夜に紅い血の痕を

著 久史都子

第一章 目覚め

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1.目覚め


 中庭から立ち上るバラの香りがそよ風となって蜜色の後れ毛をゆらす。広がるドレスのスソが繊細な光の渦を生む。即興の歌声にのってマントをひるがえし、回り込んでネリィを支える。白いサテンに包まれた細い腰がしなやかに反り、ほほに伸びる手が新たな回転に誘う。

 山の城館で繰り広げられる二人だけの夜会。踊り続けても息切れすることのない歌声に笑い声が混じり、やがてメロディはとぎれ、気ままなな輪舞は終わった。

「新種の白バラが咲いたよ、ここからも見えるはずだ」
「なんて名前?」
「まだ……二人で決めようと思って」
 手を差し伸べ、明るい北のテラスに誘う……この先には行きたくない。

 白い指から爪がはがれ落ち、みずみずしい唇がただれ崩れる様は見たくない。
 幸せだった頃の夢の中で、無限のワルツを踊っていたい。



「やめてっ、殺さないで!」
 涙と怒りで真っ赤になった娘の顔が割り込んできた。髪の色は似ているが、ネリィの穏やかな笑顔とはカケ離れた嘆きと憎しみ。
濃く青い瞳が心を射抜く。

(なぜ、我らをお見捨てになった! くちづけを頂いてから四十三年。全てをかけて血と忠誠を捧げてきたのに。お応え下さらぬなら、この血の絆をもって御身を呪詛いたしますぞ! せめて娘だけでも、どうか)

 全身の痛みとひり付くような憎悪、そして焦がれるような願いが突然、断ち切られた。
 残ったのは不安ただよう虚無の暗がり。



 支離滅裂《しりめつれつ》な悪夢の彼方から、呼ぶ声がする……

「マイロード……アルフレッド・ウェゲナー……十一番目の血の盟主……アレフ様」
 おだやかで深い従者の声。
 安易な逃げを許さない強い意思がこもった言魂。



 唇に熱いしたたりを感じる。
 血にこもるのは焦りと目覚めを切望する想いと……強い恐れ。
 渇いているからといってドルクを襲う事などありえないのに。いつもどこかで死を意識している人間臭い従者に、微笑みかけて安心させてやろうとしたが、乾いた唇も舌も動かなかった。まぶたも目に貼りついたように動かない。胸の上で組んだ手も石の様にしびれていた。

 長い眠りの中で筋肉が動き方を忘れてしまったらしい。
 笑いの発作が起きそうになったとき、唇のすき間から鉄臭さと塩辛さが染み込んできた。固まっていた舌が動きを取り戻し、全身のしびれが解けていく。
 同時に、キリキリとした痛みが皮膚からも内臓からも押し寄せる。強く意識しないと指一本動かせない。目を開くというのは、こんなに努力が要ることだったろうか。

「お目覚めになりましたか」
 従僕の衣装をキツそうに着込んだオオカミという図は、いつ見ても不思議に和む。蝶ネクタイくらい外せばいいのに。頭以外の骨格は人に近いから、見掛けほど苦しくはないのだろうが。
 それにしても、なぜ泣いている?
「落ち着いて、聞いてください。御父上が……ロバート・ウェゲナー太守が」
 ついに勘当されたか。

 ネリィを喪ってから夜が明けるまで泣き続け、最後には血の涙も枯れて、夜会服のまま倒れこむように死の眠りに逃げ込んだ。切れ切れの悪夢の合い間に、真始祖ファラ・エル・エターナルの滅びを知った。
 ネリィはあの夜、不死の源泉を絶たれて、腕の中で解け崩れ灰も残さずに消失したのだ。選ばなかった幾つもの選択枝と可能性が、後悔とともに心を切り刻み、やがて考えることをやめてしまった。

 あれから何年くらい眠っていたのだろう。領民を庇護する義務を長年にわたって放棄した。太守の称号はとうに剥奪されているだろう。

「御父上が、滅ぼされたという知らせが……」
「え……」
 思わず身を起こしたあと、関節の強烈な痛みにうめいた。

 何年ぐらい眠っていた?
 くちづけを与え血の絆を結んだしもべ達の意識に心を飛ばす。
 カウルの代理人は健在……だが、だいぶ繋がりが弱くなっている。
 他は……ない。

 キニルの事務所、スフィー、シリル、そしてクインポート。主だった都市や貿易港に置いていたはずの代理人たちの意識が失せている。バフルの代理人からの応えもない。
 かつては眠ったままでも手に取るように知ることが出来た世界から、完全に切り離されていた。

「すぐにでも事実を確かめたいお気持ちは分かりますが、四十年もの眠りの後です」
 四十年……では、目となり耳となってくれていた代理人たちは、みな寿命で死んだのか。

「旅に出るには準備が要ります」
 旅に出る?
 代理人を喪った以上、事実を確かめるには実際にそこへいって自分の眼と耳を使うしかないだろう。新たに代理人を作るにしても、足を運び、その土地に通じた意思の強い有能な人物を選ぶ必要がある。

「昔、アレフ様がお作りになられた陽光を防ぐルナリング……」
 賢者の石のカケラを利用して作った、夜の結界を生む指輪の事か?
 ネリィがまだ人だった時、少しでも長く共にいるために、作り出した他愛無い玩具。今は、昼を夜に継がなくてはならぬほど、時は貴重ということだろうか。

「武器はお嫌いでしょうが……護身用にコレを」
 見慣れない金属の道具を渡された。
「この間、侵入した者どもが、妙な生き物を召還しましてね。狼やコウモリどもでは片付け切れなかったのが、まだ城の片隅をうろついてます」
「城に侵入した? 領民たちが抗議の謀反でも起こしたか」
「いいえ。テンプルからきた討伐隊です」
「テンプル?」
 耳慣れない単語だ。

 ドルクがため息をついた。
 まるで出来の悪い弟子でも見るような、哀れみの混じった目。
「教会が裏で密かに作り上げていた組織です。『人の作りし存在なら、必ず人の手で破れる』。その教えを実践するために作られた、対バンパイア用の武装集団。他にだれが真始祖様を滅ぼしたというのです?」

「……嘘だ」
 教会にはずっと目をかけてきた。庇護し資金を援助し、新たな地への進出を促すために、他の太守に便宜を図るよう親書を書き……

「お疑いなら、彼らに直接お尋ねになってください」
 続いて渡されたのは地下牢のカギ……死罪に相当する大罪を犯したものが、血と引き換えの恩赦を望む時に入る、あがないの牢獄。
「目覚められたばかりで、ノドも渇いておられるはず」
 そうか、さっきから身を苛む痛みは飢餓か。

「アレフ様のお命を狙ってきた者どもです。遠慮は要りません」
 ふと、ドルクの物言いに引っかかるものを感じた。
「もちろん、武器や護符といった危ない物は全て取り上げてありますから」
「その“テンプル”の者は、私に血を捧げることを納得しているのか?」
 人狼が盛大なため息をつき、呆れ顔で首をふった。

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2.英雄たちの事情

 真っ暗ではない。
 どこからか漏れる光で、鉄格子がほのかに闇に浮いている。その前にはスープらしきものが入った木製のカップとパンが置かれているようだ。下は乾いた石。便壺は清潔。適当な広さと高さがあり、居心地はテンプルの懲罰房《ちょうばつぼう》よりはるかにいい。

 しかし最悪だ。
 彼女が身に付けているのは下着だけ。手に馴染んだスタッフはもちろん法力で強化したローブも剥ぎとられ魔除けの護符の役を果たすものは一つもない。ネックガードはもちろん、指輪から下着に縫い込んだ聖なるシンボルまで奪われ切り取られている。目を閉じると手首が鈍く痛んだ。

 あれからどれぐらいの時間がたったのだろう。
 彼女が仲間と共にこの城に乗り込んだのは、まだ朝方だった。

 「簡単な仕事です。眠り姫が二度と目を覚まさないように、棺ごと浄化するだけ」
 港町へ向かう前に、モル司祭は笑って三人に命じた。

 カウルの村に向かう道中、テンプルからの急使でクインポートに引き返した、二十五歳の天才司祭には、年齢に相応しくない不気味な威厳がある。

 共に聖女と聖騎士に叙任されて以来、同期の腐れ縁やってた私らはともかく、要となる浄化と破邪の術の使い手が、つい一ヶ月前までガキどもに読み書きを教えていた元教育官の新人司祭というのは、あまりに心もとない。まだ、あのムカつく聖女見習いを連れてく方がマシだ……という反論は飲み込むしかなかった。

 しかし不安はすぐに消えた。
 カウルの村は城に一番近い。そこでの城主の評判は悪かった。
 クインポートでもそうだったが漠然とした恐怖と圧力、何より税が心証を悪くしている。バフルのように町全体がテンプルに敵意を示し、領主を滅ぼしたモル司祭にくさった卵を投げつけるような闇に染まった住人たちとは雲泥の差だ。

 さすがに魔物のくちづけを受け村を差配する老人は、三人を敵意のこもった眼でにらんでいた。だが、村人たちは好意的で、三人に食料や宿を無料で提供してくれた。首尾よく魔物の脅威から村を開放すれば、英雄としてありったけの賞賛を得られるだろう。

 四十年前から眠り続け一度も姿を見せないヴァンパイア……。五百年という永い時間が培った魔力は侮れない。しかし長い期間血を吸っていないならその力も衰えているはず。

 考えてみると少し奇妙だ。バフルの城主は頻繁に町に現われ、時々気に入った者を城に連れ去った。生かして返されたとしても当然血を吸われ半病人のような状態になっている。それでも町の人々は肉親や友人の血をすする怪物を慕っていた。

 この城の主は四十年にわたってカウルの村にもクインポートの町にも犠牲者を出していない。元もと『代理人』と呼ばれている指定した者の血だけで満足し、他の者を襲う事はめったになかったという。しかし実害がなくても村人は城のある山を見るとき恐怖の色を浮かべ、声をひそめる。

 恐怖とは知らないものに対する感情。相手を知ればどんな敵も恐くはない。
 教科書の戦術心得の一文が頭に浮かぶ。

 長く権利を放棄すればいずれは忘れ去られ無視される。義務を放り出せば蔑まれる。
 要は無責任な城主がその報いを受けようとしているのだ。

 長い眠りについた理由も村の老女から聞き出すことが出来た。
 四十年前、英雄モル司祭長がファラ真始祖を倒した。そしてファラの魔力でヴァンパイアとなった女が一人滅びた。ここの城主の愛人だったらしい。それが全てを投げ出した理由との事だった。

 軟弱だ。
 そんな城主に仕える手下も強くは無いだろうと高を括っていた。
 実際、山腹にうがたれた城に通じる地下通路の入り口を守っていたワーウルフは、こちらの姿を見るなり、持ち場を捨てて逃げ去ってしまった。

 地下通路の入り口で魔法陣を描き上げ城内にブロブとスモークそしてジンを召還した。運が良ければ連中が全てを片付けてくれる。よほど運が良ければだ。

 最年少で力の落ちたヴァンパイアとはいえ、ここの城主は始祖の一人だ。死の眠りをむさぼる棺の回りには、魔力で結界が張られているだろう。召還した低級の魔物では破るのは無理だ。結局は彼女たちが直接とどめを刺さなくてはならない。

 聖騎士が剣を構えて前に立ち、何かあったときの為、常に補助や回復の法術を準備して彼女が続き、しんがりを攻撃呪担当の司祭に固めさせて、慎重に歩を進めた。
 山腹から城へ続く地下通路は、湿気はあまりなく天井は高かったが、侵入者を迷わせるためか、枝分かれして入り組んでいた。もちろん照明はなく、手にした松明の光だけがたよりだった。

 だが、敵はいなかった。いくつかの袋小路で引き返す間に見かけたのは、彼女たちが召還した魔物だけだった。
 いつしか、油断が生まれていた。

 ふと違和感を覚えて振り返ったとき、後ろをついてきていたハズの新人司祭の姿は、消えていた。前を行く聖騎士を呼び止め、松明を背後の闇に掲げる。光の届かない闇へ溶けて消える通路には不審なものは何も見えなかった。

 「冗談は止めろよ!」
 イラついて銀の盾を壁に打ち付けて叫んだ聖騎士の声が空しく響いた。いくらなんでも敵の牙城でこんな質の悪い冗談をする理由などあるはずがない。彼女たちは引き返した。
道が二股に分かれた所で立ち止まった。どちらに連れ去られたのだろう。どちらも行止りだった。

 隠し通路を見落としていたのかも知れない。そう言おうとした時、突然無数の気配が生まれた。

 一ひろはあるジャイアントバットが鋭い声を上げながら、頭上を舞い飛ぶ。スタッフで応戦するが数が多い。聖騎士も剣を振りまわしているが、攻撃呪の使える司祭がいないのはつらい。

 コウモリたちが突然去り、ほっとして振り返った彼女の目の前に剣が迫っていた。
 「何するのよ!」
 避けた直後、今まで立っていた敷石に剣がぶちあたり火花が散った。カブトの奥を見てはっとした。目が恐怖に見開かれている。彼女を見てはいるが仲間だと分かっていない。
 術にかかっている。
 テンプルで開発した“惑乱”に似た作用の術。あのコウモリどもは単なるうるさいペットではなく、多少の魔力を付加されたタチの悪い守衛だったようだ。

 剣が迫る。かろうじてスタッフで受け流すが手がしびれた。正気に戻す方法が分からない。一時避難するしかない。

 彼女は弾けるように後ろへ飛び下がるとその場を逃げ出した。背後で見えない敵に向かって剣を振り回す聖騎士の影が、松明の光の中で揺れていた。

 暗闇の中、火口箱で新しい松明に火を付けようとした時、手をねんざしているのに気づいた。愚かな同士討による負傷。
 引き返すべきなのかも知れない。さらわれた仲間の事は諦めて、聖騎士が正気に戻ったら、一緒に山を下りるべきだろう。

 この程度のキズで回復呪を使うべきか悩んでいた時、ふと暗闇の中に青い光を見た。次々と増えていく点。
 うなり声を聞くまでもなくオオカミの群れだ。

 彼女は立ち上がり、じりじりと下がった。
 向こうには刃物を振り回す危険な仲間がいる。
 どうしようかと思ったとき、剣の響きが聞こえない事に気づいた。
 もう正気に戻ったのか?

 わずかな希望を頼りに彼女は走った。
 後ろからいつ獣の群れに襲いかかられひきずり倒されるか……焦りを胸に全力で来た道を戻った。

 松明の明かりにたどりついたとき彼女は立ちすくんだ。そこにあったのは転がった松明だけ。聖騎士の姿は消えていた。
背後で鍔なりがした。
 「いたんじゃない……」
 安堵の言葉は途中で消えた。

 すぐ後ろに立っていたのはオオカミの群れを率いたワーウルフだった。ミゾオチにワーウルフの持つ剣の柄が食い込んだ。
 意識が闇に沈む前、獣と人が入り混じった顔が笑みを形作るのを見た。
 「ちょうど、良いところに来てくれた」
 何が? 問い返す前に彼女は気を失った。

 目覚めたのはついさっき。
 まだ生きていた……。
 意外だった。あのままオオカミの餌食にされるものと思っていた。
痛む手をさすり立ち上がる。
 仲間達はどうなったのだろう。いずれにせよ使命に失敗したのは事実だ。彼女達は分断され、一人ずつ捕虜にされた。

 一応手首以外はケガをしていない。装備は全て奪われてはいるが体一つで生き延びる術は習っていた。
 まず鉄格子を確かめる。ビクともしない。扉は大きくカギがかかっていた。鉄格子の向こうは通路のようだった。

 仲間の名を呼んでみた。気絶から覚めた事を敵方に知られても、状況に大した違いは無いだろう。
 「無事だったか……」
 ほっとした声が左隣からした。混乱して剣を振り回した聖騎士だ。
 右隣から呻き声がして身を起こす衣擦れの音がした。
 「ここは?」
 最初にいなくなった司祭のまぬけ声だった。
 「牢屋よ」
 彼女は冷たく言い放った。
 「あんたが捕まったからこうなったのよ。何ぼんやりしてたの?」
 「突然、毛むくじゃらの手に口を押さえ込まれて、当て身を……ああっ。全部とられてる。魔除けの腕輪まで」
 もごもごした言い訳のあと、やっと状況を把握したらしい悔しそうな声がした。
 「もう、未練がましいわね」
 「だってこれじゃ、ほとんど裸じゃないか」
 彼女はため息をついた。
 「それにしても、なぜ俺達を生け捕りにしたんだろう」
 聖騎士の声が不思議そうに問う。
 「いつ出してくれるのかなあ」
 司祭がどこか情けない声で嘆く。

 私が知るわけないでしょ。という言葉は飲み込んだ。仲間内で言い合いしてても何にもならない。向こうの出方を待つしかない。まさかこのまま飢え死にさせるとは思えない。食料は差し入れてあるのだ。食事が日に三回なのか一回なのかは分からないが、いずれ誰かが来るはずだ。

 「聞けばいいでしょ。苦労して捕まえた捕虜を放っておくとは思えないし」
 「このパンとスープのおかわりか?」
 「そうよ。ところで」
 誰が最初に毒見をする?
 そう聞きかけた時、少し光が陰った。

 牢屋をほのかに照らしている明かりは通路の向こうから石壁を反射して届いているものだ。誰かが来る。耳をすませたが足音は聞こえない。彼女はこぶしをつくって身構えた。

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3.ためらい

 数十年使っていない骨と筋肉が悲鳴を上げている。
 右手の指の付け根にはなじめない金属の違和感。さっき手渡されつけるようにと忠告されたささやかな武器だ。こぶし一つ満足に握れないことは自覚していたが、やはり抵抗がある。握りが安定するのは分かるがこれは生き物を殺傷するための道具だ。

 今の立場を選んだ動機は資格があったという以外に、無限の時間という誘惑や、そうなるべきだという父親の思いの強さもあった。
 しかし“生き物を殺さなくても生きられる”という事も決意をうながした一因だ。

 それがまやかしに過ぎず、“食事”を提供した者が、たとえその時は死ななくとも、短命となる事は知っていた。だが食べる為に殺すよりは、幾分マシなような気がしたのだ。相手も納得尽くならたいして罪悪感は覚えない。見返りは十分に与えていた。
 でも、これからすることは……

 手の中のカギが冷たい。
 どうすればいいのかは知っていた。同意していない人間の血を啜るは初めてだが、相手が怯えないように魅了してしまえば後は普段の食事と変わりは無い。差し出されたノドに牙を突き刺せば済む。同意の上での食事でも最初のときは術をかける。それと同じだ。
 しかし……

 「アレフ様が御手に捕らえずとも、数十年後にはうたかたの様に消えていく者たちです」
 ドルクが優しく微笑んで言った言葉。人と獣が入り混じった顔が、意外と微妙な表情を作ることに今更ながら気づかされた。

 誰かから殺意を向けられているというのも衝撃的だった。
 潜在的な敵意なら昔から感じていた。人々の目の中に怯えと共にある感情。
 それに父が滅ぼされたという事実はあまりに大き過ぎて実感できない。

 眠っている間に何かが大きく変わってしまった。まずはそれを確かめなくてはならない。その為にはルナリングがいる。日の光を浴びたからといって即死はしないだろうが、無事ではすまない。実際に試したいとも思わない。

 「ご自分で取りにいらしてください。
 この城内すら歩けないようでは外にお出しできません」
 きっぱりとした口調はドルクがまだ守役だった頃、幼い反論を封じた穏やかな厳しさを思い出させた。

 人であればまだ生きていただろうネリィが、自分のせいで滅びてしまった現実に、立ち向かえる自信はない。ただ胸を引き裂くような悲しみは長い眠りが癒してくれたようだ。

 だが、四十年の眠りは同時に体の衰えをもたらした。
 今までにないほどの渇き。足元が沈みこんでいく疲労感。気を抜くと指先の感覚が鈍る。これは姿を保てなくなる限界、灰化の予兆か。飢えという言葉は知っていたが体験するのは初めてだ。自らの存在を脅《おびや》かすほどの消耗……

 すぐに食事を摂らなくてはと思うが、まだ、ためらいがある。
 村までもたないのは分かっている。
 彼らで済ませるしかない。

 階段の踊り場に足を踏み入れたとき、話し声が止んだ。最後に聞こえたのは女の声。階段を下りた先に地下牢がある。閉じ込められている者たちの緊張した浅い息遣いが聞こえる。さらに耳を澄ませば彼らの心臓の鼓動まで聞こえてきた。その拍動に合わせ奔流となって動脈を流れる血潮を思い浮かべたとき、自然に足を踏み出していた。

 冷たいカギを握り締めて階段を下りきる。
 一番手前の鉄格子の前に立って、中を見た。三十過ぎの筋肉質の男がこちらを見て後じさる。いまひとつ目の焦点が合っていない。人にとってここは暗すぎるのだろう。太い首筋を脈打たせる頸動脈のありかを見取って、カギを鉄格子の錠に差し込む。金属的な音がして止め金が外れた。男が息を飲む。その時に小さな悲鳴のような声を上げた。可哀想なほど怯えている。

 扉を開き中に入ると同時に、男の目を見つめて術にかけ怯えを取り除こうとした。意図を察したのか男が急に目を閉じた。近づく者を阻止しようとするかのように顔の前に手を伸ばす。

 「私の目を見なさい」
 優しく言うつもりだったが渇きがひどいせいで、しわがれて早口になってしまう。男はますます強く目を閉じて壁ぎわまで後退り、背中に壁が当たった時、絶望的に叫んだ。
 「お、俺より、隣の女のほうが旨そうだと……」
 術にかかるまいとする、あまりにかたくなな態度に業を煮やして、突き出された男の手首を掴むと、力任せに左右に開いて壁に押しつけた。
 悲鳴を上げた男の顔が苦痛に歪む。渇きのあまり手加減するのを忘れたが、幸い骨は砕いてない。

 固く目を閉じたままの顔が間近に見える。だが視線はどうしても脈打つ首筋に落ちる。そう意識したときにはすでに唇を喉に押し当てていた。
 男が全身の力を振り絞って壁に押し付けられた両手を動かそうとしている。足で蹴ろうともしているようだが体が近すぎて単なる足掻きにしかなっていない。

 この男に術をかけるのは絶対に無理だと感じた。男を放して他の者を試すという考えが浮かぶ。同時に、薄い皮膚と肉を通して感じられる温かい血潮がより強く脈打ち誘う。

 もういい。十分に機会は与えた。
 安らかな夢見心地の提供ではなく、苦痛と恐怖をこの男が選んだ。
 そんな考えが浮かび、正しいような気がした。

 口を開き脈打つ皮膚に牙を突き立てる。男の全身が強ばった。皮膚と肉を貫くと、熱い血が口中に広がった。男の体からゆっくり力が抜けていく。血とともに男の気力までが流れ込んでくる。

 接触すれば目を見なくても術はかけられる。遅ればせながら男に安らぎと快感を与えた。苦痛や脱力感を感じているだろうが男の意識には快楽と受け止めさせる。男が全身の力を抜いた。手首を放し肩を掴んで、もっと飲みやすい角度に抱きなおす。温もりが喉を滑り落ちていく度に、痛みと飢えが少しずつ慰められてゆく。

 もっと……と思ったところで頭の隅に警告を感じた。
 飲みすぎている。
 目を閉じ未練を断ち切るように口を離す。まだ男の体には血が残っているが、これ以上は命にかかわる。印を結んで付けてしまった二ヶ所の傷に軽い治癒呪をかけ、ぐったりとした体を床に横たえる。

 まだ足りないと、四十年ぶりの食事をした体が訴える。今は飢えと空腹の中間ぐらいか。
 普段の代理人相手の食事なら気を失う程吸ったりはしない。ほんの一口か二口ほど。それでも満足できたはずだった。しかし今、飲み尽くして殺してしまっても構わないという不穏当な考えが、意識の無い男を見下ろしながら浮かんできた。

 元々彼らは、私を滅ぼしに来たのだ。返り討ちに遭うことぐらい覚悟の上だろう。死んだとしても自業自得だ。
 首を振ってその考えを追い払う。
 「まだ二人残っている……」
 隣の牢からすすり泣く声が聞こえていた。



 隣でカギを使う音がしたあと、彼女は全身を耳にして様子を伺った。食事の差し入れではない。では尋問だろうか。闇の生き物どもは足音を立てないのがやっかいだ。何人かも分からない。

 怯えた息遣いと短い悲鳴、乱れた擦り足。
 「私の目を見なさい」
 しゃがれた早口の言葉が聞き取れたとき全身に冷水を浴びせられたような気がした。
 「お、俺より、隣の女のほうが旨そうだと……」
 恐怖のあまり仲間を売ろうとする情けない台詞は、争う物音の後、苦鳴に変わった。しばらく抵抗しているような気配はあったが、やがて何の音もしなくなった。

 屈強な聖騎士を襲った運命の正体が何か彼女には分かった。
 眠り姫が目覚めた。四十年ぶりに。
 恐ろしく渇いているに違いない。
 自分たちはちょうどそこに乗り込んだのだ。
 (良いところに来てくれました)
 ワーウルフの笑みの理由が分かる。そして生け捕りにした理由も。

 夢中で奪われたスタッフを探している自分がいた。そして絶望感に呻く。何もかもが奪われていた。ほんの小さな護符まで、ヴァンパイアから彼女達を守ってくれるものは何一つ残っていない。

 格闘技の心得はあるが何の役に立つだろう。彼女より遥に力が強く戦闘にも長けた男が、今餌食になっているというのに。普段まとっている法服や護符に対して、あまり意識したことは無かったが、失った今になって、どれほど頼りになるか痛感していた。

 彼女は分厚いカラを奪われた剥き身の貝の気分を味わっていた。摘み上げられ口に放り込まれるのを待っているだけの無力な存在。
 喉からすすり泣く声が漏れる。止めようとしても止まらない。声を立てれば魔物の関心を引いてしまう。黙って気配を殺さなければならないのに、体は震え、息をする度に声が漏れる。それが泣き声になる。見習いの頃一度しか泣いたことは無かったのに、今、子供のように恐怖に震え泣いていた。

 うずくまっていた彼女の目に黒い影が映った。鉄格子の向こうに音もなくふわりと現われたのは、マントをまとった背の高い人影だった。仲間の死を確信した。血を吸い尽くして殺し、一人では満足できず次の犠牲者を求めて来た。暗くて顔はよく見えないがこちらを見たのが分かった。暗い死の運命そのものにみつめられている気がして、冷たい絶望に心をつかまれる。助かる術はないか考えても思考は空転する。

 目を見てはいけない。ヴァンパイアの目には魔力がある。見たら最後意志を奪われ、怪物の意のままにされてしまう。彼女は目を閉じた。真の闇の中でカギを使う音がした。
 入ってきた。
 「来ないで、化け物!」
 喉を両手で包んで守り目を閉じる。腕が恐ろしく強い力で掴まれ引上げられた。苦痛に声が出る。あっさりと喉を包んでいた手は引き剥がされた。

 血の匂いがした。先に犠牲になった仲間の血の匂いだ。冷たい唇が無防備な喉に触れた。
 「いやあっ!」
 叫んだ次の瞬間、喉に激痛が走った。牙が突き刺さる音を聞いたような気がした。

 彼女の血を容赦なく吸い始めるヴァンパイアの震えるような喜びを感じた。混乱の中で彼女は悟った。今、心が繋がりかけている。喉に突き刺さった牙といっしょに入り込んでくるヴァンパイアの意識を締め出そうと身悶えた。逃れられないまま相手の心の力が強くなり彼女の気力は弱まっていった。

 その中でヴァンパイアの名前がアレフだということを知った。今、アレフは彼女の血を思う存分味わって歓喜している。そして彼女も同様に感じるべきだと思っている。奉仕する幸せ。血を吸われるのが至福だと感じるよう、高揚感と共に彼女の心の奥底に刻み込んでいる。痛みをともなった倒錯した恍惚感はどこか性的な快楽に近かった。身を滅びへと駆り立てる自虐的な喜び。アレフに全てを捧げつくし死ぬ事を望む自己犠牲的な愛に似た感情。

 朦朧《もうろう》としてきた意識の中でアレフの深刻な飢えも理解した。あのぐずの司祭も彼女の後でアレフの口づけを受けるのだ。隣で怯え切っている気配がアレフの意識を通して感じられる。

 意識を失う前、アレフの新しくて古い傷が見えた。自分のせいで恋人を早死にさせてしまった後悔の思い。人のままなら老いさらばえた姿でもまだ生きていたかもしれない。恋人が永遠の命を望んだとき強く反対しなかった己の弱さを恨む思い。ネリィの幸せを望むならいっそ別れるべきだった……たとえ共に暮らせなくても生きてさえいれば。

 意識が闇に沈む前、彼女が感じたのは嫉妬だった。

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4.初陣

 「なんなんだ、コレは」
 右手を押さえて得体の知れないガスの塊から跳び退りながらアレフは叫んだ。人の顔とも手とも見える突起をそなえた動く煙。ふわふわと近づいてきた“それ”をないだ右手が、焼けつくように痛む。煙はそこから苦悶するかのように揺らめき空気へと溶けていった。

 無気味でとても生物とは思えないモノ。まっとうではない……少なくともこの場に相容れない気体。しかも何らか意志があるらしく、敵意をもって迫ってくる。

 傷ついた手に治癒の呪をかけながら、石組の固い壁に背中をつく。注意は受けていたが、安全なはずの自分の城に、危険な何かが徘徊しているという現実を目の当たりにすると、冷たい流れに足を踏み入れたような気分になる。歩き慣れていたはずの地下通路が、似て非なる異空間に思えてくる。

 手の痛みが消え、ふと気配を感じたほうに目をやってぎょっとする。石を敷いた床の上を、濁った水が盛り上がり這い進んでくる。目玉のようなものをそなえたそれも、生き物らしい。しかも一匹ではない。左右から床を埋めるように寄ってくる。
 跳び越そうとしてまたあの煙どもも近づいてきたのが見えた。
 囲まれていた。

 にごり水のような固まりが急に跳ねて飛んできた。とっさに殴ったが衝撃は弾力に富んだ体に吸収され大した痛みもなかったらしく、ベチョっとおちたその生き物はまた這い寄ってこようとしている。

 数が多すぎる。
 本気で危険を感じ始めていた。何とかしようにもどうしたらいいのか分からない。
 野性の生き物なら炎を恐れるのではないか? そう思いついて火炎を呼び出す呪を唱えた。安定した照明用の火球を生き物すれすれに飛ばしてみた。一度は驚くものの火球が過ぎると、またじりじりと近づいてくる。

 一斉に跳びかかってきた。
 それらを避け、払い、もぎ離す。体のあちこちに打身の痛みや腐蝕性らしきガスや液体の痛みが走る。頭だけは何とか守りながら、絶体絶命の事態であることをやっと悟った。

 なんとか助かるすべはないか必死に考える。ふいに火の玉が敵を焼き尽くす光景が浮かんだ。アレフ自身の記憶ではない。さっき血を吸ったとき、犠牲者の意識をいじるのに心を読み取った……その中にあったもの。とっさにさっき使った火球の呪を再び放つ。ただし今度は押し包もうとしている生き物を掠めるのではなく直接ぶつけた。

 声なき悲鳴が上がった。生きながら焼かれ悶え絶命していく生き物たちの心の声。危機を脱して座り込んだ回りで、生き物たちがのたうちまわり動かなくなっていった。

 一瞬助かった喜びに放心したあと、不意にぞっとした。世界の探究と思索に使われるべき知識と技を、殺りくの為に悪用してしまった。それは、殺傷だけを術の開発の目的とする、侮蔑すべき“テンプルの連中”と同類になったことを意味しはしないか?
 しかし思考はそこまでだった。

 まだあのぶよぶよとした生き物は残っていた。
 そして仲間の屍の上を這ってまた襲い掛かろうとしていた。

 それらをにらみつける。本来、贄をおとなしくさせ食事をしやすくする為の力を使ってみる。こんな生き物たちの心など知りたいとは思わないが、魅了出来ればこの危機から脱出できる。出来ることは何でも試してみるしかない。

 彼らの心にあったのは、単純な飢えと戻りたいという帰巣本能、そして強烈な不安。ここは彼らが本来いた世界とあまりに違う。空気さえ違う。苦しくて不安で凶暴になり襲い掛かってきている。
 彼らにとってはこちらの方が得体の知れない恐ろしい怪物だった。別の怪物に逆らえば殺すと脅され、不安と恐怖で襲い掛かってくる。それらを取り除き本来彼らがいた場所の幻覚と強烈な快楽を与えてみた。

 幻覚にとらわれ、動きを止めた彼らを踏み越えて何とか角まで逃げた。
 傷ついた体に治癒呪をかけ、痛みが収まると腹が立ってきた。
 なんでこんな風に、生き物を勝手に呼び出して、その後を顧みないでいられるのか。
 命を道具扱いしているあいつらに対して無性に腹が立った。

 素早く地下牢まで駆け戻った。
 あの生き物たちを呼び出した者たちは今、彼の虜囚だった。内2人は、先ほど飢えに耐え兼ねて犠牲にした。命までは取っていないが、すでに相応の報いは受けている。さっきまでは己の食欲に嫌悪を覚え、彼らには悪いことをしたと思っていたが、今は手ぬるかったとすら感じる。

 こんな事を平気で出来る連中なら、血を飲んだとき術にかけて安らぎや快楽など与えるのではなかった。苦痛の中で命をすすり取られる恐怖を味あわせてやればよかった。
 それにこの生き物たちを召還した者は、まだ手付かずのまま牢の奥で震えている。あまりに怯えていたので見逃してやろうと思っていたが、気が変わった。さっきの戦いで消耗し、空腹がひどくなってきてもいた。

 牢のカギを開け、情けない悲鳴を上げ命乞いをする男の肩をつかむ。
「召喚したものたちを元の世界に戻してやれ」
 男が首を激しく横に振った。
「で、できない、喚ぶだけで還す術は、し、知らないんだ」
 そのあまりな無責任な物言いにかっとなる。
「ならお前も、二度と戻れぬ死の世界に送り込んでやろうか」
 そう脅しつけて震える喉に顔を埋めて牙を突き立てる。男が断末魔のような絶叫を上げた。もがく体を力尽くで押さえて飲みつづける。やがて男の意識がぼやけ体から力が抜けていく。それから精神の支配に取り掛かった。

 相手の記憶の中から召喚の呪と魔法陣を読み取り、過去に学んだ似た術を思い出して照合し検討する。結論を出すまでそれほど時間はかからなかった。帰還の呪と魔法陣を頭の中で組上げた。そしてそれを描くに相応しい場所を特定しながら、男の体を離して立ち上がる。

 ふりかえると穏やかな笑みが開きっぱなしの牢の向こうから覗いていた。
「凄い悲鳴が聞こえましたので……」
「殺してはいない」
「ひょっとして、最初にお召しになった戦士は、命まで……と思いましたが、この男は三人目ですからね」
 いつしかドルクが半獣から人の姿に戻っているのに気づいた。もう主に襲われる心配はないから……だろうか。
「で、ルナリングは?」
 首を横に振るしかない。
 「まずはあいつらを何とかしてやらないと……」


 なるたけ避けてきたつもりだったが、魔法陣を描くのに適した地下道の最深部についたとき、背後にはあの悲しい生き物たちの群れが迫っていた。手首を噛み切り、ほとばしる血で素早く魔法陣を描き上げる。傷が癒着したとき生き物たちが襲い掛かってきた。その攻撃に身をさらしながら呪を叫ぶ。

 術式が完成すると同時に、生き物たちは魔法陣の中心に生じた暗い穴に向かって、その存在した空間ごと、次々と吸い込まれて、帰っていった。
 全ての異界の生き物が……アレフや部下や使い魔の手にかかったもの以外が帰ったのを確認して、やっと一息つけた。

 ほっとして、すぐそばの扉を開ける。
 奥は物置部屋。よく言えば宝物庫。
長年にわたって作り上げた、魔力を込めた宝玉から何でもない日用品、さまざまなガラクタが四十年前のまま雑然と詰め込まれていた。

 棚の小箱に入った、黄色い石がはまったリングを見つけて指にはめる。目的を果たしてから、ひどい格好に気がついた。さっきからの戦いで、身を守ってくれた夜会用のマントは無残な状態になっている。

 衣装箱を見つけて、少しましなものに取り替えた。陽光の下をゆかねばならないのなら、こんな布一枚でも羽織れば日よけになるだろう。

 だが、もうあんな生き物たちと戦うのだけはごめんだ。

 しかし異界の生き物たちがいるのは、ここだけにかぎっていないことを、ほんの短い旅にさえ危険が伴う事を思い知るまで、それほど時間はかからなかった。
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