夜に紅い血の痕を

著 久史都子

『夜に紅い血の痕を』第十二章 無法者の正義

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1.スレイ


 ガラス職人の吹き方が悪いのか、材料の質がマズいのか。泡粒とムラでひずんだ景色を見ながら、スレイは登録書を埋める過去を考えていた。暑い仕事場はガキの時にこりた。ガラス工房の徒弟だった事は書かないでおこう。

 キニルに数ある奉公人の紹介所の中で、ここは下のほう。
 できれば給金以外にもお仕着せや小遣いをくれるお大尽の屋敷に奉公したい。けど、手クセの悪さを理由に解雇された身だ。紹介料の高い紹介所には、似顔絵つきの注意書きが回っているかもしれない。

 チョッキのポケットには銅貨が三枚。今夜の寝床もない。こうなったら、コキ使われるだけで給金も遅れがちな中堅どころの商家や、夜中叩き起こされたり、遺体の清拭なんかもさせられる治療師の助手でもかまわない。明日の食事と寝床があればいい。嫌ンなったら、また金目の物を失敬して逃げりゃいい。

 念のため、今度は祖母のシナン姓を名乗ろう。歳は、さて、いくつだったかな。二十六でいいか。男で独り身。従僕の経験あり。特技はシャツの火ノシかけにしよう。

 宿屋にも奉公してたから、料理人の経験ありはウソじゃない。賭場の用心棒時代に学んだケンカも武術には違いない。馬丁の経験もあり……朝の早さにネを上げて三日で逃げたがな。

 よし、これで使用人を一人か二人しか雇えない、カツカツの商人や、引退した騎士や拳士あたりからお呼びがかかるはずだ。
 人生を切り貼りして作った豊かな職歴を、ガラス越しのぬるい日差しにかざそうとした時、不意に店が暗くなった。

 紹介所の前に止まった大きな黒塗りの四輪馬車。紋の無い貸し馬車だが、一日借りるだけで金貨何枚かかるか……上客だ。

 御車台から下りてきた男に目を凝らす。歩き方。入ってきた時のほがらかな声。キニル生まれとは違う言葉の響き。整ったヒゲ。イヤミのない笑顔。スキがない。何より上等のお仕着せ。かなり気前のいい主に仕えているようだ。

 カウンターでベスタまで同行してもらう召使がひとり要ると話す男の前に、書きあがったばかりの登録書を置いた。
「スレイと申します。キニルから離れるのは初めてですが、馬の扱いには長けてます。野遊びやカモ狩りに同行したことがありますので、野外での料理もお任せください」

 読み始めた男の視線を見守る。職歴をながめた後、小声で年齢を読み上げるのが聞こえた。まずい。調子に乗って書きすぎた。期間が短い理由を聞かれたら何とウソをつこう。六っつの時から奉公に出てた……うん、これでいこう。

「体は丈夫ですか? 持病とかは。急ぎの旅ですし、山道を行くつもりなので。頑健な方でないと勤まらないかと」
「ええ、それはもう。この通り」
 拳術の型のマネゴトは、カウンターの向こうのババアの咳払いにジャマされた。

「ウチの店先で勝手に話を進めんどくれ。まだ登録料も紹介料も払ってないよ。それに若い女中が欲しいと言ったろ?」
「考えてみたら、危険な道中になるかも知れませんし、男の従僕が良いという気がしてきました。取次ぎの手数料は、この……スレイさんの分も当方でもちます。何より時間が惜しいので」

 数枚の銀貨が積まれ、カウンターの向こうに消えた。代わりに雇い主との間で取り交わす、契約書が二枚さしだされた。
「基本的な条件は刷ってあるよ。給金や休暇やこまごました事は、そっちで話し合っとくれ」

 お仕着せは急ぐので誂えではなく古着。寝床が馬車の座席。食事は日に三度だが、山越えの際は、乾パンと干し肉スープと干しブドウ。だが給金が並みより上ならかまわない。
 それに港町ってヤツにも興味がある。塩辛い水に浮かぶ大きな船を一度見てみるのも悪くない。

 署名して契約書を交換して店を出た。
「服は後でもいいんですが、道中の安全のために得物を買ってもらえませんかねぇ」
「ご心配なく。わたくしにも心得はありますし、護衛役はすでに居ますから」

 開いた馬車の扉の向こうには、値踏みするような視線をむける若い聖女が座っていた。
「お仕えするのは、こちらのお嬢様で?」
「いえ、彼女が護衛です」

 よく見れば傷だらけのスタッフは飾りではなさそうだ。テンプルの戦士や拳士が、たまに隊商の護衛をするという話は聞くが、彼女もそうなのだろうか。
「テンプル仕込みの治療師さんが一緒なら、心強い道中になりますね」

 さて、仕えるべき主は若い男か。フードからこぼれた銀色の髪と白く細いアゴ。なるほど、ベスタの商人がキニルで囲った女に産ませた子か。急ぐというのは父親か本妻の子に何かあって、跡継ぎに担ぎ出されたといったあたりかな。

「はじめまして、スレイ・シナンと申します。誠心誠意、お仕えする所存でございます」
「よろしく、スレイ」
 酷薄な感じはしない。スネてる感じもない。少しおっとりした育ちの良さそうな声。うまく取り入れば金品を無心できそうな気がした。

 示された席は主の横。恐縮しながら座ってほどなく、馬車が動き出した。ふと、荷物の有無や今の住居の事を聞かれなかったのに不信を感じたが、揺られているうちにどうでもよくなってきた。

 元々、前の奉公先から叩き出された時に、家財も着替えも失った。不名誉な理由で職と住まいを変わるうち、紹介者も親戚も愛想をつかしていった。最近は住まいも奉公先も告げてない。

 いい機会かもしれない。遠いベスタで、家人からの冷たい視線や陰口にさらされ、孤独に悩む若様に取り入って、おいしい思いをするのも悪くない。

 馬車はいくつかの店によって、いくつもの荷を受け取った。肩にかついで待つ手に渡し、全てが屋根と後部の立ち台に固定されたあと、街道を東へと……夜がせまる方へと、馬車は走り出した。
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2.月翼山脈


「しばらくは晴れそうだ」
 頭上に迫るガケに区切られた澄んだ空。編隊を組んで南下する白い鳥の群れを見上げながら、アレフは安堵《あんど》の笑みをもらした。

 振り向けば、高地特有の小さな花を避けて、スレイが石を並べて炉を組んでいた。その横で、ドルクはナベに満たした水に押し麦を放り込み、干し肉をナイフで削り入れている。焚きつけにする木の皮を裂きながら、ティアが干し肉を一本くすねようと手を伸ばす。

 刻々と変わりゆく夕昏の光と、バラ色と紫に染まった山嶺。最高の絶景に、誰も目を向けない。

 地平に山が見え始めた頃は、彼らも興奮していた。昼ひなかに窓を開け、身を乗り出して行く手を眺めるなどという暴挙をしでかしてくれたが……もう、飽きたらしい。

 それとも、高山ゆえの息苦しさと頭痛と動悸《どうき》に悩まされるあまり、山そのものを厭《いと》わしいと感じるようになったのか。

 キニルからベスタ港経由で森の大陸に向かうには、中央大陸の南岸に横たわる偉大なる月翼山脈がジャマになる。溶けない氷雪と切り立った絶壁。命あるものを寄せつけない白き峰。

 回避する方法は三通り。

 一つは山脈の西端にあって、豊富な地下資源で栄えるウェンズミートまで南下し、沿岸を船でたどる海路。
 二つめは山脈の東端にある湿地帯と森を抜けて迂回する、平坦な陸路。

 三つ目が、雪を被った翼の合わせ目。南と東から中央大陸へぶつかり沈み込む海底が、押し上げヘシ折って生み出した月翼山脈の裂け目、鳥越えの谷に刻まれたけわしい道。

 鳥越えの谷は、古くからある交易路だが、道幅が狭く植物も生えがたい気候。グラスロードは敷かれなかった。

 それでも、ここは白き山脈に抱かれ海に開かれた港湾都市ベスタに直に通じる最短の道。
 ただし、天候が穏やかならば。

 吹雪で半月も足止めされれば、海路や迂回路を選ばなかった事を後悔するだろう。夏に凍死する旅人もめずらしくないと聞いた。薄い空気が平地の者には辛いようだ。

 はたと気付いた。
「フタに石を置いたほうがいい。干し肉はまだしも、生煮えの押し麦は困るだろう」
 指先から飛ばした火を、風精に育てさせているティアは顔を上げない。反応したのは組み立て式の食卓にスズの器を並べていたスレイだった。

「そりゃあ、何のマジナイです?」
「風邪気味の上に腹を壊されては……その、困る」
「はいはい……ご主人様は太った男がお好みと」

 従僕が太っていないとベスタでは体面に関わる。最初に告げたいい加減なウソを本気にしてはいないが、真意にも気付いてない。

 いや、いくらか不審は覚えているのだろうが、横に座るたびに魅了の呪をかけてきた。なにやらカン違いしている気もするが、そろそろ命綱の役を果たしてもらおうか。

 最後の村は眼下に遠く、次の山荘は遥か上。呪縛しそこねて逃しても、ひと目に触れる前に連れ戻せる。
 
 低い温度で沸きはじめたナベに石を置きながら、ドルクが哀しげな目を向けてくる。

 あれは、ふもとの町で山越えの無事を祈って、杯をぶつけあった夜だったか。
 好意と信頼を寄せられ、あす飢える心配なく眠りに落ちる日々を過ごすうち、スレイが変わり始めているとドルクが言っていた。信用ならないと思っていた臨時雇いの従僕の心に、自然な仲間意識や忠誠心が芽生えていると。

 だが、噛んでしまえば心は縛られ、細やかな感情の機微は霧消してしまう。血の絆による妄信と奉仕が全てに置き換わる。

(仕方ないだろう!)
 心話を叩きつけて車内に引きこもる。出立時にキニルで噛んだ商人の血も、ウェンズミートに向かわせた旅芸人の血も、とおに乾いてしまった。高地に点在する宿場町では借り上げ馬車は注目を浴び、“密猟”もままならなかった。代用品では渇きをなだめきれない。

 馬に与える飼葉を馬車の屋根に積むように。リンゴと水の樽を後ろの立ち台に載せたように。身寄りのない奉公人を積んできた。

 天候が崩れれば……いや、たとえ晴れ間が続いても、高地をゆく過酷な旅を無事に終えるには、スレイが必要だ。貧血で動けなくなったら、山荘に置き去ると雇う前から決めていた。

「はい、晩メシ」
 器に入った麦ガユを手に、ティアが乗り込んでくる。

「せっかくの景色なのに。そんなに使用人と一緒に食うのがイヤなんですかねえ」
「私らが、緊張しないようにというご配慮ですよ」
 聞かせる気はないのだろうが、周囲が静かすぎて、ささやき声が締め切った車内に入り込んでくる。

(今夜、噛むの?)
 持ってきたカユを自分でかき込みながらティアが視線を向ける。
(呪縛のためにひと口だけだ)
「難所を越えるまでガマンできない? 失敗したら、逆らえなくなるまで(血を吸って)弱らせるんでしょ。それじゃ足手まといになっちゃう」

 まさか、ティアもスレイに好意を抱いているのだろうか。血色の指輪を介して緩やかな絆を結んでいるはずなのに、妙な疎外感を覚えた。

「この山脈は今も高さを増し続けているそうだ。一年で爪の厚さほど」
「なんだ、一万年で人の身長にも満たないじゃん。ファラが生まれた時も今も、そう違わないんじゃない」

「頂に雪を被るほどの高さになるまで、途方もない時が積み重なっている。永遠の命と誇ったところで、山や大地の寿命に比べれば、朝開いて夕べに散る小さな花と大差ない」

「定命の者の一生はもっと儚いから、気軽に摘みとっても構わないって言いたいの?」
 空っぽになった器に、カユにまみれたサジを落としたティアが、歪んだ笑みを浮かべた。

「前から一度、聞いてみたかったんだけどさ。
 アレフにとって人は何? 単なる食料?」

 自分にとって人は何か……
 問われた瞬間、白く凍りついた山頂でたったひとり、青黒い空に囲まれている気分に襲われた。山すそは闇に沈んで見えない。星が瞬いていてもいい暗さなのに、雲も無くただ透明にどこまでも続く宵の空。

 高揚感というには冷たすぎる無気味なおののき。体温のない身が氷の彫像に変わり永久に動かなくなるような、孤独。

 いや、思い違いだ。
 心を向ければ血の絆で結ばれたしもべたちの心の呟きが聞こえる。決して従順なばかりではない彼らは、己の一部ではない。確かなる他者。繋がりあった眷属。

 彼らを食料と思ったことは無い。
 選んで捕らえて口付ける。家畜の死肉や、茹で殺した植物を、人が食らうのとは全く意味が違うはずだ。

 今は日常とは違う旅のとちゅう。時に強引な方法を取ることもあったし、おそらく今回もそうなるだろうが、本意ではない。

 食うには違いないのかも知れないが、心の繋がりを伴う……いや、テンプルの者達は仕方ない。あれは報いだ。こちらを滅ぼそうとするものを捕らえたなら、どう扱おうと構わないはずだ。

 それに、私以外にも不死者はいる。キニルで会った新参者に、その闇の親。さらに海を越えた遥か南の彼方、シリルにいるという始祖。私は一人じゃない。ウサギだけの国に取り残された、たった一匹のキツネじゃない。

 この妙な気分は、空の半ばまでおおう巨大な山を見上げながら数日を過ごしたせいだ。初めて間近でみた偉大すぎる景色のせいで生じた気の迷い。

「それは……」
 答えかけて気付いた。
 聞かれている。
 男女の睦言でも聞こえないかと、下種な聞き耳を立てにきたスレイに。

 今までのティアとの会話を全て思い返しながら、スレイの疑念を晴らす答えを考える。疑惑を確心に変えて、いま逃がすわけにはいかない。せめて山道を走るのがためらわれる闇が下りるまで。残照が峰から消えるまでは。

「知りませんよ。直接会ったこともないヴァンパイアの思惑など。いくら東大陸の生まれでも」
 今の偽名はアヴジュだった。世間話として語ればいい。本から得た山の知識でも話すように、アレフの事を。

「ただ、中央大陸で言うほど、無体でも非道でもないと聞いていますが」
 ティアがつまらなそうに口を尖らせる。外の気配に気付いての質問か。

 ドルクと私を慌てさせたかったのか。怯え逃げるスレイを、追いかけ捕らえる様を余興として見物したかったのか。

 何もわざわざ身を明かして恐れさせる必要は無い。泥のような眠りに落ちている真夜中に、奇妙な夢のふりをして訪ない、夜明けと共に忘れさせてしまってもいい。

「分かった。次の山荘を立った後にする。このガケ際の野営地では何もしない」
 今日を逃したら、機会はあさってか。いや、足を伸ばして眠った後の方が、血のよどみも少ないかも知れない。



 石原と緑と白い雪渓が陣取り遊びをしているような緩やかな斜面。毛が長く寒い時期にも荷を運べる山ラクダの群れのただ中に、巨大な本を伏せたような石組みの平たい山荘はあった。

 石片をふいた屋根の端にある煙突。たなびく煙の元は、家畜のフンを乾燥させたものだろう。

「ねぇ、その辺で座って用足ししてもいい? ここの便所、マトモな肥溜めの倍は臭いんだもん」
 渋い顔をした山荘の雑役夫が、ティアを便所に押し戻すようなしぐさをする。

 茶色や白や黒のケモノが群れる中に、貴重な木の板に囲われてたつ便所は、生身の人が生み出す汚わいそのもの。
 背景の清冽な峰との対比が、いっそ清々しい。

「うちの山ラクダ六頭と、そっちの馬四頭。交換しないか。馬の半分しか食わないし、疲れ知らずで言うこともよく聞く。何より悪路に強い」
 馬体にブラシをかけながら厩舎で男が笑う。馬の半分しか食わないかもしれないが、力も半分。そして値段は馬の五分の一と聞いた。

「この馬たちは何度も山越えをしているそうだ。ありがたい申し出だが、このままでいい。この先の道も駅馬車が月に二度行き来できるように整備されていると聞いた」
 心づけを渡した後、雪渓から染み出す清水を樽にうけているスレイの丸めた背中に目をやる。

 もう少し旅人は多いと思ったが、今夜、他の泊まり客はいない。しかも男女で泊まる部屋が分けられている。男性客用の広い部屋に、今夜はドルクと私とスレイだけ。邪魔が入る恐れはない。

 今夜、眠りに落ちるのを待って、少し頂こう。

 ふと、視線を感じて、ゆるみかけた頬を引き締めた。便所から出てきてむせているティアが、涙にうるんだ目をまっすぐこちらに向けていた。
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3.煙花の夢



 木炭でこした水が溜まるのを待つ間に固まった腕をかばいながら、スレイはかついだ樽を馬車に載せた。直後、すげぇ臭いに振り返る。この娘は時々、足音もなく後ろに立っている。灰色の野ネコみたいだ。

「これはティア聖女。変わった香水をつけてますね」
「まだ臭う? ったく、目に染みるし、力んでて少し吐きかけたわよ」
「良かった、風邪気味で」
「うらやましい。便所に行かないヤツはもっとうらやましいけど」

 急に落ち着かない気分になった。馬車から降りている時、わけもなく不安になる。理由を考えるようとすると気持ち悪くなる。故郷から離れた者が感じる旅愁だと、ドルクは肩をたたく。そして山は寒いから風邪でも引いたのだろうと笑う。

「逃げないと今夜、喰われるわよ」
 
 キニルを出て二日目、宿場町の近くで野宿しようとしていたリュート弾きを思い出した。黒髪の旅芸人は、夕闇の中で歌を披露し、幾ばくかのゼニを帽子に受けたあと、もっと花代を弾んでやると肩を抱く主に馬車の中へ連れ込まれた。

 また悪いクセが出たとため息をつくドルクに、見なかった事にしてくれと口止めされた。けどリュート弾きはすぐに馬車から下りてきた。エリ元を乱し少し顔が赤らんでたから、何もされなかったワケでもなかろうが。

「大丈夫、生っ白い大柄な男は柔らかいんだ。簡単にはいかないもんだ」
 ニヤついて片目をつぶって見せたら、あきれられた。
「そんなんじゃないって、本当は気付いてるでしょ」

 手が青ざめて冷たいのは、きっと体質だ。寒い山の朝、窓に顔を近づけても曇らないのは、単に息を止めていたからだ。便所は……使用人に無様な姿を見せたくなくて、気付かれないように済ませてるだけだ。

 腹いっぱいになるまでお代わりを許してくれた親方はいなかった。暖かい毛皮のコートをくれた主人もいなかった。ずっとウサン臭いヤツと思われてきた。同じ席に座って真っ直ぐ目を見て、頼りにしていると言ってもらったのは始めてだ。

 首を振って背を向けたとき、追いすがるようにささやかれた。
「あんたの忠誠心や友情を、あいつらは裏切ろうとしてる。本当の名前も旅の目的も話さずに、ウソで固めてスレイをダマして利用しようとたくらんでる」
 けど、偽名ならオレも使っている。

「そういうあんたは、本当を知ってんのかい?」
「本当の名はアレフ……森の大陸へ向かったモル司祭を殺そうとしてる」
 思わず吹きだした。

「ガキ相手に教会がやってる人形劇じゃあるまいし」
 終わりがなかなか見えない進発式の行列。あれにたった一人で挑むのか?
 吸血鬼は噛んだ人間を手下にする力があって、昔はそれで人と世界を支配してたんだったかな。けど、おれ等が手下になっても、シロウト三人と小娘でどうにかできると思えない。

「峰を西にいった先に小屋があるんだって。そこから徒歩の旅人が利用する抜け道が北に伸びてるみたい」
 横をすり抜けながら、聖女がささやいた。

 一人になって、山荘の暗い影で黒い馬車のそばにいると、見えない何かが背中や足元に忍び寄ってくる気がして、うぶ毛が逆立った。追われるように明るい方に出ると、日が遠い稜線に沈んでいくところだった。雲が血色に輝く。冷たい風がうなじをなでる。

「夕食の支度が整ったそうだ」
 不意に声を掛けられて、足がすくんだ。夜、フードをとった若い主は髪も肌もほのかに光って見える。いや、陽をロクに浴びてない肌と整った顔が目を引くだけだ。

「今日は私らと一緒に?」
「私は先に終わった。何もすることが無かったから」
 そういえば飯を食ってるところを見た事がない。一度、乾杯した事があるが、口をつけたグラスの酒は減っていなかった。

「スレイ、疲れているようだね。食べたら早めに休むといい」
 赤い唇が笑う。霧に包まれたように頭がぼやける。この山脈の隠された谷で取れるという緑の花。目覚めながら夢を見られる煙花を吸ったみたいに心地いい。

 気付くと、干し果物が混ざった焼き菓子と、塩漬け肉のスープを義務のように食っていた。今夜は早めに休もうと考えながら、心のどこかが炙《あぶ》られるようにヒリつく。

 治療師から聞いたヨタ話をぼんやりと思い出していた。煙花の効用には不吉なモノがある。
 確か……

 冷水に身を浸したように体が震えだした。
 早く眠ることを考えながら夕飯を終え、馬の様子を見てこようと決心して厩舎に向かった。馬をなでて心を落ち着かせる。ついでに馬車の車輪も点検しようと、強く念じながら裏手に回る。

 馬車の荷から干し肉と干し果物を一掴みづつとってポケットに詰めた。金は無いが、下界にたどり着いた後、この毛皮のコートを売ればしばらくは何とかなる。

 スレイは物音を立てないように、なるべく何も考えないように努力しながら、西へ向かった。石を注意深く踏み、風の強い時は岩を這って、太陽の名残が残る方向をひたすら目指す。

 ふと、明るさを感じて振り返ると、薄赤い月が東から昇って来ていた。白い山が月の光に輝く。見上げれば満天の星。きれいすぎる景色がワケもなく怖くなる。

 登りになると息が切れる。下りは転げ落ちそうで冷や汗をかく。本当にこの先に小屋はあるのだろうか。不安を感じて月をみやると、まだそんなに経っていない。歩いても歩いても進まず、時も移ろわない悪夢のワナにはまった気分だった。

 干し果物を一つ口に放り込み、味と歯ざわりで正気を確かめる。ここは夢の中じゃない。まだ、おれは狂ってない。いや、正気を失いかけていた自分を、やっと取り戻したんだ。

 考えてみれば、使用人にああまで良くしてくれる主なんているわけない。下心があるに決まってる。オレは豚のように太らされて喰われるところだったんだ。

 不意の突風に、何か薄いものが顔にぶつかったが、周りを見ても何も無かった。かじかむ手を擦り合わせた時、稜線が小屋の形に出っ張っているのに気付いた。



 せまい小屋の中は、ワラ束の様なもので一杯だった。踏み越えて苦労して暖炉までたどり着く。上に置かれた火打石を探り当て、手探りで木炭の粉を確かめた。ベルトの金具にぶつけて火花を飛ばし、息を吹きかける。頭がふらふらし始めた頃、赤い火が力強く燃えさしの薪に広がって、ほっと息をついた。

 手をかざすと、温もりで身の脂と疲れが解けていく。光を頼りに燃やすものが他に無いか、暖炉の周りを見た。薪はどうやら外らしい。もう少し休まないと立ち上がるのも辛い。

 仕方なく、周りにたくさん積み上げられている乾燥した草の塊を、火に放り込もうとしたとき、背後から手首を掴まれた。
 冷たく無慈悲な硬い手。振り向かなくても白い顔が見下ろしているのが分かった。

「煙花など暖炉にくべたら、心地いい夢どころか悪夢から一生覚めなくなる」
「これは……不死者の呪縛を断つ聖なる薬だって聞いた」
「違う。口付けに近い快楽を得られるというだけだ。シリルの吸血鬼騒動で大量に商われているようだが……代替物に過ぎない。むしろ害の方が多いだろう」

 手首を締められ、煙花と共に逆らう気概が床に落ちた。
「お前の命を少し貰いたい」
 掴まれた手を強引に引かれ、振り向かされた。暖炉の暗く赤い熾火《おきび》に、白い笑顔と、赤い口元からこぼれる牙が照らされていた。

「殺しはしない」
 言い訳の様にささやきながら巻きついてくる冷たい腕。死ぬよりもっと酷い運命が待っているはずだ。身も心も縛られ、死んでも安らかな眠りはない。永遠の奴隷となるさだめが、唇と共に喉元に押し付けられる。

 首の付け根あたりに、氷の針を突き刺されたような痛みが走った。同時に脳天から快楽が弾けた。全身の毛が泡立ち、肉が震える。煙花がなぜ代用物になるのか分かった。けど、共に高みに駆け上がり心の広がりを実感できる、口付けと血の絆の方がずっといい。

 所有の印を焼きつけるように、飲んで頂いたのは一口だけ。月翼山脈を越えてふもとにたどり着くまで、オレは少しずつ主の糧となれる。名残り惜しそうに首筋を舐める冷たい舌が嬉しい。

 やっと手に入れた宝物の様に、大切に抱えられて戻る道。揺るがない首にかけた右手の甲を、麻糸より細い髪が包む。来た時と全く違って、景色が明るく見えるのは、半分はアレフ様の眼で見ているからだろうか。

 ふと立ち止まられた主の視線を追って、高さを競う二つの峰を見上げた。真ん中に月が青白く浮いている。白く輝く稜線は、地平まで伸びる月の翼。
 だから月翼山脈と呼ぶのだと、今さらながらに感動していた。



「あちらの方にいま、灯りがっ。戻って来られたようです」
 月明かりとタイマツを頼りに、岩陰やくぼ地を捜していた山荘の者達にむかって、ドルクは叫んだ。

「お散歩好きなご同僚と、情け深い坊ちゃんにキツぅく言っといてくれ。ここは下界とは違う。滑り落ちたら命はないってな!」
「月夜に出歩きたくなる気持ちは、分かっけどよう」
 炎を手に戻ってきた男たちがボヤく。

 振り向けば山荘のある高原を抱く白い山なみ。近づくほどに偉大さを増す白と黒の壁を背景に、月光に髪を梳かせたティアが立っていた。
「見つかっちゃったんだ」
 雪と石を踏んで同じ場所に立ち、濃い茶色の頭を見下ろす。

「煙花の取り引き小屋で待ち伏せして……無事に。まったく何を考えて。もし彼らに話してしまったら」
「それはないって。人に話を信じてもらったコト、スレイは無いから」
 手を振った娘が小ずるい笑みを浮かべる。

「口付けを見たくなくて、逃がそうとなさったのですか?」
「卑怯だなって思った。ウソついて心を弄って誤解させて、楽しんでたからムカついた」
「真実を告げないのも優しさでしょう」
 結末が変わらないなら、深刻な恐怖も危険をおかしての逃走も、むなしい。

「本当の事ってツライよ。でも、知らずに間違う方がキツい」
 まだ若い。微笑みそうになって、顔を引き締めた。
「スレイはすでに我が主のもの。これ以上よけいな事はなさいませんように。さすがにご不興をかいますよ」

「食い物の恨みはコワイもんねぇ」
 鼻で笑ってティアは山荘へ歩き去っていく。ここで独りにされても、自力で山を越える自信があるのだろう。

 夜になると敏感になる鼻が、風の中にスレイの臭いを感じ取る。斜面を駆けてくる黒い影。月明かりになびく髪の見分けがつくあたりで、スレイを抱えておられているのに気付いた。

 高山の寒さや息苦しさは生者の足を鈍らせても、不死者の動きを妨げない。最初から逃げおおせるのは無理だと分かっていて真実を告げたのなら、意地が悪すぎる。

「出迎えご苦労。我々を案じて探してくれた者達に、酒と心づけがいるな」
 小猿のようにしがみついていたスレイを下ろしながら、浮かべられた笑み。スレイの心をいいように操ったという意味では、主とティアは同罪なのかも知れない。

「明後日には、あの山を越えるのか」
「正確には、あの間の峠を……で、ございますが」
「上空で氷の雲が広がり始めている。天候を安定させる術式が要るな」

 星空を見上げても異常はわからない。風が冷え、水分が増しているのは感じた。

「山荘の者たちに無事なお姿をお見せになってから、方陣を描かれるなり呪を唱えられるなり、なんなりと。それと影」
 下りていく二人のうち、一方の足元に染み出した細長い闇。どうも食事の後は気がゆるまれる。
 天候よりも、主の甘さがドルクには気がかりだった。



 濃い霧に包まれた翌朝。
 山荘の者たちに案じられながらの出発となった。霧が天然なのか、昨夜アレフ様が描かれた方陣によって、雨や雪が砕かれて生まれたものかは、判断つかない。

 ぼんやりとした貧弱なカタマリに見える日の元で、気分が弾んでしまうのは、闇に属する者のヒガミだろうか。それとも威圧的な山嶺が見えないからだろうか。

 目に頼らずにあたりを知覚している主の意を受けてドルクは手綱をさばく。片側は切り立ったガケという道がしばらく続いたが、見えないことが幸いしてあまり怖くはない。
 山岳種の小型馬では上がらぬ坂道は、スレイだけでなく主の手も煩わせることになった。

 霧の中から不意に現れる岩に驚かなくなった頃、右側から差す夕日に、馬車が照らされ、一瞬、霧の中に丸い虹が現れた。ロクに見られなかったと口を尖らせるティアは、夕食の支度を頼むと、食い気に負けて大人しくなった。

 本性を隠さなくても済むようになった主は、暮れてからの方が調子が出るのかも知れないが、馬と御者がもたない。馬を休息させるために、馬衣をかけ結界で包んで夜を過ごす。

 霧が晴れると、巨大な谷のただ中にいた。
 向こう岸にそびえる峰も、道が刻まれた木のない山肌も、あまりに大きすぎて距離も高さも見当がつかない。呆けて眺めたあと、足元ばかり見るようになった。

 茶を沸かし山ラクダのチーズを入れたカユを作った。朝食を済ませた後、主に呼ばれたスレイを黙って行かせる。幸せそうな笑みを、複雑な顔で見つめるティアの心の内は読めない。逃がそうとしたのは本気でスレイ思っての事だったのか、歪んだ嫉妬からなのか……

 昼過ぎ、峠を越した。
 銀色に輝く海がはるか彼方で弧をえがいていた。登りより急な下り道はいくつもの鋭い曲がり角をもって、斜面に刻まれていた。その先に黒い森と耕作地らしい四角いモザイク模様。ベスタの街はもやって見えない。

「今夜、宿泊する山荘にスレイを置いていく」
 感情を押し殺した主の声に驚く。哀しげなスレイの顔色は悪くない。まだ健康を害するほど飲まれていない。

「しばらく滞在して旅人から話を聞いてもらう。万が一、ここをモルが通ったら、私に知らせてくれ」
 代理人、ということか。二度とないかもしれない主の訪ないを待ち続けて、山で一生を無為に終えろと。

 従順にうなづくスレイを見る、ティアの目が厳しい。いらだったように石を蹴り飛ばす。
「呪縛、解いていい」
「触媒は与えられない。それにスレイも私も解呪を望んでいない」

 何か言いかけて背を向けたティアに向けられた笑みは、ひどく透明で、胸を締め付けられた。
「スレイの行く末は心配しなくてもいい。私がモルに滅ぼされたら、呪縛は解ける。勝てたとしても、私は長生きしない」



 高地にいた間は黒みがかっていた夕空が、全体的に赤く明るい。またたきだした星も鮮明さを失い、眼下を流れていた雲が霧のような顔をして行く手をよぎる。

 北からの登りに比べると、南への下りはおそろしく急だ。

 はるか下にきらめいていた川が、白い滝となって落ち込む青い淵《ふち》のほとり。レンガ造りの山荘の客室で、アレフは目を閉じ、しもべの心に意識を飛ばしていた。

「見つけた?」

 ティアの声に、意識が引き戻される。夜に染まりゆく滝つぼと、行く筋にも分かれた水のカーテンが、目に映った。絶え間ない水音は、密林の雨より騒がしい。

 街の高級な宿屋に劣らない調度にガラスのはまった窓。浴室に酒場、そして個別の客室。旅人や行商人だけでなく、夏は避暑をかねて登ってくる物見遊山の客も泊まるようだ。流水ですらわずらわしいのに、大量に落ちる水をわざわざ見に来る者達の気が知れない。

「街道沿いの教会を中心にウワサを集めさせているが、曖昧なものばかり。東へ向かったのかも知れない。モルがベスタに着く前に、こちらが有利になるような結界を整え街道で不意打ちすれば……」

「ベスタで迎え討つんじゃないんだ」
 横で籐色の果物をかじりながらティアが物騒なことを言う。街中で互いに攻撃呪を使い、武器を振り回したときの惨状を想像できないのだろうか。

「関わりの無い者は出来るだけ巻き込みたくない」
 御者や他の乗客のケガや死も避けたいが……駅馬車を襲うなら、それは無理な話か。

「なりふり構ってられないと思うけどな。アニー達より頭数おおいし腕も立つと思う。数十人ほど転化させて足止めに使って、敵味方いっしょくたに攻撃呪とかやんないと」
 また無茶を言う。

「私が滅ぼされたら、吸血鬼化した者たちは灰と化し二度と復活できなくなる。そんなサギ同然の不死など与えられない」
「でも、普通の人にイモータルリングつけさせても役に立たないと思うよ」
 ティアから聞いたモルの人となりが真実なら、生身のしもべを盾とするのは愚策だ。

「モルを仲間から引き離し、三対一に持ち込む方法を考えた方が良いだろうね。いくら腕が立っても生身の人間なら」
「どうかなぁ。騎士が二人、ずっと一緒にいたよ。風呂でも便所でも。あいつ人間の敵も多いから油断しないと思う」

 首をふって不毛な会話を打ち切る。強い魔力と豊富な知識を持ち、人を人とも思わないインケンで大胆な男か。ティアからの伝聞だけでは、主観が入りすぎてよく分からない。
 居場所を特定し、使い魔を放って当人を観なければ、暗殺のための策など立てようがない。

 ノックの音に応えると、夕食の盆を手にしたスレイがドルクに付き添われて入ってきた。
「ここで、働けるよう話しつけてきました。その方が、お探しの野郎が泊まったとき、話しかけやすいから」

 歓声をあげてテーブルについたティアの前に、ツボ煮のシチューや焼きたての干し果物入りのパンを並べていた手が、ふと止まった。

「本当は敵討ちなんて、やりたくないんでしょう。滅びるかもしれない危険も、お嫌なんでしょう」
 うつむいたままの低いささやき。血の絆で結ばれたばかりの、一番近しいしもべに心を隠すのは難しい。

「ずっとここに居ましょう。滝がお気に召さないのなら、近くに使われなくなった別邸が何軒があるそうです。四人で暮らしましょう。おれの血に飽かれたら、美女でも活きのいい若者でも、お好みの贄をベスタで調達してくるから」
 おのれの血が主を支えているという自負に執着が混ざり合い、熱く重い感情となってほとばしる。

 ドルクの目が揺れる。似たような事を考えていたのか。東大陸を離れたあと、中央大陸の辺鄙《へんぴ》な村に居を構え、喰らい尽くし、最後は火を放ち村と証人を葬って去る。全てをならず者の仕業にして。
 ベスタ近郊の廃屋生活よりは長持ちするかも知れないが……

「逃げ隠れしたところで、一時しのぎにしかならない。モルを倒すのも一時しのぎだが、何もしないでいるよりは、気がまぎれる」
 英雄と喧伝《けんでん》した若者を殺されたら、テンプルは総力を上げて私を滅ぼしにかかるかも知れない。大司教となる新しい英雄を作るために。

 定められた立場を守り役目を果たし、外からもたらされる滅びの時を待つより、心のままに振舞う事を選んだ。その結果、滅びても、最後の瞬間に納得できているならいい。

「自前の闇の子を戦いの道具にしたくないってんならさ、元司教サマがシリルで増やしてる吸血鬼を借りちゃうってのは、どう?」
 パンをちぎりながら、ティアが笑った。
「それなら断末魔の心話で胸が痛むこと無く、利用できるんじゃない? 利害もイッチしてるしさ」



「増えたねい」
 脇に挟んできた経緯報告書の束を置く場所に困って、モリスは苦笑いした。副司教長の執務机は寝そべるコトが出来るくらい広いはずだが、今は手をつくのも難しい。つまみあげた厚い承認書には三本マストの外洋船の構造図がついていた。

「すでにウェンズミート方面には寄付を求める触れ文《ふれぶみ》が回っている。表向き、今回の遠征もテンプル上げてのモノだからね。無視を決め込む事も出来んよ」

 目頭をもみほぐしながらメンターがボヤく。そろそろ徹夜は止めさせよう。いっそ茶に眠り薬を盛るようミュールに言おうか。
 それにしても、うっとうしい雨の朝だ。窓を叩く無数の水滴をみていると、古傷が痛む。気分が滅入る。

「普通に風を待って定期船に乗りゃあ安く済むのに、なんでモルの野郎は、てめえだけの船を欲しがるかねぇ。鉄鋼組合の新しい帆船を買い上げるだけでも、えらい金がかかるのに、銀メッキの鉄板で補強かよ」

「夜は吸血鬼が苦手とする海に逃れ、他の船から矢や攻撃呪を仕掛けられても対応できるようにってコトだろう。そして森の大陸でバックスを滅ぼしたあと、シリルから東大陸へ渡るには船が要る」
「なるほど。出てねぇ定期船には乗れないか」

 森の大陸と東大陸の交易は例外なく禁じられている。だが、禁じた当のテンプルは、埒外《らちがい》か。

「で、そっちはどうだったね?」
 引退司祭が遺した邸宅を、新たな施療院にする。そのためにモリスはここ数日、聖女たちと共に走り回っていた。

 屋敷を改造してくれた大工や職人、設備を入れてくれた商人に説明した表向きの目的は、キニルの貧しく病める者たちの救済。しかし重要なのは三階の奥の部屋。もっとも厳重な主の寝室を改装して作った特別な病室。

「移した者の内、三人は症状が改善し三人は悪くなった……アニーも悪くなった方だ。ハジムを含むあと二人は、あんまり変化しねぇ」
 テンプルの結界から外に出て回復したということは、三人の呪いの元は本山の足元にいるってコトか。なんとも薄ら寒い話だ。
 そしてバックスの血脈に連なる吸血鬼の犠牲者は二人に特定できた。

「悪くなった犠牲者は元の部屋に戻してやってほしい。アニーをのぞいて」
「手配は済んでるよ。ここにサインくれたら、すぐに再移送さ。けど、アニーに煙管《きせる》くわえさせて暗示をかけて質問するのは、ちょいとな」

「ダイアナは納得したと言っていなかったかな」
 黙ってうなづく。仲間の仇に呪縛されている現状を悩んでいた彼女は、進んで幻惑の煙を吸った。血の絆を結んだ主を裏切り、その動向をモリスに伝えるために。

「煙花の夢の中でダイアナは何を語った?」
「白い山が見えると。プラムとオレンジの果樹園を下る山道。目指しているのは赤い屋根と白い壁の港町……だとさ」
「アレフは山越えを選び、間もなくベスタにつくか」

「モルがウェンズミートにいると、アニーを介して伝えたらいいのか?」
 メンターは首を横に振った。
「何もしなくても、読み売りか人形芝居で知ることになる。こちらの手の内はさらしたくない。何よりダイアナに注意が向いて、裏切らぬように強く呪縛されたら困る」

 その点はモリスも同感だ。
 だが、メンターが最終的に目指している未来が分からない。モルがアレフに殺されたら、誰が森の大陸に逃れたバックスを浄化するのだろう。まさか俺……か?

「森の大陸の方は、新たな討伐隊を行かせるんか」
「バックスが生前と同じくらい冷静なら、いずれ事態は沈静化する。そうでなければ、勝手に増えて飢えて滅びる」

 突き放したような物言い。うっすらと笑みを浮かべた顔。魔物に相対した時より、モリスは落ち着かない気分で報告書を置いた。
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4.ベスタ


 北の空に浮かぶ動かない雲。それが雪をかぶった山だとアンディが知ったのはベスタに来て半年後だった。教えてくれたのは、横にいる丸顔のタリムだ。それまでは生きるのに必死で、空を見るヒマはなかった。

 最近のベスタは騒がしいが景気は悪い。アンディたちが狙う商人たちの荷物や財布の中身もショボくなった。陸揚げされる荷がへって、暗い船倉からはいだしてくる子連れの貧乏人が増えた。

 昔は俺も垢とノミまみれのガキだったのかな。
 道端に座り込んだ母子の前に置かれた小鉢から目をそらす。赤い屋根の間から見上げる空を、カモメがよぎる。

 親の事は少ししか覚えていない。六っつの時に戻れなくなった故郷もだ。はっきり覚えているのは森の大陸をさすらっていた頃の空腹。金や食い物をうまく手に入れた時の興奮。殴ったヤツの顔と、かばってくれた娘の胸。

 北へ北へと流れた果てが、石の都スフィーだった。古い教会が見下ろす重くて堅い街から逃れるように、貨物船の下働きになった。そしてマストの見張り台から、陽に輝く赤屋根と白壁の港町を見たとき、アンディはベスタを楽園だと思った。

「今日はアネハヅル亭だっけ?」
「ああ」
 人懐っこいタリムの声で、楽園の幻が消えて日常が戻る。今日の仕事場は、赤毛のドリーが働いている山の手の宿。

 石段を二段飛ばしで登る。上で小太りのタリムを待ちながら、栗色の髪を手ぐしで整える。今朝食ったオレンジの皮でつけた匂いと艶。ドリーが喜ぶ上品ぶった言葉遣いをおさらいする。今から俺は、没落した名家のゴラクインだ。

 荷車よりも辻馬車がハバを効かせ、気取った連中が高そうな店に出入りしているオリーブ通り。黒い木枠と白いしっくいがひときわ鮮やかなアネハヅル亭に向かった。

 ドリーから留守してる部屋の鍵を借りるため、裏の洗い場に向かおうとした。中庭に通じる正門から楽しそうな亭主と客の会話が聞こえてくる。シリル産の香茶がやたら高いとか、間もなく森の大陸との定期便がなくなるってウワサ。下らない世間話だ。

 身なりのいいヒゲの中年。護身用にしてはゴツい手斧は物騒だが、出かけるなら関係ない。けど、どっかで見たような……
「それではお気をつけて、ドルク様」
 亭主の言葉にアンディの息がとまった。

 そうだ、父さんの背中に隠れてみた顔だ。頭をなでられて怖くて泣いた。ヒゲおやじは城の使いだ。罰が怖かった。連れてかないでくれと頼んだ。父さんは困った顔をして背中をやさしく叩いてくれた。

 でも、なんでこんな所に居る?
 愛想よく手を振って人ごみに消える背中をじっと見つめた。
 職を失ってここまで流れてきたなんてハズはない。テンプルの討伐隊が魔物のすむ城を攻めたら、呪われた家来たちは、命と引き換えにしても主人を守ろうとするはずだ。

 アネハヅル亭の横の路地を駆け抜けた。裏庭の井戸端でイモを洗っているドリーを見つけた。
「アンディ! 来てくれたのね」
 ドリーが幸せそうな笑みを浮かべ、あかぎれた手をエプロンでぬぐう。

 いつもなら言葉を尽くして雰囲気たっぷりにするキス。肩をつかみ好きだと一言だけささやいて、あわただしく済ませた。
 荒々しい恋人の振る舞いを、激しい情熱とカン違いしたのか、ドリーが抱き返してくる。

「いま出ていった客。ヒゲの中年の男だ。上等な黒い上着に黒いズボンはいた……」
「ドルクさんはダメよ! うちで一番いい部屋に泊まってる上客なの。女将さんに迷惑がかかっちゃう。それに連れの若い人がまだ部屋で寝てる」

 若い人。心臓が高鳴る。
「すっごくきれいな男の人だって。体が弱くて今も寝てる」
「きれいな……男?」
「センパイは弱々しくて儚げなトコロがステキだって騒いでるけど、アンディの方がいい男だよ。あたしはアンディがいい」

 媚びる目を見つめ、髪に手を差し入れながら頼んだ。
「カギをくれないか」
「だから、あたしは何とも思ってないよ。それに眠ってなかったらどうするの? アンディがつかまっちゃうなんて、嫌だよう」
 涙ぐむまぶたに口付け、背中を安心させるように叩いた。

「大丈夫、ちょっと確かめるだけだ。ヘマしねぇよ」
「……分かった。他にも今留守にしてる人のカギいくつか取ってくるね。待ってて」
 ドリーは裏口に消えたあと、後ろでタリムのため息が聞こえた。

「人がいる部屋に入るなんて、強盗みたいなマネ、俺はやだぜ。俺らは盗られた事にも気付かせない洗練されたやりかたでいくって、誓ったじゃないか」
 タリムの抗議にインディは首をふった。ちゃんとワケを話さなければ納得しそうにない。

「あいつは、ドルクさんは城の使いだ。子供の頃に見た。あのころと全然変わってねぇ」
「城の……つかい?」

「俺の生まれた村のすぐ近くに城があったんだ。時々税を受け取ったり買物したりすんのに、あのドルクさんがやってきてた。城主の一番の家来さ」



 アンディはそっとカギを差し込んだ。小さな音にも動きを止めて耳を澄ませる。最上階にのさばる客室は静まりかえっていた。通りの騒がしさがウソみたいだ。

 息が浅くなる。胸の鼓動が聞こえそうだ。恐くないと言えばウソになる。でも初めての盗みと同じくらいワクワクする。

 泊まり客に盗られたと気付かせないキレイな仕事。チェストのソコの隠しから抜き盗るのは、銀貨数枚。宝石箱のスミで忘れられた安い指輪ひとつ。手引きしてくれる宿の下働きの娘に、迷惑かけたコトはない。

 けど、今日カギを使うのは盗みのためじゃない。全ての客室に出入りできるオレにだけ出来るコト。本当に魔物なのか確かめて光にさらす。オレにだって正義を行なう勇気はある。

 カギのかかった上等の部屋に隠れていれば安全だと思ったんだろうが、運が悪かったな。
 アンディは声を出さずに笑った。
 コソ泥が世界に夜明けをもたらす。誰にも名を知られない英雄。最高にかっこいいじゃないか。

 窓が閉めきられた部屋は薄暗かった。目が慣れるまでうずくまる。床に探し物はなかった。元もと最初の部屋にあるとは思ってない。半開きになった扉の向こうを覗いてみる。狭い控えの間だった。

 探しているのは人が入れるぐらい大きな箱。故郷で一度だけ見た黒光りする棺。恐い代理人のおっさんの目をかすめて忍び込んだ地下室にあった。細かい彫刻を指でなぞっていた時に見つかって、こってり叱られた。

 あのとき中は空っぽだった。でも今は中にいるはずだ。棺ごと窓際に引っ張っていってフタを開け、真昼の光にさらして灰にしてやる。生血を啜られる犠牲者が二度とでないように。

 中庭を見下ろせる大きな寝室に通じる扉をそっと開ける。中は闇だった。鎧戸が閉められた窓。糸のような日の光が三本もれていた。

 寝息もイビキも聞こえない。でも奥に気配を感じる。深呼吸して心を落ち着かせる。オレンジとライムの香りがした。思い切って扉を大きく明け放つ。広い部屋がぼんやりと浮かび上がった。

 オリーブの木を織り現したジュウタンと分厚そうなカーテン。樹木から浮かび上がるドライアド達がなまめかしく笑うタペストリー。アネハヅル亭の精一杯の贅沢をかき集めた組み木の調度。

 棺を探したがなかった。一番大きい家具は二つの寝台。その影かと思って部屋に足を踏み入れたとき、奥の寝台に白いものがあるのに気づいた。慣れてきた目が人の顔だと見分けた。

 意外だった。あの地下室は真っ暗だった。少し年上の遊び仲間がろうそくを掲げていた。暗い中で、さらに光から逃れるように分厚い蓋をそなえた棺があった。ここでも完全に光をさえぎって眠っているもんだと思ってた。

 寝台は窓際までひきずっていけない。大きすぎるし、床と天井にくっ付いている。

「シーツに包んで引っ張ればいいか」
 じかに触れたいとは思わない。こいつは大昔の死人だ。肌は冷たくぬめって死臭もする。そう聞いたのは故郷でじゃない。海を越えて魔物が支配する地から離れた後だった。

 テンプルが魔物を倒し、餌食になる運命から人が開放された地で、魔物は諸悪の根源だった。皆がののしり、悪業や冷酷なふるまいを、目を輝かせてウワサしていた。

 支配者の悪口を表立って言えやしないから、故郷で大人は口をつぐんでいたんだろう。
 子供の頃に言い聞かされていたウソが崩れる心地よさにアンディは酔った。

 眠っている魔物を見下ろす。黒リボンでゆるく束ねられた色の薄い髪。やせて生気の無い白い顔。ドリーが病人だと言うはずだ。一応きれいと言えるかな。オレの前で裸になってくれた女は別格として。

 ため息をついた直後、見とれていたと気づいて焦った。仕事を、いや正義を行なわなければ。
 首を振ったとき、閉じていた目がゆっくりと開くのを見た。息を飲んだ。

「……昼間なのに」
 まっすぐ見上げる目に、気味の悪い光が宿っていた。赤い唇がつりあがる。人が普通に起き上がるように半身を起こすのを見守っていた。

 カン違いしたんだ。こいつは昼間も寝床を離れられない、ひ弱な病人。部屋を間違えたと適当に言い訳して、ここを立ち去ろう。

 そう思うのに足が動かない。言い訳も口に出来ない。まっすぐ見つめている灰色の目から逃れられない。なんでこうなったのか、空しくワケを考えていた。

「確かめに来たんでしょう?」
 笑いを含んだ声。カンにさわる笑顔。何がそんなに愉快なんだろう。
「英雄、アンドリュウ・ランク?」

 悲鳴を上げたいのに声が出ない。魔物は人の心を読み操る。
「分かっていたのに何を怯えているんです? 私に近づけばどうなるか、昔話で聞いていたろうに」

 助けてくれ。必死な叫びは心の中だけに終わった。
 この部屋に入ることを知っているのはタリムと手引きしてくれたドリーだけ。待っていろと言ってしまった。助けは来ない。

 突然、後ろで扉が閉まった。部屋は闇に包まれた。
「これで邪魔は入らない。私を滅ぼし英雄になりたかったのでしょう。なら、容赦する理由はありませんね」
 闇の中でも見すえられているのが分かる。
「獲物の方から来てくれるとはありがたい」
 舌舐めずりしているのが見えるようだった。

 昔話や怪談で語られる、愚かで不運な犠牲者の最後。関係のない見知らぬ誰かの事だと思っていた。
 これから魔物に食われるのはオレ自身。不運を嘆いても物語は終わってくれない。

「ヒザをつきなさい。その方が飲みやすい」
 言いなりになんてなりたくないのに体は勝手にヒザをつく。どうしてこんな事になったのか半泣きで考え続けていた。

「あなたの意思でしょう。食われるため、では無いだろうが……諦めなさい」
 冷たい手が肩と頭を掴んで、むき出しになった牙の方へ引き寄せる。全力で逆らおうとしたがダメだった。

 鋭い痛みに呻きが声がもれた。
 飢えが満たされる喜び。これはアレフのものだ。体だけでなく心まで自分のものではなくなってくる恐怖は、すぐに快楽に押し流された。

 己がなくなる喜び。大きなモノにすすり摂られ一体化してゆく不思議な安心感。今日までの記憶が現われて流れ去っていく。体が重い。力が抜ける。

 一階で塩入オレンジを飲んでいるタリムを感じた。奇妙なほどくっきりした幻想。ふいに現実だと悟った。これはオレの血をむさぼっているアレフが感じているもの。

 山越えの間、贄の体に配慮して控えめにしか飲めなかった。その不足を思う存分満たせると食らいついた空き巣狙い。
 都合のいい獲物だと思ったのに、仲間がいたことに焦っている。タリムも呼び寄せて呪縛できないか考えている。もう操り人形としては役に立たないオレにイラ立っている。飲みすぎたと後悔しながらも、死ぬまでまだ余裕はあると、口を離さず味と温もりを楽しんでいる。

 今すぐ逃げろとタリムに伝えたかった。タリムはオレの話を世迷言だと思いながら、不安であたりを見回している。
 何かを見つけたのか立ち上がった。

 暗い眠りに落ちる前、死を覚悟したのはアンディ自身。それだけは確かだった。

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5.命盗人


「またダチのお供か。人の恋路に付き合ってないで、自分の相手を見つけたらどうだい」
「しょうがないよ。俺はアンディの引き立て役だもの」

 北から熱い風が吹くこんな日は、塩入りオレンジが何よりのご馳走だ。一口飲んだカップをカウンターに置いて、タリムは台所の奥を見るふりをした。すけべ顔の給仕はアンディがドリーと裏庭でよろしくやってると思ってる。

 アンディがモテるのは仕方ない。長い手足と栗色の髪。涼しげな目に不敵な笑み。あいつが口説いた娘たちは、愛の力でアンディを働き者の真人間にして、幸せに暮らす未来を夢見る。そのためなら無理難題にも応えてくれる。

 オレンジみたいなツラしてるオレには出来ない芸当だ。愛嬌では負けるとアンディは笑うが、女に通じないんじゃ意味がない。もじゃもじゃした髪に手を突っ込んで、さっきの話を思い返す。

 アンディが生まれ故郷の話をしたのは一度だけ。ウェンズミート生まれで人外の支配者を昔話と思っていたタリムは、身を乗り出してはたかれた。東大陸に住んでいるのは絶望の中で日を送る無気力な人々と思っていた。普通に当たり前に暮らしてるってのが意外だった。

 それにアンディだって人ならざる城主を知らない。姿を見せなくなって何十年。きっと寝すぎて灰になっちまってると笑っていた。ヴァンパイアに怯えて眠る夜は、アンディの故郷でも昔話だと。

「きれいな男か」
「男に使う言葉じゃないな。アンディは精悍《せいかん》ってやつだろ。
今朝ついた金持ちのぼんぼんはキレイだと女どもは騒いでたが、俺は虚弱な男は好かんな」
「金と顔に恵まれても病気がち。人間そんなもんかもな」

「お供のおっさんは気に入ったけどな。豪快で太っ腹。おまえらもそういう歳のとり方するんだぞ」
 年下はみんなガキ扱いか。タリムは内心そっと舌を出した。

 城の使い。吸血鬼の手下。魔物に心奪われて人の苦みを喜びと感じる裏切り者。主の命令で村娘をさらっていったり、逆らう者を殺したりするのか。あの愛想の良いヒゲのおっさんが?

 普通のおっさんに見えた。目が据わってたり、陰険で冷酷な感じの悪党だったらまだ信じられる。アンディの恋敵になりそうな病弱な男が、魔物かも知れないなんて妄想もいいとこだ。

 だけど様子を見るだけ、確かめるだけと上がっていったまま、アンディはまだ戻らない。興奮した声。ヤツだとしても昼間は無力だと笑った顔。まさかと笑い飛ばしたい気分を、イヤな予感が押しつぶし始める。

「遅いな」
「恋人の時間は邪魔しちゃいけないよ」
 給仕の気取った言い方が鼻につく。オレンジの酸味が喉を刺す。

 しかめた顔を見せたくなくて表の方に目をやると、灰色の法衣をまとった娘と目があった。笑み崩れた給仕がオレンジを注いだカップに、貴重な氷を放り込む。玉子とバターの香りがする渦を巻いた焼き菓子と一緒に、娘が座った奥の席へ運んでいく。

「おごってくれんの?」
「もちろんです」
 給仕に向ける抜け目の無い笑顔。ドリーより若いから見習いだろう。でも、上には力をもった司祭や聖女がいるはずだ。

 丸いテーブルを挟んで、娘の前に座った。
「何か用?」

 金茶の髪がいろどる小さな顔は愛らしいが、紺色の眼はキツい。男の背中に隠れる女じゃない。オレなんざハナにも引っ掛けない自信たっぷりの態度。口説きだと誤解されたらヒジ鉄だ。

「ヴァンパイアがいる」
 本題から切り出した。
「まさか」

 鼻で笑おうとした娘の目が閉じられ、舌打ちと共に開いた。
「どこに?」
 タリムは上を指差した。
「北東の一番いい客室。様子を見に行ったオレのダチが戻らない。頼む、あんたの師匠を呼んで来てくれ」

 娘が腕組みして考え込む。
「シリル辺りじゃ吸血鬼が増えてるらしいけどさ。港では乗客も船員も一人残らず聖水かけて調べてる。荷物も全部開けて魔物が隠れてないか厳重にあらためてるよ。ベスタに入り込むのは無理だと思う。
 ……一応は確かめるけど。案内してくれる?」

「俺達だけじゃ、危ないんじゃないかな」
 アンディの話が本当なら、見習い聖女の手に負える相手じゃない。
「新参の吸血鬼なら昼間は無力よ。歳を経たヤツでも陽のあるうちは半分も力が出ないから。ほら、護身用の聖水」
 テーブルにガラスの小ビンが置かれた。

 タリムは小ビンを掴んで立ち上がった。重い足取りで階段を登る。すぐ後ろから聖女見習いがついてくる。扉の前で不安になって振り返った。
「大丈夫。不用意に近づかなければ。でも目には気をつけて」
 教会の人形劇でも、邪眼に気をつけろと言ってた気がする。

「扉は開けとくね。ヤバそうならここまで逃げるの。明るいところには出てこれないんだから」
 背中を叩かれて暗い部屋に入った。腹に力を入れる。今逃げたらこの娘は一人で確かめに行く。テンプルで修業して腕っ節が立っても、たとえ相手が魔物じゃなくても、若い娘ひとりに危ない事を押し付けられない。

 足音を忍ばせて奥の扉を少し開ける。隙間から覗いたが、暗くて何も見えない。

 手をついていた扉が急に大きく開け放たれた。よろめいたとき、娘に尻を蹴られて床に這いつくばった。

 顔を上げるとアンディの後ろ姿が見えた。寝台の側にひざまづいていた。腕はだらりと垂れている。栗色の頭を白い手が掴んでいる。肩にも白く長い指がクモの巣のように広がっていた。

 アンディの少し傾けられた首筋の向こうから見つめている眼。うなじの生え際の毛が逆立つ。アンディの頭と肩に這っていた白い手が消えた。

 薄青のシャツに包まれたアンディの上半身が、うつぶせに寝台に倒れ込む。

「連れてきてあげたわよ。貸し一つね」
 勝ち誇るような娘の声。
 後ろで扉が閉まった。

 暗闇に取り残されてあたりを見回した。寝台に目をこらしても人影は見えない。握りしめた小ビンの栓はカタくしまっていた。

 あの娘はどうしてこんな事をする。
 震える手を固い栓にかけた。冷たい手が体に触れたらぶっかける。聖水はヴァンパイアの肌を焼く。怯んだスキにアンディを引きずって逃げる。

 でも指が痛くなるだけで栓はビクともしない。口で開けようと栓を噛んだ。
「それは多分、ただの水です」
 意外と遠くで声はした。

 明るくなった。光源は芽を象った淡い緑の壁際のランプ。側に白いシャツ姿のヤツが立っていた。薄く笑っている。細いし色も白い。でも病弱には見えない。精気に満ちた力強さを感じた。

「いや、イタズラ好きの彼女の事だから、本物の聖水かな。
だとしても、あなたの歯を痛めるほどの価値はありません」

「あの見習い……つるんでたのか」
 深緑のじゅうたんに手をついたまま、タリムは呟いた。
「俺はバカだな」
 声がかすれる。昔みた人形劇。大きな黒い人形に捕まって貪り食われる小さな人形に、アンディや見習い聖女が重なる。

 オレも喰うつもりか。
 青白い顔を睨《にら》みつけようとして、目を見るなと言われたのを思い出した。視線をそらすと、寝台に上半身をあずけたまま動かないアンディが目に入った。

「ご友人はしばらく目を覚まさない。数日は起き上がれない」
 死んだらアンディも吸血鬼になるんだろうか。そしてオレやドリーや、コウノトリ亭のエミーを襲って、不死の呪いを広げるのか。

「ご友人は死んでも人のまま。安心して連れ帰って……面倒ならドロレス嬢に見させればいい」
 声にしていない疑問に答えが返ってくる。心を読まれている気味悪さと絶望感に手足がなえる。

「雇い主と客を裏切ってあなた方を手引きした娘は、短くても幸せな時を得るはずだ」
 ドリーの事もバレている。
 短い幸せ……
「アンディは死ぬ、のか」

「人はいずれ死ぬ。愛情のこもった看護で長らえる者もいる」
 はぐらかすような言葉。付け加えられた希望にすがっていいのだろうか。

「オレは、見逃してくれるのか」
「私に危害を加えない限りは」

 すくむ手足を動かして、アンディににじりよる。安らかな顔。色の悪い唇と、首筋の二つの傷さえ無視すれば、熟睡しているようにも見える。

 黙っていたら俺は助かる。でも犠牲者は増え続ける。ドリーや給仕や、宿の者がこの部屋に呼びつけられて……
 すぐ後ろで小さな笑い声を聞いてすくみ上がった。

「失礼。これを取っておきなさい」
 シャツの左ポケットに数枚のコインが滑り込んできた。重みから金貨だと思ったが額を確かめる余裕はない。

「騒いだら、俺たちが金貨を盗んだと言い立てるのか?」
「……なるほど、そういう手もありますね」
 何のために、そして、どうやってアンディが客室に入ったのか。説明できない弱み。

「汚ねぇ」
「あなた方とは共感しあえると思ったのですが」
 落ち着き払った声に怒りが込み上げてきた。
「共感? なんだそりゃ」
「どうしても必要な物を手に入れる方法が、少しマトモではないという点で。他人の物を奪わなくては生きていけない身の上同士、理解しあえると」

 耳元へのささやきに、首をちぢめた。真後ろにいるハズなのに体温を感じない。気配がうすい。わざとらしいため息は、温かくも冷たくもない。

「金貨に心動かされず、己の罪が露見することも覚悟の上。買収も保身も眼中に無い、潔癖で勇敢で立派な若者には、こう言ったっ方が良かったかな」
 首筋に冷たい指が触れる。

「私は昼でも動けます。齢を重ねた不死者は陽の光で即死はしません。少なくともこの宿にいる者全員の喉を食い裂くぐらいの事はできる。証を見せましょうか」

 鎧戸が開けられた。まぶしい光が差し込んで目を射る。恐る恐る目を開けると窓際で光を浴びている白く細い姿が見えた。

「あなたは勇気がある。見知らぬ他人をも守ろうとする立派な心がけもお持ちだ。なら、この宿の者全員の命を盾に取られてしまっては、どうしようもない。私を告発できなくても卑怯でも恥でもない」
 歯の浮くような世辞に秘められた嫌味。言葉でいたぶるのを楽しんでる。

「良心を眠らせるのは夕方、私が船に乗るまで。手続きはすでに私の仲間が済ませている。何より……」

「アンディ!」
 扉の開く音と、ドリーの声。
 悲鳴とともにアンディに駆け寄ってきて、ゆさぶった。ドリーは一瞬、敵意のこもった目で壁際の魔物をにらんでから、タリムにすがるような目を向けた。
「何があったの」

「だから、強盗だと思って突き飛ばしたら、打ち所が悪かったらしくて目を覚まさないの。一応、治癒呪はかけたから、二・三日寝込めば気がつくんじゃないかな」
 裏切り者の聖女見習いが、寝台の上に金の詰った小袋を置く。

「なんでアンディが部屋に入れたのか、聞かれるとあんたも困るでしょ。だから見舞金で手を打ちませんか、だって。
 そのお金で精のつくもの食べさせてあげて。弱っている時に優しくしてくれた女と結婚する男って、多いらしいよ?」

 ずるい手だ。いま陽の中に立っている吸血鬼にアンディは襲われたのだと言っても、たぶんドリーは信じない。いや、信じたい幸せな未来しか、ドリーには見えない。

 ぐったりした親友の体を肩にかつぐ。ドリーが心配そうに、でも、どこか誇らしげにアンディの脇に背を入れて支える。

 宿の下女をだましての泥棒家業は、そう長続きしないと思ってた。女たちが焦り始め、誰かが恋敵を蹴落とそうと密告でもしたらおしまいだ。

 アンディにとって、これが潮時なのかもしれない。

 聖女見習いが先回りしてあけた扉をくぐる。不意に満面の笑みを浮かべたのが不思議で、視線の先を振り返ってみた。

「熱っ」
 小ビンのフタを開けて、すぐに放り出し、恨めしそうに右手を振っている吸血鬼。
 中身は本物の聖水だったのか。

「バッカじゃないの。だいたい泊まってる宿で……」
 扉が閉まる直前、もれ聞こえたキツい声。自ら招いた窮地で女の手に頼り、逃れられない大きな借りを作ったのはアンディだけじゃないみたいだった。
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