夜に紅い血の痕を

著 久史都子

第四章 葡萄育む北の都 その2

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1.バフルの教会


 影を足元にへばりつかせる真昼の光を浴びながら、ティアは灰色にかすむ遠い城館に目を向けた。背後では、代理人が乗った馬車の車輪が、かしましく石畳を噛み、それぞれの故郷目指し疾走していく。急いだところで、アレフが倒されれば全ては無駄なのに。

 とりあえず、スタッフは返してもらった。でも、これだけでは心もとない。浄化の呪の初歩といえば聖水。前は軽く見てたけど、この前、身をもって威力を知った。それに、聖水はその気になればたくさん用意できる。
 まずは真水を調達しないと。海に近いこのあたりの共用井戸は塩分がどうしても混ざる。買うとしたら……

「テンプルのヤツに飲ませる酒なんてないね」
「誰も酒なんか頼んでないって。あたしが欲しいのは、上等な酒を割るのに使うキレイな真水。ワインの空き瓶に十本ばかり詰めてよ」
 大通りに面した、大きな酒場のオヤジと押し問答してたら、いつの間にか女給だの昼飯食いに来てた客だのに囲まれていた。これはちょっとヤバいかも。大立ち回りしたら、高そうな酒とかグラスとか全滅だよね。弁償とか治療費とか全額押し付けたらさすがに怒るかな……あのオバさん。

「はいはい、ごめんなさいよ」
 不意に肩に手を置いてきたヤツを反射的にニラみつける。いつもの鼻の下伸ばした白い顔の代わりに、ドルクの笑顔があった。この愛想のいいひげオヤジが相手だと、何だか調子がくるう。
「まあまあ、ここは私に免じて……」
 店のオヤジが顔を引きつらせ、客たちがザワめいたのは、ドルクが首に巻いた赤い布のせいだな。オバさん同様、立派な身分詐称……でも無いのか。牙の痕はなくても、太守と心が繋がった側近なのは本当だ。

「このハネッ返りは私の知り合いでね。見習いのクセに城の“なりそこない”を浄化して安らかに眠らせてあげるんだと、まぁ、えらく張り切ってまして。そこまで言うんなら、ひとつやらせてみようかと言うことになって……それで、真水なんですが、用意していただけませんかね。お金はお支払いしますから」
 カウンターに金貨が置かれて、あたしもビックリしたけど、酒場のオヤジも目を丸くしてる。

「あ、ついでに何かおなかに溜まる物もお願いしますよ。朝から何も食べてなくて、ぺこぺこなんですよ。ティアさんもおなか、減ってるでしょ?」
「え、うん」
「……イモを練りこんだ麺のスープでいいか。野菜と塩漬け肉もたっぷり入ってる」
 セージを効かせた山盛りの皿が2つ、目の前のカウンターに置かれた。お腹が鳴り出す。そういえば、昨日の夜から何も食べてなかった。もしかして、指輪を介して代理人候補を貪っているアレフに同調しちゃって、ハラペコなのにあたし気づかなかった?
 うー、ヤダヤダ。 

 厨房の奥では見習いらしき男のコが、オヤジの指示でロウト片手に水をビンにつめてはコルクで栓をしてる。コトは順調に進んでるけど、面白くない。
「なんでドルクだとみんな言うこと聞くのよぉ」
「せっかくバーズ女史がくれた物を、ティアさんが使わないからですよ」
 ドルクがさりげなくスプーンを向けたポケットから、赤布がはみだしてるのに気づいて、慌てて奥に突っ込む。
「あたし、噛まれてないもん」
 噛まれたとしても、誰がこんなダサいもん結ぶか。なんだか腹が立って、スープ皿を持ち上げて料理をかっこんだ。

 緑に茶色、なで肩にいかり肩。形も色もバラバラのビンを、酒場のオヤジは一本ずつ麻ヒモの網に入れてくれた。それを前後に5本ずつ振り分けて肩げてんのに、背筋は真っ直ぐなまま普通に歩いてる姿をみると、つくづくドルクも人間じゃないと思う。ううん、これぐらいの芸当なら鍛え抜かれた聖騎士ならやってのけるか。

「ねぇ、アレフの側に居なくていいの?」
 剣の腕は信頼できるし、目的地まで結構あるから、こうやって重いモノを持ってくれるのは助かるけど、あたしなんかに付き合ってていいんだろうか?
「血の絆を結んだしもべが数人がかりで守ってくれてますから。私ひとりぐらい居なくても大丈夫ですよ。それより、貴女を自由にさせておくほうが心配です。色んな意味で」
 保護者気取りは相変らず……要はあたしが信用されてないってコトか。

 裏町に入ってしばらくすると、まわりの建物が低くなってゴチャついてきた。足元の石畳が割れたり剥がれたりしててコケそうになる。
 ドブ臭さが鼻についてきたころ、急ごしらえの一階に日干しレンガで二階を継ぎ足し、ついでに廃材を寄せ集めたらしい屋根を、つけたして道にまで軒をはみ出させた学び舎にたどりついた。
 これは教会というより悪ガキ共の砦に近いかも知んない。

 中に入れなくしている、クサリが巻きついた杭は蹴り倒した。物見高く遠巻きについてきてた連中や、窓から顔出してるヤツらが騒ぎだしたけど気にしない。衛士を呼ばれてもドルクがいるから大丈夫……かな。

 壁に掛けられた文字の表や黒板、机や石版にうっすらホコリがつもってた。
 図書房も印刷工房も、荒らされてはいないけど、ホコリと雨漏りで薄汚れてる。でかい錠前と結界の方陣で厳重に封印された地下室には、通信に関わる機密書類だの金塊が保管されてるハズだけど、今んところ用は無い。つーか、世界中の商人を敵に回したくない。
 用事があるのは一番奥の教室の一角を占めてる祭壇だ。捧げられた花は枯れてるけど、ここはそんなにホコリっぽくなかった。

「ここにビン、並べて」
「おおせのままに……」
 ウィンクしたドルクが網から出したビンを祭壇前に並べた。
 祭壇には、簡単な文字と基本的な計算を人々に広めることで世界を変えられると信じて、一生を教会作りと教育に捧げ……本当に世界を変えてしまった男の似姿が掲げられている。
 まぁ、確かにオリエステ・ドーン・モルは偉人には違いないけど、絵の具を塗りたくった紙きれなんかに、単なる真水を聖水に変えるなんて力、あるわけない。

 水を祭壇に供えるのは、ちょっとしたケンイ付け。実際に力を与えるのはあたしだ。でも祭壇って力を集中させる結界みたいなモンがあるから、今みたいに聖水を大量生産したいとき少しは楽できる……かな。

 空から無限に降り注ぐ陽光を受け止めるように、体の前でてのひらを上に向け、集まってきた暖かな力をビンに詰めた水に注ぎ込む。ちょっとしんどいけど、ここでがんばっておけば後は手間要らず。てゆーか戦闘中にこんな事ちんたらやってらんないか。

「何をしているんです」
 不意に声をかけられて振り向くと、コロコロした三十歳くらいの男が、教室の入り口にたっていた。首から垂れてる紐は黄色……准司祭、ううん、テンプルの聖籍を持たない代理教官か。
「見てのとおり、お祈りよ、オイノリ」

 ビンの中の水にティアは意識を集中させようとしたが、背後からせまる代理教官の重い足音に邪魔された。ため息をついて振り向くと、イモムシっぽい指が出口を指していた。
「すぐ出て行ってください。教会にいると危険です」

 ほつれた袖口から糸がたれてる。代理教官の日当って少ないんだっけ。教え子への愛情だか学問への情熱だかに突き動かされて、なりふり構わずがんばる姿には頭が下がるけど、そでの糸は……ネコじゃなくても気になる。単に個性的な体格に合う古着が、なかなか見つからないだけかな。

「聞こえてるんですか?」
「危険って、つぎはぎ……じゃなくて、継ぎ足しの屋根がそろそろヤバいとか?」
 見上げれば、いつ壊れるか賭けをしたくなる天井が、薄暗がりに広がっている。
「あなた方、バフルの人じゃないでしょう」
 今、ちらっと田舎モノをバカにする顔したな。あたしが生まれ育ったクインポート、負けてないと思うんだけどな。少なくとも教会の立派さじゃ勝ってるし。

「ここはまだ“夜が明けてない街”なんです。元々おおっぴらに人が学問する事もはばかられるってのに、モル司祭が城に詰めてた人たち化け物に変えて、そのうえ太守を滅ぼして……私やここで学んでいた子供達までもが、怪しげな術を使う人殺しの仲間だと、白い目で見られてるんですよ。いま波風を立てたらどうなるか」

「そんなの、攻撃呪は教えてませんって、ちゃんと言えばいいのに」
 東大陸じゃ、攻撃呪は絶対に教えてくれない。あたしが通ってたクインポートの教会でも、攻撃呪どころか回復呪さえロクに教えてくれなかった。だから家出して、海を渡って、ホーリーテンプルまで行かなきゃならなかった。

「口でいくら説明しても、法服を着た聖女が祭壇でそんなことしてたら、教会は二度と再開できなくなります」
「そんな事って……?」
「ワインに祝福を与えているようには見えないんですが……聖水ですよね?」
 確かにこれは、言い訳のしようがないかも。

「これは城の“なりそこない”を浄化する為に作ってるだけで、アレフにぶっかけようなんて少しも思ってないんだけどなぁ。ダメ、かな?」
 なるべく無邪気な顔で小首を傾げて見せたけど、代理教官の顔はゆるまない。
「誰が信じるっていうんです。早く、法服を脱いでここを立ち去ってください。あなた自身と、我々のためにも」

「信じてくださいますよ、アレフ様なら」
 あ、ドルクのこと忘れてた。
「アレフ……ああ、顔が良いってだけでファラが始祖にした、太守の息子ですか」
 実もフタもない言い方だな。間違っちゃいないけど、その顔がいいだけのボンボンの為に、苦労してホーリーシンボル覚えた身としては、ちょっとムカつく。
「ずっと眠っているものとばかり。いつからバフルに」
「今朝方」

「夜は明けないままか」
「そうでもありませんよ。今は施療院になっている代理人事務所のはすかいにある赤レンガの建物……あれは元々、バフルの教会としてアレフ様が寄進なさったもの。教会の活動には理解のある方でしたから、そう悲観なさることもないかと」
 知らなかった。っていうか、本物の物好きだ。自分達を滅ぼそうとしてる相手に、タダでりっぱな建物をくれてやるなんて。

「それに、この聖女見習いが法服を脱がないのは、代理人イヴリン・バーズとの誓約だからです。この姿でモルの邪法の犠牲になった城の者たちを安らかな眠りにつかせる……テンプルの、いえ教会の者として償いをするというのが、この教会を再開させる条件です」
 オバさんから書付とかもらってないし、口約束だけど。

「本当に……再開できるのか」
「この見習いさん次第ですけどね。だから、もうしばらくここで準備を整えさせてやってくれませんか。それに、こう見えましてもわたくしはアレフ様の名代、この件に関する見届け人を仰せつかっている者ですから、ご心配には及びません」
代理教官の額に汗が浮いてきた。やっと喉の赤布に気づいたのか。薄暗いとヒゲと一体化しちゃうんだよね、赤い色って。

「ちなみに、この娘はアレフ様の想い人ですので、ちょっかいなど出されませぬように」
「誰がよっ!」
「冗談です」
 胸倉つかんだ手を軽く払われた。憎たらしいのに憎めない。このヒゲおやじ、ぜったい食わせ者だ。

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2.バフルヒルズ城
 バフル西側の新しい建物群が、宝石ごってり化粧こってりドレスだけはやたら薄い都の女なら、北東の丘にそびえる四角い城館は、地味で丈夫な普段着をまとった村の女。土くさいけど、大きくてふところが深くてガンコ者。そんな女を落とすなら、正攻法より意表を突いた方がうまくいく……なーんてね。

 ティアはスタッフにロープを結ぶと二階のバルコニーに向かって放り投げた。うまく手すりに引っかかったのは四度目。法服のすそを腰紐に挟んで登ったあと、ロープを手すりに結びなおして、十本のビンを引っ張り上げる。最後にロープ伝って登ってきたドルクと一緒に、扉に打ち付けられた板をひっぺがして城内に入った。

 真昼なのに中は薄暗くて、腐臭というか死臭がひどくて口で息してても吐きそうだ。天井を支える石組みのアーチはキレイだけど、床と壁は赤黒いシミが目立つ。廊下の隅には灰も少し積もってる。戦いの痕跡というより、閉じ込められたなりそこない同士が、共食いしたアトかも知れない。

 突き当たりは中庭。丘の頂上だ。前の太守が健在だった頃は、ここで新酒のお披露めかねた園遊会とかやってたらしいけど、今は単なる土の空き地。片隅の布の固まりは、光が怖いって本能すらなくして、陽に焼かれて灰になった“なりそこない”の忘れ物かな。

「どこから手をつけたものやら」
「窓が少ない一階の、陽が当たらない南側で眠ってると思う。地下は結界あるよね」
 真っ暗な階段を下りる前に、ランタンに火を灯す。でも、火は絞って油は節約。もしもの時、火と油は武器になる。といっても城館が焼け落ちたら元も子も無いから、街に被害が及びそうになったとき限定の最終手段だけど。

 南側の倉庫で一体目を見つけた。入り口近くの床で丸くなってた黒と黄色のタテジマ男。ヒザを抱えた青黒い手には爪も無く臭いもひどい。ドルクから緑のビンを受け取ってコルクを抜く。ビンを眉間の前に構えて、もう一度、水に力を込める。
「完全浄化にどれくらいの量が必要かわかんない。少しずつ注ぐから。その……暴れだしたらよろしく」
「いくら生前の意識が失われているとはいえ、気が進みませんな」
 それでも剣を抜くドルクに心の中で感謝しながら、聖水をなりそこないのヒザに垂らした。

 煙とともに曲げられた足がクタっとへこんで床に白い灰が広がった。同時に声なき悲鳴と共に、なりそこないが意外な素早さで仰向きになり、ヒジから先が灰化した左手を支点に身を起こす。原型をとどめている右手に掴まれそうになった瞬間、肩口にドルクの剣が突き立って、なりそこないを床に縫いとめた。あがく頭部と胸に聖水を振り掛ける。ナベから吹き上がる湯気みたいな勢いで大量の煙があがり、金属の板を縫い付けた布鎧だけが灰の積もった床の上に残った。

「だいたい二割ね……手持ちの聖水だと五十体がせいぜい」
 コルクをねじ込んだビンを、ランタンの光にかざして確認する。痛みを感じて開くと手のひらが焦げてた。なりそこないが起き上がった時、うっかりぬれたコルクを握り締めたみたいだ。ビンの口から垂れた雫は、注意して袖でぬぐった。

「元はあたしの力なのに、自分も焼いちゃうなんて、なんか納得できない」
 内にあるときは無害なのに、出したとたん毒になって肌をただれさせるだなんて
「まるでウン……」この例えはさすがにバチ当たりか。

 2体目はカラっぽの樽の中で眠っていた。見つかりにくい場所を選ぶって事は、少しは思考力とか記憶とか残ってたのかも知れない。まばらな髪の毛を申し訳程度に包む白布に向かって聖水をかけ、彼女を一塊の灰としわくちゃなドレスに変える。今度は苦しまなかったはず。なりそこないに痛覚が残っているのかは疑問だけど。

「やっと二人目……で、聖水が尽きたあとは」
 渋い顔しているドルクにスタッフを構えて見せた。
「これが白木の杭の代わり。腐乱死体でも胸板をスタッフで突き破るのは体力使うし、気持ちいい感触とは言えないけど」
「そして私が剣で首を、ですか……衛士にはキツい仕事ですな」
 死斑におおわれて腐りかけてるなりそこないでも、やっぱ主に重ねちゃうもんなんだ。

「昼間のうちに見つけられる限りのなりそこないを片付けたいけど、全部がこんな風に楽に終わるなんて最初から思ってない。本番は夜になって動き出してから。
中庭にワナ張ってエサでおびき寄せて、一気に片をつけるつもり」
 地面に血の一滴でも垂らせば簡単に集められるはず。
「で、その餌は私らですか?」
 察しのいいヒゲおやじに笑ってうなづいたら、深い深いため息をつかれてしまった。

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3.合流
 この若者も、か……。
アレフは苦笑を抑える努力をとうに放棄していた。悲壮な決意をたたえた目で見返しているソバカスだらけの代理人候補には、好物を前にした人食いの笑みとでも受け取ってもらえれば幸いだ。

 この若者の様に人脈や影響力を持っていない、そもそも村や町を治める才覚も気概もない、名ばかりの代理人候補は何人目だろう。いや何割というべきか。既に実権を後継者にゆずってしまっている老人。根拠の無い自尊心と現実との差に押しつぶされそうになっていた、口先ばかりの無能な男。

 血を啜ってしもべにしたところで、彼らを通じて下した命令を、誰も聞きはしないだろう。そして、彼らから村や町の真実が報告されることもまず無い。この青年も故郷に戻ったとたん体よく軟禁され、太守が訪れた時にだけ引き出されて、代理人の役を演じさせられる。単なる血を提供者として。その為だけに人々に選ばれた人身御供なのだから。

 血の絆で編み上げる心の網であまねく領土を包むはずが、素材がこれでは……
 脆弱な網の目からは、何もかもこぼれ落ちていく。

 やはり、直接足を運んで見出した代理人候補でなくては質が落ちるのは免れない。そもそも代表者を人に選ばせたのが間違いだ。
 それでは人々に選ばれたことを権力の根拠にしていた、あのクインポートの町長と大差ない。いや、反抗する気概があるだけ奴の方がマシだ。

 しもべとして能く治める者は、謀反の首魁となり得る者だ。反抗の芽を摘むのではなく、矯めて益となる果実を実らせるのも、血の絆を結ぶ大事な目的。とはいえ、今は……

 たとえ表層的でも各地域の状況を知り、こちらの存在感を知らしめるだけでも十分。後で何度か村を訪れ、仮の代理人の寿命を削りながら、影に隠れた真の実力者に目星をつければいい。そいつを後継者として相応しいものだと指名させ、呼びつけて代理人として血の絆で縛っていけば、おそらく十数年後には領内全てを掌握できるはず。

 だが……
 果たしてそんな時間が、私に残されているのだろうか。

 ファラ様が倒されて以来、次々と太守は滅ぼされてきた。つい先日、父も滅ぼされたというのに。

 あと何年……いや、何ヶ月という未来しかないのかも知れない。遠からず訪れる死の運命に怯えている腕の中の若者より、私が長生きできる保障などどこにも無い。

 そう考えれば、名ばかりの代理人候補は、村や町の顔役たちにとって丁度いい時間稼ぎだ。この若者の命を啜り尽くすまでに、他の太守達のように私も多分……

 突然生じた背中を熱く貫く衝撃で、悲観的な思考が中断する。
 一瞬、眼前の若者がナイフでも隠し持っていたかと疑ったが、抱きすくめられた状態の者が刺せる位置ではない。強烈すぎる心話、いやこれは耳を塞ぎようのない苦痛の叫び。

「ティア……?」
 意識を向けたとたん、背中から溢れる血が法服を重く湿らせる感触と、頬に触れる土を感じた。かろうじて上げた彼女の視線の先には、ぎこちない動きで剣を振るう異形の者。まとっている衣装は衛士の物だが、肌は青黒く変色し腐臭もひどい。
 これが“なりそこない”か。そして、たった一人で対抗しているワーウルフはドルク。

(ドジっちゃった)
 自嘲的な心話の合い間にも回復呪は唱えているようだが、治癒が追いついていない。そして、新しい刀傷がわき腹に増えるのを感じた。

「……すまない。夜明けまでには戻る」
 噛まれる直前に抱擁を解かれたことに戸惑う若者の横をすり抜け、控えの間で棒立ちになって見送るウィルに軽く視線を向けた後は、素早く階段を駆け下り、立ちすくむ代理人候補たちの間を走りぬけ、中庭に出た。

(何のために隠し通路をお教えしたと……)
 イヴリンのボヤきに苦笑しつつ、宵闇の中、人通りの多い道を全速力で駆ける。背後で広がる動揺とざわめきは感じるが、足を止める気になれない。ひたすら気ばかりが焦る。だが、このまま走っていては時間がかかりすぎる。
 バフル港を見守っていた風の精霊……父がつけた名は確か
「プシケ!」

 風の後押しを貰い、手近な建物の庇を足がかりに屋根の上まで跳ぶ。
「我が身を城へ運べ!」
 力の限り空に向かって跳躍し、吹き上げる風に身を任せた。



 血が出すぎたのか頭がふらふらする。指の感覚もなくなりかけてる。
それでもティアは、囲みを縮めてくる “なりそこない”共の足元をスタッフで払った。破魔の紋がスネを焼き、死人の群れが面白いようにすっ転ぶ。その隙に這いずって壁際まで逃れた。さっきまで倒れてたところに出来た血溜まりを、掴み合い押し退けあいながら啜る浅ましい姿を油断無く見据えながら、回復呪を再開する。

 夕方までに聖水とスタッフで浄化できたのは六十体程。日が暮れてからは、血と物音に引き寄せられてきた動く死体どもを、景気よくスタッフで殴り倒しながら、浄化の術を使う機会を狙っていた。
 素手の“なりそこない”なら囲まれても怖くない。だから、なるべくたくさん中庭に集めようと欲張りすぎた。破魔の紋を施した法服に頼りすぎてた。まさか剣を扱う知恵が残ってる奴がいたなんて。

 ドルクはまだ無事。法服の加護がないから最初から油断なんかしてなかったし、のろまな“なりそこない”なんてワーウルフの敵じゃない……と、思う。でも、数が多いせいか、だいぶ息が上がってるみたいだ。

 それに、テンプルの聖騎士と違って、ヴァンパイアを守る操兵ってヤツは人型の敵を殺す戦いには慣れてない。人間を生け捕りにするのは得意なんだろうけど、頭や胴体を叩き潰すか、腕や足を切り落とさない限り動きを止められない“なりそこない”相手じゃ、かなり勝手が違うはず。

「心臓をたまごの中に隠した魔神の話、また聞きたいのかい?」
 今はおとぎばなしを聞いてる場合じゃないよ、父さん。て、やばっ。頭に血が足りてないんだ。無関係な過去を勝手に幻視しはじめてる。

 ヴァンパイアに捕まって血を吸われても最後まで抵抗できるように、とかなんとか言われて首絞められたとき、今みたいなクッキリした幻視を体験した。あの、バカ師範代……訓練なんてウソだ。ぜったい楽しんでた。
 けど、暗い穴の向こうの光だとか、花畑が見えたわけじゃない。まだ、戦える。

 一番近くまで迫ってた、上等な服着たなりそこないの喉笛を、下から赤スカーフごとスタッフでぶち抜く。上手いこと脳幹を灰にできたらしく動きが止まった。背後の壁を支えに立ち上がり、重力も利用して喉からスタッフを引き抜き、左手から寄ってきてたもう一体のコメカミを横殴りにする。骨が砕ける感触がして、側頭に焦げ跡つきのへこみが出来た元老人が倒れる。

 体力、戻ってきてる?
 それに、立ち上がっても今はめまいが起きない。回復呪を中断してるのに、背中の傷が治っていく。左手薬指にはめた血色の指輪が温かい。これって術具を介した回復呪だ。力の源泉は……かなり近い。
「全部片付けた後、ワザとやられたフリして、呼び出すつもりだったのに」それで何しに来たんだとあざ笑ってやる計画だったのに「背中を刺された時、心がモレちゃったか」

 オバさん、悔しがってるだろうな。
 やっと吸血鬼の呪縛から解き放たれたのに、別の吸血鬼に噛まれて、それも忠誠を捧げる甲斐のない、ワタクシ事で公務をあっさり投げ出す無能な主となれば救われない。……分かってた事だけど。

 父さんと同じ不幸に落ちてくオバさんの姿だけは、どうしても直視できなかった。噛まれるところ見たら、きっと助けたくなる。衝動的にホーリーシンボル仕掛けてしまいそうで、意味も無く庭に咲き乱れる花の種類を数えてた。
 でも、あたしがどれだけ耐えてたか、アレフは気づいてない。ちょっとした想像力と感情を推し量れる知能があれば、怖くてあたしの肩なんか抱けないはず。あのニブさは男特有の……違う、きっと読心能力に頼りすぎて、その手の感覚が退化しちゃってるんだ。

「もう、いいか」
 中庭に集まった“なりそこない”は倒れてるのも含めて二百体ぐらい。一気に片をつけるって当初の作戦からすれば物足りない数だけど、傷と体力の回復がほぼ無制限なら、後は一体ずつ片付けていっても夜明けまでには全て終わる。

 油断しないように、得物を持ってるヤツが居ないのを確認してから、半歩踏み出してスタッフを背中に構え、わずかに溜めを作ってから、迫ってきた“なりそこない”共をなぎ払い、両手に素早く持ち替え回転させながら、死人の群れの中に一本の道を開く。時々体を半転させ、背後からせまる連中をけん制しつつ、中庭の中央まで進んだ。

 日のあるうちに用済みとなった十本のガラスびんを土の中に等間隔に埋めておいた。水晶に比べれば質は落ちるけど術具としては十分。寄ってくる死人を牽制するためのスタッフの回転にあわせて呪文をつむぎ、呪力の流れを線に変えてガラス瓶を交点にして結び合わせ、中庭全体に広がる光の方陣を組みあげた。

 頬に風を感じる。目を上げると、西の塔の屋根に黒い人影が降り立つのが見えた。そこなら特等席だ。四十年間眠り続けて、いまだに寝ぼけてる不死者の目を覚まさせるには、派手に光る見世物が一番。

 ヒゲを震わせて、ドルクが危険だとか叫んでるけど、塔は効果範囲から外れてるし、余波ごときで滅びはしないはず。
 それじゃ、回復してもらったお礼も込めて、あたしの全力みせてあげよっか。

 軽く息を吸い、まわしていたスタッフを方陣の中央に突き立てた。
「ホーリーシンボル!」


 無数の元衛士や城勤め“だった”者達と、砕かれ断ち切られてもなお、生にしがみつこうとアガき続けていた人間の“断片”が、内庭全体に生じた高密度の光に飲み込まれていく。悲鳴も最後の抵抗も……アレフが密かに覚悟していた、滅びる間際に不死者が発する、苦痛や絶望に満ちた心を突き刺す思いの叫びも無く、何もかもが一瞬で消滅した。

 方陣の解消と共に、半球状の空間に封じ込まれていた破邪呪の余光が減衰しながらも天空へ屹立する光柱に変わる。とっさに背を向け顔を庇ったが無駄な行動だったかもしれない。チリチリとした痛みが全身を刺す。
 真昼の光などという表現では足りない。黒鉛をも一瞬で蒸発させる太陽本体の顕現。ただし熱量を一切含まない、冷ややかで残酷な、不死者を消滅させるためだけに作り出された、破壊の力。

 内庭の土の上には灰の一つまみも遺っていなかった。持ち主を永遠に失った服だけが生々しく散らばっている。その中央で挑戦的な笑みを浮かべるティアと目があった時、人に対しての警戒心が、恐怖に取って代わった。
 異質で理解できない思考で行動する、全てを奪う力を持つ存在。

 だが、遺された衣類を乱暴にスタッフでめくりあげ、見つけた宝飾品や財布を法服の隠しに入れるのだけは、見過ごすわけにはいかない。次々と湧き出す暗い想像と共に足のすくみはひとまず封じ込めた。風の力を借りて、遺品を踏まないよう注意しながら、ゆるやかに内庭に降りる。

「降りてこられる度胸……あったんだ」
 からかうような口調の聖女が紅玉の指輪をつまみあげる。
「それは、ティアさんの物ではないはずですが。先ほどから拾い集めている金品も」
「えー、ケチィ」
 スタッフを同僚から奪ったときといい、テンプルの者にとって戦闘と略奪は切り離せないものらしい。ファラ様が永遠の平安をもたらす以前の……人が食料や財貨や土地を奪うために、殺し合いを繰り返していた、野蛮な時代そのままに。

「対価が欲しいのでしたら、金貨を用意します。それは遺族に」
「“なりそこない”退治のお礼は、バフルの教会を再開させるってコトで、オバさんとはもう話しがついてるんだけどな……それに、一つ一つ持ち主確かめて相続人に返すのってすんごい手間だよ。今、人手不足でしょ」
「どんなに時間がかかっても返します。そうやって身近な者がもう戻らないと実感しない限り、前に進めない者も居る……私の様に」

 城へ来たのは死に瀕したティアを回復させる為だ。しかし、町の灯を下に見ながら風を抱いて、丘の上の城館へ急いでいた来た時に分かった。本当は何を置いても、ここへ来たかったのだと。直接、心を父と繋いでいたイヴリン達の喪失感を共有しても諦められない……永遠に存在し続けると思っていた父が喪われたと、どうしても信じようとしない己の未練を断ち切るために。そして、現実を受け入れるために。

「ふーん、実感しに来たんだ。
……行ってみる? 玉座の間。
多分、モル司祭たちとロバート・ウェゲナー太守が戦った場所」
 何らかの証拠があれば諦められるのだろうか。先ほど見たようなホーリーシンボルで倒されたとすれば、灰も何も残らない。身につけていたものが残ったとしても、高価な物は持ち去られているだろう。それでも
「行って、この目で確かめたい」

「そう。じゃ、エスコート代は別途料金ね」
 東の棟へ向かうティアの背中に、大きく赤い染みが広がっていた。それを見ても匂いを嗅いでも、今は何も感じない。単に満足していて今は欲していないから、という事でもなさそうだ。彼女を怖れているのか、あるいは、やっと本当に求めていた事が目前にあるせいなのか。

 土ばかり選んで歩くせいで不規則になった足音が背後からする。
 だが、ドルクから伝わるのは不思議と明るい喜びだった。

 無頓着に衣類を踏んでいくティアが、不意に振り返った。
「なんでマントなんか着てるの? 邪魔でしょ。
 なんだか、実体より大きく見せる為に、毛を逆立てて背を丸くしてる臆病な子猫みたい」
「日除け……いえ、偉そうに見せる為かも知れません。臆病という評価には反論しません」
 完全に直射日光を防いであった館内であろうと夜になろうと羽織っていたのは、代理人候補達を多少なりとも威圧しようてしての事。臆病だからといえなくも無い。

 ただ、建物内に動く者の気配がある。そう簡単に目的は果たせそうに無い。こんな布一枚でも使い方しだいでは、理性を失った死人のツメをかわすぐらいは出来るだろう。

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4.遺す想い

 一千年前に作られた砦の外壁をそのまま使用している、バフルヒルズ城。その無骨な外観に変化は見えなくとも、内部にはかなり手が加わっている。地下通路は入り組んで迷宮と化し、廊下や上層階へむかう階段の壁には、侵入者からは死角となる窪みが施されていた。

 血と共に取り込んだ衛士長の記憶を元に、アレフは東の大階段の窪みに意識を向けた。怯えと飢えと、とっくに理由を忘れた使命感に取り付かれた、弱々しい心の呟きを感じる。そのまま大人しくしていて欲しいと念じつつ、ドルクに階段の見取り図と共に“なりそこない”の気配を伝えた。
(彼らが戸惑っているうちにティアさんを抱えて素早く登れば……)

「五段くらい上の壁の窪みに2人います」
 突然、剣を抜いて叫んだドルクの声に驚く。今は無用な争いの必要などないはず。
「待ち伏せとは、シャレた真似してくれるじゃない」
 二段飛ばしのあと跳躍し、有利な立ち位地を確保した上で、立ちすくむ元衛士を打ち倒すティアを信じられない思いで見上げた。

 同時に、相棒を助けようと衝動的に出てきたもう一人を切り伏せるドルクの行動も理解できない。相手は剣を抜いていない。いや、彼は日々肉をえぐり腰骨を露出させていく重量物が何なのか、その名前も使い方も分からないまま、大切な物としてベルトに下げているにすぎない。

「炎の魔法をお願いします!」
 ドルクが振り返り叫ぶ。言葉と意味はわかるが理由がわからない。もう、彼らは敵対する力も意思もない。ただ、恐慌に捕らわれてあがいているだけだ。皮膚が乾ききっている彼らに火球を当てれば、皮下脂肪に燃え移りすぐに灰と化すだろうが……

「使えねー」
 吐き捨てるように呟き、ティアがスタッフで足下の頭骨を砕く。反り返る体を蹴り上げて仰向けにさせた元衛士の心臓を、容赦なく打ち抜いて灰にした後、こちらを睨んでため息をついた。同じく作業的にもう一人の心臓を貫き、首を切り落とすドルクは無言。もしかしなくても“使えない”というのは私への評価か。

「彼らは“持ち場”にこだわっていた。素早く通り抜ければ追ってこない。無駄な戦いは」
「元衛士なら法服を見て昔の仕事を思い出すかも知れないし、上の階でも戦いになった時、上がってくるかも知れないじゃない」
 冷厳なティアの言葉は正しいかも知れないが、可能性を理由に念のため殺しておくという発想には納得できない。だが、彼女は説得できる相手ではない。もうわかっている。

「剣を抜かぬ者を、どうして斬った? 彼は剣が武器だという事も忘れていたのに」
 行き場を失った苛立ちが、ドルクへの非難めいた言葉に変わる。
「思い出すかもしれません。わたくしの戦い方を見て、体に染み付いた技を思い出さないとは言い切れません。彼らにも学習能力はございます。先ほどティアさんが遅れを取ったのも」
「彼にはまだ昔の記憶がわずかに残っていた……それを焼き殺すのは」
「己が何者なのかもわからない不安の中で、飢えや肉体が壊れていく恐怖にさいなまれるだけの偽りの生を、炎で速やかに終わらせるのも慈悲かと」
 ドルクの苦しげな表情を見ているうちに、己の正しさの確信が揺らぐ。

「記憶が残ってたら、生身だった頃に戻せんの?」
 軽蔑したようなティアの言葉に、反論できないまま沈黙する。
「無理よね。不死化の呪方って、ある瞬間の肉体を変化しないよう固定するモノでしょ。“なりそこない”は壊れかけた体と精神を不完全に固定されてんのよ。その後に受けた傷とか腐った部分は回復呪で治せるかもしれない。でも、正気は戻らない」
 彼らを元に戻す手段が無いのはわかっている。無力さに、いつしか足元を見つめていた。

「殺すことが慈悲だとはどうしても……どんな状態でも、生きられる限りは生きるべきだと」
 原則論や理想論でしか言葉を返せない、己の浅さが悔しい。
「そっか……アレフは人を殺さないんじゃない。人を殺せないんだ」

 そう、なのだろうか。罪人の処刑命令書にサインするのも広義では人殺しだ。人々の中から贄を選び心行くまで味わうのも、遠からず起きる死をもたらす行為といえる。単に人の生命が目の前で失われるのは嫌だという我がままにすぎない。目に映らない場所で起きる死に関しては、時には積極的に加担してきた。

「“なりそこない”はもう人間じゃない。だからといってアレフの同類でもない。もう既に死んでる体が生前の機能を取り戻して動いてるだけ。近いうちに終わるただの現象。火で焼いたって……連中はそれを悲しいとか辛いと思う感覚も失ってる」
 確かに、断末魔の時も、彼らは苦しみや痛みというより、単なる反射で動いていた。
「この先はちゃんと援護してよね」
 先に立って階段を登り始めるティアを追う足取りは、ますます重くなっていた。

 玉座の間……
 正確には謁見や任命、時に宴会に使用されていた三階唯一の広間にたどりつくまで、廊下で三度なりそこないと遭遇した。火災を恐れ、火炎の呪を使ったのは周りに可燃物が無かった一度だけだが、その時の臭いが、のた打ち回る元衛士の姿と共に心に染み付いてとれない。

 だが、殴るのも手以上に心が痛い。自身の手も傷ついていた事にしばらく気づかない程、相手の肉と骨が潰れる感触は不快だった。ガス状生命体やゲル状の異界生物を殴ったのとは全く別の、畏れに近い後悔を伴う痛み。

「ケガ、してない?」
 情けない事に、震えが止まらないコブシは、ティアの温かい手に包まれるまで開くことも出来なかった。殴った時の衝撃で爪が手のひらに深く食い込み血がにじんでいた。
「仕方ないなぁ」
包帯が厳重に巻かれ結ばれるのを眺めていた。使っていない左手にまで包帯を巻こうとするのを見て、違和感を覚えた。

「もう、傷はいえています。それに左手にケガは……」
「何カン違いしてんのよ。素手で戦う時は包帯でコブシを保護するもんでしょ。でなきゃ痛くて全力で殴れない……っていうか、どこの世界にヴァンパイアを手当てする物好きがいるっかっつーの」
 手早く、そして的確に関節を中心に巻かれていく包帯。それが、信認の儀式を行っていた部屋に忘れてきた、指の付け根に装着するささやかな武器と同種の物だと、遅まきながら気づいた。
「ほい、完成。あ、さっきみたいに硬い骨じゃなくて、殴るなら柔らかい急所を狙うこと」
 平然と凶悪な指導をしていくティアは、まだ戦いに飽き足らないらしい。

 骨に守られていない急所を全力で殴る。予測された感触と結果に吐き気を覚えた。胸を押さえた手が、血と漿液にまみれているような幻覚に襲われた。ティアの無邪気さが疎ましい。いや、不死者を倒す方法を研鑽し続けてきたテンプルに所属する者が、知らない筈は無い。どうなるか解っていて、殴れと言ってのける精神に底知れない無気味さを感じた。

 幸い、ためらう間に傍らのドルクが剣を振るい、今もティアが巻いた包帯は白いままだ。しかし見慣れているはずの従者が無表情に元同僚を屠るのも、見方を変えれば空恐ろしい。ティアの同類ではないかと疑い始めてしまう。目覚めた時に護身用だとくれた武器。侵入者が城内に召喚した、人外の敵に備えてとの名目だったが……捕虜に反撃された時の用心だったのでは無いだろうか。

 首を振って下らない思考を振り払う。目的地であるハズの眼前に広がる暗い広間に意識を向けた。呪を唱えて安定した小さな火球を呼び出す。天井近くの二重円の簡素なシャンデリアの周囲を巡らせ、残っていた二本のロウソクに火を灯した。まばゆい光に目がくらむ。

 一段高くなった奥に据えられた椅子が、かかっていた牙猫の毛皮ごと無残に断ち割られていた。壁を彩るタペストリーも港の様子を描いた一枚を除いて、刀キズに火炎の跡と酷い有様だ。白と黒の石タイルで床に描かれた曲線にも、抉ったような傷が幾つも走っている。
 何か父の最期を知るよすがとなる物がないか、目だけではなく意識でも探り始めたとき、隣室の気配に気づいた。

「右手の控えの間に三人。噛まれて逃げてきた仲間を介抱する為に受け入れて、看取った後に襲われた元女中達です。食い合った末、肉体の損傷が酷くなって動けないでいる」
 その中の一人が脳裏に焼きついた光景を繰り返し見ている。名前も思い出せない今、その記憶だけが彼女の全てなのだろう。
「仲間の血肉への渇望に苛まれながら、優しさから下した判断を、後悔し続けています」

「敵の数と居場所を教えてくれるのは助かるんだけど……いい加減、“なりそこない”の心読むの、やめてよね!」
 鉄板で補強された扉の前で、ティアが振り返って怒鳴る。なりそこない達の心は単純で無防備だ。その分、気配を探るのは容易いが、意識を向ければ思っている事も流れ込んでくる。止めろと言われても無理だ。そして無視するには哀しい心が多すぎる。

「戦いが始まったら、相手を倒すことだけをお考えください。同情なさってもアレフ様の苦しみになるだけです」
 ドルクまでもが冷酷な物言いをする。普段は慈悲だの思いやりだのと口ウルさいくせに。

 二人が扉に体当たりして控え室になだれ込む。女性用の控え室だ。複数の寝椅子にクッション、鏡やついたてに御丸と障害物は多い。暗い中で転倒もせず、物影に潜む者達に的確な滅びを与えるのは無理だろう。なにより最初に戦う相手は扉前に積み上げられた家具類の山だ。

 だが、反撃される心配は無い。
 砦たる家具類崩壊の危機も、闖入者がまとう法服に染み付いた血の匂いも、衰弱しきった彼女達の体を動かす力足り得ない。他の消え残る思いは、何か大事な布にくるまったまま灰になった同僚への嫉妬。彼女たちを控え室へ逃がす際、父が一人に何かを命じ、そのせいで走り去ったまま二度と戻らなかった友人の心配。

「もう、やってらんない!」
 呪の詠唱? 内庭同様、部屋全体を浄化するつもりか。
「ティアさん、待っ……」
 制止の言葉を飲み込む。白い方陣の光が幾何学模様を床に描き出す。その範囲から数歩離れた時、室内を白い光が満たし、三つの気配が消失した。
 変わり果てた姿をさらす事無く逝けて、彼女たちにとっても良かったのかも知れない。そう、考え直す。

「ドルク、左奥の透かし彫りの衝立の裏に、父が遺したマントを守った者が……それと」大切な物を隠すとすれば、恒常結界と迷宮に守られた場所「地下の書斎に行った者がいる。彼女の足取りを追いたい。もう少し付き合ってもらえるかな?」


 数ヶ月前から警告があったという。懇意にしていた貿易商の進言から始まり、最後にはバフル教会を通じた無記名の親書が父の手元に届いた。血の絆による情報の即時性とは、無縁な者たちが持ちえる最速の通信手段といえば、烽火塔の色煙と手旗信号。そして七羽編成で海を渡る伝書鳩の通信筒。どちらも教会……いや、テンプルの管理下にある。

 おそらくモル司祭がホーリーテンプルを進発すると同時に、複数の経路で警告は発信され、幾つかがバフルにまで届いた。建前はともかく、テンプル全てが不死者の殲滅《せんめつ》に動いているわけではない。

「なりそこないとやりあってる時は、ほとんど何の役に立ってないのに、終わるとなぜか壁に懐いて、一人反省会やってるお宅の坊ちゃん、なんとかなんない?」
「すみません、アレフ様には気配の知覚と読心の区別というのは難しいようで」
 地下へ向かう東の階段前で、ティアとドルクが囁きあっている。

 来た道順を逆にたどれば平穏に済むところを、わざわざ遠回りして余分な争いは引き起こす。滅びた死人を悼みながら、体力を補充してやっているというのに、聞こえよがしの皮肉を言う。そんな、個性的な聖女見習いも所属している組織だ。多様性に満ちていて当然か。

「真っ暗ね……あ、このランタンに火つけて」
 階段に足を踏み入れる直前に、ヒビの入ったランタンを押し付けられた。仕方なくホヤを両手で包み呪を唱え、灯心に火球を発生させる。眩しさに目を背けた瞬間、ランタンは奪われた。

「階段を降り切った三歩先に、落とし穴が」
 早足で地下道に下りていったティアが、たたらを踏んで恨めしそうにニラむ。
「右の壁に渡し板が立てかけてあります」
「四十年以上、誰も落ちなかった落とし穴っと」
「穴が掘られたのは十年前らしいですが」
 板を倒し、渡りかけていたティアが引き返してきた。

「そっか、城内の間取りと罠の位置、全部知ってる人間の血を吸ったんだ……じゃ、ハグれた時のために見取り図描いて」
 無遠慮に胸元に突きつけられた手帳を、押し返す。
「私からの精神干渉を受け付けてくれたら、ティアさんの頭の中に直接書き込めるんですがね」
「それは、イヤ」
「なら、私の後をついて来てください……もうなりそこないは出ません」
 地下はこの城に唯一残された安全な場所だ。彼女が心の中に踏み込まれたくないように、ここの詳細な地図は、出来れば部外者に渡したくない。

 統治者が夜にしか現れなくとも、大半の城勤めの者は昼間働いていた。だが夜間も数百人は詰めていた。彼らが地下道を抜け城外へ逃れる時間を稼ぐため、小鳥を誘うパン粉のように衛士を配置し、最上階で迎え打つ予定が……禁呪で先手を取られた。
 一階にいた者と二階にいた約半数が、突然の死に見舞われ不完全な蘇生を果たし、城内は収拾のつかない混乱に陥った。
結局、この地下道から避難できたのは百人にも満たない。

 それにしても、なぜモル司祭は先に父を滅ぼしたのだろう。クインポートからの距離を考えても不自然だ。
 能力が低下する昼間は、人々を巻き込まぬよう郊外に設けた寝所を転々としていた父より、四十年前から居所がハッキリしていた私を滅ぼす方が容易なはず。力を最大限に発揮できる夜間にのみ首都へ戻る父に、正面から挑むなど……
 考えられる動機は力の誇示か。

 書斎へたどりつくまでに、四つの角を曲がり三つの落とし穴を回避した。扉を開くと壁際の書架に蓄えられた蔵書と、書き物机が目に入った。インクと皮と紙の匂いが気分を落ち着かせてくれる。
 磨き上げられた書き物机の上に、水晶球がひとつ、むき出しで置かれていた。呪法をも封じ込めることができる、記録用の術具。
 父に命じられてこれを運んだ者は無事に逃げられただろうか。

 滑らかな球面に指で触れると、仄かに光を放ちはじめた。水晶球の周囲に小さな方陣が生じる。微かな空気の振動は次第に振幅を上げ、音声に変わった。
『さて、何を言い残すべきか……
いざとなると照れるものだな。
アレフ、これを聞いているということは、眠ったまま滅ぼされはしなかった……何かの偶然か、誰かの差し金で生き延びられたということだな。
そして私はオリジン・ヴォイダーに、いや、モルに敗れたか』

 目をこらぜば透明な球体の中に、うっすらと黒髪の男の顔が浮かんでいた。小さくて表情も読み取れない。
『世界は我らの物ではなくなった。生きる事は、世界を敵にまわして戦う意味に変わった。争いを嫌うおまえが、どこまでやれるか。
テンプルの下で、人々が昔より仕合せになったとは思えぬが……』
 小さな顔がゆっくりと首をふる。
『父のカタキを討とうとは思うな……これは、勝手で無責任な願いかも知れん……だが、どんな事をしてでも生き延びてくれ。アレフ……』 
 言葉が終わると方陣が薄れ、水晶球から光が消えた。

 おそらく混乱の中、慌てて記録された音と光。言葉を選ぼうとしてまとまらなくなった、温かい想い。

「泣いてるの?」
 ティアに問われて、頬をつたうモノに気づいた。血色の雫をぬぐい、紅く染まった手を握り締める。
「で、どうすんの……また寝るの?」
 ネリィの時は眠りに逃げる事が出来た。だが今は立場が、逃避を許してくれないだろう。

「あたしの父さん、殺させたのもモル司祭なんだ」
 抑え付けたような低い声と共に、水晶球の横にランタンが置かれた。
「あたし、すっごく憎んでる。アレフはなんともないの?」
 ぞっとするような憎しみの波動を傍らに感じて、思わず身を引く。だが、強引に両腕を掴まれた。女のモノとは思えない指の力に驚いてティアの顔を見る。炎を映した青い瞳がまっすぐに見上げていた。
「あたしと一緒に行こうよ!
モルはホーリーテンプルに呼ばれて戻ったんだ。
クインポートで船に乗って、モル司祭を追っかけよう!」

 強い深い青い瞳に、アレフは既視感を覚えた。
 興奮と感嘆を込めて見上げる強い瞳。冷たく力強い指の記憶。あの時、ファラ様から受け取ったのは喜びと誇り。
 だが、ティアが熱い指と瞳で植え付けようとしているのは……たぎる怒りと破壊の衝動。

「あたしは泣き寝入りなんてイヤ。奪われたら、壊されたら、そいつも同じ目に遭わせてやる。力が足りなかったら、努力して考えて、どんな手段を使っても復讐する。絶対に諦めたりしない」
(そのために、一緒に来て欲しい!)
 耳元で叫ぶような心話と共に鮮明な記憶が送り込まれる。
 ティアを床に押さえつける無慈悲な手。その目の前で打たれ蹴られ動かなくなる初老の男……クインポートを任せた青年の面影が微かに残る血まみれの顔。凄絶な光景を穏やかな笑みを浮かべて見下ろす、若い司祭の冷ややかな眼。

「血と引き換えと言うのなら、ネックガードの外し方を教えるわ。後ろのネジは右回し。左の留め金は斜め上に押し込む。そして右の」
 耳をふさごうとして、掴まれた手を振り払った。よろめいたティアに睨みつけられて背を向ける。血と共に彼女の記憶を取り込んだら最後、自分が自分でいられなくなる気がした。

 すでに復讐は空しいと分別臭く語れる気分でなくなっている。
 父を滅ぼし……武器を持って立ちふさがる衛士ならまだしも、事務官や下女にまで無残な運命を強いた者への殺意が、心の奥で芽吹くのを感じていた。だが、彼女の言葉にうなずく事は出来ない。

「冷たいよ……。ねえ、私の敵討ちに付き合ってよ!」
「海を渡る旅は好きじゃない」
「なによそれ、意気地なし、ばか、臆病者、怠け者!」
 知っている限りの悪口を叫び続けるティアから逃げるように、暗い地下道を早足で戻る。

 だが、城へは戻らず、北東へ伸びる新しい通路をたどった。
 たまったホコリを湿り気が固めているのか、敷石はねっとりとした感触に覆われていた。後ろを気にしながら、ついてくるドルクの足音も湿っている。

 城内にはもう、動く者の気配はない。たとえ、なりそこないがまだ残っていたとしても、何のためらいもなく浄化の術を使うティアの敵ではない。むしろ私がいたほうが足手まといだ。

 在りし日の思い出を無残に砕く城の有様と、変わり果てた父の元忠臣たちとの戦いで、とっくに心は限界になっていた。ティアの言葉も戦い方も、日光の様に苛烈すぎる。既に、会話する気力も残ってない。

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5.御座船

 潮の香りが強くなってきた。耳を澄ませば地下道の先から、波の音も聞こえてくる。万が一のとき、落ち延びるための長い抜け道。この地が平和でなくなった証だ。
 そういえば、眠りをむさぼっていた城にも、新たな通路が掘られ、ワナが多数仕掛けられていた。多分、城と地下の寝所を守るためにドルクたちが作り上げたものだろう。

「世界はもう、我らのものではなくなった……か」
 気を抜いたら、油断したら滅ぼされてしまう。臆病なウサギのように、耳をすませ、ワナを仕掛け、寝所を移し、テンプルが差し向ける刺客の裏をかく。そうして、考え付く限りの手をつくしても、無事に次の夜を迎えられる保証はない。

 重苦しいため息をついて目を上げると、そこに海原が広がっていた。

 月の下でうねり、牙をむき出しにする波の群れに圧倒されて、しばらく立ち尽くした。
 道はそこから、ガケに刻まれた階段に変わっていた。吹き上げる風に持っていかれそうになるマントをしっかり体にまきつけ、慎重に下まで降りる。波が引いた時に、湿った砂地を踏み、衛士長の記憶にあった、ガケの下にうがたれた洞窟に足を踏み入れた。

 白砂の上に黒い船が“浮いて”いた。帆は外され、縄も全てくくられ巻きとられていたが、三本の朱いマストと銀色の窓枠がほのかに輝く船尾楼は昔のままだ。もっとも新しくてもっとも小さく、そして一番早い御座船。
「クインポートから出たあと……ここに隠されていたのか」
 引力を遮る力場と風の結界に護られ、海とグラスロードをすべるように走っていたセレネイド号。

 宮殿に見紛う壮麗な船をもつ太守もいたが、この地を取り巻く厳しい自然と経済状態では、控えめなこの船ですら、背伸びしすぎた買い物だった。莫大な建造費の返済は滞り、結局半分も返さないうちに、造り上げたシーナンも施主だった父も滅びた。

 荒波を越え、遠いセントアイランドまで一月以内に辿りつくため、速さを求めた船体は強く細く、見た目は人の為の帆船とそう変わらない。だが、光の入らない十の貴賓室と、会合が行えるホールは備えられていた。そして船底には二十室の……
「ティアさんは、太守の旅がどんなものか知らないんですよ……その残酷さも」
 振り向くと、ドルクが波打ち際に立っていた。

「四十年前のあの日から、セントアイランド城で会合が開かれることはなくなりました。二十年前には森の太守も、ドラゴンズマウントの太守も滅ぼされ、この船が向かうべき地はもうございません。ティアさんが物心ついた頃には、『船』は海を渡らなくなっていたんです」

 一月以上前から、寄港する予定の港や町に先触れを出し、準備を怠り無く整えて始まる、数年に一度の船旅。帆を新しく作らせ、優秀な水夫を雇い入れ、彼らと随員のための食料と水を調達し、最後に、金は無いが夢と自信だけはある年若い同行者たちを募る。

 清潔で居心地のいい船室と、海難事故の確実な回避、十分な食事を約束して集められる、船賃を払えない旅人達。彼らには船室を出る自由はなく、必ず目的地にたどり着ける保障もない。
 たそがれと共に衛士が訪れて彼らにクジを引かせる。当たってしまった者は船上では贅沢となる湯浴みの後、白い薄物一枚の姿で太守の晩餐の席に招かれて……旅が終わる。

 そうやって、彼らのうち約半数の夢と根拠の無い自信を船上で奪ってきた。
 知り合いのいない港町で解き放っても弱った体では野垂れ死ぬだけだから、飲み尽くしてしまえと父はいったが、どうしてもできなかった。苦笑して腕の中から犠牲者を引き取った父が、最期まで血をすすりとる様を、黙って眺めていた。

 最後にこの船で死なせたのは、クインポートでの商会勤めを望んでいた青年だったろうか。水平線にまたたく目的地の灯を切なく見つめていた彼の心の中は、服と共に浴室においてきた紹介状の事で一杯だった。数口味わったあと、転化したばかりで多くを必要としていたネリィに譲り……無邪気に飲みつくす彼女を見ていた。

「今から帆を発注しても整うまでに半月はかかるでしょうな。港町ではなくなったバフルで熟練の水夫を集めるのは難しい。それに……どのみち、この船は使えないでしょう。
中央大陸の街々で補給のために投錨しても、集まってくるのは貧しい旅人ではなく……恐怖に駆られ、油と炎と武器を手にした大勢の襲撃者でしょうから」
 クインポートでの惨状を思えば、中央大陸どころかこの東大陸でも、船が無事に昼を過ごせる保障など無い気がした。

「敵討ちに、ティアに付き合ってやりたいというお気持ちがおありですか?」
 問われて心をあぶる焦燥感を思い出した。生命の危機に陥った彼女を助けなければという、義務感にも似た思い。ティアの父親を死なせてしまった後悔を基点として生じた、危なっかしい少女に対する保護欲。

 だが、仇を求めてティアが遠い地へと旅立ってしまえば、イモータルリングを介して死にかけている事が伝わっても、蘇生させるのは難しくなる。まして幾重もの結界に包まれたセントアイランド……いや、ホーリーテンプルに、大地の真裏から力を届かせる事は不可能だろう。

傍らに居て守りたい。しかし
「ここを離れて旅に出るなど……出来ないし、海を渡るすべも無い。
それに、待っていればいずれ向こうから来てくれるだろう?
私を滅ぼすために」


「……方法が無いわけでもありません」
 ドルクは心を静め、主に真意を読み取られないように慎重に言葉を選んだ。
「ティアさんの言うとおり、クインポートで船に乗って追いかければよろしいのです。月の中頃には中型の定期船が入港するはず。偽名で旅券を用意させて、人間の旅人を装って海を渡れば」

「そんなこと……出来ない」
「半月、いえ風の良い季節ならキングポートまで十日もかからないはず。それぐらいなら、食事をなさらずともお命に関わるようなことは無いでしょう。
四十年ほったらかしにしても、代理人たちはちゃんとやっていてくれました。あと半年ばかりアレフ様が勝手をなさっても、問題など起こりませんよ」

 なるべく気楽そうに、なんでもないことの様に言ってみる。実際、バフルの代理人も、彼女が選び出して主に差し出した代理人候補達も、しっかりしている様に見えた。彼らの裁量に任せてしまうほうが、やる気の無い太守に居座られるより遥かにマシだろう。

 何より、このまま座していてはアレフ様は確実に滅ぼされてしまう。ならば、領地も立場も捨てて、いまだ混乱から抜け切らない中央大陸に身を潜めるのも悪くない。旅を続け居場所を定めなければ、生き長らえる可能性が見えてくるかも知れない。

「二人とも、こんな所にいたんだ」
 声と一緒に、最後の数段をぽんと跳んで、ティアが降ってきた。
「始めて見た。これか御座船ってヤツなんだ。動くの?」
「……海にはもう、出られません」
「なんで。底に穴でも開いてんの?」

 わが主に滅びの運命を招き寄せるシガラミ。それを断ち切る斧となってもらうため、機会あるごとに、さりげなくティアに吹き込み続けた。同じ仇に父親を奪われた、貴女と同じ憎しみを心に抱く方がすぐ傍に居ると。貴女の悔しさも哀しみも全て解ってくれる、心強い同志だと。

 仇討ちの成否など、正直どうでもいい。真理の探究だけを悦びに過ごしてきた年月の中で、わが主がいつしか薄れさせていった生き抜こうとする意欲。その源となり得るならば、どんな下らない理由でも構わない。色恋であろうと報復であろうと。

「今度、クインポートから出る定期船は、この船より一回り小さいですし、一等客室を取ったところで昔の様な快適な船旅は楽しめないでしょうが……多少の揺れをガマンしていただけるならば」

 しゃがみこみ、白砂から浮いた船底をなでていたティアが笑顔で立ち上がった。
「付き合ってくれるの? 
 よかったぁ、お金なんて持ってないから、また密航でもしようかと思ってんだ」
「またって……家出した時にも?」
「うん、コーカイシとかいう人と一晩付き合ったら、こっそり乗せてくれたの。あとで、船長にすんごい叱られて、一緒に三日間メシ抜きになっちゃったんだよ、ひどいと思わない?」
「ちょっと待って、二年以上前というと……十三歳で男と一夜を過ごしたという事に」
「それが、どうかした」
 貞操観念の違いに目まいを起こしている主の初心さを、微笑ましいと思っていられない日々が始まる。

 来月の大型船を待たず、次の船で出るよう進言したのは、もし正体を見破られても五十人が相手なら一夜で制圧する事が可能だからだ。
 そうなれば、操船に必要な最低限の船員をしもべとして呪縛し、アレフ様に必要な数人の客を残して、他の乗員乗客全てを海に放り込むことになる……果たして、海賊まがいの乗っ取りを、是として下さるだろうか。

 キングポートに無事着いたとして、いつ正体を暴かれるとも知れない不安はつきまとう。明日眠る場所も定めない旅行中に“金では購えぬ食料”を得るためには、強盗同然の行為が必要になる。

 はるか昔、山賊の仲間だった事が、よもや役立つ日が来るとは思ってもみなかったが、巡り合わせとはこういうものかも知れない。

 ティアはアレフ様を同行させる本当の意味をわかっているようには思えない。
 いや、船に乗るまでは、お2人とも解っていないほうがいい。
 追い詰められ、ほかに手段が無ければ、出来ないと思い込んでいた事も意外と出来てしまうものだろうから。
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