1.森のささやき
霧をふくんだ夜風が無数の葉をゆらせる。つややかなトネリコ。裏の白いカシ。赤き賢人スギの針葉。馬車の行く手、木の根に侵食されかけた街道には、枯れ葉と細き月明りの、かそけき舞い。
御者台で感じる木々の芳香に、アレフは懐かしさを覚えていた。ここは東大陸の植物たちのふるさと。グリエラスによって耐乾性を与えられた種子をたずさえ、人々は河口の港から旅立った。海の彼方の荒れ地を目指して。
だが、造船でも名高かった貿易港シルウィアは、見る影もなくさびれていた。大河コクトスを下る筏《いかだ》や平底船も見あたらない。並行する街道にはハンノキやヤナギが迫り、轍《わだち》も消えかけている。
まろうど……
まろうど?
おなじ、まろうど?
あらたな、まろうど。
うるわしい、まろうど。
なつかしい、まろうど。
こんどは、まことの……
「なんか葉ずれが騒がしいんだけど」
横で毛布に包まっていたティアがつぶやく。もう1人で馬を御せるから車内で眠れと言ったが聞く耳をもたない。初日に馬を暴れさせてひどい脱輪をしたのは確かだが。かなり信用を失ったらしい。
月の細い夜。人の目では、緑鮮やかな梢《こずえ》と夜空の見分けもつき難い。東の空が白むまでは、ゆるやかに心と視界を重ねてはいるが、石や根、道のくぼみに私が気付かないかぎりティアも気付く事はできない。横に居ても役には立たないのに。
「夜目が効かなくて悪かったわね。それより、まろう……ナンとかって、言葉みたいな音は何?」
「客人《まろうど》。幼い樹霊は物見高い。遠方から来た我々が珍しくて、ウワサしているんだろう」
「木が?」
笑いかけたティアに口をつぐむよう、仕草で注意する。
「ウッドランドでは、森や木の悪口を言わない方がいい。道に迷ったり根につまづいたり、ロクな事にならない」
「緑の髪の乙女? 若い男を樹の中に引き込むドライアドねぇ。心配することないんじゃない? ン百歳のジジイなんて思いっきり対象外。それに女がいたら姿を見せないんでしょ」
ここのドライアドは樹と人を融合させて、グリエラス・フリクターが作り出した眷属だ。昔話の樹精とは性質や性格が異なる。樹と共に滅びるのを良しとせず、時を操り休眠を駆使して数千年の永い時を生き延びてきた、最古の老女達。
「彼女たちが棲む大樹は、森の最深部。ウッドランド城を囲む森にある。ここらにいるのは、ドライアド達の子孫。知恵ある木には違いないが、人型を取ることはない」
「でも、切り倒すと赤い樹液とか出そうよね。薪《まき》を取ったら痛いって大騒ぎ。木の実を食べたら子殺しの極悪人として一生恨まれちゃうとか?」
「森に火を放ったり、断りもなく斧を振るえば報復もあるだろうが……木の実や香茶の元となる若葉を取るのはかまわないはずだ。その分、新たな苗木を植えれば」
下草を刈り取り、増えすぎた草食獣を捕らえ、込みすぎた枝や若木を間引く。この地に住む人は、森のために存在する。
ここでは、人が樹上で生きる手の長い獣だった頃の暮らしが、続いているといえる。もちろん果樹や茶樹の人工林は存在するし、ソバも栽培されている。だが、大規模な牧畜や畑作は行われていない。
後ろからついてくる荷馬車とドルクの気配に耳を済ませる。サケやマスが川を上る季節以外は、海から届く干し魚がたより。野鹿や野ウサギは簡単に捕れるものでもない。塩が貴重な山里では燻製《くんせい》も贅沢品だ。
「森のにおい……変わった?」
ティアの言葉に、夜明け前の空気を吸い込んでみる。湿った枯れ葉と朽木と、キノコの香り。注意深く森を見ると、切り株や三角に組まれた太い枝が木の間に見えた。キノコの栽培地。人里が近い。
「順調ならそろそろラウルスにつくんだっけ。南東のドラゴンズマウントへ向かう街道の分岐点」
自分では暗くて読めない地図をティアが取り出し、眼前に突きつけてくる。
「門は閉まっているはずだ。夜が明けるまで入れないだろう」
門が開いたとして、聖水等による魔か人かの判別があったらどうするか。道の彼方に見えてきた、尖った丸太の壁と見張り台を眺めながら、何とかあざむく方法はないか、考え始めた。
星が残る空に向かって立ち並ぶ、樹皮がついた丸太。人の背の5倍はある。不死者の跳躍力でも超えがたいラウルスの防壁は、シルウィア港より強固に見えた。
門を守る櫓《やぐら》も港より高い。弓を携《たずさ》えた男たちが見下ろしている。いく種かの木の実油を混ぜた臭い。火炎呪の触媒《しょくばい》か。鉄で補強された門の上には一抱えはある石が十ばかり下がっている。支えるナワを切れば門をふさぎ侵入者を押しつぶす不穏な仕掛け。
明るむ空に振り返れば、しらじらと浮かびあがる川と道。枝を伸べる木々をつらぬき、朝日が鋭く射しこむ。陽光を中和するためにルナリングが力を奪いはじめる。黒いフードを下ろしたい誘惑にかられながら、アレフは安堵の笑みを浮かべて見せた。
「悪かったな、疑って」
クサリを手繰る音。木の歯車のきしみ。門が内側へ、ゆっくりと上がってゆく。
「川が近いなら、堀を切るという手もありますよ」
「堀?」
「柵の外側にミゾをめぐらせ石と粘土で防水し、川を引き込んで流れで囲む。火による浄化は強力だが……森が喜ばないでしょう」
古い文献で読んだ水と泥による防御。バフルには海水を引き込んだ堀の遺構があった。
「旅人さんは物知りだね。おや、髪が白いから年寄りと孫娘かと思ってたが……息子と同い年くらいか」
あいまいにうなづきながら門の脇に置かれた樽《たる》を注視した。さかしまに生けられた枝。腐敗を防ぐ酢と塩の匂い。だが、汲み置き水の腐臭もキツい。
「こりゃあ、教会にいた司祭様が残してった聖水だ。あんたらが魔物の眷属かどうか……なに、形式的なもんだ。少し振りかけるだけ」
「その司祭様は?」
ハシゴを降りてきた男の顔が、沈痛そうにゆがむ。
「シリルに行ったまま戻らん。今は読み書きが得意なモンが交代で子供を教えてるよ」
(大丈夫、もう力は抜けてる)
馬車を降り、樽を覗き込んだティアが心話を送ってきた。見ると鼻をつまんでいる。
「これ、追い足ししてたでしょ。ヨーグルトやパン種じゃないんだから」
数滴の元聖水がふりかかる。肌を焼く痛みはないが、若枝の芳香では消しきれない悪臭には顔がゆがむ。
ティアが毛布を投げて寄越した。
「あんた、テンプルの聖女さんだったのか」
灰色の法服が注目を集めている間に、馬車を門の内側に進めた。
「新しい樽をキレイな水で一杯にして。聖水作るから」
(停滞の方陣ってこうだっけ?)
ティアが脳裏に浮かべたのは、物質の変化を緩やかにする力ある図形。一度見せただけだというのに、素晴らしい記憶力だ。
ドルクが門の内に荷馬車を進めた。荷をあらためた顔色の悪い男が、干し魚を2本ばかりくすねるのを笑って見逃している。
「目的地はシリルだったか。数日前に舟が下るのは見たが、まだ健在だったんだな」
「パーシーさんはなかなかの人物でいらっしゃると」
「パーシバル・ホープか。ガンコで無慈悲でヘコたれないオヤジだよ。あんたは……」
「スフィーで小商いをしております、ダーモッド・ブースと申します」
ドルクの偽名と仮の職業を書き付けた顔色の悪い男が、紙巻の炭筆を向けてくる。
「そっちは?」
「彼女はティア・ブラスフォード。治癒と浄化のワザに長けた聖女見習いさんです。私はアラン・ファレル。在野の魔法師」
「あたしの治癒呪を盗みたがってる、試験落ちした治療士よ」
置かれた樽に水が満たされてゆくのを待ちながら、ティアが口を挟む。目は樽から離れず、火炎呪を応用して方陣を刻む指も止めない。
不審そうな男の視線を追って、あわてて言い添えた。
「光を失った服職人さんの左目を治した時、薬代として服を仕立ててもらったんですが……似合いませんかね?」
「あんた、腕のいい治療士さんかい」
男の心に、夜の眠りを邪魔する背中の痛みがよぎる。
「顔色が少し悪いようですが、診ましょうか?」
すがるような視線が向けられた時、警戒が完全に解けたの確信した。
脊髄《せきずい》を圧する変形した軟骨を治してやると、男は喜んで宿に案内してくれた。旅客が減りヒマをもてあまして慣れぬ自警員をしていたが、本業は宿の主人らしい。
木目が整った板張りの壁。太い柱が支える屋根をふくのは厚く重ねられた樹皮。木の香り漂う上等の客室が、臨時の診療所として提供された。昼間、暗い室内にこもっていても、疑われぬ口実さえ得られれば、何でもいい。
イボや不適切に繋がれた骨折程度なら、治癒呪で治せる。精神的なものなら、いつもの様に心を読み記憶をいじり、認識を組み替えれば改善できる。感染症なら……病への抵抗力をつけるためと言いくるめて瀉血《しゃけつ》も行える。静脈から皿に流れ出た血の行方は誰も気にしない。
だが……
「母の形見の、金の指輪がどうしても見つからなくて」
体調の相談ならまだしも、失せ物探しまで頼まれるのはなぜだ? どうも治療士という職は占い師やマジナイ師に限りなく近いものらしい。
「いつごろ、無いのに気付きましたか」
水仕事に荒れた手に触れ、質問が引き起こすさざなみに導かれるまま、心の深層に折り重なる記憶の断片を探る。
「ひと月前……」
怪しいのは衣装箱と黒ネコ。念のため部屋の周囲を警戒させている、透明なコウモリを女の家に差し向け、家具の下でホコリに埋もれている指輪を確認した。
「いちど衣装箱を持ち上げてごらんなさい。それと、あなたのエプロンに黒い毛をつけた子を叱らないでください」
婦人が出て行った扉にもたれて、ティアがニヤついていた。
「調子良さそうね。何かというと手を握りたがるイロ男の治療士サン」
ささいな悩みを抱えた女の相談者が多い理由は、ソレか。
苦笑を浮かべて、新たな相談者の気配をさぐる。下の階に静けさと奇妙なざわめき。上がってくるのは若い……いや、幼い心。見えてきたのは十《とお》になるやならずの細くこわばった娘。
土色にカサついた肌。黄色い唇。ドングリ色の眼。そして深緑の髪。自分より小柄な娘を、ティアが無遠慮に見つめる。
「……ドライアド」
「いや、この子には実体がある」
しかし人ならざるこの子には、幻術も魅了もおそらく効かない。
「姉さん達が言ってた。あなたが客人《まろうど》?」
傾けられた顔は幼く、無表情だった。
宿の主が上がってくる気配。今は真昼。ここで不用意なことを口走られたら……。
「母さんの体から作ったトネリコの弓をあげるって、姉さん達が言ってた。矢を作るための歪みの無い箆《の》とフクロウの羽もあげる。でも、銀の矢尻は人の手でないと鍛えられない」
宙を見つめつぶやき続ける娘を、宿の主が怒鳴りつけた。愛想笑いを浮かべ、娘の肩をつかみ、階下へ押し戻してゆく。
「すみません。妙なこと口走ったかも知れんが気にせんでください。ワタシのひいひいジイさんとトネリコの樹の間にデキた娘だって、ヘンな言いがかりつけて先月から住み着いちまった森の子です」
「森の、子?」
「たまぁに、森からやって来て村に住み着いて、いつの間にかいなくなる、可哀想な緑髪の子供です。夢みたいな世迷いごとばかり口走って、マトモに話も通じやしない」
あの娘の言葉を誰も信じないなら、安心か。
だが、銀の矢尻とは……ガラスを掻く音のように、耳に不快な響きだった。
長い夕暮れの影をぬい、前をゆく小ぶりな箱馬車をドルクは見やった。今、ムチを手に馬を御しているのはティアさんだ。アレフ様は淡い木もれ日を避け車中で休んでおられる。出立時に渡された皮袋の重みを不思議そうに確かめながら。
振り向けば、荷車に積みあげた干し魚の樽や麻袋ごしに、夕日を浴びたラウルスの防壁が見える。見張り台で手を振っているのは、夕刻の出立は考え直せと、最後まで引き止めていた宿の主人のようだ。
昨日と今日。たった2日間の診療所は、ここ最近の宿の赤字を返してのけたらしい。もしかすると商売替えを夢見たのかも知れない。妻子を北へやってから、酒びたりになった赤鼻の治療士に成り代われるのではないかと。
思い出し笑いがこみ上げた。
訪れた患者から宿の主がせしめた診療代の一部を渡された時のアレフ様のきょとんとした顔。無償のおつもりだったのか、相談者から密かに得た血を対価と思っておられたのか。
あるいは……ご自分で初めて稼がれた金に戸惑っておられたのかも知れない。
ドルクに手渡されたのは、奇妙な少女のやせた手になる弓の弦《つる》ひと巻き。雷神草から紡いで縒《よ》って樹液を染ませた上物だ。アレフ様に用意するよう言われて、鍛冶屋に鋳造《ちゅうぞう》させた銀の矢尻といい、人狼が懐に抱いて嬉しいものではない。
日が落ちて、薄い霧ごしに一番星が見える頃、前を行く馬車が止まる。
いつもなら御者台に向かわれるはずの主の白い頭が、森に向いた。馬車から離れ、夢遊病者のように木々の間に歩んでゆかれる。ティアさんが呼び止めても振り返られない。
「すみません、馬車をみててください」
手綱を傍らの木に巻きつけ、ティアに後を頼んだドルクは主を追って、森に踏み込んだ。春は小さな花で埋め尽くされる森も、今の季節は下草もまばら。朽ち葉は厚く、じゅうたんのように柔らかく足を沈ませる。
夜風と葉ずれに混ざるのは、小動物の立てる音と鳥の声。イノシシやシカのにおいは古く、危ない牙ネコやクマの気配は感じない。親方が初めて狩りの手ほどきをしてくれた、故郷の優しい森をドルクは思い出した。
人の手で作られた東大陸の薄っぺらい森や、雑多な命にあふれた中央大陸の森とは、臭いも風も音も違う。何より虫の声が聞こえない。樹液を吸うセミや、緑を食い尽くすイナゴやイモムシの類を、森は嫌う。
見かけるのはハチやアブ。水面に立つ蚊柱とトンボ。朽木を崩し枯葉を土に返す甲虫とアリ。妖精の化身のような美しいチョウもいるが、木の葉ではなく草を食べてサナギとなる種ばかりだ。
それにしても……迷いも見せず、森を行かれる主の背を見ていると不安がつのる。ドライアドに誘惑され、数百年を眠りの中で過ごした若い木こりの話が頭をよぎる。
不意に、頭上の葉がとぎれた。星明りの下に広がる丸い草地。古き大樹が死んだ時に生まれる空間。キノコが大地に輪を描き、虫がきらめく中に、中空の幹があった。
「雷でも落ちたのでしょうか」
立ち止まっておられたアレフ様がゆっくりと首をふる。
「心を」
開けとおっしゃるのか。目を閉じ、心話の要領で主の意識に触れた。直後、周囲を包む緑の光に驚いた。
陽光を求めて天空に枝を差し伸べる、つややかなトネリコの大樹。多くの鳥や虫を宝石のようにまとい、風に歌い雨に笑い、体内で育む愛しい人の忘れ形見に微笑む貴婦人。緑のドレスをまとった美女の幻影が木の前に立ち現れた。巨人といえる大きさだが威圧感はない。
「私たちを切り倒す武器を持ちし戦士よ。私はグリエラス・フリクター様の眷属、メリアデスの末娘……私がこの地に災いを導きました。あの者が街道を行くのを見たとき、造り主が戻ってきたとかん違いしてして、姉や伯母たちに歓迎するよう触れ回ったのです」
バックスとかいう元司教のことか。
「だけど、あの者は森に敬意を払わず、我が母を見せしめに焼きました。全ては私の軽率がまねいたこと。その罪を償うため、折れぬ弓を生み、我が娘に戦士をここまで導くよう命じました」
貴婦人が自らの身を裂く。血の代わりに樹液があふれ、大人の身長ほどもある優美な弓と、弦《つる》をくれたあの少女が現れた。
「だが、我らはバックスと手を結び、ある者を討とうとここ来ている」
アレフ様の声。先ほどと同じ立ち居地に……貴婦人の幻影に重なるようにたたずむ主の姿が見えた。
「人が木から離れて生きられぬように、あなた様も人から離れては生きられません。私が取るに足りぬ若木であった頃から、御身を養う温かき血を持つ人々を守護してこられたのでしょう」
貴婦人はほがらからに笑い、少女が弓を差し出す。
無言でアレフ様が弓を受け取られる。貴婦人は樹に戻り、周囲に夜が戻った。眼前にあるのは空ろな幹。枯死した大樹。
夢でも見ていた心地だが、主の手には夜目にも白い長弓が握られていた。
不意に頭上に影がさした。数十羽のフクロウが音も無く舞い、矢の素材となる真っ直ぐな木の棒と、羽を落としてゆく。困惑したまま、主と共に拾い集め、馬車に戻った。
猟師だった時に使っていたのは、ハンニの木やハゼをニカワで貼り合わせた短弓。だが、一本の木から成る長弓も、基本は同じはず。弦を張り中仕掛けをほどこす。矢はとりあえず3本だけ作ってみた。
まず、アレフ様にお渡しした。
手袋をしていただき、持ち方をお教えする。
「矢はつがえてくださいませ。大事な弓を守るためにも」
腕力は十分なはずだが、なんとも構えが不安定でうまく引くことがお出来にならない。矢はあさっての方に短く飛び、弦《つる》で、ほほと腕のうち肉を傷つけてしまわれた。
「こうよ」
ティアさんの構えは美しい。コツはわかっているようで、アレフ様よりうまく引き絞ってはいるが、非力はいかんともしがたい。なんとか狙った方には飛ぶといった状態か。
「考えたらさぁ、あたしは投げナイフがあるし、アレフは攻撃呪があるじゃない。わざわざ練習してまで、面倒くさい弓なんか使う必要、無いと思うんだ」
トネリコの弓と銀の矢を持つのは、わたくしの役ということか。人であった頃なら、引くのがやっとという強弓。だが、獣人の力をもってすれば、狙った的に続けて当てるのも難しくはない。しかし……。
緑の貴婦人が残した言葉が正しいとするなら、アレフ様はこの先、とても辛い思いをなさる。不死者を滅ぼすこの武器が、主を狂気から救う一矢とならぬよう、願うばかりだ。
2.シリル
爪を黒ずませて摘んだ若葉は、すぐ蒸して日陰で乾かす。飲む前に石臼にかけ、なめらかな粉末にする。水を少しずつ加えながら混ぜ続け、ユリやカタクリの球根をすり下ろしてしぼり入れる。
「貴重な塩をひとつまみ。火は熾《お》き火でトロトロと。泡が出たら火を引き余熱で仕上げる」
威厳と願掛けのために伸ばし続けているヒゲに、まとわりつく白い湯気。静かな教会の厨房で、パーシーは暁の日課にいそしんでいた。
父に教えられた通りに淹れた、とろりと熱い黒茶。大きな鉄のポットに移しかえキルトをかぶせて保温する。盆に載せたカップには花鳥の彫金。ビーズや貝が薄闇に光る。亡き妻の嫁入り道具だ。せめて海を越えてきた贅沢な器で、監禁と忍耐に報いたい。
「徹夜の見張り、ごくろう様」
廊下の奥、鉄格子の前でアクビしているカータスの次男坊に声をかける。鉄片を縫い付けた布ヨロイは城の衛士だった親父さんの形見。ヤリの穂先がにぶく光る。
貴重な銀を使った武器は、これを含めて十本あまり。村を守るので精一杯。攻めに出るのはもうムリだ。
厳重な二つの錠前と閂《かんぬき》を外すと、地下への階段が現れる。本来は預り金や教会の文書を保管する場所。だが現金や帳簿類は全て、半年前に引き上げられた。
階段の先、二重の鉄格子の奥には、いくつかの人影。だが通常の牢屋と違って悪臭はない。自主的に捕らわれ人となっているのはフケもアカもなく、息をせず排泄もしない者ばかり。石壁に過ごした夜の数を爪で刻みながら、滅びの時を待つ、死人となった村人たち。
ロウソクのわずかな明りにも眩しげに目をおおう彼らのために、温かい茶を注いで盆に載せ、格子の下から差し入れた。
「黒茶だ」
無言で茶に集まる大小の影。一番ちいさいのはカータスの末娘。まだ三歳のはず。上で滅び行く妹を見張る兄の気持ちは想像して余りある。
かつてウッドランドを治めていた太守グリエラスが、血の代用品として作り出した黒茶。意識が澄み気持ちは高ぶり、徹夜明けの疲れぐらいは吹き飛ぶ。飢えと渇きをひととき忘れる事も出来る。だが、これだけでは人も不死者も長らえる事は出来ない。
先日、ルイザ婆さんがここで灰になった。生前に被っていたスカーフに包まれた白い粉末を日にさらし、墓に埋めたのは二日前、いや、もう三日前か。
「すまんな」
「いいえ、村でおだやかな最期を迎えられるだけで十分です」
五歳の子を残してきたカーラの気丈な声。皆が飲み終わり、器を載せた盆を押し返すのは、司祭どもに案内人として雇われ、討伐の結果を知らせるために、化け物あつかいされるのを覚悟で戻ってきたケニスのゴツい手。
噛まれても始祖の呪縛を受けず、死人となっても村に留まることを望んだ意思強き者たち。そして愛するものの血を啜ってまで永らえる事は望まぬ、心優しき者たち。
「明けない夜は無い」
希望の言葉が空しく響く。家族への手紙や不安を紛らわせるためにこしらえた手芸品を受け取り、石の階段を登る。光がまぶしい。生者の世界へもどった証。盆と共に握っていた手燭の灯を吹き消し、閂を下ろし二つの錠前で止め、カギの一つをカータスの次男坊に託す。
目の下にクマをつくった若者に黒茶を一杯ふるまい、表の井戸で水を汲みポットと器を洗う。全ての器を拭きおわる頃、東の防壁から陽がさした。狭く息の詰る村に変えてしまった丸太の壁。各家の扉や窓には破邪の紋を刻んだ物々しい魔よけ。
全ては約十ヶ月前に始まった。
スゥエンのとこのサニーがいなくなり、血を失い青ざめた死体で見つかった。少年の喉には忌まわしい噛み傷。涙に暮れた若夫婦が我が子を連れ帰ったその晩、サニーはよみがえり母親を襲おうとした。そして、万が一のために詰めていた若者と司祭の手で滅ぼされた。
原因は察していた。一年前、教会に納める寄付という名の税金を、特産の香茶や薬草の出荷制限をタテに、値切った。魔物はほとんどいなくなっていた。重い寄付金を課せられる理由は無いと突っぱねた。
厄介な魔物を召喚し操っているのは教会に属するテンプルだ。教会の総本山が中央大陸に移動してから、新顔の魔物どもは姿を消した。
残ったのは闇の太守が遺していったドライアドや、辺境のドラゴン族。不用意に手出ししたり機嫌をそこねない限り、危険の無い連中ばかりだった。大体、吸血鬼は東大陸にしかいないといったのは、教会のやつらだ。
もう居ないはずの吸血鬼。村人は勇敢にこの脅威に立ち向かったが、犠牲者は出続けた。自警団が組まれ、夜は独りでは出歩かないと取り決めがなされた。
間もなく、親切顔のテンプルの司祭や騎士たちがあらわれた。敗北感に打ちのめされ、その汚いやり口に義憤を感じながらも、寄付の増額を約束し助けを乞うた。それで悲劇は終わるはずだった。
かつてこの村を穏やかに支配していたヴァンパイア……二十年前にテンプルに滅ぼされたグリエラスの居城に、新しいヴァンパイアが住み着いた。
そうテンプルの司祭らはパーシーに語り、自信たっぷりに討伐にでた。そして、彼らは帰らなかった。戻ったのはケニスひとり。
死人となったケニスが語った討伐隊を見舞った惨劇は、酸鼻をきわめた。
村に残って恩着せがましく交渉していた準司祭の、青ざめた顔も忘れられない。準司祭は慌てて増援を頼む速文を書き、鳥と馬に託し、ケニスを火刑にしろと、八つ当たり同然の大騒ぎをした。
その夜の内に準司祭は血を失った死体になって村の広場の木にぶら下がっていた。残った教会関係者は地下から全てを持ち出し、次の日にはいなくなった。
ケニスをはじめとする、転化した者達から知識を得て防壁を築き、魔よけを施した。シリルから出る犠牲者の数は減ったが、今度は他の村が狙われた。ハントのように数日で全滅した集落もある。
逃げ出したくとも、道で夜を迎えたら何が起きるかわからない。なんとか別の村や町にたどり着いても、シリルから来たと告げたとたん、門は閉ざされ、石もて追われる事もあるという。
「シルウィアから干し魚が届きました!」
物見櫓《ものみやぐら》から呼ばわる声がした。良かった。これでもう少し頑張れる。危険を犯して川を下ったフォレストの勇気は報われた。
鶏の声を圧する騒がしさで、門が開く。人々が家から出てきて門へ向かう。かすかな馬のいななきと車輪の音。なんと荷馬車で夜道を来たのか。かつて船を駆って大洋を渡っていたシルウィアの豪胆な貿易商魂は、健在らしい。
遠目に灰色の法服が見えた。そして木の長弓を背負ったヒゲの男が自警団の若いのと快活にしゃべっている。テンプルの法力と、森の加護を受けた弓が彼らを守ったのか。
あの法服は……死んだ準司祭が速文で呼び寄せるといってた、モル司祭だろうか。小柄だと聞いてはいたが、少年に見える。それに従えている人数も少ない。よそ者は、灰色の法服も含めてわずか三人。皮チョッキのヒゲ男と、背の高い白髪の老人。
いや、法服は女だ。横にいる黒マントも老人ではないようだ。声が若い。思い出せないが、会ったことがあるような気がする。
多分、寝不足からくる錯覚だろう。
パーシーは、既視感を苦笑でまぎらわせた。
水をふくんだ綿が頭にのっているような不快感。ハラワタをよじる吐き気や、手足の鈍いしびれ。シリルの門を潜るときに感じた結界の重圧の向こうに、人々の疲れた顔があった。
木の壁や板ぶきの屋根が、果樹や茶樹の間にみえる。泥と石と漆喰《しっくい》が普通だった故郷の常識からすると贅沢な造りだ。干した牛馬のフンではなく、薪《まき》を燃やしての朝の支度。ただよう煙の香気も富者の証に思える。
しかし、いま目に映っているのは、継ぎ当てしたスボンやスカート。色あせたたチョッキやスカーフをまとう貧しき者たちの家々。偽りの名と職を告げながら、森の大陸がもつ普遍的な豊かさに、アレフは羨望を覚えた。
むろんシリルがただの村でないのは承知している。かつてウッドランド城に出仕していた者の村。ドライアドが触れたがらぬ金属を扱う衛士や下男、火を扱う女中がここから城に通っていたはず。櫓《やぐら》から見下ろしている男がまとう、鉄片を縫い付けた緑布のヨロイは城の守衛のもの。
読心を弾く意思強き灰色のヒゲの男がまとうのは、白いシャツとシカ皮のチョッキ。彼がウワサのパーシーだろうか。増殖を続ける不死者の脅威にさらされながら、皆を鼓舞し理性的な指示でシリルの秩序を保ち続けている雄々しくも健気な村長。
疑われぬうちに、ポケットの水晶玉に触れ幻術を発動させる。人ではなく見慣れた木立や石くれ程度の存在だと誤認させる。集まっていた者たちが興味を失い目をそらせる。干し魚のタルや小麦粉の袋、それらの処置を聞くドルクや、吸血鬼の被害をたずねるティアに人々の関心が集中する。
「この村の長、パーシバル・ホープです。シルウィアからの長い道中、よく無事で」
「村長さま自らのお出迎え、恐れ入ります。いやぁ、この弓をくれた森の貴婦人のご加護と、こちらのティアさんの法術で事なきを。ところで、荷はどういたしましょう」
ねぎらうパーシーと応えるドルクの声を背に、家や小さな菜園をぬって曲がりくねる小道に入った。
「まず、ここでタルをふたつ下ろして下さい。食料は皆で平等に分ける取り決めになっとるんです。私が干し魚の本数を数えて家族数に応じて各戸に割り当てるから、その間に、残りは備蓄倉庫へ。エズラに案内させましょう」
村人の歓声と、順番を守るよう告げる声が次第に遠くなる。
丸太の防壁内では日常が営まれていた。ニワトリやガチョウが騒がしく駆け回る庭先には、寝具や肌着がひるがえる。軒先にぶら下がるハーブの束やリンゴ酒の袋を見やりながら、屋内の気配に心を向ける。
フシの多い床を掃いている子供。火の番をしながらナベをかき回している老人。三角のソバ粒を石臼でひいている老女。腐らせた亜麻やイラクサをツボから出して広げている娘。パーシーがティアに語っているように、村人の四半分が殺されたか転化したとは思えない、のどかさだ。
だが、南の日陰には人を焼いた跡と、多すぎる新しい墓。家の扉には破魔の紋が刻まれ、窓には同じ紋を刻んだ金属や香木か掛けられている。ネギやニンニクの臭いを染みこませた目玉模様の布がひるがえり、野蒜《のびる》を編んだ網目飾りが辻に垂れる。
苦痛ではないが、不快感は次第につのる。日の光が届かぬ日陰でも使い魔の動きがにぶり、たまに読心や気配の察知が出来なくなる。はた織り機を操る小太りの女に狙いを定めるまで、ムダに歩くハメになった。
「すみません、道に洗濯物が落ちていたのですが」
庭先の茶樹にかけてあった湿った前掛けを手に声をかける。ブナの波打つ葉と角張った実が刻まれた破風を見上げながら、魔よけの紋を避けて扉を叩いた。陽のまぶしい朝であるせいか、あっさりと迎え入れられる。
「おや、ご親切に。すまないねぇ、あんたは……誰だい?」
洗濯物に泥がついていないか確かめていた目が、不審そうに寄る。笑みかけ魅了しようとした直後、拒絶の意志が湧き上がる。口が丸く悲鳴の形に開いた。
あせって口をふさぐ。勢いあまって壁に女の頭がぶつかる鈍い音がした。
(この化け物め、青白い血吸い野郎!)
心から悪罵があふれ、うめき声も収まらない。テンプルの戦士より勇敢で強情だ。陽のある今、血の絆で配下にするのは無理かも知れない。口を封じるなら半死になるまで血を……
(もう済んだ?)
ティアからの心話。干し魚の配分は終わり、人々は解散しかけている。急かされるように首筋に口づけした。
「そういえば、変な髪色の魔法士さんは?」
赤い陶酔を破る言葉は、ティアの聴覚からか。
「変とはひどいね。遥か北の雪原の地や海の向こうでは普通に見かける髪色だよ。東大陸の太守も銀髪だった」
婦人の不見識をパーシーがたしなめる。
「魔法士って下調べが大事だから初めての村とか町につくとフラフラ歩き回るの。習性みたいなもんよ。気にしないで」
「ああ、井戸が近すぎるだの、屋根にリンゴの枝が被ってるから切れだの、庭の片スミにある切り株が祟っているだのと、まことしやかに言うアレかね」
「そうそう」
ティアとパーシーの会話を聞いていると、血の味がよく分からなくなる。
「おれ、隣のタックおばさんのトコロに持ってってやるよ」
大剣を背負った大柄な若者が、包帯代わりのリネンのスカーフに干し魚を包んで駆け出す。
タック……
まだ抵抗を続けている、この婦人の姓。呪縛はとてもムリだ。気絶させるのも間に合わない。いっそ喉を食い裂いて息を止め……出来ない。それに、かえって騒ぎが大きくなる。
軽快な足音は、容赦なく近づいてくる。
アレフは治癒呪をかけながら口づけを終えた。アースラ・タックの首筋に小さく残った紅い二つの印。呪縛が伴わないなら数日で消える。
「あなたの勝ちだ」
ささやき、ふさいだ口の位置から見当をつけ、頭の奥の血流を止める。
吸血による穏やかな虚血に比べれば、はるかに乱暴な方法。頭を殴るのにも等しい。襲われた事だけでなく、今朝、目を覚ましてから今までの出来事を忘れてしまうかも知れない。
目まいを起こして座り込んだアースラを放置して、逃げ道を探す。はた織り機が居座る作業場、南の暖炉を中心とした台所兼居間、そして寝室。狭い家だ。裏口はなく、窓は小さい。
「タックおばさん、干し魚……」
明るい声が途切れ、駆け寄る気配がした。
「ああ、テオかい?」
「調子、悪いのか。ベッドに運ぼうか」
「大げさだよ。でも、何であたしは戸口なんぞで」
こっちへ来るのか。寝台の下は物入れ。隠れるのはムリだ。梁に身を隠しても、ベッドで横になれば目に入る。幻術でどうにかなるとも思えない。
(お逃げになりたいのですか?)
そよ風のような心話。振り返ると、明け放たれた窓の向こうで茶樹が揺れていた。
(ああ、二人に見つからぬように)
(承知しました)
緑の木を中心に力が集まるのを感じた。村内の茶樹は、ドライアドが宿りし大樹の枝から生じた分身か。元の樹に等しい薬効と魔力を得るために、人が挿し木で増やしたドライアドの指先。
淡い緑の光が周囲に広がる。空間がひずむ。いや、変化しているのは私の体のほう。
「立ちくらみなんて、今までしたことなかったのに」
「休めって。気分が悪いときは、おとなしく横になってれば治るって。母ちゃんの口ぐせだ」
「ガーティーの言いそうなことだね」
テオと呼ばれた大柄な青年が、アースラに肩を貸して狭い寝室入ってくる。避けようもなくぶつかる。だが、何の抵抗もなく、二人はすりぬけてベッドに向かった。こちらの姿も部屋にあふれる緑の光も見えていない。
(ウッドランド城を隠している空間の移相か?)
(影の無い御身が、人の目に映り触れる事もできる。その方が不思議だとは、お思いになりませんか?)
どこか、諭すような心話。茶樹の母なる存在は、私の十倍は生きている巨樹だったろうか。
「なぁ、首筋の……その、虫に刺されなかったか?」
「いんや、かゆくも痛くもないよ。それより、何でしめったエプロンを握っていたのか、トンと思い出せないんだよ」
木靴を脱ぎ、横になったアースラは笑っている。
青年のこげ茶の目が食い入るように噛み痕をみつめ、太い眉が深刻そうに寄る。日に焼けた頬が引き締まり、厚い唇の奥で歯が食いしばられる。細かなクサリを編んだ鎧が身の震えにかすかな音を立てる。背負った大きな剣がどれほどの役に立つかはわからないが、警備の任についていた姿のままで駆けて来たのか。
「テオ、有り金ぜんぶ賭けですったみたいな顔してるよ」
「違うかもしれない。けど……」
「あたしが吸血鬼の犠牲になったと思うなら、パーシーを呼んできとくれ。ここに謹慎か、茶葉の乾燥倉に行くかは分からないけど、あたしの問題さ。あんたがそんな顔する事はないよ」
アースラのふくよかな手が、いくつか直しの跡がある、鉄のカブトをなでる。
「立派な姿だねぇ。伯父さんの鎧兜をスマイスに手直ししてもらったのかい? 重たいだろうに、あたしのために走って魚を届けてくれて……ありがとうね」
皮の篭手《こて》に包まれたテオの右手が握り締められる。聞いているのが辛くなり背を向けた時、意外なほどの身軽さで、テオが駆け出していった。再びすり抜けられても何も感じない。
(あの者が村長を呼んでくるまで邪魔は入りません。お食事の続きをなさいます?)
(もういい)
クインポートの町長と同じだ。おそらく彼女は折れない。血と今日の記憶を奪い、この先アースラが生きるはずの時間まで奪うのは気が進まない。
(では……)
室内が色あせ灰色に変わり輪郭も失って闇に変わる。いや、完全な闇ではない。ほのかに光る球体の中央に体が浮いていた。広がる髪とマント。重力がない。ここは地上ではないのか?
体に重みが戻った。球体が消え、周囲に光と色が戻る。風を感じた。軽く落下する感覚。地面に足がついた。眼前には木を削り、新しくたてられた墓標。
(召し上がられた血に溶け込む、女の想いに引かれましたか)
タックの名とドーン暦による生年と没年が、共通文字で刻まれていた。死んだ夫の墓か。だが、地下にアースラの夫だった者のムクロも骨もない。焼かれたのか、元から死骸がなかったのかは、分からない。
「ほら、いた」
ティアの声がした。顔を上げるとパーシーと連れ立って墓地に入ってくるところだった。
「商売とはいえ、新しい墓に刻まれた名を覚えるのも、ひと苦労でしょう。なんせ多すぎますからな」
パーシーの明るすぎる声には、悔しさと哀しみがにじんでいた。
「宿屋さんはもう商売替えして食堂と酒場だけやってるんだって。でもパーシーさんが泊めてくれるから大丈夫よ。馬は門を警護してた人たちが、世話してくれてる。近ごろ馬車が来てないから、馬溜まりの草すんごく伸びてた。あれなら飼葉いらないね」
うなづきながら、さっきの転移について考えていた。一度、この身を移相させてから、空間ごと移動させられた。
ウッドランドでは城や巨樹が忽然《こつぜん》と現れ、時には森の中を幻のように移動するという。先ほどの術の応用だろうか。
だが、本来は虚であり、実体が仮である不死者や、元から亜空間上に組まれたケアーはともかく、確固とした実体を持つ樹や城が転移できるものだろうか。
ドライアド達が守り伝えてきた、ウッドランドの秘儀。村を案内するパーシーと、ティアのあとに続きながら、驚異に触れて活性化する思考にアレフは意識をゆだねた。
後ろの若い魔法士が気になって、パーシーはいく度か振り返った。占いや治療のワザをタネに、手妻で人を引きつけ口先で揺さぶり日銭を稼ぐ漂泊の民……にしては卑しさがない。むしろおっとりした学者や司祭のようだ。
「何やら手帳に書き付けてブツブツ言ってるが……あんなので魔法士が務まるのかね」
村人の名でも暗記しているのかと思ったが、違うようだ。位相がどうの変容の数値がどうと……目の前の現実ではなく思考の遊戯に没頭している。
「あの顔でしょ。女受けがイイのよ。それに話術はソコソコでも、精霊を使った手妻はなかなかのモン。それで引き抜いたんだから」
「ほう、火炎呪で魔物を退けたりするのかい」
水晶球を出して見つめ、あやうく糸杉にぶつかりかけている様を見る限り、荒事となったら足を引っ張る部類に見える。
「それが全然つかえないの。なりそこないが可哀想だとか言って……あ、なりそこないってのは不完全な不死者ね。そりゃ、相手は知り合いかもしんないけど、テメーも危ない時に、どうかと思ったわ」
それはむしろ好ましく思える。このテンプルの小娘は、教会の地下に吸血鬼をかくまっていると知ったら、委細構わず浄化にかかるのだろうか。
「それで、モル司祭は?」
彼の到着は苦しみの終わり。喪失の時。そして教会のくびきに繋がれる未来の始まりだ。
「ウェンズミートから銀を貼った船で出たみたいだけど、あたしは別ルートで来ちゃったから分かんないの。ごめんね」
「こちらに? 東大陸ではなく?」
これは意地悪な質問だ。この娘がどれくらいテンプルの中枢に近い者か、これで推し量れる。
討伐に失敗した連中は、スフィーから来た。かれらは噛まれた者たちの言うことを信じなかった。戦う相手の正体も実力も見誤ったまま“アレフの闇の子”に挑み……白ヒゲの始祖と取り巻きが使うテンプルの呪法に敗れた。
人形劇と現実の区別がつかぬ、子供らに等しい頑迷さと単純さ。一つの思想にこり固まり特権にひたり、テンプルという狭い世界での出世にのみ心を砕いていると、人はああまで退化するものなのか。
「東大陸?」
「以前きた司祭様は、諸悪の根源は海の彼方、東大陸で少し前に目覚めたアレフだと」
その前は諸悪の根源をロブだと言っていた。だが、ロバート・ウェゲナーがモルの手によって滅びたとの知らせが、狼煙とハトによって届いても、吸血鬼は存在し続けた。
いいだろう。全ての邪悪の源が東大陸にいるとしよう。なら四十年間眠り続けていた始祖が、いつ闇の子を作ったというのだ。
二ヶ月足らずで、どうやってシリルまで来れたか説明して欲しい。
唯一の手段は、バフルから船でシルウィアか南のドラゴンズマウント領に渡ること。だが東大陸と森の大陸との通交を一切禁じたのはスフィーとシルウィアの教会だ。密かに船を仕立てたとしても、外洋船の残骸すら見当たらないのはなぜだ。森の大陸の漁師は働き者だ。漁場としない海岸などない。
「バッカじゃないの。ウェゲナー家は闇の子なんか作らないわよ。人が担う役職が世襲になるのも嫌ってんのよ。水は淀むと腐るとか言って、まったく臆病で小心なんだから」
テンプルからきたティアとかいう娘を少し見直した。
「それは、厳しい気候とやせた土地だけでも困苦の極みだというのに、上に立つものが腐敗し不正に貪れば多くの人死にが出る……せいだと聞いたが」
尻すぼみになる的外れの反論は、存在を忘れかけていた魔法士のもの。アラン・ファレルという名は中央大陸風だが、髪の色からすると、東大陸の出身なのだろうか。恥ずかしそうにまた、うつむいてしまった。
「では、ティア聖女見習い。今シリルを……ウッドランドを蝕んでいる死の病の根源は何だと?」
四十年前から現れだした新規の魔物と同じく、テンプルが作ったものなのか。
「さあ? ファラが作った賢者の石をガメた、バカどもでしょ」
さすがに名指しでは答えないか。だがティアは知っている気がした。
「それより、どうして森の貴婦人の加護を受けているはずのシリルで、これほどの被害が出たの?」
「牛と羊を飼うために、森を少し切り拓いたせいかな。この村を囲む丸太は、そのときに切り出したものだ。娘を切り倒したせいで、彼女たちの怒りを買ったのもかもしれん」
二十年前、森の太守が滅ぼされ、様々な制約から解き放たれた後、森に甘え傷つけ奪い……知らず知らずのうちに、ドライアドの恨みを買っていたのだろう。でなければ大切な亡き主の城に、新参者を受け入れたりはしないだろう。
「ここが、我が家だ」
いつしかブナが影を落とす家の前にさしかかっていた。ニワトリが石をついばみ、菜園のハーブにチョウが舞う……またイモムシ取りをしなくてはならんらしい。
見ると、通いで家事をしてくれているアニーが、荒れた手を揉みながら、玄関でこちらを見ていた。よそ者がいる場で話してもいいのかどうか迷う風情だ。
「お客様だ。ベッドを三っつ、用意してくれんか」
「パーシーさん、さっきまでテオが待ってたんですよ。深刻な顔で走ってきて。でも、また駆け出していきました」
「テオが……何か伝言は」
だまって首をふるアニーと共に、家に入った。
外が明るいせいか、一瞬闇に見える。やがて広いテーブルに残されたティーカップと、ソバ粉を水と蜜で練った焼き菓子が目に入った。食いしん坊のテオが茶菓子に手をつけないとは、よほどの事があったらしい。
時折、集会も開かれる広い居間に客人を迎え、テオが残していったものを片付けて、イスを勧める。
新たな黒茶を入れるために、アニーが引いておいてくれた黒い粉末を計ろうとした時、あわただしい足音がした。
鎧にぬい込んだ金属と武器のぶつかり合う音。自警団のハーシュか。
「テオのヤツが城に行くと森へ走って行きました。もう我慢できないって。理由を聞いたんですが……その、タックさんがやられたって。あいつ、小さい頃から伯母さんに懐いてたから」
「分かった。アースラのところへは私が行く。
すみません、お客人。どうやらゆっくりお相手できそうにない。アニー、私の代わりにお茶を立ててくれ」
なぜだ。魔よけを施した家からは、近ごろ犠牲者は出ていなかった。魔物が力を増しているのだろうか。
まずは事実を確認して、対策を練る。そして人々に正しく伝え、混乱を防ぐ。熱い一日になりそうだった。
3.差し金
樹脂をぬってツヤツヤに磨き上げた木のカップが三っつ並ぶ。注がれた黒いお茶が白い湯気を立てる。
「疲れが取れますよ」
お菓子のお皿を置いたあと、頬骨の目立つ指の長いおばさんは笑顔を残して奥の部屋に消えた。敷布を伸ばす甲高い音がかすかに聞こえる。
シブさも甘みも、サウスカナディ城で飲んだお茶より強い。でも、青臭さは控えめ。むしろイイ匂い。産地だからかな。それとも意地悪な自動人形《オートマタ》より、アニーっておばさんの淹れ方が上手なだけかな。
素朴な甘さが取り得って感じの香ばしい菓子をほお張りながら、ティアは黒茶をもうひとすすりした。
横から、菓子を入れた木皿が押しやられくる。
「くれるっていうならもらうけど、これ、けっこう強烈な歯ごたえなんだよねぇ。アゴが疲れるからお茶も欲しいなぁ」
「飲みかけ……だが?」
「もう十分、飲んできたんでしょ」
どうもイヤミが通じてないようだから、付け加えた。
「テオって人、大丈夫かなぁ。吸血鬼をブチのめしたいなら、ここで待ってれば良かったのにね。みんな森で探してるみたいだけど、見つからなかったらどうなっちゃうのかな?」
テーブルにヒジをついて、だんだんこわばっていくアレフの顔をのぞきこむ。
「……どうぞ」
「やっぱ、いらなーい」
カップをつき返す。わざわざ息を吸い込んでから吐く、無意味で暗いタメ息が、耳に気持ちいい。
「ティアさん」
にらむドルクには舌を出してやった。
見上げると、屋根を支える黒ずんだハリとケタ。太い柱にはキレイな木目。あたしが生まれ育った館より一回り小さい。けど、使ってる木は太くて継ぎ目がない。
木や花が彫刻された食器棚や引き出しは立派。曲線で出来た木のイスは座り心地がいい。ここは代々、ホープ家のものだったのかな。
窓にガラスははまってないけど、揺れてるカーテンにはヒシ模様の刺繍《ししゅう》。糸を抜いた部分から光がもれてる。外に揺れてる臭いのキツい魔よけと同じ形。
「ところでさぁ、タックさんちの魔よけ、壊しといた?」
招かれたとはいえ、平気でここに入れたって事は、アレフには効果薄そう。“なりそこない”なら数滴で指の一本や二本、灰に出来る聖水も、軽いヤケド程度だし。ラットルのホーリーシンボルにも耐えた。やっぱ長い時間が魔物を強くするのかな。
「あの程度のもの。少しばかり魔力と読心が阻害される程度だ。壊す必要など」
「壊しとけばバックスたちのしわざになるじゃん」
納得してない顔で黒茶を舐めてる。法がどうのとうわべはキレイごと並べて後悔してみせるけど、心の芯では血を吸うのを悪い事だって思ってないんだろうな。
もし疑われても、言いワケして村を出て、なるべく早く城に向かう。シリルからの距離は半日足らず。場合によっては半刻でつく。交渉しなきゃならない相手は、きっと村人より厄介でキケンだ。
「手を結ぶって言葉はいいけど、結局は甘い言葉でダマして脅しての取り引き。エグいコトして、相手に言うこときかせるってコトだよね。最後はモル殺しの罪も何もかもバックスにかぶせて、東大陸だけは火の粉をかぶらない」
「それ……は」
モゴモゴした反論は、古いシーツと枕カバーを抱えて出てきた、おばさんの声にかき消された。
「用意が出来ましたよ。徹夜で街道をきたのなら、少し仮眠をとっては? 黒茶って元気も出るけど、心が安らぐから、心地よくお昼寝できると思いますよ」
用意された部屋も気持ちのいい木の香りがした。ベッドが四つ。リネンのシーツの下は羽毛の寝具かな。小さなテーブルにイスとチェスト。お客さん用の寝室によく使われているのか、窓には染めた糸をおった厚いカーテン。
「では、午前中はわたくしが番をしています。お二人は先にお休みを。昼を過ぎたら、あとはティアさん、お願いしますよ」
「ふぁーい」
あくびをしながらブーツを脱ぎ捨てる。
いちいち上着まで脱ぐアレフに一言いいたいのをこらえる。寝ずの番がいる状況で、すぐに逃げられない格好で横になるってどうなのよ。あたしなんかホントはクツも脱ぎたくないのに。
切れ切れの夢の中で、何か話し声が聞こえて目を覚ました。
この声はアレフ……か。吸血鬼も寝言いうんだ。いや、起きてるのかな。
「ちょっと、うるさい」
「どうなさいました?」
「小麦が……」
「小麦? それならドルクが一人で倉庫に積んでくれたわよ。あんたがフラフラ散歩してるうちに」
「あの小麦の袋ではなくて」
言いかけて黙り込む。説明しようとすると、頭の中で色々組み立てなきゃイケないらしい。ホントまどろっこしい。
「最初は、ドライリバー周辺の小麦の値が下がっているという話だった」
「豊作はいいコトじゃない」
「麦の出来は去年と変わらない。いや最初はいい傾向だと思っていた。ドライリバーから安く小麦が買い付けられる。だが、東大陸へ向かう商船が減り、小麦がダブついて安くなってたらしい」
「森の大陸がこんな状態じゃ、東大陸に仕返しがあっても、おかしくないか。やーい、諸悪の根源」
「……先ほどホーリーテンプルから東大陸への小麦の輸出を禁じる触れが出された。キングポートにその知らせが届くまで半月もない。その間に出せる船はわずかだ。このままでは冬には備蓄がつきる」
「昔はイモとライ麦とカラス麦で、なんとかしてたんでしょ」
「四十年前とは人口が違う。それに、移民たちは小麦なしの食事に耐えられるのか? 豪商が去り職人たちが腕を頼りに出ていけば、全てが立ち行かなくなる」
「捨ててきた故郷のことなんてどうでもいいじゃない。それはバフルのイヴリンおばさんや、クインポートのムカつく町長とかが考えることでしょ。もう、あんたは自由なんだから」
深刻そうな男どもの顔見るかぎり、割り切るのは無理そう。
それより、いま小麦を止めたホーリーテンプル。ううん、実家の利益を犠牲にするような触れをだしたメンター先生。一体なに考えてるんだろう。人形劇であおられ、モルの銀の船に熱くなった人々が、アレフをとっちめてやれって騒いだから……なんて、単純な話じゃないハズ。
メンター先生は、得にならない事はするなと言った。このままじゃ、シンプディー家も他の政略結婚で繋がった豪商たちも、大損だ。先生は色んなものを失ってしまう。
小麦を作った農家の人も困る。東大陸の人はもっと困る……どころか人死にが出るかも知れない。アレフが一番嫌う人死に。
もしかしてアレフが、シリルに入ったから? バックスと手を組ませたくなくて……というより、このままじゃ破滅しちゃう森の大陸をどうにかして、シルウィアやドラゴンズマウント領から麦や砂糖を東大陸に、なんて考えるよう仕向けようと……。
ううん、そんなハズない。もうこのあたりの教会は役目を果たしてない。確かに連絡用のハトも荷馬車に乗せてきたけど、もう色煙の台に人はいない。もう目なんて届か……あ。
「あのさ、おばさん、どうしてる」
「おば……イヴリンなら対応に苦慮して召集を」
「そっちじゃなくて、ダイアナの方。エクアタであたしを縛り上げた聖女サマ」
「彼女はホーリーテンプルに入ってから心話も通じない。既に呪縛自体、解けているかも知れない」
「本当に? 本当に通じない?」
苦笑して試したアレフの顔がこわばった。
「どうしたの」
「……煙花。心も体も、煙が見せる幻と陶酔に蝕まれて、もう」
そっかヤバい薬を使って、血による呪縛を解かないまま、こっちの動きを探らせてたんだ。吸血鬼と犠牲者の共感現象を利用して。
じゃあ、あたし達はメンター先生のてのひらの上ってコト?
それはちょっと面白くない。
煙花が見せる鮮やかな夢。地面に流れだす血の臭気と熱さ。ティアに殴打されたルスランの頭から流れ出す赤黒い……いや、違う。刺されたのは娘を守っていた父親と母親。ミルペンの指物師の作業場を染める、後悔の色。
これはダイアナの苦い敗北の記憶。犠牲者をオトリにして吸血鬼を誘い出し、倒そうとして失敗した古い傷。追い詰め、あと一歩のところで、ワナは砕け追跡は禁じられた。
ダイアナ達が守ろうとした娘は操られるまま、工具を握りしめ、肉親を手にかけ、扉の封印を壊し、青白い悪夢の元へ駆け寄った。見せ付けるように白い喉をさらし、幸福そうに笑いながら。
ダイアナ達が突き刺し焼き焦がし切り裂いた不死の身が、娘の献身で元形を取り戻していく。月明かりとタイマツを頼りに、必死で追うダイアナの前に、娘の死体が投げつけられた。
(だから素直に私の要求に応じたのか? お前たちに痛めつけられた私が、ティアを飲み尽くすと思って)
アレフが心話で問うても、ダイアナの意識からは秩序だった返事は返ってこない。ただ、怯えと悔しさと陶酔の感覚だけが繰り返される。
「見えるもの、感じるもの、何でもいい答えてくれ」
この呼びかけは、クジャク亭で会った貧相なヒゲの司祭か。
「お前がダイアナに幻夢の煙を吸わせたのか?」
ダイアナの声と口を借りて問うた。ダイアナ自身の意識が希薄なせいか、言葉は驚くほどなめらかに出た。
目の焦点が合うと、施療院にしては高価な壁紙としっくいの天井が見えた。細かな虫が肌をはいまわる感触は、おそらく幻覚。継続的な飢餓と酸欠が、理知や勇気といった彼女の美点をいちじるしく損なっていた。言葉もおぼつかないほどに。
「やれやれ、身ばかりか心まで犠牲にしたアニーもここまでか」
「貴様っ」
ダイアナの手で掴みかかろうとしたが、肉の落ちた腕の動きは遅く、高さも足りず、空をきった。
「オレはホッとしてんだよ。おめぇに気付かれた以上、もうコイツは自分で自分を壊さなくていい。やっと煙管《きせる》を取り上げられる。ったく、遅すぎたぐらいだ」
歯ぎしりしようとして、アゴも歯も弱っているのを感じた。
全身をいやすのはムリだ。実体は遠い地で真昼の倦怠感にあえいでいる。意識だけ憑依している状態では高度な術は使えない。それに転化した者ならまだしも、イモータルリングを着けていない生身の人間を、過去のままの健康体に戻すのは不可能だ。
脳の機能は戻せても、記憶の連続は失われ、心も変質してしまう。
「なぜ、小麦の取り引きを止める?」
「メンターのヤツがそんなこと言ってたかな。けど、そんなことオレみたいな下っ端に聞かれてもな」
ののしりたいが、目まいと悪寒でそれどころではない。考えられるのは……こちらの対応力を測ろうとしている。私の口付けを受けたものがどれ位いるか、その影響力はいかほどか。
いや、目的は私ではなくティアか。テンプル内の勢力争いの道具にするつもりだろうか。モルをけん制するための。あるいは……後釜か。英雄という名の道化にして、耳障りの良い夢を吹き込み、人々から金をだまし取るための。
「おめぇはもう覚えてないかも知れないが、オレと会った夜、生き血ほしさに一人殺したろ」
「あの若者を殺したのは私ではなく……」
「どっちだっていいさ、年取ってから生まれたバカでも可愛い末息子を吸血鬼に殺された親にとっちゃあな。少なくともエブラン商会が店をたたむ覚悟で航路から手を引いたのは、そのせいだ」
無辜《むこ》の民が苦しみ死のうとも、痛みを覚えぬ豪商たちだが、身内が傷つけられれば、利益をフイにしても怒りを現すものなのか。身勝手とはいうまい。私自身、知る範囲の者を案じるので精一杯だ。
「ところで、そろそろ体をダイアナ女史に返してやってくれんか。どうもご婦人の声と姿でその言葉づかいはな。本人が意識してやってるんなら魅力的だが、男が体を借りてしゃべってると思うと、耳の後ろあたりがムズムズするんだよ」
「この者をお前の術で治せるのか」
小貧なあごひげが、ゆっくりと左右に振れる。
「ハジムの眼を治した術なら、治せるんじゃねえのか?」
ムリだと言いかけて……ダイアナ自身が己が身に術を使えば、記憶と心を保ったまま、治せるのではないかと思いついた。
銀の短剣で刺された際、喉や脇腹の傷を癒すと同時に、服も復元してしまったように。自己の把握は細部にいたる。当人の無意識に任せてしまった方が、間違いないかも知れない。
一瞬、知識の拡散に関する禁忌が頭をよぎった。だが、この者はティアがハジムを治した場に居合わせている。呪を聞き、方陣を目にし、失われた体の復元が可能だと知ってしまっている。その限界も含めて。
ならば時がかかろうとも、いずれは解き明かしてしまうハズ。
必要なのは呪と方陣と、力の喚起。
血の絆で呪縛するときの要領で、記憶をいじり、知識を滑り込ませる。
意識をつづり合わせ、治癒の呪を使う際に力を引きだす心の最奥。限りある命の根源、帰るべき光の海。影として永久《とわ》に在るために、不死者が自ら捨て去った眩しい力に触れた。
これが太陽の命の一部なのか、いまだにわからない。この力を借りるために不死者は生者の血を求め、なるべく多く配下に置こうとするのだと、笑っていたのはファラだったろうか。ヴァエルだったろうか。
ダイアナが力使い始める。光の奔流《ほんりゅう》に弾かれ、アレフの意識は本体に戻った。
全身が重い。頭を押さえつける不快感は、真昼だからなのか、シリルに溢れる魔よけのせいなのか。気がふさぎ、眠気というより気絶するように意識が遠のく。
扉向こうの騒がしさに目覚めたのは、すでに日が沈みかけた夕方だった。
「遅いお目覚めで」
低いドルクの声には、いら立ちが混ざっていた。ティアはスタッフ片手に扉の前に立ち、居間の騒ぎに耳を澄ませている。夕日がもれるよろい戸から逃げねばならぬ事態かと、アレフは寝台から素早くおりた。
汗臭さと金属臭さ。武装した大勢の人の気配。限界まで張りつめた幾つもの心。今朝おとずれた異分子に刺激されてあふれ出し、荒事のために押しかけたとしてもおかしくはない。いや、最後の一滴を投じたのは私か。
そんな危険を犯してアースラから奪った分は、真昼に心を飛ばしたのが災いし、かなり失ってしまった。
身支度を整えながら、あせりが混じった怒号を聞く。
「テオを見捨てろって言うのか」
「だが……もうすぐ日が」
どうも非難や攻撃の対象は、我々ではないようだ。むしろ彼ら自身に向けられている。
薄情者と呼ばれ卑怯者のそしりを受けるのを恐れている。だが、選ばねばならぬ結論は一つ。わかっていながら、熱い塩ゆで肉を前にしたネコの様に、まわりを無意味にウロついている。
無秩序に発せられる言葉に、偶然の空白が訪れる。静かな中、木のイスと床がこすれる音がした。
「みんな、持ち場へ戻りなさい。間もなく夜が来る」
パーシバル・ホープが揺るがない声で結論をつかみあげる。
「でも……」
言い募る若者の声は、小さくなって消えた。
「私の命令だ。テオは、きっと……ドライアドが守ってくれる。彼はいい男だからね」
仲間を見捨てねばならない罪の意識。その重荷を肩代わりしてくれる責任者から、任務という言い訳をもらって、彼らは館を出て行った様だ。
「そろそろ参りましょう。陽のあるうちに出ませんと、余計な疑いを招きます」
ドルクの口元には皮肉な笑みが浮いていた。
扉の向こうには、今朝より一回り老け込んだ顔があった。
「ファレルさん、でしたか。ご気分は? 昼食にお誘いした時は、死んだように眠っていたが」
「ご心配おかけしました。もう大丈夫です」
やはりパーシーの心は読めない。
「アニー」
「お弁当でしたね。ここで食べてけば手間いらずなのに」
さっきまでテーブル周りにひしめいていた者たちが手にしていた、様々な形のカップを水オケに浸し、茶カスを落としていたアンナとかいう婦人が、薄く削った木を編んだバスケットを持ってくる。
「今朝、運んできてくれた干し魚とイモのツボ煮。そば粉のパン。それとリンゴが6つ。このビンは熱いまま詰めた黒茶。口をつけて飲むんじゃないよ。このカップを使って飲んで、キチンとフタ閉めておけば、2日は腐らないからね」
ドルクが重そうに持っている。ベッドの横においた銀貨の枚数で、見合うのか少し心配になった。
「あんたらがテオを探しにいってくれるって事は、話さんかった。期待をさせたばかりに、落胆した者たちが、心無い言葉や理不尽な暴力を、お客人に向けられないとも限らないからね」
いつの間にそういう話になったのだ。昼食事か。
「いくら浄化の術が使えるからって、深追いするつもりないし、ヤバくなったら切り上げるけど、それでいい?」
「白木の弓持つ森に選ばれし戦士が一緒なら、ドライアド達がテオの事を教えてくれるでしょう。そうでなければ……もうこの世に居ないものと、諦めもつく」
ティアに優しい目を向け、ドルクには信頼の笑みを見せ、最後に私をにらむ。非難されているようで、落ち着かない。ふっと笑い、目を逸らせるパーシーに全てを見透かされているようで、不安になる。
館の門前に立ち、見送る村長の姿が垣根の向こうに消えた時、握っていたこぶしを開くことが出来た。
「動揺なさいますな。疑ってはいても、まだパーシーは確信しておりません」
無力な昼間に踏み込まれたかも知れない危機に、今さらながら背筋が震えた。
「夕方に、どちらへ」
「モル司祭が来るまでの下調べ。幻術つかってくから平気」
門を守る自警団員の前で、ティアが水晶球に込めた幻術を発動させる。目の前で話している相手の存在感が薄くなる奇妙な感覚に、目をこする彼らに手を振って、森に足を踏み入れた。
4.巨樹の苑《その》
細い獣道。草と枯葉が少し薄い場所としか見えないが、ドルクの意識を通すと、事情は異なる。テオを探して大勢の人が入った足跡。踏み折られた草。そして人間のにおい。人であった頃は森に生きる狩人。今は半ば獣。知識と鋭敏な感覚によって、森は過去の光景を語りだす。
「このあたりから、足跡はとぎれがちです。テオは大きい若者でしたか」
「上背《うわぜい》は私と同じくらい。ドルクより肩はたくましかった」
「そこの枝先が折れてます。ここを走り抜けたようですな」
折れてると言われても、ドルクが指ささねば見落としてしまう小さな痕跡だ。
「下草や落ち葉の間に白い物があるが」
「魚の骨でしょう。このあたりでは仕掛けで捕らえたサケやマスのうち、食べきれない分は森の木に捧げる事になってるはずです」
肥料ということか。人だけでは深部には運べぬ以上、鳥や獣も協力しているのだろう。それが食べ残しや排泄物という形であるとしても。
川で生まれ森に守られて海に旅立ち、成魚となって戻ってくる魚達。その銀鱗に包まれた紅い身を食らって、幹を太らせこずえを天空へ伸ばす木々。
「ところで、どうしてテオを探そうなどと」
ウッドランド城に向かういい口実なのは確かだ。アースラをひたすら案じていた青年を思い出すと、罪悪感も覚える。出来れば見つけて、連れ戻してやりたいが。
「テオのせいで、満足するまで飲めなかったんでしょ。こっそり始末して森に埋めちゃえば、二度と邪魔されないって」
ティアの笑い声が、静かな森に響く。偽悪なのか本気なのか判然としないが、ひどくこの場を冒涜している気分になる。
いつしか森は深くなり、ひと抱えどころか小さな小屋か家並みに大きな幹が見渡すかぎり立ち並んでいた。塔よりも高く先の見えない梢が、宵の空を閉ざす。下草はほとんどなく、落ち葉は厚く積もり、雲の上を歩いているようだ。
一本一本、表情の違う生きた柱に囲まれた緑の宮殿。口を効くのもはばかる荘厳な雰囲気に飲まれる。葉のささやきが何かを告げている。いや、これは女の声と、じれた男の声。
「早くしないと。もう日が暮れちまった。頼む、どいてくれ!」
「城は危険です」
「お前も殺されて彼らの手先にされてしまう」
「子供の様にガンコなお方。いいから私と遊びましょうよ」
幹から半透明の貴婦人たちが湧き出す。緑の葉と光で作り上げたドレスをひるがえして、宙を舞い、笑みかけ、また幹に戻る。声に近づくにつれて、彼女たちは大きくなり、落ち着き上品になっていくように感じた。
「おどろいた。あたしにも見えるわ」
ティアは目を丸くしているが、ドルクは私の意識を介さないと、薄ぼんやりとした光にしか見えないらしい。
それにしても、立派な木々だ。セントアイランド城の広間を支える柱も太かったが、ここまでの威圧感はなく、高さもなかった。この地の木だけではなく、世界から集めた木々に手を加え、知性を与え、数千年の時をかけて育て上げられた生きた柱たち。
つるりとした幹、白い幹、コブだらけの太い幹、細かな枝が広がりドームとなっている茂みもある。
樹皮が曲線に割れてウロコ状となっている太い幹の向こうに、緑の貴婦人に囲まれてあがいている青年がいた。
「ティボルド・ハクスリーさん?」
ドルクが声をかけると、青年はホッとした顔で振り返った。
聞き覚えがない男の声。でも、人間の声だ。助かった。テオは振り返った。そして、ホタルにしては明るい光の粒を掲げてる、金色の髪の女の子と目が合った。
小さな顔は日に焼けてる。化粧っ気はない。着てるドレスは地味で厚くて長い。色気はないけど、生身の女の子だ。
白すぎる肌を薄絹の下にチラつかせる、緑の髪の女たちが急に色あせて見えた。いくら美人でも、ムネがデカくても、まばたきしないドライアドは味気ない。クラっときて触ろうとしても手がすり抜ける。
それに、このまま樹霊に囲まれてたら、明日の朝は100年後。俺はヒゲと白髪に足まで包まれた、ジジぃになってたかも知れない。
「助けてくれ」
女にドライアドの魔力はきかない。掴んで引っ張り出してもらおうと右手を伸ばした。女の子と俺の間に幾つもの緑の髪が立ちふさがる。
「あなた様にこの方は渡しません」
「殺させぬ」
「私らが守るんだから」
森全体が風もないのにざわめいた。葉ずれと無数の女の声。混ざりあって何を話しているのか聞き取れない。甲高い嵐のようだ。
よく見ると、女の子の両脇に人影が二つ。
白木の弓と矢筒を背負った皮チョッキの男は、光とヒゲのせいか獣めいて見えた。腰には手斧。黒金の手甲にスネ当て。この辺では珍しい厚い毛織地のズボン……よそから来た武人かも知れない。
もう1人は日陰のカワズ瓜みたいな細い男。顔も着てるモノもツルっとして薄い。片手で簡単にヒネれそうだ。
ドライアドがまとう緑の光が揺らめいて広がる。女の子は平気でも、横の2人は緑の力に絡めとられるんじゃないだろうか。
「逃げろ。あんたらまで捕らわれるぞ」
叫んで、手を振り回した。
ヒゲの男は背負った弓を指差した。
「わたくしは平気です。トネリコの娘の庇護下にありますから」
あれは……ドライアドが身から削り出した丸木弓。ヒゲのおっさんは森に選ばれた勇士なのか。
「この娘の言う事を本気にするな。その若者を害する気はない」
軽く突くだけですっ転びそうなヤツに、どうにかされる俺じゃない。思わず吹いたら、向こうも笑ってやがった。偉そうなこと言って照れたのかな。
「シリルに連れ帰りたいだけだ」
「俺は帰らない! あいつらをぶっ倒すまでは」
女の子が首をかしげた。
「……死にに行くんだと思ってた。そのデカい剣、銀じゃないし破邪の紋も刻んでないし」
「これで吸血鬼を倒したんだ。切れ味のいい細身の剣だと、すぐに傷はくっつく。だから銀じゃないとダメだ。けど、大剣で骨も身もツブして引きちぎるように振り抜けば、簡単には治らない。首を飛ばして胸を断ち割れば、やれる」
灰になるまでの数瞬は、エグい事になる。あまり気持ちのいい感触じゃない。けど、倒せるのは本当だ。
「なるほどね」
女の子が鮮やかに笑った。
「じゃあさ、優秀な聖女とその他2人、いらない?」
灰色の法服に破魔の紋。銀のネックガードにミスリルのスタッフ。腰紐は生成りの白。若いし見習か。でも確かに、テンプルの聖女の格好だった。
「けど、聖女ってのは、もっと神秘的で美人で優しくて」
「そんなにホメても何も出ないって」
無い胸をそらす女の子のカン違いを訂正しようと思って……やめた。女の評価は面と向かって言うもんじゃない。昔、タック伯母さんに叩かれてデカいコブが出来たっけ。
黒服着た細いのが、聖女見習いのソデをつまんで引っ張って話が違うとか文句言ってる。
「あれね、ムリなんじゃない? バックスのヤツ、全然なってないもん。統制取れない手下なんて、何百人いても邪魔」
「なら、どうやって」
「パーシーさんに聞いたんだけどさ。ドラゴンズマウントに竜が一頭、生き残ってるらしいよ」
俺をほったらかしにして意味のわからない事をささやき合ってる。面白くない。
「俺を手伝ってくれるのか?」
大声を上げると、ドライアド達と3人が話をやめて、俺の方をを見た。今まで騒がしすぎたから、あまりに静かで耳鳴りがした。
「どっちかっていうと、手伝ってもらう、かな。教会がマトモだったら耳をそがれるくらいの銀貨を鋳潰して矢じり作ったけど、弓って素早く射てないでしょ。あたしの浄化の術も時間がかかる。こいつの火炎呪もそう。足止め役の、強ぉい剣士か拳士がいたら助かるなぁ」
「テオを盾にする気ですか」
深いため息をついた細いのが、物入れから出した小さい輪を投げて寄越した。
「利き手じゃない方の指にはめて下さい。お守りです」
赤い石か、木を染めた指輪だった。なんでこんな物。
「あたしとおそろいだよ」
聖女見習いが赤い指輪をした手を上げて見せた。投げ返すのを思いとどまって、左薬指にはめる。ゆるかった輪が生き物のように指を締めつけて外れなくなった。
「何だ、これ」
「呪いの指輪……なあんてね」
聖女見習いが笑う。マジ、か? すぐに体温に馴染んで違和感がなくなる。それがかえって無気味だ。
「これで、この男は私の庇護下に入った。森の貴婦人方には手をお引きいただきたい」
俺の前にいたドライアド達が振り返り、呻いてうつむいて、去っていった。最後にカエデの葉を散りばめた緑の髪が首筋をなでて、飛び去る。お前はバカだと捨てゼリフを残して。
「けど、ドライアドたちに案内してもらわないと、城へは」
彼女たちに捕まって半日以上。暴れたいのをずっと我慢していたのはそのせいだ。
「ご案内します、アレフ様」
ビーズの様にドングリをちりばめた、ふくらんだドレスの大女が現れて、優雅に会釈した。結い上げた髪にも茶色いドングリが散っている。
あたりに緑の光が満ちる。穏やかな光の中で森の木々が形を失う。灰色の闇の中で、足元が浮いた。川で溺れたときの様に、どっちが上か下か分からなくなる。テオはもがいた。急に、前のめりにこけた。頬に柔らかな草が触れた。
「御身に幸運を。どうかこの地から憂いをおぬぐい下さい」
緑の光が消えて、闇が戻った。ほのかな光は聖女見習いが掲げていた……違う、もっと青白い光だ。
顔を上げると、月明かりに5つの塔がぼんやりと浮かぶ城館があった。
「これが、吸血鬼の棲み家」
身を起こし、剣帯を握り締める。
ふと、これから一緒に危地に飛び込むのに、互いの名前も知らないのはどうかと思った。
「なぁ、聖女見習いさん、あんたの名前は」
「あたしはティア。そっちの弓使いは……ダーモッド・ブースだっけ。それと」
「アレフ、だよな。さっき樫の女王みたいなドライアドがそう呼んでた」
細い顔が引きつっている。
「名づけ親を恨むなよ。きっと知らなかったんだよ。俺だって、去年までは吸血鬼の親玉がそんな名前だったなんて知らなかったんだから」
「そう、ですね」
暗い顔でアレフがうつむく。ビビってんのかな。でも、俺は怖くない。怖いことなんかあるもんか。
ティアの熱い視線を背中に感じながら、テオは城に向かって一歩踏み出した。
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