夜に紅い血の痕を

著 久史都子

『夜に紅い血の痕を』第十一章 古都キニル

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1.退魔の境界


 キニルという街を、ドルクは好きになれない。
 灰色に垂れ広がる肥満した街。数千年の昔から都市でありつづけた人の巣のカタマリ。息がつまる。

 外周には棒を立てボロ布を掛けた粗末なテント。拾った板をはぎ合わせて作った仮小屋。汚水でぬかるみ腐臭ただよう難民の町。
 争いで町が焼ければ、家族と暮らしが奪われる。帰る場所を失った者が、生きるために集まり結んだ砂粒のような家々。

 そんなささやかな営みを押しやって、レンガや石で組まれた大邸宅がそそりたつ。赤や紅色の高い塀をめぐらせた広い庭を持つ屋敷。緑豊かな農村や森が背景なら見栄えもよかろうが、貧民街のただ中では、華やかな屋根飾りや、いかめしい門扉《もんぴ》は醜悪でしかない。

 昔も富裕と貧困が隣り合う街ではあったが、街区によって分けられていたはず……。
「そこの緑屋根に八角の小塔がある家。あたしの最初の恩師が建てたんだって」
 ひとり馬上にいるティアの顔に嘲りがにじむ。

 街を南北に区切る大通りを見下ろす物見の台。立ち止まりフードごしに目を向けられたアレフ様が、軽く舌打ちをされる。花や飾り紐を手に群れる童が、物入れに手をかけた様だ。
「前は師を訪ねるヒマも無かったのか。なら今からでも」

「向こうは覚えてない。クインポートの教会って授講料タダじゃん。だから廊下まで生徒があふれてる。ハシっこでヒザや壁を机代わりにしてたガキなんて、ジジイの目には入んないよ」

「なかなか蓄財の術に長けた方のようで」
 ティアの真意はともかく、成した事の結果をご理解いただくのは悪い事ではない。

「教えるより商人と話してる方が好きだったみたい。余った寄付金やガメた助成金を、ウマ味のある商品に換えてキニルで売って、立派なお屋敷たててゼイタク三昧」

 領民が自ら明日を拓く術を学ぶものと期待して、乏しい財政から絞り出した金。それが眠っておられる間に掠め取られ、個人の利殖に費やされていた現実の苦さに、主の唇が引き結ばれる。

「身勝手な教育官ばかりではございませんよ」
 荷を背負わせた馬の手綱を引きながら、一番マシだった代理教官の痩せた顔を思い起こす。

 似たような手段で得た大金を手に、死蔵されていた印刷機を求めてカウルの山道を辿って来た若い代理教官。何時目覚めるとも知れぬ主には無用となった馬車と共に払い下げた。

 その金で人足を雇い城の防備をかためる普請に取り掛かった頃、クインポートで刷られた無料の教本が一部届いた。草の繊維を漉いた紙をつづった薄い本。羊皮紙を綴じた城の蔵書に比べあまりにもろく粗末で、同じ印刷機を使ったと思えなかったが……限られた時を生きる者に相応しい書物だとも感じた。

 一抱えはある白い石柱が、道に三本そびえ立っている。旧市街の市門。今まで目にしてきた中央大陸の町や村に比べて、あまりに開放的だ。

 ファラ様が湖の島で今の世を開かれて以来、キニルは世界の中心であり続け、失火はあっても焼き討ちや略奪に遭った事は無いと聞く。

 町並みに秩序はあるが、どこかしら奔放で華やか。テラスの花と果樹、壁面を飾る艶やかなタイル。路地にひらめく色鮮やかな干し物。頭上に渡された空中廊下。道に敷かれた石は花や魚をモザイクでかたどり、猥雑な市場をアーチ状の屋根がおおう。

 地平へ消える大路の果てに、厳重な城門が見えてきた。淡水湖に浮かぶ広大な島へ通じる大橋の入り口。
 三階層のファサードには、薄物をまとった顔の無い女王と火を吐き風を起こす竜の浮き彫り。その足元では、大剣を背負う騎士が二人、通行料を払う人々を威圧している。

 大路と同じ幅の石造りの橋。その半ばあたりから見え始める白亜の宮殿。尖塔と優美な曲線をはじめて目にした時の記憶が鮮やかに蘇る。

 今は灰色の法服が棲みつき我が物顔で歩き回っているとしても、遠目には往時の姿を保っていると信じたい。思い出を打ち砕く絶望を目にするとしても、橋を渡らなくては。

 門に近づくにつれて、暗い連想ばかりが浮かぶ。この先は敵のただ中。素性がバレたら絶望的な最期がまっている。次第に足が上がらなくなる。悪いものでも食べたかのように胸がムカつく。寄付という名目の金を払おうとして、たまらず座り込んだ。

「どうしたの」
 下馬して覗き込むティアは平気そうだ。人を手にかけたばかりだというのに、いつもと同じ様に朝食をたいらげたこの娘が元気なら、食あたりとは考えにくい。

 振り向くとアレフ様が手招きしておられた。吐き気と目まいをこらえながら傍らにヒザまずく。
「強力な結界が施されている。心話も阻害される。無理に越えようとすれば無事にはすまない。おそらく気付かれる」
 主の方が、より辛そうなのに気付いた。

「……では、ひとまず宿を取りましょう。夜になれば少しはマシかもしれません」
 引き返すと決めたとたん、心と体にかかる負担が減る。

「ちょっと、橋の向こうにも宿坊はあるよ」
 手綱片手に抗議するティアを無視して、東の街区へ向かおうとした時、来た道からざわめきが近づいてきた。

 人々が退き、道端から見つめるのは、馬の背に遺体を乗せて運ぶ聖女。思ったより早く意識を取り戻したらしい。その後ろには同じく遺体と共に揺られながら、宙空を見ている拳士。

 アレフ様が幻術の呪を呟き、人垣にまぎれた前を行き過ぎたあと、聖女らは仰天した騎士達に迎えられた。
「血の呪縛も届かないか」
 呆然と呟く主に、改めて大橋の門を見上げた。生身の人は通せど、不死人を拒む見えない境界。テンプルもなかなか侮れない。
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2.ホーリーテンプル


 丸みを帯びた屋根のフチが午後の陽射しに白く輝く。薄青色のアーチと飾り格子が、中庭に広がる四角い水面に映る。

 施療院に向かう回廊で、モリスは法服をはたいた。テンプルに来て二十年。遺体を焼くニオイにはまだ慣れない。故郷から遠く離れた病床で、不安と無念を抱く学徒達や、最期を静かに迎えようとしている老人達に、嗅がせていいニオイでもない。

 アクアマリンとヒスイで幾何学模様を象嵌した大理石の壁と床。かつてアクティアス宮と呼ばれた東館は、吸血鬼の女王の居室だったらしい。流水を嫌う魔物には似合わぬ呼び名だが、月夜に舞う優美な蛾を意味すると聞いて納得した。

 風通しが良く、淡い青緑の壁は赤い血の補色になるという合理的な理由で、今は施療院として使われている。膿と血に汚れ、汚物と消毒薬の臭いが漂い、傷病者の悪態と嘆きが満ちる現状を見たら、ファラは怒り狂うかもしれない。

 厳重な二重扉のむこうには八っつの病床。一番手前に聖女ダイアナが腰掛けていた。銀のネックガードの下に覗く白い包帯が痛々しい。

「ルーシャとオットーを焼いたの? ムダなことを。二人を殺したのはヴァンパイアじゃないのに」
「規則だからな。それに殉教者の遺体をモルのオモチャにするのは、忍びない」

「私もいずれ、聖油をぬられて北の釜で焼かれるね」
 寂しそうな笑みが、丸天井を見上げたまま瞬きもしないハジムに向けられる。
「時をかければハジムもあんたも完治するさ」
 空しいなぐさめだ。施療院を生きて出る者の方が少ない。

「ハト小屋にルーシャの報告書、届いてたんでしょ」
「読まずに副司教長室に届けろって言われてた」
 ダイアナの目が閉じられる。
「私たちはもう少しで勝てた。装備さえマトモならオットーは死ななかった。ここを守る騎士を無駄に飾るくらいなら……」

「なかなか戻らねぇし、すぐ出てっちまうからだろ。マトモな装備一式誂えるのに何日かかると思ってる」居心地悪くなるよう仕向けたのをゴマかすため言葉を重ねる「それに、見た目は大事だ。威厳ってやつは無用な争いを退ける」

「そういうものかもね。ルーシャもヤツも威厳が無さすぎたから」
 ひとしきり笑った後、ダイアナがにじんだ涙をぬぐう。
「モリス高司祭、あんたもたいがい威厳ないよ。なんだいその、白黒まだらのヒゲは。まるで使い古しの絵筆じゃないか」

 最筋肉が落ちてきたホッペタと、シワが増えた口元をまばらにおおうヒゲを撫でながら、モリスは笑ってみせた。
「笑って泣けるなら大丈夫だな。次は見舞いに赤ワインでも差し入れてやるよ」

 吸血鬼の口付けを受けた他の患者たちの様子をひと通り診る。今日襲われたダイアナが一番元気だ。被害者と加害者、どちらの資質に負うものなのか……興味深い。

 それからモリスは回廊を抜けて西棟に向かった。
 黒と薄紅の大理石が彩る中央の聖堂には善男善女。いや、金持ち連中か。その間を素早く抜け、薬草園を横切り、遠目に道場や工房を望む階段を登る。お偉い司教連中の執務室がある3階にたどり着いたときには、息が上がっていた。

 廊下を飾るフレスコ画は七聖の偉業を讃えているらしい。だが、細かい三角の半貴石で動植物を現した天井のモザイク画に比べて、どうにも見劣りがする。暗い過去を払拭するためと称して、壁の石を剥がして売って儲けた先人が少し恨めしい。

 ダイアナに言わせればムダ飾りでしかない騎士が、モリスの来訪を取り次いでくれた。寄木細工で飾られた扉を開けて、迎えに出てきたのは、栗色の髪ごしに賢そうな目を輝かせる紅顔の美少年。

「頑張ってるなミュール、辛くねえか」
「はい。日々まなぶ事がいっぱいで、楽しいです」
 先日、副司教長付きに配置換えとなった見習い司祭。メンターの新しい鑑賞物にして気分転換の話し相手。

 抱きもせず触れもせず、眺めて時おり話すだけで満足という、上司の趣味は理解できない。大体、なんで同性なんだ。モリスが知る異性の弟子はティア・ブラスフォードぐらいだ。

 書類棚が壁面をおおう執務室。白い薄布が和らげる西日を背に、藍色のガウンにブドウを刺繍したストールをつけたメンター副司教長が、書類に目を走らせていた。白い羽ペンを取り、数文字ばかり書き加えてから、書類を金属の箱に放り込む。

 それから引き出しのカギをあけ、チョウを象った止め具を取り出した。挟まれているのは、数枚の細い巻紙。

「選ばれた人間」
「それはまた、人はすべからく平等であると説く教会の、首座を狙う御方の言葉とは思えませんねぇ」
 大きな黒檀の机を滑ってきた銀のチョウを捕らえて開いた。ここ数ヶ月、ハト小屋から真っ直ぐ運んだ通信筒の中身だった。

「モリスは運命を信じるかね」
「運命は信じるものではなく感じるもの、でしょう。偶然と努力が生み出した偉大な成果に憧れたアカの他人が、勝手に過去を詮索して、たまたま一本スジが通ってる様に感じたもの……猊下のお言葉ですよ」

「居るハズの者が居るべきところに居ない。そして、居るべきでない場所に居ないハズの者がいる」
「早口言葉にしちゃ出来が悪いねぇ」

 メンター副司教長の生き生きした目を見返して、モリスはため息をついた。モリス自身も老けたが、同期の出世頭もシワと白髪が増えた。でも謎をかけたがるクセは、黒髪が豊かだった時から変わらない。

「移動したんだろう。よその大陸じゃ木や建物も動くそうな」
 適当に答えながら手元の細長い通信文に目を落とす。最近は手をめいっぱい伸ばさないと細かい字が読めない。

「あのお騒がせ娘が火刑台のケムリとは」
 東大陸の実力による開放。
 野心まみれのモルの誘いを受けて師を裏切り、副司教長派の体面を潰してのけた小娘。腹立たしいのに悲しい。陽光が少しかげった気さえする。

「目の離せない聖女見習だった。あんな我がままを通さなきゃ若い命を散らす事は……なんだ、死んでねぇのか」
 2枚目を読んで安堵した。そして選ばれただの運命がどうと、似合わぬ事を言い出したワケが分かった。

「ティアは目的を果たしたのか」
 後悔を知らない勇気とともに密航し、錐のような決意を胸に抱いてキニルにたどり着いた娘。危うい少女の外見と未熟な肉体を唯一の資力に、良心なき度胸と千変の嘘でホーリーテンプルに入り込んだ騒乱の源。蜜色の頭には狡猾さと愚直さが同居していた。

「バカの一つ覚えみてぇに演習してた破邪の呪、無駄にならなかったか……」
 いや、ティアが太守を滅ぼしちゃマズいのか。メンターの実家のため、そして、ホーリーテンプルを崩壊させないためには。

「ティアの心に呪をかけておいた。アレフを滅ぼせると確信した時、発動するよう」
「ひでぇ師匠だな。全てを賭けて挑む弟子を潰したのかい」
 一瞬のためらいが死に繋がる人外の者との戦いで、あまりに致命的だ。

「殺す前に損得を計算しろという暗示……いや、少々小細工を加えた人として当たり前の教育だよ。永らえさせても利がないと感じたら、ティアはためらわない」
 
「その損得は師匠とテンプルの利益で?」
「ティアの、だよ。出来れば我々も利に含んでくていれると嬉しいがね。久しぶりに目にした故郷と親の幸福でも構わないと思っていた。だが、ティアの望みは永遠に叶わなくなった」

 薄い陶器がぶつかり合うかすかな音に、言葉がとだえる。ミュールが運んできたシリル産の香茶が、静かな室内に森の香りを広げる間に、残りの通信文をナナメ読みした。

 再開されたバフル教会からの通信文を見る限り、ティアは上手くアレフに取り入ったようだ。メンターの意が通じるものが魔物をいつでも制する位置にいる状況。これは願ったり叶ったりだが……

「つまりルスラン達を殺ってダイアナを噛んだのはアレフか。どうして、こうなった? あのアバズレ娘は五百歳のジジイに何を吹き込みやがった」
「私が聞きたい。出来れば速やかにお帰りいただきたいが……。遠方からお越しの太守は、英雄モルの命をご所望だ」

 モルにバレない様に、ハト小屋を押さえさせたのか。
「ティアもアレフもキニルにはいない。それでモルは押し通す」
「ティアの方から押しかけて来るだろう」
「始元の島を外界から隔てる結界は、決して不死者を通さない。闇の女王が築き故モル大司教が強化したもの。始祖とはいえ齢一千歳にも満たない若造に破れるものではない……らしい」

「それは表の話だろ」
「裏に気付く前にキニルを出ていただく」
 どうやって……という問いは、廊下で争う物音に立ち消えた。

 突然ひらいた扉。武装し騎士と拳士を従えて許可なく入室した歳若い司祭。遅い午後の日に映える金髪の下の目は、不遜な輝きに溢れていた。

「危急の帰還命令を出しておきながら、理由は告げずに早ひとつき。しかも速文とハトの翼が運ぶ通信文は全て、そこの腰ぎんちゃくが副司教長室へ届けたあと行方不明」
 挨拶もなしにまくし立てる来訪者が、薬品臭い指を突きつける。モリスは、懐に隠した通信文からなるべく意識を離して、憮然としてみせた。

「テンプルの、いや教会の真髄は全ての知を共有する事だと唱えて、私の研究は秘密主義的だと日ごろ非難しておられたのは、どこの誰でしたでしょう」

 腕組みしたモル司祭に、金の蝶を象った留め金でまとめた書類を、うやうやしい態度でメンターが差し出す。
「遠征の直後は疲れているのはないかと。なるべく雑音はさけ心安らかに休暇を過ごし、地下での研究を進めてもらいたいと配慮したつもりなのだが、余計な気を回しすぎたようで……いや、すまなかった」

「実戦に出たことのない、親の金で司教位を買った貴方がめぐらせるふやけた企みなど、底が知れてます。そのあたりをわきまえて、そろそろ引退後の屋敷を建てるために難民を駆除する準備をはじめられては……」

 片手で引ったくり、口元を歪めて通信文の束を読んでいたモルの眉間に深いシワが刻まれた。
「シリルにヴァンパイアだと? あり得ん」

 机に跳び乗ったモルは、ストールごとメンターの胸倉を掴んでゆすぶった。
「貴様、地下の実験体を勝手に逃がしたな?」
「何を言っている。ヴァンパイアを滅ぼす使命を帯びたテンプルが、吸血鬼を作るわけがない。居ないものを逃がすも何もない」

 手を離したモルは、来た時以上に荒々しく出て行った。

「本当に……逃がしたんですか」
 乱れたエリ元をととのえる超然としたかつての友への問い。氷が張った湖に飛び込むぐらいの勇気が要った。

「モリスまで聞くのかい? 地下牢に閉じ込められたまま何年も放置されていた男を哀れんで逃がしたのは私ではない。
と、真実を話したところで、どうせ信じないくせに」
 本人が危険な地下にいく必要はない。誰かをソソノカして逃がすよう仕向ける事など、メンターにはたやすい。その誰かがどうなったのかは、考えたくない。

「それより、使いにたってくれないか」
「居ないはずの者に?」
「いや、ティアにだ」
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3.異なる氏族


 空気が重く肌にまとわりつく。人いきれだけで霧が生まれる。真夜中を過ぎても明りが灯り、月が雲に隠れても真の闇はおとずれない。常に人の気配がして、落ち着かない。

 世界最大の淡水湖がうるおす大都市キニル。湖岸沿いの下町を歩いてみたが、結界にスキはなかった。湖に意識を向けると常に頭が締めつけられる。人の目に安らぎを与える岸辺が、アレフの目には歪んで見える。

 暮れゆく波打ち際から走ってきた子供が、堤防に並べた焼き物やガラスの丸いカケラ。銀貨一枚でひと握り。血を捺《お》してドルクに並べさせ、結界の相殺を試みたが効果は薄かった。

 落胆で終わった幾つかの試みを振り返りながら、にぎわいの中を歩く。すれ違う人々の心からこぼれ聞こえるつぶやき。わずらわしく感じるのは結界のせいなのか、朝の出来事を納得し切れていないからなのか。

 等しく朝日を目にしながら、今宵を迎えられなかった命。
 実際に手をくだしたのはドルクとティアだが、生命が消えていく最期の想念は頭に残る。心を押しつぶした感触が後悔を広げる。善意に付け込みダマして得た血と共に、取り込んだ想いが内側から心を刺す。

 道にはみでた箱と樽と板の食卓で、貝や野菜のスープにひたった麺を食べる若者の群れに目を細める。頼りないロウソクやランタンに本をかざす彼らが妙にまぶしい。そして哀しくも感じる。

 乏しい光の中で文字をたどり、英雄になることを望んで受ける選抜試験。その行き着く果てに無残な死が待つと彼らは思わないのだろうか。倒すはずの者に捕らえられ、血を吸われて終わるかも知れないと。

 まだ飢えていないのに、みずみずしい首筋に引きつけられる。
 若い命で薄めたいのかも知れない。仲間の骸のただ中で、冷たい口付けを受け入れた女の悲嘆と絶望を。

 だが獲物はまわりにあふれていても、道端で食らうわけにはいかない。裏道にも人の気配が複数ある。あてども無く迷路のような道をたどるうち、四角く狭い庭に踏み込んでいた。

 見上げると窓に幾つか明りが灯っている。教本を照らすトマろうそくの控えめな光。繰り返し読む小さな声。書き写すことで暗記を試みている気配。テンプルの選抜試験は二ヶ月後、か。

 安普請のこの建物は引退した教育官の持ち物。細かく区切られた貸間に住むのは、試験に挑む若者ばかりのようだ。
 大抵は相部屋だが……三階右手の部屋の主は、少し裕福そうだ。本や衣類が積みあがった狭い部屋をひとりで占有している。

 壁の薄さは気になるが、悲鳴さえ封じれば少しくらい乱暴に事を運んでも疑われないだろう。壁のキズ。散らばった本の潰れたカド。部屋の主は行き詰ると物に当たるクセがあるようだ。

 幸い、訪ねてくる友人もいない。キニルに滞在する間、毛布をかぶった若者は安全な提供者になってくれる。

 とがめるようなドルクの視線を背中に感じながら、きしまないように階段を上る。せまい廊下をたどり、薄い扉を軽く叩いた。

「ジャマするなと言ってるだろ」
 壁にぶつかる本。立ち上がり二歩で扉に手をかけ、開けると同時に彼は怒鳴った。
「お前らと付き合ってると、バカがうつるんだよ」

 知り合いでは無いと気付いて、何やら謝罪を呟く口を手でふさいだ。足元の本の山を蹴り崩しながら壁に押し付けて首を噛む。後ろでドルクが扉を閉め、見張りを始める気配を感じた。

 数口ばかり味わう間に呪縛をかける。

 他者との比較から生まれる強い恐れと、根拠の無い自信と高揚感が混ざり合う、不安定な若い心。
 あなたは優秀だと甘くささやき、たわめて丸めながら、手こずっていた幾つかの言葉と概念を刷り込む。

 なかば物置棚と化している壁の寝台に寝かせて部屋を出たときには、気分は治っていた。無言のドルクに笑みかけ、階段の踊り場まで跳び降りてみせる。
 暗い小路を戻りながら、若者の血がもたらした高揚感に温かく酔う。

 だが、不意の脱力感に足が止まった。首筋の甘やかな疼痛。頭頂に弾ける多幸感。全身から精がほとばしるかのような果ての見えない快楽。寒さと死の予感に震えながら思い出した。

 昔、ひとりの贄を父やネリィと共有した時に、近い感覚を味わった。
 しもべにした人間を、別のヴァンパイアに奪われようとしている。

「どうかなさいましたか」
「しもべを、横取りされた」
 急いで駆け戻る途中、不遜なほどに自信家だった孤独な若者の意識が永久に途切れた。

 喪失感にしばらく立ち尽くした。
 やがて怒りが胸に湧き上がってきた。
 あまりに非道で礼儀知らずな同族を、引き裂いてやりたい衝動にかられる。

 人とは違う気配が窓から中庭に飛び降り、こちらへゆっくりと近づいてくるのを感じた。
 姿を現したのは巻き毛の男。暗赤色の上着のエリに指を滑らせながら、赤い唇に小ばかにしたような笑みを浮かべていた。

「北の果てからキニルまで、遠方はるばるご苦労さん。だが、ここはイナカ者には暮らしにくい街だ。でもって下町はオレの狩場だ。痛い目を見たくなかったら、とっとと帰りな」


 転化する前から、シャルは夜に生きていた。父親はわからない。母親は薬酒と病気が頭にまわって死んだ。乳をくれたのは妹分の浮かれ女。亡くした娘の服を着せられたシャルは、客が来ると犬と一緒に追い出された。

 酒場で残飯をもらうために客引きをした。ヒモのマネゴトや、サイコロのイカサマもした。義兄弟になってくれたゴロツキの手下をやってた時、サグレス司祭に出合って、侍童になった。

 学は無くても、ケンカと強請《ゆす》りは得意だ。サグレス司祭を邪魔するヤツは、殴って脅して黙らせる。
 捨て犬みたいなオレにだって恩返しはできる。

 シャルが生きる目的を見つけた時、サグレス司祭は消えてしまった。庇護者を失ったシャルは、キニルの街に放り出された。

 再会したのは、ひと月後。ヤケになってボコられた夜の路地。
 サグレス様の口づけを受けて、シャルは吸血鬼になった。太陽にも真っ当な暮らしにも、未練はなかった。

 シャルの闇の親、サグレス様が欲しがるのは、力を感じる学生。今夜の捧げ者を物色していた時、銀髪のヨソ者を見つけた。

 心話が通じない。
 ニオイも違う。
 サグレス様が転化させた吸血鬼じゃない。サグレス様の始祖、バックス様の血族でもない。

 気配も消せないドシロウト。シャルの尾行にも気付かないマヌケ野郎。氷とぬかるみの森にはびこる山賊《バンデット》や、バカで大柄な浮かれ女と同じ、薄い色の髪と肌。

 湖の向こう、ホワイトロックから出て来たイナカ者の分際で、オレよりイイ服を着てるなんて生意気だ。偉そうに背筋を伸ばして歩くのもカンに触る。
 ここはオレのナワバリだ。

 だから、一番ムカつく事をしてやった。

「なぜ、殺した」
「オレの言ったこと、わかんなかったか。
悪い悪い、キニル育ちで早口なんだ。イナカ者にも分かるように、ゆっくり言ってやるよ」

 後ろから腕を引っ張ってるヒゲのオッサンは、昼の寝所を守る生者の用心棒か。
「その者はおそらくテンプルの……ここは、お引きください」
 素直に言うこと聞いとけばケガしねぇのに、振り払ってやんの。バカだねぇ。

「この町はオレのナワバリだ。ここの学生はオレのものだ。お前はオレのものを盗った。奪い返して何が悪い?」

 挑発したら突っ込んできやがった。軽く足を出したら、見事にすっ転んでくれた。
 銀色の頭を踏みつけて、肩をヒザで押さえ込む。ドレープが出来るほど上等な布をたっぷり使ったマントも生意気だ。

「イナカ者にしちゃシャレたモン着てるじゃないか。どうせ似た背格好の金持ち殺して盗ったんだろう?」
 悔しそうなツラを踏みにじる。キバが下唇に刺さって痛いはずだ。
「てめーの血は、どうだ? 腐れて飲めたモンじゃねえか」

(すみま……せん)
 体の奥から声がした。心話にしては小さくてハッキリしない。そっか、さっき飲んだ血を介して送ってるのか。

(お金……さしあげます。それで……)
 怯えた灰色の眼。こびをうる負け犬の目。
「最初っから、素直にはいつくばってワビ入れてりゃ良かったんだよ」
 足をどけてやった。

 一握り分の銀貨と金貨がつまった皮袋の重さに、シャルは満足した。
「なぁ、お前の闇の親も、ホワイトロック城の地下を抜けて来たんだろ? ったく、ひでぇ事するよなぁ」
 白い顔に笑みが浮かんだ。愛想笑い……いや、違う。獲物をし止めたような、場違いな笑い方。

 だから最後に、形のいい鼻を蹴り潰してやった。
「もういい、とっととうせろ」
 すぐに治るだろうが、鼻血を垂らしながら通りを歩くヤサ男は見モノだ。日ごろ食い物にしてる人間に、笑いものにされる吸血鬼はユカイだ。


「それで、つけてったら……アイツ、孔雀亭《クジャクてい》に入っていったんですよ。生意気で小シャクで不釣り合いで役不足です」
 地下水道の奥、印刷所跡でシャルはまくしたてた。

「お前が今宵の供物を持って来なんだ言い訳は、それで終わりか?」
 サグレス様の言葉に、うつむいた。義務を果たした他の闇の子たちのあざけりが痛い。

 昔、テンプルが秘密結社だった頃、使われていた地下の活動拠点。それがサグレスを頭と頂くシャル達の隠れ家だった。シャルたちが昼間眠る乾いた部屋は、吸血鬼を倒す武具を開発していた鍛冶場らしい。

 ここで教宣ビラや読売りを印刷していた時に、手入れを受けて大勢殺されて逮捕されて、ここは放棄された。でも、今のシャルには関係ない。サグレス様の不機嫌こそが問題だ。

「明日の夜は必ず」
「宵にしこたま飲んだのであれば、宴に参加する必要もなかろう。もう休め」
 優越感に満ちた二十四の眼に押されるように寝所へ向かう。

「金さえ払えば卑しき者も泊めるとは……格式を重んじる孔雀亭も落ちたものよな」
 青ざめた娘を抱き寄せながら、つぶやくサグレス様の声には、どこか懐かしそうな響きがあった。生者だったころ、泊まられたのかもしれない。

 そうだ今度、生意気なヤツの部屋に押しかけて、部屋付きの女中を噛んでやろう。宿の者にヤツが犯人だと言いつけよう。正体がバレたと、身のハメツだと、ビビって泣き出す白い顔が目に浮かんだ。
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4.孔雀亭


 なんで目を覚ましたんだろう。
 ティアは燭台《しょくだい》を見つめた。ロウソクは三分の二の長さ。真夜中は過ぎてる。隣の主寝室や控え室に気配はない。あいつら、まだ街をほっつき歩いてんのか。

 重いベッドカバーから静かに足を出す。緑の絹に金の縫い取り。本物のクジャクも嫌いだけど、この宿のしつらえや家具も、ハデで重々しくて気に入らない。寝室が扇子《せんす》みたいにつながる間取りはイカガワシイ。

 ブーツを脱がず服のまま寝るのにも慣れた。肌着で寝ていられたのは、父親の元で過ごしていた子供の頃。油断のならない道中は服のまま休んだ。テンプルの寮では、すぐに動ける格好で浅く眠るよう仕込まれた。すぐ異常に対処できるように。

 天蓋を支える黒い毒蛇の柱。立てかけたスタッフに手を伸ばす。握ると頭も体も澄みわたる。

 この続き部屋専用の階段を上がって来る、かすかな気配はひとつ。マクラをベットに突っ込んでふくらみ作るのは間に合わない。
 だったら、出会いがしらに一発ブチかます。

 扉の横でスタッフを振り上げた。そのまま呼吸を整え、心を静め、空気と壁に同化する。

「起きてるよなぁ、ティーアー」
 間の抜けた声がした。
 あけると、モリス高司祭がニヤけてた。

「女の部屋に入ると誤解されちゃう時間だと思いますけどぉ」
「仕方ねぇだろ。この程度の宿、キニルに何軒あると思う? 一軒ずつ訪ねてオドして買収して……これでも早いぐらいだ」
 勝手にイスに座ったモリスが、ブーツを脱ぎ足をもむ。

 ニオイに思わず立ち上がった。ごまかしついでに一本だけだったロウソクの火を、他のロウソクやランプに移した。カーテンと鎧戸を開け、ガラス窓だけ閉めた。これで外からでも異常に気づくはず。

「実はなぁ、地下からバックスが逃げてな」
 モルに連れてかれた地下で見た、白ヒゲの老吸血鬼。不治の病にかかって、治療薬を求めて旅立ったはずの元司教。目隠しされて、足首と法服の白い袖を、銀のナイフで貫かれ壁に縫いつけられてた。

 タマゴを腹にかかえたまま標本にされた、太ったガに見えた。ここ数年間の吸血鬼騒動の元凶。モルの手柄と出世の種。
 あれって“試し”だったのかな。あたしがモルの秘密を知っても騒がないかどうかの。

 あの頃はアレフを倒すことしか考えてなかった。あんなジジイがどうなろうと、知ったこっちゃ無かった。

「森の大陸に落ちのびたのは、まだ薬草の事が頭にあったのかも知れねぇが」
 不意にモリスが黙り込んだ。階段をあがってくるかすかな物音。気配を隠そうともしてない。

「危機感のねぇお坊ちゃん育ちを警護すんのは大変だよなぁ。お互い様だけどよ」
「あたしも一応、お嬢様なんですけどぉ」
「“育ち”だよ。お坊ちゃん生まれとは普通言わねぇ」
 納得させられてしまった。

 手招きされるまま、クジャク石のテーブル挟んでモリスの前に座る。
「でな、救出したのはバックスの弟子なんだが……そいつがキニルの地下で血族集団を作ってんだよ。あんたんトコのと面倒おこすと、色々となぁ」

「テンプルのお膝元でヴァンパイアが勢力争いはじめちゃ、メンボク丸つぶれだもんね。でも、あたしらが何でキニルまで来たか……ルーシャの報告書で知ってるよね」

 口ひげがヒクついた。声を出さずに笑ってる。
「モルを森の大陸に派遣する。シリルで厄介事を起こしてるバックスの討伐な」

 モルがテンプルを……始原の島を出る。だったら橋を渡りたくないとゴネてた二人も、文句言わないはず。
 心が高ぶった。

「いつ出立するの」
「支度金ふんだくって夕方にゃ出ていっちまったよ。正式な辞令とか広報とかの手続きは、明日からなんだけどな」
 モリスが肩をすくめて立ち上がる。

 朝イチから旅立ちの準備を始めても丸一日の遅れ。海路、山越え、遠回りだけど平坦な陸路。森の大陸へ向かう道は一つじゃない。途中で追いつくのが理想だけど、港で待ち伏せって手もある。

「時々は手紙だして、生きてるかどうかくらい知らせろよな。オレは帰って浴場で足伸ばして、明日は一日中寝さしてもらう」
 アクビと伸びを同時にしてるモリスの先回りをして、扉を開けた。

 居間の暖炉に火が入り、シャンデリアのロウソクが灯ってた。
「計算が合わないんだが」
 ひと繋がりの部屋から階段に通じる、たった一つの出口を、腕組みしたアレフがふさいでた。


 青金石のタイルと、濃紺の家具をかざる金だか黄銅だかに映る灯火。火打石の音や火炎呪の詠唱を、モリスは聞いてない。
 呪なしに精霊術を使うってぇ報告はマジだったか。

 そして……こいつが、ファラがいつくしんだ屍人形《しかばねにんぎょう》。
 闇に映える銀髪。白い頬に生々しいバラ色。アニーを貪った後、街でも人を喰いやがったな。

 暗緑色の腰紐にたばさんだ、銀の小刀に右手をかけた。
「オレが一等きらいなモノ教えてやろうか。血色のいいヴァンパイアだよ」

「私を見逃せという手紙を送ったのは、貴方の上司でしたね」
 小賢しい。こっちが手を出せないと思って余裕かましてやがる。

「ああ、そうだよ。お前は世の中にはびこってる吸血鬼の親。最後の始祖だ。夜明け後の世界に残る闇のトゲ。悪の根源……ってコトになってるな」
 不本意そうなムクレ顔。けど、怒りはしねえか。永く生き過ぎて感情が磨り減っちまってんのかな。

「お前を滅ぼした者は、三十年ばかり空位になってる大司教に祭り上げられる。明日の世界を手に入れる。俺は、そんな重荷なんざゴメンだからな」

 ティアの肩を叩いて退かす。さて、部屋の境界に立ってたこの娘は、どっちを守ってるつもりだったのかな。俺かあいつか、両方か。

「だから滅ぼしたりゃしねえよ。けど、目や鼻をえぐられたくなかったら、今夜どこのどいつを襲ったか言え。施療院に収容する。それとも飲み尽くしたか? なら遺体を」
「……殺されました」
 殺したではなく、殺された……か。もう、サグレス一派と接触したか。

「情けねぇなぁ。末端の吸血鬼から、てめえのしもべ一人守れないのか。始祖のくせに」
 だが周囲に不穏な感触はない。つまらん意地やプライドの為に殺し合うより、折れて平穏を取ったか。ジジイらしい消極的な判断だ。

「無断で領界を侵したのは私の方です。位階の上下は関係ない」
 なるほど、旧時代の太守はイタズラに騒乱を招くことを好まず、新入り相手でも秩序を重んじるか。

「彼を、焼くのですか」
「炎による浄化だ。転化する前に人として逝かせる」
 嫌そうに呟いた共同宿舎と学生の名を記憶に留める。
 メンターの言うとおり、一歩間違えば世界を滅ぼしかねない元司祭どもより、カタキ役として使い勝手はいい。

「こちらが答えた以上、あなたにもひとつ答えていただきたい。彼らは氏族を形成していた。モルを本山から出すために、昨日今日、逃がしたとは思えない。彼らの始祖がシリルに居るとすれば、少なくとも」

「計算が合わないか」
 バックスが逃亡したのは、どう考えても一年ほど前。おそらくモルが東大陸討伐に出た直後。だが今日までメンターは隠し続けた。理由は宿めぐりしているうちにわかった。

「お前かオヤジさんか……どっちでもいいから、モルかティアが滅ぼすのを待って、討伐隊を緊急に呼び戻すための口実だ。
 広報して金を集めて、反対する連中を説得して無理を通してやった東大陸討伐だ。成果ナシじゃ格好つかないだろ」
 さすがに顔がこわばったか。

「けど、最後の太守をモルに殺らせるワケにもいかない。血の呪縛と闇の専横がまかり通っていた昔と違って、こちとら上位の者の命令は絶対じゃない。討伐を中断させるにも、誰もが納得できる理由が要るんだよ」
 問責されたら……だがな。

 それと、明日から始まる読売と人形芝居による教宣用の筋書きにも、納得できる口実が要る。

「そうだ、ティアに血をやってチコとかいうガキの呪縛を解かせたろ。お前が昨日の朝噛んだ、アニーの解呪用に血をくれたら、一つ大事なことを教えてやるよ」

「触媒は必要ない。始原の島を包む結界に阻まれて心話も通じない。体力と精神力が回復すれば、いずれ血の呪縛は解けます」
 つまりアニー以外の犠牲者は呪いの根源が本山の地下にいて、呪縛し続けた後遺症が残っているって事か。あるいはバックス以外にも作られた始祖が、まだ地下にいるのかも知れない。

 まあいいや。
 拒絶するように握られている白い手に触れた。肌が接触すれば、心を読ませることが出来たはずだ。

(なぜティアがお前を滅ぼさないか分かるか。師匠に暗示をかけられてるからだ。お前を滅ぼしそうになったら発動する。そして一定の条件下で解けちまう。せいぜい気をつけるこった)

(その条件は?)
 へえ、通じるもんだねぇ。

 白く冷たい手を離して、横をすり抜け扉を開ける。
「そいつは教えられねえ」
 モリスは捨てゼリフを部屋に残して扉を閉め、暗い階段を駆け下りた。


 碧く輝くクジャクの羽。ペンが文字を生み出すたびに揺れる目玉模様に視線が奪われる。確かにいい邪眼よけだ。宿泊費の受け取りを書く亭主の顔から、アレフは目を逸らした。

「選抜試験当日まで、当館をご利用いただけるものと思っておりましたのに、残念です」
 孔雀亭は敵対する夜の氏族と、テンプルに知られている。落ち着いて昼を過ごせない。

「すみません。ゆうべ訪ねてきた伯父が、どうしても紹介した宿にしろと」
 あの言いたい放題の司祭。貧相な外見に似合わぬ神経を逆なでする不遜な態度。せめて口実として使わせてもらおう。
 
 インクが乾くのを待ちながら、紗布ごしに射す朝日に目を細める。亭主の表だけ丁重な態度も気に食わない。昨日はアレフの髪と肌を見て、野良犬でも追うような手つきで追い出そうとした。

 老練なポーターが上客だと耳打ちし、このサロンに通された後も、金貨を見せ一泊分を先払いすると言うまで、腕組みを解かなかった。今も、身をひさいで金と支援者を得たか、強請を常習とするならず者の同類と見下しているようだ。

 亭主がにらむ通り、モリスは本当の伯父ではない。それに容姿でファラ様の気を引き、今の立場を得たのも真実。だが、やっかみ混じりの悪口も、四百年ばかり聞いていればさすがに慣れる。

 それにしても、花街と笑い女達への蔑視はひどい。かつては洗練と典雅を極め、夜の貴婦人として憧れと尊敬を得ていたように思う。この程度の宿、よほど過激な衣装でない限り、門前払いなどされなかったはず。

 “夜明け”後、不平等と贅沢は悪徳だと説く教会の元で、妓館は壊され花街は湖岸に押し込められ、卑しき事とされたらしい。街では他の職に就き難い、固定化されたヒトの白変種……白夜の民への風当たりも冷たくなっているようだ。

 この街を形作る木材や、煮炊きにつかう薪は、彼らの白い手で切り出され、湖を渡って来たものだろうに。

「立たれる前に、クリームと砂糖をたっぷり入れた香茶はいかがですか? 茶葉はシリル産の一級品。紅い水色《すいしょく》が美しい」
「遠慮しておきます」
 心にもないことを。朝食に向かう他の泊り客たちの、目配せとささやきに気付いてないとでも?

 人を装うために座った遅い昼食の席で、露骨な咳払いと給仕への抗議に、部屋へ追い立てられたのは、つい昨日のことだ。食いっぱぐれたティアのために料理を運ばせ、余分な心づけを払うはめになった。それに部屋で食事を取る演技をしても意味が無い。結局、ドルクと二人で街に出てしまった。

 乾いた領収書の金額を確認し、横のイスにかけていたマントに手を伸ばした。旅馬車を手に入れたドルクが、こちらへ戻ってくるのを感じる。市場で買い物をしているティアを拾ったら、どこかの宿で昼を過ごし、日が暮れる頃にはキニルを出る。

 だが、これほどキニル滞在が短いとは思わなかった。

 選抜試験までとは言わないが、ひと月くらいは滞在するつもりだった。昔から始元の島には招かれざるものを拒む強力な結界が巡らされている。仇がかつてのセントアイランド城に入ってしまっているなら、出てくるまで待つより手がない。

 まさか昨日のうちに、この街から出ていたとは……

 立ち上がった時、潜めた声と繰り返し向けられる視線に警戒を覚えた。数羽の孔雀が木に止まるタペストリー。その前に佇む二人組みの男。一人はメモをとり、もう一人が指をさしている。見張りだとすれば、まく方法を考えねばならない。

 不審そうに見上げる亭主を意識しながら、目を閉じ読心の見えざる手を伸ばす。

 すぐに、笑いがこぼれた。片方は酔狂な若者で、もう片方は仕立て屋。昨日の昼に見かけた、この黒衣がいたくお気に召したらしい。似た感じのを作れと無理難題を吹っかけたようだが……丈が合うなら交換してやりたいぐらいだ。

 キニルでの滞在中に、旅装を新調する予定だった。着心地には全く不満は無い。ただ、あまりにも己に合いすぎる衣装は、隠しておきたい本性をさらけだす。

 だから余計な注目と疑いを招く闇と血の色を脱ぎ捨て、灰色か茶の、少しヤボで目立たぬ旅装に改めるつもりだった。

 クリムだったか。バフルを出るとか言っていた、あの仕立て屋。おそらく気付いていたはずだ。所領を捨て全てから逃れようとしていた私の弱さに。

 己自身から逃れられる場所などないと、非難と警告が縫い目に込められた黒衣。
 不本意だが、これからも付き合うことになりそうだ。
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5.聖光


 白い柱とアーチに支えられた透明な天井。モリスが見上げた青空は湯気でけぶっていた。百人が一度に入れそうな浅い円形の湯舟に身を浸し、古傷が残るふくらはぎを揉む。たぶん明日、痛みが来る。

 広い湯殿は光と温かさで満ちている。壁と床を幾何学模様で埋めるタイルは永遠を幻視させる。地下深くから絶え間なく吹き出す温水とナツメヤシが、ここを楽園だと錯覚させる。

 頬のかすり傷に手を当てた。孔雀亭の階段下にいたヒゲ野郎、本気で切りつけてきやがった。まったく、夜中に吸血鬼の棲み家なんぞ訪ねるもんじゃない。命がいくつあっても足りゃしない。

 いや、ここホーリーテンプルも似たようなものか。地下には実験で作られた魔物。地上は民から膏血を搾り取る法服を着た化け物だらけ。最奥《さいおう》は深い闇に沈み手を伸ばしても届かない。

 数千年の昔から変わらぬ白さを保つこの建物も謎だらけだ。
 軽くて割れない天井の素材は不明。石に見えるが継ぎ目のない柱の素性も分からない。ヒビがなく水垢のつかない湯船の作り方もよくわからない。

 ホーリーテンプルに来たばかりの無知な学生どもは、ここを女王の湯浴み所だと騒ぎ、偉くなった気分でふんぞり返る。モリスもそうだった。カン違いを正してくれたのはメンターだ。

「確かにここは、闇の女王のために作られた大切な施設だよ。だけどヴァンパイアは水が苦手だ。汗をかくことはないし垢も出ない。風呂には入らない。では誰のための浴場だと思う」

 答えが分かった時、あいつの謎かけに潜む底意地の悪さを思い知った。

 ここはファラに血を吸われる人間が最後に身を清めるための浴場。死に怯える若者や我が身を哀れんですすり泣く娘が、悲壮な覚悟もって未来を諦めた場所。はたして何万人いや何十万人が、この湯船で最後の安らぎを見出し、闇に飲まれていったか。

 それを考えるようになってから、広い湯船に浸かるたび、モリスは台所で大量に洗われているイモの気分を味わうようになった。まったく余計なことをしてくれる。

 闇の女王は数年に一度は吸血鬼どもを集めて、会合と称する宴を主催していた。風呂場が広いのはそれだけ大勢の人間が一度に召し上げられた日もあったという事か。

 アレフも宴に招待されていたはず。ここで体を清めた人間で喉をうるおしていたわけだ。無性に腹が立ってきた。あの白い顔をアザだらけにしてやりたい。

 手にすくった湯を顔に叩きつけ、モリスは冷浴槽に向かった。水風呂で体と心を引き締め、乱暴に体を拭く。法服にソデを通し、しめった髪とヒゲを風になぶらせながら、寮と宿坊の間を早足で抜ける。
 どうせここらも昔は、生贄や下僕が使っていたんだろう。

 七聖の像が見守る工房は新しく建てられたものだが、図書館は蔵書も含めて昔のまま。授業が行われている講義室も古い建物だ。昔は行政に使われていたのか、客室だったのかは分からないが。

 かすかに歌が聞こえてきた。そろそろ太陽の南中時間。夜明け前は宴のための広間だったという壮麗な礼拝堂では、一般向けの講話が行われている頃。

 覗くと、美声と黒ヒゲが自慢のレオニード高司祭が、壇上で開祖モルの栄光を語っていた。見習いの少年や聖女候補の合唱に乗せ、抑揚をつけ感情を込めて語る偉業に、うっとりと聞きほれているのは繁殖期の雄鳥のように着飾った金持ちども。

「苦難の中にこそ光ありて、失いし二つのかいなは七人の使徒に生まれ変わりぬ。

 闇の濃き時はすなわち夜明けの兆しにて、立ち上がりし御足の元より暁の光は生まれ、やがて世を照らす太陽の力強き輝きと変われり。

 そは心の中の太陽、光の子たる我ら人の本性であり知恵の本質なり。

 闇を討ち払い全ての人に夜明けの福音を告げる御言葉は光そのものなり。

 命の盗人にすぎぬ魔物を畏れるは蒙昧の闇ゆえの事。
 明けない夜はなく、人の造りしものは人の手により討ち破られん」

 天上から差し込む数十条の光を、壁に埋め込まれた半貴石が虹の輝きに変えて反射し、壇上に立つ者の背後に光輪を生む。白い法服が眩しいほどの輝きを帯びる。高まる歌声に包まれてレオニードはますます尊大に胸をそらす。

 陽光を巧みに取り入れる構造は夜に生きる魔物が作ったものとはとても思えない。それとも連中は月光の元でも同じ光彩が見られる目を持っていたのだろうか。

 見物を終えたモリスは副司教長室へ向かった。途中、最上階を占めるマルラウ司教長室を見上げる。

 マルラウもモリスと同期だった。高司祭だった頃から、メンターとマルラウはモル大司教の後継者争いをやっていた。人望も能力もマルラウよりメンターの方が上だった。

 だが、大司教の遺言でマルラウが司教長となりメンターは副司祭長に納まった。おかげで、テンプルはふたつの派閥が合い争う、なんとも居心地の悪い場所になった。世界に夜明けをもたらし英雄と呼ばれた偉人も、死ぬ前はモウロクしてたって事か。

 高位の職は基本的に終身だ。マルラウが死ぬまでメンターは司教長にはなれない。二人は同い年だ。同時に老いる。

 そして今、マルラウは若いモル司祭の言いなりになっている。もう誰もマルラウ派や司教長派とは言わない。連中はモル派だ。そう呼ばれるようになってから、全てがメンターの不利に回り始めた。

 どうも森の大陸から来た金髪の司祭は得体が知れない。白い肌色への偏見でガキの時から苦労して屈折しているせいかと思っていたが、昨日、それは違うと感じた。外見や年齢はヤツの一部ですらない気がする。

 近しい印象を覚えたのは、昨夜の吸血鬼。いや、あいつは外見や年齢を意識してないだけで分かり易いか。一点だけ疑問は覚えているが、それ以外は底の浅い苦労知らずで素直なガキに見えた。

 疑問も、報告がてらメンターに聞けば解けてしまいそうな気がする。
 階段を登り終えたところで息を整え、モリスはメンターの執務室に向かった。

 モリスが招き入れられた副司教長室の控えの間には、甘く香ばしい匂いが充満していた。
「大変だな。食ってる間も仕事してるような師匠に仕えるのは」

 一口大に切ったチーズや塩ゆで肉を、炙った薄焼きパンの欠片にのせ、短い串で刺すという手間のかかる作業に忙殺されている少年をねぎらう。ついでに、蜜の入ったリンゴを一切れつまんだ。

 抗議したそうなミュールの口に、リンゴのカケラを押し込んでから、樫の扉をノックする。

「お入りミュール。もう昼食の時間かな」
「残念ながら、昼メシはまだ準備中」

 一度は上げた視線を、メンターはすぐに書類に戻した。
「明け方、お前が詰め所の騎士達に運ばせた死体。エブランの末息子だったよ」
 寝床からずりおちた状態で、喉を食い破られていた若者。至福の笑みを浮かべたまま硬直した顔が浮かんできて、ため息を誘う。

「売りゃあ当分遊んで暮らせるぐらい本が散らばってたから、イイとこのガキだとは思ってたが。ウルサイご親戚さんのご子息とはご愁傷さま……で、焼きましたか」
 書類を置いたメンターが眉間をもみほぐす。

「布に包んで荷馬車に乗せて橋にさしかかったところで……急にもがきだして灰になったそうだ」
「人として送りたかったが、転化してたか」
 サグレスの腐れ野郎、際限なく吸血鬼を増やしてどうする。

「また嘆願書が来る。東大陸を再討伐をしろと」
「居ないモノをどうやって……」
「寄付金もついてくるだろうがね」
 若い命を悲劇で飾って金に換えるテンプルも、若い命を貪って老人が我が世の春を歌うという点で、吸血鬼どもと大差ない気がしてきた。

「ティアは元気だったかね」
「それはもう。モルがシリルへ向かったと言ったとたん、目ぇ輝かせてました。それと、ダイアナが言うとおり噛まれてなかった」
 優しくゆるむ目元に、少しほっとした。弟子への思いやりが芝居でないなら、この腹黒い昔馴染みに命預ける価値はある。

「確かかね」
「俺には背を向けても、ヤツには背を向けなかったし」
「居たのか……よく無事で」
「サグレスの弟子とやりあったらしく夜明け前に」軽く傷に触れた「獲物を横取りされて、尻尾巻いて逃げ戻ってきやがった」

「別の血族に噛まれた場合、支配関係や絆がどうなるか、いい検証材料になったと考えると、今朝の灰化は惜しいな」
「ダイアナも回復すれば呪縛が解けちまうらしい。始原の島には心話も通じないと」

「では、彼女に催眠をかけての動向の監視も無理か」
「そんなこと、企んでたんかい」
「それに血の絆による選抜試験の不正も無理のようだね」
 これは、冗談として笑うべきかな。

 ノックの音がして、ミュールが盆を机に置いて一礼して出ていった。片手で摘める昼食は、楽そうだが気ぜわしい。
「読みながら飯食うと胃が痛くならねぇか」
「夕方からは、森の大陸への進発式。それまでに判断するべきものが、この厚さだ」

「華やかな式典は司教長《おかざり》でいいだろ」
「モルが立ってから、杯《さかずき》片手に煙管《キセル》くわえて、寝室で聖女見習い相手に個人教授。出てきやしない」
「昨日の今日でか。ひどくなってねぇか」
「あと暫らくの事だ。大目に見てやってくれ」

 まるで犠牲の王だ。一年後に殺される代わりに、好き勝手を許された者。モルが完全な夜明けをもたらした時、おそらくマルラウは死ぬのだろう。表向きは病死か事故死か。

「ところで、ティアが噛まれないうちに、連れ戻さなくていいんか」
「……モリスはティアと深い仲になりたいと思うかね?」
「遠慮するかな。接吻ひとつで財産全部もってかれそうだ」
 黙っていれば愛らしい唇だ。しかし、つむぐ言葉は毒を含み、舌や唇を噛み千切られそうなキケンを感じる。

「体で結ばれた絆より、血の絆は深くて恐ろしかろうよ。心と心を結んだら最後、財産どころか正気をもっていかれる」
「弱み見せたくないがために厳格な禁欲生活つづけてるお方が、聞いた風なことをおっしゃいますねぇ」

「ティアは炎だよ。見ている分には熱く美しく魅惑的だが、じかに触れれば身を焼き滅ぼす」
 触んなくても、十分まわりはヤケドしている。だが、メンターにとっては、あの程度の裏切りは、ちょいと熱い程度らしい。
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6.祭り事


 大勢の人が集まっている重い気配。嵐が近づいて来るような、心かき乱すざわめき。陽光を締め出した寝室で、夢からうつつへと意識が浮かび上がっていく。

 覚醒するまでの短い間に、アレフは遠い過去を垣間見ていた。

 街を彩る花と布。ひとでを見越して並ぶ串焼きの屋台。ふるまい酒に酔う人々。鼓手と楽師が繰り返す音曲に合わせて、夜中まで踊る男女の群れ。

 キニルの事務所へ回させた小ぶりな貸し馬車。花街の宿へ向かった折に黒い紗布ごしに眺めていた光景。ムチと手綱をふるうドルクの背中が闇に溶けている。灯火では照らしきれない暗い夜。生身だった頃の最後の記憶。

「まったく連中の気が知れない。ヘビの誕生を祝って歌うカエルなんて滑稽。新しいネコに乾杯するネズミがいたら大笑い」

 赤い髪に緑の耳飾り。眼の色に合わせたルリ色の衣を、しどけなくまとった女が窓辺で笑う。身を明かさぬ偽名の客を、からかう視線。
 祝われている当人だとは知らなくとも、橋の向こう側に属する者だと、知った上での戯れごと。

 転化して初めてファラ様に与えられたのが、赤毛の娘だったのは、偶然ではないだろう。最後の夜の事を読み取って、好みに合う者を手配した。他意はないはず。

 苦界に身を沈めた姉を、血の対価で救おうとした娘。加減できず命まで奪ってしまった初めての贄。ネイラの妹とは限らない。単なる偶然にすぎない。似た境遇にいる娘が幾人この街にいるか。

 意図せず赤毛の姉妹に招いたかもしれない悲劇。血の対価に上乗せした命の対価は、ファラ様のしもべの手で届けられ、当時も確かめる術は無かった。

 真実は時の彼方にまぎれた。身内を奪われた者の嘆きが、恐れと共に幻聴となって心にこだまする。

 思い出すことも厭《いと》っていた後悔。鮮やかに蘇るのはかつての花街に近い宿にいるせいか。それとも向き合う強さを得られた証だろうか。
 単に繰り返してきた罪に慣れ、時の中で恐れる気持ちが薄れてしまっただけだろうか。

 天井から下がるビロードの布を振るわせる歓声は、ファラ様を讃えるものではない。ウェゲナー家を祝福するものでもない。

 繰り返される名は『モル・ヴォイド・アルシャー』。とうに街を出て東に向かった討伐隊を指揮する、英雄の名を人々は叫んでいる。

「お目覚めですか」
 寝台から下りた背中に、ドルクが上着を着せ掛ける。鼻をつくインクの匂いとともに紙質の悪いチラシが差し出された。

 耳ざわりのよい形容詞を連ねながら、森の大陸での悲劇とモル司祭の勝利を決め付ける読売り。スミに小さく書かれた寄付金という名の新たな税の導入がサギに見える。

「紙質もひどいですが、内容もひどいものです。昔はもう少し骨のある、小癪《こしゃく》な読み物でしたが」
「……かつての我々も、同じくらい思い上がっていたのかも知れないな。周囲から聞こえるのは、おもねった美辞麗句ばかりだった」

 苦笑しながらルナリングをはめ、陽光をやわらげる結界をめぐらせる。マントを羽織ったとき、あわただしく階段を駆け上がる足音とともに、ノックもなしに扉が開いた。

「ね、ちょうど下を通ってるの。窓開けていい?」
返事を待たずにティアがカーテンを払い、窓を上げ、鎧戸を押し開く。差し込む夕日に、かりそめの夜が吹き払われた。

 窓から身を乗り出す蜜色の髪のかたわらに立つために、フードを目深に下ろす。

 下の大通りを人が埋めていた。
 見渡す限り沿道に集まり背伸びする頭。振りまかれる花びらと紙片。白馬に乗った先触れの騎士に続く、銀ヨロイの剣士の列。太鼓とラッパからなる楽団。

 その後ろに、タテガミと尾を紐で飾りたてた白馬に乗って手を振る、灰色の法服たちと拳士の一群。中央の金髪の若者に向かって人々は手を振り、武運を祈っているが……カツラか。

「やっぱニセモノか。本物だったらここから突風のひとつもブチかましてやったのに」
「人ごみのただなかで攻撃呪を使うつもりか?」
 目にゴミが入る程度で済めばいいが、無秩序な混乱が起きれば、見物人に肩車されている幼児や、足元のおぼつかない老人が、大勢に踏まれて死ぬかもしれない。

 これから本物のモルを追う事になるが、出来ればひとけのない、街道で追いつきたいと密かに願った。宿を襲撃するような事態になれば、死人が何人出るかわからない。

 それにしても、なんと膨大な人の数と歓呼の声か。
 祝福や呪詛の声ひとつなく、バフルに迎え入れられた己との違いに目まいを覚える。都市の規模が違いすぎるとはいえ、うごめく頭のじゅうたんに、酔いそうになった。

「かつては、こうして見る側ではなく、見られる側だったのでございましょう?」
 ドルクのことばに、ティアが照れたようにうなづく。
「ハデなのは次の宿場町まで。あとはガックリするほど質素な旅だった」

「みな、若いな」
「テンプルは独身が条件だから。タテマエでは子供が出来たり結婚したら籍を離れることになってる。今でもね。
 そりゃ地方の教育官は所帯持ちもいるけど、ホーリーテンプルに入るときは係累を全て切るって誓約書を書かされた」

「不自然な禁欲は、身の毒だろうに」
「……あんたがそれを言うかな。昔は吸血鬼を滅ぼそうとする者は、家族もろとも死罪でしょ。幼子も例外なし。だから恋も結婚も基本は禁止。今となっちゃタテマエ以外の何ものでもないけどさ」

 昨夜、灯火の元で教本を読んでいた若者たちを見たときに覚えた哀しさを、再び感じた。
 不意に、彼らを哀れんでいたわけではないと気付いた。全てを賭けて私の滅び願う者に囲まれている事実が哀しかった。あれは投影した自己憐憫。

 世界に拒まれている孤独感を埋めるために、彼らのうち一人を篭絡し、絆を結んで安心を得たかったのか。実に的外れな欲望。無意味さに笑いがこみあげる。

 そのために死んだ……いや滅びてしまった若者こそが、真に哀れな存在だ。

 転化させておきながら、渇いて目覚める子のための贄を用意せず、日暮れ前に陽光さしこむ部屋に放置して立ち去った、シャルとかいった吸血鬼に対して、改めて怒りがこみ上げてきた。

 ひとりの血を共有したことによって、腹立たしい事に、わずかな絆がまだ感じられる。地上の賑わいをまどろみの中で聞いている、あの者の寝所は暗い下水の一角。古い教会の、廃棄されレンガで塞がれた抜け道の奥。かつての事務所の向かい隣。

 破滅まで望みはしないが、投げ文で潜む街区を示すくらいは、かまわないだろう。巡回が強化されれば、多少は慎み深くなるかも知れない。

 もっとも、彼らもテンプルの思惑で動かされる駒だとしたら……私同様、居場所も動向もおおよそだが知られているはず。今、読売りのウラに書こうとしている、筆跡をいつわった密告文は、余計なお世話か。

 進発したモルの身代わりを見送り、太鼓とラッパが遠ざかるにつれて熱と興味を失い、日常へと散っていく人々。見ているうちに、怒りも哀しみも平らかになっていく。

 結局、書き上げた文は、わずかな銅貨を握らせた子供に託して、車中に身を置いた。

 詰め所に届けられたとしても、ゴミ同然の紙に書かれた無記名の手紙など、無視されるのがオチ。
 届けず捨てられてもかまわない。偶然の連なりが、運命だ。


「私といるのが嫌なら、下りてもいいんですよ」
 皮肉混じりの高めの声。駅馬車の窓から、西の地平を見ていたラットルは、慌てて首をひっこめた。共に行くと決めた若者に愛想笑いをしてみせる。
 東大陸の時の様に、一人で残るのは避けたい。

 灰色の布を巻いた麦わら色の髪と眉。その下のあまり動かない茶色の眼をみると、なぜか全てを見透かされている気がして落ち着かない。相手は六つも年下。鼻にソバカスがうっすら残る、二十代の若造のはずなのに。

「今頃キニルじゃ、私らの身代わりが進発式に」
 眼を閉じれば一年前の熱狂が、心地よさと共に蘇る。
 広場と大通りを埋める数え切れない人の顔。空気を振るわせる大歓声と拍手。この世界の全てを見下ろしているかのような興奮と、面映い高揚感。
 この若者といれば、何度も味わえると思ったが……。

「ラットルはあんなものに興味があるのですか。メンターが金集めのために催すバカ騒ぎなんて、わずらわしいだけでしょう」
「でも、次の司教長が誰なのか、万民に知らしめるのは大事なことだと思いますし」
 お世辞のつもりだったが、答えたのは詰まらなそうなため息だった。

「司教長に大司教。役職なんてしょせん道具です。私が成そうとする事の助けにならないなら意味が無い。テンプルは金と知識と力を集めて私に提供してくれれば、それでいい」
 ご高説ごもっともと神妙にうなづいてはみるが、出世に興味がないとも聞こえる発言の真意は理解出来ない。

「まったく、森の大陸にゆかせたいなら、そう速文に書けば済む話です。バフルから船を出させれば、シリルまではたったの二ヶ月。わざわざ本山まで呼び寄せてからとは……副司教長の底意地の悪さは、害ばかりで益がない」

 不意の帰還命令。ついに司教長が暗殺でもされたかと、ラットルは勘ぐった。だからクインポートに自分が残るといってまで、モルの帰還をうながした。メンターに全てを掌握されたら、モルについたラットルは野垂れ死にだ。

「まぁ、そんなコトより、もう一度聞かせてくださいよ。クインポートでのあなたの武勇伝を」
 地下の研究室に閉じこもっていたモルにやっと再会できたのは馬車溜まり。出発しかけた馬車の前に立ちふさがり、強引に乗り込んでから、この話をするのは三度目だ。

「あなたが選ばせた町長に助言しながら、私は東大陸の混乱を抑えて、人々を光へと導いてたんですよ。
例の呪われた聖女見習いを炎で浄化しようとしたら、とつぜん風が吹いて黒い雲から激しい雨が」
 うなづいているモルの目元が、笑っている気がする。

「私にはすぐに分かりましたよ。あの街を腐らせていた元凶。代理人などという過去の遺物で人々を縛り付けていた吸血鬼のしわざだと。
即座にホーリーシンボルの詠唱に入りました。坂を降りてくる銀髪黒衣の魔物にケンコンイッテキの光の呪法。
ヒザをつかせてやりましたとも」
 激しい身振りを交えて語るあまり、馬車の揺れですこし舌を噛んでしまった。

「ですが私ひとりでは……獣人などに恐れをなして逃げた剣士が、もう少しホネのあるヤツだったら、決して遅れはとらなかったものを。むざむざ、罪人を奪われるコトも。まったく、あの役立たずの鈍《なまく》らめが」
 私が悪いんじゃない。町の自警団からきた、あの剣士が腰抜けだっただけだ。

「もちろん、日のあるうちに墓所を暴こうとしましたよ。でも私の法力に恐れをなしたのか、日が沈む前に馬車で街から逃亡してしまいました。それも私の目の前を。あの手癖の悪い聖女見習いが、私のスタッフをかすめとっていきまして」
 首を振り、悔しそうにため息をついてみせる。

「私ひとりなら追撃するのもやぶさかではなかったんですが……魔物が無事という事は、カウルの城に向かった新入り三人は任務に失敗したということ。彼らの身を案じたら、もう気が気ではなくなりました」
 先ほどの失点をゴマかすためにも、ここは少し大げさにしよう。

「急いで山城に向かい、仕掛けだらけの地下通路を抜け、見張りを出し抜き、苦労のすえ牢獄からあの三人を救出したというわけです」
 本当は貸し馬車でクインポートに送り届けられてきたのだが、そんな事、今となってはどうでもいい。

「残念なことに、三人の首筋にはキバの痕が。誰かが付き添わねば旅などとても出来ない状態でして。それに早く呪われた地を出なければ、呪縛はますます酷くなり、このままでは転化しかねないと。
それで仕方なくキングポートまで私が付き添うことに。決して、約束を忘れたわけでは」

 なぜ、モルは笑みを浮かべる? 東大陸討伐からの新しい部下の中でも、少し無能な部類だった三人。だが、任務に失敗し、敵に捕らわれて生き血を啜られたと聞けば、怒るか悲しむものだろう。

「ラットルが全力で頑張ったコトは、わかっています。
ところで、ずっと二番手だった者が、急に一番になったら……どんな気分なんだろうね」
「それは、メンター副司教長のことですか」

「心地いいのか、不安で押しつぶされそうなのか」
「そりゃあ、気分いいでしょう。今まで司教長に遠慮して出来なかった事が、思い通りになるんだから」
「じゃあ、一年ばかりそっとしておくのも悪くはありませんね。地下で七年過ごしたセミは、羽化して十日間、自由に飛んで歌って恋をする……今度は少しゆっくりいきますか」

 これは、森の大陸での吸血鬼騒動を解決したら、いよいよメンターを排除し、マルラウを始末して、頂点に立つという意味だろうか。いくらなんでも三十そこそこでテンプルの最高位とは早過ぎないだろうか。開祖モルや英雄モルならいざ知らず。

 だが、本当にそうなれば、ラットルも司教位につき、猊下と呼ばれる日が来るかもしれない。

「御身に仇《あだ》なす者を、せっかく私が始末しておいてやろうとしたのに、わざわざ助けるとは。まったく物好きな」
「は?」

 楽しい妄想をさえぎった、独り言の意味を問い返したかったが、薄く笑ったまま目を閉じたモルは、なぜか石の彫像めいて、ラットルは話しかけるのを断念した。
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