夜に紅い血の痕を

著 久史都子

第二章 追憶の村

第一章に戻る | 第三章へ | もくじへ

    ページ内ジャンプ 1.老人  |  2.代理人  | 3.酒場  | 4.紅い夢
1.老人


 早朝から刈っていた牧草が、腰の高さまで積みあがったところで、老人は山を見上げた。
 紫にかすむ中腹に、堅牢な城の輪郭が見える。
 近くはボヤける老いた目も、景色を見るには支障はないわい。
 ほがらかな気分で、先日、村に来た彼らの事を思い出していた。

 あの3人は自信たっぷりだった。
 年は下のセガレより若い……30前後だろうか。
 銀色に輝く鎧をつけた隆とした戦士。法衣をまといテンプルの存在意義となしとげてきた戦果を熱心に語る若い司祭。優しく笑んで村人の不安を闇に怯える子供と同じ、と評した聡明そうな聖女。

 代理人以外の村人を広場に集めた彼らは、これから山の城に潜む血に飢えた悪鬼を滅ぼしに行くと宣言した。うろたえ騒ぐ村人を制したのは司祭の放ってみせた炎だった。火炎はまっすぐ立ち上り天を焦がすかと思うと、司祭の手の中に消えた。

「人は無力ではない。我々テンプルは長い研究と鍛練で、ヴァンパイアどもの邪法を打ち破るすべを編み出してきた。もう怯える必要はない。盗んだ命で不自然に長らえてきた化け物を、本来あるべき虚無へ叩き込んでやる」

 村人は顔を見合わせた。やがて1人が賛同した。老人も賛同した。あとは雪崩のよう。人々は口々に3人を激励した。最高のチーズや酒が振舞われ、テンプルからきた戦士たちをもてなした。彼らは村人に山の城主の事を聞けるだけ聞くと、翌朝、みなに見送られて出発した。

 代理人1人をのぞいて村人は期待に胸をふくらませた。
 山を見る目は、かつてのような怯えと不安ではなく、期待と喜びに満ちていた。
 そろそろ戻るのではないだろうか。


 50年前の悔しい思いがよみがえる。

 老人がまだ、少年だった頃。
 体が弱かった自分の分まで、元気一杯に家を手伝っていた姉は、本当に美しかった。肉親である少年の目にも姉は輝いて見えた。村の若者たちは姉にさまざまな贈り物をしては、しつこく求婚に来ていた。

 活発な姉は子供の頃から、木登りもウサギ狩りも、男の子より上手かった。熱を出しては臥《ふ》せることの多かった少年に比べ、姉は風邪も引いた事がなかった。姉には幸せが約束されていたはずだった。

 代理人はまだ前の代。山の城主が来る日、村の女たちは総出で代理人の館の掃除にかりだされ、わずかばかりの金をもらう。数週間に1度の行事、いつもの事だった。そして夕刻とともに訪れる賓客を出迎える。そんな、なんでもない行事が悪夢に変わったのは城主が代理人にささやいた瞬間からだ。

「あの娘は?」
 ヒザを軽くまげ歓迎の態度をとっていた若い女たちの間を無言の戦慄が走った。
「……マネの娘……クリスです」
 一瞬のためらいの後、代理人が答えたとき、気丈な姉の手がぶるぶると震えていたと隣のおかみさんから聞かされた。
「クリス、お前の血を少し貰いたいが、いいかな」
 城主は銀髪の若い男の姿をしている。涼やかな声も外見に相応しいというが、姉にとっては墓場から呼ばわる声に聞こえた。そう後で聞かされた。

 城主は数週間に1度、代理人の生血を吸いにくる。しかし何年かに1度、気紛れを起こして代理人以外の村人の血を求めることがある。命の輝きに魅かれるのだと誰かが言っていた。その時もっとも生命力にあふれ輝いている者を指名する。

 本人に許諾を求める口調だが拒否できるものではない。この村はもちろんこの大陸全てを2人で支配している権力者……というだけでなく、天候を操る魔力を持っている。彼らが制御しているから、毎年の豊作が約束されているのだと聞いた。もし、機嫌を損ねれば村の1つや2つ、豪雨で押し流されてしまうと。

「はい……ありがとうございます」
 姉が、かろうじて口にした答えを聞くと城主は代理人の屋敷に入った。

 駆け戻ってきた姉は顛末《てんまつ》を話した後、呆然としている家族に健気に笑ってみせた。
「で、何を望みましょう」
 見返りはあった。あるていどの金銭や財産が血の対価に支払われる。少年はもちろん母も父も無言だった。
「命まで取られる訳じゃないんでしょ。そんな深刻にならなくても」
 姉は笑っていた。

 家の扉が軽く叩かれ、家族の沈黙は深くなった。城主の使い迎えにきていた。ドルクと名乗った使いはていねいな口調と態度で、両親と姉に、代理人の家への案内を申し出た。そして何か望みはあるかとたずねた。

 家族の誰もが言い出さぬ中、姉が少し寂しそうに口を開いた。
「弟がお嫁さんをもらうとき、結納にする家畜がほしい。それと病気がちの弟を元気にする薬って、ありますか」
 ドルクは少し考えた後、少年の手足や腹に触れ、目を覗き込んでうなづいた。
「望みは叶えられましょう」
 夜の闇の中、姉は手を引かれて代理人の館へいってしまった。


 朝の光が差すまで眠らずにいるつもりだったが、有明の月が昇る前に少年は眠ってしまった。

 起きると姉は家に戻っていた。青ざめた顔でベッドに横たわり、母が心配そうについていた。バラ色の頬をした生き生きとした姉しか知らなかった少年にとって、憔悴《しょうすい》した白い顔の姉は別の人のように思えた。首には母が愛用していたスカーフが巻かれて傷を隠していた。

 姉はその日一日眠り、翌日、仔を孕んだ数頭の牝牛と羊、そして小ビンに入った薬が届いた時、目を覚ました。届けられた家畜を眺めていても、どこか夢でも見ているようにぼんやりとして、話しかけても返事があるまで妙に間があった。

 快活な姉に再び戻るよう、滋養のつくものは何でも食べさせた。やがて姉は床を離れ家事の手伝いもするようになったが、少しの無理で熱を出した。変わった香りの黒い薬湯を飲んで、寝込むことが少なくなった少年とは逆に、姉は病を得やすくなり、季節の終わりに臥《ふ》せる事が多くなった。

 それから2年目の冬、風邪をこじらせた姉は、あっという間に逝ってしまった。

 血と共に姉は寿命も吸い取られたのだ。そう老人は考えていた。
 人から吸い取った寿命で、城の主は500年近く生き長らえているという。

「とても奇麗な方だった」
 夢を見ているように語る姉を思い出す。そんなのはいつわりの若さと美だ。今の老人よりはるかに年寄りなのだ。大勢の人間から若さや美しさを奪って保っているものだ。

「最初は恐かったけど、目を見たら何も恐くなくなって。何だかとても幸せだった。噛まれた時もちっとも痛くない……」
 そう話したときの姉のこう惚とした表情がたまらなく悲しかった。あいつらは、まやかしをかけるのが得意だということを、姉は忘れたのだろうか。

 あいつの話をする時の姉は変に美しくて心が騒いだ。当時は分からなかったが、今ならそれは色気だと言える。姉はしじゅうため息をついて、何かを探すかのように視線を宙にさまよわせていた。何をというより誰を探しているのか解っていた。
 しかし姉をこんなにしたあいつは、気紛れでした“食事”の事など、すぐに忘れてしまったろう。

 姉が死んでから10年後だったろうか。
 2軒先のネリィという娘が、城主の指名を蹴ったのは。

 いまだに認めたくなかった。信じたくなかった。ネリィは咎《とが》められなかった。村も咎められなかった。しかしネリィは奪われた。“食事”ではなく愛人として遇され、永遠の命をもたらす口づけを受けた。
 そして口づけを授けた真始祖ファラが滅びた時、ネリィもまた滅びた。

 あいつは女を不幸にしかしない。当時結婚をして最初の子供をもうけていた老人はあざ笑った。

 ネリィの死は城主にとっても痛手だったらしく、以来、姿を見せなくなった。
 すでに40年はたつだろうか。その間に老人の子は成長して結婚して孫が出来た。妻が死んだのは去年のこと。老人が妻の元へいく日も近いだろう。

 この40年、天候は制御を失い、時々日照りをもたらしたが、ひどくなる前にバフルを治める城主がなんとかしてくれたらしい。山の城主はすでに滅びたと言う者もあったが、代理人の様子を見るかぎり、まだ血の呪縛は解かれておらず、健在が伺い知れた。
 それに従者のドルクだけは時々村を訪れ、代理人の屋敷に集められた税を城に持ち帰り、城で働く半ば人、半ば魔の者のための食料や日用品を今も買っていく。

 老人は腰を伸ばした。
 あのテンプルからきた3人は姉の仇を討ってくれたのだろうか。老人の目は山へと続く道をたどった。凱旋する人影が見えはしないかと探す。目のはしに何かを捕えた。道にそって動く何か。朝と昼の中間の透明さをまだ失わない、光の中を歩んでくる人影。
 目を凝らす。数は2つだ。そして……

「ひっ」
 思わず声が出た。2つの人影は銀の鎧をつけていないし、灰色の法衣も、白いローブも着ていなかった。黒い衣装の……武装した男と悠然とマントを風に揺らせている若者の姿をしたもの。はっきりと見えたわけではないが老人は確信した。そしてカマもスキも打ち捨てて、まろびかけながら村への道を駆けた。

 あのテンプルから来た3人がどうなったのか、考えるのも恐ろしかった。なぜあんな事に加担したのか自分が呪わしくなる。村は謀反の意志ありとして滅ぼされるのではないか。老人の脳裏に無邪気に笑う孫の顔が浮かんだ。

「アレフ様が……」
 村に入るなり老人は叫んだ。若いものはきょとんとしたが、年かさの者の反応は早かった。
「山の城主がこっちへ来る」
「あの化け物が」
「あの、テンプルの司祭様は? 聖女様は?」
「隠れろ! 殺されるぞ」
 やがて恐慌は若者にも伝染し人々は家へ駆け込んだ。扉のカギをしめ、よろい戸を落とす。それが気休めであったとしても。

 40年待ち続けた代理人は喜んでいるだろうと老人は思った。
 胸が苦しい。村まで走り続けだった。
 孫たちにも誰かが知らせてくれただろうか。

「じいさん、急げ」
 誰かが老人に肩を貸して、どこかの家につれて入ってくれた。老人が日陰にはいると背後でカギを閉める音がした。目をあけるとそこは酒場で、店主が冷たい水をくれた。

 カウンターでは2人の行商人を含む客たちが、声高に喋っている。
「あっ」
 窓をみていた若い酌婦が短く声を上げた。
 数人が窓にとりつき無人の道を歩む2つの人影を目で追う。
「ほんとに、来やがった」
「でも、奇麗な方」
「バカヤロウ、生血を吸われたいのか」
 押し殺したささやきは、やがて沈黙に変わった。

 手が白くなるほど握り締めていたカップをそっと床に置いた。その小さな物音でも注目を浴びてしまう。そんな張り詰めた店内で、老人は床に座り込んだまま動悸《どうき》が収まるのをひたすら待っていた。

1.老人へ  | 3.酒場へ  |  ページtop

2.代理人

 村がざわついている。
 それが、最初に受けた印象だった。
 煙突のけむり。堆肥の臭い。刈られた青草。そして人の息遣い。
 40年前の記憶にあるのと大差ない家々の営み。
 しかし畑にも水場にも、働いているべき場所に人影はなく、道も広場も無人だった。

 空気にみちているのは煮えたぎるような緊張。投げ出された農具や風で転がる麦藁帽が、ほんの少し前までここにも人がいたのだと、寂しく主張していた。
 よく知っている道を、それでも案内するドルクが皮肉な笑みを浮かべた。
 (普段はもっと賑やかなんですがね)
 そう心がつぶやいている。

 耳を澄ませば鍵をしっかりとかけた戸口の向こうで目配せしあいながら、恐れと不安とわずかな憧憬をつぶやく声が聞こえる。
 アレフは苦笑していた。これ程まで化物扱いされたのは初めてだ。

「よく、代理人の館が焼き討ちに遭わなかったな」
「村人は分をわきまえておりますよ。反乱を起こす度胸などありません。せいぜい、討伐隊に酒を振舞って鼓舞するのが精一杯。
罰をお与えになりますか? あの愚かな勇者たちに親しくした者に」
 アレフは軽く首を振った。そして青空に目を向ける。
 太陽は北の空を目指して駆け上がろうとしていた。

「では、館の方に。そう……分かっておられると思いますが、彼に慈悲を与えてやって下さい。忠実な代理人として、ずっとアレフ様を待ち続けてきたのです」

 二階建ての代理人の館は、記憶より少し色あせている気がした。黒い石の門をくぐり、鉄の鋲《びょう》が打たれた堅牢な扉を開いて、ドルクが中を指し示た。

 陽光から逃れて一息ついたアレフの目に白髪の男が映った。頑健だった肉体は少ししなびていたが、端正な姿勢は失われていない。しかし皮膚には深いしわが刻まれ、目はアレフの姿をよくとらえていないようだった。
 彼はもう70歳を超えている。生気と自信に満ちあふれた壮年の戦士ではない。

(アレフ様……アレフ様……)
 しもべの心は叫び続けていた。
「私だよ。よく待っていてくれたね」
 話しかけたとたん痩せた喉からうなり声がもれた。しわ深い目に涙が湧き出す。近づいたアレフの腕を、ブルブルと震える手が確かめるように触れた直後、床に膝をついた。

 「お待ちしていました……40年……ずっとずっと。
アレフ様には一眠りでも、わたくしども人にとっては……」
 心に苦い光景が去来するのが見えた。ひとしきり泣くようなつぶやきが続いた後、不意に彼は立ち上がった。顔は泣き笑いになっていた。
「すみません、取り乱しました。どうぞ」
 目を閉じて手を下ろし頭をめいっぱい後ろに反らす。しわと筋におおわれた痩せた喉があらわになる。

 アレフは動揺した。これほど年老いた者から“食事”を採ったことはなかった。
 しもべたちは大抵短命で、50歳程でみな後継者に後を委ねて死んでいった。しもべ以外の村人を欲しいと思い、この館へ呼ぶことはあったが、それもほとんどは年若い、まだ20歳になる前の者たちだった。

「はやく……」
 ドルクが少し懇願するように促した。彼が待ち続けていたのは分かっていた。しかしこの奉仕は、命と引き換えになりはしないだろうか。

 代理人の心に失望と悲しみが広がるのが感じられた。待ち続けているうちに己が主の欲望の対象になる資格を失ったことを悟り始めている。時が彼から奪ってしまったものは大きい。

 しかし、今の村の状況では身代わりを差し出すのは難しい。主に選んでもらうために、館の庭に村人を並ばせるだけの権威を彼は失っていた。主の歓心を得られそうな健康な若者や美しい娘を館に招集する力はもうない。主の期待を裏切ってしまった罪悪感が浮かぶ。
 それらを読み取りながらアレフは決心がつかないでいた。

 しもべがゆっくりと頭を元に戻す。申し訳なさそうに目が伏せられる。悲しみと絶望、そして足もとの崩壊感。
 慈悲を……というドルクの言葉を思い出した。
 アレフは痩せた肩に手を伸ばした。
 触れた瞬間、しもべの体が緊張する。
「いいのか?」
 しわ深い顔が幸せそうに輝いた。

 もろいガラス細工を扱うように注意深くしもべの肩に手を置き、引き寄せる。かつてアレフより逞しかった腕は細く、胸も薄くなっていた。手を回しそっと抱き締めた。しもべが目を閉じて再び頭を反らす。たるんだ皮膚が昔の感覚を思い出して期待に震え緊張している。喉ぼとけがはっきりと上下に動いた。脈動する紅い流れの位置を確認しながら、欲求のたかまりを覚えてアレフは微かに眉を寄せた。

 城の地下で哀れな捕虜から満足するまで飲んできたのに、この枯れたしもべからもむさぼろうとしている偽りの本能に嫌悪感を覚えていた。結局血さえ味わえるなら相手が誰だろうと気にしない怪物が心に棲んでいる。悲鳴を上げ抵抗する侵入者でも、黙って従順に喉を差し出す臣下でも。

 少し相手の体を傾ける。心得てしもべが首をそちらへ少し曲げる。すでに繋がっている心に恍惚と安らぎを呼び起こした。痩せた体から緊張が解けていくのを感じながら首筋に顔をうずめる。唇で細くなった血管を探り、痛覚が麻痺しているのを確認してから、牙を突き刺した。

 溢れる血の味と香りに歓喜する。それを相手に伝えながら冷静さを失わないように、気を引き締めた。
 一口分飲み下したところで中断する。治癒の呪をかけながらしもべには喜びを伝える。枯れた喉から呻くようなため息が漏れた。
 傷口にしみだすわずかな血を未練がましく舐めとってから、痩せた体を静かに抱き上げた。

 至福の笑みを浮かべた軽い体を寝台に運んだとき、罪悪感が込み上げてきた。すべてはニセモノだ。しもべが感じている快楽は、アレフが昔植えつけたものだ。血をすすんで提供するよう快楽中枢をいじって作り上げた、不自然な陶酔。

 しかし、それは己自身にも言える事かも知れない。不死の肉体を保持し力を得る為の生者の血。それを求める渇望と血をすする時に覚える歓喜。全てはためらいや罪の意識を乗り越える為に植え付けられた不自然な欲望かも知れない。

 しもべの幸薄い生涯に哀れみを覚えているのに、口の中に残る血の味を楽しんでいる、飽きを知らない欲望。
 真始祖ファラの心配そうな顔を魔法陣の中から見上げた時。この体に変化して、初めて目を開いた時から、既にあった衝動。

 代理人のしわ深い寝顔をもう一度見下ろしてから、光の一切入らない地下室へ向かった。招かれざる者に心理的な圧迫を与える呪を施した厳重な扉も、すみに置かれた書き物机も、地の力を取り込む結界を施した黒く艶やかなひつぎも、ていねいに磨き上げられホコリひとつ落ちてはいない。

 浮き彫りが施された蓋を開き、紗布を張った狭い空間に身を横たえる。闇の生を削る昼の過酷さも、ここにだけは届かない。目を閉じ意識をほどいていく。物理世界を動かしている精緻《せいち》な法則の夢を見ながら、しばしまどろむために。

 父の事は確認するまで考えたくなかった。
 人々の変化も、うつろいやすい、もろく短い人の命が造り出す営みや、政治といった面倒な事も……。

 それでもアレフはこの大陸の半分近くを“持って”いた。いくつかの小さな村と町、そして貿易港が1つ。そこに暮らす領民に責任がある。
 しかしすでに制度は完成され、数百年の間、予想外の事はまず起こらなかった。

 必要な血を提供してくれる人々。支配を確実にするために啜る代理人という名のしもべの血。これは形だけ、ほんの数口、時には舐めるだけ。健康をそこなわないように、時間をおいて慎重に飲む。

 不足した分は数ヶ月か半年に一度、しもべが用意してくれる贄から欲しいだけ貪った。人の少ない村では数年に一度。貿易港を持つ町からは毎日数人の贄を提供させる事もできた。

 何百年とその習慣は続き、変化は世界の秘密を解き明かして行く知的な道程だけのハズだった。
 領民は従順な提供者でそれ以上のものではなかった。欲しいと言えば形式的な承諾を得るだけでしもべの館で味わうことが出来た。拒絶する者がいると聞いてはいたし。しかしアレフの要求はいつも叶えられていた。

ネリィに会ったあの日まで。

2.代理人へ  | 4.紅い夢へ  |  ページtop

3.酒場

 魔物と従者が代理人の家に消えると、酒場にため息が満ちた。代理人はなぜ奴が来ることを知らせなかったのかと、老人は腹を立てた。山の城主が下りてくる前には必ず知らせがあるはずだ。代理人は、城の主に呪縛されその意志を感じ取って村人に伝える役をしていたはず。

 いや、代理人は多分、村人に知らせるのを諦めたのだ。
 あのテンプルの3人を歓迎した村人が、主を迎えるために代理人の屋敷の掃除などするはずがないと。また少し不忠な村人への仕置と言う心積もりもあったのかも知れない。城主の滅びを願った村人への報復はなんなのだろう。

「あ、ドルクさん」
 窓を見ていた者がつぶやいた。ヒゲの男がこちらへやってくる。途中、ロップの店によるのが見えた。数瞬の押問答の後、よろず屋は扉を開いた。普段通りにしてテンプルの連中に力を貸した事には口を拭おうと言うのだろう。

 酒場の店主も目配せをした。そしてカギを開ける。
「いいか、いつも通りにするんだぞ」
 抗議しかけた者も、代案が無ければ黙りこむしかない。

 いつも買物を済ませた後、ドルクは酒場に立ち寄り、亭主に噂話を聞いていく。そんな事をせずとも様々な神秘的な手段で、作物の出来も気象のことも知悉《ちしつ》しているはずだが、村人の考えを、自らの主の評判を知るためなのだろうと、老人は思っていた。

 扉が開く
「いやあ、久しぶりだね」
 陽気な声がした。少年の頃家に姉を迎えに来たときは丁重で礼儀正しい態度だった。そして普段は気さくで陽気な男を“演じて”いる。
 少なくとも老人にはそう見えた。

「これは、ドルクさん……2ヶ月ぶりですか」
 店主がどこかぎこちない笑みを浮かべる。麦から作られた発砲酒を注いでいる手も微かに震えている。

「こないだ城に3人の招かれざる客がきましてねえ。この村にもご迷惑をおかけしませんでしたか?」
 酒杯を受け取ったドルクの放った言葉は酒場に居た全員を一瞬凍り付かせた。

「え、ああ、あのテンプルから来たというウサンクサイ連中ですか」
 店主が無理に笑顔を造る。
「ああいう詐欺師みたいな手合いは好きにはなれませんな」
「ほう」
「大言壮語がはげしくて、妙なまやかしを見せて酒や食い物を要求しました」
 一番熱狂していた男が言う。
 その豹変ぶりに老人は呆れて悲しくなった。
 あの3人は多少尊大だったが、命懸けで村の為に戦おうとしていた。その心意気に老人は打たれたのに。

「まあ、そうでしょうね。テンプルは魔物を追い払うと言っては、多額の寄付や寄進を要求するらしいですよ。断わると、魔物を召還して人を殺させるといいますし」
「え?」
 ドルクの言葉に酒場の者たちが驚く。

「連中の召還した魔物どもの気色の悪いことと言ったら……。城にはいりこんだ奴らを一掃するのにえらい手間がかかりました。あんなのがこの村を襲っていたかも知れないと思うと、いやあ、ぞっとしますね」
 麦酒を飲み干してわざとらしく体を震わせてみせる。

「で、その3人は?」
 恐々と誰かが聞いた。
「私としては、あんな人の姿を借りた災厄はさっさと始末したほうが、世の中にとって良いと思っているんですが……アレフ様はお優しいですから。
命までは取らず、“口づけ”だけにとどめられました」

 ならば死と同じではないか……。老人は思った。生命力を血とともに吸い取られ半病人となった奴隷。城主の意のままになる人形にも等しい。

「数日したら城の者にこの村へ送らせるつもりなんで、クインポートから船にのっけて送り返してやってください。費用は代理人に預けてありますからね」
 ジョッキをかえしドルクは立ち上がると、代理人の館へ戻っていった。

「おとがめナシか」
 店主が息を吐いた。
「あいつらも、ホント、言葉ばっかりの連中だったんだな」
「金をとられるのか」
 ざわざわと話し始める客たちには、もう城主に逆らおうと言う気概の気配すらない。

 40年の歳月がはぐくんだ反抗心は、たった一度の城主の来訪で朝露よりもはかなく消えた。老人は下唇を噛んだ。しかし今、代理人の屋敷に押しかけて、光を避けて地下室で眠る魔物の胸にクイを打つ度胸はない。
「姉さん……ごめん」
 かすかなつぶやきが老人の唇から漏れた。

3.酒場へ  |  ページtop

4.紅い夢

 真昼の夢の中では、数十年前の思い出も幾百年も昔の記憶も、ひとしく色と音を得てよみがえる。数えきれない夜をつなぐアレフの追憶は、ほとんどが真紅で彩られていた。

 温かい体から今の冷たく青ざめた体となる過程は、眠らされている間に終わっていた。
 セントアイランド城の最深部にあった秘術の間。金と珠で硬い床に象嵌された魔方陣から起き上がったときには、使われたはずの幾つかの薬剤も、奇跡の触媒たる賢者の石も、全て片付けられていた。それは秘密を守るためだという。不死化の術の詳細を知るのは大魔法士ファラただ1人。

 そして、視力を始めとした五感と精神感応力の飛躍的な増大と、手足の筋力の感覚の相違に対する驚きと共に、欲望はすでにあった。

「分かっていますよ」
 優しく豊かな声が安心させるように響き、美しい手がアレフを別の部屋にいざなった。裸でいる羞恥心より、ファラがこれからくれるものに対する期待のほうが強かった。

 白い小部屋に案内され、薄ものをまとっただけのほっそりした少女を見つけた時には、どうすればいいかもう分かっていた。
 怯え震えている少女に笑みかけ、その目を捕えて術をかける。
 以前ならとても出来なかった行為へ、欲望が導いてくれた。

 少女の心に偽りの恋情を生じさせた。他者の心をいじる事に嫌悪を覚えていたなど信じられないほど自然に。  昨日までは一番魅力を感じていた胸のふくらみや露わな足より、薄い皮膚をかすかに波打たせる首筋の脈動に魅かれた。抱き寄せて少女の温かみを確かめてから少し腰をかがめ、新しく生えた牙を初めて使った。

 簡単に皮膚と血管を貫けた。
 あふれ出した温かい液体を夢中で飲んだ。少女の口からあえぎ声がもれ、記憶が流れ込んできた。幼い頃の親への思いや、友達の顔、初恋のときめきと苦い思い出、姉が陥っている苦境、悲壮な決意。短い人生が流れ落ちていった……彼女には家族を救うだけの財貨を得る方法がこれしかなかったのだ。涙を溜めた姉の顔がよく思い出せない。

 そっとファラに肩を掴まれた。少女を離す様うながされた。
 少女の体から力は失われ、意識も薄れ混濁していた。
 しぶしぶ口を離したとき、耳元でささやかれた。
 「飲み尽くした時は気をつけて、同情から力が働いて贄を仲間にしてしまう事がありますから」

 動揺や罪悪感はあった。しかし確かな快楽も覚えていた。
 数日前、ああいう楽しみはもう最後だと言う父の手配で、宿に呼んだ遊び女の嬌声や柔らかな体から得た喜びより強烈だった。

 泣いたのは、震えていたのは、少女の命が消えていく哀しみのためではなく、1人の人生を破壊してでも生き血をむさぼろうとする、己が恐ろしかったせいかも知れない。

 快楽は悪を良いことだと錯覚させる。そんなに悪いことはしていないと言い訳をさせる。
 楽しかったから……だって、仕方のない事だし……。そう、心が自己弁護を始める。

 身なりを整えながら、すでに父から聞いていたこれからの生活の注意点を聴いていたとき、疑問が沸いてきた。しかし尋ねることは出来なかった。


 セントアイランド城の広間には、新しい不死者の誕生を祝福するため、ヴァンパイア達が集まっていた。
 月明りだけを照明にした、花と血の香りが混じり合う祝宴。そこには酒も料理もなかった。悲しげな笑みを浮かべた、あるいは強ばった顔をした、若く美しい人々が宴席にはべっていた。彼らがこの宴の美酒であり佳肴だった。
 そんな生け贄たちは、滑らかな足取りで始終入れ替わり、何人いるのか主賓であるアレフにも分からなかった。

 笑いさざめきながら、気が向くと側にかしずく若者や舞っている乙女を捕え、牙を閃かせる同族たち。10人いたはずだ。中には誇らしげな父の姿もあった。夜明けまでに幾人かの若者と乙女が青白い者たちの間で冷たくなっていった。

 さっきの少女から受けた衝撃が生々しく心に残っているにもかかわらず、促されて、側に控えていた若者を呼んだ。
 「男は量がたっぷりあるし、熱いですよ。ためしてみなさい」
 笑顔で勧めた同族は、乙女のぐったりとした体を抱き締めていた。

 黒髪の若者は覚悟しているように前に来てうなだれた。背は少しアレフより低いが体つきはしっかりしていた。筋肉のつきかたから普段力仕事をしているらしいと見当をつけた。アレフの知らない世界を知っている若者。雰囲気に流され目で射すくめる前に抱き寄せた。

 不意に腕の中の若者の筋肉が盛り上がった。無言で若者は巻き付いた冷たい腕から逃れようとした。それを押さえつけていられる事に優越感を覚えながらゆっくりと締め上げていったのを覚えている。やがて若者から挑戦的な気迫が失われ力が抜けた。顔に敗北と諦観が現われた。

 屈伏させ無抵抗になった若者の喉に唇を這わせたときに再び疑問が沸いてきた。
 血への期待でわくわくしているのは本当に自分なのだろうか。さっき少女の命を貪り、まだ飽き足らずにまたあの快感と高揚感を求めようとしている。この欲望や悦楽は、施術の時植え込まれたものではないだろうか。昨日までこんな欲求は無かったはずだ。

 他の心の動きは人だった頃とあまり変化してはいない。この血に対する欲求は術によるもののはずだ。このどうしようもない欲望。己があさましい訳ではない。これは仕方のないもの。真始祖ファラが植え込まれた恩恵なのだろうから。

 しかし若者の喉に牙を突き立て血とともに若者の心をも味わっていた時に、違うのではないかという疑念が広がった。

 若者の心は乱暴な争いと勝利の喜びに満ちていた。苦しい生活の中で真に生きていると実感出来るのは誰かと殴り合いをしている時。過激な日常。はずみで人を殺してしまった彼は、償うためにこの宴を選んだ。

 ただ従順に贄になるのではない。彼は力自慢だった。本当に不死者が人間離れした力を持っているのか、命がけで試したいという挑戦的な気持ちもあったようだ。自分のほうが強いはずだと根拠の無い自信を抱いていた。己がものよりはるかに華奢な腕に捕らえられ、締め上げられるまでは。

 アレフが驚いたのは若者が血を見て興奮した記憶だった。なぐりつけ、血が飛び、唇が切れて塩辛い味が広がる。若者はそれを楽しんでいた。そして今アレフが感じているのにそっくりな高揚感を覚えていた。

 血の色が人を興奮させる事は知っていた。しかしそれは単なる知識だった。闘鶏や闘犬が行なわれている場所には足を踏み入れなかったし、事故やケンカに群がる人々を侮蔑の目で見ていた。それらは自分とは関係の無い衝動だと思っていた。

 しかしアレフも野蛮な彼らと同種の生き物だった。昨日までは。そして基本的に不死者へ変化するとき精神はほとんど変化しないということになっていた。
 慄然としてアレフは若者の喉から口を離した。若者が呻きながら退がるのにまかせた。

 この浅ましい欲望は、血を味わう時に覚える高揚感や歓喜は、元もとあったものではないのか。人間なら誰でも持っているもの。それが実現するだけの社会的な地位と物理的な力を得て、あらわになっただけの事。  ……その考えは自らの偽善性を暴いたような気がして、しばらく頭を悩ませた。

 今となっては元からあったものであろうと植え込まれたものであろうと、増幅されたものであろうとアレフの本質の一部を成している。

 あの少女以来、この欲求を満足させる際に腕の中で殺した事はない。配下となる力を分け与えた死者を作ったこともなかった。アレフが滅びるとき彼らは道連れになるのだ。そんな重荷を負いたくはなかった。


  甘美で苦しい夢が始まる。

 ハツラツとした手足。真剣な瞳。日の光をいっぱいに浴びて輝く蜜色の髪。アレフの求めを拒絶した娘。血の提供に首を横に振った始めての人間。
 ネリィは教会の事を語った。それは受売りで好みの理屈や教義だけを抽出した勝手なものだったが、過去から続く慣習を打破する心理的な後ろ盾を彼女に与えていた。

 諦めないこと……
 捕えられ、見せしめに両手を奪われた男がアレフに語った、屈伏しない理由。
 落ち着いて穏やかに迫害者の1人に話す、力を持った言葉。
「明けない夜はない……」
「人の術で作られたものなら人の術で打ち破れる……」
「元は同じ人であったのに、なぜお前は人から命を盗む?」
 それは200年の時を経てひとつの思想になっていた。

 アレフを沈黙させた静かな問いは、かなり過激な活動に変化してるようだった。驚きは興味を産み、ネリィとの会話を楽しむ中、彼女の理解がアレフより浅薄なのを知ったが、その頃には瞳のきらめきや常に変化する感情。不可思議な感性に魅かれていた。
 聞きかじりの教義は彼女の一部でしかなかった。

共にいながら完全には理解しあえない心の響きを楽しむようになった。理解できないのに離れがたく結びついていく想い。生身の肉欲からは開放されているはずなのに、存在を確かめるために抱き締めたくなる衝動を感じていた。そんな事をすれば怯えて遠ざかると分かっていたから、つとめて距離は保ち続けていた。

 距離がなくなったのは、いつものように呼び出した後、ネリィのおしゃべりを聞きながら木にもたれかかって目を閉じていた時だった。

 虫の声や、風が星の間を渡る音を聞きながら、すぐ側に柔らかな体が近づいてくるのも感じていた。野性の小鳥がどれだけ近くまで来るのか確かめるように動かずにいた。触れるほど近づいた時、あたたかな唇が押しつけられた。

 驚いて目を開けたとき恥じるような訴えかけるような目に出会った。咎められるかという不安に目が宙をさまよいながら、口は決意に引き結ばれていた。勇気……その一言で示される心が彼女の魅力の根幹だと分かった。

 思わず抱き締めた時、彼女の体が恐怖でこわばった。しかし抵抗はなかった。糧にされるのを覚悟した上での想いを伝えるキス。目を閉じ喉への痛みに耐えようと固く閉じた唇を冷たい唇で塞ぐ。緊張が解けた温かな唇が蕾のように開くのを奇跡のように感じていた。おずおずと細い手がアレフの体を抱く。

 なぜこんな無意味な情熱が存在するのか理解できないまま唇の感覚に心を奪われていた。遠い記憶にある荒々しい衝動も体の変化も起きない。生殖に何の寄与もない結びつき。それでも、本当に生きていた頃にした経験より、鮮烈で重大なものだと感じていた。
 同じ感情を彼女も抱いているという認識が生み出す幸福感。何よりこれは術で生み出した偽りの心ではない。

 そして世界は変わった。


 ネリィの名を口にするだけで、「アレフ」と呼ばれるだけで、笑顔がこぼれる。周囲が光のきらめきに感じた。何もかもが初めてみるように鮮やかだった。ともにいたいと言う闇雲な想い。幸福な時間は長く続かないと知っていたからこそ夢中になった。

「同じものになりたい」
 ネリィの言葉は驚きだった。喜びと同時に理由の無い不安を感じた。今なら止めるべきだったと言える。しかし、明日のことなど分かりはしない。ただ永遠に一緒にいられるという無邪気で幸福な未来しか想定できなかった。

 しかし、完全に心を通じあわせてしまえるアレフの配下として不死を与えるのは、ためらいがあった。同じではないからこそ愛しいのだから。それに万が一の時、愛する者まで道連れにはしたくなかった。

 別の不死者の配下として、ネリィの不死を求めた。
 真始祖ファラに頼んで望みをかなえてもらった。
 それは2人にとっての結婚式だった。
 祝福の死を与えられ、そこから目覚めた彼女をかき抱いたとき、幸福の絶頂に酔っていた。月明りの中、何時間も抱きあい唇をかさね、たあいない会話に時をついやす。
 夢のような1ヶ月が過ぎた。

 月明りの見事な夜、咲き初めたバラを見せようと、窓際に導いていた時だった。
 不意に彼女が表情をこわばらせ自分自身を抱き締めた。
「か……体が……」
 異状に気がつき、動転して彼女の体を抱き締めた。
「たすけて……アレフ!」
 そして絶叫、あれはどちらの上げたものだろうか。

 腕の中で彼女の体は溶け崩れ骨すら脆く壊れ、そして一塊の塵になりはてた。泣きながら蘇生呪を叫び腕を切り裂いて血をふり注いでも彼女は再生しなかった。
 ファラの滅びを知ったのは、正気を失いかけた数日後だった。

 自身を責め、死の眠りへ逃げても、夢は何度も繰り返した。
 同じ夢、今見ているのと同じ甘くて痛い夢。


「アレフ様、もう日は傾きました。そろそろまいりましょう」
 ドルクの声が現在に意識を引き戻した。
 目を開き、手探りで蓋をあけ、身を起こす。
 薄明りの地下室。人にとっては真の暗闇に見える場所。
 どこへ行くのかという疑問の答えは、すぐに思い出した。

「生きてきた甲斐がありました」
 西日の中、喜びに満ちた顔で見送る下僕の館を後にした。

 彼女の……ネリィが人であった頃住んでいた家は、もう建て直されていた。
 懐かしい、初めて触れあったあの木が残っているのどうかも分からない。

 村を出るときもう一度振り返った。
 あいかわらず鍵をかけた扉の向こうから伺っている人々。しかし最初より慣れたのか、緊張の度合いは少し薄まっている。

 その気になれば、彼らが恐れているような怪物として振舞う事もできる。
 板を引き裂き、怯えている人々を引きずり出して、その喉を食い裂く事も……あるいはもう少し穏やかに、心に干渉して誘い出し偽りの恋を植え付けて、この腕に飛び込ませる事も。

 微かに笑って考えを追い払う。
 悪意を悪意で返す必要はない。慈悲を返して悪意を溶かすべきだろう。時には奇跡のように通じあう事もあるのだから。元は同じ存在だったのだ。

 背を向けたとたん緊張の解けるため息が無数に聞こえた。道を急ぎながら、かつてほど傷が痛まない事に少し寂しさを覚えていた。

第一章に戻る | 第三章へ | もくじへ |

-Powered by 小説HTMLの小人さん-