだ。
「やっと私の時間だ」

 目を狙ってきた左の人差し指と中指をつかんで折り、男を座席に押さえ込む。脂汗が吹き出す顔を覗き込んでから、喉に口付けた。

「おい、どうした。シクじったか」
 熱さと甘さに陶然となりかけた瞬間、現実へ引き戻された。馬車のステップに足をかけて覗き込んでいる邪魔者をにらみつける。こわばった顔で他人の食事を無遠慮に見物しているホクロの目立つ男を視線で縛りながら、味わいかけた甘露をしぶしぶあきらめた。

 他の者が集まってこないうちに、取り込んだ血をよすがに強引にしもべに仕立て上げる。両手と足の痛覚を奪い高揚感を植え付け、意識を支配下に置いた。
「このにいさんが逆らうんで、左手の指を2本ばかりね」
 それでいい。相手は十四人。もう少し時間が欲しい。

 目に映っている事実を受け入れられないホクロの男には、しばし楽しい夢でも見ていてもらおう。襲撃は成功。仲間に負傷者はいない。少し痛い目をみれば素直に手形に署名する、扱いやすい裕福な人質も確保したと。
「大事な金ヅルだ。殺すなよ」
 ホクロの男は馬車から離れ、案じている仲間に笑顔を向けた。

「気はうしなったが生きてるよ」
 叫び返したあと、役に立てたかと問う視線に悦びで返す。ルナリングを外し、名演を終えたしもべの左手薬指にはめてやった。
(よく出来ました。この指輪、欲しがっていたね。しばらく預かっておいてもらおう)
 恒常的な魔力の消費がなくなり、久しぶりに解放された気分になる。

(しばらく耳目を集めておけますか?)
 術式の核となる見えない使い魔を賊の数だけ組み上げながら、慎重にティアに問う。
(ソレ、さっきからやってんだけど……脱ぐもんあと三枚しかないよ)
 手にした肌着を賊のカシラに向かって高く放り投げながら笑顔でいるのは幻惑のためか。

「なんだ……こりゃ紹介状か。
わざわざ下着に隠さんでも、こいつを見せりゃ駅馬車に乗れただろうに。物好きな聖女さまだな」
 紙片に全員の関心が集まった瞬間、しもべの記憶を元に賊を特定して、翼を持つ透明な使い魔を飛ばした。

 後頭部にしがみつかせた核を基点に、幻痛か眠りをと考えていたが、やめた。あの手の行為を常習としている者たちこそ、さっきの恐怖を味わうべきだろう。
 床のカバンから取り返した術具を使い、術式を完成させる。
 だが……無抵抗な人間をティアが虐殺するのは見たくない。

(今から彼らを動けなくしますが、絶対に殺さないと約束してください)
(何よそれ。連中があたしや他の娘に何を……ケガしたり殺された人がいるの、分かってるよね?)
(お願いします。殺さないと約束してください)
 残った最後の衣類に手をかけたティアの心の中に、さまざまな思いを飲み込んだ果ての返事を読み取った。

 改めて呪に意識を集中して、発動させた。
 彼らの所業が産んだ闇を複製して送りつけた直後、悲鳴の合唱があたりに響いた。誤って巻き込んだ者がいないのを確認してから、彼らの手足の神経束に圧迫を加える。数日間、ヒジとヒザで這うことになるが、今は過酷な季節ではないし、川も近い。死ぬ事はないだろう。

「ご無事ですか?」
 馬車の扉をあけたドルクの向こうに、夕空を背に、脱ぎ捨てた衣類のホコリを払い、落ち着いて身につけているティアがいた。出てみると、転がっている賊を見つめている他の馬車の乗客や御者たちは、ヒザを抱いて固まっている。手当てを受けられないまま引きずり下ろされた御者のヤケドはかなりひどい。

 助からない馬を二頭処分し、回復呪をかけた負傷者を荷馬車に寝かせる。生き残った馬と勤めを果たせる御者、そして乗客たちを、使える馬車に振り分ける。街へ戻れるよう手はずを整えているうちに、完全に日が暮れた。馬車のランタンだけを頼りに戻る彼らに、青いドレスの女の手荷物を託した。

 残ったのは乗ってきた乗合馬車と、中で愛想笑いを浮かべているしもべ。そして荷の一部であった布地を割いた仮の戒めで、ひとまとめにされた賊ども。

 ティアが連中を縛り上げる際、何かが折れる音や、柔らかいモノをしつこく蹴る音がしたが、つとめて聞こえないふりをした。楽しそうな笑い声の合い間に聞こえる、男性としての誇りを踏みにじる罵倒にも耳をふさいだ。殺さないという約束を守ってくれているだけでも、よしとしなければ。

 だが、
「ドライリバー城、見たいんでしょ」
 そう呼びかけられては振り向くしかない。

「ここにさらわれた人。でもって娯楽の部屋。井戸に台所、見張り台、カシラの部屋に手下の寝場所。馬屋に干草置き場に倉庫。
 飯炊き女や賊のイイ人気取りバカ女も含めて、留守居は約三十人だったかな、前は」
 ランタンの光の下で地面に描かれた地図とはいえ施設が少なすぎる。賊のねぐらは、広大なドライリバー城のはずだ。

「思い出はアテになんないわよ。この見取り図と馬車の中の男から読み取ったモノが真実。それと、闇討ちならあんた程度の腕でも勝てると思うけど、大勢をさばくのはまだ無理よね。なら勝負は月が出るまで」

 愉快そうな笑みがティアの顔に浮かんだ。
「賭け、しようか。
月が出る前にあんた一人で全員たおせたら、砦の連中の命も取らない。だけど、倒しきれなかったら……あたし殺っちゃうから」

 ならば、あまり時間は無い。
「近くまで馬車で。ようすを見に来た者を止めたら、城に向かいます」

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4.その4人

「ヴァンパイア、吸血鬼……つかみどころのない悪霊だとか、夢物語の妖魔ってわけじゃない。要は禁呪がかかった死体だろ。生前の記憶を持つ生けるシカバネ」
 少し酔っているらしい。ハジムは拳術の組み手を街路樹相手にひとしきり演じた。しなる黒い腕が描く力強い曲線。パーティーで巻き毛の婦人が披露した東大陸風のステップより、ハジムの伸びやかな蹴りは美しく見えた。

「それは本質ではないと思う。私は奴等を個と思っていない。心を共有する人の集合体が真の相だ。血の絆による意思の即時伝達。しもべや下位の不死人の忠節。全ては大勢の人の精神力を集めて、個人では行使不可能な大規模な術式を実現するためのシカケ。魔力強化を求めてたどり着いた答えの一つだと思う」

 贅沢な食事を制限されている教長の代理として、丘の屋敷のひとつに招かれたルーシャたちだが、今夜は社交界の主役になれなかった。人垣の中心にいたのは、今朝方の船で闇の支配する地から脱してきた若夫婦。特に、不釣合いな真紅のチョーカーをつけた清楚な巻き毛の婦人が、視線と関心を独占していた。

 その魅力にルーシャの自制心も敗北した。吹き出物を隠すためという、散文的な理由を聞いても、海水で布を絞って体を拭くだけという船上生活の不潔さが治りを悪くしたと婦人が笑っても、背徳の秘密を隠しているのではないかと、目が首に巻かれた赤い色を追ってしまう。

 というわけで、アニーが得意とする美容や健康に関する聖女としての知識も、真っ白なサーコートを羽織ったオットーが語る武勇伝もお呼びでなかった。
 だから、式典用の黒い法服に火ノシで折り目をつけながら練った話を、ルーシャは帰り道の……聞くものといえば同い歳の拳士しかいない教会に続く坂で披露している。

 それに、こんな堅い話、誰も聞きたがらない。列席者はヴァンパイアの本質だの真実に関心はない。紳士たちの話題は闇が支配する地との貿易でいくら儲けたという自慢ばかり。淑女たちが論じるのは、かの地に移転した工房が今年作り上げた工芸品やドレスが、数年後にキニルでも流行るか否かのみ。

 キングポートの富豪達は、人外の太守が長らえる事を願っている。海の向こうの同胞が夜ごと餌食になることより、持ち船が運ぶ富のほうが大事なのだ。そんな身勝手な連中と一緒に酒は飲めない。そう耳打ちして消えたオットーやアニーと一緒に退席しなかったことを、ルーシャは少し後悔していた。

 商店の紋や絵を染めた布張りのランタンが、まだ点々と消え残る罪の街。
 温情による啓蒙をうったえるメンター副司教長派より、闇は全て討ち滅ぼすべきだと叫ぶモル司祭が、若い見習い連中から絶大な支持を受けているのも道理だ。わかりやすいし気持ちいい。
 ため息交じりに首をふると、夕がた切りそろえた黒髪が、額と耳を刺した。


「ああ、ルスラン司祭。いいところへ帰ってきた」
 パーティーの首尾を報告する前に、釈然としない気分に拍車をかける教長に駆け寄られたルーシャは、甘い食後酒が胸まで上がってくるのを感じた。

「街道をゆく馬車隊をまた賊がおそって」
「では、今度こそ本腰を入れて討伐を」
 教長が首を振ると、パンと水の食事を一ヶ月続けても減らないあご肉も揺れる。

「最後尾の馬車に乗っていた見習い聖女が、その、法服を脱いで賊の油断を誘って、なにやら術を使って捕縛したらしいのだが……
問題は、あの娘が副司教長様の直弟子で、いぜん賊どもに辛い目に遭わされたようで、無抵抗な相手にも凄まじい虐待を……そうだ、昼に城跡の掃除をしに行くと」

 つまり、ひとりで賊に仕返しに行った小娘を連れ戻せという事か。
「教長ご自慢の馬を、お借りしたいのですが」
 少し黙ったあと、こくこくと頷きかたわらにいた代理教官に手配させている教長に一礼して宿房に戻った。黒い法服を衣装箱に投げ込み、灰色の法服に着替える。

「酒場でおもしろいウワサ聞いたのよぉ」
 飲みなおしてきたらしいアニーとオットーは、使い物になりそうにない。
「吸血鬼に全滅させられた船の話ぃ。それが傑作なの。ウワサの出どこを確かめたら、砂浜に乗り上げたはずの船の水夫なのよぉ。あんた死んだんじゃないのって聞いたらさぁ」
 寝台の上で大笑いしながら転げているアニーと、最近広くなってきた額をおさえて呻く、飲みすぎのオットーは放っておいて、馬屋に向かった。

 大柄な芦毛と黒鹿毛に、馬丁の手でクラとクツワがつけられた。
 馬を信じて、星明りにうっすら浮かび上がる暗い街道をハジムと共に疾走する。

 しばらくして闇の中にうごめくカタマリをみつけた。血の臭いと異様な声に馬が怯える。松明を灯してみると、アザとキズだらけの男達が縛られ、座り込んでいた。自業自得とはいえ、ひどい有様だ。

 朝になったら商会の私兵を呼んで引き渡すとして、彼らをこんな目に遭わせた聖女見習いを追わねばならない。だが、城跡に向かう道は草に飲まれて星明りでは分からない。傷が浅そうな男の戒めを一度解き、後ろ手に縛りなおしてからハジムが駆る灰色の馬の背に乗せ、軽く回復呪をかけた。

 道案内すれば処分を軽くするよう口ぞえしてやる。笑顔でそう説得するハジムを振り返った男の顔は、奇妙に歪んでいた。
「オレを守ってくれよなぁ。あの化け物から」
 どんな目に遭ったのか知らないが、婚姻年齢に届いたばかりの娘に対して、化け物よばわりはひどいだろう。
 
「あの化け物、ウートを手下にして連れてっちまった。ゆび折られてんのに、足が二倍にふくれてんのに、ウートのヤツうれしそうに笑ってやがんだ。
あいつは城跡に住んでるオレ達が気に入らねえんだ。ねぐらを乗っ取って、生け捕りにしたオレ達の血をたっぷり吸って、力をつけたらキングポートを奪い返す気なんだ。頼むよ、オレを守ってくれよ」

 しつこくハジムを振り返る男の頬には、目立つホクロがあった。
 もうすぐ月の出だ。月が昇ったら地平に丘が見えるはず。かつてこのあたりを治めていたヴァンパイアが住んでいた城跡の丘が。



 丘の登り口に、アレフは馬車を停めさせた。
 ランタンを目標に様子見がてら脅しをかけにきた六人を、あらかじめ仕掛けておいた冷気の術で止める。手足の指に負った凍傷で、しばらくは歩いたり武器を振る事はできない。

 少し離れた見張り台から狙っていた射手は、不意に消えたランタンと派生した霧で的を見失ったはず。そう計算して尖った棒杭の柵を跳び越えた直後、ほほを矢がかすめた。見張り台からぴたりと頭を狙っている矢じりから逃れようと、アレフは手近な石の影に飛び込んだ。

 仕方なく火炎を飛ばして見張り台を焼き追い落としたが、全員を術で倒す力は無い。元行商人だったしもべからもう少しすすっておけば十分に力をふるえたかも知れないが、賊を全員制圧するまではお預けだと、ティアが馬車に閉じ込めてしまった。

 あの瞬間でなければティアの譲歩は引き出せなかった。
 とはいえ、彼女が身体を張っている時、血に気を取られて術の準備が遅れたのも紛れもない事実。

 月が出るまでに、ここを根城にする賊をひとりで無力化する。一方的に条件を決められて始まった理不尽な今の状況はもちろん、酷くなりつつある渇きも、危ない思いをさせた事への仕返しに違いない。

 物陰をぬい火災の物音にまぎれて、ヤケドに布を巻いている射手の背後にまわった。足を蹴り折り、矢筒の中身も奪って折る。苦鳴と罵りに追い立てられるように離れた。
 消火と侵入者の排除に出てきた一団を、巨石の影に身を沈めてやり過ごす。

 群れからはぐれた者を一人ずつ。
 忠告を守って、水を満たしたオケを両手にもたつく男を、半分に割られた女性像の影に引きこむ。喉をつぶし足を圧迫して動きを封じた。嫌な感触が残る手を握り締めながら、倒し易そうな相手を物色する。

「頭の白いやつだ」
 粗い息の合い間に叫ぶ射手のおかげで、闇に紛れ込めなかった理由に気づいた。マントについたフードを深くかぶり目立つ髪をたくし込む。昼でもないのに視界が布で狭くなる。圧迫感にイラ立ちが増す。月の出もせまっている。

 水を運んできた二人と、助けを呼びに戻ろうとしていた一人は暗がりからの不意打ちで倒せた。だが、火を見た最初の驚きから徐々に冷静さを取り戻してきたのか、斧を振るって延焼を止めた後、彼らは武器を構えて捜索をはじめた。

 このまま隠れていても時間を無駄にするだけだ。

 拳鍔《けんつば》を右手にはめ、他の者から少し離れた暗がり踏み出した男に忍び寄る。殴りかかろうとして、目の前をなぐ白刃に尻餅をついた。笑顔で斬りつけてくる男から這いずって逃げながら、悪夢の中に入り込んだような非現実感を覚えていた。

 刃を防ごうとした手のひらに痛みのスジが生じる。押さえた手に冷たい血の感触があった。即座にキズは癒えるが、ただでさえ乏しい血がまた減った。

 なぜこんな連中を守るために、地面を這いずったり痛い思いをしなければならない? 逃げ隠れしながら、初歩の回復呪でも完治可能なケガに留まるよう手加減して、そのあげく嫌な思いをしなければならない?
 ティアにこれ以上、罪を犯させたくないからだろうか。
 意味を問うのが馬鹿らしくなってきた。

 首へ落ちてくる刀身に、頭上をおおう星空が映っている。
 蜜の中を泳ぐような、ゆっくりとした時間……

 右手の金属片で白刃を受け、全力で押し返した。よろめいた男の腹に体当たりする。倒れた男の左足と右手を踏み折って剣を奪い遠くへ投げた。

 別のひとりが背後から大声を上げながら突進してくる。長い斧の柄をくぐり掌底で脇の下を突き上げた。異様な感触を覚えた。肩の関節がどうかなったのだろう。重い長物を振り回しているせいだ。

 声に集まってきた四人を振り切るために牧草地を走った。背中に何かが当たり骨をきしませた。振り返った目に映ったのは鎖つきの分銅。掴んで投げ返したクサリが、追っ手の三人に絡む。そのまま丘を転がり落ち干草の山に突っ込んであがく様は軽業師が演じる喜劇だった。

 残った男の手首をひねって剣を奪い足を蹴り折る。
 馬小屋の奥で馬着をかぶって震えていた馬丁は、引きずり出して二の腕を殴り砕いた。
 大鍋一杯の湯をかけてきた太りじしの男は、スネを蹴るとあっけなく床に這いつくばった。
「ここから逃げないと殺されるよ」
 その一言で、台所の隅にかたまっていた女達は逃げ出した。

 土間に座ったままの女の足にはカセがハマっていた。太りじしの男がベルトにつけていた鍵で外してやると、引きつった顔で黙って仲間を追っていく。
 徐々に重く冷たくなるマントを絞った時、礼を言われなかった理由に気づいた。かまどの火で照らされた台所でなら、熱湯をかぶった顔が白さを取り戻してゆくのも見えただろう。

 残る気配のカタマリは少し上。古い石組みを基礎に結ばれた小屋の地下。

 かつての栄華がのこる花鳥を彫ったカシの扉の向こうには、地下へ続くととのった石段があった。天井に連なるのは千年以上前に組まれた美しい曲線。
 大理石張りの寝所だった地下室には、棺の代わりに悪臭がする染みだらけの寝具が広げられていた。

「てめーの女を取り返しに来たのか」
 ロウソクの明りを曲刀に映してたたずむ男に問われた。正直に首を振った。あなたを助けに来た、とも言えない。今は男を倒す方法だけを考えている。人を傷めつけても心がザラつかない。夢見るような感覚がまだ続いている。

「カシラの留守中に好き勝手されちゃ、コケンってやつにかかわる」
「彼はもう戻りません」
 男のマユが上がり、平静な顔に戻る。同時に刃がくり出された。

 寝具を蹴り上げて初撃を防ぐ。舞い散る水鳥の羽毛を突っ切り、壁を蹴って男の肩を狙う。読まれていたらしく突き出された刃先の軌道を、左手を犠牲にして変えた。右腕をひらかせてスキの出来た胸を打つ。突き飛ばした男が壁にぶつけたのは背。肋骨にヒビは入ったが呼気に血の匂いは混じっていない。

 刃先でこじられて酷い状態になった左手に震える声で回復呪をかけた。
 体に合っていない男の上着のポケットから鍵を探し当て、しょく台を手に鉄格子を開けて階段を下りる。

 糞尿や血、汗に脂、牢の中には悪臭と人間が詰っていた。
 灯りを階段のそばに置き、順番に牢を開け放っていく。
 状況と闇に戸惑いながら十人以上の若い女と二人の男が階段を登っていき、地下牢は空っぽになった。
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5.廃城の花

 重い足を引きずって、アレフは地上に戻った。
 昇ったばかりのつぶれた月が、かつての姿を失った寂しい丘を照らしていた。
 賊が城の基壇《きだん》を利用して作った高い柵や小屋の他は、切り分けようとしたクサビの跡が残る巨石ふたつと、建材としてはもろすぎる砕けた彫刻が残るのみ。

 丘をおおっていた壮大な花こう岩の城は、人の手で解体され運び出され、良質の石材として地平にきらめく街になった。
 船から降り立った直後、踏みしめた石畳、見上げた商館や堅牢な倉庫。
 既に見て触れていたのに姿が変わりすぎて気づかなかった。

 複数のうめき声や悪態を無視して、倒壊した見張り台の横をすり抜ける。
 丸太に馬車の残骸を組み合わせた砦の門は開け放たれていた。
 月影の中を小走りに丘を下る一団をゆっくりと追う。最後尾で転んだのは、足かせの女か。

 何の気なしに触れた低木に指を刺された。
 痛みに振り向くと懐かしい芳香がした。

 野生化し矮小化した白バラが咲いていた。
 ワイドールの手で四季咲きに改良されたバラの子孫。
 この花の姉妹……花弁にひだを持つよう庭師が手を加えた白バラが開いた翌日、闇の女王は滅び、ネリィは解け崩れた。その日をさかいに世界のありようも変わってしまった。

 こみ上げる思いはあったが、泣けなかった。
 渇きすぎた身体は涙などという贅沢を許してくれない。

 すぐ近くのしもべの気配に意識を向ける。
 灯されたランタンの側で、片足を引きずって駆けて来ようとしている男をティアが引き戻していた。

馬車に近づきながら手を伸ばした。
「よこして下さい。彼は私のものです」
「みんな、やった?」
「行動力と武器を奪い、捕らわれていた女性たちは逃がしました。約束どおり月が出る前に」

「人質救出なんて課題、出してないよ」
 解き放たれた男を抱きとめ、温かな命の鼓動を楽しんでいた耳を信じがたい言葉が打った。
「どうしてそんなヤツに執着すんの? 人買いが喜んで金貨を積むような若くてきれいなコ、地下牢にいっぱい居たでしょ。一番イイのをもらっていこうとか考えなかった?」

 薄く笑っているティアが理解できない。彼女たちと同じように牢に閉じ込められ、大理石の部屋に引き出されては嫌な思いをさせられていたのではないのか? 肩に触れるたびに身を硬くしていたのは、昔の辛い記憶を呼び覚まされるせいだと、勝手に想像して後悔していた。

 試して、いるのだろうか。
 賊と同類かそうでないのか。
 返答次第によっては彼らと同じように破滅させられるのだろうか。
 ティアは恨みを忘れないといった。ブラスフォードを殺させたのはモル司祭だが、ティアが父親を失った責任の一端は私にある。

 ゆっくり首を振り、男を抱きすくめたまま後へ下がる。渇きは耐え難くすぐにでも腕の中の温かな泉に口をつけたいが、ティアの目の前では怖くて出来ない。

 耳が馬蹄の響きを捉えた。並足で二頭。近づいてくる。

 とっさに密生したエニシダの背後の濃い闇に男をと共に身を沈めた。射るような視線から逃れて、やっと夕方の続きにありつこうとした時

「いた、あの娘だ。やっと思い出した。前にウブなナサニエルをたぶらかして、こっからズラかりやがったろ。そのうえ駆け落ち先でタレこんで、てめえのマブを絞首刑にした小娘だ」

 声に聞き覚えがあった。またホクロの男に邪魔されるのか。
 他にも気配があるが、もう気にしていられない。

 仲間との絆をしのぐ崇拝を植えつけ、全てを捧げ尽くす欲求に駆り立てたしもべの体温を暗がりのなかで楽しみ、生存本能をも抑え込む狂おしい思いに応える。

 ただ喉への口付けは控えた。
 見られても多少ゴマカシがきく手首を噛む。

 手足の傷のせいか少し苦味を感じるが、喉を滑り落ちる血は甘い。温かな幸福感が広がる。違和感に満ちていた世界が、やっとまともな安らいだものに戻った。ティアの声も、今だけは愛らしい小鳥のさえずりに思える。

「へぇ、ナットの事、まだ覚えてるヤツいたんだ。出会いはどうあれ後からでも恋は育める……なんてヨタ話を本気で信じるようなバカのことなんか笑い話になって、とおに忘れられてると思ってた。
 男ってさぁ、ほんとバカだよね。
 自分らの面目がツブされた時は一生かかって復讐するクセに、てめえが女の面目ツブした時は、花や宝石や愛のささやきやらで帳消しに出来るなんて、オトギ話を信じてんだもん。あり得ないって。同じ人間だよ? やり返すまで忘れるもんか」

「コイツが言うことにはだね、お嬢ちゃん。あんたと一緒にいた若いのが、仲間の首に噛みついてたっていうんだ」
「そりゃ噛み付きもするわよ、刃物突きつけられて脅されたんだよ。殺されたくなかったら、有りガネ全部だせって。武器とられてたら、引っかくか噛みつくぐらいしか出来ないじゃない」

 なにか雲行きがおかしい。
 貧血で気を失った男のキズを治癒して、腫れが引いた指からルナリングを抜く。
「あー、でもヴァンパイアがその辺に居たらいいよねぇ。だって海を渡らなくても手柄立てられるじゃない。モル司祭についてったけど、あたし何もさせてもらえなかったし」

 柔らかな丸い葉の間から見えるのは、黒光りする馬体と灰色の法服。腰に司祭位を示す赤い紐。さっきまでの非現実感が失せた今は、勝てる気がしない。闇にうずくまり気配を殺す事だけを考える。

「居心地の悪い思いしてモル司祭について行かなくても、あと何年か修行を積んで紐に色がついたら、メンター師も貴女を外に出したでしょう」
「手柄欲しさに街道の賊を相手に暴れたのか」
「あたしは仕返ししたかっただけ。手柄はあんたたちにあげる。あいつら全員生きてるみたいだけど……縛り首か鉱山送りよね」

「やっちまったもんは仕方ないか。教長が心配してたから戻って報告だけはとしけよ。オレとルーシャはちょっと丘の様子みてくるから」
 立ち去る気配に胸をなでおろす。
 同時に徒労感を覚えた。

 私がどうあがいたところで、ティアの望みどおり彼らは殺される。彼女の手にかかるか、司直によって処刑されるかの違いだけだ。

 緊張でこわばった指を開き四本の指にまたがる無粋な指輪を外す。傍らにドルクがひざまずく気配がした。
「丘で倒れている賊の中にその男を置いてきます。おそらく、ろくな尋問もなされずに処分は決まります。罪人が何を訴えたところで聞く耳を持つものは居ません」

「しもべを絞首刑にしろというのか」
「死刑とは限りません」
「今の状態で重労働は無理だ。一日も持たない。護送に耐えられるかどうかも」
「預ける先がなく、旅に耐えられる状態でもないなら、見捨てるしかございません」
「寄付金をそえて施療院に」
「この男はアレフ様のことを知りすぎています。教会に預けるのは危険です」

「それにさぁ、代理人にサイフ掴まれてガッチガチな東大陸の教会と違って、ここの教官たちはすんごく自由だから、寄付金は教長サマの飲み代に消えて、ソイツは野垂れ死にすると思うよ」
 いつの間にか背後に立っていたティアの言葉に絶望しかける。だが何か方法があるはずだ。破滅させなくても済む方法が。教会が頼りにならないとすれば……代わりを作ればいい。

 リチャード名義の金は本来、贄に志願した者への報酬。長く眠り続けたせいで繰り越されてきた公金だ。架空の贄に渡したと書類を整えて偽名の口座に移された金。元来は、移動費や宿泊費といった私的な目的に使っていいものではない。

 この金を使う資格のある者は……



 お船にのって新しい白いお家にきてから、お母さんが遊んでくれない。いつもお話してくれてた使用人もみかけない。外にでてお友だちをさがすのもダメって言われた。
 だからジミーは、今日もオジサンがいるハナレですごしている。高いカベにはバラのつるが登って赤や黄色い花を咲かせてる。

「ジミーのおふくろさんは偉い人だ。仲間と寄付を集めて基金ってやつを作った。それでオレらみたいなハグレもんの自立支援ってヤツをしてる。東大陸から渡ってきて、何かヤバいことに巻き込まれたり、しくじったり、病気になった人を手助けしてるんだ。今は、商館に掛け合って大きい別館を建てて、治療院やら子供の預かり所やら……」

 お母さんをほめられるのは、うれしい。でもおじさんの話しはムズカシくてよく分からない。本をよんでほしくて、黄色いひざかけの上にお気に入りの青い絵本をのせた。

「ジミーは冒険が大好きなんだなぁ。うん、男の子はそれぐらいがいいな」
「おかしの島が出てくるでしょ、そこよんで」
 おじさんのまわりでぴょんぴょんとんだ。おじさんはすぐ息切れするから、おにわを歩いたりできないけど、イスにすわってる時は何ども本を読んでくれる。

 おじさんが本をひらくと、おかしの島の絵が見えた。
「でも、お菓子の島には、不死身の巨人が住んでるんだよ」
「ボクこわくないよ。心ぞうが入ってるガチョウのタマゴを見つけるから。つぶしちゃうよってオドかして、宝物のかくし場所をきいたら、ぐしゃってするから」

「そっか、ジミーは賢いもんなぁ」
 おじさんが笑う。だけどおじさんが苦しそうにセキをはじめたから、水さしを取りに行った。今のうちにいっぱい親切にしてあげなさいって、お母さんにも言われてるから。

 おじさんのセキがおさまって、やっとおかしの島の話がはじまった。
 ページをめくるおじさんの手に巻いてある赤い布は、お母さんの首に巻いてある布とおそろい。いっしょにいると、なんだか安心する。

 昔、おじさんは悪い人だったって、お父さんが言ってた。
 だから、おじさんがハナレにいる事はボクたちだけの、ヒミツ。
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