夜に紅い血の痕を

著 久史都子

第六章 渡航

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1.船上の憂鬱


「美しい喉だ。キズも染みもなく、すべらかで温かい」
そんな言葉しか与えられなかった。海に父親と兄を奪われ、心無い者に誇りを奪われ、笑顔と意欲を失った娘にアレフが与える事が出来たのは、浅ましい欲望を剥き出しにした、世辞にもならない貧しい賛辞。

 一番下の妹が成人するまで、不自由なく暮らしていける額の金は渡した。隣村の分限者に彼女たちを密かに預け後見を命じた。余命と引き換えに手にした資産を奪い、庇護すべき姉妹を野辺に追いやる事などないよう、遠まわしに脅しもかけた。

 そうこうしている間に帰路についた馬車をウワサは追い抜き、一足早くクインポートに届いていた。新鮮な魚や野菜と同じぐらい、鮮度の良いウワサも市場では歓迎される。

 昨夜の鍛練を怠ったと激しくなじるティアをかわそうとして、壁の一角を埋める刀子の疵に目を止めた。鍛練に執着する異様さを指摘した。誰が弁償するのだという正当でささやかな反撃は、夜明け前の市場でティアが仕入れてきた、不幸な娘に降りかかった悲劇の実話に、叩き潰された。

「人の不幸を嗅ぎつけて、ずいぶん遠くまで獲物をあさりに出かけてたのね。死臭を嗅ぎつけて集まるハゲタカよりタチが悪い。ネコのしなやかさもワシの凛々しさもない、卑怯が取り柄の毛の抜けた肉食ザル」

 毛のない肉食ザルという点ではお互い様だ。そう、反駁《はんばく》できたと気づいたのは、ティアが朝食に茹でた腸詰をかじっている時だった。だが、今日の天気を語るように、人々が同じ話題を口にのぼらせながら朝食を楽しんでいる様を目にして、胸の内で自己弁護する気も失った。

 貧しさに付け込んだ卑劣漢という意味では、何も知らない妹たちに菓子や小遣いを与えて破れ屋から遠ざけ、言葉と暴力で娘を傷つけた者達と大差はない。彼らも金銭や食べ物を置いていった。娘から得たものの対価として。

 そのとき殴られたアザを治癒呪で消し、偽りの恋で悪夢をぬぐい、透き間風や不安に震えなくても済む寝床を保障したところで、己の欲望のために娘を利用した事に変わりは無い。結局のところ彼らとの違いは与えた富の多寡だけだ。

 口伝てに広がるうち噂話は物語となり、娘には可憐という形容詞が被せられ、己の為した事には狡猾や無体といった見解が加わっていた。おそらく、向かいの食堂で行われる晩餐でも語られるのだろう。船長たちが話しているのを乗船の際にもれ聞いた。

 その時、不自然な表情をしてしまわないか……一介の商人ウェルトンとして振舞い切れる自信がない。船酔いを装うために人前で吐かねばならない事以上に、気が重い。

 どうにも後ろ向きで、気分がすぐれないのは茫漠《ぼうばく》たる水に取り囲まれているせいか。
乗船する前、水流に力を浚われないよう対策は講じた。地のエレメントを凝集した水晶球をふところに入れて恒常結界となし、知覚のために普段は広げている力場を周囲に留めた。だが、小さな窓を閉め船室を闇に閉ざしても、気だるさは続いている。

 海に対する諦観の念は、昨夜あの娘から血と共に取り込んだものだろう。嵐ひとつで全てが失われる今の立場には相応しい覚悟かも知れない。板一枚へだてた向こうに、広大な海を感じながら、アレフは己の卑小さをあらためて自覚していた。


 塩漬けでもくんせいでもない牛肉のロースト。酢漬け野菜が一片も入っていない緑のサラダ。リンゴ以外の生の果物。生クリームを添えた焼き菓子。出航した当日しか口に出来ない特別料理が、ありったけのランタンに照らされ、グレッグ船長の前に並んでいた。船首手前の狭い台所でジェフが作り出した奇跡の数々。

 船底の大部屋に吊られた簡素なハンモックで揺られて眠る三等客も、その上の四人部屋やメインマスト付近の二人部屋で、籐編みの吊り寝台に眠る二等と一等の客も、船尾楼のガラス窓越しに星を見て眠る特等船室の客も、今日と上陸の前日だけは、同じご馳走を前にする。

 食堂に入りきれない水夫も、当直以外は同じ料理を器に盛り、主甲板廊下や上甲板で乾杯の合図を待っている。これはグースエッグ号の法律たるグレッグの方針だった。
 船酔いしている乗客が迷惑がろうと、譲る気は無い。

 狭い船内で半月ばかり共に過ごす乗組員と乗客は、仮の家族みたいなものだ。少々気に食わないヤツがいても、叩き出す事も出て行く事も出来ない。だから親しくなれる相手か、浅く形ばかりの付き合いにした方が無難なヤツか、この晩餐で互いに見極める。

 事務長と甲板長にうなずきかけ、グレッグは銀の酒盃を手に取った。同じテーブルについている特等船室の若夫婦と同じボトルから注いだ最高級の発泡ワイン。味と香りも軽やかな淡い黄金色の酒は、見た目からして華やかだ。

 その向こうのテーブルでは航海士や船療士と共に、六人の一等客たちが酒盃を手にしている。注がれているのは当たり年の白ワイン。身なりのいい商人や、上品な老夫婦の中で異彩を放っているのは、灰色の法服をまとった若い娘だ。
 跡継ぎになれなかった富豪の息子や出戻り娘が、寄付金をつけてテンプルに放り込まれる事はよくあるが……ハタチ前に見限られるとは一体なにを仕出かしたのやら。

 その向こうでは八人の二等客が赤ワインの入った酒盃を手にしている。最も遠いテーブルでは、窮屈そうに十人の三等客が舌を刺す安酒をいれた木の酒盃を手にしていた。
 だが、ジェフに言わせれば、船で揺られて味の変わった高い酒を有難がっている中央大陸の金持ちどもより、三等客の方がずっと美味い酒を飲んでいる事になるらしい。

「航海の無事と、皆さんの新天地での成功を祈って、乾杯!」
『乾杯!』
 グースエッグ号全体から、安全と幸運への願いが込もった唱和が起きる。

 たった一人の仲間はずれは、一番幼いお客だ。船が港をゆるゆる進んでいた間に、母親が甘い茶で乾杯させ、果物入りの蒸しパンを与えて、さっさと寝かしつけてしまった。かためたヒゲを引っ張られるのは困るが、明日の朝まで無邪気な笑顔はお預けというのはチト寂しい。

 にぎやかに始まった晩餐だが、さっぱり食が進まない者もいる。横の巻き毛のご婦人は元気だが、夫君の方がどうもイケない。上品な老女と、その横で青ざめている若者は、早めに風下の船ベリか船室にゆくよう船療士に忠告を受けている。他にも五人ばかり口や胸を押さえている者がいる。

 だが、グレッグが目をつけておきたいのは間もなく上甲板へ走っていく連中ではない。
 まず、一等船室の太った商人。どうも態度が尊大だ。こいつは立てつつ必要以上に近づかないほうがいい。それにひきかえ、ヒゲ男は老夫婦を気遣い場を和ませようとしていて好感がもてる。

 酒樽に取り付き、立て続けにあおっている赤ら顔の男はかなり酒癖が悪そうだ。体格もいい。いざとなったら四〜五人がかりで取り押さえる事になるだろう。
 バラ色のドレスをまとい胸を強調している年増女も、別の意味で厄介ごとのタネになりそうだ。

 向こうの皮チョッキは、懐に物騒な刃物を呑んでいるようだ。それに目つきがどうにもマズい。人死にが出るとしたら、こいつと水夫のモメゴトだろう。相手にしないようキツく言っておかねば。

 他に凶状持ちはいなさそうだ。いても博打打ちやコソ泥ていど。今回の客は質がいい。よほど風が悪くなければ、みな無事にキングポートに着くだろう。

 さてと、あとは酒と会話の時間。
「皆さんは幸運だ。中央大陸の者ならそう言いますな。人をほしいままに食らう魔物の支配から逃れて、光の中へ歩み出したと」

 中央大陸が憂いの無い新天地というのは嘘だ。骨董品のような魔物より、卑劣で無情で始末に負えない者どもがのさばる自由の大地。だが、船上にある時ぐらいは、乗客たちに夢と希望をいだかせておいてやろう。現実は後からイヤというほど味わえる。

「昨夜も、妹たちを飢えから救わんとした健気な娘が、褒賞をちらつかせ甘言を弄する人外の手下に連れ去られ、そのまま戻らなかったとか」
「すみません……」
 謝る声と立ち上がる音。口を押さえる指の間から雫をもらしつつ、船療士が示す階段へよろけながら向かった若者に続いて、数人が相次いで席を立ち、グレッグの話をさえぎった。間に合わなかった者もいるが、大体は風下の船縁にたどりついたようだ。船療士に特等客の付き添い頼むと、グレッグは話を続けた。

「船にも魔物はいる。いま見た通り船酔いというのは実に恐ろしい魔物だ。今、消えた者達も二度とここには戻らんだろう」グレッグは声を低くした「魔物は執念深い。少なくとも三度キバを剥く。二度目は東大陸から中央大陸へ向かう風と海流に乗って船足が上がるとき。三度目は到着間際。ドライリバーの河口には船を躍らせる危険な波が立つ」

 おどけて体を大きく揺らせていたグレッグは、最後にイジワルな笑みを浮かべた。
「この話は、今出て行った者たちにはナイショだ。一度魔物に捕らわれた者は、揺れると聞くだけで上甲板へ走っていっちまうからな」
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2.誘拐


 人にとっては暗い船室。だがマユ状の吊り寝台に横たわり、マントと備え付けの毛布に包まったまま、日のあるうちは身じろぎもしない若者には明るすぎる。

 直射日光は防げても、格子蓋を介して廊下を満たし、扉のすき間からもれ入る昼光は、ルナリングで無効化しなければやはり危険だ。無効化の結界は主の力を削り続ける。さらに船を取り巻く海水が闇の生命を浄化……いや、蝕んでいく。

 出港のあとしばらくは、夜中にそっと上甲板に上がり鍛錬のまね事などなさっていた。だが今は、疑いを招かぬための短い散歩もいとわれる様になった。

 船室に引きこもり食堂に姿を現さずとも仕方ない、そう周囲を納得させるため装った船酔い。もはや誰も仮病とは見抜けないだろう。アレフ様は日々衰弱してゆく。それも予想より早く。

 この航路、テンプルが召喚した魔物や海賊とは無縁だ。多量の力を使うような事態がなければ“食事”は不要と踏んでいた。たかが半月の船旅と侮っていた。いざとなれば風を従わせ、船は最速で目的地につくはずと。

 乗船時はアレフ様の顔を見知った者がいない事に安堵した。しかし今は悔やまれる。

 権威や力に恐れをなして従う者。命まではとられない事を知っていて、死に者狂いの抵抗を試みない者。訳を話せば“食事”の提供者となってくれる者がいない。

かろうじて条件を満たしうるのは私か……同行者のティアだけだ。アレフ様が頼めば不承不承でもティアは喉を差し出すだろう。もともと血を吸われる覚悟で彼女はついてきた。しかし、たとえそうしなければ滅びるという所まで追い詰められても、彼女の血だけはアレフ様は飲まれないだろう。

 そうドルクは確信していた。それは暗い命の共有がもたらす直感だ。

 かつてアレフ様が愛した人間の娘、ネリィにティアはあまりにも似すぎている。容姿ではない。雰囲気というか魂のありようだ。
いやむしろ……永遠の命を拒否し、いつまでも変わらぬ我が子に見取られながら逝った、気丈な御母上にか。

 ドルクは大きく息を吐くと下腹に力を入れて立ち上がった。

「あのお若い方、まだ何も食べられないの?」
 気の毒そうな物言いに、わずかな優越感が潜む。出航して2日目に船酔いから回復したイメル婆さんか。確か死ぬ前に故郷を見ておきたいと言っていた。
「ええ……飲物は少し入れるんですが、すぐに吐いてしまって」
「滋養のあるスープか何か飲ませてあげないとねえ」
 若い頃に移民として海を渡り十人の孫を成した老婆に笑顔を向け、ドルクは上甲板へ上がった。

 狭い船だ。二十七人の乗客と乗り組み員三十一人は、すぐに顔見知りになった。ドルクは親切と愛想を武器に溶け込むことに成功した。ティアはすぐに顔を覚えられ、おそらく好悪は半々。アレフ様は青白い顔で昼間上甲板に出たとき、無関心と同情とを手に入れられた。

 男たちは華奢な体に優越感を覚えたあとは無視した。細い腕が秘める力に気づく者はいない。女たちは儚げな風情に目を止めたが気遣う言葉をかけた後、すぐに互いのおしゃべりに戻った。出歩く時間が短いせいか、近づく者もまずいない。

 昼間、陽光の元でのアレフ様は実際に辛い思いをしている。夜、力に溢れた真の姿を人々は知らない。そこにいるだけで場を支配し素性を知る者も知らない者も魅きつける。術を使わなくても蛾が灯火に飛び込むようにその身を差し出す者がいるぐらいだ。それを知っている領民たちは夜の外出を控えたものだ。

「滋養のあるものか……」
 水も酒も口にはしていない主の事を思い出す。本来の力を取り戻すはずの夜でもアレフ様は寝台をはなれる事はなくなった。

 船尾の高い甲板で若夫婦とティアがにぎやかにおしゃべりをしている。あの娘は恐ろしく元気だ。アレフ様の生気を食っているのではないかと疑いたくなる程に。ドルクはティアに手を振った。彼女はダメだ。

「分かっているさ、イメル婆さん……」
 滋養のあるもの、それはアレフ様にとっては一つしかない。危険でもやるしかない。


「つっかまっえた!」
 小さな気配が走ってきてドルクの腰にぶつかった。振り返るとソバカスだらけの笑顔が見上げていた。
「ジミー坊やかぁ」
 ドルクは満面の笑顔をたたえて小さな体を抱き上げた。この船に乗っているたった一人の子供。ワキをくすぐるとジミーは高い声を上げて身をくねらせる。

「かくれんぼするか?」
「うん」
 顔を上げれば向こうで母親が父親と笑ってこっちを見ている。
「さっき捕まったから、今度はオジさんが鬼だな」
 ジミーを下ろすと、ドルクはしゃがみこんで数をかぞえはじめた。ジミーがすばしっこく走り去る気配がする。振り向いたドルクが、隠れている前をわざと素通りしてみせると、押し殺したクスクス笑いがした。

「お、いたぁ」
 前方の帆柱の下、垂れたロープの束をかきわけると、船首の方へ這っていくジミーの足が見えた。走って逃げるジミーを、ドルクは空振りを何度もしてから抱き上げた。
「じゃあ、次はジミーが鬼だぞ」

 ジミーは三まで数えるとすぐに六へ飛ぶ。その間にドルクは風上側のボートの陰に身を隠した。もちろん背中が見えるように。ジミーが歓声と共にのしかかってくる。
「おー、見つかっちゃったか」
 ドルクはジミーを背負いながら、くるくるとあたりを見回した。

 母親はいい子守役がついたと、安心しておしゃべりを再開した。父親は操舵室から出て来た船長に帆の事を尋ね、ホラ交じりの武勇伝を聞かされている。見張りは前方を見つめ、他の船員や乗客も、風下でサイコロや他愛の無い手柄話に興じている。

「ジミー、隠れんぼや鬼ごっこより、もっと面白い事しようか」
「面白い事ってなにー」
 ジミーが目を輝かせる。
「誘拐ごっこ」
 ドルクは小さな耳にささやいて、片目をつぶってみせた。
「どんなの、どんなの」
 迷いを押し殺してドルクは赤いスカーフを取り出した。

「まずね、こうするんだ」
 ドルクはジミーに赤いスカーフで猿ぐつわをした。
「でね、そしてこの中に隠れるんだ」
 さっき台所で貰ってきた、甘い香りがする麻袋を示すと、ジミーは興味深くその中をのぞいてからうなづいて飛び込んだ。

「しばらくじーっとしてるんだよ。とっても楽しいところへ連れていってあげるからね」
 袋の口をロープでくくったドルクは、身をひるがえして目立つ場所にしゃがみ込み、大きな声で十まで数えた。高鳴る胸は八をすぎる頃に納まった。

「ジミー、どこだ どこだ?」
 探すふりをしながら人の動きを見計らい、ジミーを入れたコカラの麻袋を肩に担ぎ上げる。わずかに呻き声がした。
「静かにしているんだよ。これから面白くなるからね」
 そう袋にささやき、後部の昇降口を足音を忍ばせて下りる。

 床から天井へ突き立つ舵柄を横目に、食料が詰ったタルと麻袋の横を抜け、人が居ない瞬間に廊下に出た。
 食堂から響く笑い声に冷や汗をかく。豊満な背を向けているご婦人と、バラ色のスカートを覗き込んでいる水夫に気づかれぬよう、素早く船室に戻った。

 寝台から身を起こした主が眉をひそめる。ドルクはかまわず麻袋を床に下ろし、膝まずいて袋の口を開いた。
 好奇心に目を輝かせたジミーが暗い部屋を見回す。
「子供は時々海に落ちます」
 主が浮かべた嫌悪の表情にひるんだ。しかし神に供犠を捧げる太古の祭司のように、敬虔な思いで小さな体を主の方へ押しやった。

「量は少なくとも……飲み尽くせばキングポートまでしのげます。あの夫婦は若い。また子どもを授かるでしょう。たぶん悲しみも癒えます」
 ジミーが退屈そうに首を振り、口をふさぐスカーフを取ろうともがきだす。

 ドルクは幼子の細い首に手を添えた。主が逃がせと言ったら折るために。その覚悟を示すために。
 鏡を外しておいて良かった。自らの顔を見て正気を取り戻したが最後、このような所業、なし遂げる事は出来ない。

 緊迫した薄闇の中で、ジミーがむずかりはじめた。


 毛深い従者の手中にある、もろくか細い首。微かに脈動する薄い肌。不意に湧き上がってきた渇望にアレフはうろたえた。一度意識してしまうともう目が離せなくなる。麻袋に詰められ、暗く狭い船室に連れ込まれた無力な子供が、絶対的な強制力を持っているような錯覚をおぼえた。

(どうかこの子に幸せな夢と安らぎを。短い生涯の最後に、せめて……楽しい場所へ連れて行ってやるという約束だけは果たさせて下さい)
 切実な心話と、硬質な決意。子供が一声でも上げたらドルクはためらい無く殺すだろう。かつての外遊でも、アレフが血を啜り衰弱させた者をドルクは密かに処分していた。市井に解き放ったと穏やかに告げるその裏で。

 危うく口にしそうになった非難の言葉をアレフは飲み込んだ。ドルクを悪者にするのは卑怯だ。余計な事をしたお前が悪いと原因を転嫁しながら欲望だけは満たし、後始末まで任せてしまうのは、あまりにも厚かましい。

 餓えはじめていると感じていた。キングポートまで耐えればいいと目先に目標を定め、忘れようと努めていた。……だが、その先はどうなる?

 ドライリバー城で、歓待の宴が開かれる事などない。彼の地の太守から許可を得て血の提供者を募ろうにも、エイドリル・ヤシュワーはとうに滅ぼされている。不死の肉体が必要とするものを手に入れるには、法を犯さねばならない。
 子供にも分かる道理だというのに、考えること自体を後回しにしていた。

 もう同じ過ちを繰り返すのはやめよう。責任は主のもの。危ない橋を渡ってくれた従者に罪は無い。問題なのは私の飢え。無視せず、折り合いをつける方法を考え出して、ドルクが気を回す前に命じなかったのが悪い。
 しかし……

 ドルクが贄となる者を連れて戻るのは、何百年ものあいだ繰り返されてきた日常。要求を伝え対価を決め、館へ伴って湯を使わせ衣を改め、心身ともに整えた者をアレフが待つ部屋に置いて去る。

 だが、この子は理解も覚悟もしていない。この子の家族も了承してはいない。運命を納得していないという意味では、目覚めた直後に味わったテンプルの自称英雄たちも同じだが、この幼な子は死罪に値する咎人《とがびと》ではない。

 死なせる事は出来ない。

 まず差し迫った危機を遠ざける。
 寝台から降りて二人に笑みかけ、子供に視線を合わせた。
「ありがとう」
 罪悪感と自己欺瞞の間で揺れる従者に感謝の言葉をかけ、わずかに弛んだ手から供物を受け取るように小さな体を救い上げた。温かい命と重みを腕の中に感じ、呼び覚まされそうになった悦びを抑える。

(楽しい場所ってどんなところだと思う?)
 心への問いかけに応えて子供が思い描いたのは、ハチミツの川にアメとパイが実る森。足元の小石は小麦を牛乳で練った硬い焼き菓子。岩はコカラで色をつけた玉子と砂糖のもろい菓子。
 これはジェームズが母親から読み聞かされた絵本の挿絵か。
 音楽と香りを付け足し、より鮮明な景色に変えて幼い心に映し出す。幸福な幻を追うジェームズから、一時的に喉の感覚を奪って声を封じた。

 さて、これからどうしたものか。
 ジェームズを生かして親元に帰す最大の障害は、目前の忠実な従者か。

 百年も経たぬうちに老いや病に苦しんで消える命なら、偽りの幸福に包まれて、幼い内に海に返るのは決して不幸ではない。
 最愛の妻と共に家ごとドロに埋まった幼い息子。その身代わりとして思いを注いできた人食いの傍で、幾人もの苦悩と死を見つめてきたドルクが信じる物語。

 人は納得できる物語を欲しがる。
 ならば、ドルクだけでなくジェームズとその両親、そして周囲の者すべてが納得する様に組み替えればいい。混沌とした醜悪な事実を、分かりやすくきれいな物語に。

 柔らかな熱い喉に唇をすべらせる。安堵と反感と居たたまれなさがドルクの心に吹き上がるのを感じた。ジェームズの死を望む者はいない。

 死を与えるためではなく生かすために牙を突き立てる。浅い噛み傷から、にじみ出した血を介して絆を結び記憶を読み取り……手を加える。
 いつも遊んでくれるおじさんは優しいままに。見知らぬ船室で青白いオバケに噛まれた事など忘れた方がいい。

 ティア達が使っていたテンプルの治癒呪をかけた。一時的に代謝機能を高めてキズを治す術。噛み痕に淡い薄皮が張る。そして副作用で体温が上がる。
「助かったよ、本当に」
 眠らせたジェームズを注意深くドルクに渡した。

「記憶を少し変えた。誘拐ごっこはしていない。かくれんぼの最中、はしゃぎすぎて暑さで倒れた。……錨の巻き上げ機にもたれて治療士が飲んでいる。隣にいるのが生者か死人か、そんな区別もつかぬ男だが微熱の処置くらい出来るだろう」

 ジェームズを抱いたドルクが一礼して暗い船室から光の中へ出てゆく。足取りも軽く船首へと走る気配に気が弛む。同時に忘れていた飢えが鎌首をもたげる。

 新たな物語が要る。ドルクにも私にも疑いが及ばない……まずは主役の吟味から。
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3.狩り


 今日、ジミーの笑い声がしないのは“日射病”のせいだと皆が言う。特別船室付きの見習い水夫によれば、母親は船室にこもり我が子の側を片時も離れない。父親は風下の甲板でロープの結び方などを待機中の水夫に聞いている。一日寝床から出る事を禁じられた我が子の手なぐさみに、教えてやりたいらしい。

 集めてきたウワサ話をドルクは主に告げた。今のところ“日射病”という診断を治療士自身も疑っていない。昨日この船室で行われたことに気づいた者も、アレフ様を疑う者もいない。
「ご安心ください」
 微笑むべきだろうか。しかし心に溜まる澱《おり》が笑みを巻き込んで底へと沈める。愛想笑いなど心が読める主には無意味な飾りだ。

「ほんのひと舐めしただけだ。心配しなくても、またすぐに走り回るようになる」
 寝台に腰を下ろしていた主の顔に意地悪い笑みが閃いた。ドルクはティアと話しているような気分に襲われた。
 行動を共にしている者からは少なからず影響を受ける。言葉遣いや表情、仕草や思考。もしティアがいなかったら、アレフ様は東大陸を離れることなど絶対になかっただろう。

「“狩り”をしてみるか」
 それが何か楽しいことであるかのように主の口から滑り出た。
 ドルクは驚いた。ティアが道すがらの慰みに話していたテンプルの教則本の言葉だ。ヴァンパイアは邪悪で傲慢で人を人とも思っていない。そんな説話の一節にあった言葉。それらがいかにデタラメか、ティアは笑い話にしていた。

 曰く、ヴァンパイアは毎夜、支配下の村や町に犠牲者をさがしにいく。それを“狩り”と呼び、森の獣のかわりに人間を獲物にして楽しむ。狙われた人間が怯え逃げ惑うのを見て喜び、追い詰められ絶望した人間のすすり泣く声に聞き惚れる。鉄のかいなで骨を砕き、苦鳴を上げる喉を喰い千切り、断末魔の顔をうっとりと眺めながら血の味に酔う。

「だって、アレフは相手の了解が無いと血を飲まないでしょ。権力をタテに要求するから拒否はしづらいけど、飲んでもいいかどうか聞くじゃない」
 確かにそのとおりだ。しかし、そうではない“食事”もありえる事をドルクは知っている。飢えていて、そうドルクが仕向ければアレフ様は相手の意志を無視して血を飲む。牙を突き立てる瞬間には、術で強引に了解させているが……。

 アレフ様が立ち上がり、マントをはおってフードをかぶる。
 今は昼前。外には光があふれている。
 昇降口にも上甲板にも容赦なく降り注ぐ陽光。その中をふらつきながら歩み船尾楼へ向かう黒衣の主を、ドルクは影のように追った。

 まさか狭い船内で本当に“狩り”をなさるとは思えない。殺さなくても……いや殺さないからこそ人々の不審を呼びやがて疑問が形作られ証拠を掴まれ、逆に“狩られる”事になる。いま船にいる者全員を殺す事は可能かも知れない。だが、警戒し武装した人間相手となれば、万が一という事もある。

 アレフ様が立ち止まられたのはジミーの部屋。 
「どうぞ」
 ノックに穏やかな女性の声が応じ、扉が開かれた。
「お子さんのお加減はどうですか。連れの者と遊んでいた時に倒れたと聞きまして」
 ありきたりの見舞いの言葉。後ろに控えていたドルクは、どういう顔をしたらいいのか迷った。

「ドルクさんのお連れの方でしたか、船酔いのほうはもう?」
「今日は少し気分がいいので散歩に……。その、寝台を離れられぬ苦しみは他人ごととは思えなくて。あんな小さなお子さんがと思うと。それに一言お詫びも。ドルクがもうすこし早くお子さんの顔色に気づいていれば、こんな事には」

「いえ、数日前から水をあまり飲まなくなったジミーが悪いんですの。変な臭いがするとワガママいって……でも今日はお茶とすったリンゴを与えましたし、朝食もしっかり食べさせました。明日には元気になると思いますわ」
「それは良かった」
 母親が笑う。優しげな目が訪問者を見上げる。かすかに頬が上気しているのにドルクは気づいた。

「退屈しているから、会ってやって下さいな」
 部屋の中に導かれ、主に続いて部屋に入りながら、ドルクの頭を懸念がかすめる。
 血の絆をもってしてもジミーの記憶を完全に封印できていなかったら? 加害者の顔を見て一部なりとも記憶がもどったら……。

 波と船と星座が散る紺色のジュウタンに散らばる、崩れた積み木や小さな木の刀に気をつけて奥へ進む。正面には真鍮の窓枠で四角く分割されたガラス越しの海と空。固定された書き物机と椅子、退屈しのぎの本棚。草花を織り出した錦織りが天がいとなって支える二つの吊り寝台は木製。
 その向こうで、少し小ぶりな吊り寝台が揺れた。

「オジちゃん!」
 ジミーがうれしそうに叫んで起き上がろうとする。それを母親が制止した。
「心配したんだぞ、ジミー。元気になったらまた、遊ぼうな」
 ドルクはほっとして顔をほころばせた。そして急ごしらえの小さな吊り寝台の横にヒザまづく。

「でも、今度は日カゲにかくれてくれよ。でないとオジちゃん、またビックリしちゃうからな」
 ジミーは大きくうなづいた。

「さあさあ、そのためにも今日はきちんと休まなくてはね」
 母親に寝かしつけられながら、小さな歯を見せて笑う顔を見ていると、昨日この子を殺してもいいと思えたのが不思議になる。アレフ様を守るためなら何時でも人を手に掛ける覚悟はしているが、年端も行かない子供は無条件に可愛い。

 人には聞こえない微かなつぶやきを耳が捕える。ジミーが大あくびをして目を閉じた。そのまま気持ち良さそうな寝息をたて始める。
「あら、もう」
 あどけない寝顔に母親は微笑みジミーの側を離れた。さっきの小さな声が眠りをもたらす呪文であることにドルクは気づいた。

 振り返ると、レースとギャザーに彩られた細い肩に、背後から青白い手がかかっていた。他人の、若い男に触れられても彼女の目には拒否も警戒もない。ぼんやりとした表情を宙に向けている。術に落ちている、そう直感して主を見上げた。

 面白がっているような灰色の眼が見返していた。そのまま抱きすくめ、止める閑も無いほど素早く、何のためらいもなく首筋に牙を突き立てる。まさか、という思いからドルクは惚けたようにその光景を見ていた。

 積極的に人を襲うアレフ様など想像した事もなかった。ドルクが全てを用意して行う“食事”は日常だったが、今目の前で起きているのは非日常。
 切なげな吐息をもらし黒衣の青年に身を預け、目を閉じてゆく滑らかな額に巻き毛が一すじ落ちる。ドルクにはその口づけがひどく長く感じられた。

 血の気を失った夫人は、主の手で彫刻と錦に彩られた吊り寝台に横たえられた。年代がかった木製の吊り寝台は棺に似て、不吉な連想がドルクの頭に入り込む。
 思わず脈を確かめた。意外とシッカリしている。普通に眠っているとも見えるが……治癒呪をかけても傷跡は完全には消えず、赤い小さな痕は残る。

「やっと落ち着いた。ジェームズの時は味見みたいなものだったから」
 満足そうな笑みを浮かべて主が扉に向かう。
「長居は無用だ。そろそろ戻ろう。大ごとにはならない。看病疲れ……疑うとしても伝染病の可能性に気を取られる」

 往きしより力強く感じる足取りを追いながら、これは本当に長年仕えてきた主なのかとという疑念にドルクは捕われた。外見は変わらない。だが……心が変化している。その変化をもたらした者は一人だけ。

 しかし大層な皮肉だ。ティアは本来ヴァンパイアを倒し、あるいはその勢力を封じ込め、人をその魔手から守るテンプルの者だ。その彼女のせいで、争いを嫌うアレフ様は闘う術を身に付けはじめ、いくぶん攻撃的になってきている。そして今日、一人の女性が毒牙にかかった。

「明日も“狩り”をなさるんですか?」
 船室に戻る直前ドルクは囁いた。主がふり返らずに呟く。
「あさって……かな」
 明るい廊下にいると窓を閉じた船室は闇に見える。
「少し散歩してきます」
 寝台に腰を下ろし手帳を広げる気配に向かってドルクは一礼し、扉を閉めた。

 次は誰を襲うつもりなのか。ドルクの胸を不安が満たす。頭の出来はいいはずだが、秀でた知は主に研究に費やされ実生活に関してはむしろ幼い程だった。しかし急速に成長している。今日の手際はそう悪くない。

 だがティアにバレたらただではすむまい。それが最大の懸念だ。
 ドルクは陽光の下で、ジミーの父親と共にロープの結び方を学んでいる聖女見習いを見て、大きくため息をついた。


 船療士からせしめた乾燥ハーブの袋を鼻に押し付けながら、ティアは先日から水平線の彼方に見えてる紫の陸地をぼんやり眺めていた。見知らぬ森の香りを詰めた白い袋は、地の果ての村からきたという。売ればひと月は食ってける価値があるらしい。

 小袋もらって引き受けたのは、治療の助手。古い帆布で区切られた船底のすみっこへ連れてかれて、初歩の治癒呪しか知らないヘボ船療士のかわりに、寝込んでる水夫に回復呪をかけた。けど、効果はあんまりなかった。かび臭い空気と湿気ったハンモックのせいってのも、少しはあるかもしれない。

 あたしと同い年くらいの見習い水夫だから、野菜不足とか働きすぎなら薬と術でナンとかなる。押さえつけて体中さわってヘンな病気じゃないか診てみたけど、シコリとか命の流れのよどみとかは無かった。でも、からだ全体が弱ってる。原因不明。

 ううん、ホントいうと見当はついてる。毒虫をうたがって服をひっぺがした時、鎖骨のやや上に治りかけた小さな傷痕を二つ見つけた。
 それは船療士がいうように、あか染みたシャツのせいで出来たニキビかもしれない。

 昨日どうやって寝台にたどり着いたのか覚えてなかったり、立ち上がれないほど体がだるいのも、頬を赤らめて額をなでる水夫が言うように“若奥様”にうつされた風邪の熱が原因かも知れない。けど……流感よりある意味タチの悪いモノがこの船には乗っている。

 あたしが眠った後かおしゃべりしてるあいだに、ひどい船酔いで麦ガユもロクに喉を通らない、船室にこもりっきりのヤサ男、という事になっている顔色の悪い同行者が、つまみ食いしたって考える方がすっきりする。

 完全に陽光を防げない船室は辛いみたいだし、船酔いというのもひょっとしたら本当かも知れない。でも見かけより元気なはずだ。

 それにしても、分かり易すぎ。
 船尾の特等船室の奥方と船首の見習い水夫。一等船室がある主甲板はさけて、なるべく遠い犠牲者を選んだわけだ。単純というか、ビビリというか。

 引きこもってる船室ごと病原を浄化しちゃえば流行り病はすぐに解決。地面から離れた海の上じゃ、ホーリーシンボルはあたしの精神力が頼り。一発で滅ぼすのはムリだけど、勝機がないわけじゃない。

 だけど、あたしにも責任はある。同じように父親を殺された身で仇も同じならと強引に旅に誘った。東大陸はアレフとその父親の物だったし、みんなアレフが何者か解ってて、昼間休むための専用の地下室が町や村にあった。十日に一度くらいの食事で済んでたみたいだし、正直あまり深く考えてなかった。

 でも今、アレフは人間をよそおって旅してる。陽光を月光に変える指輪に注ぐ魔力ってハンパないみたいだし、最近は風の調子が良すぎるって甲板長さんが不思議がってた。結界の術に精霊術。それじゃあ食事の量と回数が多くなって当たり前。やってるのはアレフだけど原因はあたしだ。倒れたオバサンや水夫に悪い事した気になってくる。

 漁船と間違えたのか船にカモメの群れがまとわりついてきた。
 あさってか、しあさってには中央大陸につきそうだ。それまでに、高熱でまた一人寝込むのかな。

「ティアちゃんが物思いたぁ、めずらしい事もあるもんだ」
「船長さん?」
 ヒゲを自慢そうに油で固めて陽気に笑う船長さんは好きだ。死んだ父親も船長さんみたいに目の前の楽しみに精一杯だったら良かったのに。
「あんたんトコの若いの、船酔いは良くなったかい?」
「全然! きっと港についてもヘバってるよ」

 だけど、今日の船長さんは笑顔じゃない。
「気になる? 熱病のこと」
「テンプルの回復呪も利きが悪いらしいな。で、どうなんだい?」
「あたしは、その、治療院での実地研修、一ヶ月で追い出されたから」
 うつむいた頭を、分厚くてあったかい手がなでた。

「ジェフは食い物に気ぃつけてくれてるし、水もおかしかない。鼻水や咳はないが、風邪みたいなもんだろう。それに、あんたんトコの病人よりみんな軽いしな」
「その病人が……」
 原因だって言えない。お金だのリケンだので船長さんと取引できればいいけど、怖がって、みんなに教えちゃって大騒ぎになったら、船全体との戦いになるかも知れない。その時あたしはどちらにつけばいいんだろう。人の側かそれとも……。

「ん?」
「また吐いててやんなっちゃうよ」
 船長さんが帆桁のカモメたちを追い散らす勢いで笑いだした。
「看病してやりな。ティアちゃんに看病してほしくて仮病つかってるワケじゃあないだろう」
 船長さんが笑いながら船首の方へ歩いていくのを見送って、船尾楼の前を横切ろうとしたら、愛想笑いを浮かべたドルクが立っていた。

「盗み聞き?」
「散歩ですよ。少し思い詰めた顔のティアさんが心配だったのは認めますが」
「アレフを海に投げ込めなんて、船長さんに助言なんかしないよ?」
「風邪ですよ。その程度で海に投げ込むんですか」
「やっと認めたわね」
「何をです?」
 ドルクはすっとぼけたまんま。ホントかわいくない。

「でも、アレフ様が滅びてしまわれたら私も……」
 言いかけたドルクが口を閉じる。なんか引っかかる言い方だ。
「アレフは? また風邪を流行らせにいってんの?」
 ドルクは笑って空を指差した。帆布の間からみえる太陽がまぶしい。もうお昼か。
「眠っておられます」

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4.最後の晩餐


 かぐわしいバターは出航してすぐ姿を消した。牛脂のニオイは横帆が西風を捕まえた頃には消えうせた。豚あぶらはわりとがんばっていたが、行く手に中央大陸が見えた頃に無くなった。上陸前夜の晩餐に漂うのは果実油の青臭さ。

 料理にパン、菓子からも漂う青臭い匂いを、グレッグは嫌いではない。一足早く届いた陸の緑の匂いだ。あと少しで揺れない地面を踏めると思えば胸が高鳴る。もっとも、しばらく陸にいると、今度は傾いだ甲板が懐かしくなるんだから、海の男ってな勝手なもんだ。

 テーブルにのぼってる果物は干ブドウともっさりしたリンゴ。だが厚焼きのビスケットに焼き込まれてたり、塩漬け肉と一緒に煮込んであればご馳走だ。酢に浸さにゃ歯が立たない石チーズも細かく削られ、海水で茹でたイモに振り掛けてあれば鼻歌が出る。

 新鮮といえる食材は今朝ツブした鶏どもぐらいだ。刻んだタマネギやパン屑ともども塩漬けのブドウ葉に巻いて煮込んで積み上げてある。連中が最後に生んだ玉子は甘くて黄色い焼き菓子に変わって、今回は参加を許されたジミー坊やの前で山盛りになっとる。

 明日の朝、粥にする押しムギとコカラに入れるハチミツをのぞいた食材のほとんどがこの晩餐で使い果たされる。カビた麻袋や虫がわいた樽に手をつけなくとも、全員が腹いっぱいに食えるってのは珍しい。順風に恵まれたお陰。客と水夫の日ごろの行いに感謝だ。

 白と赤の樽ワインもそれぞれの杯に注ぎ終わった。湯で割ったハチミツの杯が小さな手にしっかり握られたのを見て、グレッグ船長はうなづいた。

 それでは、乾杯のあいさつと行くか。
「みなさんもご存知の通り、グースエッグ号が明日入るキングポートはドライリバーの河口にある。上流の方は地平線まで広がる麦畑をうるおし、ところどころ水ナシ川になっとるが、中流じゃ川岸の馬に引かれてハシケが行き来しとる。下流は広くて緩くて、河口はもう海と変わらん。それでも流れが無いわけじゃあない」

「船が港に着くためにゃ、午前中の海風を捕まえ上げ潮に乗り、港の近くまで一気に寄らにゃならん。朝から騒がしくてビックリされるかもしれん。だが、最後は川べりの馬どもが回す巨大な滑車の綱に引かれて、貴婦人のごとく入港だ」

「桟橋を踏めば中央大陸、旅券あらためだの上陸手続きだのといった、わずらわしいモンは一切無い。みなさんは晴れて自由の民だ。ただし、財布には十分気をつけて、奥さんやお子さんの手は絶対に離さんように」
 とりあえず、客がしらふの内に忠告は済ませた。明日から頼めるものは己の力のみ。助けてくれるのは今隣に居る家族だけだ。

「それでは、新天地での皆さんの無事と幸運を祈って、乾杯」
『乾杯!』

 にぎやかに始まった晩餐だが、お客の中には熟成しすぎた塩漬け肉の臭いや、ビスケットに混ざる干しブドウ以外の黒粒に気づいて、食が進まない者もいる。ジェフが使う年季の入ったフルイは目が粗い。粉や麦に湧いた子虫を取りきれん。別に毒ってわけじゃないのに、つまんで取ったあげくに手布で口を押さえて上甲板へ走るってのは、さすがに繊細すぎるだろう。

 いつも食ってるムギ粥にも混ざっとったはずだが、薄暗い船室に運ばせてたから気づかなかったか。仕方ない。今夜は月もきれいだ。岸に瞬く街の灯を見ながら、最後まで船に馴染めなかった神経質すぎる若いのに付き合ってやろう。思えばちゃんと話してないのはあの男ぐらいだ。

 偉そうにしていた商人は先月騙され財産を半分失ったせいで、人を寄せぬ芝居をしていただけだった。大酒飲みは性質のいい酔い方でまったく面倒かけんかったし、年増の浮れ女《うかれめ》も争いのタネを蒔かんよう心を込めて一晩説得したらわかってくれた。ナイフ男は……まぁ、独特の哲学をやめろとはいえん、実行にさえ移さなければ。

 月光が降り注ぐ上甲板は、船尾ランタンを無用に思うほど明るかった。帆を畳んだマストを仰いで毛布に包まってる見張りに軽く手を振ってみた。振り返さんところを見ると居眠りか。まぁ、月夜に停泊しとる船に突っ込んでくるバカはそうおらんだろう。
 さて、吐きに行ったなら風下、左舷か。

 見当をつけたあたりで船端に張った転落防止の綱の上で手をつかね、夜風に色の薄い髪をなぶらせている優男を見つけた。
 グレッグに気づいた優男が、幽霊でもみたようにひどく驚いているのが滑稽だ。安心させてやろうと、話しかけようとしても
 なぜだ。
 舌が動かない。

 目の前に危険がせまっている。突然そんな気分に襲われた。

 春先の海で、思わぬはぐれ氷の群れに突っ込んだような……だんだん厚さと硬さを増す青白い氷が船体を囲み締め上げてくる……そんな逃げ出したいのに思うに任せない焦りで、嫌な汗がじっとり背をぬらす。

 だが、この船と乗ってる者の命運を預かり、幾つもの嵐を乗り越えてきた海の男が、ビスケットに焼きこまれた子虫を怖がる情けない若僧を恐れて立ちすくんでるだなんて誰が信じる。向こうだって怯えた顔でこっちを見とるというのに。
 信じがたいといえば月の光を浴びとるはずなのに足元に影が……。

「船長さん、そんなツマンナイ奴ほっといて一緒に飲も!」
 腕を引かれて振り向くと、見習い聖女が緑色のボトルを掲げていた。
「ティアちゃんの誘いじゃ断れないな。あんたも一杯どうだい」
 さっきまで出なかった誘いの言葉が今はするりと出た。だが返事は弱々しい愛想笑いか。首を横に振ったせいでまた吐き気を催したらしく、海に向かってむせている。握り締めたレースの手布がいかにも軟弱だ。

 全くバカバカしい。いま見直したら足元にちゃんと影はある。それにこいつは昼間も危なっかしい足取りで散歩しとった。大体テンプルの聖女の連れが吸血鬼であるはずがない。たぶん光の加減か、飲みすぎだ。

 もういい、今夜は楽しもう。明日で航海は終わる。半月のあいだ運命を共にしていた乗客たちともお別れだ。再び会うことはないだろうから。


 近づいてきた手漕ぎボートから太いロープが二本投げ上げられる。水夫たちの手で船尾の金具にしっかりと結ばれたのを確認すると、グレッグ船長が手を振った。遠くでムチをくれる音と馬のいななきが聞こえる。港にそそりたつ塔から重い金属音が響き、鉄で補強された滑車がロープを巻き取り始めると、帆を畳んだグースエッグ号は静かに正確に桟橋へ引かれていった。

 風の精霊を失った港へ安全に船を導くため、人が作りだした無骨なカラクリか。
 だが数十隻もの船が居並ぶ桟橋と背後に広がる白い街にはドルクも素直に感心した。活気と規模はクインポートを倍にしても敵わない。桟橋の向こうに見える商館には黄色い旗と商家の家紋が幾つも垂らされ、朝の光を浴びて揺れていた。無数の人足が出入りする倉庫群は養蜂箱の列より騒がしい。

 聞いた話では、住む人と市場で扱う品物の量は夜明け前の四倍にふくれ上がり、選り好みしないなら割の良い仕事がすぐ見つかるという。服や食い物の値段、それに宿代も安い。ただし、一歩裏道に入れば油断は出来ない。いや、表通りでもスリや引ったくりに遭うというし、若い娘がかどわかされるのも、川に死体が浮いているのも日常だという。

 ティアが船倉の荷から真っ先にスタッフを出してきたのもそのせいだろう。船長に忠告されて、ドルク自身も剣を帯びた。主にも拳鍔をつけるよう進言したが、ポケットに入れっぱなしのようだ。苦い経験が師となる前に、この街ではくみしやすいと見られるのは余分な危険を招く事とご理解いただければ良いが。無力に見せかける事が最良の盾であった船内とは違う。

 だが、無秩序を内包する猥雑な街でなら、密かに贄を得るのはたやすいはず。宿に呼んだ女がいつの間にか消えても気にする者は多分いない。人間そのものを売り買いする闇市が開かれていると噂に聞いた。
 もともと狭い船で危険を冒していただく予定も、主の手を煩わせるつもりもなかった。

「迷惑かけちまったな、ティアちゃん。済まねえが風邪の事は黙っとってくれるか? 倒れた若いのも二日ほど寝込んだら元気になったし、それにあんたら三人はかからんかったし」
 甲板に上がってきた客の間をめぐっていた船長が、別れの挨拶の半ばで声を潜める。そんな船長の耳に、共犯者の顔で見習い聖女がささやき返していた。
「次のお客さんと荷の依頼が減っちゃうから?」
「そういうこった」

 屈託の無い船長のウィンクに胸をなで下ろす。
 昨夜はティアのお陰で助かった。人目は無いものと油断し、幻術を解いて物思いなどしていた主の失態を、見事に救ってくれた。助けを求める心話を受けた時は肝が冷えたが、法衣が人に与える安心感は大したものだ。

「ねぇ、船を後押しさせてた風の精霊……もう、解体した?」
「いや。だがもう必要ないし、元々名を与えるつもりもない半端な存在だ。魔力の供給を断てば数日で大気に解ける」
「それ、ちょうだい。ちゃんと面倒見るから」
 主は困惑しているようだが、それぐらいの褒美は与えてもいいだろう。人々の間に生まれかけた不信や不安を、見習い聖女の肩書きでティアがことごとく潰してくれていた。

「自律させるまで、時間と魔力をかなり費やすことに」
「平気、あたし若いし魔力にも自信あるから」
 ため息をついた主が、ティアの左手の平に精霊との契約の紋を転写する。緑の輝きが吸い込まれ、蜜色の髪を一瞬風が巻いた。
「なんて名前にしようかなぁ」
「残念だが、まだ名前という概念を理解出来るほど成長していない」

 ティアが口を尖らせている間に、錨が下ろされ、ボロを詰めた網枕を桟橋にこすり付けて船は止まった。モヤイが結ばれ左舷に渡された板の上に手すり代わりのロープが張られる。

 支度が出来た客から下船してゆく。
 元々、背負い袋ひとつとスタッフしか持たないティアや、荷らしい荷を持たない主は身軽に降りていくが、荷物がある身ではそうもいかない。受け取った鞄と引き換えに、運んでくれた水夫に銀貨を数枚にぎらせた。

 甲高い声に目をこらすと、母親に抱えられ迎えの馬車に乗り込もうとしていたジミーが、こっちに向かって手を振っていた。わが子と一緒になってにこやかに手を上げる夫人に礼で応えながら、胸に広がる苦いものを飲み込む。

 二人が全てを忘れているように、悪い夢だと忘れてしまえればどんなにいいか。病人から助けを求められれば親切で応える素直な水夫を、船倉の暗がりに引きこむ主の笑みも、凶行のあいだ見張りを命じられた事も。三人目のせいで、治療士の疑いを招いたことも。

 だが、疑り深い船員が酒の力を借りて教会に告げ口したところで、都市の闇に生きる有象無象どもに紛れてしまえば、容易には見つかるまい。治安がいいのは大商人の傭兵や自警団が取り締まっている港湾地区だけだと聞いた。

 キングポート……何度も停泊しているが、昔は通過点でしかなかった。
 留まるのは同行する志願者を、血の提供者を補充するほんのひと時のみ。

 かつては舷窓越しに見ているだけだった賑わいの中へ、ドルクは足を踏み入れた。


 係留作業を終えた水夫たちをねぎらった後、積荷を運び出す人足たちを船尾楼甲板からグレッグが見守っていると、妙にニヤついた甲板長が上がってきた。
「船長、ちょっとバカバカしい思いつきなんですが、あの一等船室のお客って……」
「さあなぁ。その話は今回の分を清算して、次の荷と客を積んで、モヤイを解いて外海に出たときにしようや。口封じしたくても、絶対にあいつが追ってこれない安全な場所でな」

「なんだ」
 悔しそうなカルロの頭を軽く小突く。こいつのカンの良さや学のあるところを買って甲板長に抜擢した。しかし、噂好きなのが欠点だ。まだまだ後は任せられん。
「まぁ、ヤブ治療士も、ティア聖女にカマかけてたみたいですしね」
 なら、料理を食ってくれなかったウラミでジェフも色々邪推しとるんだろうな。

「で、ティアちゃんもグルだと?」
「いいえ。風邪ッ引きの首のニキビをしつこく気にしてたそうですよ。本当にそんなモノが乗っててあの娘も仲間だったら話を逸らそうとするはずなのに、全く逆の反応だったそうです」
 甲板長がつまらなそうな顔でため息をつく。

「客や船員がどんどん消えて、最後はたった一人、黒衣の客を乗せたまま岸に突っ込むグースエッグ号か? 話としては面白いがな」
 昔の怪談そのままの悪夢にうなされ飛び起きた今朝まで、あの客の事を疑ってなかったってのは、黙っておいた方がいいな。船長のケンイってヤツが地に落ちる。

「そのオチいいですね。もらって良いですか」
 甲板長は本当に思いつきで話しとったようだ。
「笑われんよう、ほどほどにな」
 混乱期に船乗りの間でもてはやされた怪談。その元になったケレス号の惨劇。イマドキの若いもんは知らなくて当然か。

 真実はどうあれ、もう終わったことだ。
 目の前にいない魔物の事より、昼飯になにを食うか考る方がよっぽど有意義というもんだ。久しぶりの陸《おか》だ。肉に野菜、果物にクリーム、よりどりみどり。川魚を食ってみるのもいい。アカスジ魚のバター焼きと白ワインがありゃ最高だ。
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