夜に紅い血の痕を

著 久史都子

『夜に紅い血の痕を』第十七章 生きて帰りし者が語る

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1.テオの戦い


 頭上に掲げた大剣が重い。午後の陽で篭手《こて》が熱くなりかけている。潮風が髪をなでる。したたる汗が変に冷たい。

「怖気づいたんじゃねぇの。英雄テオさんよぉ」
「遊んでないで、そろそろ片付けろよ、オーエン」
 周りではやしてる水夫や拳士は無視だ。

 目の前の相手に集中する。面防からこぼれる黒髪。銀の鎧は薄いらしく動きが軽い。ひらめく白い布が肩の動きをみえにくくする。

 オレより背が低い聖騎士の得物は、長短二本の棒きれ。鉄芯を入れた模擬刀。こっちは真剣だってのに、バカにしている。オレは夜にヴァンパイアとやりあったんだ。木切れなんか粉砕して、ノド元に切っ先をつきつけてやる。

 ちょろいさ……と思ったのは最初だけ。

 振り下ろすと横によけられて、脇腹に一撃くらう。横になぐと下をくぐってきてヒジを突かれる。足元をねらったら、刀身を踏まれて、つんのめった額をこずかれた。

 だったら不意打ちだ。気を張って時を待つ。
 足元の傾きが変わる。銀船が波に乗り上げ越える。
 今だ。
 飛び込みながら刀身を下げ、足元からすくうように切り上げた。だけど向こうも突っ込んできた。胸元に飛び込まれて、体当たりされた。避けきれずぶつかって勢いが止まる。ノドとミゾオチを突かれた。

 昼に食った固焼きパンを吐いた。息もよく吸い込めない。苦いゲロと涙にまみれて甲板で身体を折った。
「これが銀の剣だったら、お前、終わりだな」
 面防を上げた浅黒い顔は、見下して哀れんでた。勝ち誇られるより悔しい。

「仕事、増やしやがって」
 水夫に海水をぶっかけられた。目に染みて痛い。デッキブラシでつつかれて、嘲笑の輪からよろめき出た。

 船は狭いから大剣は不利なんだ。お前ら見物人や垂れてる綱なんかを斬らないよう気ぃ使って遅れをとったんだ。足場がナナメだったから……揺れるから。

 言い訳は痛むノドにつっかえて咳に変わった。
 敗北の一因となった愛刀の刃こぼれを調べ、ボロで汚れをぬぐい油を染ませたなめし皮で拭き上げる。

「やはりテオさんは英雄だ。そんな重い武器でオーエンとあそこまで渡り合えるなんて。水夫にバカにされたからって、気に病むことはありません。連中は何も分かってないのですから」
 優しい慰めの言葉。モル司祭が痛むのどに手を当てて、治癒呪を唱えてくれた。けど、息が楽になっても、敗北の痛みまでは取れない。

「オレが弱い、だけだ」
 認めなきゃいけない。
「オレひとりじゃ、ヴァンパイアは倒せない。ティア聖女と……あいつがいたから」

「当たり前です。あんな化け物、マトモな手段では倒せません。歳を取ることをやめてしまったあれは、原生動物に退化した群体。いや、下等生物にすら劣る。正々堂々と対決する価値もありません」

 麦色の髪の下から、モルが笑う
「極限まで強さと軽さを追求した武具。ムダのない動き。人外の化け物を倒す技を体に叩き込んだオーエンでも、実戦では足止めが精一杯。そのオーエンと、あなたは対人間用の重い剣で戦えた。素晴らしい素質です。あと少し力があれば……アレフを倒して、ティアを救い出せる」

 あと少しの力。
「どんな鍛錬を積んだらいいんだ?」
 今だって、目一杯やってる。毎晩、疲れ果ててハンモックに倒れこみ、夢も見ずに眠っちまうほどに。
「ですから、マトモでない手段を使うんです」

 モルがフトコロから取り出したのは皮袋。
「これは大いなる力を秘めた貴重な触媒。命そのものを変容させる賢者の石。これさえあれば不可能などありません」
 中には大きな紅い宝石が入っていた。

「森の吸血鬼は元司祭。戦士でも拳士でもない。多少、腕に覚えのある取り巻きはいても、ほとんどは戦う術を知らない普通の村人。それでも大変だったでしょう?」
 その通りだ。自警団が倒したのは、吸血鬼になりたての子供や女性、おっさんばかり。そんな相手でも手こずった。

「テオさんの話を聞くかぎり、アレフは攻撃呪の心得がある。格闘術のマネゴトも出来る……まったく余計なことをしてくれる、あの小娘」
 最後の方が早口で聞き取れない。
「厄介な敵ですが、力を合わせ知恵をしぼり、うまく出し抜けばあなたは勝てる」

 船がきしむ。船べりの黒ずんだ銀をこえて波しぶきがかかる。
「アレフの従者に獣人がいたでしょう。斧と弓をたしなむ」
 ダーモッドか。
「アレフの父親がつけたそうです。息子が暴虐に走った時、いさめる者として。せめて力だけでも凌駕する獣人をね」

「まぁ、偉いヤツの子供なんて、たいてい甘やかされて育ったバカばっかりだしな。でも、あいつは」
「いえ大切なのは、獣人なら力で勝るという点ですよ。獣人の力で、その大剣を振りまわしたら?」

「オレに、オオカミ男になれって言うのか」
「いいえ、森をウロつく犬コロなんかより遥かに強いものに。幾種かの生き物の優れた力を取り込んだ、最強の剣士に。英雄にふさわしい、神話の様な姿になってみませんか」

 獣人になる。人でなくなる。産毛がぞわぞわする。
 ……でも、それで勝てるなら。
「ティアさんを救えるなら、オレはどうなってもかまわない」ティアさんの前であいつに負けて、さっきみたいに這いつくばって、ゲロ吐くのだけは嫌だ「オレは、勝ちたい」

「では、おいでなさい。間に合うように今日から少しずつはじめましょう。急いでやると負担がかかりすぎて、体と心が壊れてしまいますからね」
「……壊れるって、痛いのか」

「関節の痛みなしに背は伸びないし、肉の痛みなしに腕は太くなりませんよ」
 そうかも知れない。いつもの鍛錬だって痛みと引き換えに、力を強くしてるようなもんだ。

「でも安心してください。煙花から抽出した痛み止めがありますから。痛くも怖くもなくなる妙薬です」
 そんないい薬があるんなら、がんばれるかも知れない。
「あなたがあなたで無くなってしまったら、何の意味もありませんからね」
 笑顔で昇降口を下りていくモルを追って、暗い船底へ足を踏み入れた。

 打ち付ける波。板のきしむ音。しめっぽくてカビ臭くて、物陰から何かがこちらを見つめているような気がして落ち着かない。闇の中に複雑な魔法陣が広がり、ランタンの光で、ぼうっと照らされていた。

「牙ネコ、大ザル、白熊、ドラゴン。さて、どれからいきましょうか」


 名ばかりの町長は、赤レンガの商館を見上げた。
 締め切られたよろい戸。扉に打ち付けられた板。
 ここの二階にある舶来品まみれの集会所で、町の全権掌握を承認されてから二度目の夏が過ぎようとしている。

 精密な世界地図と航路を織り表したジュウタン。頭上に輝くシャンデリア、そして木彫りの飾り柱。すべて運び出されているだろう。
 クインポートでもっとも華やかで豊かだった港付近の商業区は今、昼下がりの農村よりも静かで寂しい。

 入港する船の数が減っていくにつれて、商店や倉庫から、商品と人と富が去っていった。
 キングポートに引き上げた豪商。北のバフルに拠点を移した商会。大きな建物から空き家となり、残ったのは商いの規模と資力で劣る地元出身の商人のみ。

 あの魔物の指図に違いない。暑くても決して外せぬノドもとのボタン。うっすら白く残るふたつの噛み痕。鏡の中で見るたびに屈辱がこみ上げる。
 血を吸っても配下に出来なかった腹いせに、クインポートの町そのものを潰そうとしているに違いない。迂遠で小心な卑怯者め。

 悔しいが、ヤツの企みは成就しつつある。
 頑固で旧態然とした代理人を憎み、人の利益を擁護《ようご》する“町長”を求めた支援者は皆いなくなった。今もクインポートの首長でいられるのは、謀反《むほん》や裏切りの罪を問われた時、責めを一身に受ける生贄が必要だからだ。

「お珍しい。港の視察ですか?」
 声をかけてくる男に曖昧にうなづいた。内心でうとみ軽んじている者にまともに答えるなどバカバカしい。それに、宿舎兼事務所から数日ぶりに出て、桟橋に向かっている理由は、他人に説明するのがむずかしい。

 夜明けに夢を見た。
 見知らぬ屋敷のテラスで茶を飲んでいた。鳥の声を聞きながら花を眺めていた。満たされて幸福だった。なぜか夢だとわかっていた。

 向かい側の席に誰かいた。お茶会に招いてくれたご夫人だと感じた。生けられた花と逆光に邪魔されて、美人かどうかはわからない。
「いい、お庭ですね」 
 大輪のバラが咲き乱れ、小さな噴水が木漏れ日にきらめいていた。

「気に入っていただけましたか」
 落ち着いた婦人の声に聞き覚えはない。
「苦労しました。なかなか招待に応じてくれなくて」
「忙しかったんです」
「ええ、大変なお仕事ですから」
 実感のこもった声音に心が安らいだ。

「お伝えせねばなりません。直前となってしまいましたが、今日の午後、テンプルの船がつきます。モル司祭の銀の聖船が」

 心が高鳴った。支援者たちを糾合し組織し“町長”という役職を作り出してくれた恩人。教会にパンと銀貨を配ると告知させて、広場に集めた窮民を、演説であおり、代理人の館を襲撃したモル司祭。やっと本当の夜明けが来る。

「バフル港で拒まれ、期待していた水と食料を得られなかったせいか、かなり殺気立っていると思われます。水夫の死体が吊り下がっていました。反乱を起こした者への見せしめでしょう」

 血なまぐさい話題は、光と安らぎの席にふさわしくない。耳をふさごう。早く目を覚まそう。
「聞きなさい。代理人制度を拒否して自治を望み、わたくしの使者を追い返し、教会を通じた手紙までも破った。その是非を、今は問いません。強い決意と実行力には感嘆したいほど」

 やかましい女だ。会ったことは無いが、バフルの女代理人は、こんな感じかも知れない。
「でも、あなたの意地にクインポートの住人まで巻き込まないで。せめて女子供だけでも避難させなさい。周辺の村と町には受け入れの通達を……」
 茶を飲み干し、席を立った瞬間、目が覚めた。

 寝台から下りても、ヒゲをあたっても、薄れることなく鮮やかに残る夢の記憶。やってもやらなくても影響の少ない仕事を午前中に切り上げ、食後の散歩だと自分自身に言い訳して……今、突堤から海を見渡している。

 停泊している帆船はない。朝の水揚げも終わり、無人の漁船だけがゆれる波止場は、静かだ。むこうに釣り人が一人いるだけ。

 水平線に目を向けたとき、尖ったものに気付いた。かすんでいるが帆柱の先端。順に現れた横帆は三枚、いや重なり合って判然としない。四枚かも知れない。上部の帆にはテンプルの聖紋。ずんぐりとした船体は、黒くて幅が広い。
「本当に、船が」
 つばを飲み込んだ。

 港を守護する風精の助力を得たのか、黒い船は真っ直ぐ近づいてくる。出迎える準備のため、波止場前の事務所に飛び込んだ。居眠りしていた白髪の留守番に、港湾員の手配を頼む。

 突堤の灯台守が鳴らす鐘に気付いて、野次馬が集まりだす。夢の不吉な後半が一瞬よぎった。目を凝らしても、吊り下がった死体は見えないが、物売りやおもらいを近づけない方がいいのだろうか。

 迷ううちに、イカリは投じられ、黒い壁の様な船体がゆるりと向きを変える。喫水から上の部分だけでも三階層はありそうだ。網ばしごに大勢の水夫が取り付いて登り、天を突く四本のマストを飾る横帆がたたまれ、船尾に縦帆が広がる。

 水夫の動きに乱れがある。もれ聞こえる言葉づかいは乱暴だ。だがこれは商船ではなく、テンプルの戦船《いくさぶね》。少しばかり横柄で荒っぽいのは仕方ない。でなければ、この地を支配する魔物を倒して光をもたらすことなど出来はしない。

 納得できる理由を必死で考えているうちに、黒い船尾は岸に迫ってきた。速すぎる。それに無様だ。野暮ったく下手くそな操船ぶりに、幾つか野次が飛ぶ。

 停泊していた漁船が一つ潰れ沈んだ時、悲鳴と罵声が上がった。銀船は桟橋の先を壊しながら止まった。縄が投げ落とされてきた。おっかなびっくり近づいた港湾員の手で、無事な杭に回し結ばれる。

 縄梯子を下りてきたのは武装した戦士や剣士。そして曲刀を手にした水夫。剣呑な雰囲気だが、彼らが作った輪の中心に、灰色の法服を着た者達が降りてくるのを見て、胸をなでおろした。

 彼らは無法な海賊ではない。テンプルの理想を実現し、司祭の意思に従って闇を払う光の使徒のはず。

 野次馬をかきわけ、遠巻きにしている港湾員をねぎらい、歓迎の口上を述べた。
「お久しぶりです、モル司祭さま。闇の中に打ち込まれた光のクサビ。私に託していただいたクインポートを、闇の者共から守りぬいてまいりました。この日を何度、夢見たことか」

 一瞬、今朝方の夢が頭をよぎった。
「アレフは港を取り返さなかったんですか。思った以上に無能な領主、いや、俗世間に関心がなかっただけかな。ところで」
 麦色の髪の下で、明るい茶色の眼がしばたく。
「あなた、誰でしたっけ?」

 言葉が出なかった。
「まぁ、誰でもかまいません。クインポートは接収します。人も物も建物も、すべて私の片腕たるラットル司祭の指示のもとへ。今度は、投げ出さないでくださいよ」
「も、もちろんです」
 モルに応えたのは、広場の火刑台で我々を見捨てて逃げた前歯が目立つ司祭。

「ラットル司祭の指示に従えと? それに接収とは」
「商売の禁止、逃亡の禁止、あらゆるものの持ち出し禁止。もっとも、高楼に黄色い吹流しがないって事は、富と物資の大半は、すでに持ち出された後かな。まぁ、貧乏人の戸棚に隠したパンまでかき集めれば、ふた月ぐらいは篭城できるでしょう」

 今、目の前にいるのは本当に英雄と呼ばれている司祭なのか。顔はそっくりだが、海賊が化けているのではないか。あり得ぬ考えが浮かび、消える。
「お待ちください。この街は既に闇の支配から解放された昼の街。力づくで奪わなくても」

「だからですよ。殺され奪われるのに慣れていた家畜や奴隷じゃなくなったから、武器と流血、見せしめと恐怖がいるんじゃないですか。それでは手はずどおりに」

「騎士オーエンは北門を制圧し閉鎖。拳士ルシウスは南門を制圧し封鎖。私らは街の制圧を開始します」
 数人の水夫を連れた銀鎧の剣士と、黒い刺し子の布鎧の拳士が、野次馬を突き飛ばすように、早足で港を出て行った。

 同じように街へ向かおうとするラットルの前に、手を広げ立ちふさがる。
「待ってくれ、食料が必要なら、私が責任をもって必要な分を集める。だから、この街で乱暴な事はしないでくれ」
「邪魔です」
 肩をついてくる手にすがった。
「離しなさい」
 離せるか。

「邪魔をするな。呪われし闇の眷属がっ」
 頭に痛みが走った。めまいがした。青空に掲げられたスタッフに赤いものがついている。頭から生暖かいものが顔にしたたり落ちてくる。
「離せっ」
 続けてラットルに殴られた。一瞬気が遠くなった。

 気がつくと桟橋のザラついた板に頬がついていた。野次馬たちが悲鳴を上げて逃げ始めるのを感じる。
「やめとくれ、商い物も金も全部やるから」
 あの声は果物売りのばあさんだろうか。振り売りの釣り銭まで根こそぎ奪うつもりなのか。

「私は丘の中腹の屋敷で休んでいます。今日の仕事が終わったら、報告を頼みますよ」
 遠ざかる足音はモル司祭か。

「お前が生きてると困るんだよ。前の時の話をされると色々と都合が悪いんでね」
 食いしばった歯の間から押し出すようなささやき声。ラットルの失態は多すぎて、どれのことを言っているのか判然としない。

「逝っちまえ、クソ町長」
 目を開けると、高々とスタッフが掲げられていた。青空に、金色の先端とこびりついた血が映える。裏切り者の手にかかって死ぬのかと思ったとき、上から大男が降ってきた。

 きしむ桟橋。驚いて振り返ったラットルの手からスタッフをもぎ取った腕は異様に長く太かった。
「もういいだろう」
 太い眉の下のこげ茶色の目は優しげで、厚い唇は愛嬌がある。女たちが騒ぎそうな、よく日に焼けた鎖帷子の戦士。

「モル司祭のお気に入りだからって、いい気になるなよ、化け物め」
 憎々しげに吼えるラットルにスタッフを返した目は、哀しげだった。
「あいつらが町の人に乱暴してたら、オレが頑張って止めるから、しばらくここで休んでてくれ」
 頭をそっとなでる腕は毛深く、見間違いでなければ手の甲に黒光りするウロコが見えた。

 一体、こいつらは何なんだ。
 腕と足が奇怪なくらい太くたくましい剣士を、その背負った大剣を見ながら、町長はゆるゆると身を起こした。

 岸壁で、モルとクインポートの教会の副教長が話している。ぼやける視界に映ったのは紅い封蝋の手紙。中身も見ずに破ってしまったバフルからの封書。もう一通あったのか。

 読み終えたモルが哄笑した。
「いいでしょう、“我が友”のご招待に応じようではありませんか」
 何が書いてあったのだろう。
 いや、そんな事は、どうでもいい。

 街から物の壊れる音と、悲鳴と赤子の鳴き声が響く。そちらの方が重大だ。這ってでも止めにいかなくては。
 あれこそが多分、私の仕事だ。


 女の悲鳴。
「またか」
 テオは石畳の坂道をそれ、路地に入った。この辺りは庭の広い家が多い。体をたわめ、バラの生垣を軽々と跳び越えた。

 庭に運び出した陶器や彫刻の前でウンチク垂れながら値踏みしてる見習い司祭をぶん殴った。引き出しを開けて服を散らかし、ネックレスをポケットにねじ込んでる水夫は蹴飛ばした。

「これはモル司祭の指示なんだぞ。アレフは卑怯で臆病だから、こうでもしないと、出てこないって」
 言い訳にもならないへリクツをこねて、寝台で女を押さえつけてたバカ者を締め上げて、廊下に放り出した。

 身を起こしたのは、少し年上の黒髪の美人だった。はだけた胸元から目をそらして、シーツをかける。
「もう大丈夫だから」

 悲鳴が上がる前に背を向けた。
「あり……がとう。助けてくれて」
 驚いて振り返った。

 他の人みたいに、おびえたり化け物とののしったりしないのか?

 細い手が、何かを探すように揺れていた。顔はこっちを向いているのに、視線は違う場所に向いている。
「目が?」
 うなづいた女に顔を寄せた。頬や額を、温かな手が探る。

「若いのね。それに、いい男。恋人、いるんでしょう」
 不意に涙がこぼれた。気がついたら、つっかえながら今までの事を話していた。

 好きな人がいる。こんな体になってでも、助け出したい大切な人。
 だけど、その人も怖がるんじゃないか心配だ。

「待ってて、お礼がしたいの」
 着替えた女の人が連れてきたのは、いつも家事を手伝ってくれてる隣の婆さんだった。

 昔、お針子してたって婆さんは、紐で腕の長さと太さを測って、シーツを切って、腕をすっぽりおおうシャツを作ってくれた。肩と袖がひとつながりになった、楽なシャツ。あいつらが散らかした部屋を片付け終わった頃、二人がかりで縫いあげたシャツも出来あがってた。

「大丈夫。声がこんなに優しいもの。どんなに姿は変わっても、真心はきっと伝わる」
 縫い目のあらいシャツ以上に気持ちが嬉しかった。勇気をもらった気がした。色々、疑問はあったけど、もう少しモル司祭についていこうと決めた。
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2.カウルの山城


 馬車は、アレフが待つ山城に向かっていた。
 腕がカユい。掻くと、たっぷりしたリンネルのソデ口から黒いウロコが一枚こぼれ落ちた。
「火の呪法に対抗するために合成した火竜ですが、含まれた毒素をテオの体が拒んでいるようです。今度は別のを試しましょう」
 振動する床から黒いカケラを拾い上げ、モル司祭が笑う。

「普段は人の姿で、戦うときだけ変わるってわけには」
「とっさの時に困りますし、元に戻った時に弱くなる。それに、テオの体にあまり負担をかけたくありません」
 信じていいのだろうか。頼りないラットルなんかに、クインポートの街を預けた、この男を。

「見えてきましたよ」
 モル司祭が、馬車の行く手を指差す。厚くなった背中を苦労してひねり、三倍に膨れ上がった肩を座席に押し付けて、顔を車窓にそわせた。いくつも重なった山の中腹、紫色にかすむ四角くて細い城館が、目のスミに映った。

「あそこに、アレフがいる?」
「逃げ回っていなければ、ね。でも、呼び出す手段ならいくらでもありますよ」
 モル司祭は、時々、不安になる笑い方をする。


 ふもとの村に、人は少なかった。残っていたのは老人ばかり。若い者はみな逃がしたと、赤いスカーフの村長が笑った。
「そちらの酒場はやっとりますよ。酒も食い物も全て支払い済み。好きなだけ飲み食いするがいい。二階の宿も貸切りだ。だが他の家には何にもない。チーズひとかけ、パンひときれも残しちゃおらん」

 モル司祭は肩をすくめると、部屋に引きこもってしまった。ワインとチーズとパンを盆に載せていくと、変なにおいが廊下までもれ出してて、呪文が聞こえた。こんな時は邪魔しちゃいけない。扉の横に盆を置いて酒場に戻った。

 テオは軽い酒を頼んだ。
 店主が樽から泡立つ酒を陶器のカップに注ぎ、無言でカウンターに置く。目は伏せられたままだ。
 静かに飲んでいるオーエンや、騒いでいるルシウスの他に客らしい客は……スミにショボくれた老人が一人いるだけだ。

 村人はオレ達とかかわりあうのを恐れている。だからといって、領主に加担して毒をもる気はなさそうだ。アレフは畏れられてはいても人望はないってことか。

「城主は、無慈悲なヤツなのか?」
 酸味のあるまろやかな白い酒を一口飲んでから聞いてみた。
「逆らった村人を殺すのか?」
 答えてはくれないと思いながら、問いを重ねた。
「いいや」
 予想した答えが返ってきた。

 でも、この村を、そして大陸一つを支配している強大な吸血鬼の領主と、静かで細いあいつが重ならない。
「本当にアレフは血を吸うのか?」
 口にしてからマヌケな質問だと笑えた。
「娘をさらったり……人を襲ったりするのか?」
 亭主は奇妙なものを見るように、こっちを見ていた。盛り上がった肩や毛深い手ではなく、顔を見つめられたのは久しぶりだ。
「さあな」
 答えは短かくあいまい。でも否定だと感じた。
 もし本当にあいつがアレフなら。

「ヤツは代理人の血に飽きたら村人を館に呼ぶ!」
 悪意がしたたるような老人の声だった。
「わしの姉はあいつの餌食にされた。弱って……二年後に、十八で死んだ。お前の仲間だって、あんな目にあわされたじゃないか。
生け捕りにされて、三人とも血を吸われて。生きているのが不思議なほど青ざめて、歩くことも出来ないほど弱って。無事に帰りつけたのか? あの司祭や騎士より、お前たちは強いのか?」

 前にもテンプルはアレフの討伐を試みたのか。
「でも……殺されはしなかったんですね」
「殺されたも同じじゃ。あいつの口づけを待ち続ける人形。姉と同じだ。どうせ何年と生きられまい」
「信じられない」

 老人がつめよった。息が酒臭い。
「何がじゃ」
「あんなに、華奢な……」
「お前……見た事があるのか?」
「銀の髪で灰色の、夢でも見てるみたいな目をした、細くて若い男……?」
「若くはない! わしの五倍以上生きとる化物だ。村の若い者から命を吸い取って若く見せかけとるだけじゃ!」

 モル司祭の言ったことは本当だった。
 しかし、何かが納得できない。
 何が釈然としないのか分からないまま、夜明け前に村を出て、城に向かった。


 白茶けた岩の間をハイマツが緑で埋める山肌に、急な坂道が刻まれていた。馬一頭、走りぬけるのがやっとの道ハバ。登っていくと、朝もやの向こうに背丈の三倍はある滑らかな石壁が見えてきた。道に迫る石壁の間に四角い闇が開いている。

 城へ通じる隋道《ずいどう》。その前に、ワーウルフが一頭、待っていた。鮮やかな黄色に黒の鉄片が縫い付けられた布ヨロイ。大きなハチに見えた。
「お待ちください。まだ歓迎のお支度が整っておりません。一度、カウルの村にお戻りいただけませんか」
 獣の口がつむぐ言葉は、くぐもっていた。

「……つまり、アレフは留守ってことですか」
 モル司祭は、ワーウルフを指差し、俺に笑顔を向けた。
「こいつを殺しなさい、テオ」

 背中の剣に手をかけたが、抜けなかった。
「何で……?」
「じゃあオーエンでいい。こいつを殺って下さい」
 聖騎士が銀の剣を抜いた。

 戸惑っていたワーウルフが飛び退り、四角い闇に消える。眼をこらすと黒い槍を壁際から取る黄色いしまヨロイが見えた。オーエンが突っ込む。金属がぶつかり合う音がした。

「港に降り立った時から、戦いは始まっているんですよ。この城内にいるのは、全て敵です」
 そうだ。あのワーウルフはアレフの手下。倒さなきゃ、ティアを救えない。

 剣を抜いて四角い闇の中に足を踏み入れた。薄暗い中で、オーエンとワーウルフがやりあってる。間合いの違いと地の利でオーエンは攻めきれないでいた。

 身をかがめて大剣を抜いた。この武器なら槍の間合いでも、届く。石の床を蹴って、突っ込んだ。オレのほうに向いた槍の穂を、横合いからオーエンが脇に押さえ込む。動きが止まった獣人の胸を、大剣で貫いた。

 骨が砕けつぶれる嫌な感触と歪んだ悲鳴。
「やった」
 剣を引くとワーウルフはくたりと倒れた。毛が抜けて鼻が縮んでいく。死に顔は人。頭が薄くなりかけたおっさんだった。最期は呪いが解けて元の姿になるよう定められているらしい。

「まだです」
 真後ろからモルの声がした。胸の大穴が少しずつふさがっていく。おっさんの指が動き、目が開いた。
「くたばれ!」
 オーエンがおっさんの首に剣をつきたてた。ヒュッと息がなる。今度こそ……だが、剣を抜くとまた、キズが治り始める。
「不死……なのか」

 オーエンが胴を両断しても首を切り落としても、頭を潰しても、ずたずたに切り裂いても、血が集まり肉片はうごめき、くっついて再生しようとする。かき出した腸の断片が、うごめき一本に繋がっていく光景から、目が離せない。

「ああ、わかりました」
 モル司祭が血だまりに浮かぶ腕を見下ろす。切り落とされた手首を足で踏みつけると短刀を振るった。指が落ちる。中指を拾い上げ、指輪を抜き取った。

 うごめいていた肉塊が静かになった。
「死ねない呪いがこもった指輪です」
 軽く投げ渡されたのは血色の指輪。宙で受け取ってドキリとした。同じものがオレの指にもはまっている。指が太くなっても食い込まず、外れない紅い指輪。確かティアの指にもはまっていた。

「たぶんアレフの魔力を受けて、生命力に変える術具でしょう」
 肩をすくめると、モル司祭は床に溜まった血を指につけ複雑な魔方陣を描き上げた。

 もう一つの塩で描いた円の中に入り、ルシウスやテオも側へ来るよう手招きしてから、呪文を唱えはじめた。長い詠唱。赤い魔法陣から気味の悪い煙がたちのぼり形をなして行く。ひと抱えはある虫。硬そうな大トカゲ。見たことの無い生き物ばかりだ。

 モルが塩の円の中から小瓶の粉を降りかけ、紅い石をかざす。固まりかけていた獣や太いミミズが、崩れて混ざって、かたまった。現われたのは寄せ集めの生き物だった。こいつらはオレに近いモノだ、そう感じた。

 モル司祭は次々と怪物を魔法陣から呼び出し、異様な姿に混ぜて固めて、城の奥へと向かわせた。吐き気のする行進だった。

 闇の向こうで、争う音と悲鳴が聞こえた。
「行きましょうか」
 塩の輪から出て、モル司祭が笑う。剣をぬぐっておさめ、ランタンに火を入れて、隋道《ずいどう》の奥へ進んだ。

 掲げたランタンの灯に、引き裂かれた大コウモリや、食い裂かれたオオカミが照らしだされる。人と獣の中間の死骸。侵入者をはばむ落とし穴の底であがく異様な怪物。それらが暗闇の中からむっとした血の匂いとともに現れた。人の遺体としか思えなものもあった。手にはホウキ……掃除婦かもしれない。

 城は廃虚じゃなかった。でも荒らされ血と死体だらけ。動いているのは異形の怪物とオレたちだけ。恐れていたヴァンパイアの襲撃はなかった。アレフは仲間を増やそうとは思わなかったのだろうか。

 少しマシな地下室で棺を見つけた。空っぽだった。
「やはり戻ってはいないようですね。では、待ち伏せといきましょう」
 モルが笑う。
「テオ、まさか怖じ気づいたのではないでしょうね」

 急いで首を横に振った。でも今までの出来事に……殺戮に、心が悲鳴を上げていた。なぜかアレフやこの城の者より、召喚された怪物どもやモル司祭のほうが恐ろしかった。

「あんな怪物を召喚して、大丈夫なんですか」
 もし、城の外へ出て、村を襲ったりしたら。
「ここでアレフがしていた悪事に比べれば、たいした事ではありません。大きな悪を滅するのに正攻法だけでは無理です。我々はか弱い人間なんですから。あらゆる手段手を駆使しなくては。この大陸に夜明けをもたらすためにはね」

 モル司祭が暗がりの中で手招きする。従って降りた先に地下牢があった。いくつもの鉄格子が並ぶ暗い通路。森の城の地下にもあった。さらわれた村人が閉じ込められていた。でも、ここには誰もいない。

「アレフの食料庫ですよ。気が向いたときに楽しめるよう、人間を閉じ込めておく地下牢。やつの食欲を満たすためだけに、捕らえられた罪もない人々の、絶望と無念が石壁に染み付いています」
 なえかけていた、怒りがかき立てられる。

「あなたが負けたら、ここは“順番”を待つ人間でいっぱいになる。この大陸の人々はいつ狩られるかわからない、不安な夜を過ごすことになる。ずっとね」


 城の上の階は、静かだった。城を守る者とモル司祭が召喚した異形の怪物との攻防は、主に地下で決着がついたらしい。今はもう、争いの音はない。

 むき出しの石の壁。荒削りのアーチ。簡素な木の燭台《しょくだい》。錆びかけたよろい戸から日の光が糸の様に入り込んでいた。
 荒れた森の城にはあったタペストリーやカーテン、華やかなガラスの大窓は見当たらない。

 一階の台所には茹でかけの牛肉。すぐ側の倉庫には酒樽と麦の袋が積み上がっていた。棚には硬いチーズがならび、くんせい肉がぶら下がっている。木箱に詰ったイモと干した果物を見つけた。ねばつく甘味が、落ち着いた気持ちを思い出させてくれた。

 二階の食堂と客室は宿屋の様に整えられていた。新しいシーツと暖炉の横に積み上がった薪。突然、住人が消えてしまった昔話の村を思い出した。

 三階のホールは明るかった。太く無骨な柱が邪魔だったけど、ここにはガラスを贅沢に使った窓があった。
「ここで待ちましょう」
 モル司祭の言葉には、心から賛成だった。死体と血と闇からは、なるべく遠ざかっていたかった。


 日あたりの良い北向きのテラスから、モルは方形の中庭を見下ろした。
「二百年……招待を受けてからずいぶん時が過ぎましたが、やっとあなたの城館に来ることが出来ましたよ」
 地を這うコケモモ。寒冷地でも育つ白バラの茂み。他に見るべきものはない。

 南の書庫から持ち出した手書きの書物に視線を戻した。時と空間についての思弁的な論説。線の細い小さな文字に、顔がほころんだ。
「懐かしい。それに新しい」

 容姿だけが取り柄だと、周囲もご自身も、低く評価されがちだった。実際、会うまでは軽んじ、内心あざ笑っていた。

 ファラの歓心を買うために、容姿と知能に優れた配偶者を求めて子を成すなどという、地道な方法を選んだ愚直なイナカ者。イモを改良するように、わが子を並べて跡取りを選んだに違いないと。
 
 だが、ウェゲナー家は成功した。泥臭い方法で二十年の間にファラの弟子をふたりも輩出してのけた。さげすみと嘲弄は嫉妬の裏がえし。それに……

「私の話を初めて真剣に聞いてくれた太守」
 人間相手の論戦に負けた悔しさを、尊敬に昇華して乗り越えた柔軟な不死者。八番目の弟子であるかのように、私の助命に奔走してくれた、ファラの秘蔵っ子。

 人などが語る夢を支援してくれたのは、私の弟子たちと同じように若かったから、でしょうね。あなたもお父様も当時は三百歳……人の命を手折るのに慣れても、血と共に味わった思いと記憶が澱《おり》のように心にたまり、なにがしかの影響を受けるお年頃。もしかすると、
「初めて食らった人間の名を覚えているくらいに、ウブだったとか?」

 その気になれば数日で覚えられる、簡略化された表音文字と数字。教会に人を集め、一人の教育官が一度に大勢に、それを教える。

 誰もが文字を書いて読めるようになったら、みんなで、どうすれば幸せになれるか"考えられる"ようになる。

 世界中の人が同じ数字を使えば、契約や取引が、そして貿易がもっとさかんになって、豊かさを分かち合える。

 そんなタワイない夢を本気で信じてくれた理由。あなたが味わってきたこの大陸の人が、みんな貧しくて不幸だったからでしょうか。

 でも、世界中に教会ができて、商人たちが大きな取引をするようになっても、富んだのは最初から豊かだった中央大陸と森の大陸でしたね。

 それにしても、商人たちの信頼を得た教会が、遠方の取引には欠かせない為替を管理するようになり、その保障となる黄金を、地下の保管庫に預かることになったのは嬉しい誤算でした。

 ひそやかに営む金融業で教会の活動資金はふくれ上がるし……厳重に護られ、不可侵とされた地下の金蔵は、公に出来ない術を研究する場所として、うってつけでした。

 ホーリーシンボルを始めとする破邪の術は、すべて教会の地下金庫で開発されたもの。
「あなたは知らずに手を貸していたわけです。ご自分や友人や愛する者を滅ぼすテンプルに」

 でも、最初の夢は叶ったでしょう。
 私がファラを滅ぼしたあと、取り巻きどもは東大陸に逃げ込んだ。連中が持ち込んだ資産と職人たちのお蔭で、東大陸は今、繁栄のただ中にある。

「夢……か」
 もちろん、あの頃は私も信じていましたよ。皆が幸せになれる道があるはずだと。いや、信じていたのは、生意気にも私を抑え込んで、知識だけを利用していた、開祖モルですがね。

「区別するのはおかしいですね。私だった者の全ての記憶は、欠けることなく受け継いでいるのですから」

 ファラに両腕を奪われた私のために、あなたは逃げ散った弟子たちを探し出してくれた。聖騎士の祖となったガディと、聖女の称号をはじめて名乗ることになるウェデン。ふたりに私が釈放される場所を教えた。一昼夜、飲まず食わずだった私のために、壷煮の牛乳がゆとバフル産のワインを託してくれた。

「あの白ワインは本当に美味しかった。まさに命の水でした。
いつかお返しをしたいと思っていたんですよ」

 父親を滅ぼせば、引き継ぐためにあなたは目覚めさせられる。そう思って、あなた好みの若い司祭を、聖騎士と聖女に託しました。
「四十年ぶりの命の水……気に入ってもらえたでしょうか」

 それにしても、スフィーで噛み跡のある司祭を見たときは驚きました。催眠術をかけてみて、あなたが私を追って来ていると知った時は、胸が高鳴りました。あれから夜毎《よごと》、あなたの襲撃を待っていたんですよ。

 でも互いに旅の空の下では、すれ違うばかり。なんだか男女の恋を描いた、ありがちな人形劇でも見ているような、もどかしい日々でした。でも……
「ここで待っていたら、もうすれ違いはないでしょう?」

 門番や通いの女中を殺したのは申し訳なかったと思いますよ。普通、ヴァンパイアの棲み家への招待状など受け取ったら、腕に覚えのある用心棒を集め、幾重にもワナを仕掛けて待ち構えていると考えるものです。
「まさか“招待”を本来の意味で使っていらしたとは」
 そういう素直で単純なところが、実にあなたらしい。

「それにしても……遅いですね」
 クインポートや、この城の惨状がまだ伝わっていないのでしょうか。麓の村の代理人から心話を受けたら、すぐにも飛んで来ると思っていたのに。

 ドラゴンの生き残りをてなづけて空を駆けているとウワサを聞きました。それに、森の城にいったなら、転移の呪も見たはず。あなたなら解いてモノにしていると思ったのですが。

「もしかして、心話の通じない場所におられる?」
 始原の島。ホーリーテンプルを守る強力すぎる結界の内なら、あり得るかも知れませんね。

「吸血鬼を倒すのだと意気込む若人たちの夢。富や地位を求めていがみ合っていた老人たちの野望。全て無残に食い裂かれましたか」

 せっかく手に入れた世界の中心ですが、いた仕方ありません。それに私さえいれば、テンプルは幾つでも、何度でも作り直せる。
 生意気なメンターに、もう会えないのは残念ですが
「お互いに帰る場所を潰しあったって事で、恨みっこなしでしょう」

 さて、日がだいぶ西に傾いてまいりました。
 単に領内でお休みということなら、そろそろお目覚めになる刻限。私の訪問と、留守をまもる衛士の死に様を知るはず。あなたは怒るでしょうねぇ。

 なるべく早く、怒りに任せて私の傑作たちと戦い、ここまでたどり着いてください。

 もし数日以内に来ないなら、あなたの大切なテオを、殺して殺して殺し続けて、繰り返される断末魔の叫びで、呼び寄せることも考えなくてはなりません。

 あなたの長年にわたる親切と友情に報いるためにも、私のこの手で、滅ぼしてさしあげたいのです。
 灰の一粒も残さず……完璧にね。
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3.純白


「大丈夫? もう、動ける?」
 動けるが大丈夫ではない。先ほどまでアレフの身をさいなんでいた脱力感は消えていた。突然の喪失。死に瀕していたしもべが逝った。誰なのか分からないもどかしさに、硬い壁を叩いた。ノミあと鋭い岩肌に拳が切れる。

 顔を上げると、小作りな手が差しのべられていた。こんな時のティアは優しい。ほだされそうになって、気を引き締める。計算を感じる。もし演技でないとしても、馬に塩や黒糖を食わせ、重い荷を運ばせようとする馬丁の愛情だ。

 とはいえ、暗い地下道で座り込んでいても仕方ない。急がないと夜が明ける。方向感覚と距離感が狂っていなければ、間もなく始原の島を包む結界をぬけ、キニルの地下に至るはず。

 メンターの後姿を見送り、無人となっていたホーリーテンプルの図書館に立つくした時から、半日は経ったろうか。
 音を伝えぬ結界を仕掛けられたぐらいで、学徒たちの避難にも、建物を囲む騎士や拳士の気配にも気付けなかったとは。

 知的な興奮に支配された時、傍目にどんな醜態をさらしているか……自覚はしていたが、印刷機の音がしない事すら気付かなかったウカツさには笑えた。

 表の扉から出る事は叶わないが、図書館にも地下に抜ける通路は存在する。確か禁書庫と呼ばれる北の一角。

 記憶に従い、床のくすんだ渦の意匠に手を這わせた。地下に待ち伏せの気配はない。渦の中央を押し込み、代わりにせり上がった白波に指をかけ、丸い床石を引き開けた。

 地の底へ、らせんに切り込む急階段に足を踏み入れ、内側から床石を戻した。

 闇の中へ下りながら案じていたのは、鉄格子が閉じていた時のこと。強力な結界に邪魔され転移の術が使えないのでは、すぐに袋小路へ追い詰められてしまう。

 だが、心配は無用だった。
 これ見よがしに開いた鉄格子の前に、ティアとドルクが転がされていた。ロウソクとガラスの水器を術具とした、心話を通さぬ結界に包まれ、手足を戒められて。

 そして今、ティアのポケットに入っていた地図に従い、未知の通路を進んでいる。方角は南。なだらかに続く上り坂。手掘りと思われる壁と天井は雑で、二人並ぶのがやっとという狭さ。絶え間なく雫が落ち、真ん中に切られた溝にせせらぎの音。

 いい様に利用された気がする。マルラウを血の絆で縛った事すらメンター副司教長の計画の内ではないかと。
 あるいは、返しきれない恩を売られたか。求めていた知識と、脱出手段。どれほどの値《あたい》となるだろう。

 庶子であろうと出家していようと、シンプディー家の者。貸しを取りはぐれるとは思えない。ウォータでオーネスがどれほど利殖に励もうと、動かせる資金の量において、田舎領主が敵うものでは無い。相手は教会を実質的に統べる者だ。

「出口、近いんじゃないかな」
 ティアが天井を指す。いつしかレンガのアーチになっていた。岩盤を抜け土の層に達したらしい。頭を重くする結界も少しゆるんでいる。やがて階段が見えてきた。うっすら緑に染まっている。時折、光が入るらしい。

 階段の先は下水の一角。すぐ近くで湖へ流れ落ちる水音がしていた。音と微かな光に導かれ、悪臭とぬかるみの中を行く。

 湖岸に密集する掘っ立て小屋、その屋根に渡された板の上に出た。
「勝手に見物するな! 銭を払え!」
 飛び出してきて怒鳴り散らすのは、ミノムシのごとく着膨れた老女。銀貨を投げ渡すと、少し声を抑えて、勝手に地下道の来歴を説明し始めた。

 木のハシゴを降りていた耳に、英雄モルの名が飛び込んできた。
「へぇ、こっから忍び込んでファラを滅ぼしたんだ」
 先に降りたティアが、流れ落ちる汚水を振り返る。
「下水の整備にカコつけてね。10年かけて掘ったのさ。生き埋めになったり、急な出水で溺れ死んだりしながら。おや、聖女さまでしたか。実際に見るのは初めてですか?」

 強固な堤防をモグラが潰えさせるように、不変と思われた夜の女王の御世を終わらせたのは、下水に掘られたみすぼらしい地下道だったか。ティアに地図を渡した者のヒネクレた諧謔《ユーモア》には、苦笑いするしかない。

(アレフ様)
 微かな心話に、浮かべた笑みが消える。覚悟してイヴリンに応えを返した。
(カウルの城を守る衛士が、討たれました)
 湖の側から早足に離れながら、カウルへ意識を向ける。村の代理人は無事だ。しかし、城内にいたはずの、人とそうでない者達、しもべの気配はほとんど消えていた。感じられるのは……

(奇妙なのですが、テンプルの者達の中に、しもべの気配があります。異形の剣士。彼は何者です?)
 テオか。
(ティアに恋こがれる奇特な若者だよ)
 だが、何か気配がおかしい。

(バフルに被害はありません。カウルをはじめ、周辺の集落に関しては避難が間に合いました。ですがクインポートでは犠牲者が出たようです。反逆者、いえ町長は捕らわれて地下牢に)
 すべては、長らく留守にしていた私の罪か。

(どうなさいますか。いっそカウルの城に閉じ込めて飢死にでも)
(隋道《ずいどう》を埋めたぐらいでは、封じられまい。私が行く。あの者を葬ることが、我々とテンプルの間で取り交わす盟約の条件らしい。それにもし、彼に全ての記憶があるなら……最期に話す相手として最適だ)

(ですが)
「ティアさん、モルがカウルの城にいるそうです。直接、転移しますか」
 水晶を道端で掲げ、転移の方陣を展開しながら振り返った。
「もうすぐ夜明け?」
「大地の真裏だから、向こうは日没です」

「歩き疲れたから、少し休みたい。あんたも真夜中の方が調子いいんでしょ?」
 転移先をバフルに変え、イヴリンに知らせながら、少しほっとしていた。

 荒らされた街を見たら、城で身近に仕えていた者の遺体を前にしたら……冷静でいられる自信が無い。
 だが、あれほど復讐に燃えていたティアは冷静だ。
 なら大丈夫。
 結果はどうあれ、悔いが残るような事にはならない。


「これは、何の冗談かなぁ?」
 ぴらぴらしたボリュームたっぷりのドロワーズも、胴ヨロイ代わりのコルセットも、肩と腰まわりがフクれたドレスも、指だし手袋も、ブーツも……
「どうして、真っ白なのよ!」

「よく似合ってるよ、ティアちゃん」
 透きとおったヴェールつきのティアラを片手に、ニヤついているヘパスとかいう世捨て人……じゃないや、世捨て吸血鬼をにらみつけた。

「なに、無粋な法服より燃えにくいし破れにくい。斬撃に強いし、重ねたレースが打撃も防ぐ。夜の女王様に献上するつもりだった戦装束《いくさしょうぞく》を仕立て直したモノだが、染める時間がなくてね」

 純白は死人がまとう屍衣の色。さもなきゃ結婚式の花嫁衣装だ。人里はなれた一軒家で、おっさんが夜なべして白無垢をぬってる姿を想像すると、かなりキショい。こいつがファラに嫌われた理由、人がたくさん死ぬ呪法が好きってだけじゃない気する。

 そりゃあ、ドルクがまとうような漆黒のプレートメイルなんか着込んだら、あたしの身軽さは生かせない。テンプルで苦労して身につけた体術も使えなくなっちゃうけど。

「このティアラは生身の娘さん用に新調したからね。守りの要となる、物理障壁の呪式を封じ込めた水晶に、耐火呪と耐冷呪を封じた青玉と紅玉」
 載せられたティアラが頭になじむ。込められた力そのものは信用できるみたいだ。

「使い魔を先行させ……」
 不自然に止まった言葉。虹を帯びた夜明け色の裏打ちに変ったマントと、半透明の刃つき手甲をつけたアレフが後じさりしてた。
「入り口でたじろぐな! 頬を染めンな! 花ムコじゃあるまいし」
 おっと頬がバラ色なのは、どっかで血を吸ってきたからか。ううん、そういう細かい事はどうでも良くて。

「とても奇麗ですよ。小麦色の肌に白は似合っ」
「気持ちわるい!」
 こいつの女への気遣いって、なんかワザとらしい。仕込んだのが母親かファラかは知らないけど。シッポの先まで完ぺきにシツケられた犬を見てるみたいで、イライラする。

「その、明りがついていたのは城館の最上階のみ。結界を作りかえられたようで、テラスへの転移は無理。ワナや異界からの召喚獣が配置されていると思うが」
「正面から行くしかないんでしょ。いいじゃない。じぶんちなんだから堂々と帰れば」

「忍び込むには、少し目立つ格好でございますしね」
 獣を象ったカブトの奥で含み笑いしてても、ドルクには腹が立たない。これって人徳ってヤツかな。

 とりあえず、外で軽くスタッフを振って型を試してみる。スネまでのスカートは法服より軽くて頼りないけど、足には絡まない。腕の動きも邪魔しない。レース重ねた立ちエリは色気より守り優先。これが戦装束ってのは本当みたい。なによりムレないのが気に入った。

 転移の呪の方陣に入った時、見送りに出てきたヘパスがつぶやいた。
「アレフの内に居る非業の死を遂げた……と、死地に向かう乙女への、せめてもの手向けさ」
 お生憎様。あたしは生きて帰るからね。オヤジの仇を討って、無事に帰ってみせる。
 笑って見返してやった。

 丸い結界の向こうを虚ろな無色が包んだ。
 頭上に星と月に輝く雲が戻ったとき、目の前に四角い闇が口をあけていた。漂ってくるのはムッとする血の臭いと瘴気だった。
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4.異形


 何度も夢に見た。

 能力を最大限に生かす得物と防具を身につけ、触媒や薬を物入れに詰め、考え付く限りの準備を整えて、カウルの城を見上げる。
 といっても真っ昼間に、横で強ばった顔してるヒョロくて黒い魔物の胸に杭ぶっ刺しに行く場面だけど。
 まさか真夜中に、こいつと乗り込む事になるとは想像もしなかった。

「単独での召喚なら還す事も出来ましたが……」
 闇からのっそりと出てきたのは、片羽の獅子?
「微生物の感染ならまだしも、異なる生物を混ぜられては」
 後ろ足にヒヅメあって尾がムカデって。意味あるのか。特に折れ曲がった羽。

「すっごく機嫌が悪そうなんだけど」
「口臭がおかしい。融合した内臓がまともに機能していないようです。痛みを感じないよう、脳の分泌器官に異様な血流が」
「良くわかんないけど、吐きそうなのにイイ気分になってる、タチの悪い酔っ払いみたいなモン?」
 深刻ぶってうなづくアレフはほっといて、ドルクに目配せする。

 ざわりと身震いしたドルクの気配が変わる。獣化。ヨロイに包まれてて分かんないけど。
「参ります!」
 漆黒の刀身を抜き放ち、片羽の獅子に切りかかる。あたしもスタッフを構えて突っ込む。

 振り下ろされる前足を、肉球ごとドルクが断ち割る。咬み返そうと開いた口に、スタッフを突き入れた。首を振って後ろ足で立ち上がった胸に、黒い切っ先が突き刺さる。よし、一匹たおした。

「まだです!」
 無事な方の前足が頭上に落ちてきてた。ギリギリでガラスめいた四つの刃が突き刺さった。避けて振り返ると、支えきれなかったのかアレフがヒザをつく。
「ピュラリス、お願い」
 炎が舞ってタテガミが燃え出した。ドルクが剣をヒネりながら抜くと、真っ黒な血があふれ出して、片羽の獅子は動かなくなった。

「ありがと。助かった」
 顔が引きつってるクセに、大丈夫なフリして鷹揚に頷いてるのがおかしい。憎まれ口を叩きたくなる。
「すっごい進歩よね。一緒に“なりそこない”と戦った時は、役立たずだったのに」

 ドルクは先に行って、石の床を確かめてた。
 なんか悔やみの言葉を呟いてる。
 あたしの眼には暗がりにしか見えない。渡されてた水晶玉を介してケアーに触れた。ドルクやアレフの視覚を借りて、視てみる。

 白い塩の輪と、赤黒い複雑な……魔方陣。砕けた骨と肉片。変色した皮膚がはり付いてる。引き裂かれた血染めの布ヨロイ。
 ここを守ってた衛士の亡骸か。

「心残りだろうけど、埋葬するのは後。今は前に進まなきゃ」
 奥から別の気配が近づいてくる。この臭いはケモノと……カエルかな? まったく節操無く合成したもんね。生きて動いてるのが奇跡だわ。

「彼らが外へ出ないよう、ここに結界を張っておきます」
 獅子の血で二本の線を引き、小石を配して、アレフが呪を唱える。
「あの獅子は、あたしたちが近づくまで出てこなかったよ。そういう風になってるんじゃない?」
「召喚者であるモルが死んでも、統制が利いているなら良いのですが……それに、後始末をするような親切心、彼が持ち合わせているとは思えません」
 確かに。

「次きたよ。カメの甲羅を持つ牙ネコ。でも動きは鈍いし、首引っ込められないから、楽勝かな」
「油断は禁物です」
 そりゃ体重はありそうだけど……って、このカメ、火を吹きやがった。どんな体の構造してんだ。てめえの口も火傷してるし。

 耐火呪を仕込んでくれたヘパスにちょっとだけ感謝しながら、炎を突っ切りスタッフで頭をぶん殴る。下に突き出した牙が敷石のスキマにはまり込んだ。機会を逃さず、うなじにドルクが剣を叩き込み、強引に引き切る。血と火を断面から吹きながら、頭を失ったカメが結界に突撃し……弾かれて、ひっくり返った。

「へぇ、けっこう丈夫じゃない」
「……物理障壁も合わせておいて正解でした」
 爪先立ちで壁にへばりついてる情けない姿については……もう、いいや。

 その後も、ヘビを全身に生やした大ザルをぶちのめし、分かれ道でウジの体を持つデカいネズミを叩き潰し、階段にはびこる、酸の実をゾウの鼻っぽいツルで器用にぶつけてくる食虫花を焼き払った。

 チョウの羽をウロコの様に背中に一杯生やしたドラゴンは、前足を切られて逃げてった。咳が止まらない。毒チョウだったのかな。風精《フレオン》に鱗粉を吹き清めさせて、進んだ。

 むしろ歩みを止めさせるのは、焦げたオオカミや溶けかけたコウモリ。実体を持つ生きてた使い魔と、城仕えの使用人の、遺体。両断されて変身が半分解けないまま逝った獣人。頭を食いちぎられたエプロンドレスのオバさん。

「全て終わったら、人を呼んでちゃんと弔おう。だから今は」
 決まり文句の様に繰り返して、先に進む。

 皮がヨロイみたいに分厚い、馬っぽい首の牡牛を追い払い、壁を腐食させながら広がるでっかい粘菌は適当にやり過ごし、ヒレの代わりにタコの足をひらめかせる太いウナギは、風と火で乾かしてやった。

 城の上部は……意外と質素。飾りが何もなくてツマんない。地下道を進んでいるのとあんまり変わらない。
 ケアーから送られてくる見取り図で、迷うこと無く北に位置する舞踏室にたどり着いた。

 この城に入って始めて見る、華やいだ彫刻が施された扉。開けた瞬間、後ろに強い力で引っ張られた。水が上から落ちてきた。丸い物理障壁に沿って流れ落ちて床をぬらす。異臭はない。
「ただの水?」
「聖水です。たちの悪いイタズラだ」
 見上げると、ひっくり返ったツボが縛られたまま揺れてた。

 拍手がした。
 扉の向こう、窓際に数人分の影。中央は灰色の法服を着たモル。やっと再会できた。さっき逃げた毒チョウのドラゴンや、牡牛をはじめとする幾体かの怪物をななめ後ろにに従えてる。横には黒い布ヨロイの拳士と銀の戦士ふたり。で、大ザルっぽい剣士は何? 人間と合成した怪物かな。

「ティア、魔物から、アレフから離れてこっちへ来るんだ! そいつが欲しいのは生き血だけだ。ささやくのは偽りの愛だ。そ、そんな花嫁衣裳なんかに、だまされるな」

 あれ、この暑苦しい声と顔……
「テオ? こんなところで何してンの?」


 オレをまっすぐ見つめてる。気味悪がってない。やはりティアは、真心が伝わる娘《こ》だった。
 あの人の言うとおりだ。信じてよかった。

 なのに、どうして気付かない。
 幻想の愛。偽りの誓い。奪われるのは生血。与えられるのは永遠の束縛。
 幸せを包むはずの花嫁衣裳が死のワナだと、どうして……

「ゴツくなったけど、テオだよね。何で?」
「何でって」
「あたし達、始まる前に終わってるよね?」
 オレ……またフラれた?

「ちょっと言葉が遠まわしすぎたかな。だからマジな色恋ザタって苦手」
 いや、ティアはヴァンパイアの魔力に捕らわれているから、だから。

「誤解させてごめんなさい」
 ティアが人差し指で、背後のアレフを指す。
「“コレ”は断るための口実で」
 次にオレを……いや、オレの後ろを指差した。
「“ソレ”を、あたしのオヤジと同じ目にあわせてやるのが“まだやること”」
 振り向くと、ソレ呼ばわりされたモル司祭が笑みを浮かべていた。

「誤解を解くのは大事でございますが、傷ついた青年の心に、塩をすり込まずとも」
 ティアの袖を引いてる禍々しい黒ヨロイ。声に聞き覚えがある。弓は持ってないけど、森に選ばれし戦士。一緒に戦ったダーモッド?

 ティアがうるさそうに、ダーモッドを振り払う。
「それに、あたしは人を殺した手で赤ん坊のおしめを替えるつもりはない。わかった?」
 オレは一方的な思い込みで、海を渡り、体まで変えて。

 いや、ティアが振り向いてくれないのは、少しだけ、覚悟してた。
 魂を自由にする。
 呪われた運命を断ち切って、ティアを開放するためにオレは来たんだ。

 真っ白なティアの後ろに、佇んでる黒い影に向かって、一歩踏み出そうとした時。
「危ないですよ」
 眼前にくるりとスタッフが下りてきた。真横にモル司祭の顔があった。月光を含んだ髪が、ほぐした亜麻のようだった。

「おかえりなさい」
 嬉しそうな声。今にも笑い出しそうな尖った横顔。
「司教長の血は……美味でしたか?」
 アレフの口元が歪んだ。もしかして味を思い出して笑ってんのか。

 敵が来たと叩き起こされて、この広間に駆けつけた時、言われた。ホーリーテンプルが全滅したかもしれないと。信じられなかった。でも……

 アレフが右腕を軽くふる。森の城で失った鋼の手甲の代わりに、不吉な黒い手甲がはまっていた。ティアが真顔になる。半回転したスタッフが正面で静止する。ふたりとも、言い訳しない。モル司祭が言ったことを否定しない。

 世界に夜明けをもたらした白亜の聖地は、血に染まって闇に落ちた。アレフを倒せるのは、もうオレ達だけなんだ。背負った剣の柄を握りしめた。

「教則本に従うなら、敵はすべて排除したと、安心して棺に横たわっている胸に杭打って断首ですが……玄関のワーウルフ。私はイヌが嫌いでね。うっかり殺してしまいました」
 後ろめたい痛みがよぎる。うつむきかけて……硬い音に顔を上げた。ダーモッドが黒い剣を抜いていた。

 応じて、オーエン達も剣を抜く。オレも背中の剣を抜いて、両手で構えた。
「これじゃあ私の訪問がバレてしまう。だから覚悟を決めてここで待っていたんですよ」
 ヒビが入った薄い板を渡るような緊張。でも、頭が澄み渡る。心が静まる。互いの位置がはっきり分かる。
「じゃあ、始めましょうか。ヴァンパイア退治を」
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5.アレフ達の戦い



「父さんの仇っ!」
 ヴェールを後ろに引いてティアが突っ込んでくる。ドルクとオーエンの剣がぶち当たる音が響いた。支援に向かおうとしたルシウスの前に炎が舞う。室内を暴風が駆けて壁際のキメラたちの邪魔をした。

 視界が明るい。森の城でもこんな感じだった。一瞬、自分どこにいるのかテオは混乱した。敵味方の位置を確認して、アレフに詰め寄られているのに気付いて慌てた。

 黒と銀の影から繰り出される拳。四本の刃が、目の前に迫る。とっさに剣で受けた。姿勢が崩れ、剣が弾かれる。柄から右手が離れる。でも筋肉でふくれあがった左手が剣を掴みなおす。力を増した足が踏みとどまってくれた。

 開いた右肩を掴まれ、脇腹を蹴られた。肩を砕かれそうな痛み。たわむ肋骨。初めてアレフが人間じゃないと確信できた。
 でも、肩は動く。息は吸える。まだ剣は振れる。背を丸めて転がって起きた。敵は……すこし離れた位置。オレは太ももに力を溜め、一歩で切り込んだ。

 うまく意表をつけた。アレフの反応が鈍い。
 胴を両断するつもりで、ないだ。硬くて弾力のある奇妙な手ごたえ。斬れない。骨を砕けない。
 でも細い身体は、ふっ飛んで壁にぶつかる。力は強くても体重は見かけどおり。むしろ軽い。

 追い討ちをかけようとして、立ち止まった。虹のキラメキ。袖に仕込まれたティアの小刀。軌跡はわかっていた。リネンの袖で絡めるように叩き落とし、振り返った。もう、ティアはこっちを見てない。ホーリーシンボルを使わせないよう、炎を伴って、モルとスタッフをぶつけあってる。

 この連携がオレたちの強みだった。互いが盾となり、デタラメみたいな牽制が、離れた敵の態勢を崩す。視線を戻すと、アレフは消えうせていた。どこへ……見上げたが頭上にはいない。

 求める心が、部屋の入り口に視線を引きつける。たしか、モル司祭が聖水を仕掛けた場所。青白い魔方陣。浮いているのは無数の氷。まずい。

 風に乗って飛んで来る白い粒を、跳んで避けた。後ろで上がる悲鳴。モル司祭が顔をおおう。不意を突かれた拳士ルシウスがティアに殴り倒される。銀のヨロイを紅く染めてヒザをつく聖騎士。その向こうで、黒い獣めいた騎士が剣を振り血を払う。

 なぜ避けない。来るのが分かって……
 もしかして、分かっていたのは、オレだけ?

「その通りです」
 真後ろで声がした。振り向こうとした足を払われた。仰向けに倒れた。
 アゴを掴む冷たい手と、肩を押さえこむヒザのせいで、動けない。アレフが右ひじを引いていた。オレの首を、命を、引き裂こうとしている四つの刃。

 殺られるのか。
 でも白い顔は、怯んでいるような、迷っているような?

 足を高く上げ、反動で強引に起き上がる。首と肩の痛みを無視して、アレフの体をはねあげた。
 アレフが体勢を立て直す前にないだ。あの妙な感触はマントだけ。細長い左腕には刃が食い込み、血がしぶく。

 アレフは左腕を押さえて間合いを取ろうとしてる。呪の詠唱。森の城でいく度かオレも世話になった回復呪。治される前に。
「トドメを刺す」
 狙うなら心臓か頭。壁際に退いた黒い姿めがけて、剣を構え、体ごとぶつかった。

 勝利を確信した瞬間、横から何かがぶつかり視界が暗くなった。体が横に流れる。剣が壁に突き刺さる感触。外した。気が遠くなる。

 ……床の敷石が滑らかで冷たい。オレ、まだ生きてる?

「汚いわよ! アレフがテオを傷つけられないの知ってて、連れてきたのね」
 真上から声が降ってきた。目を開けると、白かった。これはティアの白いブーツとスカート?

「おやおや、テオは貴女を助けに来た騎士ですよ。手加減ナシに頭を殴るなんて……むごい聖女様だ」
「平気よ。イモータルリングをしてるから。アレフが滅びない限り、テオは死なない。どんな傷をおっても」

 剣戟の音はしない。銀の聖騎士と黒い獣騎士の決着はついたのか。オーエンは……生きてる。でも手首に小刀。足の骨を折られて呻いている。もう一人は、失血で意識がない。

 仲間が傷ついて、死にかけてるのに、どうしてモル司祭は笑っていられるんだ。まだキメラが居る。だけど、あいつらは言うことを聞かない。

「痛みはあるだろうに」
「死ぬよりはマシよ」

 沈黙。
 嫌な感じがした。オレの一部が……力を求めて獣や竜の力を合成した腕や足が、震えてる。

「死んだこともないくせに」
 低い声。したたる憎しみ。
「死なないお前等は化物だ。人の手におえる相手じゃない」
 モル司祭の声なのか。いつもの余裕も、若さも感じられない。

「人は儚くて弱い。我慢してファラに頭を下げてやったのに。私には資格が無いと言ったのですよ。あの女!」
 こんな声、聞いた事がない。反乱を起こした水夫が、操舵室に立てこもった時も、そいつを縛り首にしたときも、モル司祭はいつも落ち着いて、穏やかに哀しげに微笑んでいたハズ。

「でも、もういいんです。私は作り上げました。人の力を源とする不安定で弱点だらけの不死身なんかとは比べ物にならない……真の強さ」
 身体が、行きたがっている。惹きつけられる。

「こっちに戻っておいで、テオ。私の……生者の明日を守る盾となるために」
「行っちゃダメよ」
「テオをだまして盾にした魔物。可愛がってくれた伯母さんを襲った吸血鬼。アレフを倒すためにキメラとなったはずでしょう?」

 立ち上がり一歩踏み出した鼻先に、ななめ下からスタッフが突き出された。
「逆でしょ。アレフがテオの盾やってくれてたンじゃない。伯母さんに頼まれて……っていうか、縛られて。 血の絆って言うより、血の呪いよね」
 アースラ伯母さんが、頼んだ。何の話だ。

「テオ、教えたはずです。もう身体は元に戻せない。その身は私の元でしか生かせないと」
 そうだ。力と引き換えに、人としての身体と未来をモル司祭に差し出したんだ。オレにはもう、当たり前の人生はない。数年の余命だって言われた。

 ヘタり込みそうになった時。後ろから冷たい手に捕らわれた。
「テオはしもべ。とおに私のものです。先に約束したのは私」指が熱い……左手の血色の指輪から熱が広がる「シリルの村長に無傷で連れ戻すと」

 風邪を引いたときみたいに、皮膚が、ウロコが泡立つ。骨と関節がきしむ。肉が痛む。ブカブカの袖から血と膿が滴る。足が腕が、崩れ剥がれ、しめった音を立てて足元にたまる。なぜか痛みがない。それが一番無気味だった。

「再生力を上げるだけの指輪かと思ったら、過去の肉体を記録しておいて、再構成する術具でしたか」
 病み上がりみたいに体が重い。床にたまった赤い水たまり。オレの一部だった生臭い泥の中に、ヒザをつき、倒れた。

 鉄さびの様な笑い声が、耳をこする。
「まあ、いいでしょう。テオを取り込み盾とするのは余興。あなた方の困った顔を見たかっただけの事」
 風で縫いとめられていた、異形の怪物たちの悲鳴が上がった。
「私が理想とする力と美には、少し余分でしからね」

 何かが生まれようとしている。
 血の匂いがする生暖かなぬかるみから顔を上げた。窓際に、赤い光を抱いた歪な影。モル司祭だったモノが、新たな形を得ようと蠢いていた。


 月光を透かせて青緑の翅《はね》が広がる。踏み出されたのはオレンジ色の毛に覆われた大熊の前足。床石を砕く爪は光沢のある赤。窓を粉砕する紺色は太いサソリの尾。体躯と太い後肢は鮮黄色のウロコがきらめくドラゴンに見えた。

 肩には黒い炎狗《ファイアドッグ》と半透明の海獣の頭。急激な変化で裂けてしまった法服をかなぐりすて、隆とした肩と胸を誇示しながら見下ろす顔は、麦わら色の髪の青年そのまま。

 平行世界から喚びだした生き物の血肉と、術者自身を素材に生成された三つ首のケンタウロス。身にまとう物理障壁と耐術障壁の干渉が生み出す金属的な輝きを含め、美しいと言えるかも知れない。だが……嫌悪と哀れみがアレフの胸に湧き上がる。

 後戻りできない術だ。消化管が潰れている。いくら力が有り魔力が高くとも、数日の命。敗血症か壊疽で腐り死ぬ。モル・ヴォイド・アルシャーには勝って長らえたいという、本能すら欠けている。心にあるのは妄執ではない。重なる死と生の記憶の果ての虚無。


「アレフ様をバケモノと呼ぶのは、鏡を見てからにしていただきたい」
 ドルクは剣を構えた。
「うるさい」
 モルが、異形の怪物が、吠えた。右肩の黒いコブが赤い口を開き、炎を吹きだす。

 ティアが左に走るのを見て、ドルクは右に走った。扇状に広がる炎を迂回して、後ろ肢に斬りつけた。聖騎士のヨロイを易々と断ち割ったへパス様の黒耀の刃が、黄色いウロコに弾かれる。ついた浅い傷もすぐに肉芽で埋まる。

 止められなかった炎の先を振り返った。アレフ様がテオを抱えて、廊下まで跳ばれるのが見えた。まったくご奇特なことで。情けをかけられた若者が、さらに傷つかないといいが。

 上からの殺気を感じて飛びのくと、立っていた床に、丸太の様なサソリの尾が突き刺さった。


 モルの関心が正面のアレフと右のドルクに向いたのを見計らい、ティアは風精《フレオン》と共に高く飛んだ。麦わら色の頭をシマウリの様に割ってやる。スタッフを振り下ろした瞬間、でかいチョウの翅《はね》が打ちふられ、すごい風が起きた。

 フレオンが吹き散らされる。上下が分からなくなった。物理障壁を司どる額の水晶に意識を集中しながら、身体を丸める。痛手が最小限になるよう願った。背中にぶつかったのは床でも壁でもない……アレフ? テオの次はあたしのフォロー。気が効くようになったじゃん。

「逃げますか。あの図体です。階段は下りられない。重いから翼はあっても飛べない。跳び下りたら四肢が砕ける。何もしなくても、近いうちにモルは死ぬ」
 今さら、なに腑抜けたこと言ってんのよ。
「イヤよ。自殺も病死も、あたしは認めない」どうやったら、この甘ちゃんの逃げ道を断てるんだろう。あ、そうか「紅い石を悪用すれば、モルは不死者になれるよ」

 バフルヒルズ城を悲劇でおおった術具。サウスカナディ城に押し寄せたキマイラも賢者の石によるものだったはず。
永遠の命をもたらす貴重なファラの遺産。でも人の手に渡ってからは、大量の死を振りまいてきた呪われた石になった。


 アレフは黄金のキメラに目をこらした。
 そうだった。
 紅い石を奪い返すために、ヘパスの協力を受け入れた。

 いま、紅い石はモルの体内にある。おそらく下腹にある異種生物との結合点。障壁と毛皮と厚い筋肉の奥。
「厄介ですね」
 風は打ち消される。炎も効果が薄い。氷……素材となる水がもうない。目の前が暗くなる。

 月を雲がおおったのか。
 闇に乗じてドルクが切りかかる。黒い刃を食い込ませたままモルが足元の銀の剣を拾い上げ、打ち払う。火花が散った。

 腕の中からティアの重みと温もりが消えた。スタッフでの殴打をまた試みるのか。太く硬いサソリの尾が振り上げられる。かろうじてスタッフで受けながした様だが……共感した右手がしびれる。せめて動きを止めなければ。

 水がないなら、降らせればいい。
 今夜は珍しく雲が多い。
「フレオン!」
 散った風精を呼び集め、魔力を注いで再構成した。
「雲を上に集めてほしい。好きなだけ飛び回ってかまわない」
 幼女のけたたましい笑い声を含んだ風の音が、壊れた窓から飛び出し、上空へと遠ざかる。

 物入れから鉄粉のビンを出し、大気に干渉する魔方陣を描き上げた。ここは自城。今は夜。クインポートで雨を呼んだときよりうまくいくハズ。

 気圧がさがる。雲と霧が渦となって上空へ吸い上げられていく。
「……何を仕掛けようとしている!」
 気付かれたか。だが、ドルクとティアの相手で精一杯のはず。
魔力を込め、雨を呼んだ。フレオンが大量の雨滴とともに上空から駆け戻ってくる。

 氷の呪の詠唱を開始する。
「また氷つぶてか。そんな子供だましが効くか!」
 モルが吼えた。物理障壁が強化されるのを感じた。ならば、氷そのものの性質を利用するまで。

(伏せて下さい)
 ガラスの破片と共に吹き込む風雨が室内を荒らすに任せる。全てが濡れそぼったあと、おもむろに氷の呪を……大気から熱を奪う術式を、モルを中心に発動させた。

 オレンジ色の毛皮もウロコもサソリの尾も、びっしりと白く凍りついた。だが、雪像と化したケンタウロスから、笑い声が響く。人体と黒狗のあたりから、氷は溶けていく。
「体温を少し上げればすぐに融ける氷で、この身を拘束できると思ったか」

 さすがに凍え死んではくれないか。だが薄い翅は……寒さで感覚がマヒしていたであろうチョウの翅は、表面を薄くおおう氷の重みに耐え切れず、割れ砕けた。
「ティアさん、フレオンをお返しします。もう、キメラは風を呼べません」

「よくも、よくも、よくも」
 獣と人。三つの口が同時に悪態をつき呪をつむぐ。くぐもった詠唱と共に床に走る光。あらかじめ用意してあったと思われる10の交点。
「私の美しい翅を」目は眼窩からこぼれ落ちそうなくらい、見開かれていた「もう遊びは終わりだ。消え去れ、滅びそこないの吸血鬼めっ」
 舞踏室の床全面から、破邪の清浄な光が吹き上がった。


「……千年の望み。十度生まれ変わりし我れらが宿願を、ついに果たしましたよ」
 まばゆい光に満たされた舞踏室で、モルは天井に手を差し伸べ、笑った。

 アレフが滅べば、しもべも滅ぶ。ティアはまだ転化していなかった様だが……身寄りの無い小娘ひとりに何ができる。師匠の後ろ盾も得られぬ辺境で、混沌に飲み込まれる故郷を見ながら、野良犬の様に野垂れ死ぬがいい。

 それにしても、たわいの無い。
 わざわざ身を変じるまでもなかった。

 だが、多くの犠牲の末に作り上げた術式だ。
 ヴァンパイアどもが執着していた、人と他の存在との融合。連中の手が届かなかった領域、作り出せなかった究極のキメラとなり、最後の一人を滅することにこそ、意味がある。

 ファラの時の様な、不意打ちではつまらない。眠ったまま滅ぶなど許さない。無念で心が張り裂けそうなまま消滅してもらわねば、今生の余命を犠牲にした甲斐がない。

「吸血鬼どもを全て滅ぼし、人を解放する。世界に真の夜明けをもたらす。私が千年の夢、ここに実現せり」
 薄れゆく破邪の光の中での、勝利宣言。身のうちから誇らしさが湧き上がる。

「それはウソでしょう」
 喜びを打ち消したのは、ありえぬ声。消えゆく破邪の光の中に、変わらぬ黒い影が立っていた。
「なら、どうして始祖を作る必要がある? ホーリーテンプルの地下にいるアレは? あなたもテンプルも、真の夜明けなど望んでいない」

 防ぐ術のない最強の破邪の呪。なぜ滅びていない。
「吸血鬼から人を守る存在として、肥大しながら永久に存り続ける。それこそが真の望み。あなた方の浅ましい夢。存続し続けるために、吸血鬼を見逃し、始祖を生み出し、闇の子を街に放つ。そうしなければ金も敬意も集まらなくなる。百年後、子孫に記憶を引き継げなくなる」

「なぜ」
 ホーリーシンボルが効かないはずはない。
「地の呪で少々、相殺を。あとは崩壊するこの身を聖女が回復呪で補ってくれました。やはりティアの方が呪力では上。だから、恐れた。殺したいほどに」
 語りおえた赤い口は、細い月のように釣りあがっていた。


(けど、ピュラリスの炎も効かないし、氷ももうダメっぽいよ)
 ティアは心話を送りながら、癒えていくモルの背中をにらんだ。うすい翼は砕けてコブになったけど、本体をどう料理すればいいんだろう。風精によるカマイタチのキズなんて、すぐに癒える。

(ティアさんはホーリーシンボルの用意を)
 は? なに考えてるのよ。
(破邪呪なら対術障壁にさえぎられない)
 そりゃそうだけど。生身には効かない攻撃呪。どうやって不死化させンのよ。この化け物を。

 噛みつくぐらいは……運と勇気と、牙が折れても構わないって覚悟でどうにかなる、かも。
 けど、血の絆を受け付けるようなタマじゃない。それに
(殺さなきゃ闇の子には出来ないんじゃないの?)
 殺れないから困ってるのに。

(不死化の準備はモル司祭がしてくれています。そして欠くべからざる触媒もそろっている)
 低い詠唱。闇に紛れて目立たないけど十の交点を結ぶ黒い魔方陣が形成されてく。この形は、ホーリーシンボルの反転。
 逆か。
 この術式を反転させて作ったのが破邪の呪。

 ドルクが剣舞みたいな派手な動きしてる。足止めかな。
 しょうがない。乗ってやるか。
 フレオンに油のビンを抱かせ、水晶球から呼び出したピュラリスと組ませた。
「炎のつむじ風で、あいつの毛をチリチリにしちゃえ!」

 ドルクの剣と炎に惑わされてるスキに、三つ首の死角に入り、ホーリーシンボルの詠唱を始める。黒い魔方陣、その最も密な下に隠すように、白い方陣を組み上げた。

「何を仕掛けている!」
 ドルクを大熊の手で払いのけたキメラが、闇にたたずむアレフに迫る。
「ビカムアンデッド」
 応えたのはうすい笑みと冷静な声。そして呪を締めくくる発動の詞《ことば》。

 湧き出した闇が渦巻き、キメラにまとわりつき這い上り、その身を侵していく。
「貴方がバフルで使った、不完全な術式の組み換えです」
「一度見聞きした術を模倣《もほう》する……か。相変らず小器用ですね。しかし、マネで私は倒せません!」

 黒い霧をまとって、アレフに突進しようとするケンタウロスが方陣から外れる前に、叫んだ。
「ホーリーシンボル!」
 スタッフを床に突きたて、方陣にありったけの力を注ぎ込む。
 清浄な光が黒い霧もろとも、転化しかけていたケンタウロスの半身を飲み込んだ。

 人と獣の絶叫。伸びてきた大ザルの前足から身をかわし、アレフが廊下に退避する。サソリの尾が蒸発し、骨までむき出しになってドラゴンの下肢が崩れていく。


 黒い剣を杖にドルクは立ち上がった。獣化した足をたわめて跳ぶ。ウロコと対物障壁を失った背、毛皮との境に、体重を乗せた剣を振り下ろした。背骨にぶつかって両断とはいかないが、そのまま腹まで斬り下ろす。

 剣を投げ捨て、血を浴びながら、創傷に手を突っ込む。異なる組織の継ぎ目、脈動する肉の奥で、硬い滑らかな石を掴んだ。直後、橙色の腕に払われた。全身の骨がきしむ。転がって壁にぶつかった。だが握りしめた手の内に紅い石はあった。

 異形の司祭が唱える治癒の呪。刀傷から肉芽《にくが》が盛り上がる。失われた下肢も、灰化しなかった……生身のままだった赤剥けの肉やハラワタからブドウの房状の肉が生まれ膨れ、補っていく。

 いや、違う。肉の表をおおうのは硬い殻とぬめる粘膜。生えて来たのはヒヅメとヒレと触手。無秩序に様々な組織が分化し混在していた。
「か、体が、体が、脹れる! 裂ける!」
 モルの叫び。裏返った甲高い声。

 無数に生えてくる四肢が、まばたき産声を上げながら現れる幾つもの頭が、うごめく尾が……伸びると同時に本体に亀裂を走らせる。苦鳴が吐血にさえぎられる。表皮の成長が内部組織の増殖に追いついてない。筋肉や筋、骨までもあらわにして、オオトカゲの尾が落ち、ヒヅメがついた肢がもげる。膨れて裂けて再生するイビツな肉の球と化した本体から、人に近い上半身も剥落した。

 麦わら色の頭が床にぶつかり、太い腕がのたうつ。アレフは駆け寄った。
「解呪法は」
 戻す方法は無いと分かっていても、聞かずにはいられなかった。もし見つからない衛士のイモータルリングを、たわむれに一度でもはめていれば、あるいは……

「もう、おそい……」
 モルが血の泡を吹く。むき出しの内臓が肉芽を無秩序に生みだしては崩れ、流れ出していく。
 崩壊が進む本体も、生じる組織が次第に小さく短くなり、血と断片を周囲に広げながら氷の様に解けていく。

「これが、今生での貴方の成果か」
「……長生きは飽きました。老いても生き続けるのは疲れる……いつまでも若いあなたには分からないでしょうが」
 英雄モルは長寿だったと聞く。開祖モルも長命だった。だからといって……いや、よそう。

 たとえ前世の記憶があろうと、モル・ヴォイド・アルシャーとしての生は一度きり。そんな分かりきった事でも、いまわの際に聞かせるのは残酷だ。それを言う資格もない。

 弱いと、すぐに倒せると、私が侮られていたことが、この若者に性急な方法を選ばせた理由かも知れない。

 ファラ様の様に強大であれば。用心深く狡猾であれば。眠り姫などという、ふざけた二つ名をいただくような、無能で卑小な存在でなければ。
 彼も時をかけ思考をめぐらせ……その過程で、受け継いだ記憶に流されぬ強い自己を確立できたかもしれない。

「私はまた戻ってきます……私の子孫の中に。ファラの弟子なら私の血を受け継ぐからといって罪もない者を殺す……など」
 モルは勝ち誇ったように笑った。
「七十年後にまた再会を……」
 モルの息と鼓動が止まった。内臓の崩壊も止まる。胸から上は人の姿を保ったまま、冷たくなっていく。

 見開いた目をなで、閉ざしてやった。
「そんな遠い再会を待つ気はありません。未来へ行くのは貴方だけ。それに、寝起きの悪い危険な英雄を、わざわざ目覚めさせる親切心も持ってません」
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6.生きて帰りし者


 ホーリーシンボルに全精神力を注ぎ込んで座り込んでいたティアがふらりと立ち上がる。
「バッカみたい。自分にかけた術が暴走して壊れちゃうなんて」
 動かなくなった肉塊をスタッフでつつき、ワザと踏みしだき、モルの死に顔を覗き込んであざ笑い、悪態をつく。

 むくろ相手に父親の遺恨を晴らしているティアは放っておいて、紅い石を握りしめたまま、壁際で震えているドルクに治癒呪を施し、ねぎらった。
「ありがとう。賢者の石を奪い返してくれて」

 渡された紅い石を見つめる。先史文明の遺産。今の技術では作れない触媒。これを砕いてしまえば、不死化の呪は当分使えなくなる。いずれ再現する者が現れるかもしれないが、百年や二百年ではムリだ。


 私と、ホーリーテンプルの地下に閉じ込められている、作られた始祖が滅びてしまえば、この世から不死者はいなくなる。モルの記憶を受け継ぐ者も、当分は現れない。

 血に染まった紅い石。
 命をゆがめ、作り変える、暗い卵。存在そのものが禁呪といえる。方陣と星辰と贄が整えば、影の無い身を、実体に戻すことさえ可能だと、ファラ様が残した書にあった。

 森の大陸で失われた……いや、奪ってしまった数万の命。ファラ様の滅びと共に、四十年前、ここで灰となったネリィ。この賢者の石があれば助けられたかも知れない。生身に戻せたかも知れない。

 不可能だったと、ありえないと、理性は否定しても、握りしめた可能性と手段の実在が、胸の奥から後悔を引きずりだす。
 掲げた紅い石が、目を射るように鮮やかに輝いた。

 賢者の石が放つ紅い輝き。光源をアレフは見上げた。砕けた窓から月が射していた。風精《フレオン》に集めさせた雲が切れたらしい。黒茶に似た香り招かれ、舞踏室を出てテラスに立った。足元に白い花びらが1枚、貼りついていた。

 恣意的に引き起こした風雨に耐えた白バラが、中庭から恨みがましく見上げていた。眠りに逃避していた間も、誰かが世話をしてくれたらしい。

 だが、ネリィはこの花を目にする直前に逝ってしまった。

 割れたガラスを踏む音に振り返った。白いドレスをまとった蜜色の髪の……目の色が違う。足元に影がある。ネリィではない。白い婚礼衣装を血に染めたティア。赤黒く広がる斑点が月のあばたの様だ。

「死に切れていない聖騎士と拳士、どうする?」
 スタッフが指し示すのは血臭と臓物の山の向こう。これ以上、片付ける死体を増やすのもバカらしい。自力で歩み去ってくれるなら、ありがたい。

 治癒呪を施し、混乱する二人に命じた。
「モル司祭がどうなったか、クインポートと銀船に残っているものに告げにゆけ。速やかにホーリーテンプルに戻らぬなら、同じ目に遭うと」
 這いずっていく二人の前にドルクが立ちはだかる「証だ」破れたモルの法衣と死んだ騎士の盾を押し付ける。

 もつれた二つの足音が遠ざかる。これで退いてくれればいいが。頭を倒しても、人の集団は消えてなくならない。高い城壁を備えたクインポートに立て篭もられると厄介だ。食料が尽きるのを待っていたら、町の住人まで食われるかも知れない。

「ホーリーテンプルは、全滅したんじゃないのか?」
 だぶついたシャツと鎖帷子を血に染めたテオが、幽鬼のように立っていた。なりばかりか言葉まで常軌を逸している。誰に何を吹き込まれたのやら。

「全滅などさせたら、金の流れが止まって」いや、森と村しか知らぬテオに理解は無理か「統制を欠いた司祭や聖騎士が世界を血に染める。この城のように」己が目で見たものなら理解できるはず「私は訪ねてくる者を歓待しろと言い置いた。害せと命じた覚えはない。それでも殺した」

「だって、夜明けをもたらす……ために」
「ではクインポートは。既に人の街だった。少なくとも町長とやらは、そう信じていたはず。何が起こった?」
 テオの心に、クインポートの惨状がよぎる。守る側に回ってくれたのか。
「すまない。詰問は不当だった」

「けど、手下にシリルを襲わせた。アースラ伯母さんを襲って、オレを指輪の呪いで縛って」
「呪い?」
 血膿で粘つきからむ左袖とテオが格闘を始めた。袖が邪魔なら裂けばいいのにと、イラ立ちを覚えた頃、テオ自身もじれたらしい。左手を見せるのはあきらめ、右手で腰の物入れから紅い指輪をつまみだした。

 テオのイモータルリングは左の薬指にはまったまま。
 では、あれは。
 昨夜、こちらでは今朝か。命を支えきれなかった衛士の指輪。
「良かった。見つからないから、砕かれてしまったものと。これで、彼だけは蘇らせることが出来る」

 おびえた顔で逃れようとあがくテオから、指輪をもぎ取り、舞踏室から出て、早足で階段を下りる。テオはドルクに任せたほうが良さそうだ。私が何を言っても、かたくなに拒む。

 ついてきた足音は一つ。そして軽い。
 足を止め、ため息をついた。

 扉を開き、中庭に出る。雨あがりの土の臭い。風で折れた枝と葉のせいか、花の香りより青臭さが強い。

 散り落ちたバラの花びらとコケモモの小さな白いベル。上からみたときは地に広がった星空にも見えた。そんな、ささやかな光を飲み込んで、ぬかるんだ足元に光の方陣が広がる。
 破邪呪。
 対処法は、術者を殺すか、効果範囲から……。
「逃げないの?」

「貴女が全てを犠牲にして求め続けた望みですからね」
 ティアの心の奥にある硬質な決意。憎しみの化石。
 モルは死んだ。
 仇を討ち果たせば、私を永らえさせる理由はなくなる。

 それにティアなら、私より強い決意と実行力をもって、賢者の石を砕き、テンプルの地下に封じられた始祖を滅ぼしてくれる。二度と吸血鬼に肉親を……親しい者の心を奪われる者がないように。報われぬ望みと孤独にさいなまれ、干からびる心を作らぬために。

「ひとつ遺言がある」
「遺したい言葉なんてあるの」
「私のじゃない。クインポートを守ってくれていたブラスフォードの最後の言葉」
「我が主《マイロード》、でしょ」
 ティアが鼻で笑う。心が一段と硬くなる。初めて言葉を交わしたとき。泣いていたティアが、繰り返しなぞっていた父親の最後の言葉。

「続きがある」
 ティアを守りたいという闇雲な思いは、多分、私自身のものではない。少なくとも最初のうちは、動かしがたい気持ちだけがあって理由を後付けして納得していた。まるで、ヴァンパイアの瞳の力に囚われたヒトのように。

「四十三年間、血と忠誠を捧げてきたのに、なぜ見捨てる。応えないなら血の絆をもって呪詛するぞ。我が娘ティアを守れ」
 ティアの頬が赤い。キニルで人形劇を見たときにも、こんな顔をしていた。
「先に呪っておいて、脅して要求を突きつけるのもどうかと思うが……眠っていた私の夢を裂いて、刻んで逝った」

「女の子を助けたのに、下心があまり無いなんて変だと思った。父親の目であたしを見てたんだ」
 年寄りは時折、未熟な若者の世話を焼きたくなるものだ。だが父親の情を透かし見ることで、ティアが納得して心安らぐなら、かまわない。

「親なら子をもう少し見守っていたいとか、思わない?」
「親は成長した子より先に逝く。いつまでも死んだ父親が近くにいては、子は前に進めなくなる。それに亡霊が長く側にいると命が縮む」

「あんただって……あたしを死んだ女に重ねてたでしょ。さっき幽霊でも見たような顔して、少し懐かしそうにしてた」
 相変らず、カンが鋭い。
「ネリィと共に、私の心も四十年前に滅びたのかも知れない。抜け殻にしもべたちの思いを詰めて、心の代わりにしているだけで」

「その、しもべは、代理人はどうなるの。いきなり心の繋がりが消えたら混乱しない? それに心話を使っての急ぎの連絡も出来なくなるじゃない」
 不思議だ。ティアは私を滅ぼさない理由を探している。

「中央大陸は烽火塔とハトで何とかなっていた」メンターは戦《いくさ》の道具だと言っていた「人の心を用いて強制的に行う通信など、元から異常なのかも知れない」

「滅ぶ以外に方法はない? モルの親戚みんなぶっ殺す以外に、あいつが二度と子孫に取り憑かなくなる方法」
 二度と……は無理だろう。いずこかの亜空間に組まれたケアーのようなオートマタが、記憶を保存し、百年ごとに条件が合致した者に接触し、知識を共有する転生の呪い。
 害悪とも言い切れない。遠い未来に吸血鬼を倒す英雄が必要となるかもしれない。

「あんたをでっかい水晶球に封じ込めるとか」
 擬人化精霊じゃあるまいし。いや非実体の亜人と言う点では大差ないか。だが
「ありますよ、方法は」
 ずしりと重く感じる紅い卵を出して握る。五百年近く長らえるために歪め奪ってきた、無数の人生の重み。

「キメラが合成できるなら、人の身体も組むことが出来る。素材となる贄があれば、理論上は不死の身を実体に置き換えることも」
「人に戻るって……こと?」

 人をたぶらかし、心を奪い血を奪い、最後は命を奪って、実体の無い死人と変えるヴァンパイアが、偽りではない恋に落ちたら。成就させる方法はふたつ。殺してこちら側で共に永遠をさすらうか。殺される……人の命に殉じて、心中の道行きのごとく、あちらの限られた時を生きて逝くか。

 こちら側に来たネリィは悲劇で終わった。今度は私があちら側に行く番だろう。

 光の方陣が消える。足元にかりそめの星空が戻った。花々を照らすほのかな光は、薄れゆく月と、地平の向こうから雲の端を輝かせる朝のきざし。

「いつになるかは、ティアさんのお師匠さま次第ですが」
「なんでここで、メンター先生でてくンのよ」
 四十年で肥大した教会とテンプルが、あり様を変え、敵役を必要としなくなるまで、五年かかるか十年かかるか。
 血の絆に頼らぬ秩序を編み上げるにも、時が要る。

 それでも、夜明けはすぐそこに。


        完
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