夜に紅い血の痕を

著 久史都子

『夜に紅い血の痕を』第十三章 たそがれの地

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1.月虹


 もし海と帆船を見たがっていたスレイがいたら、ベスタ港に幻滅したかも知れない。規模に比して船が少ない。白い帆とロープを外された船は、羽をむしられたアヒルにも似て貧相だ。
 熱風をはらんで広がろうとするマントを、アレフは体に巻きつけた。頬を焼く午後の陽に顔をそむけ、フードを深く下ろす。

「ここから船に乗ったら、もう戻って来れないね」
 ティアが、浮き桟橋の先を指し示した。
 大きな艀《はしけ》が浮いている。そこで上陸の時を待っているのは船荷や家畜ではなかった。森の大陸からきた大勢の人。さえぎるモノのない陽差しと、海から立ち上るネバつく湿気の中で、声もなく座り込んでいる。

 桟橋と岸壁の境に真新しい小屋。あらい格子の向こうに、灰色の法服と腕まくりした港の自警員が見える。久しぶりに見た関。教会と商会が管理する街道沿いでは、ついぞ目にしなかった。

 乗り込む側の桟橋に関は無い。留められるのは上陸する者だけ。垢じみた渡航者を、聖水を使って調べているようだ。船に積む大きな水樽に手を浸して水滴を弾くやり方は、どうにも間が抜けている。
 それに不死者とその眷属かどうかの判定に、人妻に触れたり子供をこづいたり、大声で恫喝《どうかつ》する必要はないはずだ。

「弱みにつけこんだ小遣い稼ぎをしている様ですな」
 憤然としたドルクの言葉で得心がいった。判定の手数料は渡航者が出せるだけの金品。財布の中身だけでなく、婦人の赤い耳飾りを外させ、子供の木靴に隠された銀貨を奪う。長引かせるのも暑さと渇きで思考力を奪って、より多くを得るためのようだ。

「直射日光の下に座らせるだけで、検査は済んで……そうでもないか」
 ティアが歪んだ笑みを向けてくる。だが、すぐにオレンジを積み上げている飲み物の屋台を目ざとく見つけ、駆けていった。

 乗客から小銭までむしりとる関のせいで退屈していた売り子が、注文に応じて生き生きとナイフをふるい、しぼり器を使う。
 追いついた時には、数枚の銅貨と引き換えに、くり貫いたオレンジに満たされた生ぬるい果汁が差し出されたところだった。

 艀と桟橋からティアにうらやましそうな目が向けられる。嘆息の中に秘められた憎悪。幼子や老人の中には、今、水分を取らなければ危ない者がいる。

「そちらの旦那様は?」
 物入れをさぐり、金貨を置いた。
「すいません、そんなにお釣りは……」
「オレンジを全て。特に幼い子供と老人は優先的に」
 艀をさすと、売り子が困惑した。

「あんな関でも、通るたびに通行料が要るわよ」
 ほとんど飲み終わったティアが口を尖らせる。
「そこに詰めている者達も? 法服を着た者と、その命に従う者からは取らないはず」

 不敵な笑みを浮かべたティアが、スタッフを手に交渉に向かった。しばらく押し問答していたが、いきなり格子をスタッフで引っ掛け、海に叩き落とす。

「オレンジ屋さんは、通っていいって」
 ティアが大声で叫ぶ。わめいて掴みかかろうとした中年の司祭を振り返りざまに叩き伏せる。自警団員たちは、どちらに加担すべきか迷ったあげく、テンプル内のもめ事には関わらないと決めたようだ。

 手早く移動の準備を整えながら売り子が笑う。
「昨日は、ぐったりした子供をゆさぶって泣いてる母親や、泡吹いたジイさんにすがって泣いてるばあさんがいて、見てて辛かった」
 輪留めを外し引き手をつけ、屋台は桟橋を疾っていった。

「何事です」
 乗る予定の船に、荷を運び入れていたドルクが、駆け戻ってくる。
「関を壊せと言ったつもりは無いんだが……教会の紹介状か、副司教長の名で押し切るものと」

 群がる者たちに向かって、幼子と老人から配るとティアが宣言していた。抗議する不埒ものをスタッフで脅し、赤に近い橙色の実を的確に渡していく。

「あれだけでは足りませんね。人夫たちに他の屋台を呼びに行かせます」
 騒ぎに集まっていた者たちに、ドルクが幾ばくかの駄賃を渡す。最初の屋台に積まれた果実がなくなる頃、街の広場や市場の匂いをまとった屋台が、渡航者を検査している自警団員と、打たれた肩をおさえる司祭を押しのけるように、艀へ向かった。

「彼らの目に映っているのは慈悲深い聖女サマだけ。オレンジを買い上げた金の出所までは思い至りますまい。それに今日は救われましたが、次に船が着けば、また」
「分かっている。恨みより感謝に包まれて欲しかっただけだ」

 ほぼ全員に果物と果汁が行き渡ったらしく、屋台を引く売り子とティアが談笑しながら戻ってくる。

「お優しいことですね。昼前に召し上がった盗人の仲間を、噛まずに見逃されたのも、ティアさんのためですか」
 だまして連れて来るよう頼んだが、すぐに誤りだったと反省した。ティアの手で人を贄として差し出させるのは余りに酷だ。私に呪縛された父親と重ね、後悔で眠れぬ日々を過ごすのではないかと案じた。

「あの者達に私を告発する事は出来ない」
「人の心は変わるものでございます。この地を離れたと知り、時間が恐れを薄めれば、考えを変えるかもしれません。今、ティアさんに伸された者なら、賊の言うことに飛びつくかも知れません」
 最悪の事態を予想する従者を見ていると、逆に心が軽くなる。

「スフィーの港についたとき、逃げ場のない船の中で破邪の呪を仕掛けられるかもしれません。鳥による通信文は、船より速うございます」
 苦笑を抑えるのに苦労する。
「その時は、その時だ」



 夜風に泣く索具。波にきしむ船体。傾いた吊り寝台から聞こえる二人の寝息。白き峰はもう水平線の彼方。アレフは手帳に鉛筆を挟んだまま、薄雲にかすむ星空を見上げた。天候がくずれかけている。

 窓のない喫水下の船室を希望したが、案内されたのは船尾楼の客室。他に旅客はいないから遠慮するなと船長は笑っていた。だが、割増金はしっかり請求されたとドルクがボヤいていた。

 風向きと波によっては、窓から月明かりが船室に射しこむ。厚いガラスごしとはいえ、陽光も容赦なく降り注ぐだろう。父の形見を仕立て直したマントで防ぎきれなかったら、下層で昼をやりすごす適当な口実を考えなくては。

 それより……
「いよいよか」
 下弦の月が海面を照らす真夜中の海。目を閉じて感覚を断ち、心を飛ばす。

 数刻早く、曙光が広がり始めたキングポート。
 大きく窓を取った離れで、しもべが息を引き取ろうとしていた。寝台に寄り添うのは、亜麻のドレスをまとった女主人と年かさの女中。
(来て、下さいましたか)
 気配を感じて上げた額に、巻き毛が揺れる。

(苦労をかけるね)
 東大陸出身者の互助会と基金の運営に疲れた心と目を労わる。植えつけた喜びに勝る自発的な意欲を感じて安堵した。

 彼女達が夜半から見守り続けた男に精神体で触れた。羽枕に埋もれた死相に、かすかな笑みが浮かぶ。血を進んで提供させるために条件付けた不自然な悦び。

 つかのま戻った意識。だが実体同士をへだてる距離に絶望が広がる。再度の口付けを切望しながら、決して叶わぬと悟った哀しみ。全てを捧げて迎える最期を願いながら、無為に消えてゆく命を残念がっている。

 涙がにじむ。人を傷つけてきた罰だと感じている。街道をいく馬車を襲い、多くの人を苦しめてきた報いだと。

 それは違うと、後悔を忘却に沈め、いつわりの安らぎで包んだ。命でつぐない、すでに許されていると信じ込ませる。
 体と心がゆるむ。
 深く息が吸いこまれる。吐き出す前に心臓が動きを止めた。血流が止まり意識が解けてゆく。

 看取った者達のすすり泣く声を聞きながら、壊れていく脳が最期に見せる幸福な幻影を追う。転化させてしまわないよう注意しながら、死を見守った。

 離れに射しこむ朝の光に集中力が乱れ、臨終の場から引き離される。目を開くと、月明かりに輝く夜の海と、船の騒音が戻ってきた。

 ウートの短命は報いでもなんでもない。飢えていた時にたまたま隣にいただけのこと。私に危害を加えようとして、吸っても構わない条件を知らずに満たしてしまった、不運な罪人。
 それに血の提供が償いになるのは、東大陸での法。中央大陸では、むしろ罪を重ねることになるはず。
 ウートもアンディも、私刑の犠牲者でしかない。

 暗い気分を変えようと通路へ出る。気付いて身を起こすドルクを制して扉を閉め、一人で上甲板に出た。

 小さなつむじ風を生んで喜びを表す風精に応えながら、帆柱を見上げた。前方しか注意していない上方の見張りの背後に、淡い虹が垣間見えた。上空の薄い氷雲が見せる水平の虹色。人の眼には天の河よりも淡い白い帯としか、映らないかも知れない。

 夜の虹を不吉だと言ったのは誰だったろうか。死後に魂が返る場所。大いなる源への架け橋という伝説を、今夜は信じたい。

 感傷的になりすぎていると首をふって気持ちを切り替える。

 傾き揺れる甲板で、転ばないよう注意しながら拳術の型をなぞる。両手の突きとかわしの動作から始め、下段への蹴りに繋ぐ。

 キニルのヴァンパイアに、にわか仕込みの拳術は通用しなかった。だが、何もしないよりはマシだ。こちらが無力では助力を得るも何も無い。手を組んだ方が有利だと納得させるため、時には粗暴な力を示す必要もあるだろう。

 目を閉じ心を飛ばせば、ウェンズミートの造船所で働く者達を安らげるリュート弾きの歌が聞こえてくる。背後で輝くのは赤い夕日を反射する銀の船。

 予想はひっくり返された。モルが陸路ではなく海路をとるとは。それも呪術的な防備も施した大型帆船。嵐を呼んで沈めることも可能かも知れないが、大勢の船員が巻き添えになる。それに、向こうにも精霊魔法の使い手がいるかもしれない。

 だからといって乗り込んで戦うのは危険度が高すぎる。水上で魔力は弱まる。船には厄介な仕掛けも張り巡らされているだろう。
 有利に戦うのなら大地と闇の領域で。深い森に守られた、放棄された城に誘い込み、こちらに有利な結界を施せば確実に勝てるはず。

 だから、船首で妖精が蝶の羽を広げる、ダナウス号に乗った。

 僚船が荷と客を求めて港と航路を変えた後も、ダナウス号がベスタ・スフィー間を走り続ける理由。船主であるハーラン商会の起源と拠点が、スフィーにあるからだと、船員が話してくれた。
 渡り蝶のように、同じ名をつけた同じ型の船を、幾世代も重ねて育て上げた航路と販路。いまさら捨てる事は出来ない。いずれ夜明けは来るはずだと、たくましく笑う。

 このご時勢に森の大陸へ渡らねばならない理由を聞かれた折、病いに伏した親がいるとウソをついた。
 もし、夜が永久に続くよう、手助けをするためだと言ったら、海に叩き込まれたかもしれない。



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2.海門



「音が聞こえる場所にいたら、ぶっ飛ばす!」
 ニヤついている水夫にすごんでから、ティアは便所にこもった。海へ落ちそこねたブツが便座の内側だけでなく、床にもこびりついててスゴく臭い。赤い目をしたハエもウザい。

 明日には小ウジになるはずの白いタマゴの固まりを踏みつけ、換気窓の向こう……船首像のカカトごしに見えてきた、二つの岩山に挟まれた海峡《かいきょう》をにらむ。

 船を沈めた数を競ってた化けクジラと大イカが、スフィー沖で決闘して白と黒の岩山になった。なんて、おとぎ話があるらしい。

 今も時々、船を沈めるだって?
 バカバカしい。
 船が沈んだのは、海流と波の下に隠れた岩のせい。それと、岩山の頂上に埋め込まれた術具が張る結界も、少しは関係してるかもね。

 森の大陸を治めていたユーリティス城主ワイドールが組み上げた見えない壁を、スフィーの教会が今も維持している。海から来る招かれざる者から森の大陸を守る防壁。普通の人は通しても、人外の者は一定の儀式をやんないと力を削られる。

 つっても、境界の向こうから正式な名前を呼び、迎え入れる意思を示すだけ。つまり船首の便所にいるあたしが境界を越えた後、船尾の最下層で、淦水《ビルジ》の汲み出しを見学しているアレフを迎え入れる。

 ドライリバーを越える時にもやらされたけど、ガキのごっこ遊びみたいで気恥ずかしい。本名を口に出して言わなきゃならないのも面倒の元。事情を知らない他人には聞かせたくない。

 えっと、この階層は……もう近くに誰もいない。
 ダナウス号の水夫たちはあたしにビビってる。ベスタ港でスタッフを振るった時、船べりから見物してたみたい。

 船首楼の厨房には、足音も気配もない。台所も吐きそうなくらい臭うから無理もないか。船首の見張りは……波と風に声がまぎれて、何を言ってるか聞こえない、かもしれない。

 小便臭いシミが複雑な地図を描く板カベに手をついて体を支えながら、その時を待った。波に乗り上げるたび、便座の上で腰が跳ねる。だから床にこぼれたのか。腹こわして間に合わなかったワケじゃなくて。

 やっぱ客室の便ツボの方が、揺れが少なくて落ち着けるな。ニオイもマシだし。

 山の陰に入ったのか、急に暗くなった。船に迫る白い岩と黒い岩。岩に砕ける波しぶきってけっこう迫力ある。

 何か布みたいなモノが背中に触れ、体の中を通り過ぎたのが分かった。防壁ってヤツを越えたらしい。

「ようこそ、森の大陸へ。アルフレッド・ウェゲナー、臆病な血の盟主」
 名を呼ぶと、目の前で見えないカーテンが開き、風が吹いた気がした。でも、あまり長くは開けていられない。少しずつ閉じ始めてる感じだ。

 手の紋に収めていた風の精を解き放つ。船を風でつつみ加速させる。
 間に、あうかな。
 結界に不死者が触れたら、多分スフィーの教会にバレる。

 それとアレフは自制心ってヤツが少し弱い。削がれた力を取り戻そうと、見さかいなく人を襲うかも知れない。

 いまだ人を殺せない甘ちゃんのままだし、ここは海上。バレて船倉から陽の下に引きずり出されたら、気絶して袋叩きだ。
 身包み剥がされるついでにルナリングを奪われたら、焼けコゲちゃうのかな。

 もう一度、口上を述べようとして足音に気付いた。今もよおしたバカがいるらしい。
「今使ってるから、ちょっと待って」

 扉の向こうに声をかけながら気配をさぐる。閉じかけている実体のない壁の感覚。アレフは、船底を移動してる。暗くてもつまずかずに動けるのって便利だな。

 水樽と押し固めた煙花の横で、体を横にして結界のすき間をくぐり抜けるのを感じた。
 ……良かった。

 便座から見下ろした青い海にむかって用を足してみる。壁に釣られた皮袋の水を手に受けて洗って出たときには、ちょっとニオイに慣れていた。
「お待たせ」
 肩を叩いたら、まだぬれてたみたいで手形がついた。すきッ歯の水夫がイヤそうな顔をして、ちょっと笑えた。


「ホセの野郎、また便所でサボってんじゃねぇだろうな」
 急な風の変化で呼び集められた水夫たちが、帆を傾けるツナをたぐりながら怒鳴ってる。そんな上甲板の騒ぎに舌を出しながら、船尾の昇降口に向かう。

 堅い木を銅で締めた扉を4回は開け閉めして、階段を上がった。
操舵輪の動きにともなう歯車のきしみとカジが切る水の音。甲板長の大声と復唱する水夫たちの声も力強い。

 二つ岩を越えたら入港は早くて半日後だったかな。結界を越えるまで左手の紋に閉じ込めてた風精が、やたら張り切ってダナウス号を押してる。昼過ぎには揺れない地面を踏んでるかもしれない。

 船室に戻ったら、窓際の長イスにドルクとアレフがいた。元は一人か二人用の部屋だってのに、寝台が三っつもブラ下がってるせいで頭うちそう。でも、この危なっかしい部屋とも、今日でオサラバだ。

「お疲れ様でした」
 ねぎらいの言葉と一緒に、割ったアーモンドが出てきた。
「忘れてたけど、ドルクは結界とか平気?」
 キニルではアレフと一緒にヘバってた気がする。
「人の姿なれば。元々わたくしはこちらの出ですし」

「ワイドールが獣人を作ったんだっけ」
「教会が使う通信文を運ぶ白い鳥も、ワイドール様が作られたハズですよ。ハトを元にして」
 昔は教会と吸血鬼が仲良しだったってのが、あたしには理解できない。

 そっか、ドルクたち人外の衛士も“しゃべる贈り物”ってやつか。地縁も血縁もない他領の獣人なら、領民に酷な仕打ちもできるし、主の悪行をバラす事もあんまりないから。

 けど今は、生きた人間が進物品あつかいされてた頃の話なんかしても意味がない。

「ね、スフィーってどんなとこ? 昔は教会の総本山があって、城壁にかこまれてて、カタ苦しい街だって聞いてたけど」
「魚料理とシカ料理。お茶と果物がおいしい街でございますよ。黒い教会が街の真ん中に居座っていて、すこし邪魔ではございましたが……」

 口ごもったドルクが探るようにアレフを見る。
「大遷座かぁ」
 ファラ打倒がテンプルの……英雄モルの武勇伝なら、こっちは教会側の手柄話し。メンター師や太っちょのマルラウが若いころにやった、総本山の移行。

「地下のカネ倉に積まれた袋の中身を少しずつ石ころに入れ変えて、人も帳簿も手形の控えも半年ごしで船で運んで……。
 ファラが滅んだ翌日、ワイドールの手勢が踏み込んだら総本山は空っぽ。休会日だから生徒も代理教官もいなくて、千人が手ぶらでトボトボ帰ったんだよね」
 教会にとっては痛快な脱出劇でも、逃げられた方は牙が折れ砕けるぐらい悔しかったろうな。

 教会の幹部連中と大金が、報復を恐れて海を漂っている間に、セントアイランドとキニルをおさえた英雄モルはオリシアを滅ぼしてウェンズミートも落とした。ついでに教宣ビラで手柄を広く知らせて、覆《くつがえ》しようのない名声と、人々からの信頼を手に入れてた。

「木陰や空き家で、何日かおきに教室を開いていた開祖と弟子たちが、初めて得た安住の地がスフィーのはず。教会基部に当時の壁が一部残され、土地と建築資金を寄付したワイドール様のお名前が刻まれておりました。
その恩をアダで返す、ひどい裏切りでございますよ」

「ファラ様を滅ぼしセントアイランド城を占拠したのは、過激な若者が作った秘密結社テンプルの暴走だと、当時の教会は言い張っていたようだが」
 恋人が灰になって、フテ寝してたはずなのに良く知ってんな。アレフの手元には光がまたたく水晶。そっか、シーナンとオートマタ達が残した記録を読んでるのか。
「そんな嘘、よく通ったもんよね」

「テンプルの者が父を滅ぼしても、バフルをはじめとする東大陸の教会が無くならなかったのと、おそらく同じ理由だろう。
既に人の暮らしは為替がなくては立ち行かなくなっていた。少なくとも商人や太守は。今も助けを借りている」

 船賃も金貨や銀貨じゃなく、紙切れで払ってた。この先は教会そのものが危ういかも知れないから、いくらか宝石や銀に替えたみたいだけど。

「太守の家紋を刻印した金貨の量より遥かに大きな金が、教会が保障する手形や為替として出回り、信用されるようになっていた。もう勝負は決まっていたかも知れない」
 歪んだ笑み。アレフが嬉しそうなのは何でかな。

「いずれ滅ぼすべき魔物との取り引きは全て破棄。
 教会からの一方的な通告で、ワイドールは数千年にわたる蓄財の全てを奪われた。それに比べれば、ウェゲナー家が失った預金はわずかなものだ。
 むしろ、千年かかっても返せそうにない借財が破棄されて、助かったくらいだ」
 なるほど、ドサクサに紛れて借金を踏み倒したのか。実際に踏み倒したのはオヤジさんだろうけど。

 借金のカタに取れるモノなんてロクに無かったろうから、信用貸しだと思うけど……いくら位だったんだろう。
 もっとも、返済期限が千年後の借金なんて、額を聞いてもピンと来ないだろうな、絶対。


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3.黒き教会



 とがった半島と深い湾が続く海岸。
 少しずつ沈降していく小さな漁港を無償で貸し与えた時、期限をたずねる教会の者どもに、こう言ってやったとワイドールは笑った。
「海中に没するまで」と。

 数万年後も生きていると確信しきった不死者の傲慢《ごうまん》。
 ワイドールは二十年前に滅び、漁港は大陸随一の港湾都市スフィーとなって今も在る。
 とはいえ……

 海からぬっと伸び上がる黒い壁を見上げながら、皮肉な笑みを浮かべられるのは、今だからこそ。
 船を導く灯台も兼ねた幾つかの見張り台。上に案内されて交易船が居並ぶ港と、月の下で眠る出来たての街を見下ろした三百年前。アレフの胸にあったのは羨望とあきらめだった。

 首都バフルの居城ですら過去の城砦を改修したもの。開祖モルが描いてみせた、学問の拠点となるべき数千人を収容できる強固な建物など夢また夢。増えるであろう学徒を養う水や食料を調達するアテもなかった。
 何より東大陸には地の利というものがない。他領との間に横たわる広大な海が、あらゆる可能性の邪魔をする。

 比べて、スフィーには全てがそろっていた。
 広大な森を水源とする豊かな川。狭いながらも魚を肥料にして高い収量を誇る耕作地。
 港と街が整うと、ウェンズミートの貴金属や、シリル特産の薬草やコカラ豆を積んだ商船が自然と集まり、スフィー・ベスタ間は最も金を生む航路となった。

 だが、数十年ぶりに目にした夕日の中のスフィー港は、暗くわびしかった。倉庫前に積まれた荷は少なく、人夫や船員もまばらだ。

 船を見つめている無数の目は、船賃を払うのがやっとという避難民のもの。今日、出航できそうな船がないのに街へ通じる大門の下に座り込んでいる。宿に泊まる金もないということか。

 居心地の悪い注視の中で城門をくぐると、ティアとドルクが鼻をおさえた。ためしに息を吸ってみると形容しがたい臭気が鼻をつく。市場で売れ残った魚の生臭さや野菜の腐臭、汚物やドブ臭さといった生活臭とは明らかに違う。

 壁の内側には、夕暮れの街が広がっていた。黒い石畳と焼きレンガ。火矢や火炎呪を警戒していると思われる鉄の扉と鎧戸に守られた高い建物。集められた富を狙う欲深い者どもから、街と人を守るもう一つの壁。

 昔と同じように圧倒される威容だが……空き家が妙に目立つ。修繕されないまま放置された屋根や樋《とい》。外れかけた戸とレンガが幾つか抜けた壁。

 迷路のような路地をたどると、路傍からヤセ犬と共に剣呑な目を向けてくる男や、荒んだ目の子供に行き逢った。明るいうちから胸の開いたドレスで酒場に誘う酌婦は、うすい香水と垢じみた獣臭をまとわりつかせている。

 視界を圧する黒い教会の前に、大門で感じた異臭の源がさらされていた。午前中、火刑に処されたと思しき死骸が六つ。足は黒い棒だが上は原型が残っていた。かろうじて性別は見分けられるが、年齢はわからない。断末魔のまま歪んで固まった顔は、正視に堪えない。

「これは、本当なのでしょうか。自ら闇の口付けを受けし淫らにして卑怯なる裏切り者を火によって浄化した、というのは」
 石柱に貼られた罪人の名。その前でドルクが声をかけた老婆は、露天の古着商のようだが、商い物が少ない。

「旅の人かえ? ヨソじゃここを吸血鬼の巣のよう言うとるかも知らんが、怯えんでもええ。森を越えたもっと南の方はしらんが、その罪状はウソっぱちさね。教会はスゴいんだっておどしに、密告があった家のモンを焼いて財産を没収しとるのさ」

 老婆は手元の薄紅色の繻子に白レースをあしらったドレスを掲げて、シワ深い顔をゆがめた。
「あたしゃ、そのおこぼれに預かってるだけさね。この娘なんざ焼いちまうのがもったいない美人だったねぇ。連れの聖女様の普段着にどうだい? モノはいいから」
 焼く前に刑吏が脱がせた服を引き取って売っていたのか。

 人の世になれば、口付けを受けたものに庇護と特権が与えられる事はない。それは分かっているつもりだったが、あまりに無残な光景に吐き気を覚えた。転化を恐れて死後に焼くならまだしも、火刑はやりすぎだ。キニルでは施療院に収容すると言ってなかったか?

「あたしは教会に寄るけど、どうする? “食事”済ませてから宿で落ち合う?」
 ティアが意地の悪い笑みを向ける。

 乗客が他に居ないせいで注目を浴びがちだった船内では、我慢していた。そろそろ限界だが、しもべが陥るかも知れない最悪の結末を見せ付けられては、食欲など朝もやのように消え失せる。

 いや、こうなりにくい相手を選べばいい。ここの教会には、正式に招かれ、何度か入ったことがある。おそらく結界は拒まないはずだ。そして、教会の上位にある者なら、特権に守られ、無残な最期を遂げる事もあるまい。
 厄介なネックガードも、指を焼く覚悟さえあれば、外せないものでもない。

「付き合おう。少し思い出にも浸りたい」
 意外そうなティアに先立って、火刑台と焼け焦げた石畳をさけて広場をまわり、堀を渡る。結界らしきものがありはするが、この身を弾く力は感じられない。あっさりと正門をくぐることが出来た。

「平気、なんだ」
「ここは古いから」
 ドルクが寄付金と引き換えに、宿坊を一晩借りる交渉をしている間、高い丸天井を見上げ、昔のままのモザイク模様に目を細める。

 だが、人は減った。人の少ないホールには、うらぶれた空気が漂っていた。かつての訪れが太守としての正式なものであり、教育官や学徒たちが居並んでいたのは、高貴な支援者に対する礼儀だったとしても、あまりに寂しい。

 スフィーは一度、捨てられた都市。世界中から金と人を集めていた黒き教会も一度捨てられた。今でも森の大陸を統括する拠点だが、空き家同然の空白期間が、熱気も本山としての矜持もほの暗い混沌も、全て奪ってしまったようだ。

「案内しましょう」
 安いワラの寝具と狭い部屋に大金を支払う酔狂な旅行者を、心の中でいぶかしんでいる太った準司祭を最初の獲物と定める。教会内は安全と思っているのか、簡単に心が読める。

 最終的には、法服を着た者だけが入れる上の階で、狩りをするつもりだが、まずは内部事情を把握しなければ。

 当たり前の様に奥の扉へと消えたティアが、目となり耳となってくれれば、ムダに口付けする必要も無いが……心話すら弾かれるのでは、まず無理だ。


 宿坊へ通じる扉の前で、準司祭はティモシー・リンドと名乗った。体も声も心もぼんやりと柔らかい。最初は読心のために伸ばした力で、少しずつ心身を縛りながら、意外さを覚えていた。

「水は中庭の井戸をご自由に。シーツと枕は廊下のくぼみに洗濯したのが……使ったら横のカゴに入れといてください。寄付されたキルトや毛布もあるけど、服のまま寝るなら今夜は要らないでしょう」

 中年で準司祭というのは普通なのか、出世が遅い方なのか。少なくとも今まで接したテンプルの者と比べて、たわいない。

「分かりやすいご説明、ありがとうございます。リンド先生の授業だと、子供たちは大喜びでございましょう」
 ドルクの追従《ついしょう》で、荒事とは無縁の教育官だと、ようやく気付いた。

「生意気ざかりの子供らは、大喜びどころか大騒ぎですよ」
 自嘲的な笑みに教え子への慈しみがにじむ。リンドと同じく、昔の教会の者たちにも脅威は覚えなかった。

 剣呑な雰囲気を漂わせていたのは、教会から教会へ定期的に金袋や文書を運ぶ任についていた者たち。剣や棍棒を帯びた彼らから、テンプルは生まれたのかも知れない。

 そういえば、金の返済を滞らせた者に対して、彼らが武器を振りかざして取立てを行ない、負傷したとの訴えが時々あった。何度か教会に抗議した事があったはず。

 返済の期限を延ばす……
 天候不良や家畜のはやり病。数年ごとに返済が滞るどころか、小麦の輸入のためにさらなる借財重ねていた気がする。代わりに特権を与えたり、土地や建物を返済に充ててゴマかしたり。 無いモノは返せぬと、私以外の太守も期限を延ばしていた。

 テンプルによって我らが滅ぼされた理由。度重なる返済の滞りと踏み倒し同然の物納に業を煮やしての、過激な取立てだったのかも知れない。借財は東大陸を2つ買えるくらい膨らんでいたはず。金ごときでとは思うが、納得できなくもない。

「生意気といえば……若い頃、初めて教壇《きょうだん》に立った時、やたら難しい質問ばかりしてくる、生意気な子供がいたんですよ」
 割り当てられた個室の扉をあけながら、少し得意げにリンドは笑った。思わせぶりに壁際のロウソクに、火炎呪で火をつけてみせる。ドルクが賞賛の拍手を送った。

 室内にあったのはワラを詰めたマットを延べた二段ベッドと、小さな机。窓には内開きの鎧戸と鉄格子。ここはかつて、寮だった気がする。

「まだ十歳にもならないのに、教育官の誰もかなわないほど弁が立って……十三歳になった時、推薦状を持たせてホーリーテンプルにやりました。次々と試験に受かって手柄を立てて、いまや回りからも英雄モルの再来と呼ばれるようになりました」

「リンド先生はモル司祭の恩師でいらっしゃいましたか」
 愉快そうな笑顔。扉を後ろ手に閉めてドルクが立ちはだかり、外が堀なのを確認してから、私が開いていた窓を閉めても、特に不信を覚えてはいない。

「あの頃は眉毛がうすくて顔が変だって、少し気味悪がられていました。不自然に黒かった髪は、いま思うと染めてたんですなぁ。他の子にいじめられないようにという親心でしょう」
「こちらにご実家がございますので?」

「アルシャー家といえば、昔はたいそう羽振りが良かったんですが、混乱期で全てを無くしてしまいました」
 丸い顔が、嫉妬と悪意と優越感に歪んだ。

「大きな声では言えませんが、人を商ってましてね。愛らしい孤児《みなしご》を引き取っては閉ざされた庭で年頃になるまで育てて、城へ収めるという何とも業の深い商売です。高値で買い上げられた無垢な若者や娘は、他の吸血鬼どもへの“しゃべる贈り物”にされていたとか」

 それは法で禁じられていたはずと抗議しかけて口をつぐむ。心当たりがなくもない。この地では木や草が手をかけずともはびこる様に、人は勝手に増えるものとワイドールは思っていた気がする。
 草も木も人も、金と手間をかけねば増えない東大陸とは、考え方も常識も違う。

「口さがない者達が言うんですよ。モル・ヴォイド・アルシャーは遠い北の地から仕入れた商売モノに手をつけて生ませた子ではないかと。それが、今や英雄と讃えられるモル司祭というのは、ちょっと愉快でしょう」

 それにしても、なぜこんな話をする。見てくれが穏やかでも心のうちまでそうとは限らぬのが人だとは知っている。教え子でありながら階級を追い越したモルへの嫉妬だろうか。

「二十年前に一家離散したあとは、ここの寮に入って、勉学も武術も熱心に取り組んでました。十にも満たぬ子供なのに法術の腕など誰も敵わぬほど。
 可愛げが無くてウソつきで。いや、ホラ吹きというか想像力が豊かというか、自分は大司教になると、公言してはばからず……確かに祖母の祖先をたどればモル開祖に繋がっているらしいんだが」

 心の深みにまで干渉したとき、脂肪に包まれた胸の奥にうずまく焦りに気付いた。話をとぎれさせたら最後、ネコにひと呑みにされてしまう昔話のネズミのように、言葉が止まれば全てが終わってしまうという脅迫観念。

 バカバカしいと心の表面では否定するよう仕向けられても、心の奥では危機に気付いているか。やはり夜明け後の人間は術がかかりにくい。

 だが、完全な操り人形にする必要はない。
 自ら差し出したにせよ、強制的に噛まれたにせよ、この地では不死者に血を提供すれば身の破滅。必然的に共犯者になってくれるはず。

「しかし、三百年も経てば一年の月の数ほど世代が重なるものです。なんと祖先は四千人以上。そのうち一人くらい開祖モルの親戚がいても不思議はない。ここは開祖モルの故郷なんだし。それに、ファラを倒した英雄モルの、故郷でも、あるんだ……から」

 汗がにじむ顔をみつめて金縛りにする。
 喉の感覚を奪い、今や教会に所属する者の証ともいえるネックガードを外しにかかった。ダイアナが外しているのを見て、ウェンズミートの金具職人の間で流行した知恵の輪のようだ思ったが、指が焼けて滑る分、手間がかかる。

 金属の輪が床を転がる涼やかな音を聞くまで、いく度か舌打ちするハメになった。あらわになった首筋は、苦い汗の味がした。心に広がる絶望も暗く苦い。
 牙を突きたて、久しぶりの食事に歓喜しそうになる心を落ち着ける。ひと啜りして、治癒呪を施しながら口を離した。

「話は面白かったが……親切をアダで返して申し訳ない。この通り井戸の水では喉を潤せない身でね。だが、吸血鬼に噛まれたと教会に密告されたら、ここでは火刑だったかな」
 動揺をあおり、支配の強化を試みる。
 嫌々でも、言いなりにさえなってくれれば、十分。

「実のところまだ飲み足りない。お前が遭った不運と理不尽を、他の誰かにも与えたくはないか? モル以外に、気に食わない者が身近にいるはずだ」
(その者の所まで導いてくれたら、お前からはもう飲まない。だが、案内できないのなら、飲み尽くす)
 血の絆を介して心話を送り込み、既に我が眷族であると思い知らせる。

 褐色の瞳が揺れ、やがて据わった。
「ウォルト・テレル教長を私と同じ様に。
 あいつは卑怯者だ。シリルへ討伐に差し向けた者達から助けを求める速文を受け取ったのに見捨てた。責任を追及されて地位を失っても平気なだけの金を集めるために、密告を奨励し、火刑を始めた最低な野郎だ」

 つばを飛ばして訴えたあと、丸い顔に底意地の悪い笑みが広がった。
「でも、私以上に毎日うまいモノ食ってますから、血は甘いと思いますよ」





「紅い指輪を得た者に移民が多いのは、どういう事か。それに新規に募集した衛士を全て、イヴリン殿専属にというのでは、専横と呼ばれても仕方あるまい。近ごろ身辺が騒がしいのは知っている。だが、そもそも貴女が強引な……」

 追いすがる衛士長を、くだんの新規募集した若い衛士が押しとどめる。
「お話はまたいずれ。今は急ぎますので失礼します」
「またイヴリン殿にだけ聞こえる、ご下命ですか?」
 皮肉まみれの声を、イヴリンは厚い扉と二重の帳《とばり》でさえぎった。

 移民を重用したのは“使える”から。縁故という甘えの盾がない分、彼らは誠実に必死に働く。スキを作らず腐敗も少ない。大体、移民出身者は今期任命した者の三割に満たない。半数を超えてから“多い”と言ってほしい。

 それに昔から東大陸に住む者に、クインポートの制圧などという、汚れ仕事が出来るかどうか。中央大陸風の強固な城壁と市門に守られた半独立都市。港を封鎖し食を断てば餓えて死ぬ者も出るだろう。最悪、見せしめとして街を焼き同胞を手にかける事になるかも知れない。

 この数百年間、闇の王の庇護の元で生ぬるい平安に馴らされた私たちが、非情に徹するのは難しい。

 一方……
 闇の王達が滅ぼされたあと、人が人を殺し、奪い、貪りあった混乱期。死と炎と混乱が広がった中央大陸から逃れ、命がけで海を渡ってきた移民たち。互いの肉を食むような極限を味わった彼らならば、死に物狂いで使命を果たしてくれるはず。
 
「そう、口に出して言えれば、すっきりするのだけど」
 自嘲的に笑って、樫の机に触れる。遠い昔、森の大陸から運ばれてきたという見事な一枚板。その上にビロードの台座を据え、胸にかけた袋から、水晶球を出して安置した。

 昼はバフルに起きる諸問題を片付けながら、閉鎖された港の復興をすすめ、深夜はひと払いした書斎で水晶球を手にアレフ様の名代を勤める。今もやりがいを感じてはいるが、疲れも覚える。

 アレフ様がこの地を離れて既に九ヶ月。
 表向きは忍びで領内を視察している事になっている。居所をひた隠すのは、テンプルの暗殺者を警戒しているから。この言い訳は、いつまで通じるのだろう。

 巷《ちまた》には、様々なウワサが広がっている。
 太守は地の底に幽閉され目覚めぬ眠りを強いられている、だの。とおにアレフ様は滅んでいるのに、代理人やしもべが特権を失いたくなくて、口裏を合わせている、だのと。
 しかも主犯は私らしい。

 太守の健在を示し、流言を否定すべき者たちの語気が弱く態度が曖昧なのも良くない。それはアレフ様がこの地に戻られることはないと、私自身が諦めているせいもあろうか。

 深呼吸して、水晶球に手をかざし呪を唱える。旅の占い師めいた仕草だが、未来も過去も見えはしない。
 脳裏に映るのは、暗く巨大な球面に散らばる光。東大陸ではほぼ全ての村と街に星の様なまたたきが。中央大陸には西から東へ、街道沿いに光の粒が点在する。血の絆によって結ばれた心のつらなり。

 繋がりによって知り得る遠き地の出来事。ウォータで両替商を営むしもべは、香茶と煙花の先物買いで財を増やし、東大陸では銀の値上がりに先手を打つことが出来た。

 最新の光点は森の大陸、スフィーの教会内。
 注意を向ければテンプルの紋を刻んだ銀ヨロイ共に、微笑んでみせる我が主と、しもべの気配がふたつ。

 かつて地下の金蔵でテンプルを隠し育んだ、黒き本山の教長を贄になさるおつもりとは、何という無茶を。心づけを騎士に握らせ、企《くわだ》てに手を貸しているドルクを心話でなじりたくなる。

 最初にアレフ様をこの地から逃すと言い出したとき、中央大陸の辺境に身を潜める計画だとドルクは言っていた。

 混乱に乗じて教会の支配を退けた地域には、身の程知らずにも太守のマネゴトを始めた愚か者どもが無数にいる。王と自称する彼らを呪縛し、裏で贄を召されるなら安全だと。

 不信を招いたら全ての罪を操り人形に押し付け、別の村か町へ逃れて同じ事を繰り返せばいい。世界は広すぎる。血の絆に頼れない人々は遠い町や村に起きた不幸を知る術がないからと。

 だが、安全どころかアレフ様は危険のただ中におられる。案じても、海をへだてた異郷ではどうにもならない。

 有能だが気に食わない司祭や騎士を死地に追いやり、愚鈍で忠実な者を手元に残した、教長の愚かさに期待するしかない。

 手の届かぬ物事で心と眠りをすり減らすより、力の及ぶ範囲に意識を向ける。

 アレフ様を装って、東大陸の代理人達にねぎらいの心話を送り意見を求める。
 『太守をないがしろにする、バフルの女代理人の専横』を直訴する者もいるが、動揺を抑えて耳を傾ける。

 むしろ気になるのは、アレフ様がこの地で最後に任命された商工組合いの若き代理人。繊細な細工のビンに詰めて売り出した、香水の注文が取り消されたと青くなっている。

 キングポートで互助会を運営している代理人は、例の香水は人気で、高値で取り引きされていると不思議がる……エブラン商会は、東大陸絡みの商売から手を引きたいらしい。

 クインポートを見張らせている者に確かめると、商船の数が先月より減っていると応えがあった。紅い指輪を介して不安が伝わってくる。

 森の大陸での吸血鬼騒動と、動揺をあおる教会の読売り。キニルから発信されたホーリーテンプルの意思が、東大陸が抱える闇への恐怖と憎しみを、人々に植えつけていく。

 読売りに踊らされる彼らの希望はウェンズミートで作られているという銀の船。森の大陸でアレフ様がモルを止められなかった時、バフルは再びあの者の侵攻にさらされる。悪夢の様な“できそこない”たちは、もう二度と見たくない。

 投石機や火矢を打ち出す弩《いしゆみ》を海に向け、街の防備を固めはするが、司祭の攻撃呪に対抗する手段がない。海上で迎え討つなら、思いつける手は御座船を持ち出すぐらい。

 風に頼らぬ機動力と波に邪魔されぬ速さ。防御を固めすぎたテンプルの重い船よりセレナード号は乗り物として優れているはず。だが、相手を沈めるとなると油と火薬を積んでぶつけるぐらいしか手段が無い。

 帆と油を発注すべきだろうか。その金をどこから工面しよう。

 悩んでいた頭に、悦楽と歓喜がよぎった。
 警護の者をあざむき、入り込んだ黒き教会の最上階。晩餐の席で言葉巧みに人払いさせ、アレフ様は無事に食事を始められたようだ。

 火刑に処された数体のムクロをご覧になったぐらいで動揺されて、義憤ともいえる思いを抱いて危険を犯される。そんな感傷的な心もちで、テンプルが作り出した抑制を知らぬ始祖と手を組めるものだろうか。

「仇討ちを果たされるまでは、どうかご辛抱を」
 心話に乗せない進言は、空しく帳《とばり》に吸いこまれた。


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4.たそがれの地


「次はビビィの番だ」
 甘い幻想を破るケリーの声。ビアトリスは哀しく目をあけた。闇の中でも梁《はり》の木目が見わけられる。“変わってしまった”現実がそこにあった。

 汗ばむ背をなでていた手が、夜気をつかむ。オノやクワをふるって鍛えた胸と腕が、ビアトリスの上から退いて横に転がる。首筋の傷は、数日前にビアトリスが穿《うが》ったもの。

 目をそらすと、丸太小屋にただよう香りの源……香油ビンに貼られたの青いラベルが、飛び込んできた。
『ロスマリン 
闇の女王が生身の男に愛される時に使ったともいわれる、高級化粧油』

 こんなものに頼っても、得られるのはひとときの平安。
 月に一度の痛みも、下着を汚す湿りもない。私の身体は何も出さない、もう何も生まない。

 去年……
 老夫妻から駅の株を買った時には想像もしなかった。手直しした駅舎の前で愛を誓い、親族や友人の祝福を受け、伯父が持ってきたガチョウの丸焼きを皆に切り分け……幸せはずっと続くと思っていた。

 前後の駅から半端な距離にあるせいか、飼葉や軽食の売り上げはわずか。だけどお金を貯めていつか牝牛を手に入れる。子牛を売った金で果樹園を作る。十年後には収穫を手伝う子供らの笑い声が響くはずだと。

「渇いてるだろ」
 ケリーは相変らず無口だ。でも心からは思いが溢れる。

 赤ん坊が飲む乳は母親の血だ。オレも親の血を飲んで育った。これは罪なんかじゃない。それにオレは二人分食べてる。まだまだ平気だ。

 血の絆を介して伝わる思いは、嬉しくて辛い。
「ありがとう、ケリー」
 さりさりとした頭とヒゲに触れ、ヤブイチゴより黒くツヤのある目を見つめる。半年前から伸びなくなった髪をかきあげ、日に焼けた首筋にキスをした。恐れと期待が混ざった吐息が耳をくすぐり、ケリーの喉ぼとけが動く。

 私がかつて強いられた忌まわしい行為を、愛する夫にする。嫌だと心はつぶやくのに、ケリーの血は熱く甘く喉をすべり落ちる。二つの傷からほとばしる命。温かみと心地よさが冷たい身体に広がる。悦びの奥に現れる切なさと罪悪感が教えてくれる。これは死に向かってゆく空しい愛だと。

 だけどケリーの思いと献身を拒んで、渇きと滅びを受け入れられるほど私は強くない。ケリーも苦しみ哀しむ。みかねて私を楽にしてやろうと考えるかも知れない。胸にクイを打ち込み、首を落としたら……私の体と一緒に、ケリーの心はきっと壊れてしまう。

 眠りに落ちたケリーに、義母がくれたキルトをかけた。花や草で染められた端切れが描くブドウ。たくさんの孫を期待して縫われた結婚祝い。
「ごめんなさい」
 つぶやいてから、静かに部屋を片付け家具を拭く。立ち寄るかもしれない馬のために水を汲み、飼葉小屋に干草と刈った青草を入れた。

 裏の農園のスミには、私のお墓。
 動く死人となって十日後。訪ねてくる友人や親をごまかし切れなくなって、ケリーは私のお葬式をした。毒ヘビに噛まれた不運を嘆く親戚の涙と、友人が入れてくれた弔いの花に包まれて、私は一度埋められた。

 励ますつもりで新しい妻の話をする無邪気な人たちを、罪もなく殺されたヘビの死骸を振り回してケリーは追い払い、私を掘り出してくれた。
 それ以来、金や手紙を預かる地下の一時保管庫で昼間は眠り、夜起き出す生活が続いている。

 近ごろは馬車の数が減った。夜の街道をいく旅人や馬車はほとんど無い。みんな夜を……吸血鬼を恐れている。だから私は安心して畑仕事が出来る。

 カボチャの葉についた虫を取っていた時、北から近づく馬蹄と車輪の音を聞いた。速歩ではなく並足。夜をおして駆ける至急の駅馬車にしては遅い。不安になる。

 半年前の不幸も北からやってきた。
 予備の馬具を買いに、ケリーが街へ行った日。
 蒸し暑く薄暗い、曇り空の早朝だった。

 女ひとりでは危ないと、戸も窓も閉じて居留守を使っていた。物言えぬ馬のため水桶だけは一杯にして、家の中で新しいシャツを縫っていた時、馬車が止まった。

 下りてきたのは灰色のローブを着た白ヒゲの司祭様と、布鎧の騎士様……窓の隙間から覗いた時はそう思った。

「居るのは若い女ひとりだけだ。酒飲みの夫は夜半まで戻らん。光の入らぬ地下室もある」
 獰猛《どうもう》な笑い声。どうしてこちらの事情が分かっているのか。オロオロしているうちに、扉はこじあけられ、あいつらは入ってきた。

 水死人みたいな白くむくんだ肌。血走った目。白いヒゲのあいだにひらめく赤い舌。怖くて何も考えられなくて、命じられるまま隠しから保管庫のカギをだし、地下室に案内して……噛まれた。

 首を振り、思い出したくない回想を中断する。
 あの時につけられた幾つもの噛み痕は、転化すると薄くなり消えていった。でも、押し付けられた屈辱的な快楽と、血を吸い尽くされ体が冷えていく恐怖。そして一度殺された絶望は、怒りに包まれて心に重く残っている。

 カボチャの畝《うね》から離れて、カワズ瓜のツルを支柱にはわせ脇芽つみをしていた時、馬車が近づき、止まった。
 下りてきた気配は三っつ。心は……読めない。新鮮な水にありついた馬たちの単純な喜びだけを感じる。

 なぜか落ち着かない。
 そうだ、夜だからと油断して戸締りをしてなかった。ケリーは疲れと貧血で熟睡している。もし、盗賊だったら……
 この手で引き裂いて夫と駅を守る。

 足音を忍ばせて表に回った。星明りの下、私の姿は闇に紛れ、人の眼には見えないはず。

 水桶のそばで馬の飲みっぷりを見ていたヒゲの男が顔を上げる。法服を着た蜜色の髪の女が馬車の荷からスタッフを引き出す。そして白い髪の男が、木の陰にしゃがんでいた私をまっすぐ指差した。

「そこね。ホーリーシンボル完成するまで足止めして!」
 ホーリーシンボル。子供のころ人形劇で聞いた言葉。不死の身を浄化し滅ぼす光の術。

 女の首には銀色のネックガード。あいつらとは違って、今度は本物の……私を終わらせる力を持ったテンプルの聖女様。
 悲しさよりも安らぎを感じたのが、不思議だった。

 無残に破れた夢を二人でつづりあわせた、ままごとめいた歪んだ幸福が終わる。
 



 濃い森に抱かれ、ひっそりと建つ小さな駅。見えざる使い魔を飛ばし、アレフが探りあてた気配は二つ。
 眠っている人と、動いている人ではないもの。
 双方とも心は読めない。異なる血に連なる不死者とそのしもべ。

「争いに来たワケでは……」
 駅の前で血気にはやるティアを制しながら、木陰に潜む不死者への言葉を飲み込む。
 バックスとその血族相手に事を構えるつもりはない。だが、薄青のスカーフで髪をおおったエプロン姿の農婦を、争いに巻き込もうとしているのは確かだ。

「その吸血鬼以外に、駅に住み込んでる人もいるんだよね。しもべにされた」ティアが笑う「そいつを滅ぼさないと、生き血を貪れないんじゃない?」
 農婦が立ち上がり栗色の目を見開く。肉感的な唇が引き結ばれた。吹きつける殺意。まったく余計な事ばかり言ってくれる。

「他の者のしもべに手を出すような無作法はしない」
「でも、あいつらは、あんたのしもべを殺したよ」
 シャルとかいうバックスの末《すえ》がした事を、ここでやりかえしてどうする。

 それに彼女は農園で作物の世話をしていた。不死者が食べもしない野菜を慈しむ理由。ブドウ酒作りに腐心していた父のように、庇護下にある生者への情だとしたら……守っている者に手を出そうとすれば、壮絶な報復にあうはず。

「始祖バックス殿の血を受けし闇の公女《プリンセス》とお見受けする。連れの無礼を、どうかお許しいただきたい」
 通じるかどうか分からないが、古き時代の礼にのっとって語りかける。

「ここに立ち寄ったのは……馬のための水と飼葉を求めてのこと。誓って公女殿下とその庇護下にある者を害する意図はない。
むしろ、ここでお会いできたのは望外の幸運。防人《さきもり》を任じられし公女殿下。どうか始祖バックス殿にお取次ぎを。
私は……」

 正式な名を告げる前に、困惑した表情の婦人が数歩近づいて首をかしげた。
「何を言っているのかわからない。プリンセスというのはお姫様のこと? 私、そんなたいそうなモンじゃない。サキモリなんて知らない。その、バックスって誰?」

 始祖の名を知らない闇の公女《プリンセス》。違和感というより異質。重い使命や権限を与えられている訳でもない。なら、なぜ不死を与えた。

「あなたは白いヒゲの老人、バックス元司教に血を捧げ、代わりに力を与えられて転化したのでは?」
「テンカ?」
「その……吸血鬼になること」

 始祖と闇の子は強く心を結ばれ、時には知識と感覚を共有する分身ともなるはず。資質や相性にもよるし、関係を一概に決められはしないが……彼女の知識と繋がりは、行きずりに襲われ捨て置かれた贄と大差ないように思える。

「なんだか硬くて気取った言い方。あいつらに体中を噛まれて吸われて、呪われた死人になったのが転化……」
 あいつら?
「バックス以外の者からも、口付けを受けたのか」
「怖いおじいさんに噛まれて死にかけたあと、青白い手を伸ばす騎士や女の吸血鬼の方に突き飛ばされて」

 顔をゆがめ言葉にならない呟きをもらしながら、不快そうに首や手をこする。群れからはぐれた仔クジラが、サメに囲まれ食らいつされるような、無残な光景が脳裏に浮かぶ。

 それにしても、恋仲でも親子でもない闇の子と贄を共有するとは……バックスは破滅や自傷に耽溺する、かなり特異な感性の持ち主なのだろうか。

「では、心話は?」
「シンワ?」
「口に出さずとも通じる会話。相手が血族なら地の果てでも届くはず。心を読みあうようなモノだが」
 困惑した表情のまま、ゆっくりと首が横に振られる。彼女を介しての会話も取次ぎも無理か。

「どうやら私はお客さまのお役に立てそうにないみたいです」
 ほんのり赤い頬に、どこか均衡を失った笑みが浮かんだ。
「水は無料です。飼葉が入用なら馬一頭に銅貨三枚を。スープ一杯とパンひとつは銅貨五枚がここらの相場です。人より馬の方がたくさん食べるのに変でしょう」
 駅員としての口上が芝居めいて聞こえる。

 息を吸い込むと刈りたての青草とスープの匂いがした。ふと駅舎を見た瞬間、胸倉を掴まれた。人にはあり得えぬ速さと力。
「夫は噛ませない。悪いけど、あんたの為のものはない」
「承知している」
 安心させるように微笑みながら、不安が頭をもたげる。夫婦者が住み込みで小さな駅を管理しているのはよくある事だが。

「ここに立ち寄った客から、血をもらう事は?」
「そんな事、しない! 私はケリーだけで十分だもの」
 追い詰められた目。いつごろ転化したのだろう。しもべ一人では、いずれ限界が来る。だが……忠告しなくても彼女は多分わかっている。

「旦那さん、今に死んじゃうよ」
 遠慮を知らぬティアの言葉に、一瞬こわばった女吸血鬼の顔が、おだやかに弛緩する。
「あたしなら、あんたを滅ぼすことが出来るよ。旦那さんは助かる」

「それで、あなたの愛しい人に、私の夫を与えるの?」
「愛しいって、あたしは別に」
 珍しく動揺したティアに、向けられたのは恐ろしい笑みと低い声。
「それだけは許さない。ケリーは私だけのもの」

「これを……」
 敵意をそらすために、紅い指輪を二つ、目の前に突き出してみた。
「あなたを転化させた始祖の討伐にモル司祭が差し向けられた。迎え討つために我らは来た。負けるつもりはないが……万が一、バックスが滅べば、貴女と貴女が転化させた守護《ガーディアン》は不死の力を失い灰になる。これは保険だ」

「積荷が損なわれた時の、賠償の掛け金みたいなもの?」
「バックスが滅びても、私が生き残れたなら、この指輪を介して命を支える事が出来るかも知れない。転化後の者に試した事はないが。理論的には……」
 怒りが抜けた後に残ったのは、透明な無表情。細かい理屈は省いて、植物の汁で汚れた冷たい手に指輪を握らせた。

 不意に扉が開いた。慌てて手を離したひょうしに、足元へ指輪が落ちる。
「何、してる」
 怒鳴ろうとして息ぎれ、開けた扉にすがって目まいがおさまるのを待つ男に、妻への非礼を詫び、馬車に戻った。

「用が済んだなら先を急げ。ここらの夜は物騒だ」
 馬を梶棒の間に戻し、くびきに繋ぎなおすドルクを手探りで手伝う男の目は、闇に浮かび上がるティアの法服に向けられている。

「美人の奥さんもらうと大変ね」
 からかうティアに乗車をうながし、あわただしく出立した。
 意識を向けると、闇の中で二人が何かに怯えるように寄り添うのが感じられた。

 いずれ、彼女は夫を死なせ、転化させる。
 ネリィが滅びた時、私が半狂乱になって蘇生を願ったように、愛する者の死はつらく受け入れがたい。蘇らせる手段がそこにあれば、何であろうとしがみついてしまう。

 ばらまかれた不死は、人の情によって広がっていく。止めどなく増えた不死者は生者を食いつくし、その先に待つのは飢餓による混乱と自滅。火刑はやむなき措置かもしれないと考えかけて、即座に否定した。

 それより覚悟しておかなくてはならない事がある。
「あのような者達を、争いにかり出すのか」
 ごく普通の父であり夫である者、母であり妻である者。バックスと命運を共にする者達である以上、否やはないだろうが……気が重かった。




 橙色の波間に飛び込んだ白い鳥が、赤いクチバシに小魚をくわえて舞い上がる。頭が黒い。旅をやめたはぐれアジサシだろうか。

「大きい川はコクトスで最後なんだけど」
 地図を弾く音が耳に突き刺さる。ドルクは御者台から車中を振り返った。
「……まだダメ?」
 ため息をつくティアさんの前で、アレフ様は弱々しく首を振っておられる。

「船着場で満潮がいつか聞いてまいります」
 高く広い苔むした石橋のたもとに止めた馬車を離れ、長い影を落とす杉の丸太で組まれた市門をくぐった。
「やっぱ夜道はやめとくかい?」
 声をかける門番には苦笑で応える。

 北の空の縁《ふち》に頼りなく浮いている陽や、どちらに流れているのか見ただけでは分からない川のせいにしておられるが、ご気分がすぐれない理由は別にあると感じていた。

 ここシルウィア港の城壁にも、人を焼いた臭いが染み付いている。潮の香りや汽水域の泥くささを圧する不吉な臭気は、血を求めて闇をさまよう不死人に向けられた敵意の表れ。日没ともに市門は閉ざされ、人は丸太と泥の壁の内側……魔よけを施した家の中に閉じこもる。

 二十年前、東大陸との交易を禁じた石壁と塔を持つ教会も、今は空っぽ。鐘は時を告げず子供たちの姿もない。森の大陸南部は見捨てられたとロバにも分かる。金と力のある者は安全な北へ逃れた。残っているのは逃げたくても逃げられない弱い者か、信念や愛郷心に殉じる愚か者。

「おーい、あんた……聖女様のお供の人だったよな」
 東の倉庫前で鼻の丸い男が手を振っていた。愚直と呼ぶにしても人が良すぎる青年は川で艀を差配する船頭組合の代行理事。名はライリーだったろうか。
「もう行ったと思ったが……やっぱブルっちまったか?」

 首には破邪の紋を刻んだ香木のチョーカー。街の周囲に埋めた水ガメとかがり火の結界ともども、ティアさんが魔よけとして指導したモノだが……どれほど効果が見込めるものやら。少なくともアレフ様は気にしておられなかった。

「魚臭いだろ」
 豪快に笑いながらライリーが振り返るのは、四頭の馬を繋いだ荷馬車。連結された荷車には干し魚の樽と穀物袋が限界まで積まれ、縄と布で固定されていた。
「昨日、川舟で届いたシリルの香茶と薬草の対価さ」
「返す舟に乗せるとおっしゃってましたよね。水上の方が夜は安全だと」

「それがさぁ、みんなビビっちまって川登り出来るほど漕ぎ手が集まらなくて、参ったよ。しょうがないから、俺ひとりで運ぶことにした。シリルに牛や羊はいないし麦畑もないから、みんなひもじい思いをしてるハズさ」

 ウッドランド城のグリエラス様は森を愛するあまり、家畜と耕作地に重い税をかけられた。それが、いまだに尾を引いているらしい。森の太守が滅びた後もオキテが守られる理由は森の恵み……香茶と薬草がいい金になるからだろう。

「干し魚や麦を必要としている者がまだいると良いのですが」
「パーシーさんが頑張ってるかぎり、シリルは無くならないさ」
 ライリーの声に敬意と憧れがにじむ。シリルの長の名か。いまだに持ちこたえているとすれば、パーシーとかいう者の指示で、シリルの周囲には魔を退ける結界が張られているかもしれない。

「もし、よろしかったら……私たちで運びましょうか」
「そういや、あんたら商人だっけ。力のある聖女様を護衛に雇えるって事は、デカい商売してるんだろうなぁ。こんな運び屋みたいな賃仕事、若旦那が嫌がらないかい?」
「まあ、何事も経験ですから」

 そんなものかと、うなづく単純な青年理事に、荷馬車と馬を借りる保証金として紅玉を二つ渡し、御者台をゆずってもらった。
「パーシーさんは意外とケチんぼなんだ。うまいこと話を持ってかないと、駄賃を値切られちまうから気をつけろよ」

 手綱に手をかけてから、聞かねばならないことを思い出した。
「ところで、次の満潮はいつかご存知ですか」
「川の流れが止まるのは……陽があの二連山の間に来る頃かな」

 淡い紫色のなだらかな二つの影を眺める。あの山のむこう、森の間に点在する村々のうち、もっとも城に近く大きなものがシリルだった。
「急げよ、川の流れが止まると、吸血鬼が渡ってくるっていうから。まぁ、本当かどうかは分かんないけどさ」

 あいまいに笑ってうなづき、馬車ウマの重そうな尻にムチを当てた。荷が重い上に、四頭の息がいまひとつ合わず、動き出すまで少しかかった。曲がり角では後方の荷車の動きに注意が要る。慣れるまでは歩くより遅い速度でゆくしかない。

 さて、もう一台の馬車をどうするか。ティアさんは馬車も操れたハズだが、夜目が利かない。
 見よう見まねでどこまでお出来になるか……
「まぁ、何事も経験でございますかね」
 少なくとも悩まれるお時間は減るはずだ。
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