夜に紅い血の痕を

著 久史都子

第五章 出で立ち

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1.旅装


 今の城に行くのは不安だった。
先代のロバート・ウェゲナー様の服なら三度作ったことがある。前は不安な事は何もなかった。しかし新しいご領主は……アルフレッド様はどうだろう。

 使い慣れた巻き尺、採寸表と鉛筆、問屋が置いていった最新の生地見本。仕立て屋のクリムはカバンの中身を再確認しながら、最近薄くなってきた頭の中で、街で聞いた噂をひねくり回していた。

 本当の年齢は先代様と大して変わりない。だが、見た目は若い。城にモル司祭が放った魔物を一掃したのなら強い魔力を持っているのだろう。しかし、四十年間眠り続けていたから、面識のある職人仲間はひとりもいなかった。老舗の靴屋が古い足型を出してくれたが、左右に目立った違いが無く、肉が薄い事ぐらいしか解らない。

 代理人の使いが服の仕立てを頼みにきたとき、クリムは十五年やってきた店を畳むか弟子に任せるか考えている最中だった。断ろうかとも思ったが、違う土地で新しく店を構えるとなれば銅貨一枚だって欲しい。結局承知してしまった。

 だが寸法が解らない。御用職人だった仕立て屋は亡くなっていた。跡取り娘は帽子屋に商売替えしていて、昔の記録は何も残っていなかった。城には行かなくてはならない。気が重かった

 馴染みの無い客。しかも権力者とくれば誰だって腰が引ける。ちょっと物言いが気に食わないとか、わずかなしくじりで罪を着せられ処刑される事もありえる。それ以上に、人を食う存在だという真実が恐い。

 夕日を背にブドウ畑に刻まれた坂道を登り、日没と同時に城についた。
 門を警護していた衛士に招きいれられ、石造りの廊下を行く間も不安だった。立ち襟に蝶ネクタイ、黒無地に貝ボタンをあしらった型の古い衣装の案内人にも馴染みが無い。ドルクと名乗り新しい領主の側近く仕える者だとにこやかに話しかけてくれたが、クリムには狼の笑みに見えた。

 通されたことの無い西角の部屋に案内され、新しいご領主に引き合わされたとき、じっとりと手に汗がにじむのを感じた。
「呼びつけて済まなかった。急ぎ旅装をひとそろい仕立ててはくれないか。材料と方法は任せる」
「それでは、失礼してお体を測らせていただけますでしょうか」
 目を見ないように注意して巻尺を首にかけ採寸表を鞄から出す。助手は連れてこなかった。危険は自分一人でいい。

「手伝いましょう」
 手を差し伸べる案内人に礼をいって記録を頼み、采寸に取りかかる。上着を脱いだ不死者の体を正確に細かく測ってゆく。先代様より細く手足がひょろ長い。しかし布の下の硬く冷たい感触は同じだった。鉄の腕《かいな》ともいわれる強靱な肉体。生身の体ならひとたまりもなく掴み潰され引き裂かれる。

 その体を覆うシャツは布地も仕立ても良いものだったが、型は古くあちこち擦り切れかけていた。墓場の匂いがするような気がした。
「取って食いはしないから、落ち着いて仕事をしてくれればいい」
 いつしか指が震えていた。クリムはおのれを叱咤して何とか采寸を終えた。

「三日お待ち下さい。ご満足いただける品をお持ちいたします」
 今着ていた衣裳で好みも大体分かる。
「よろしく頼む」
 紅い唇がつり上がる。肉食獣の笑み。気に入らなければ食い殺されるかも知れない。

 クリムが店に戻ると使者を通じて手付け金が届けられていた。

 クリムは采寸した表を見習いの小僧に書き写させ、同じ体格の若者を捜しに行かせた。
 まずはシャツの型紙を起こす。襟は多少広く当世風に。しかしボタンは隠して派手さは抑える。袖が少し膨らんだ艶と張りのある白無地のシャツ。皮脂の汚れとは無縁なお方だが、三枚分裁断した。先代様の様に、胸元に赤い染みをつける事もあるだろう。

 旅装ならば上着は丈夫な布がいいだろう。青ざめた白い肌と銀の髪が映える滑らかな黒い布。銀色の裏地と唇に合わせた血の色の飾り紐。それらを問屋から取り寄せる間に数点のデザイン画を描き、弟子のカイルと職人たちに見せて感想を聞いた。

 型紙に起こしたのは腰周りを絞り込んだ物。広がる裾には三つのスリット。肩に入れる芯は小さめ。袖は動きやすさを優先して余裕もたせ、背の中心と脇下には大胆に切れ込みを入れた。同じ布で作るズボンは真っ直ぐな足の線が出るよう極力飾りを廃し体に沿わせる。

 翌朝、追加だと“直し”の依頼書と共に届けられた夜空を思わせる布で裏打ちしたマントは、一度解いた後、繊細なヒダが出るようクリム自らが慎重に針を進めて縫い直した。

 仮縫いは、小僧が見つけてきた細身の若者に銀のカツラを被せて済ませた。クリムはお針子を集め、職人たちと共に一昼夜かけて衣裳一式を縫い上げた。木型を見せてくれた靴屋に頼んだブーツ、その知り合いに依頼した、黒い皮手袋や靴下、ベルトに物入れといった小物も何とか整った。

 夕刻、それらを収めた箱を抱えて馬車に乗り込んだときは、疲れと出来栄えにたいする自信で、前ほどの恐れはなかった。
 同じ部屋に通されたのも落ち着けた理由かもしれない。ドルクに手伝わせてご領主が新しい服をまとうのを怯える事無く見ていられた。

 思った通りに出たヒダと影にクリムは満足した。夜の闇と月光が凝ったような姿に見とれた。寸分たがわぬ体形のはずだが、仮縫いに雇った若者とは風格が違う。

 主従からの賛辞を頭を下げて聞き、その後、普段用のコートを頼みたいと言われた。クリムは首を横に振った。
「弟子のカイルにお任せ下さい。私はこの仕事を最後にバフルを出るつもりでおります」
 思ったよりすらりと言葉は出た。

「それが良いかもしれないな」
 応えたのは若者が不意に年をとったかのような……本当の年齢の声。気迫のない、敗北者の響きだった。

 君主としての装束ではなく旅装を注文する新しい領主。クリムは確信した。この方は領地を捨てようとしている。この小さな大陸の外は人の世界なのだ。近いうちこの地にも夜明けがもたらされる。その前に、密かに逃亡しようとしている。

 クリムが作った衣裳には危険な闇が込めてある。この上なく魔物に似合う服。それは海の向こうの同胞へ放つ警告だ。血の香りと闇をまとう旅人に近づくなと。黒ずくめの異邦人が秘める牙に気をつけろと。

 クリムはドルクから残りの代金を受け取った。ずいぶん重くて慌てたが
「新しい地での店の資金に当ててください、とのことです」
 そう言われて初めてクリムは魔物に感謝した。

 一ヶ月後、通りの店を弟子に任せたクリムは、妻が唯一遺してくれた娘を連れてバフルを出た。

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2.偽名

 教会が再開されると、工房が作る組合や、大商人らとの関係は改善した。
 歩み寄りの証として代理人事務所にやってきたのは褐色の肌と巻き毛を持つ、独立したばかりの調香師。会合で損な役を押し付けあった末、慌てて差し出された贄かと思ったが、当人の強引な立候補と知ってイヴリンは驚いた。
 あの夜、疾走するアレフ様を見てしまったらしい。無意識の魅了……罪な事をなさる。

 血と引き換えに太守の後ろ盾を望む香水屋を伴って、イヴリンが城を訪れたのは出立の直前。表面的には昔どおりの威容を誇る広間。だが、かつてを知る者の目には、薄いじゅうたんは床の応急修理の跡を隠す為だと知れる。新品のタペストリーは絵柄同士に関連性もなく、色合いも軽く感じられた。

 赤いベルベットを掛けた玉座の前で商会の代表者を迎えたアレフ様の装束に、かすかに眉をひそめる。一応、領地を掌握する為に、視察に出かけるというウワサは流してあったが、このような場面では略式過ぎないだろうか。自己紹介の途中で瞳を捕らえられ、頬を上気させて冷たい抱擁に身を任せた調香師は、気にしていないだろうが。

 張りのある褐色の肌を楽しむようにゆっくりと唇を這わせた後、牙を閃かせて首筋に顔を埋める様をイヴリンは見ていた。うっとりと細められる目と、香水屋がもらす溜め息に喉の疵痕がうずく。この感情は嫉妬、だろうか。

 正式な場で丁寧に味あわれている調香師と、支配関係を確立する為の形式的な一口しか飲んで貰っていない私。状況が違うと言ってしまえばそれまでの事。量と回数を抑えるのは、有能なしもべを長くもたせたいという意向の表れ。信用されている事を誇りにこそ思え、心を揺らせる理由は無い。

 抱擁を解かれた香水屋が陶酔にひたったまま退出する。扉前で警護していた衛士も共に去り、空虚さが残った。
 笑みを浮かべ後味を楽しんでいる主にそっと声をかけた。
「ウェルトン様……リチャード・ウェルトン様、リック!」
 夢から覚めたように主の目がイヴリンに向けられる。
「ああ、私のことだったな」

「一瞬、反応が遅れただけでも、目ざとい者は気づきます。ドライリバーを越えるまではお気をつけ下さい」
 携えてきた五冊の手形帳を差し出しながらも、不安がよぎる。人を介して複数の名義で口座を開いたが、為替による海を越えた送金を司っているのは教会だ。
「うち一つは古い口座を孫が相続したという形に。筆跡がそっくりなのは祖父に似たのだと言って」

「手数かけたね。……その上、こんな物まで押し付けようとしている私を、恨んでくれて構わないよ」
 引き換えに渡された水晶球は、手には温かく感じられた。肉体を持たない精神だけのホムンクルス。そう説明は受けているが、正直仕組みはよく解らない。

 解っているのは使い方。特定の呪を唱えれば、しばらくの間だけ水晶球を持つ者の心と代理人達の心を繋ぎ、アレフ様の代わりに心話を送る事が出来る。同じ声音《こわね》で……いや、心色《うらいろ》という言葉を使っておられたか。

 距離が遠くなれば心話は弱まる。遠い地では季節も違えば日没の時間も異なる。本当はこの地を離れていると気づかせない為の術具。目を凝らせば赤く細い筋が水晶の内部に幾つも走り、繊細な模様を織り上げていた。この色は血、だろうか。

「歳若い代理人には特に気配りを……ひとりで解決できない問題なら、水晶を介して老練な者に助言を求めればいい。私より的確な答えが返ってくる」
「皆をあざむく様な術具を作られずとも、わたくしを闇の子にしていただけば、名代を務めさせていただきますのに」
 黙って首を振る主に、やるせなさを感じる。滅びの道連れとなる命の存在が、主をこの世に繋ぎ止める縁《よすが》になればと思っての申し出。永遠の命などという幻想に興味は無い。

「まずはジェイルの工房に、香水ビン製作を考慮するよう指示を出してみてくれないか。貴女が連れてきた巻き毛の青年の望みだ」
 腕の良い型師を抱えたワインボトルの工房。てのひらに乗る小瓶など児戯にすぎぬと門前払いを食らった。そう、道みち香水屋が話していたのを思い出した。

「わずかな血と引き換えにどれほどの力を得たのか……彼も疑っているが、私自身も知りたい。知己のいない工房が、時代に取り残された老人の言う事を聞いてくれるものかどうか」
 イヴリンの肩に軽く手を触れた後、扉へと向かった主が突然声を上げて笑った。
「どうなさいました?」

「必死に権威の網を張ろうとしているのが自分でもおかしくてね。晩秋に壮大な巣を張るクモの様だ……どうせすぐに凍えて死ぬのに」
「不吉なことを」
 クモの雄は秋に恋をする。そして思いを遂げたあと雌に殺されるという。その身を次代に捧げるために。

「あの、聖女見習いはどうしています?」
「書庫に入り浸っている。精霊魔法を覚えたいらしい。辞書片手では何年かかるか」
 手に入れた存在の貴重さを彼女は分かっているのだろうか。アレフ様が滅びてしまえば血の絆は崩壊し水晶球の力も失われる。東大陸の秩序の要を預ける以上、身を犠牲にしてでも守っていただかねば。
 間違っても、食ってもらっては困る。

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3.宿命の対決

 夕闇の中、焚火が揺れ、緊張したティアの頬にも熱気が揺れる。
 相対している敵はマントをはおったまま、身構えもせず悠然とたたずんでいる。

 身のほど知らずな挑戦者を見下している魔王みたい。でも、油断からくる余裕の態度には、手痛いしっぺ返しが付き物。教宣用の英雄歌でも人形芝居でも、この手のカタキ役は、甘く見ていた挑戦者の実力に驚き、本気になったところでヤラれちゃうのがお約束。今だってそうなるはず。ティアは確信していた。

 この瞬間をずっと夢見てきた。
 そのために寝る間も惜しんで、努力した。
 知識を貪り、体をいじめてきた。
「体コワして、今に死ぬって」
「男になりかけてるぞ、ムネ全然育ってねーし」
 聞こえてくるのは心配にカコつけた呆れ声とやっかみばかり。けど、少しずつ認めてくれるようになった。

 特に格闘術……ガルト拳師は心強い味方になってくれた。教科書にはのっていない危険な技や奥義まで教えてくれた。

 術の先生は、男のほうが攻撃呪を扱う集中力に長けてる。女は補助のための呪を覚えるべきだって伝統に固執して、使い物になンなかった。だから書庫に忍び込んで本から学んだ。

 一番覚えたかった術、ホーリーシンボルに関しては、正式な司祭にも負けない知識と理論を頭に詰め込んで、演習も繰り返してきた。今のテンプルで最も強い光だと後見のメンター先生は褒めてくれた。

 今はまだ発動させるまで時間がかかり過ぎるけど、威力についてはバフルで実証済み。

 唇を舐めた。薄く笑みが浮かぶ。
 倒したいと願いつづけてきた敵が今、目の前にいる。
 だけど、今から始めるのは殺し合いじゃない。お互い武器も魔法も使わない。そう取り決めた“試合”だ。

 アレフは本気じゃないだろう。熱心に頼んだあたしに根負けして応じてくれただけ。手を出さずに避け続け、疲れを待つ気なのはわかってる。速さと持久力には自信あるだろうから。

 でも、しばらく一緒にいたから、こいつの戦い方のクセは頭に入ってる。そして、大きすぎる欠点も。

「いくわよ」
 まずは本気になってもらう。

 構えて、相手の目を真っ直ぐ見つめ、大地を蹴る。
 そばで成り行きを見ていたドルクの口から「ほう」と感嘆の声が上がる。瞳の力を使わないと計算した上での戦い方。アレフも一瞬驚いたのか、余裕で避けられるはずの拳があごをかすった。

 続けて回し蹴りを放つ。焦ったらしく防御のために手が出てきた。けど予想済み。ハンパな体勢ではいくら人間離れした力でスネを打たれも、たいした事はない。むしろ有利な間合いに持ち込んだあたしのヒジのほうが強い。

 伸ばしていたヒザを曲げ、守りとすねへの攻撃の為に伸びてきた手刀を空振りさせ、回転と体重をかけたひじ鉄を脇に打ち込む。肋骨にヒビ入ンなくても、女の子の攻撃をモロに受けた驚きはかなりのハズ。特にケンカ慣れしてない“男の子”なら。

「防戦では、あたしに勝てないわよ」
 脇を押さえよろめいたアレフに宣告して、言葉が終わる前に連続で拳を繰り出す。さすがに優雅によけ続けるって作戦は返上したらしいけど、弾くだけで攻撃してこない。これがもう救いようの無い最大の欠点。

 生前の意志を失い、腐り残った本能だか反射で襲ってくる“なりそこない”にさえ手加減する。
 もう、何度注意したことか。
 こいつには状況がまったく分かってない。

 その上、体系化された格闘術はもちろん、我流のケンカ拳法すら一度も考えたことがないと思える、ムダのありすぎる動きと不安定な構え。せっかくの速さと力が全然生かされてない。
 これならあたし勝てちゃうじゃない。

 だから今日、試してみる。

 避けた時に広がったマントの影を利用して、カカトを首筋に叩きこんだとき、さすがにアレフの目に戦意が閃いた。直後に繰り出された突きを、あわやという所でのけぞってかわす。

 本気になったヴァンパイア相手に、一対一で戦って人間が勝つなんて、まず不可能だ。生き延びる事さえ難しい。だけど、その不可能を可能にするために、テンプルは諦めずに研究を重ねてきたハズ。

 いままでしてきたのは、対人間用の格闘術。
 でも、今からするのは違う。

 人間より遙に反射神経が鋭く力も強い敵との戦い方。習得した技は、本当に通用するのか……
 ティアはぞくぞくするような高揚感を覚えた。


 ティアの顔が左右の目にズレて映る。気持ちが悪い。脳に加えられた振動のせいだ。首もうまく動かない。もし生身だったら頚椎を損傷している。

 これは為し合いじゃない。ティアは明らかな殺意をもって腕と足を繰り出してくる。このままでは殺される……いや“壊され”る。
焦って出した右手は、また空を切った。

 跳び離れたティアのきらめく瞳。親族含めて死罪となる大逆を為そうとする者の顔。いや、立場と義務を投げ出した時から、太守としての法的特権は失っているか。

 クインポートまであと半日。街道から少し外れた牧草地に人影は無い。馬車を換えフードを目深にかぶり軽い幻術をまとっての、忍びの道行き。斃されても死体が残らない身ならば、ティアを咎める法は無い。目撃者がいなければ……
 ああ、ドルクがいた。止める素振りもなく、夕食の支度に勤しんでいるが。

 考えている間に目の焦点は合い、首の痛みは消えていく。だが、回復に関して条件は等しい。私が滅びない限り二人とも死ぬ事は無い。

 ならば、ティアの手か足を折って行動不能にすれば、このバカげた事態は終わる。幸いイモータルリングを介した心理干渉は拒絶されている。同調してこちらまで痛みを感じる事も無いはずだ。

 為し合あいである以上“まいった”の一言でもこの事態は終結する。だが、負けてもいないのに、口にはできない。ティアの身を思ってナドと言い訳したら後が怖い……気がする。

 ティアの右腕に殺気を感じる。
 突っ込んでくる前に、跳び込んで掴もうとした。突き出されたハズの拳が消失する。左側頭を殴られて混乱した直後に、ミゾオチに尖ったモノが食い込む。灰色のスカートの影にある足首を掴もうとしたが、そこには何もなかった。

 距離をとって心を落ち着ける。さっきまでの打撃と違って痛みはさほど無いが、ティアの動きが見えない。いや、違う。見えているのとは少しズレた位置から手足が来る。おそらく錯覚を利用した技だろう。悔しいが身体の扱いでは彼女の方が長じている。

 私に、ティアの手足は掴めない。
 ならば動きの鈍い胴体か頭……は、幾らなんでも危険すぎるか。肩を捕らえ骨を砕いて動きを止める。こちらの手も無事では済まないが、このままでは勝てない。

 狙いを定めた直後、ティアの方から突っ込んできた。肩に伸ばした手が打たれて外れ、横合いから重いものが叩きつけられた。夕空が回転する。
 気づくと目の前には青草。その向こうでティアが太ももを撫でながら息を整えていた。ダメだ。胴体に集中すると末端と他の四肢の動きが完全に視界から消える。

 だが何度打たれ蹴られても、諦めなければ……最後に一つでも当てれば勝てる。
 同じように回復はしていても、生身には限界がある。柔らかな筋肉は栄養素を消費し続け熱を帯び疲労が蓄積する。必ず動きが鈍る時が来る。

 そのためには、休んではいられない。
 立って、可能な限りよけて、変化を待つ。

 喉を突きにくる左手を、体をハスにして避けた直後、足の甲に痛みが走る。うずくまろうとした腹に一撃を食らう。
 だが、今回のは確かに見えた。

 踏まれなかった足で踏み込み肩に手を伸ばす。掴みきれなかったが、服にはかすった。

 限界が、来た。
 次は捕まえる。

 反転しながら背後へ回ろうとするティアの腕がはっきり目に映る。
 これなら楽に手首も捕らえられる。掴んでひねり上げれば、終わる。

 手が届く寸前、彼女の腕がブレた。爪に柔らかい肌を裂く感触。赤い線から血がしぶく。鮮烈な色と香りに思わず手を引いた直後、灰色の塊が胸にぶつかり、手のひらで突かれた。心臓がひしゃげるような激痛。うその様に体が宙に舞う。地面に頭が叩きつけられ感覚が途切れた。

 意識を引き戻したのは、重量物に胸が潰される衝撃。血が逆流する苦しさに体が反る。何が起きているのか知ろうと開けた目を白い光が刺した。

 耳には心地良い歌うような詠唱。地面に走る白い方陣。
 これは、ホーリーシンボル。
 対処法は術者を殺すか……効果範囲から逃げる。

 手に力が入らない。
 痛む足が空しく地面を掻く。
 わずかなら移動できるが術式完了まであとわずか。間に、合わない。


 右ヒザいっちゃったな。立ってるのも辛い。けど胸骨ごと心臓ツブせたんだから安いモノ。痛みでかえって破邪呪に力がこもる。

 こいつさえいなければ、父さんは、よそン家の父親みたいに家族だけを愛してくれたはず。母さんが新しい恋人と出てく事もなくて、あたしは夕空を見上げて泣いたりしなかった。

 このバカが四十年も眠ったりしなければ、父さんは辛い思いしたあげくに、あんな酷い殺され方しなかった。あたしも牢屋でカツえたり凍えたりしなくて、胸を刺す痛い夢を見て飛び起きる事もなくて……

「でもね、ティア。
君が生まれたのも、私と出会えたのも、お父上を呪縛した魔物のおかげ、とも言えるんだよ」
 メンター先生、あなたが言ってた事は、悔しいけど正しい。

 父さんが結婚したのは母さんが似てたから……魔物が愛して失った娘に。たぶん父さん自身の想いじゃない。母さんがあたしを身ごもったのは、そんな父さんを振り向かせるため。でも、ダメだった。まだ若かった母さんは傷ついて絶望して、人生をやり直した。

 それに、アレフが眠り続けてなければ、老いて寂しくなって結婚なんか考えだす前に、父さんの命は啜り尽くされてた。独身であるべき代理人がもうけた、あり得ない子供。
 光の方陣から逃れようと無様にあがいてるこいつが、父さんを食い残してくれたから、あたしはここに居る。

 だからって感謝する気には、やっぱりなれない。
 ……でも、敵討ちを手伝ってくれそうな心当たり、他に居ない。

「ティ、ティアさん!」
 見物を決め込んでいたドルクが、慌てまくって叫んでる。
「冗談よ、ジョ・ウ・ダ・ン」
 詠唱を中止して、笑ってみせた。
「あたしを侮って、最初本気出さなかったバツ」
 ヒゲオヤジってば、剣に手をかけてニラんでる。ちょっとヤバかったかな。

 回復の呪文を唱えた。心の奥に感じる光を呼んで、広げて包む。
 切り裂かれた腕と、不自然な動きを強いて壊れかけてた手足の筋肉、それと右ひざの痛みが軽くなっていく。
 治癒の効果は、倒れてるアレフにも及んでるはず。
 そろそろ口、利けるかな。

「どう、これが今からアレフが闘おうとしているテンプルの力よ。しかもあたしは見習い。下っ端だからね」
 身を起こしかけて胸を押さえたアレフから、ささやくような声が聞こえた。
「お強いんですね」
 危機感のない言い方に、ムカついた。

「まだ、分かんないの! テンプルが得意なのは今やったみたいな個人戦じゃなくて、数人が連携する集団戦! あんたは魔法を使わなかったし私も補助魔法は使わなかった。
でもね、
ホーリーシンボルを中止しなかったら、今頃滅びてたのよ。
あたし一人に苦戦してて、この先どうなると思ってんの?」

「いや、でも今まで見たテンプルの司祭と比べたらティアの方が。あのクインポートにいた……ラットル?」
 あたしを縛ったまんま牢屋に閉じ込めて、焼き殺そうとしたムカつく司祭か。馬車に細工しようとして、とっとと逃げだした意気地なし。
「あれはクズよ」



「あんなのを基準にしちゃダメ」
 だが、ティアを基準にするのはもっと間違いだろう。
 初めて会ったとき、彼女の言葉にこもる意志の強さと目の光にアレフはおどろいた。周囲の目を引き、好悪ないまぜの感情を喚起し、騒動を振りまき続ける娘。

 禁呪を操り父を滅ぼしたモル司祭。テンプルでもっとも実力と実績があるはずの彼に、殺されかけたとティアは言った。
 目を覆いたくなる内規のゆるみと身びいきが横行するテンプル。仲間である見習い聖女を、あれほどの手間をかけて公衆の面前で処刑するなど……。密殺では安心できず、確かに死んだと大勢の証人を必要とするほどの、怖れを抱いたのではないだろうか。

「あたしはテンプル流拳法の名人ってわけじゃないよ。最近は術のほうに力入れてたし……並ってとこかな。
それに女の子だし、腕の長さでも不利。あたしが勝てたのは奇跡だって、誰もが思う。でも、あたしはもう一度勝つ自信あるよ」

 わかっている。本気になっても、かするだけで触れる事も出来なかった。最後にティアの手首を裂いてしまったのは、心臓への一撃を放つための目眩ましだったと、今ならわかる。最後までいいようにあしらわれた。
 もし、なんらかの武器……スタッフを持っての試合だったら、もっと早くティアが勝っている。

 だが、今まで人間に負けた事はない。未知の魔法にかかったような気分だ。
「この前城に侵入したテンプルの……」
 反証を挙げようとした口をつぐむ。ティアの同僚にした非道を思い出した。怯えきった虜囚の血を力尽くで飲んだ。飢えに苛まれて、という言い訳は卑怯だろう。

「そう言えば、クインポートに帰ってきたモル司祭ご一行、人数が足りなかったわね。何人かはカウルの山城にいったんだ。で、あんたが倒したの?」
 絶句した。
「無理よね。ドルクか、城に放し飼いにしてる使い魔にやらせたんでしょ。
今の顔からすると、とどめだけは刺したんだ。どうせ武器を奪って縛り上げた無抵抗な捕虜の首に牙を突き立てたんだろうけど」

 縛り上げてはいないが、装備を奪い光の無い牢にバラバラに閉じ込めた。それに彼らは殺されるかもしれないと怯えていた。何があっても命までは取られないと確信しているティアとは違う。少し曖昧にうなづいた。

「完全武装した聖騎士に、あんたが勝てるとは思えないもん」
「生け捕りにしたかったので、罠にかけて一人づつ捕まえました。確かに、テンプルの連携戦術は侮れませんからね」
 切れ目を入れた丸いパンに、あぶったくんせい肉を挟みながら、ドルクが深刻な顔で同意する。

「ヤバいと思うでしょ?
 テンプルはひたすらヴァンパイアを倒すことだけ考えて来たのよ。闘うことがオシゴトなの。そんな連中を相手に闘おうってのに、あんたは拳ひとつ満足に握れてない素人なんだもん」
 胸の痛みが取れたのを感じて、肺に空気を取り込んで吐いてみる。もう血の香りは混ざってない。

「ケンカが苦手なのは性分だから仕方ないとして、せめて魔法ぐらいは実戦で使えるようになってもらわないと。
それに、ある程度体術が出来てなきゃ、呪文を唱える間合ってヤツが掴めないのよね。
というわけで、今日からあたしがみっちり鍛えるから」

 言葉の奔流に溺れかけていた頭が、最後の一言を理解したとき、ティアが目の前に立っていた。
「鍛える……って?」
 それは無理だ。老いない体は成長もしない。

「鍛えるのは、ココ」
 額を人差し指で突かれた。

 ため息交じりの精霊を呼ぶ呪と印。
 微風がティアの周囲を舞って、大気に溶けていった。
「寝る間も惜しんで魔術書を訳したけど、使い物になンなかった。自律した意思ある風なんて意味わかんない。辞書に限界があるの分かってたけどね。共通文字じゃ抽象的な術のガイネンってやつは表現できないから」
 話題の展開についていけない。鍛える話と精霊術に何の関わりがある?

「あたしの頭の中には、古い魔導師が作った旧字体とガイネンってやつが入ってない。だから術をモノにするのに時間がかかる。でも、アレフは多分、見よう見まねでもホーリーシンボル使えるんじゃない? 反作用で滅びちゃうから発動は出来なくてもさ」

 出来る、だろうか。考える時間が何日かあれば……
「多少の変更をしてもいいなら、近い事は」
「丸覚えじゃなくて改良も出来ちゃうんだ、マジすごいね」
 あからさま賞賛に、敗北に腐りかけていた気分が少しだけ上向く。

「術だけでなく色んな学問にも、ガイネンとか公式ってあるでしょ。
ケンカとか斬りあいにもあるんだ、公式とか専門用語にあたるものが。頭の中のそれが体の動きに結びつくとワザになるの。あたしはそれを使って闘ってた。
でも、アレフはいちいち考えてたでしょ。辞書片手に共通文字で魔術書を読むみたいに」

 複雑な方程式を、教会が教えているような単純な数式だけで解くわずらわしさを想像した時、ティアの言いたいことが……勝てなかった訳が理解できた。

「じゃ、あたし達が晩御飯食べてる間、型の練習ね。マント脱いで」
 抗議しかけてにらまれる。
「負けた奴は勝ったもんの言うこと聞くのが約束よ」
 いつした、そんな約束。少なくとも試合の前には言ってない。という言葉は飲み込んだ。ティアの正しさは分かっている。

「本当は強い筈なんだから。ヴァンパイアは人を捕食するのに十分な力を持ってるはずでしょ」
 だが、それは闘うための力ではない。傷つけないための……諦めさせるための力だ。


 時々ティアから殺意を感じる。
 私を滅ぼす為に身につけた技術と知識を、当の相手に教えようとする心境……憎しみと愛が似ていると言ったのは誰だったろうか。まだ何色にも染まっていない幼い恋人候補を、理想の伴侶にしようと教育に奔走する恋多き老人のような動機だとしたら。
「鍛えたせいで滅ぼされるのなら、これほど空しい努力もないな」
 聞こえないようにつぶやきながら、時々飛ぶ指導に合うよう体を操り、ティアがやってみせた型を忠実になぞる。こぶしの突きから始まり、かわしと防御、そして蹴りに移る一連の動作。

 その目的と筋肉と骨の形と構造、力学的な理論が、美しい一つの完成形となっていると感じた。確かに無駄なく力を拳や足にこめることはできる。理にはかなっている。
 しかし、別の肉体を壊すための道具として身体を使うという考え方は、楽しくない。なぜテンプルはこうした知識を破壊に使おうなどと考えられるのだろう。創造と永続に使われてこそ、知識は活きるものだろうに。

「やるじゃない、完璧よ。でも……限界まで速く」
 口に食べ物を含んだまま冷酷にティアが指示する。
「あのね、アレフはどーしようもないほど華奢なのよ。あたしの腕と大差ないじゃない。身長がある分あたしより重いはずだけど。ドルクと比べていかに情けない体格かは分かるわよね」
「あの……」抗議しかけたドルクが、ため息をついて首を振る。

「殴ったり蹴ったりって技にはあんまり力は関係ないの。手足が筋肉で盛り上がってない場合は速さが勝負。そこんとこをアレフは使い間違ってるのよね」
「ああ、そう言えばティアさんの闘い方は打撃だけでしたね」

「ヴァンパイアと組討ちになったら命取りだもの。いかに体を掴ませないかっていう闘い方を叩き込まれたわ。手首一つ取られて骨を砕かれたら戦力半減。でも、もしもの時は腕一本犠牲にして反撃の関節技、なんてのもあるし、死物狂いの人間は恐いわよ」
 それは、恐怖にとりつかれていなければ、という条件つきでだ。

「ティアは……私を恐いと思っていないから」
「そうね。でも偉大な英雄の遺功で偉そうな顔してる困った連中ばかりだと思ってもらっても困る。テンプルにはもっと根性のすわった、あたしみたいのがゴロゴロしてるから」

 本当にこんな人間が大勢いるのなら、なぜこの世界がヴァンパイアの配下になったのか、永く安穏に暮らして来れたのか不思議になる。
 いや、
 だからこそ、もう世界は人の物になったのか。

「それにモルとその片腕やってる聖騎士は間違いなく強いわよ。今のあたしよりはね」
「今の?」
 思わず聞き返す。
「近い将来、あたしのほうが強くなる。その時、せめて足手まといになんないようにあんたを鍛えとくの。あんたにとっても親のカタキでしょ。アダ討ちに参加したかったら、文句言わずに鍛練する!」

 近い未来、私は狩られ滅ぼされる。元は人であったのに術を使い強力な力を身に付け、生血と富を搾取して永い命を享受してきたツケだと言われれば、返す言葉もない。

 敵討ちに行こうというティアの意見は無茶だが、残された時間が短いのなら、積極的に動いたほうが有意義だろう。予定のない不確かな旅も悪くない。海の向こうに広がるのは、私が滅びたあとに来るはずの、この地の未来。

 それに、モルという名の命を奪う決心をしたなら、その方法を学び身につけるべきだろう。たとえ返り討ちにあうとしても、努力をしないわけにはいかない。

 ティアを死なせたくはない。
 ふたたび型をなぞりながら、心の奥から響く思いを感じていた。
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4.船出

「リチャード・ウェルトン様、そのイトコのティア・ウェルトン様、そしてドルク・デルイナン様……ご予約いただいたとおり一等船室をふたつ確保してございます。お確かめください」
 カウンターに並んだ三枚の乗船券の日付と名義を確かめたドルクは、手形を差し出した。

 金額の次に受付係が指でなぞったのは、アレフ様が振出人欄に書かれた偽名のサインではなく、名宛人欄に押されたバフル教会の印。生まれたてのウェルトン商会には実績どころか実体もない。だが、十袋以上の金貨を教会に預けさえすれば、紙切れ一枚で小さな家一軒ぐらいなら買えてしまう。為手というのは魔法や自動人形以上に不思議なカラクリだ。

 数枚の荷札と乗船券を入れた皮の書類挟みを受け取り、波止場前の事務所を出る。輝く水平線を背景に、グースエッグ号がマストから下がる索具を静かに揺らしていた。人足たちが水樽の積み込みにかかっている。天候が大きく崩れない限り、出航は明日の午後だ。

 薄緑色の船首では、腕を翼に変じた女性像が軽く口を開き潮風の彼方を見つめている。彼女の妙なる歌声が血臭にむせて止まる事があってはならない。その為に、必要な旅支度があとひとつ残っている。

 主の気配を探れば、市場の方で人いきれと陽光に参っている様子がかすかに感じられた。魚の匂いと喧騒に満ちた広場へ早足で向かう。売り手の威勢のいい呼び込みと、したたかな買い手の値切る声が、レンガの壁と石畳の間で混ざり合いドルクを包み込んだ。

 赤茶色の外套で法衣を隠したティアは、虹色に輝く貝柄の刀子ひとそろいを半額にしようと粘っているらしい。だが、財布を握っている連れの服装が上物すぎる。貝細工屋の老婆は値札から銅貨一枚たりとも負ける気は無さそうだ。

 あの二人が周りの者にどう見えるのか考えながら、ドルクはしばらく眺めていた。若夫婦や恋人同士と見るには距離を感じる。兄妹にしては似てない。親戚、友人……いや、わがままなお嬢さまと付き人だろうか。

 青空の下では、太陽の傍らに控える真昼の月のようにアレフ様は影が薄い。これは人目を引かぬようにまとっている幻術の効果だろう。
 同じ術は、このクインポートである意味有名人なティアにもかかっているはずだが、彼女の存在感は相変らずだ。

「そろそろ宿に向かいましょう」
 声をかけると、悔しそうな顔でティアが振り向いた。
「時間切れかあ」
 立ち去りかけた直後
「ちょいお待ち。仕方ないねえ、こっちのベルト込みでどうね。暗器だけ買っても腕や足につけられなきゃ、意味無かろうね?」
 老婆がやっと折れたらしい。それにしても、腕輪や耳飾りではなく隠し武器とは……えらく物騒な貝細工があったものだ。


 市場に近い水鳥亭は、港に集まる商人目当ての真新しい宿だった。一階は魚介類の料理とワインが自慢の食堂。二階と三階は客室。気取りすぎてはいないが、建物は立派でそれなりに料金も高く、接客係のしつけも行き届いている。

 部屋が整うまでの間、朝昼兼用の食事を勧められたが、案内されたのは奥の席。柱と籐編みのついたての陰だった。最上階のもっとも広い部屋を要求した客への対応としては及第点といったところだろうか。他の客からの注目を浴びること無くゆっくりできる席。窓から遠いのも助かる。

 だが……
「あ、玉子もちょーだい」
 アレフ様が召し上がらない事をごまかすために、隣の皿からも食べてくれと頼みはしたが、もう少しさりげなく出来ないものか。ティアの無作法に、そろそろ給士がイラ立ち始めている。
 貝柱のクリーム煮に、ハーブを添えた焼き魚。すべて奪って平らげてしまうティアの健啖振りを、アレフ様ご自身は楽しそうに見ておられるが、傍目には腹立たしい光景だろう。

 肉料理を出す機会をうかがっている給士を手を上げて呼び、部屋の方がどうなっているかたずねた。整っていると聞いて逃げ道を見つけた心地がした。
「すみません、馬車に揺られたせいかリック様はどうにも気分がすぐれませんで。出来れば先に部屋に」
「承知いたしました。お客様、お部屋へご案内いたします」

 疑問が解けたような笑顔を浮かべて主と共に去る給士を見送ったあと、代わりについた女給を呼んだ。
「少し休まれたら、リック様も何か口に出来ると思いますので、昼ごろに軽い料理を部屋に運んでもらえますかね?」
「では、白身魚と玉子の蒸し物と、干し貝のスープで煮込んだ麺などはいかがでしょう。臭いや油気がなくて体調が良くない時もすっと喉を通ります」
「それはいいですね。よろしくお願いします」
 厨房に向かう女給を笑顔で見送って、ほっと息をつく。

「エゲツないことするわねぇ」
 テーブルの向こうから厳しい目でティアがにらんでいた。
「心配なさらずとも何も起こりません。泊まっている宿で“食事”をすればどうなるか……それぐらいの分別はお持ちです」
 そう、この街ではたぶん何も起こらない。ただ、渇きは自覚されるはずだ。



 天井の漆喰には波の意匠。壁には砂浜を思わせる麻布が貼られ、床には海色のじゅうたんが広がっている。白木の調度からは生々しい樹脂の香りがはなたれ、魚をかたどった薄緑色の花瓶が呑む白バラの香りとせめぎあっていた。

 水鳥の羽を詰めた寝具は柔らかく軽いが、土から離れているせいか落ち着かない。青く塗られた鎧戸と金茶色の厚いカーテンが陽光を防いではいるが、完全な闇とはいいがたい。数百年ぶりに身を横たえた開放的な寝台は、アレフに浅いまどろみしかもたらさなかった。
 船上では、これに揺れが加わることになる。

「馬車で昼をやり過ごすよりはマシか」
 数日前から架空の人間……リチャード・ウェルトンを演じてきた。光のある場所では影を足元に作り、ガラスや金属面に姿を投影し、息があるフリを続ける。周りを畏怖させ魅了する気配を、穏やかな無視をうながす雰囲気に変え、代理人の館で休む事もなく、人の間で常に緊張を保ってきた。

 しかし、そんなわずらわしさを苦役と感じない、往路とは異なる楽しみがあった。
 誰にも恐れられず注目される事もなく、その他大勢に埋没することで見えてくる人々の暮らしと息遣い。贄の心から読み取るしかなかった、普通の人間の生活。駅の待合室で交わされるグチや、市場の露店商の売り口上にすら、新鮮な感動を覚えた。

 さっきも慌しくエビと豆のワイン煮をかきこむ出立間際の旅人や、干し果物を焼きこんだ菓子とハーブティーを楽しむ散歩途中の老人、彼らの周囲をめぐり世話を焼く給仕や女中を見ているだけで楽しかった。三階の奥まった部屋に追いやられた事が罰のように感じられる。眺める事に夢中になりすぎて手元の演技がおろそかになった罰だと。

 控えめなノックの音がした。
 扉の向こうに重い盆を広げた指先で器用に支える女の気配があった。眠ったふりをするには、彼女の心配と思いやりが一途すぎる。真昼独特の倦怠感をおして身を起こし、鍵を開けた。

「失礼します。ご気分はどうですか?」
 入ってきた彼女の笑顔が強ばり足が止まる。明りを点けるのを忘れていた。ランプの位置は分かっているが、商人のウェルトンが火の呪を使うわけにはいかない。仕方なく南側の窓を開けた。青空と白い雲が目に辛い。

「お休みのところをお邪魔してしまったようで、すみません」
 彼女がテーブルに置いたのは、滑らかな半円の玉子料理と、白い汁に浸った深鉢の麺。困惑しているのが分かったのか、言い訳めいた言葉が添えられた。
「お連れのドルク様がたいへん心配していらして、昼食をお持ちするようにと」

 食欲がないと言いかけて、やめた。自分の為だけに作られた料理など、それこそ転化して以来初めてだ。老いた母の時間を大切にしようと、同じテーブルに着き食べるまね事をしていた時期もあったが、あれはあくまで母のための料理だった。

 フォークの使い方を思い出しながら、黄色い球面から一口分を切り出す。震えるカタマリを慎重に口に運んだ。ゆるい粘土のような食感の中にほぐされた繊維状の魚肉が混ざっていた。甘みを覚える動物質と塩味は血に似ていなくもないが、美味しいとは感じられない。固形物を拒もうとする喉をだます様にして嚥下した。

 次の麺は難敵だ。フォークに絡んだ数本をまき取り、口に含む。潮の香りがする平たい小麦粉の加工物を噛み、スープで強引に流し込む。胃の腑を締め上げるような痛みと、嘔吐の衝動をこらえて、もう一サジだけ温かなスープを口に含んだ。頭の中で白濁した液体を紅い液体にすり替え、なんとか満足そうな笑みを浮かべる事に成功する。

 善意が報われたとほころぶ口元を見上げた時、“本物”が手の届くところにあると気づいた。彼女自身が昼食だったのではないだろうか。ほんの数口だけなら健康を損なう恐れもほとんどない。瞳を捕らえて抱きしめて……いや、その前に身を明かして承諾を得て、法にのっとった手続きを経てから、ゆっくりと。

 だめだ……そんな事をここでしたら騒ぎになる。
 明日の船で立つ事など出来なくなる。

「ありがとう、こんなに美味しい料理は久しぶりです。時間をかけて食べたいので、すみませんが後で食器を取りに来てもらえますか?」
 脈打つ首筋から視線を引き剥がし、食べかけの料理に目を落とす。彼女が部屋を出るまで、もう一口分切り取った玉子料理を見つめていた。

 気配が遠ざかるのを待って鎧戸とカーテンを閉めた。ほの暗い中、石牙螺貝《つめたがい》を象った便壷にいま食べたもの全てを吐き出した。胃液が無いせいか吐しゃ物独特の臭気や喉を焼く痛みはない。だが吐く苦しさは生身の時と多分変わらない。

 空しさと渇きを抱えて再び寝台に身を横たえた。気を紛らわすために意識を代理人たちに向ける。前にクインポートに来た時は、片手の指で足りる数だった視点が、今はほぼ東大陸全土に散っている。

 それぞれが差配する町や村の近況と抱えている問題を確かめ、人々の暮らしぶりをきく。ひどく困窮している者はいないか尋ねるのは、為政者としての当然の義務。そして慈愛の精神からだが……隠された別の意図を含んでいる事を、しもべ達も心得ている。

 血の対価で家族を救おうと思いつめている者。生きる事に疲れ果て絶望している者。贄に指名されても拒む事が出来ない者。

 馬車を雇い急いで向かえば、朝日が昇る前に戻って来られそうな南の漁村。そこに、舟と男手を嵐で失い破屋で震える妹達を掻き抱き途方にくれている娘がいると知った時、不幸な境遇に同情する心話を送りつつ、口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。

 身支度を整えながらドルクを呼ぶ。すぐ近く、隣室から応えがあった。警護というより軽はずみな行為を止めるために控えていたのではないかと勘ぐりたくなる。とうに対価となる金袋と馬車の手配を済ませていた手回しのよさにも、軽い腹立たしさを覚えた。

 足音も無く入ってきた黒い従者に、テーブルを視線で示した。
「残さず食べてくれ」
 何も知らぬまま危難にさらされた彼女の善意を無駄にしないため、陰険な依頼の後始末ぐらいはしてもらおう。



「眠そうな顔してますよ、船長」
 船尾楼甲板から出港準備に駆け回る水夫たちを見下ろしていたグレッグは、甲板長の言葉でアクビをかみ殺した。手渡された荷のリストと乗客名簿に目を向ける。今回は余裕で黒字になりそうだ。
「朝っぱらから同じ階の部屋でハデな痴話ゲンカがあってなぁ、朝寝しぞこねた」
「おやおや、料理で上客を掴んでいたと思いましたが、創業三ヶ月で水鳥亭は連れ込み宿に成り下がりましたか」

「同じ客だと思うんだが、ナイフが壁に突き刺さっては引き抜く音が宵から夜中まで続いとったよ。それも十二回刺しては十二回抜く。板から刃をひっこ抜く甲高い音が耳について、ワインをひとビン空けても眠れんかった」
「なるほど、お隣は嫉妬深い投げナイフ師と浮気性の美人妻。大道芸夫婦でしたか」
「朝帰りは男の方だよ」
「男が的のナイフ投げは見たくないですなあ」
 今回は特等船室に客が入る。夜は沈黙の行となりそうだ。ナイフの音も気味悪いが、モロに音が響く船尾楼甲板や操舵室、壁一枚隔てた船長室で、ガキの夜泣きに悩まされるのは楽しくない。

 桟橋の方を見れば、手続きを終えた乗客たちが三々五々、グースエッグ号に向かってくる。荷物は昨日から今朝にかけてそれぞれの船室に積み込み済み。大抵の客は手ぶらだ。それでもタラップを渡り、上甲板を歩く足元はおぼつかない。

 歳若い者が多いのは……やはり“避難”だろうか。グレッグが索梯子《ラットライン》をへっぴり腰で登っていた頃も、この手の上客が多かった。ただ三十年前とは逆に、今は東大陸から中央大陸へと、オンナ子供や跡取り夫婦のたぐいが渡っていく。

「ジェフが野菜売りの婆さんから聞いた話だと、すぐ南の村に太守が来てるとか。可哀想に若い娘が一人、連れて行かれたらしいですよ」
「のん気なもんだ。領民が不安がってどんどん逃げ出してるってのに、ご領主サマは生娘の生き血を一杯やりながら物見遊山か」

 ふと視線を感じて甲板に目を向けると、生あくびをしながら見上げている銀髪の細い男と、傾いてきた陽に髪を金に輝かせている娘が左舷の昇降口に向かって歩いていた。
「またあくびしとる。ありゃあ出帆したとたん船酔いだな」
「たぶん一等船室の客ですね。タールの臭いにアテられたのかも知れませんよ」
「で、我らがグースエッグ嬢のご機嫌はどうだね」
「私と同い年の熟女ですからねぇ。元気ハツラツとは行きませんが、この前フジツボどもを掻き落として化粧しなおしたし、一点を除いて問題ありません」
「一点とはなんだい」
「寝不足気味のグレゴリー船長殿ですよ。特別船室のお客が来てます。出迎えなくていいんですか?」

 慌ててグレッグは上甲板へ駆け下りた。途中、操舵室のガラスに顔を映し、固めたヒゲの形と帽子の角度を微調整する。差していたパラソルを脇に畳んで乗船してくる巻き毛の夫人の手を引き甲板に導いたあと、タラップの直前で立ち往生している若い父親から、抱いていた幼子を引き取った。
 見知らぬオヤジに抱かれても泣きもせず、無邪気にヒゲを引っ張る男の子は、夜泣きとは無縁そうだ。今夜は安眠できる。グレッグは胸をなで下ろした。

 荷も客も全て積み終えた夕方、再びグレッグは船尾楼甲板に立った。じっと風を待つ。白髪交じりのもみ上げを撫でる微風に、笑顔でうなづく。クインポートの風は気心の知れた古女房のようだ。引き舟の助けを借りたことなど一度もない。
「後部縦帆、展帆《こうぶじゅうほ、てんぱん》」
「後部縦帆、展帆。よーそろー」
 甲板長が後ろへ向かって叫び、三本のロープを引く水夫たちに細かい指示を飛ばす。ほどなく広がった帆が夕日の中で風をはらむ。

「イカリ、上げー」
 船首の方から重い鎖を巻く音が響く。潮の流れでグースエッグ号がゆらりと傾いた。
「面舵《おもかじ》」
「面舵、よーそろー」
「舫《もや》い解けー」
「舫い解きました!」

 見送りの者が手を振る中、桟橋から離れた船はゆるやかに港の中央へ向かう。外海の波から船と港を守る半島と石組みの堤防の間に差し掛かると、待っていたかのように風は沖へと吹き始めた。こんなときグレッグは風に確かな思いやりを感じる。

 程よい追い風の中で水夫たちがマストに登り、6枚の横帆と三角の補助帆を張り終えると、グースエッグ号は軽やかに外海へ、そして中央大陸へ舳先を向けて走り始めた。

 全てを見届け水夫たちの労をねぎらった後、グレッグは階下の食堂へ向かった。 新鮮な野菜と肉をふんだんに使ってジェフが腕をふるった晩餐を、新天地へ向かう乗客たちと楽しむ為に。

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