夜に紅い血の痕を

著 久史都子

『夜に紅い血の痕を』第十六章 彷徨

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1.ドラゴン


 グラスロードはラウルスから分岐して、南へと伸びていく。  極地に最も近いドラゴンズマウント領。寒冷地独特の澄んだ空。氷河が削りあげた鋭い山が遠くにかすむ。車窓に明るい湖が広がる時もあれば、針葉樹の暗がりに視界をさえぎられることもある。

 再開した駅馬車は海岸に点在する集落をつなぎ、遠く雪原まで行くらしい。大地を深くえぐる細長い湾は渡し舟で越えて、温水が湧く湖のほとりにあるという、夜空を極光が彩る最南端の村の安否を確かめるために。

 だが、今回の目的地は白い大地ではない。

 毛長牛の列に道をふさがれて馬車が止まる。御者の舌打ち。ブチ犬と牧童が褐色の群れを急かしているが、当分は動くまい。見渡せば、家ほどもある黒い岩が草原に影を落としている。大昔の氷河の忘れ物か。

 探しにきたのは、もう少し新しい忘れ物。ウリシアダがファラと協力して作り上げた最強の魔導生物ドラゴン。まだ一頭、残っているという。だが海に突き出した崖の上の城は焼け落ち、人も家畜も……ネズミすらいなかった。

 目撃談はこの先にある、メニエに集中している。ハラワタを食われたアザラシの死体が丘の上で凍っていたとか。放牧中の毛長牛やカリブーが何頭か消えるとか。

 空からの驚異に逃げ惑い、足を折る家畜が後を絶たないという理由で、退治するか追い出そうという話もあるらしい。
 邪魔だと、要らないというのなら、引き取りたい。

 モルに対抗する力としては、あまり役には立つまい。ウリシアダが可愛がっていた5頭は、テンプルの侵攻を止められなかった。異界から召喚された毒蝶の鱗粉を吸い込み、つぎつぎと海中に没したという。

 アレフは少し不思議な気分で前の席のティアを眺めた。これまでは、行く手に討ち果たすべきモルがいた。今回の南下は、完全な無駄足といえる。なぜ、まだ行動を共にしてくれているのだろう。

 復讐を諦めたのなら、テオの唐突で素朴な提案にのっても良かったはず。命の危険がなく罪に手を染めることもない、普通の暮らし。子供時代の喪失を埋める温もりと愛情が手に入る道。

 それにしても、出立間際に求婚とは……

「ずっと、オレの横にいてほしい」
 テオの真剣な声と表情が脳裏によみがえる。

 命に関わる危機を協力して乗り越えた者の間に特別な感情が芽生えるという。確かに、テオは灰色の法服を目で追っていた。ティアを妄想の中で抱いていたのも知っていた。だが、具体的な未来までは考えていなかったはず。誰かに何か言われたか。

 自警団の悪友や年かさの者が、今のがしたら二度と会えなくなると、冷やかし混じりに吹き込んだか。それとも私の素性に気付いている誰かが、ティアの身を案じて引き離そうとしたのか。

 なぜ腹立たしく感じるのだろう。私がどう頑張ってもティアに与えられないものを、テオは与えることができるからか。温かくたくましい……まだ成長過程にある生身の体がうらやましかったのか。

 何年経とうと変化しない、冷えた身体に少し倦《う》んだのだろうか。かつては羨望の対象だったこの身が、今では皆にうとまれる事に、疲れたのかも知れない。

「ごめん。あたしには、応えられない。まだやることがあるから」
「……アレフか」

 うなづき、手を振りほどくティアの姿を思い出すと、嬉しくて誇らしい。

 だが、テオが言ったのは、どっちの意味だろう。ティアが私を選んだと思って諦めたのか。吸血鬼の親玉たるアレフを打倒するまでは応えられないと解釈したのか。

 どっちも、同じか。

(ポニック翁が、目覚めぬまま亡くなりました)
 強い、そして沈痛な心話に、思考がさえぎられた。
 バックスと戦う力を集めるために、しもべ達の心の奥底に力の通路を開いた。体が弱かった者や年老いた者のうち、幾人かが力の通過に心を飛ばされ昏倒したと、翌日 知った。

 カウルの代理人も倒れたが、2日後には目を覚ました。最古老のカクシャクとした姿が目に浮かぶ。半死のアンディは逝ってしまうかと思ったが、数日後に快方に向かった。だが、かつては父の代理人でもあった流氷の村の長は……。

 犠牲者を出してしまった。これでは闇の子を食らったバックスを責められない。
 気絶しないまでも、心身の調子を崩した者は大勢いる。

(イヴリン……それでシノアスは)
 海の向こうで名代を務めてくれている女丈夫が、決然と顔を上げるのを感じた。
(紅い指輪をさせた者を向かわせています。臨時の代理人にする手続きは整えました。彼にシノアスを任せるに足る村人を見極めてもらいます)

 本来なら私がやらねばならぬことか。

(バフルの商人たちが金を出し合ってクインポートで雇った船は、倉庫にあふれていた荷を積み終えて、明日には出港です。そちらは?)
 急な話の切り替えに、しばし何の事か悩んだ。小麦の輸入差し止めに対抗して、臨時に組まれた会舎か。

(スフィーの教長が募った出資者から集めた金で船は雇った。シルウィアにつき次第、小麦や茶葉を積んで出航するようだ。欲が勝手に計画を転がしている)
 しもべとなっても衰えない、あの者の蓄財への情熱には、敬意すらおぼえる。

(それより、イヴリン自身は大丈夫なのか)
 東大陸に、領内に私がいないとバレたせいで、イヴリンへの非難や抗議は過激なものとなっている。だまされたと感じる代理人たちも多い。

 間もなく一年。
 もう限界かもしれない。

(ご心配にはおよびません。我が身を守る算段は立てております)
 独自に任命した、イヴリンの個人的な衛士たちか。
 だが力で抑えれば、どこかにほころびが生じる。

「やっと毛長牛の群れ、切れたね」
 ティアの声に、意識が引き戻された。ムチをもらった馬がいななき、馬車が揺れた。

 今は、取り返せない過去や、手の届かない海の彼方より、目の前の明日を思いわずらえ。そう言われている気がした。



 メニエ村のはずれ、寒風が草をなでる丘の上に繋いだのは、毛長牛の若いメス2頭。褐色のカタマリが身を寄せるのは、夜風の冷たさだけではあるまい。周囲に振りまいたカリブーの血と臓物の匂いにおびえている。生臭い風が呼び寄せる牙ネコや、空をよぎる影がもたらす死を、予感しているのだろう。

「ウリシアダが、乙女や幼児をドラゴンに食わせてたってのは……教会のウソだよねぇ」
「さて? 愛犬や愛猫に自分と同じ物を食べさせたがる人は、多いみたいですが」
「じゃあ、あたしがおかわりした毛長牛の煮込みの方が、美味しそうに見えたんだ。あんたがタブらかした赤いほっぺのバカ娘より」
 ティアが怯むと期待したわけではないが……何も新しくしもべとなった者をおとしめなくても。
 まさか嫉妬か?

「草の図形は、何か意味があるの?」
 身を隠している布一枚の簡素な天幕をおおう草を風精に刈らせた時、丘全体を結界に包む円の他に、春の土色を意味する文字を書かせた。
「オークル……生き残ったといわれるドラゴンの名です」
 四十年前はまだ幼獣だった。戦いにかり出さなかったのは一番若かったからかも知れない。

「もうすぐ来る?」
 この丘で見つけたのは、アザラシの骨。牙ネコの歯形も刻まれていたが、毛長牛より重い海獣をここまで運んだのは、もっと大きな生き物のはず。だが、すっかり干からびて新鮮とはいえなかった。

「オークルのナワバリはかなり広いようです。数日以内に姿を現す保障はありません。アザラシの繁殖期は過ぎているし、海岸を離れているかもしれない」
「なんだ、ツマンない。宿で休んでる。来たら心話で呼んで」
 アクビしながら、茂みに偽装した天幕をティアが出て行く。

「牙ネコが待ち伏せていると厄介だから」
「分かっております」
 護衛としてドルクがついていく。丘を下るふたつの影を見送ってホッとした。

 重い体と長大な牙のせいか、牙ネコは言われているほど危険ではない。中型の肉食獣から獲物を横取りするのが得意な死肉食いだ。それでも人間がひとりで対抗するのは厳しい。だが、2人以上なら牙ネコの方が避けてくれる。

 それにドラゴンは夜行性というわけではない。私が見張る事が出来ない昼間は、あの二人に任せるしかない。今のうちに休息をとってもらうほうが助かる。

(召喚の方陣かと思った。異界から呼び寄せるより楽でしょ。同じ世界にいるんだし)
 ティアからの心話。その手もあったか。だが、こちらの都合で強引に喚んだら機嫌を損ねそうだ。だいいち触媒もなしに人より大きな生き物を転移できるだろうか。知能と魔力も高い。抵抗される気がする。

 でも……方陣を少し変えて、心話を送ってみるぐらいは、してもいいか。応えるかどうかはオークル次第。

 水晶球を通じてケアーに接触し、オークルの個体としての特徴を確かめた。草に溜まったカリブーの血を爪につけ、手帳に小さな方陣を描き上げる。

 紙片を破りとり、掲げ、真名を呼ぶ。
 たいして期待しないまま、応えを待った。
 星がじりじりと空をめぐる。

 ふと、指に挟んだ紙が震えるのを感じた。耳を澄ませると甲高い声のようなものが、紙から生じている。
「ダレ? ドコカラ呼ンデル?」
 繋がった。

(私はアルフレッド・ウェゲナー。11番目の血の盟主)
「東大陸カラ、呼ンデルノ?」
(いや、森の大陸。ドラゴンズマウント領の海辺。メニエの)
 オークルの困惑を感じて悩んだ。人が勝手に土地につけた名など、ドラゴンには分からない。

 頭の中に地図を描いた。
(春先、海の氷がゆるむころ、アザラシがたくさん上がってくる岩場を覚えているか。大きく切れ込んだ五つの海岸の北。オークルの足に似た半島の近く。丘の上だ。……近くに居るなら、おいで。毛長牛を2頭、用意して待っている)

 ドルクを呼び戻そうかと迷ううちに、毛長牛が哀しげに鳴いた。頭上を影がよぎる。
 海からの照り返しにビロードのような皮翼を輝かせて、次第に高度を下げてくる土色のドラゴン。

 外洋船よりは小さいが、馬車や家よりはるかに大きい。こんなものが羽ばたきだけで飛べるハズはない。オークルが空を自在に舞えるのは、体内に御座船を浮かべている力と同じものを持っているからだと聞いた。

 まるで羽毛が落ちるように、優雅に着地する。土けむりも衝撃もない。爪は長いが体に比して細い足。身軽に歩く姿は鳥に似る。ただ、畳まれた翼の他に、前肢がもう一対あるあたりに、造られた生物らしい変則ぶりがかいま見えた。

「毛玉ノホカに角ツキノ匂イモスル」
 尖った口吻の根元に開いた鼻腔が、ヒクついている。
「残念だが、カリブーの肉はないんだ」
 血と臓物を分けてもらった家の庭先で、太いモモや脂の乗ったバラ肉は塩をすり込まれ……今頃、燻製小屋にぶら下がっているはずだ。

「カリブーの方が好きなのか?」
「若イ毛玉モ好キ」
 口を開けずに話している。発声器は喉や口ではないらしい。
 居すくんだ毛長牛を、縦長の金色の眼がねめつける。無造作に首に食らいついて地面に叩きつけたあと、腹を爪で裂いて首を突っ込む。引きずり出したハラワタの量からすると、羊くらい丸呑みにしそうだ。

 綱を切って暴走しようとする、もう一頭の影を踏んで金縛りにしてから、オークルにゆっくりと近づく。足と腹を被うツヤやかなウロコ。背中と翼を保護する柔毛。金の飾り毛が美しい尾。

 寿命は人の倍程度と短いが、肉を持つ眷族の中で、もっとも力強く美しいもの。
 毛長牛の骨を噛み砕き、皮を引き裂き、硬質の顔を赤く染めて夢中で食らう姿を見ているうちに、哀しくなった。

「この世にたった一頭のドラゴン……。オークルは寂しいと思ったことはないか?」
 返事は無い。聞いていないのかもしれない。

「私は寂しいよ。同族がどこかにまだ生き残っていないか、世界中を旅して、こんなところまで来てしまうぐらいに。でも、仲間がいたはずの城は全部廃墟だった。見つかるのは遺言ばかりだ」
 物言わぬ犬猫に告白するように、言葉が口からあふれ出る。
 残った毛長牛に襲い掛かる背中を見上げる。タテガミに埋まっているのは首輪……それとも鞍だろうか。

「いや……一人だけ、この近くで仲間を見つけた。なのに私は彼を滅ぼしてしまった。やっと見つけた同族だったのに。何をやっているんだろうね。また、一人になってしまった」
 オークルの体は温かい。尾がひっかけた枯れ草を取り、筋肉がうねる足をなでてみた。毛長牛を引き裂く前肢の器用さにしばしみとれた。

「ファラ様に造られたという意味では、この世で私に一番近しい存在はお前かも知れないね」
 毛長牛を残骸に変えたオークルが、昇って来た月に向かって鳴いた。木の笛が奏でるような温かい咆哮。訂正、喉にも発声器官はあったようだ。

「仲間、イルヨ」
「他にもドラゴンが?」
 オークルがかぶりを振る。単に顔についた汚れを飛ばしているだけだろうか。

「違ウ」
「いる? 私と同じような者を知っているというのか」
 喜びかけて……戒める。ドラゴンに人間と死人の区別が果たしてつくだろうか。
「まさか。空から見ているだけでは、人との区別も出来ないだろう」

「影ノ無イ男」
「私の様に足元に影を持た無い男がいるのか?」
 オークルが胸を地面にすりつける。
「乗ッテ。今カラナラ朝ガ来ル前ニ、会エル」

 馬の背より太いドラゴンの首。手をかけるとウロコは乾いて温かかった。タテガミは柔らかい。地を駆ける馬の背にも乗ったことがないのに、空をゆくオークルに乗れるだろうか。不安がよぎる。

 登ってみると、やはり鞍だった。オークルの土色の胸に合わせた皮ベルトで固定されている。黄色い騎座は光沢のある布。新しくはないが古くもない。それに、毛穴のない皮に綿でも絹でも羊毛でもない布。この材質は……

「チャント乗ッテル?」
 オークルに注意されて後橋に腰をあわせると、自然と首に抱きつく姿勢になった。タテガミに埋まったもう一本のベルトが手に当たる。牛の角で出来た持ち手……位置からすると私より少し手の短い者に合わせてあるようだ。

「この鞍をつけたのは、誰……」
 問いが終わらぬうちに、背後で膨大な筋肉がうごく気配がした。振り向くと視界におさまりきれない長大な翼が広がり、大気を叩いた。後肢が丘を蹴る。大きな魔導の力を感じた。浮遊と呼ぶには安定した静かな上昇。

 ちょっとした遊覧飛行でも、無断というわけにはいくまい。
(ドルク……オークルの背に乗って、行ってくる)
(先ほどの鳴き声は、やはりドラゴンでしたか。それで、どちらへ)
(オークルが見かけたという不死者の元へ。夜明けまでにつくらしい。そう遠くはないと思う)

(もしや、バックスやシャルのようにテンプルに作られた不死者では)
 従者の不安はもっともだが、鞍を据えた者がオークルの言う私の仲間なら……
(違うと思う)
 根拠を説明しようとして、塩水の粒を頬に感じ、慌てて物理障壁で我が身を包んだ。

 ツバメが水を飲むように、海面をいく度かかすめて、オークルが水しぶきを上げる。最後に濡れた頭部から首までを震わせ、水滴を飛ばした。心地よさげな咆哮。毛長牛の血と肉片で汚れた頭と首を、海水で洗いたかったのか。

「障壁デ、体ヲ包ンダ?」
「水は苦手だ。海水浴は私が乗っていない時に頼むよ」
「ケド、息シナクテモ大丈夫。寒サモヘイキ」
 からかうような声。どうやら顔の近くの空気を魔導の力で振動させて出しているらしい。

 水面すれすれは相変らずだが、波をかすめることはなくなった。とりあえず、向かっているのは森の城ではない。さすがにバックスらの事でなかったか。

 では、どこへ向かっているのかと星の位置を確認しようとして、別の物理障壁の発生を感じた。オークルが作り出したらしい。ドラゴンの鼻先を頂点とした鋭角の障壁。だが、なぜ目に白く映る?

 障壁に沿って不定形に揺れる白いものは水蒸気が飽和して生まれた雲か。水面をかすめてはいないのに、扇形に海に広がる白波。障壁に身を包んでいたせいで気付けなかったが、恐ろしい速さでオークルは飛んでいる。

「ソロソロ行クヨ」
 広がっていた翼が半ば畳まれて体躯に沿った。尖った羽の先から白い雲が生まれ細い筋となって流れ去っていく。真後ろに高い水柱がたつ気配がした。だが、水音がしない。物理障壁が切り裂いているはずの風の音もない。

「まさか、音を置き去りにする速さなのか」
 答えたのは愉快そうな笑いの波動。飛ぶのを楽しんでいる。
 音が空気を伝わる速さはたしか、人が走る速さ約の百倍……一日で星を半周してしまう。
 夜明けまでに会えると言ったが……

(すまない、かなり遠出になりそうだ)
 困惑したドルクを安心させてやりたくとも、目的地の候補がありすぎて答えられない。

 景色が単調な海上に飽きたのか、オークルがほぼ垂直に上昇した。静かなまま雲に飛び込む。視界が効かない白い空間を突き抜けると、落ちた時のことなど考えたくもない高度に達していた。頭上には高山で見るような瞬きの少ない星々。

 ドラゴンズマウント領の複雑な海岸が雲の切れ目から見えた。精密な地図を見ているような錯覚におちいりそうになる。地形と星を見定めて、やっと方角がつかめた。

「この先にあるのは私の所領なんだがな」
 父の事だったのだろうか。滅ぶ前にこの鞍をオークルに与えたのか。だが、父がドラゴンを手なづけていたウワサなど、バフルでは聞かなかった。牛や羊を与えていたなら、公式の記録にも残るはず。

 だが、薄い空気と雲も凍る低温の中で、ドラゴンの首に掴まり、ずっと身を低くしているなど生身の者にはむりだ。息をする必要がない者。元から体が冷たい者。疲れを知らぬ者だけが、オークルと共に飛ぶことができる。

 夜明けの光が赤く地平に広がる頃、眼下に陸地が見えてきた。形から判断すれば、東大陸でもっとも人が少ない南西の海岸。だが、オークルは海岸を行き過ぎ、山に抱かれて霧をたたえた盆地の上で旋回を始めた。
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2.一時帰郷


 オークルは速度と高度を落としながら、低木とまばらな草の群生地に向かって吼えた。四角い一軒屋が目のハシにかかった。目を凝らせば、その前でこちらを見上げている人影がひとつ。

 白い長衣。黒髪に褐色の肌。高いほお骨とわし鼻。見たことのない男。霧の中では足元に影があるかどうか確認できない。だが、生身の人の気配でもない。
「どうしたオークル。この前きたばかりなのに、珍しい」
 少し高い声にも聞き覚えがない。

 着地したオークルから、慎重に下りた。
「ほう、これはこれは初めてのお客人……でもないか。断りもなく居ついた流れ者を追い出しに来られましたか、地主殿」
 男が笑う。口の端に白い牙がこぼれる。

「間もなく夜が明ける。狭いあばら家だが、雨風をしのぎ、陽光をさえぎる役にはたつ。申し開きもさせていただけるなら、茶ぐらいは進ぜましょう」

 盆地の一軒家は、ワラを混ぜた日干しレンガで作られていた。小さな民家に見える。だが、窓がない。周囲に畑はなく家畜もいない。台所も便所もない。生活臭がない。ここは生者の住処ではない。

 代わりに障壁と方陣に包まれた作業台があった。部屋の中央には金属の卵。中に封じられているのは唸る炉。繋がれているのは小型の自動織機。高速回転する加工機械。分子をも止める冷温庫。灼熱する坩堝《るつぼ》。その上で、銅《あかがね》のポットが輻射熱にあぶられ吹いていた。

 ヨレた白い裾を熱気にあぶらせながら、ポットを覗きこんだ浅黒い男が空中にロウトを描く。渦が生じ霧を集め結露させ、透明な雫をポットに降らせる。井戸も川も泉もなければ、水は空気から得るしかないか。

「ヨク、イラッシャイマシタ」
 乳鉢に凍った茶葉を入れ、一定のリズムで叩いているのは、ヒザまでもない自動人形《オートマタ》。木のイスに座った彼女にはサウスカナディで見た、ロビィの面影があった。

 壁をくぼませた棚には、本と薬品のビンと、ガラクタにしか見えない器物。金属と樹脂と布と木からなる機能的なカタマリ。いや、あれは刃物や杖。見ただけでは判断のつかない物も、どことなく禍々しい。

「若い女の血の匂い……」
 耳元でささやかれて、アレフは振り返った。いつの間にか背後に男が立っていた。おおげさに息を吸い、笑みを浮かべ、胸元を指す。白粉がわずかについていた。赤い頬の娘が暗がりで抱きついた時か。

 慣れぬ化粧と胸の開いたドレス。何をされても構わないと覚悟した娘が思い描いた最悪は、一人で赤子を生み、周囲の非難に耐えて育て上げ……数年後、跡取りを迎えに来たと、うやうやしく馬丁にかしずかれて馬車へ乗り、羨望の視線を浴びて生まれ育った村を後にすること。

 彼女が想定した物語のような最悪よりは、マシだったろうか。幻の恋と実体のない快楽と引き換えに、血と心を奪われ、捨て置かれる現実は。

「こんなまがい物、お坊ちゃまは召し上がられた事はないでしょうが。まぁ、渇いてなくとも話のタネに一杯どうぞ」
「黒茶は嫌いじゃない」
「ほう」
 意外そうな顔から目をそらした。

 外に朝日がさす。オークルが太陽に向かって吼え、舞い上がるのを感じた。
「心配しなくても、海辺へエサをあさりに行っただけ。日暮れまでには戻ってくる」
「私独りなら転移できる……夜になればだが」
「なかなか器用でいらっしゃる」

 自動人形から乳鉢をとりあげ、黒い粘液をガラス器に分け、湯を注いで塩を落とし混ぜる男から目を離さないまま、そっと二羽の使い魔を放つ。一羽は外に。もう一羽は屋内に。暗殺の危険は低いだろうが、念のために。

「茶を頂く前に、名を教えてはいただけないか? 礼儀というなら名乗ろう。私はアルフレッド・ウェゲナー……」
「名で私を特定するのはムリ。私自身が忘れてしまった」
 渡された茶に不審はないが、渡した相手はナゾのカタマリだ。

 生暖かく塩味のする黒茶は、シリルで飲んだものより濃く強かった。乾燥ではなく凍結保存されていたせいだろうか。
「八千年間、ファラ様は優雅に無視なさった。ロブ様は年に一度、使い魔を寄越して私の存在を確認するだけ」

 ちりりと頭の奥が刺激される。八千年前……この大陸が不死者の支配に対抗する最後の砦であったころ。戦いしか知らぬ人々を、平和に慣れられぬ哀れな戦鬼を、ファラ様が劫火を使って大地もろとも焼き尽くした黎明期。

「へパス……様?」
「そのアダ名は好かん。おとぎ話の醜い小人の名だとヴァエルにさんざんからかわれた。それもまた、劫火を作ったむくいか」
 黒茶をすするへパスを、伝説より古い呪われた魔法士を、無遠慮に見つめていたことに気付いて、あわてて目をそらした。

「身体を壊す武器。心を腐らせる毒。人を殺しつくす流行り病。街を砕く力。大地を焼く見えない火。そんなものに心を捕らわれた私は、放逐され居ないものにされた。人が、テンプルとかいう奴らが、ファラ様を滅ぼしても、私は無視され続けた。対抗する力があると手紙を書き送っても返事は来なかった。そしてお前さん以外、みんな滅びてしまった」

「なぜ、ファラ様は、わざわざ永遠の命を与えたのですか。無視するくらいなら……」
 沈黙の中で、ヘパスが天井の一角を見つめた。クモが小さな巣を編んでいた。
「造られた者の痛みを知れと、言われたな」
 
 飲み干した器を置き、へパスが手を伸ばす。触れ、手触りを確かめたのは夜空の色をしたマントの裏打ち。
「20年前、ドラゴンズマウントから逃げてきた私が、地代として無名でした贈り物は受け取ってもらえたようだな。身につけた者の精神に反応して形状と性質を変える布」
 気付かなかった。

「まぁ、凶刃を防ぐ程度のものだが。他にもある。欲しくないか。セントアイランドから灰色の同胞殺しどもを一掃する力。この地を、民を、守る力が」
 一瞬、欲しいといいかけて気がついた。見上げているのは、新しい遊びを見つけた、子供のような黒い目。

「父は、テンプルの者と戦った時……これを着ていませんでした」これに包まっていた“なりそこない”がマントを形見として受け取ったのは、モル等と戦う直前「それは、たぶん正しい」

 テンプルは開発する。刃を防ぐ布を見たら、それを貫く剣を。いや、もっと強い武具を。果てのない破壊と暴力の追求は、世界に多くの死を広げる。

「私が欲しいのは、ただ一人を殺す力。父を滅ぼした者を倒す力。かの者が悪用している賢者の石を奪う力。強盗をする力で十分です」

「モルか……あれは厄介らしいぞ。剣で殺せるが殺せない。世界を滅ぼさねば滅びない」
「それは何の言葉遊びですか」
 不死者が人に理不尽を強いるかぎり、抵抗する者は出てくる……という意味だろうか。

「私にも詳しいことはわからん。ファラ様がそういった。知りたければファラ様が書き残したものでも読むがいい。だが、お前さんは支援者ではなかったかね」
「それは三百年以上昔の話です。開祖モルの」
「同じことだ」
 九千年以上生きている者からすれば数百年はほんの少し前。先祖も子孫も大して変わりないか。

「そんな事より……テンプルの司祭から強盗するなら、魔法も防げる布がなければ返り討ちだ。ミスリルを編み込んだ法服を貫く刃物くらい要るだろう」
「剣やナイフは扱えないので拳鍔を」
「それは、強盗される側の護身用だ」

 呆れた笑みを無視して、心を飛ばす。代金を用意するためにも、まずはイヴリンに相談を。それに領内に戻っているのに会わぬわけにもいかない。

(ああ、アレフ様)
 危急とも取れる逼迫《ひっぱく》した気配に、不安を覚えた。
「日が沈んだ頃に、もう一度参ります。ここに転移のための方陣を描いてもいいですか」
 陽光の下での転移はさすがにムリだ。

「そりゃ、かまわんが……バフルの城の中庭でいいか。オークルを迎えにいかせるのは」
「……ええ、お願いします」



 明るい北向きの斜面をグリゼルダは見下ろした。バフルヒルズ城を囲むブドウ畑は、上からみると畝ごとに色が違う。ブドウ樹の種類だけでなく土まで違う。眼下の畑はバフル近郊の黒い土。南にはクインポート近郊から運ばれた赤い土と小石。

 摘房《てきぼう》にかり出され、暑さとホコリと腰の痛みに苦しんでいた時には、土の違いに気付けなかった。枝と葉と未熟な果実しか見ていなかった。他に関心があったとすれば、日没に渡される銀貨の枚数と腕組みした監督の顔色。

 あれから十年。農林試験部の副主任となった今は違う。ブドウ畑で行われている数十年単位の試験と畝の色の関係をグリゼルダは解っている。

 早すぎる昇格は上につかえていた者が一年前のあの日、一掃されてしまったせいだが、役職に見合う知識と実力は身につけたつもりだ。ブドウだけではない。考えや立場の違いから来る、人の種類も見えてきた。

 夜明け前からの臣民と夜明け後の移民。貧しきものと富むもの。代理人と公人。城に仕える官吏と町を司る事務官。保守派だ急進派だと、生い立ちと所属で人は様々な色を身につける。

 グリゼルダの祖父母は中央大陸生まれ。移民だ。裏通りの借家育ちだから財産はない。ブドウ畑で監督に気に入られて城仕えになった技官のはしくれ。部署的には保守派だ。

 傾いた旧家のお嬢サマで、町政に携わる事務官のハズが、代理人という特殊な地位を利用して、城まで取り仕切り、武官でまわりを固める急進派のイヴリン・バーズとの共通項は……ビンボーだけか。

 失われた城の文官を町の事務官が一時的に補うのは仕方ないと思う。移民を重用してくれるのは嬉しい。別に彼女を悪人だと決め付けているわけじゃない。ただ、権限を多く握りすぎている。

 職分を侵されたと感じる城仕えの年寄りと、先祖代々武官を勤めていた者たちが会っているのをよく見る。いつ実力行使に出るかわからない。イヴリンの暗殺や失脚は反動を招く。移民の孫であるグリゼルダも巻き込まれて……多分、失職する。

 足音に振り返ると、移民組みの中でも変り種のジナが立ち止まるところだった。手下のブースも一緒だ。
「こんな所でブドウ園なんか見てたの。来て。もっと面白いモンが見られるわ」

 ジナが浅黒い指で示したのは中庭側の窓。庭を挟んだ南の棟に動く影が見えた。海老茶色のドレスをひるがえして階段を登る中年女性。若い衛士を従えていない。珍しくイヴリンは独りだ。

「あの性悪女、石か木で出来てるもんだと思ったけど……人並みに頬を赤らめて執務室を出てったのよ。衛士も連れず、理由も言わないで。逢引よ、アイビキ」
「心を主に縛られた代理人が色恋なんて」

「クインポートの代理人は結婚して娘までもうけてたじゃない。それに、血の絆はとっくに消えてるかもよ。代理人連中はゴマカしてるけど」
 ワインじいさん……イヴリンの片腕と持ち上げられながら、最近はすっかり遠ざけられているワイン醸造の統括部長は、まだ心を縛られているように見えた。心から光があふれた……そんな夢みたいな体験談を繰り返している。

「裏口から入る若い男を見たって」西階段から上がってきたのはストゥーか「しかも、通交証も顔も確かめずに素通し。警備してたのは冷血女が今年採用した衛士だ」
 まったく、他人の逢引をここまで情熱的に詮索出来るとは。当のイヴリンよりコイツラの方が、よほど色ボケしている。

 ただ、色っぽい醜聞は弱みだ。独善をたわめる力になるかもしれない。脅迫は卑怯だが、これも職場の円滑化のため。五十路になるまで勤め上げ貯金を続ければ買えるはずの、農園つきの一軒家のためだ。

 主の長きにわたる不在で、昼も夜もひとけがない最上階。先代様がここで滅びたと思うせいか、寂しく重々しい墓所の空気を感じる。グリゼルダを含め五人ともが息を殺し忍び足になっていた。

 廊下を伝わる人声に耳をそばだてた。女と男の声。謁見の間の近く、南側の控え室。あそこなら寝椅子がある。分厚いじゅうたんも優しく恋人たちを受け止めてくれそうだ。

 止め具に彫金はほどこされているが、ニスも塗られていない無骨な木の扉に耳を寄せる。ジナが笑う。この場を冒涜する物音や睦言が聞こえないか期待する下卑た笑い。

「嫌、やめて」
 普段の強い口調とは違う、弱々しい拒絶。声に含まれるのは快楽を予感した甘い諦め。性急な若い男の欲望を受け入れながら、事後に心理的優位に立とうとしている熟女の手管。どんな痴態をさらしているか。扉の前で妄想にひたる。
 だが、急に己が卑しく浅ましい存在に思えて、気分が悪くなった。

 濡れ場をおさえ仲間を証人に冷血女から譲歩を引き出す……別に最中でなくてもいい。言い訳も可能な、抱き合ってキスしているところで十分だ。大ハジかかせて、本気で怒らせたりしたら、かえってマズい。ほどほどが肝心だ。

 そっと持ち手を引き、扉を押した。
「名代殿、お声がしましたが何かありましたか」
 光を絞ったテーブルランプの側に二つの人影が見えた。赤いスカーフが解かれ襟元ははだけられている。思ったほどイヴリンは乱れてない。

 けど妙だ。
 驚いたり怒ったりしない。グリゼルダたちを見ない。イヴリンが見つめているのは、城へ引き込んだ若い男の白い顔。闇に沈んだ黒衣の待ち人。

「おゆるしを」
 頬に光る涙と、追い詰められた目。わななく唇。相手の肩を押しやろうとする手。怯え拒絶しながら、喉だけは無防備にさらしている。

 これは……吸血鬼に蹂躙されようとしている犠牲者の図。

 常に上に立ちはだかり思いのままに権力を振るっていた独裁者も、太守にとっては血の提供者でしかないと思い知る無残な姿だった。

 失礼を詫び、すぐに退出しなくてはならないのに、足が動かない。目が離せない。間近で見た本当の主は冬の月の様に冷酷に見えた。

 首筋に下りる赤い唇に応えるように、イヴリンが横を向く。目があった瞬間、グリゼルダはあとじさった。
「わ、私より、その者たちの方が、若くて血も熱いかと」
 媚びと必死さが混ざった声。喉にかぶさっていた白い顔が、こちらを見やる。

「ご所望にお応えしたいのは山々ですが、森の大陸との貿易に銀船への対応。私はいま臥せるわけには」
 見苦しい言い訳。
「そうだな。失うにはまだ惜しい」
 白い手が肩から離れる。開放されたイヴリンが座りこんだ。

「そこの……グリゼルダか。お前の命を少し貰いたいが、かまわないか?」
 許諾を求める言葉。
 形式的でも、断れば助かる。

 だが舌が動かない。首を横に振ることも出来ない。視線で縛り否を発せられなくしてから問うなんて。
(卑怯だ)
 不遜な抗議を心の中でしてみたが、応えたのは愉悦の笑みだった。

 太守の足元からはいずってきたイヴリンが、ジナたちを廊下に押し出す。金縛りが解けたように、口々に非礼をわび、駆け去る薄情な仲間達を背中で感じていた。

「どうか、ごゆっくり」
 視線の呪縛から逃れ、余裕を取り戻したイヴリンの声。扉が閉まる。薄暗がりの中に一人取り残された。

 目の前にいるのは青白い絶望。ゆっくり近づいてくる、薄く笑う顔をただ見つめていた。
「上役を強請《ゆす》るのは褒められた事ではないな」
 聞いていた通りの冷たく硬い腕。捕らえられた瞬間、全て終わったと感じた。

(あなたをどうかして、好き勝手しているものと……)
 心話で問いながら首をひねる。どこに居たのだろう。領内でウワサを聞かなくなってから、一年近く。いくら忍びで視察中だとしても、代理人をたずね贄を求めれば、人々は暗いウワサをささやきあう。

「当たっていなくもないが、全くの専横でもない」
 冷やりとした唇が、首筋に触れる。内に秘められた牙を思うと体がすくむ。直後、心の高ぶりと喜びを覚えた。

「領民が私の所有物だと本心から思ってはいない。だが今は、海を越え昼に転移して、少しばかり渇いている。不運だと諦めて……いやそれは理不尽か」
 耳元での勝手なささやきに聞きほれた。

「許せ」
 牙が食い込んだのは感じたが、痛みはなかった。頭をしびれさせる快楽と開放感。飢えが慰められる喜び。この為に生まれてきたのだという、唐突な達成感。大きなものに取り込まれ一体化する安心感。

 万能感に不安が消える。ドラゴンはいいかもしれない。神秘の生き物。目に見える力。グラついていた皆もきっと安心する。
 銀船は大きく重い。浅いバフル港には入れない。
 引船や小型の帆船に分乗して上陸してくるなら、勝ち目はある。

 目の前には絹糸の様な銀の髪。心を作り変えられてゆく恐怖も満足感に解けていった。
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3.北へ


 キニルは、ムカつく思い出ばっかりだ。
 泥水をすすった事は何度もある。中でもキニルの水が一番臭かった。そのせいか食い物もまずい。そして……
 ヤな思い出がまた一つ増えた。

 ティアは熱《ほて》ったほほをふくらませて、にらみつけた。
 黒いマントに包んだ肩をふるわせて、笑いの発作に耐えている道連れ。このクソ吸血鬼、知ってたな。教宣用の人形劇が変わってるって。

 歌にあわせて揺れてる金褐色の髪。あの聖女人形があたし!? 何でテオと恋仲なのよ。
 つーか、わざわざ陽の高い時間に教会に誘うか。こんなクダらない嫌がらせのタメに。

 もしかしてキングポートでからかった……仕返し? 一年も前の、それも軽い悪ふざけじゃない。今ごろやり返すなんて気が長いにもほどがある。

 スネをぶっ叩いてやろうと、スタッフを回した瞬間。
「もしやティア聖女。うぶわっ」
 笑顔で駆けよってきたキニル西教会の司祭のケツにスタッフが当たった。法服に包まれた脂肪のカタマリが倒れてくる。支えきれず、教会前の広場に尻もちをついた。

 手使い人形を見てた視線がこっちに集まる。逃げようもなく子供たちに取りかこまれた。謝りながら引き起こしてくれた司祭と、ヨダレ臭いハナたれガキの向こうで、黒いフードの下の赤い唇が声もなく動く。
『タ・ノ・ン・ダ』。
 そのまま、アレフは視界から消えた。振り向きもしない。

「いやはや、最前線におられる方は常に臨戦態勢でおられるのですね。不用意に近づいた私も悪いですが、ここは夜を退けし光の地。どうか得物はお納めください。それにしても……どうやって、森の大陸の南端から?」

「話すと長く……えっと、機密です」
 タネはポケットに入ってる水晶球。転移の呪なんてメンドくてややこしそいモンを、よくちっこい玉なんかに収めたモンよね。呪の本体は亜空間にあるケアーって、脳みそだけのオートマタらしいけど。

 何ヶ月もかけてたどった道を、一瞬で移動できるのはすっごく便利なのに……何でヒミツにしなきゃいけないんだろう。ファラを滅ぼした時と同じか、それ以上の混乱が起きるって、大げさすぎないかな。

「機密ですか。それで当教会に寄られたわけは」
「その、大門を通る許可証と、馬車の手配に。あ、時間が時間だし、お昼食もいただきたいな」
 髪をひっぱるガキを笑顔でにらみつけてから、教会の門に突き進む。

 だいたい、結界があると作動しない呪を広めたところで、なんて事ないと思う。結局は橋を渡ってホーリーテンプルに入らなきゃいけないなら、意味がない。正門から入るんじゃ泥棒も暗殺も出来ない。


 集まってきた聖女や生徒の握手ぜめを乗り越えたあとは、視線に耐えながらの昼飯。マズさ五割り増し。こんなのにずっと耐えてきたモルを、初めてスゴイと思い始めた頃、通交証と馬車の用意が出来たって言われてホッとした。

 えらい人しか乗れない……師匠のお供でないかぎり、見習いには乗車許可が出ないはずの馬車に乗って大門をくぐったのは、日が傾き始めた頃。御者がワザとゆっくり馬を走らせるもんだから、橋の上ではいい見世物。最初は少し気持ちよかった、あこがれとヤッカミの視線も、その頃にはウザくなってた。

 その上、車寄せから白亜の正門まで、灰色の法服で埋め尽くされていた。すこし物見高い参拝者も混じってる。笑みを義務のように顔に貼り付けた。ここで憎まれ口たたいて警戒されたらマズいってのはわかってる。

 だけど、あたしを仲間はずれにした奴らが友達顔でベタベタしてきた時には、苦笑しか出来なかった。

 視線から逃れられたのは、便所だけ。
 さすがに調子のいい同期生も遠慮してくれた。

「ようこそ、ホーリーテンプルへ。十一番目の血の盟主、アルフレッド・ウェゲナー」
 呼びかけて、心話を試してみる。
(どう、イケそう?)

 わずかにアレフの気配を感じた。左手薬指の青い指輪。マジで結界を無効化できるんだ。でも転移はムリだろうな。それに心話も弱い気がする。

 心に映ったのは夕闇迫る湖。足元が揺れてる。漁師さんに借りた小舟に乗ってるのか。湖までは入れるけど……これって頭痛かな。げ、同調してこっちの気分まで悪くなってきた。

 見えない使い魔を放って結界を探ろうと……うわ、砕けた。精神体の一部が潰れるのって痛そう。あちゃあ、舟でうずくまっちゃった。
 ここの結界って、けっこうスゴイんだ。

(入るの諦める? あたしが図書室でファラの研究書や日記を探して読むんじゃ、ダメなの?)
(精霊呪の呪文書より遥かに手ごわいですよ。ファラ様の使う文字は独特で複雑ですから)

 まったく、いくらビミョーでフクザツな概念を書き表すためだからって、文字を勝手に作る神経って解らない。伝えるための道具なんだから、他人が読めなきゃ意味ないっての。

 全ての文字を覚えるのに人が半生を費やさなきゃならないなんてバカげてる。しかも、太守ごとに微妙に……時にはまったく違うなんて。旧字って使い勝手わるすぎ。

 まぁ、人が使うためじゃなくて、無限に時間があると思い込んでた吸血鬼どもが作った字だからしょうがないか。きっと、知識を独占するためにワザと難しくしたんだろうな。

(たった一人が書いた資料でも一万年分です。いくらティアさんでも意味が分からない文字を大量に丸暗記はできないでしょう)
 そりゃ、さすがにムリだけどさ。

(ティアさんの目を私に使わせてもらえれば何とか……)
(それは、嫌)
 心を一部でも明け渡して、体を勝手に使わせるなんて冗談じゃない。

(で、どうする?)
(裏口を試してみます。始原の島の北の対岸。ホワイトロック領……湖岸にあるヴァエルの冬城の地下通路は、まだ通じているそうですから)

 そんな道があったんだ。そっか、バックスが脱出したのは北に通じている地下道。
(って、今のホワイトロック領は厳冬期じゃない?)
(それが何か)
 まったく、高い山だの雪原だの。寒さを感じないヤツはこれだから。

(すそが長い毛皮のコート、買ってよね。厚くてもこもこの上等なヤツ。古着でいいから。アースリングを祭壇に隠したら、適当にフケるつもりだけど、多分二・三日はかかるから、その間に絶対に用意しといて。ドルクの分もね)

 物見高い連中も、三日ほど騒げば疲れるはず。ううん、きっと二日で飽きる。顔見て握手して作り笑いで質問に答えておけば、みんな気がすんで、あたしは日常の一部になる。ヤジ馬たちも別にヒマしてるわけじゃない。日々の勤めがある。

 さて、さすがに大きい方でも時間がかかりすぎか。便秘や、ぢと思われるのもシャクだし。
 水を手に取り、髪を手ぐしで整え、笑顔を作る。

「久しぶりだねい。ティア」
 便所から出たとたん、モリス高司祭のウサんくさい笑顔にぶつかって、顔が引きつった。他のヤジ馬たちは追い払われてた。

「メンター師は、忙しいから会えない。すまないって謝ってた」
 まぁ、顔を合わせたところで、あたしも何を話していいのかわかんない。先生にはウソつきたくない。でもウソをつかなきゃなんない。

「伝言だ。シリルの件はありがとう」
「解ってる。あの人形劇やらせたの、メンター先生でしょ」
 モリスの、まだらなヒゲにおおわれた口元がゆがむ。
「あと、なすべき事が終わったら、かえっておいで。だとさ」

 なすべきことね。
 モルをブチ殺すことかな。

 吸血鬼の武器屋が言ってた、剣で殺せるが殺せない。世界を滅ぼさねば滅びない。その意味を突き止めて、あいつを完全に消滅させたら……ここで落ち着くのも悪くないかな。



 やだよ、こんなのってねぇよ。ヴァエルもファラも滅びて、夜は明けたんだ。城に連れて行かれるのは、ジイさんの代で終わったんじゃねぇのかよ。
 それも、おれらのナワバリで……こんなのって、ねぇよ。

 これは誰の思いだろう。
 アレフは丸い物理障壁を白く包みゆく吹雪を見上げた。

 峠で飲んだ山賊か。ヒゲも生えそろわぬ金髪の坊や。カシラがさらってきた女に産ませた末息子。深雪《しんせつ》に足を取られ、あがいていた白い首を噛んだ。

 彼らはこの吹雪から逃れられたろうか。ヴァエルの冬城まであと半日の距離。だが、伸ばした手も見えない白い闇の中では、一歩も進めない。私はともかく、白ウサギのコートを着込んだティアと、厚ぼったいアライグマの上着をかき合わせるドルクはムリだ。

「ハデな髪した白い人が多いよね、この辺」
 銅の小ナベをランタンにかざし、雪を溶かしていたティアが顔を上げる。戻っても褒賞はなく祝賀の宴も開かれない。空虚な人形劇の英雄。ティア自身はその扱いをなんとも思っていない様だが……

 『全てが終わったら』か。

 自らにかかった紅い疑惑を晴らすまでは、戻るなという意味ではないだろうか。悪いうわさは止められない。父親が私に呪縛されていた事を、暗くささやく者もいるだろう。

 今は副司教長の密命を受けての潜入任務といったところか。いずれ私をその手で滅ぼし、晴れやかに凱旋する時まで。期限を定めぬ任務……それはむしろ追放に近い。

「モルやあんたのご先祖って、ここらに住んでたの?」
 母がしてくれた話が本当なら、もっと北の方だが、うなづいておいた。
「雪ヒョウや白熊が白いみたいなもん?」
「まさか、雪原を人は裸で歩かない。陽の光に弱く夜はめだつ白い肌は、生物としては欠陥だ」
 ティアが身を包む白いコートに触れた。
「でも、ウサギも白いよ」

「キニル周辺で飼われているウサギが白いのは、毛が染めやすいからでございますよ。野生のウサギは茶色です。高い山には冬毛のみ白くなるウサギもいますが」
 ドルクが乳鉢を出し、コカラと砂糖を潰し混ぜ始めた。

「湯が沸くまで、退屈しのぎに昔話でもしようか」
 脳裏に浮かんだのは、皮肉な笑みを浮かべた白い母の顔だった。
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4.昔話


 むかし むかし あるところに……
 いや、本当にあった話なら時と場所をぼかすべきではないな。

 千年ぐらい前。北の果ての太守が、氷の海に突き出した半島に村を作りました。冬には海さえこおる雪に閉ざされた村。それでも、氷河から流れ出す水は大地をうるおし、夏が来ると村は花でいっぱいになりました。

 毛長牛やカリブーは夏に柔らかい草を食んでたくさん仔を産み、たくさん乳をだしました。海には大きな魚や海獣がたくさん泳いでいました。村人は食べものに困りませんでした。

 チーズや毛皮と引き換えに小麦粉や南の野菜も手に入ります。ヴァエルが作りし風の精霊たちに守られた村は、嵐や吹雪を知らず。村人はなに不自由ない暮らしをしていました。

 いや、不自由してないというのは大まちがい。

 村人はとても不自由な暮らしをしていました。半島に通じるたった一つの断崖の道には関が作られていて、村人がヨソへ行く事は禁じられていました。村人は、半島の外では目立つので、舟で逃げても海岸で捕まり、すぐに連れ戻されました。

 なぜなら、半島に住んでいたのは、赤や金の派手な髪を持つ、目の色の薄い人ばかり。周りの茶色い髪と目を持つ人の中に逃げ込むことは出来ませんでした。

 だから、村の人は、同じ村の人の中から結婚相手を見つけるしかありません。

 全ては、闇の女王様を喜ばせるため。
 愛するファラが好む髪と目の色の人間を集めて、増やすためにヴァエルは半島の村を作ったのです。

 白い肌にソバカスやシミがうかないよう、閉ざされた村の人たちはいつもヴェールをつけるよう定められました。そして、なるべく同じ髪色の人間との結婚がすすめられていました。

「白ウサギ同士を掛け合わせるみたいなもの?」
「それだけでは褐色の肌と黒髪をもつ配偶者との間にも、白い肌と薄い髪色の子しか生まれぬ説明がつかない。ワイドールが作り出した生き物の姿形に作用する呪法もかけられているはず」

「ドルクがオオカミに変わるようなもん?」
 獣人の変身は、目に見えぬ微細な自律因子による、遺伝子への転写と急激な細胞増殖と細胞死によってもたらされる。変化時の痛みを和らげる内分泌物は、戦いへの恐怖をもマヒさせ、発毛や筋繊維の増強以上に、戦闘力を上げる一因だが……

「もう少し穏やかで、限定的な呪法。母親の胎内にあるときに、まだ命のタネでしかない時にだけ働いて、特定の髪や目の色を発現させる。でも、自律因子そのものを親から受け継ぐ確率は、他村の血が混じるたびに半減していく。だからこそ……」

 何百年かすると、村には体の弱い人が増えていきました。しんせき同士、いとこ同士で結婚しすぎたからかもしれません。
 それに男の子も女の子も年頃になるとヴァエルの検分を受け、半分以上が連れて行かれてしまいます。闇の女王に捧げられた乙女と若者は村に二度と戻って来ないので、いくら子供を生んでも生んでも、追いつきません。

 だから赤髪の一族や金髪の一族は少しずつ数を減らし……特にファラのお気に入りだった銀髪の一族は、元々数がすくなかった上に、宴のたびに所望されるので、両手の指の数より少なくなってしまいました。

 若者や乙女が奪われるたび、たくさんの対価を下賜されていたので、一族は大理石の御殿で暮らしていましたが、全然しあわせではありませんでした。

 ある冬……新年の会合が開かれるから、家に残った娘と息子、そしておさな子までも宴に侍らせるようにと言われ「もうたくさんだ」と銀髪の一族は半島から逃げ出しました。

 目立つ髪を黒く染め、真冬の氷の海を歩いて渡りました。足の指はこごえて取れてしまいましたが、半島から出る事は出来ました。

 お金はあったので馬車をやとって、地の果てに行く船が出る、港町に向かって、昼も夜も休まないで旅をしました。
 でも、船が出る港で、追っ手に捕まってしまいました。

 キニルに送り返すしたくが整うまでの間、港を治める不死者の館に留められた黒く髪を染めた一族は、涙を流してお願いしました。
「せめて子供らだけでも船に乗せてください。もうわが子を奪われなくてもすむ土地へ行かせてください」

 すると、金銀が格子になった盤が目の前に置かれました。上には黒曜石と水晶の駒が並んでいます。
「これで勝負をして勝てたなら、全員を船に乗せる。でも負ければキニルへの馬車に乗せる」

 エイドリル様のたわむれに、父親が受けて立ちました。でも相手は人の心を読める不死者。打つ手打つ手、全てが裏目になって、どんどん追いつめられていきました。

 盤上で追いつめられた水晶の王。一族の命運も共に尽きたかと思ったとき。横で見ていた娘が、父の代わりに一つ駒を動かしました。思わぬ手におどろいたエイドリル様は次の手を誤りました。

 その誤りを上手に利用する一手を、今度は母が思いついて駒を動かしました。その次は息子が駒を動かしました。その次は祖母が動かしました。その次は祖父が。時にはおさな子が思わぬ手で盤を混乱させ、誰の心を読んでいいのか分からなくなったエイドリル様を、打ち負かしてしまいました。

 読心を使っての勝負など、最初から公平とはいえません。一対一の勝負だという約束もしていません。

 何より、盤上で起きた見事な逆転劇に感心したエイドリル様は、ファラに手紙を書きました。そして、返事を待たずに一族を船に乗せて東大陸へ逃がしてくれました。

 宴のたびにヴァエルが魔法のように連れてくる珍しいニエ。どのように生みだされ、どこから連れてきていたのか。全てを知ったファラは、半島の村人を解放するように、恋人に頼みました。

 やがて関所は取り払われ、半島に閉じ込められていた人たちは、自由に住むところを決め、好きな相手と結婚できるようになりました。

 だけど今も、北の地を治めるヴァエルの領地には赤い髪と金の髪の者が多く住み、東の大陸には銀の髪をもつ人が住んでいる村があるそうな。


「何でファラは銀の髪の贄を欲しがったの。ファラは黒髪だったんだよね。初恋の相手が銀髪だったとか?」
 過去形で語られる永遠の女王の嗜好とその理由を、今さら忖度《そんたく》しても無意味だ。
「さあ。ヴァエルは金髪だったよ」

 数人で挟み撃ちを仕掛けてきた山賊の中から、私はなぜ、あの金髪の坊やを選んだのだろう。一番若かったから……いや、褐色の頭の間に見え隠れする薄い髪色が、川床の砂金のように目だったからか。

「単に珍しかっただけかもしれない。白化したアカスジ魚を養殖して祝宴用に高値で市場へ出すように」混乱期に生簀《いけす》も需要もドライリバー周辺からは失われたようだが「祝いの席にふさわしい、珍味とでも思われていたか」

「親から子へ、母親の胎内で受け継がれる呪いか。どうりでキニルじゃ冷たくされてたわけだ。うっかり恋仲になったら、子孫が呪われちゃうんだもん」
 湯気と共に甘い香りを結界内に広げるコカラを、ティアがすする。

 だが、同じ人だ。肌や髪色で味の違いを感じたことは無い。直前に、塩辛いものを食べたかどうかなら分かる。むしろ、日ごろから注目を浴びているせいか、高慢なひねくれ者が多かった気が……私もか。

「この辺りでは、年頃になっても髪色が薄い者の確率は、そう多くないと思う」
 キニルで高額の花代がかかる笑い女や評判の妓女。人買いが大枚を払って連れてくる女に、色鮮やかな髪色の者が多いせいで、北の者はみな薄い髪色だと誤解されているにすぎない。関が取り払われて数百年。とっくに混じり薄まり、自然の発現率と大差ないはず。

「でも、東大陸の村はそうじゃないよね」
 持ち込んだ富と太守にも勝る知を守ろうとするあまり、オキテとプライドに縛られた、つまらない故郷だったと母は言っていた。いにしえの取り決めに従い、立ち入ったことはない。母方の親族に会ったこともない。贄や代理人を求めた事もない。

「銀髪の子が出来るって計算して、一番血が濃い族長の娘と結婚したんだよね、あんたの父親は。自分の子をファラの大好物に仕立て上げて、セントアイランドに送り込むなんて、いい度胸よね」
 当時は入植して100年足らず。たしかに呪はまだ濃かったはず。

 だが白亜の城に招かれた時。まだ生身だった頃も、身に危険を感じた事はなかった。ファラ様の前で、怖気づいた覚えもない。物心ついた時に、父はもう不死の身だった。慣れていたのかもしれない。吸血鬼のそばにいるのが、当たり前だと。

「怖いとは感じなかった。塔で育った赤子が、高さを恐れないのと同じかもしれない。それにファラ様の公子や公女には幾人か、銀髪の闇の子がいたと思う」
 単なる食いモノと割り切っていたなら半島を開放しろなどといわれないはず。ファラ様は人を慈しんでおられた。

「それに太守の身内を勝手に贄にするようなムチャはなさらない。それが地の果ての小国の太守の関係者であっても。だいたい、噛まれたからといって必ず死ぬわけでも」
 溜息をついてティアが丸く白い天井を見上げる。風の音が小さい。白い嵐はおさまりつつある。

「心の奥では、吸血鬼を恨んでたとか?」
「たぶん……。私が転化してから、母は夢の世界で生きるようになった。最期まで現実を直視する事なく逝ってしまった」
「おふくろさんじゃなくて、あんた自身」
 言われている意味が分からない。血がもたらす高揚感から冷めたあとにくる、自己嫌悪のことだろうか。

「キニル近くの丘で話してたじゃない。開祖モルに弟子を会わせて、教会の設立に手を貸したって。心のどこかでファラやヴァエルに復讐したかったんじゃない? あんな昔話を聞かされて育てられたから」

「そんなことは……」
 いや、もしかすると。
 文字を学び書物から知識を得て知性を磨くことで、私は定命の身から不死の身に成り上がった。ある意味、不遜な下克上。領民を豊かにする道として、知識を得る手段の提供に賭けたのは……その先に広がる、今の世界を望んでいたのかもしれない。

「ところでさ。何でエイドリルは、ひとりで大勢と勝負したの? しもべや闇の子に心話で知恵を借りれば、銀髪の一族と同じことが出来たでしょ」
 甘く熱いコカラを飲み終わったティアの問い。これには何とか答えられる。

「時々、感じていること考えていることが、本当に私のものなのか、血と共に取り込んだしもべのものか、分からなくなる。エイドリル・ヤシュワーは、それを厭《いと》うたのかも知れない。古く誇り高い太守だったから」

「それ、血の絆や読心に関係なく、みんな一緒だと思うよ。あたしがあんたを倒して父親の呪いを解こうって思ったのは、教会の人形劇を見たから。あたしの考えじゃ無い。だれかから聞いたり教えてもらったり、読んで見て覚えたもの……あたしの心も、他から取り込んだもので出来てるよ」

「そう……だね」
 心の中心に居座る、ティアを守りたいという思い。自分のものなのか、そうでないのか。行動に移す事によって既に裏打ちされた決意の出どころなど、追求するのは無意味かもしれない。
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5.火精


「止んだかな、雪」
 ティアがほの白い雪の天井を見上げる。  ドルクはすでに、歩き出す用意を始めていた。飲み終わったカップを雪で拭き、砂糖やコカラの袋と共に、背おい袋に収める。厚い手袋をはめ、新雪の上を歩くための底が広い毛皮のブーツをはく。

 ドーム状の結界を揺さぶると、積もった雪が落ち、澄んだ空が広がった。星が美しい。北の赤い光は極光の一部だろうか。

 暗い針葉樹が見下ろす斜面。時折、空の果ての赤い輝きを振り返りながら、歩いて登る。山賊の襲撃時に馬を失わなければとも思うが、仕方ない。それに、彼らのうち二人は命を失った。一生のこる傷を受けた者も幾人かいる。我々が無事なのは不死と治癒呪のお陰でしかない。

 不意に目の前が開けた。平らかで明るい湖。湖岸に方形の城が建っていた。ヴァエルが冬期にのみ滞在していた城。ホワイトロック最南端の地。ファラの居城に応えるごとく、白く優美だがひとけはない。平地が少ないせいか城下町もない。

 上陸した港。木材の積み出し港の明りは、ここからでは見えない。ただ、こちらの斜面は雪の積もりが薄い。風向きのせいか、湖がもたらす温もりのせいか。あるいは城を守るように飛び交う風精の力かもしれない。

「手に封じた風精を先行させてみないか。仲間だと思ってくれたら、我々もすんなり通してくれるかも知れない」
 ティアが左手を差し伸べ、風精を放つ。
「あそこに、あなたの仲間がたくさんいるんだって。ごあいさつ、ひとりで出来るかな?」
 子どもにお使いでも頼んでいるような口調だ。

 つむじ風が白い雪を巻き上げながら下っていった。しばらくして戻ってきたつむじ風に、ティアが手を差し伸べる。うまくいかなかったらしい。

「名前を聞かれたんだって……あたしたちじゃなくて、この子自身の名前。どうしようか」
 いつの間にか名前の概念が分かるほど成長していたのか。昼間も魔力を注ぐ者がいると、育つ早さもかなり違う。
「キングポートで譲ってから、ずっとティアさんが育ててきた。育ての親が名づけ親になればいい」

「だったら、フレオン……自由な風がいい。お前の名前はフレオン」
 古い言葉だ。親友の意味もあったはず。立場や身分を越えて結び合う心の絆。束縛を受けない想い。

 つむじ風が誇らしげにティアの周囲をめぐり、雪を巻き上げ、空気を揺らす。細かな振動が繰り返し呟いていた。
 『フレオン』と。



「まさか……」
 テオはそれ以上、言えなかった。剣帯に汗がにじむ。暑い日差しが剣の重みでかしいだ肩を焼く。午後の陽は目の前の麦わら色の頭もこがしていた。

 モルの深刻そうな口元。法服に影を落とす尖ったあごを見つめていた。ソバカスがのこる細い鼻とまばたかない大きな目。英雄なんて称号がにあわない、少し年上の司祭。

 リンゴ酒のビンをかかげ、木影に手招きする灰色の姿を見た時から、冗談だと思っていた。吸血鬼退治の話が聞きたいだなんて。オレの活躍をねたんだ誰かが、からかうために寄越したウソつきに違いないと。

「彼もヴァンパイアなのです」

 暗くて焦げ臭い城の空気と、生々しい痛みがよみがえる。聖女見習いが太陽に見えた。清浄な破邪の光にスタッフと髪を輝かせたティア。ドライアドから救い出してくれた時の、愛らしい笑顔。

 巧みな年配の弓の使い手はありがたくても、細い魔法士とティアを最初は足手まといだと思っていた。けど、村を、この大陸を、吸血鬼の脅威から救ってくれたのはティアだ。大胆な体さばきと破邪呪の威力。
 心をもっていかれた。

「聞いていますか。その、アレフという男は」
 あいつはオレにパンをくれた。崩れた階段で足を踏み外した時、自分の身もかえりみずに手を差し伸べてくれた。それだけじゃない。何度もかばってくれた。ケガした時は治癒呪で治してくれた。

 気絶から覚めた時、捨て身でヒゲのヴァンパイアと殴り合ってた。あれはティアを思う愛が起こした奇跡だ。だからこそティアを託してもいいと、アレフなら納得だと諦めたのに。

「ヴァンパイアなのです」

 ティアは叫んでいた「アレフ、離れて!」と。あれは思い違いだ、夢でも見たんだと思っていた。人が天井すれすれまで跳べるハズがない。鳥よりも軽がると。ホーリーシンボルに巻き込まれないための跳躍。

 人離れした死人の素早い動きに対抗していた。人体をあっさりと引き裂く力に、マントと上品な服だけで耐えていた。鎧を着たオレを片手一本で引き上げた。そして一人だけ何も食べず飲まなかった。シリルで済ませてきたって“食事”は……
「まさか」
 もう一度つぶやいた。でも、今度は納得していた。

「じゃあ、ティアは」
「このままではアレフに血をすすり尽くされて死にます。そして吸血鬼にされてしまう。テオ、力を貸してください」
 モルに手を握られた。
「アレフを倒さないかぎりティアは……我らが聖女を守ってくれた騎士よ、どうか力を!」

 村を救ってくれたティアを今度はオレが救う。
 テオはうなづいた。

 与えられた時間は日没まで。急いで荷物をまとめ、要らない物は暖炉の横にゴミとして積んだ。兄夫婦に旅に出ると告げた時、義理の姉は少しうれしそうに見えた。

「これ裏のコリン坊やが欲しがっていたナイフ……泳げるようになったらオレの代わりに渡してやってくれ。約束なんだ」
「二度と帰らないみたいな言い草だな」
 ナイフを預かってくれた兄が眉をひそめる。

「ガキの成長は早いから。約束は破りたくないだけさ」
「いつ帰る?」
「用事が終わったらすぐに」
「ホーリーテンプルの?」
「実際にヴァンパイアと戦った時の事を、新米のテンプルナイトや司祭のタマゴに話して聞かせるんだ。臨時雇いの先生。イカしてるだろ」
「ああ、お前は英雄だ。立派な弟をもって兄さんは幸せだよ」

 本当の行く先はホーリーテンプルじゃない。でも、ウソをつかなきゃ、兄さんと母さんを心配させちまう。

「気をつけてな」
「元気で。姉さんも」
 扉を閉めた後、ほっと息をついた。慌てて肩に引っ掛けてきた剣帯を直す。大振りな剣はきちんと背負わないと重くてしょうがない。

 モル司祭が待つ、森の幸亭へ行きかけて、立ち止まった。口止めはされた。でもパーシーさんなら話しても大丈夫だ。

 村長の館の前庭を、早足で突っ切る。足元からニワトリの群れが、半ば飛びながら散った。
 扉を軽くノックして、応えを聞く前に入る。

「あら、いらっしゃい」
 包丁と野菜を入れたカゴをかかえたアニーおばさんが、横をすりぬける。これから井戸バタで夕食の下ごしらえか。パーシーさんは村の集会場にもなる食堂で書き物をしていた。

「その格好……旅支度かい?」
 紙を裏返していた手が止まる。
「力を貸してほしいと誘われました。モル司祭について行くことにしました」
「やはり、森の幸亭へ来た司祭様ご一行は」目を閉じたパーシーさんがうなづく「それで力を貸すとは?」

「ティアを助けにいきます」
 立ち上がりかけていたパーシーさんが止まった。木彫りの人形のようだと思った。

 決心がにぶる。
 きっとパーシーさんは笑うだろう。

 お前はふられたんじゃないのか? ティアもアレフの事を好いてると思ったから、男らしく身を引いたと言ってなかったか。それに彼女は何の助けも必要としていないよ。

 どう言えば信じてくれるだろう。
 村を救ってくれたティアも、ヴァンパイアの魔力にとらわれていたなんて。ティアが魅入られた魔物は、この村を恐怖のどん底に落とした森のあいつより年を経た強大な存在だと。

 あいつは人間のふりをして、陽のある内に村に入り込み、タック伯母さんを襲った。旅人として宿を乞い……
 パーシーさんはあいつと二日間、この屋根の下で過ごした。最上のもてなしをした客人に、裏切られていたと知ったら。

 オレ自身、まだ信じられないでいる。
 アレフか本当にアレフだったなんて。
 あいつの正体が何百年と生きてきたヴァンパイア、闇の一族の統率者だったなんて。一族の裏切り者を制裁するために、オレやティアを利用していたなんて。

「アレフを退治するためか」
「うん……え?」
 いつしか床の木目を見ていた眼を上げると、パーシーさんが溜息をついていた。紙束をテーブルに置いて、イスに座り直すのを見て、やっと声が出た。

「知ってたんですか? アレフの正体」
 違う、きっとモル司祭が教えたんだ。
「子供の頃、会った事があるからね。年寄りの何人か気づいてたよ」

「知ってて……泊めた?」
「いや、思い出したのは……まあいい。一介の旅人として訪れた者を、追い出す訳にはいくまい。それに村を救ってくれた」
「でも、それは」
「理由はどうあれ村は救われた。お前も何度も助けられたと言っていたろう。なのにモル司祭に協力するのか?」

「だって、ヤツは伯母さんを!」
 お見舞いに行けば、タック伯母さんは豪快に笑ってお茶を振舞ってくれる。でもやつれは隠せない。首にまいたスカーフの下には治らない傷痕が残っている。まだ伯母さんは魔物の呪いにかかったままだ。

「救ってない。あいつも同じだ」
「違う」
「どこが!」
「これ以上犠牲者は出ない」
「……どういう意味だ」

「気に入った相手が死ぬまでは、他の者に手を出す事はない。ひとつの村でひとりだけ。何か月も……何年もかけて命をすすりとる。昔は……犠牲者が吸血鬼になる事はほとんどなかった。そうでなければ、とうに人は食い尽くされている。何千年も彼らはそうやってきた。町も村も滅ぼさず」

「伯母さんは見殺しにするのか」
「大勢を殺されるよりマシだ」
「そんなの」
「いい事だとは思ってない。昔の支配関係を蘇らせようとは考えてない。だが、テンプル以外にも黒茶を買い取ってくれる先が出来れば、双方に圧力をかけられる。適性な価格で買い取ってくれるよう」

「金かよ。そんなこと村長が言うなんて」
「金は大事だ。人が生きていくには。それにアースラ・タックについてはティアが……」
 言いかけてパーシーさんはおしだまった。

 そうだ、ティアだ。
「ティアこそ村の恩人じゃないか。今度はオレが助けなきゃ」
「たとえアレフを倒しても、ティアがお前と一緒になるかは」
「わかってる。でも、魔力でとりこにされてるんだ。その呪縛を断ち切らないと」
「そう思うのか?」
「決まってる。でなきゃ聖女がヴァンパイアを愛するはずがない」

 パーシーさんは優しい顔をしていた。
「若く素直な心に真実は映るという。でも事実は、時間をかけて磨き上げた多くの鏡に映さなくては見えてこないものだ」
「何だよそれ」

「この村を出て広い世界を見ておいで。目をしっかり開けているんだよ。お前が守るべきもの、お前を守ってくれるものを間違えないようにな。後悔しなくてもいいように」

 パーシーさんは壁ぎわの引き出しから小袋を出して、オレの手に握らせた。中身は数枚の金貨だった。
「持っていきなさい。くれぐれも気をつけて。利用されないように」

「ありがとう……ございます」
「モル司祭が待ってるんじゃないのかね」
「はい。行ってきます」
「生きて帰ってくるんだよ」
 そうだ、もう二度とこの村に帰れないかも知れない。

 アレフの強さは十分に知っている。力も速さもオレより上。攻撃呪の威力もわかっている。でも、愛する人を救うためなら、命は惜しくない。

 森の幸亭へ向かう足取りは、いつしか力強いものになっていた。



 小さくかたい足音がうるさい。下の階で地精《グノーメ》が分裂して追いかけっこしている。体にふさわしく心まで幼女。あたいより年上とは思えない。遠く弾ける水音はムカつく水精《ウンディーネ》。湖水を引き込んだ地下庭園を魚臭い尾で荒してる。

 ピュラリスは、赤い熾《お》きを引き寄せた。羽を少し動かして狭い暖炉に新鮮な風を呼び込む。

 むき出しの地面があれば、世界の半分をおおう海とかいう水たまりがあれば、どこででも何時まででも存在していられる地精や水精と違って、火精は居場所が限られる。

 火を絶やさぬよう番人が見守る古い暖炉か、常に火と煙を吐く山。

 滅びた城で消えずにいられたのは、乾いた木の枝を運び入れ、燃えカスを吹き飛ばしてくれる風精《シルフ》たちのお陰。

 最後の枝に火を移した。この枝が芯まで白い灰になったら、あたいは冷えて消えてしまう。
「今日は、シルフ達おそいな」
 もう火精を飼うのに飽きたのかな。開きっぱなしの窓の外を飛び交う風精にたずねようとして、やめた。

 近くに風を感じた。
 まだ子供……っていうか、赤ん坊に近い風精が手ごろな良い枝を落としていった。端に獣脂が染みた布と縄が巻きつけられてる。たいまつか。
「こんなモンどこから。それに、見かけない顔だね」

「フレオン!」
 うすい胸を張って名乗り、くるくる飛びまわる。またやってきて「フレオン」と胸を張り、かっ飛んでいく。幼い風精の考える事はよくわからない。たいまつは、ありがたく暖炉に引きこんだ。

 重い足音がした。人間だ。めずらしい。この辺りに住む連中は、ヴァエル様の怨念を恐れて、城には近づこうとしない。だけど、現れた灰色の娘を見て納得した。ファラ様を滅ぼし、島に居ついたテンプルとかいう無法者のはしくれだ。

「いた! 赤くてちっちゃいトカゲ人間」
 こっちを指差している。あたいが見えるのか。
「髪の毛が逆立ってゆらゆらしてる。ドラゴンみたいな羽もついてるし。コレでしょ?」

 コレって言うな。失礼な。指か褐色の髪につかみかかってヤケドさせてやろうかと思ったとき、懐かしい気配を感じた。足音もさせずに娘の後ろに立った黒い姿。
「ピュラリスか?」

 ヴァエル様から逃げ出した供物の分際で、不死を与えられていい気になってた若造。ファラ様のまなざしを、数百年間にわたってヴァエル様から奪った恩知らず。千年もすれば私の元に愛しい女神は戻ってくるとヴァエル様は明るく笑っていらしたが……青い眼の奥に、怖い炎が燃えていたのを、あたいは知ってる。

あたいより若い不死者が出してきたのは、火炎の紋を、血で内側に刻んだ水晶球。
「ここに居たいか。それとも私と共に来るか」
 目の前に差し出された透き通った牢獄に、何であたいは入ってしまったんだろう。

 暖炉から同じ部屋を見ている毎日。40年間、壁と床の石の数を数えながら、風精が運んでくる焚き木を待つのは、退屈すぎた。

 もしかすると……。  青白い死人の肌は火に弱い。嫉妬の炎ではなく、あたいの炎で丸コゲにしてやるつもりだったのかも。

 でも、心残りがひとつある。
 水晶球に収まってから、なぜ暖炉に留まってたのか、ワケを思い出した。しかも目ざとい灰色の娘が、奥の壁の石が少し出っ張っているのに気付いた。ずっとあたいが守ってきた宝物に、汚い手で触った。

 それだけなら“まだ”許せる。こともあろうに灰色の娘は、ヴァエル様の宝物を読み上げ、ニヤついて元の場所にもどしやがった。破りもせず、焼き捨てもせず。

「こんな面白いもの、次に来る誰かにも読ませてやんなきゃ」
 停滞の呪がかかったガラスの筒に大切に封じられた、恋文の下書きとファラ様からの返事。二つの巻紙を貫き止める、ガーネットのピン留めまで、元通りにして。

 でも、こいつらが今へたってるのは、ヴァエル様の思い出を守れないまま水晶に封じられた、あたいの恨みのせいじゃないよ。

 あれから何日、こいつらは地下を歩いてるのかな。昔、ファラ様とヴァエル様が逢瀬に使ってた機械仕掛けの土竜は、炉の寿命が切れてて動かない。さびないレールだけが、夜も昼も無い闇の中に延びている。

「お腹すいたー。もう黒茶は飽きたー!」
「我慢してください、ティアさん。もう少しですから」
「それもう、聞き飽きたぁ」

 また騒いでる。生身の娘なんか連れてくるからだ。本当に叫びたいのは、黙って二人分の命を支えてる始祖のはず。いっそ飲み尽くして転化させちゃえばいいのに。みんな不死なら飢え死にはしない。渇いて滅びるかも知れないけど。

「ホントにセントアイランドの地下? 一休みしたあと、方向まちがって歩き出したりしてない?」
「数日前から、心話が他の誰とも通じない。もうホーリーテンプルの結界内に入っている」

 再び立ち上がって歩き出したみたい。水晶球を入れた物入れも一緒に揺れる。

「ご心配でしょうが、イヴリン様や他の代理人の皆様をお信じ下さい。人が操る船は風任せ。嵐を避けたり流されたり。思わぬ寄り道のせいで、モルはまだ東大陸に上陸していないやも知れません」

 この声は、ケモノ臭いドルクとかいう使用人。まったく、太守なのにお供が少なすぎる。いくら辺境の貧乏領主だからって、落ちぶれすぎ。

 遠くで笑う声がした。歩みとおしゃべりが止まった。
「今度は死体じゃなさそうね」
「いや、本当の人かも知れません」
 この地下通路に声を出す生き物なんていたかな。壁は結露して湿ってるからカビやダニくらいなら。

「来た」
 物入れが開いた。湿気た空気と白い指が入ってくる。油の小ビンと一緒に、あたいも掴みだされた。

 何、アレ。
 アーチ型の天井にぶつかりながら飛んくるのは、頭がデカい変なワシ。飛ぶのが下手くそすぎるフクロウかも。足のカギ爪が光って見えた。

「ピエロバード?」
「違う、頭が人と同じ大きさだ」
 異界の鳥に、人の顔がついていた。目は見開かれて、裂け目の様に口は真っ黒。アザだらけで毛は半分ない。けたたましい笑い声。鳥臭い風が吹き抜ける。

「ネックガード……入り口で見た死体と一緒」
「心は顔ほど原型を留めていない。意思も記憶も、全てが痛みと絶望で砕けている。ピュラリス、頼む。彼女を死なせてやってくれ」
 彼女って、あの半人半鳥のこと? 油は好物だけど、この鳥女、なんだか気持ち悪いよ。

「焼いちゃうの? もったいない。鳥のローストって嫌いじゃないけど」
「食う気か? 彼女は人だ、禁呪で他生命と不完全な合成をされた。聖女見習いとして共に寝起きした仲間じゃないのか」

 鳥女が、ティアに怒鳴ってたアレフの肩に噛み付く。
あたいは落っことされた水晶球から飛び出した。転がったビンから滴る油を口に含んで火を吐いた。

 鳥女が逃げて、少し離れた天井にぶら下がる。諦めるか、もう少しかじってみるか、迷ってるみたいだ。つまり、力量どころか人数でも勝ち目ないって事、理解できないんだ鳥女は。

「黒茶だって樹と合成された人の成れの果てじゃない。葉が髪の毛なのか皮なのか知らないけど」ティアが笑う「入り口のミイラ。噛まれた痕があった。バックスは助けに来た弟子の血を吸い尽くした後、そいつらで渇きをいやして北へ抜けたのよ」

 鳥女が不意に逃げてった。数はわからなくても、食い物にされそうな気配は感じたみたいだ。正直、あの笑い声とうつろな顔が消えてホッとした。

「でも、モルの研究成果が脱走してウロついてるってことは、本当にあと少しなんだ。地下の出入り口は幾つかあったけど、どうせなら見つかりにくい階段か、まだ入った事がない面白い部屋がいいなぁ」

 そんな無責任な希望が、数日後に本当に叶うなんて。
 油一口分の仕事は終えたと、水晶球の中にもどり、ベルトにくっついた物入れの中に収まったあたいには、予想もつかなかった。
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6.知の聖地


 歩いても歩いても変わらない地下通路。つま先から染みこむ単調という名の闇。始原の島を包む強力な結界に外界からの心話をさえぎられ、同じ場所で足踏みをしている妄想が払っても離れない。

 山城の地下に身を横たえたまま、たちの悪い悪夢に取り付かれているだけではないだろうか。疲れを知らぬ身は現実感をくれない。むしろ非現実へと心をいざなう。

 己自身が疑わしい時は、目に映るわずかな変化もありがたい。通気坑から入り込んだコウモリの糞。泥の筋として残るいつとも知れない浸水の痕跡。ティアとドルクのたわいないやり取りが、狂気を退ける。悪夢から生まれでた実験体の襲撃が、正気をつなぎとめる。

 地下通路の終わり。そっけない灰色のプラットホームが、どんな絶景より感動的に見えるとは思いもしなかった。

 ティアとドルクが歓声を上げて駆け出す。生身の彼らは疲労と寒さからくる幻覚にも悩まされていた。無理もない。

 かつては世界を照らす、不変の月だった白亜のセントアイランド城。縦横に広がり幾層にもわたる地下迷宮は、闇の女王と、側近く仕える者達の寝所。静けさとほの昏い悦びに満ちた私的空間。

 だが陽の光に安らぎを見出す、温かい血を持つ者達が城の主となったあと、目ぼしい家財や私物は地下から運び去られたらしい。手紙や日記の類も残っていない。湿ったホコリとカビしか見当たらない空き部屋ばかり。

 ひと気があったのは、目をおおいたくなる人体実験の成果が閉じ込められた一角と、厳重に封印された銀の格子の向こう。
「懲罰房よ」
 ティアが舌打ちする。放り込まれた経験があるらしい。

 開かぬ格子はあきらめ、ケアーが映し出すかつての見取り図と照らし合わせ、北東の狭いらせん階段に決めた。この上は古い公文書が収められた、人の寄り付かぬ書庫のハズ。ファラが書き残したモノが運び込まれた可能性も高い。

 ひと目につかないのが何より重要だが、司書がひとりで当直していてくれれば、なお良い。

 足音を忍ばせ、幻術をまとい、久しぶりに地上の気配を感じた時……心を騒がせる甘い香りにとまどった。高価な蜜ロウの香り。麝香《じゃこう》を中心に調合された艶めいた香煙。人の汗と分泌物の匂いに心が引かれる。同時に、不健康なよどみに眉をひそめた。

 階段の先は薄い板の扉だった。小さな取っ手を回し押す。
 開いた先に書類棚はなかった。金糸と銀糸のたれぎぬが視界をさえぎり、深いじゅうたんが足を沈ませる。室内に気配はひとつ。いや、周囲に等間隔に並ぶ警護の者の緊張がある。

 酒精が混じった老臭の源は、数十本のろうそくに照らされた黄金の寝台の上にいた。たるんだ皮膚に無数のシミを浮かび上がらせた顔の赤い老人。酒と煙花の乱用が、健やかさと若さを削ぎ落としてしまっただけで、本当は初老かも知れない。

「誰、だ? モルか」
 ぼんやりとした老人の意識が、モルへの恐怖でまとまり、理性と思考が動き出す。

 まさか、マルラウ司教長。
 最悪だ。
 この状況では暗殺目的に忍び込んだと疑われても、申し開きのしようがない。
 ファラ様が書き残した記録を調べるためなどという真実には、誰も耳を傾けないだろう。

(地上に出られるのが嬉しくて忘れてた。この辺、偉いさんの寝室だった)
 心話に振り向くと、ティアが舌を出していた。
(一年近く過ごした場所だろう。どこに何があったかぐらい、忘れないでくれ)

 そうか、書庫を司教長の居室に造り変えた際、地下への通路を緊急用の避難路として残したのか。

(では、アクティアス宮は)
(そっちは施療院よ)
 ファラ様の滅びと四十年の月日は、白亜の城をも変容させてしまったらしい。

「誰か! 妙な連中が、地下から」
 目をそらしたとき、マルラウの呪縛が解けたらしい。かすれた声を上げ這いずって扉に向かっていた。たるんだ半裸の背に飛びかかり、床に押さえ込む。主の危機に駆け込んできた銀色の騎士をドルクが押し止める。ティアが走り、金の布の影からスタッフをふるう。

 これ以上、騒ぎを大きくするワケにはいかない。
 音を伝えぬ結界で周囲をおおった。無音の中で騎士が倒れる。
 息を飲むマルラウを引き起こし、静寂の中で噛んだ。

 予想通りにごった血だ。酒と煙花の酔夢に溺れる理由は、モルへの恐れ……仮にもホーリーテンプルの最高権力者とあろうものが、たった一人の司祭に対して、身を破滅させるほどの深刻な恐怖を、なぜ抱く?

(わからない、あの日、一介の見習いと面談しようなどと思ったのか。選抜試験を満点で通ったから……英雄モル司祭長の曽孫だったからか)
 マルラウの思考が現実からはなれ、過去に遊離する。


 暑い日だった。
 腹と脇に綿布をおいて法衣を着ていた。綿布に汗が染みて気持ち悪かった。粘りつく汗だった。なぜモルと二人きりだったのだろう。人払いを命じられた。違う、みんな勝手に出ていった。見えない何かに追われるように。

「久しぶりだな、マルラウ。私との約束通り余計なことはせず、よく司教長の座を守ってきてくれた」
 ハタチの若造とは思えない、老成した嫌な笑み。
「今すぐ明け渡せとは言わない。ただ、私が戻ってきた以上、ホーリーテンプルは我が手に返してもらおう」

 あれは死の床にあっても周囲を威圧した英雄、モル司教長そのもの。恐ろしい師であり主人。逆らおうなどと考える事もできなかった。

(アレフ様が出てこられた隠し通路、その先にあるモルの研究室。そこで何が行なわれているのか、知らないし知りたくもない)

 この寝台で訓戒していた見習い聖女が何人か、隠し通路からきたモルに連れ去られた。彼女達は救われたと感謝してついていった。より恐ろしい運命が待っているとも知らずに。

 そんな夜は、地下からかすかな悲鳴が聞こえていた。耳をふさぎ、気が遠くなるまで痛飲して朝を迎えた。

 シンプディー家の財力と人脈で、実権を握りにかかっていたメンター副司教長。あいつの権勢を、モルがもぎ取って行くのは小気味良かった。だが、明日我が身だ。

 司教長位は終身制。生きている限り地位は安泰。だがそれは、モルが手柄をたて、ある程度の年齢に達するまでのこと。時がくれば始末されてしまう。

 今ならわかる。英雄モル司教長が死に際にマルラウを指名した時の、哀れむような笑み。あれは生贄に向ける慈悲の笑顔。


(そんなハズはない。酒と煙が見せる幻覚だ。いくら子孫でも、そこまで鮮明な記憶と人格を受け継いだ生まれ変わりなど、ありえない)
(いいえ、あり得るのですよ、アレフ様。あの者はファラを倒した英雄モルであり、教会を創始した開祖モルでもある。記憶は遠く千年の昔にさかのぼると自慢しておりました)
 マルラウが引きつった笑みを浮かべる。

 そろそろ、無音の結界も限界か。

 二人がかりで倒した銀の衛士を、寝台の裏に隠してから、結界を解いた。

 警戒しながら入ってきたもうひとりの衛士には、マルラウの口から、説明させた。同僚には隠し通路の先でした不審な物音を調べるよう命じたと。妙だと思っても、司教長の言葉を疑い、確かめる勇気はあるまい。

 だが……本当にありえるのか。
 特定の血筋に発現する生まれ代わり。知識を受け継いだ英雄の系譜。そんな吟遊詩人が歌う伝説のような事が。

「剣で殺せるが殺せない。世界を滅ぼさねば滅びない」
 へパスの言葉が、ふと口をついて出た。


 翌朝、アレフは北西の棟へ向かった。
 マルラウに用意させたカギと許可証を示すと、流水と白鳥を刻んだ扉は、灰色の手袋をはめた守衛によって開かれた。

 扉の向こうに並ぶのは、手すりつきの足場で上段、中段、下段と区切られた、桂の書棚。巨大な脳髄のヒダにも見える。ただよう香りは紙魚《シミ》よけだろうか。

 正五角形の外観をもつ図書館を満たしていたのは、こごえる冷気とほの暗さ。文字を追う学徒たちの、無意識に動く唇から生じる白い息。幻術で黒衣を法衣に見せかけた偽司祭に、疑惑の目を向ける者はひとりもいない。堅すぎる結界は内に致命的な弛みをもたらすらしい。

 空気を震わす鼓動は併設された印刷工房からだ。各地の教会で分散保存する本の複製を作り、多額の寄付をした支援者へ送る美麗な記念本を刷る。印刷機は日のある間、文字を捺した紙を吐き出し続ける。

 もう一つの四角い建物。明るい窓辺で百人が写本と修繕に勤しむ銅屋根の筆耕房と、勤勉さを競うかのようだ。
 五弁のバラに例えられる図書館を生かす、二枚の青葉。永遠の命を持つ者に知が独占されていた四十年前の停滞はもうない。ここは生気に満ちあふれている。

 だが、北の二弁。
 鉄格子に区切られた禁書庫に、ひと気は無い。

 黄銅のカギで鉄格子を開き、中ほどまで進む。白い翼を広げ天井を支える水鳥の彫像を見上げた。平たい水かきのすぐ下まで、箔押しの背表紙が並んでいる。目を背後に転じると、中央ホールの天井画で無腕の聖人が微笑んでいた。

「知は光だと、言っていたが」
 その知を保存し伝える本は、光を嫌う。真昼でも吸血鬼が大手を振って歩き回れる薄闇の中に、無数の本はまどろんでいる。

 誰かが司教長の異変に気付く前に、知識を得てここを立ち去る。一冊づつ目を通す時間は無い。

 物入れから水晶球を取り出した。亜空間上にある脳だけの自動人形《オートマタ》ケアーへの道標《マーカー》を刻んだ透明な球に向かって呪を唱え、空中に使い魔を生み出す方陣を描く。

 ほどなく虹色のゆらめきが身をくねらせた。コウモリではなく、薄い板状の擬似生命。本棚の端に厚みのない半実体を滑り込ませ、ページを走査させた。

 使い魔の身に転写される無数の文字が、視覚野に映し出され、水晶球を通じてケアーに記録保存されていく。読解するつもりがなくても、記憶は刺激され、精神力はすりへっていく。消耗を防ぐため、目を閉じ集中した。

 どれくらい経ったろうか。時を告げる鐘の音を聞いた。最後の一列にかかった時、モルの名が繰り返し出てくるのに気付いた。好奇心を抑え、使い魔に最後まで走査させる。

 虹色の使い魔を回収してから、検索にかかった。水晶球が映し出す記述を追っていく。教会が成立する前、年号が定められていなかった頃は、併記された惑星の位置で見当をつけるしかないが……九百年ほど前か。

 おのれの血脈に呪をかけ、意識と記憶をひ孫の脳に転写したと豪語する、見た目は若い魔法士の伝記。あるいは、ひいジイさんに体と心を奪われた、哀れな若者の記録。これが“最初の転生”か。

 水晶球が映し出す淡い光の文字ではなく、手書きの記録で確かめようと、本棚に触れ、ページを繰った。写本を繰り返したせいか、文字の欠落や誤記もあったが、だいたいは読み取れた。

 永遠を賜りたいと願いながらファラ様に拒まれた魔法士。傷ついた自尊心をいやすため、わが子に過大な負担を押し付けたか。ウェゲナー家に悲願と厄介な家訓を残した曾祖父にそっくりだ。

 だが、彼がしたのは。
「時が経つほどに広がる、回収不能な呪い」
 まとまりかけた思考を横から言い当てられ、本を取り落としそうになった。

 本棚の谷間、鉄格子に近い場所に、目の鋭いやせた男が立っていた。藍色の法服。肩から垂れるストールの紋は豪商シンプディー家を象徴するブドウ。
 ティアの師、メンター副司教長。

 足元に白い輝きが生じていた。くもった大理石の床に生じていたのは不死の身を解き崩す破邪の方陣。術者はいつぞや孔雀亭で会った貧相な司祭か。だが直接手出しできない本棚の向こう、隣の禁書庫から仕掛けている。跳躍すれば発動前に効果範囲から逃れられるが……

「お連れの方はこちらで丁重に歓待しています。不出来な我が弟子がしでかした騒動と無礼のお詫び。私の代わりに導いてくださっているお礼も兼ねて」
 ティアとドルクを人質に取られたか。2人に心話も通じない。調べ物に夢中で気付かなかった。

「それはご丁寧に。いたみいります。ですが、間もなくおいとまする刻限。私の連れはいずれに?」
 返事は沈黙と穏やかな笑み。その奥の心が読めない。

「昨晩、不審な物音を調べに地下へ下りた司教長付きの衛士が、今朝、遺体で見つかりました。お心当たりは?」
 二人を殺人の罪で処刑しようというのか。

「ありません。
地下で異界の生物と合成された聖女を見かけました。他にも理性を失っている者が何人か。衛士を殺めたのは彼らでしょうか?」
 我ながら下手な言い逃れだ。日頃、読心に頼りすぎているせいだろうか。言葉を重ねて相手の真意を探るのは、ひどくもどかしい。

「調査を命じたマルラウ司教長も、責任を感じてか、酒を断ち煙花を遠ざけ、禁欲的になっておられる。見習い聖女への個人的な訓戒もやめるとおっしゃっている」
 司教長らしくせよ。そう、縛りをかけたが……あまりに唐突な改悛が、不信を招いたのか。

「とはいえ命に従っての殉職なら位階を上げ、遺された家族に十分な手当てを支給できます。これが護衛対象を守りきれず、むざむざ司教長を吸血鬼の餌食にしてしまったというのでは、不名誉極まりない。たとえ善戦の末の討ち死にでも、手当てどころではなくなりますからね」
 メンターの微笑が、鎖のように重い。

「それにもし、本当に吸血鬼が入り込んだのなら、夜のうちに相当数の転化者が出ているはず。死体が転がり灰が舞う、昨日まで語り合い笑いあっていた者同士が殺しあう、怒号と悲鳴に満たされた白亜の聖地……できれば見たくない光景です。お互いにね」

「吸血鬼など入り込んでいないとおっしゃるなら、私の足元の方陣は?」
「余興ですよ。ご心配なく。生身なら無害。むしろ爽快なくらいです」
 慈悲深く響く声に滅びを予感した。

「もっとも、吸血鬼というのはマシな呪いです。死と破壊をもたらすと同時に、秩序も構築する。上位者が下位の者に振るう生殺与奪の権。そして心話。この二つでどれほど混乱した状況をも治めてしまう。たとえ暴走しても、始祖さえ滅ぼせば終わる。実に制御しやすい呪いです」
 一体メンターは、何の話を始めたのだ。身に迫る危機とは別の、冷たい不快感が湧き上がる。

「使い勝手の良い、戦《いくさ》の道具と言い換えてもいい。人の意思で統御できる疫病。劫火よりも広範囲に燃え広がり、人だけを灰にする炎」
 造られた者の痛みを知れ。
 疫病や劫火に関心を示すへパスに、ファラ様が不死の身と共に与えた言葉。
 そういう事か。
 だが己が本質的に剣と同じ、道具にすぎないというのは、楽しくない認識だ。
「寸鉄より短い牙など、武器としては石つぶてにも劣ると思いますが」

「その石つぶてにも劣る力で、一度ファラは世界を滅ぼしました。始原の島に結界をほどこし、囲い込んだわずかな賛同者を残して」
「ウソだ」
 叫び返した直後に、思考が勝手に結論を導き出す。断片的にしか残っていない、有史以前の豊穣な文化と多様な言語。あれは、今よりもっと大勢いたハズの人間ごと、殺戮された歴史の残骸。

「吸血鬼化した人々が血を吸い合い殺し合い、外界にいた者すべてが渇きで灰になるまで四年かかったようです。この島は淡水に囲まれ適度に広く温暖。土を耕し家畜を飼い魚を釣れば、数万人が生きていくのに何の支障もない」
 手にした本がひどく重い。書棚にゆっくり戻し、水晶球に目を落とした。思考に反応したのか淡い光が初期の記録を映し出していた。

「東大陸も海に囲まれ、容易には近づけぬ地。かの地の太守がファラと同じ暴挙に出るのではないか……ずっと気がかりでしたが、どうやら取り越し苦労でしたね」
 水晶球にまたたく有史以前の記録は、メンターの言葉を裏付けていた。ここにある何冊かを彼も読んだのだろう。

「ならば私達の問題はひとつに絞られる。ひとりを殺しても解除されない厄介な呪いの方。百年ごとに特定の道標《マーカー》を持つ者の中から一人を選び、保存された記憶を流し込む転生の呪い。世代を経るごとに道標《マーカー》を持つ者は増える。人という種そのものを汚染しかねない危険な呪法です」

「だが、その道標《マーカー》は命に潜み紛れているのでしょう。特定のアザといった外見的な特徴は何もない」ヴァエルが髪色を固定した呪いと原理は近いが、はるかに厄介だ「誰が道標《マーカー》を持っているかも分からない。何の罪も犯していない者に、断種を強制する事は出来ないと思いますが」

「確かに、今さら香茶に混ざった黒茶を分離する方法はありませんね。でも、発現のきっかけは、決まっているようです」メンターが笑う「吸血鬼の存在」

 水晶球が映し出す文字で確認をとる。今、メンターが語っているのは事実だ。

「今のモルに呪いが発現したのは、東大陸で大っぴらに生き延びていた二人の太守のせいです。その始末をつけるのは、目覚めさせた者の義務ですよ」
 その決めつけには、反論せねばならない。
「モルはホーリーテンプルの司祭。彼が振るうのは、教会を司る者が与えた力でしょう」
「ですから、もし、かの者を葬ってくれたなら、見返りに少しばかり譲歩いたしましょう。不可侵の盟約あたり、いかがですか?」

 どうせ戦わねばならぬ相手。否やはないが、古い秩序の最後の担い手として、はっきりさせておきたい重要事項がひとつある。

「ビカムアンデッドの触媒となる賢者の石。ファラ様が持っていた紅い石は、今ここに?」
「タマゴの様な紅い石ならモルが持ち歩いています。ご所望でしたら、力づくで奪い返すしかないでしょうね。
では、あとは全てが終わったのちにでも」

 あっさりと背を向けた、無防備なメンターに虚を突かれた。いつしか足元の方陣も消えている。

 さきほどから気になっていた疑惑を、藍色の背にぶつけた。
「森の大陸に抑制を知らぬ吸血鬼が放たれ、港が封鎖されたのは、道標《マーカー》を持つ者が多いかの地を、無関係な人々ごと浄化するためだった、ということは……ありませんよね?」
 メンターは振り返らなかった。

 ため息をつき、ふと水晶球に落とした目が、あり得ぬ文字列を読んだ。紅い石という言葉が引き出した禁呪の術式。
 身を切る後悔ごと、見たものを心の奥に押し込めた。
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