夜に紅い血の痕を

著 久史都子

第四章 葡萄育む北の都 その1

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1.トラブルメーカー


「今度は何をやらかした?」
 道端に止めた馬車に一人残っていたアレフは、危急を知らせるドルクからの心話に対して、思わず声で問い返していた。

 クインポートを出てから起きた最初のモメ事に関しては、完全にこちら側の落ち度だ。馬を換えるために止まった駅で、手洗いに行きたいと言うティアを単独で行動させてしまった。ずいぶん時間がかかるとは思ったが、うら若い女性の様子を便所まで確かめに行かせるのは、はばかられた。

 複数の大声。そして
「すぐに御出立を。テンプルの聖女見習いが武装して暴れております。近くにアレフ様のお命を狙う司祭が潜んでいるかも知れません」
 興奮した駅長が早口でまくしたてるのを聞いて、やっと事態を悟った。ティアは法服を見とがめられて駅の職員や乗降客に囲まれ、戻りたくても戻れなくなっていた。

 急いで迎えに行き、彼女は連れだと説明したが、人垣は解けない。ティアの傍らに立って肩を抱き、マントで包むようにして彼女に害意が無いことを見せて、やっと連れ戻すことが出来た。
 ただ、一つどうしても解せない事がある。
「用足しに行くのに、なぜスタッフを持っていった?」
 個室でも手を洗うときも、長物《ながもの》は邪魔でしかないはずだ。

「こういう時のタメよ。得物がないと不安でしょ?」
 そのせいで、“こういう時”になったとは考えないらしい。
 いや、武器を持っていなくても、テンプルの法服や鎧をまとう者が太守に近づけば騒ぎになって当然か。不死者を倒す為に訓練された者の証だ。法服に縫い付けられた破魔の紋ですら、触れれば冷たい肌を焼く。

「“こういう時”を招かないための、替えのドレスは?」
「そんなもの無いわよ」
「……まさか。
 それでは、その布袋の中身は」
「んーと、下着ふた組と水筒、もしもの時のハーブと包帯。でもって火口箱にロープに、そうそうランタンがあったんだ。ホヤにヒビ入って、カサつぶれてるけど。
あのさ、次に止まったときアブラ買いたいんだけど、いい?」
 ずらりと並べて見せた袋の中身は、およそ女らしくない……まるで辺境の地へ向かう開拓民の様だった。身だしなみを整える物と言えるのは、クシと薄くなった石ケンのみ。

 着替えが無いのなら仕方ない。
 次の駅からは、ちょっとした買出しや用足しにも、ドルクを付き添わせた。それでも、馬車を止めるたび、ティアの周りでモメ事は起きつづけた。バフルに近づけば近づくほど、彼女がまとう法服への反感は高まっていく。

 小さな駅を住み込みで管理している一家から、古着を一枚買い取って与えようとしたが、ティアに拒否された。黒無地のロングドレスにエプロンという装いなら、身の安全を図れると思ったが……使用人めいた地味な衣装は、大きな町を差配していた代理人の娘のお気に召さなかったらしい。

 それにしても、あと一日で北の都バフルに着くとはいえ、真夜中の街道はさすがに人通りが絶える。今止まっているのは駅ではない。およそモメ事など起こりえない……生き物といえば風にそよぐ草しか見当たらないグラスロードのただ中で騒ぎを起こせるとは。
 これはもう、一種の才能かもしれない。

 とにかく馬車を降り、急いでと呼ぶドルクの方へ向かう。
月明かりの中を舞う奇妙な鳥と、全身に火をまとった犬のような生物に囲まれたティアを見て、立ち止まった。
「それは……なんだ?」
「ピエロバードとファイアドッグよ」
 犬の横っ面をスタッフではたきながら、ティアが叫ぶ。では、これらもテンプルの者によって異世界から召喚された生き物たちか。

「アレフ様、すみませんが氷の呪を……」
 いきなりそう言われても、ノームに羽根が生えたようなピエロバードも、草を焼いて走る火の犬も動きが早い。その上、草に燃え移った炎はドルクとティアを分断し事態はどんどん悪くなっていく。一体一体の周囲に魔方陣を組んでいては間に合わない。

 だからといって火刑台の時の様に全てに術をかけて、二人の蘇生と回復はイモータルリング任せでは一体でも仕留め損なった時の対応が……
 そうか、イモータルリングを中心に防御結界を組んで装備者を保護してから術を使えばいいのか。  元々魔力を中継する術具。我が身を結界に包むのと同じ要領で出来るはず。

 目を閉じて意識を不死の指輪に飛ばす。指輪のまわりに対術障壁を巡らせてから、ここで動いているモノ全てを囲む大きさの魔方陣を組み、熱を奪う呪を唱えた。

 発動と同時に空中の水分が白い霧に変じて、周囲を薄ぼんやりとした優しい月明かりに包む。奇妙な鳥たちが地面に落ちてつぶれる音と同時に、炎を失った体の奥で儚く消える犬たちの生命を感じた。どちらも穏やかな景色には似つかわしくない感触。心の奥が軋む。

「へぇー、意外とやるじゃない」
 霜をまとった死骸をスタッフで突いているティアに、聞かずにはいられなかった。
「なぜ、そんな哀しい生き物たちを放置する? そもそも、何のためにテンプルは異界の生物を召喚する?」
「あんたを倒すため」
 スタッフをまっすぐ向けてくるティアの前に、ドルクが立ちふさがる。

「そうやって、従者や使い魔に守られているヴァンパイアを、精鋭とはいえ少人数で倒すなんて無理だもん。護衛を誘い出して守りを手薄にしてくれる、使い捨ての味方が要るわけ。
野に放たれたコイツらが家畜や人を襲ったら、城の衛士を派遣しなきゃならなくなる。城の中にコイツらを召喚すれば危ないペット達や残った護衛の手もふさがる。
今だってあたしとドルクを足止めしてた。馬車に残ってたのはアレフ一人……暗殺には絶好の機会だったでしょ」

「確かに……うまいやり方だ。手段の汚さはともかく」
「この程度で汚いなんて言ってたら、バフルじゃ気絶するわよ。多分、すごくエグい事してるハズだから」
 思わず北の地平に目を向けていた。ここからでは街の灯など見えるはずなど無いのに。
 いつもなら明るく感じる北の空が、不安のせいか暗く見える。

「あたしも実際に見てないから、行ってみないとモルが何やったかはハッキリ言えないけど。急ぐんでしょ」
 先に立って馬車に戻るティアの背中を見ながら、もう一つ疑問が湧いてくる。

「その、テンプルの術や、戦い方を……なぜ私に教えてくれる?」
 テンプルに居場所は無いと言ったものの、彼女は外見も中身もかたくなに聖女見習いのままだ。不死者を滅ぼすのが存在理由なら、奥義を宿敵に明かすのは裏切り行為のハズ。
「……聞かれたから。っていうか、教えて欲しいから聞いたんじゃないの?」
 振り返ったティアに真顔で問い返されて、混乱する。どうも何か根本的な部分で規範が違う。その違いが何なのか……答えを知っているのに理解できない。そんな歯がゆさを感じていた。

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2.グレープヒル


 車窓の景色から、いつしか暗い針葉樹や天を突く細い木々が消えていた。
 今は横広がりの明るい広葉樹ばかりが目立つ。
 朝の光の中、地平線にせりあがってきた丘は、ブドウ畑が織り成す細やかなシマ模様でおおわれ、影を落とす雲の形すら違って見えた。

 グラスロードの北端、首都バフル直前の最後の駅は、付近の醸造《じょうぞう》所から集められたワインだるを一時保管する、赤レンガの倉庫に囲まれている。
 すでに知らせが行っていたらしく、四頭立ての大型馬車と、黄色い布ヨロイに黒ガネの細板を縫い付けた、遠目にも目立つタテじまの護衛が数人、駅の前に待機していた。

「ドゥーチェスと申します。お迎えに上がりました」
 アレフに最敬礼するつるりとした顔の衛士の首には、太守のくちづけを受けた者の証である赤いスカーフが巻かれていた。だが、その下にもう噛み傷は無いはずだ。血の呪縛を施した主が滅びても、その不肖の息子にまで変わらない忠誠を尽くしてくれる姿に目頭が熱くなる。

 だが、そんなドーチェスも同乗者の法服を見れば顔を強ばらせる。
「クインポートを守って殉職したブラスフォードの娘だよ」
 この説明をするのも飽きてきた。危険が無いことを示すために、人目がある時はティアの肩を抱いて出るのも、その度に彼女が身を固くする感触にも、いい加減なれた。
(ああ、ネリィ様と同じ髪の色。……仕方ないか)
 年かさの者が発する、諦めたような苦笑交じりの心の声にも。

「バフルの街は無事……なのか?」
「街は、無事です」
 安堵すると同時に、昨夜のティアの言葉を思い出す。
「街は……か」
 ここからは専門の者に手綱を任せられる安心感か、御者台から解放されたドルクは、妙に明るい笑顔で扉を開けて待っている。だが、行く手に待つ惨事や責任を思うと、馬車のステップを登る足はどうしても重くなる。

 いつもの様にティアを引き上げようとした手が、空を掴んだ。蜜色の髪をひるがえし、ドゥーチェスの前に早足で戻った彼女の、ささやくような声が聞こえた。
「モルは禁呪を使ったの?」
「私にはテンプルの者が言う禁呪が何か分かりません。ただ、あなた方の教義を否定するような邪法という意味でなら……」
「やっぱり」

 荒っぽく座席に収まったティアの目は、朔の日の海より暗かった。その横の気遣わしげなドルクの表情といい……車内が広くなった気がまるでしない。まだ、真横に元気な敵意を感じていた前の馬車の方が開放的だった。

「禁呪、というのは?」
 尋ねてみたが、今回はなかなか答えが返ってこない。そのうちに馬車は動き出し、前後を固める四騎が規則的な蹄の音を響かせ始める。背もたれの向こう、板一枚を隔てて立っているドゥーチェスら2人の警護者の、晴れがましく浮き立つような興奮を、沈黙の中で感じていた。

 この大げさすぎる出迎えは、街の者の不安を少しでも取り除くためのものだろう。まだもう1人の太守は健在だと知らしめる為の儀式ばった演出。

 それにしても、一体なにを城内に召喚して父を滅ぼしたのか。まるで見当がつかない。少なくとも今まで見てきた異界の生き物より厄介な存在なのは確かだ。

「ホーリーテンプル……教会の今の本山がどこか知ってる?」
 ティアが口を開いたのは、アレフ自身が質問した事を忘れかけていた頃。馬車が丘を一つ越え、行く手に首都を囲む一重目の土塁が見えた時だった。なにかイラついているような口調だ。

 さて、オリエステ・ドーン・モルが最初に教会を開いたのは森の大陸北部にある古都スフィーだった。巨大な石造りの建物が街を圧するように建っていたのを思い出す。
 だがあえて“今の本山”と問うならば……別の場所に移ったという事か。

 血と共に取り込んだ若い司祭の記憶にあった学び舎は、やけに明るく白かった。正午の陽に輝く南向きのステンドグラス。そして四季折々の花を配した中庭とそれを囲む白い円柱の回廊。モザイクタイルの床と細密な壁画には確かな見覚えと懐かしさが……
「セントアイランド城?」
 夜の女王がしろしめす白亜の王宮。世界の平安を護る真白き要石。かつてネリィと永遠を誓ったあの場所で、テンプルの叙任の儀式は執り行われていた。

「ファラが作った賢者の石、いま誰が持っていると思う?」
「まさ、か」
 ホーリーシンボルが不死化の際に使われる方陣の反転なら、その元になったビカムアンデッドの術式全てを、テンプルは解析していることになる。あとは触媒が……賢者の石があれば、不死者を作ることができる。
「禁呪とは始祖を作ることか!」

「あんたに施された術と違って、もっとおおざっぱで、いいカゲンで、ロクでもないシロモノだけど、ぶっちゃけて言えばそう」
「大雑把な不死化?」
 なんだ、それは。
「“なりそこない”って呼んでた」

「一定範囲の者を一度に不死化させるの。力は分散するから、死んでから復活するまで時間がかかる。停滞の魔方陣も無く保護の呪も無く放置されるせいで、肉体の一部は腐って、特に脳は取り返しのつかない事になって……けど、ぱっと見は生前のままだから、ダマされて……助けようと手を差し伸べた者を噛んで、どんどん殖えて、収拾がつかなくなる」

 強くなり始めた陽光を防ぐ為、ドルクが黒いカーテンを閉める。にわか作りの夜の中で陰惨な想像が広がった。
「いくら捨て駒とはいえ、指示を聞かないのでは味方と言えないだろう」
「“なりそこない”は見境なしに動くものを襲うけど、破魔の紋を身につけた人間には噛み付かない。理性は壊れて本能もおかしくなってるけど脊髄反射だけは残ってる。
おとついだか、うっかりネックガードに触って手を引っ込めてくれたおかげで、危うくあたしが袋ダタキになりかけた時みたいに」
「あれは……」根に持ってたのか。

 車輪の音が硬くなっていた。草原に刻まれた土のワダチから、石だたみの道にさしかかったようだ。
「不完全な不死化だから、そんなに長生きはしないと思う。数ヶ月もすれば完全に腐って骨になって……でも、そんなんがあそこにうろついてたら、みんな落ち着いて眠れないよね」

 ティアの視線の先には、北東の丘にそびえる灰色の城館があった。
周りを囲む背の低い果樹園には最初にこの大陸に植えられたブドウ樹の直系を始め、改良を重ねて生み出された全種類のブドウ樹がひと畝ごとに植えられ、ワインの試作品が何種類も作られていたはずだ。
 だが、今は働くものの姿は無く……よく見れば城の窓という窓全てが、外から板でふさがれ、荒んだ空気を漂わせていた。

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3. バフルの代理人


 果たして馬車は、“なりそこない”がまたウロついている城ではなく、街の大通りの先にある、区画ひとつを占める石造りの館に向かっていた。
 道端で立ち止まって馬車を見物している人々の、歓迎するでもなく嫌悪するでもない、期待と諦めの混ざった中途半端な沈黙は、居心地が悪い。

 四階建ての建物に囲まれた正方形の中庭へ入る直前、周囲の道に並ぶ数十台の馬車に気づいた。ため息がもれる。ある程度予想はして、クインポートからずっと何も口にしては来なかったが……
「半分くらい、イモータルリングでゴマ化せないものかな」
「衛士はともかく代理人はダメでしょう」
 互いの信認を得るために血の絆を結ぶ儀式。覚悟や能力を試すのはこちらだが、間違いなく彼らも比べてくる。力が、そして資質が、どれくらい父より劣るのかを。

 中庭を囲む全ての窓に黒い紙が貼られているのを見れば、夜まで待ってくれそうに無い。車寄せを覆う日除け布の向こうに立っていた出迎えの者は五人。中央に立つ、葡萄茶色のドレスをまとった紅いスカーフの婦人の厳しい顔を見るかぎり、既に比較も落胆も始まっている様だ。

 ドゥーチェスらが立ち台から降りてステップを固定し、ドルクが馬車の扉を開いて先に降り、周囲の安全を確かめて降車をうながす。
「道中、嫌な思いをさせて悪かった。これで最後だ。この先は私の想い人だと誤解させなくても身の安全を保障できるはずだ」
 降り立つ前にティアの肩を抱き、耳元にささやいた。
「どうかなぁ。それに、まだ貸しはたっぷり残ってるんだけど」
 今回は肩に触れても反応がない……興味深そうな視線を出迎えの者達に向けたままだ。この八日間、同行していたにも関わらず、この娘の考えている事は未だ良くわからない。

「アルフレッド・ウェゲナー様ですね。わたくしはお父上ロバート・ウェゲナー様にくちづけを賜り、このバフルを任されておりましたイヴリン・バーズと申します」
 凛とした声だった。ティアの法服を見ても全く動じない女丈夫と、父が遺した家臣団が最初の相手か。

 四十年の間に街が様変わりしているのも、館に馴染みが無いのもクインポートと同じ。町長の時の様に相手の領界に踏み込む愚はもう犯したくない。イヴリンの知識と忠誠心はすぐにでも欲しいが……今は硬質の意志に魅了の力も弾かれる。
 陽光の入らない部屋でなら、術がかからない相手にも、少しは優位に立てるだろうか。

「父が滅びた後もよく街を守ってくれた。その事に関してはどれほど感謝の言葉を並べても足りはしない」4人の取り巻きから引き離せば弱気を誘えるか?「父の方針は出来る限り踏襲したい。詳しいことを知るために、出来れば落ち着ける場所で……その、思い出すのは辛いかも知れないが」
「残念ですが、そのようなお時間は今、お取りできません」
 これは、つけこむスキを作るどころか……くちづけ自体を断られたか。

「深刻ぶった顔で見え見えの芝居しても、この人達の心は掴めないと思うけどなぁ。それに、どうせ噛んだらバレちゃうよ。館の周りに止まってた馬車の数見て、舌なめずりしてたの」
 全ての思惑と体裁をあざ笑う言葉を横から浴びせられ、驚いてティアから手を離す。いや、接触したからといって人は心を読めないはず。指輪を介して覗かれた、か?

「父を……いや、主を喪った者達の心痛を思えば、おのずと」
「そうかなぁ、
目の前にご馳走が5つも並んでて、内心うれしくてたまらないクセに」
「何を言って……」
 無邪気を装ったティアの笑みから目をそらす。連れの非礼をどう詫びるか考えながら、イヴリンとその横に並んでいる男たちの、こわばった顔を見つめた。
 無意識に、五人を品定めしていた事に気づかされる。彼らも比較しているのだろうが、こちらも比べていた。それも美味しそうか不味そうかという失礼にも程がある基準で。

 不意に、さっきまであった力を受け付けない壁のような意志が消えているのに気づいた。今なら視線を捕らえるだけで簡単にイヴリンらを魅了できる。

 考えてみれば、今日、この館に集っているのは、血と引き換えに権力を望む者たちばかりだ。既に承諾は終わっている。あとは……魅了し、崇拝と悦びを心に刻んで、数口分の血と記憶を取り込めば、感覚と意識を共有するしもべとなってくれる。頑なな抵抗など、元々あるはずが無い。

 扉の向こうに感じる気配の多さを考えれば、この五人を味わって、状況確認と気力の回復をはかっておいた方がいいだろう。長旅の疲れを取るためにも……いや、その為の出迎えのはず。太守としての資質を試したあげく門前払いする為に待っていたわけではあるまい。
 たとえ、しもべにできなくても、血と記憶が得られればそれで十分。

 ただ、イヴリンだけは違う気がする。
 喉を包む紅いスカーフの結び目は、堅い誓いの象徴に見えた。

「イヴリン・バーズ。亡き主への義理を立てたいというのなら、喉へのくちづけは止めよう。その代わり手首を噛むが、いいか?」
 茶褐色の瞳を見つめ、多幸感と快楽を与えながら、反射的な防御反応を引き起こさない様、アレフはゆっくりと近づいた。
「いえ……すみません。どうぞ」
 震える手によって解かれたスカーフが、足元に落ちた。同時に心の芯がほどける。
 これは……父と比較されていたのではない。
 野心か。

 生身の小娘に引っかかってウツツを抜かす“ぼんくら太守”なら、責任感や恩義で縛り、状況を有利に整えれば丸め込めると考えたのか。血と心を差し出さずに代理人の地位を守り、あわよくば補佐という名目で側近として権力を掴む計画……
 もう少しで成功しかけていた。遠まわしの要求を拒絶された後、身代わりに差し出される予定だった黒髪の男を味わえば、彼女の目論見どおり、他愛無く誤魔化されていた気がする。

 イヴリン達を守る強い意志を挫き、目論見を破ったのは……聖女見習いのはずのティアだ。

 テンプルの者に魅了の力はほとんど効かない。対抗する手法が体系化され、訓練も受けている。それが可能なのは、どうして人がヴァンパイアの瞳に縛られるのか、理由と条件を知悉しているからだろう。
さっき、その条件をティアは言葉で満たしてのけたのか。

 人は己が被捕食者だと自覚した瞬間、恐慌状態に陥り、簡単に支配可能な心理状態になる。あの言葉は、本音を読み取っての物ではない。私を捕食者だと自覚させる呪。相対するイヴリンの心に食われる者という自覚を鏡像のように生じさせる言霊。

 今、イヴリンを抱きすくめているのは、ティアの言葉に煽られたせいだとも言える。自らの発言が引き起こした結果に無関心なフリをして、中庭の花なんぞを愛でている小娘の思惑通りになるのは腹立たしいが、すでにイヴリンらの心を弄ってしまっている。今更、食事を中止する訳にもいかない。

 間近で見るイヴリンの上気した顔は、年のわりに愛らしく見えた。彼女の記憶に残る父のくちづけとは逆側の首筋を噛み一口だけ味わう。これだけでは、前菜どころか食前酒にもならないが、扉の先に待っている催事を取り仕切れるのは彼女だけだろう。肝心な時に貧血で倒れられては困る。

 それに、イヴリンが飢えた“ぼんくら太守”の餌食にされそうになった時、身代わりとして差し出されるはずだった取り巻きがいる。

 イヴリンを離す前に、予定が狂ってうろたえている黒髪の男を視線で縛った。
「彼女が落ち着くまでの間、当初の計画通りお前を味わうが、構わないだろう?」
「……はい」
 半泣きでは良い返事とは言えないが、身を投げ出しても守りたいほどに思っていた女性が、贄となる様を見た直後ならば仕方ないか。力が抜けたイヴリンをその場に座らせ、男を抱きすくめる。量を過ごさないように、彼からも一口だけ啜った。
 予想通り、ウィルとかいう見てくれが良いだけの若い男は何も知らされていない。

 残る取り巻き三人は、まだ血の絆を結ぶに足る資格を持っていそうだ。
 希少なワインと資料が“なりそこない”にダメにされていないか案じている醸造担当の技官。
 城内に置き去りにした部下の終焉を、時間に任せるしかない事に苛立つ、衛士長。
 バフル港から貿易船が出なくなってから二十年……いまや形だけになってしまった港湾の責任者。
 全員正装だが、所望されればすぐに襟を開く覚悟はあると示すためにネクタイは外している。なら、期待に応えて一口ずつ味わってやるべきだろう。


 去年が五年ぶりのワインの当たり年であった事。生き残った衛士はバフルの治安維持に携わる者だけで、クインポートを制圧するだけの人員など確保出来ない事。何年も浚渫《しゅんせつ》していないせいで、沿岸で漁をする小船ぐらいしか停泊できない、港のわびしい現状を把握し終えた時……
「そろそろ、お気も済まれたでしょうか」
 なんとか平静をつくろったイヴリンに声をかけられ、口元をぬぐって振り返った。
「ありがとう。一息つけた。……予行演習にもなった」

 衛士長と技官が両開きの扉を押さえ、館へと招く。
「では、どうか供宴の場に」

 風除室に足を踏み入れた時点で、館の中に偽りの夜が作られているのがわかった。窓は紙と布で二重に覆われ、明りは揺れるロウソクの炎がわずかばかり。
 背後で黒い帳が下ろされ全てが薄闇に包まれた時、館が自分の領域だと確信できた。内部の間取りも、予定されている式次第もイヴリンの心から読み取ってある。もう気後れはない。

 まとめていた髪を解く。人の目では顔の輪郭がなんとか分かるかどうかの暗がりだ。薄い色の髪なら夜目にも目立つ。これぐらいの演出は必要だろう。

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4. 信認の儀式

 ガラスにもぶどうの意匠を施されている真ちゅうの扉に手をかけたイヴリンは、大きく息を吸い込んでから開いた。丸天井を支える円柱の間にひしめいている代理人候補たちが、一斉に注目する。

 ロバート様を喪ったと感じた翌日から、矢継ぎ早に使者を派遣して、バフルに集める事が出来た代理人候補は七十八名。取りこぼしは元々代理人を置いていなかった南方の三つの村。以前にロバート様のくちづけを受け、今度はアレフ様の信認を得るために来た年かさの者から、新たに志願したと思われる年若い者まで、ここにいる者たちの背景も年齢もばらばらだ。

 時には舞踏会や観劇も催される、絵画と彫刻に彩られた華やかなホールは、今は闇に沈んでいる。約3割を占める女性候補がまとっている胸元が開いたドレスも、黒でなければ紺や深緑。色彩の見分けはほとんどつかない。

 壁際に飾った花の香りを楽しむ者も、会話を楽しんでいた者も居ない。彼らを滞在させていた宿には朝早くに使いの者をやったから、湯を使い正装に身を包むのか精一杯だったろうに、壁際に用意した焼き菓子や干し果物にもほとんど手がつけられていない。

 死ぬはずの無い支配者。いや、既に死人だった太守の滅びを悼んで、約半月経った今もみな喪に服しているのかも知れない。
でも、今日からは……。

 ぶどうのツルを象った金色の取っ手を握ったまま大きく扉を開き、体を半転させて背で押さえる。少し遅れてもう片方の扉がウィルの手で大きく開かれた。
 銀の髪とマントをなびかせて入場する新たな主の姿を、イヴリンは陶然と見つめた。

 これから始まるのは、血と信頼の絆を太守と結び、代理人としての権限を授かる儀式。いや、アレフ様にとっては権力をエサに集めた人間を味わう宴だろうか。
 代理人候補たちの逃亡を防ぐように、イヴリンは扉を閉じ、閂(かんぬき)の代わりにその前に立った。

「平安と秩序を守る礎《いしずえ》となるために、万難を排して集まってくれた事にまず感謝する。中には遠路はるばる、幾日もかけてここへたどり着いた者もいるだろう。私自身、陽光をおして旅して来たが……整備すらされていない道行きの苦労は想像しても余りある。
 携えてきた望みの全てを預けて欲しい。責任をもって受け止めよう」

 心を揺さぶり頭の芯を甘やかな恐怖でしびれさせる視線が、言葉と共にこの場にいるもの全員に向けられているのがわかる。
 首筋に冷たい牙が当たる瞬間を待ち望みながらも、原初的な恐怖に顔を引きつらせる者から、陶然とした表情でため息をもらし見つめ返す者、全てを拒むように目を逸らす者と、反応は様々だ。

 緩やかな曲線を描いて二階へと伸びる階段を、ウィルに先導させてゆっくりと登ったアレフ様が、最上段から鮮やかな笑みを階下の者達に向ける。
 一瞬、胸が高鳴るのを抑え、貴賓室へ入られる直前に受けた心話に応えて声を上げた。
「遠方から来られた方より三名づつ、アレフ様の元へ。謁見は数日来の話し合いで決めた……今朝方お渡しした封書で通知したとおりの順番を厳正に守って頂きますよう、お願いします。スノーコーストのフィッシャー氏、ニューエルズのベニエ女史、シノアスのポニック翁」

 3人の男女が階段を登り始めるのを確認して、イヴリンは背後の扉を軽く3度ノックした。正式な代理人となった者がすぐに故郷や任地へ出立できるよう、手はずどおり馬車3両を中庭にまわさせる為に。
 同時に、かなり待たされるはずの候補者たちが、騒ぎもせず、壁際の席につき軽食に手を伸ばし、所どころで談笑を始めるのを見て、胸をなで下ろす。

 街や村の規模や歴史を根拠に、順位を先にしろと主張してくる代理人候補たちを、太守からの指示や各地からの要望が通じない期間を少しでも短くする方が人々の不安を抑えられると説得し、その為には遠方からきた代理人候補を優先させるべきだという合理性でねじ伏せた。今は収まっているが、時が経てばどうなるか分からない。

 これほど多くの代理人を一度に信認するなど歴史上かつてなかった事。血を媒介として心を結んだ者が各地へ散る事によって確立される支配制度。その要となるアレフ様の食の細さが気がかりだ。一人から一口ずつとしても、かなりの量となる。一両日で済むかどうかも分からない。だが、急がなくてはならない。クインポートの様な造反は、もう許す訳にはいかない。

 それにしても、太陽が中天にある間は地下で休息したいという主の要求を、どう皆に伝えたものか。
 赤いスカーフを誇らしげに喉元に結んだ三人がざわめきの中を横切り、代わりに呼ばれたのは五人。おそらく午前中はこれで終わる。

「信じらんない。あいつに血を啜られる為に馳せ参じる人間がこんなにいるなんてね」
 一時解散させるか全員この場に足止めするか、判断を迷っていたイヴリンは、聖女見習いの言葉に息を呑んだ。足早に出立した代理人たちと入れ替わりに入り込んだのか。

「さっきは残念でした。もうちょっとだったのにね、オ・バ・さん」
 ふざけた口調で笑う小娘を、回廊の奥、東の翼へ伸びる廊下に押し込んだ。

 イヴリンを認め、この町を差配する権限と引き換えに血をひと啜りして、その後何年も放ったらかしにした黒髪の太守と違い、銀髪の太守は生身の女に弱いと聞いた。ネリィや同行している聖女見習いの様な小娘に可能だった事が私に出来ないはずはない。元代理人と代理人候補を集め、彼らの血を啜らせてこの大陸を掌握する手伝いをしながら、自分たちの血だけは飲ませず、対等の立場で取り入る。うまくゆけば太守を言いなりに出来ると思った。

「あなた本当に聖女見習い? 私達をあの方に差し出すような真似をして」
 このティアとかいう娘が私達をご馳走呼ばわりして、紡ぎかけていた対等の関係を砕いた。
「別にどっちがどっちの操り人形になってもイイんだけどさ、あんなんでも一応命の恩人らしいから。それに、オバさんが心配してたほど、色ボケじじいでもなかったでしょ」

「よく、私達がアレフ様を傀儡にしようとしていると気づきましたね」
「そりゃ、赤布を巻いた代理人が太守に名乗るなんて変だもん。身分詐称以外にも、なんか企んでるって考えるのがフツーでしょ。あのドゥーチェスとかいう警護主任を、アレフがつまみ食いしなかった時に、何となく」
「摘み喰いって」
 ティアの物言いにイヴリンは苦笑した。

「だって見逃すには惜しいエモノだもん。バフルの事情知りたがってたし……タテジマの目を借りたら閉め切った馬車の中からでも外の様子が分かるし、何より優秀な生きた盾が手に入るのに」
「それは見当違い。テンプルの者らしい……いえ、中央大陸の者らしい発想ね」
 この娘が法服を着て馬車に乗り込んでいた理由が分かった。この娘が真に警戒していたのはアレフ様ではない。

「海の向こうでは、金持ちの馬車が護衛なしで街道を走れば、ひと駅も保たない様だけど、グラスロードで賊の心配はありません」
「うん、木綿のドレス着せられそうになった時はトンでもないバカだと思ったけど……びっくりした。意外とみんなキチンとしてんのね。太守が滅ぼされたら好き勝手始めると思ってたのに。ただ、モルのクソ野郎が召喚した魔物には襲われたけど」
 娘の言葉が生々しい悲劇の記憶をよみがえらせ、怒りと悔しさが心を騒がせる。収まるまで深呼吸が三回ばかり必要だった。

「ところで、代理人になっても、心を隠そうと思えば隠せる、よね?」
 娘の指には血色の指輪がはまっていた。不死者と装備者の心と命を結び、生身の衛士にかりそめの不死を与える術具。アレフ様が作られた……確かイモータルリングとか。
「しもべが増えれば一人ひとりに御心を裂いてはいられないでしょうが、今はまだ」
 時折、イヴリンを介して会場の代理人候補たちの様子を視ている別の意識を感じる。

「いい方法教えたげようか……『明けない夜は無い』『人の作りし存在なら、必ず人の手で破れる』『不死者は人の命を盗む盗人……』」
「やめて!」
 思わず大声を上げていた。

 先ほど痛みと共に受け入れた、死の感触を秘めた至福が綻びるのを感じた。怖れで心が震える。計算や共通文字と共に、教会が当たり前の様に広めている単純な言葉が、意外な力を秘めている事にイヴリンは驚いた。

「ごめん……オバさんを不安がらせるつもりはなかったんだ」
 薄闇になじむ地味な法服の肩がすこし落ちる。それから、小さな顔が上がった。
「あのさ、バフルの教会は今、どうなってる?」

 四十年前に街の中心街から移転させられ、貧民街の一角を占めるようになった木造の教会は、普段なら文字や数字を書き取る者達の机が、道まではみ出しているが……
「閉鎖中です。あなたと違って教育官は法服を脱いで身を隠していますよ」
「いろいろ困るんじゃない? 授業だけじゃなくて、大きい取引したい商人とかは教会の為替が使えないと……」
 確かに再開を求める商人の組合や工房の親方達と、閉鎖を撤回しないイヴリンらは対立状態にある。
だが
「もう少し落ち着かないと、街の者が何をするか」
 教会の閉鎖を解かないのは、そこで学ぶ者と働く者の安全を守るためだ。

「オバさん、ひとつ提案があるんだ。
あたしが、『聖女見習い』として城の“なりそこない”達を片付けたら、教会を再開してもいいって文書、バフルの代理人名義で出してくれる?」

 テンプルが仕出かした事を、この娘がテンプルの者として収めたなら、街の者の反感は解けるかもしれない。しかし
「危険すぎます。それに、あなた一人で何が出来ますか」
 思考をはじめ生前の能力をほとんど失っているとはいえ、当時城にいた文官と武官、そして救援に向かった衛士のほぼ全員を相手にすることになる。いくら破魔の紋を施した法服を着ているからといって、見習い一人では手に余る。

「今は真昼だから眠っているのを浄化するだけだし……あたしは死なないもん」
 自信の根拠はイモータルリング。だけど、蘇生は不死の源泉となる始祖にかなりの消耗を強いるハズ。
「アレフ様にご迷惑をかけることは許しません」

「ケチぃ……せっかくオバさんの夢を叶えて、ついでに街のみんなが安心して眠れるようにしてあげようと思ったのに。それに、いつまでも代理人事務所をアレフの御座所にしといちゃ、色々こまると思うんだけどなぁ。首都と大陸全部の事務を一ヶ所に集めたら、狭いでしょ」

 確かに、統治を支える雑多な事務に携わる人員と場所そのものの確保は頭の痛い問題だ……が。
「私の夢?」
「もし、あたしに何かあった時、何もかも投げ出してアレフが飛び出したら……
あたしに色ボケじじい、ちょーだい」
「はぁ?!」
「だって、要らないでしょ、そんな無責任な太守。
バカ領主をお飾りにしてココを治めるのが、オバさんの理想でしょ」
 確かにそうだが、こうも明け透けに言われると怒りを通り越して、バカらしくなってくる。

「好きにしなさい。文書は用意しておきます。それとお守り代わりにこれを持っていきなさい」
 渡された物をみて聖女見習いが舌をだす。新たに信認を受けた代理人が5人、階段を下りてくるざわめきが扉越しに聞こえる。
「……幸運を」
 ホールに戻ったイヴリンは、代理人候補達に軽食を摂らせる段取りを確認しながら、遠ざかる小娘の気配を感じていた。

 テーブルと共にホールに運び込ませた銀盆には、蒸し貝やくんせい肉、果物や焼き野菜、揚げ魚やパイが盛られていた。どれも新鮮で最上の食材ばかり。刺激物や香りの強い素材を使わずに作られた昼食を、取り皿を手にみなが楽しみ始めるのを確認して、階段を登る。

 この会場に集まっている各地の代表者や名士も、ある意味、銀盆に載せられたご馳走だ。一口ずつ加減して召し上がるのに嫌気がさした時のため、死なせてもかまわない贄も用意した。バルコニーの優美な手すりから不安そうに階下を見ている、それぞれ異なる魅力を持った三人の乙女たち。代理人候補を信認する順番すらままならない今、嗜好品ぐらいは選ぶ愉しみがあっても良い。それが、たった三つの選択肢でも。

 控えの間で所在なげにしているウィルを階下の仕切り役として向かわせ、一段と闇が濃くなる貴賓室へ入る。扉を閉めれば、目が慣れても足元さえおぼつかない暗がりに包まれる。人への配慮がなされていない室内。ここで優先されるのはアレフ様のご都合。
 記憶にしたがって深いじゅうたんの感触を確かめながら、四歩進んだ。
「呪縛が解けかけているね」
 声がした方を見たが白い顔は見えなかった。

 不意に硬く冷たい腕に抱きかかえられる。足元から床の感触が消えた。闇の深部へと運ばれていく間、絶体絶命の状況に身が震える。喉から漏れる悲鳴は必死にこらえた。
 すぐに抱擁は解かれたが、入ってきた扉の方向を見失い、逃げる術もなくしたイヴリンは闇の中に佇むしかなかった。

 冷たい指がおとがいに触れ、顔を上げさせる。目と心を覗き込まれているのが分かった。全てを受け入れるつもりで、目の隅でだけ捉えられるぼんやりと白い顔を見つめ返したが、喜びが心を満たす瞬間は訪れなかった。
「やめておこう。心を弄らなくても、貴女は職務を果たしてくれる」
 落胆と同時に助かったという思いで涙ぐみそうになる。心が壊れていく深刻な恐怖を伴う快楽に、もう溺れなくても済む。

 短い呪のあと灯ったランプで、室内が暖かい光に満たされた。濃紺のじゅうたんの上に艶のある木彫を施した調度類が置かれていたはずだが、そのほとんどは壁際に片付けられていた。闇に怯えて逃げようとした者に怪我をさせないための配慮、だろうか。
 外套と上着を脱いで佇む横顔はどこか疲れて、白いゆったりしたシャツに包まれていても、薄く細く折れそうに見えた。
 今は真昼……不死者の力が最も削がれる時間。

 イヴリンは花を象ったろうそく立てにランプの火を移すと、森の木々と鳥たちを象嵌した壁に手を触れ、風鳥の尾を押して隠し通路を開いた。
「こちらへ」
 奈落の底へ降りていくような狭い階段の果てには、急ごしらえの寝所を用意してあった。

「地の方陣は施してない……か」
 アレフが黒い石の床にひざをついて、自らの指を噛み棺のまわりに美しい図形を描き始める。
「すみません。私どもには魔導の事は解りかねますので」
 昨日貼った壁紙の糊の香が漂う地下室。東にある厚い樫の扉の先にはホールの裏手に通じる階段。そして……軽い呪を唱え、血で描いた魔法陣に琥珀色の輝きを与えた主に、北の壁を指し示す。かけられたタペストリーをめくり、もう一つの扉を見せた。

「もしもの時は、ここから裏の路地に出られます」
「……もしもの時?」
「ファラ様が滅ぼされた後、全ての寝所に抜け道を作るようにと、ロバート様から密かに指示がありました」
 わずかに動揺したような表情でうなづき、棺に身を横たえる主を見守ったイヴリンは、閉じられた重厚な蓋に一礼して、狭い階段を登った。三階分だと多少息が上がる。

 心を縛らなかったのは、信頼して下さったからと思えば良いのだろうか。それとも、ちょっとした“仕返し”だろうか。

 眠りにつかれた四十年前には無かった儀式用の馬車に豪奢な建物。そして昼の光にロバート様の威光。揃えた人数に立ち位置と、考えられる限り有利な条件を整えて挑んでおきながら、戸惑ったような灰色の眼になでられ、やがて明らかに食欲の対象として見つめられた瞬間、全てを諦めてしまった意気地のない黒幕気取りへの、意趣返しかもしれない。

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