『夜に紅い血の痕を』 一〜五章  ▽ 第一章 目覚め △ 一 目覚め  中庭から立ち上るバラの香りがそよ風となって蜜色の後れ毛をゆらす。広がるドレスのスソが繊細な光の渦を生む。即興の歌声にのってマントをひるがえし、回り込んでネリィを支える。白いサテンに包まれた細い腰がしなやかに反り、ほほに伸びる手が新たな回転に誘う。  山の城館で繰り広げられる二人だけの夜会。踊り続けても息切れすることのない歌声に笑い声が混じり、やがてメロディはとぎれ、気ままなな輪舞は終わった。 「新種の白バラが咲いたよ、ここからも見えるはずだ」 「なんて名前?」 「まだ……二人で決めようと思って」  手を差し伸べ、明るい北のテラスに誘う……  この先には行きたくない。  白い指から爪がはがれ落ち、みずみずしい唇がただれ崩れる様は見たくない。  幸せだった頃の夢の中で、無限のワルツを踊っていたい。 「やめてっ、殺さないで!」  涙と怒りで真っ赤になった娘の顔が割り込んできた。髪の色は似ているが、ネリィの穏やかな笑顔とはカケ離れた嘆きと憎しみ。  濃く青い瞳が心を射抜く。 (なぜ、我らをお見捨てになった! くちづけを頂いてから四十三年。全てをかけて血と忠誠を捧げてきたのに。お応え下さらぬなら、この血の絆をもって御身を呪詛いたしますぞ! せめて娘だけでも、どうか)  全身の痛みとひり付くような憎悪、そして焦がれるような願いが突然、断ち切られた。  残ったのは不安ただよう虚無の暗がり。  支離滅裂《しりめつれつ》な悪夢の彼方から、呼ぶ声がする…… 「マイロード……アルフレッド・ウェゲナー……十一番目の血の盟主……アレフ様」  おだやかで深い従者の声。  安易な逃げを許さない強い意思がこもった言魂。  唇に熱いしたたりを感じる。  血にこもるのは焦りと目覚めを切望する想いと……強い恐れ。  渇いているからといってドルクを襲う事などありえないのに。いつもどこかで死を意識している人間臭い従者に、微笑みかけて安心させてやろうとしたが、乾いた唇も舌も動かなかった。まぶたも目に貼りついたように動かない。胸の上で組んだ手も石の様にしびれていた。  長い眠りの中で筋肉が動き方を忘れてしまったらしい。  笑いの発作が起きそうになったとき、唇のすき間から鉄臭さと塩辛さが染み込んできた。固まっていた舌が動きを取り戻し、全身のしびれが解けていく。  同時に、キリキリとした痛みが皮膚からも内臓からも押し寄せる。強く意識しないと指一本動かせない。目を開くというのは、こんなに努力が要ることだったろうか。 「お目覚めになりましたか」  従僕の衣装をキツそうに着込んだオオカミという図は、いつ見ても不思議に和む。蝶ネクタイくらい外せばいいのに。頭以外の骨格は人に近いから、見掛けほど苦しくはないのだろうが。  それにしても、なぜ泣いている? 「落ち着いて、聞いてください。御父上が……ロバート・ウェゲナー太守が」  ついに勘当されたか。  ネリィを喪ってから夜が明けるまで泣き続け、最後には血の涙も枯れて、夜会服のまま倒れこむように死の眠りに逃げ込んだ。切れ切れの悪夢の合い間に、真始祖ファラ・エル・エターナルの滅びを知った。  ネリィはあの夜、不死の源泉を絶たれて、腕の中で解け崩れ灰も残さずに消失したのだ。選ばなかった幾つもの選択枝と可能性が、後悔とともに心を切り刻み、やがて考えることをやめてしまった。  あれから何年くらい眠っていたのだろう。領民を庇護する義務を長年にわたって放棄した。太守の称号はとうに剥奪されているだろう。 「御父上が、滅ぼされたという知らせが……」 「え……」  思わず身を起こしたあと、関節の強烈な痛みにうめいた。  何年ぐらい眠っていた?  くちづけを与え血の絆を結んだしもべ達の意識に心を飛ばす。  カウルの代理人は健在……だが、だいぶ繋がりが弱くなっている。  他は……ない。  キニルの事務所、スフィー、シリル、そしてクインポート。主だった都市や貿易港に置いていたはずの代理人たちの意識が失せている。バフルの代理人からの応えもない。  かつては眠ったままでも手に取るように知ることが出来た世界から、完全に切り離されていた。 「すぐにでも事実を確かめたいお気持ちは分かりますが、四十年もの眠りの後です」  四十年……では、目となり耳となってくれていた代理人たちは、みな寿命で死んだのか。 「旅に出るには準備が要ります」  旅に出る?  代理人を喪った以上、事実を確かめるには実際にそこへいって自分の眼と耳を使うしかないだろう。新たに代理人を作るにしても、足を運び、その土地に通じた意思の強い有能な人物を選ぶ必要がある。 「昔、アレフ様がお作りになられた陽光を防ぐルナリング……」  賢者の石のカケラを利用して作った、夜の結界を生む指輪の事か?  ネリィがまだ人だった時、少しでも長く共にいるために、作り出した他愛無い玩具。今は、昼を夜に継がなくてはならぬほど、時は貴重ということだろうか。 「武器はお嫌いでしょうが……護身用にコレを」  見慣れない金属の道具を渡された。 「この間、侵入した者どもが、妙な生き物を召還しましてね。狼やコウモリどもでは片付け切れなかったのが、まだ城の片隅をうろついてます」 「城に侵入した? 領民たちが抗議の謀反でも起こしたか」 「いいえ。テンプルからきた討伐隊です」 「テンプル?」  耳慣れない単語だ。  ドルクがため息をついた。  まるで出来の悪い弟子でも見るような、哀れみの混じった目。 「教会が裏で密かに作り上げていた組織です。『人の作りし存在なら、必ず人の手で破れる』。その教えを実践するために作られた、対バンパイア用の武装集団。他にだれが真始祖様を滅ぼしたというのです?」 「……嘘だ」  教会にはずっと目をかけてきた。庇護し資金を援助し、新たな地への進出を促すために、他の太守に便宜を図るよう親書を書き…… 「お疑いなら、彼らに直接お尋ねになってください」  続いて渡されたのは地下牢のカギ……死罪に相当する大罪を犯したものが、血と引き換えの恩赦を望む時に入る、あがないの牢獄。 「目覚められたばかりで、ノドも渇いておられるはず」  そうか、さっきから身を苛む痛みは飢餓か。 「アレフ様のお命を狙ってきた者どもです。遠慮は要りません」  ふと、ドルクの物言いに引っかかるものを感じた。 「もちろん、武器や護符といった危ない物は全て取り上げてありますから」 「その“テンプル”の者は、私に血を捧げることを納得しているのか?」  人狼が盛大なため息をつき、呆れ顔で首をふった。 二 英雄たちの事情  真っ暗ではない。  どこからか漏れる光で、鉄格子がほのかに闇に浮いている。その前にはスープらしきものが入った木製のカップとパンが置かれているようだ。下は乾いた石。便壺は清潔。適当な広さと高さがあり、居心地はテンプルの懲罰房《ちょうばつぼう》よりはるかにいい。  しかし最悪だ。  彼女が身に付けているのは下着だけ。手に馴染んだスタッフはもちろん法力で強化したローブも剥ぎとられ魔除けの護符の役を果たすものは一つもない。ネックガードはもちろん、指輪から下着に縫い込んだ聖なるシンボルまで奪われ切り取られている。目を閉じると手首が鈍く痛んだ。彼女が仲間と共にこの城に乗り込んだのは、まだ朝方だった。  あれからどれぐらいの時間がたったのだろう。  カウルの村に向かう道中、テンプルからの急使でクインポートに引き返すと決まった時だった。港町へ向かう前に、モル司祭は笑って彼女ら三人に命じた。 「簡単な仕事です。眠り姫が二度と目を覚まさないように、棺ごと浄化するだけ」  これが不条理の始まり。  共に聖女と聖騎士に叙任されて以来、同期の腐れ縁やってた私らはともかく、要となる浄化と破邪の術の使い手が、つい一ヶ月前までガキどもに読み書きを教えていた元教育官の新人司祭というのは、あまりに心もとない。まだ、あのムカつく聖女見習いを連れてく方がマシだ……という反論は飲み込んだ。  二十七歳の天才司祭には、年齢に相応しくない不気味な威厳がある。  しかし不安はすぐに消えた。  カウルの村は城に一番近い。そこでの城主の評判は悪かった。  クインポートでもそうだったが漠然とした恐怖と圧力、何より税が心証を悪くしている。バフルのように町全体がテンプルに敵意を示し、領主を滅ぼしたモル司祭にくさった卵を投げつけるような闇に染まった住人たちとは雲泥の差だ。  さすがに魔物のくちづけを受け村を差配する老人は、三人を敵意のこもった眼でにらんでいた。だが、村人たちは好意的で、三人に食料や宿を無料で提供してくれた。首尾よく魔物の脅威から村を開放すれば、英雄としてありったけの賞賛を得られるだろう。  四十年前から眠り続け一度も姿を見せないヴァンパイア……。五百年という永い時間が培った魔力は侮れない。しかし長い期間血を吸っていないならその力も衰えているはず。  考えてみると少し奇妙だ。バフルでは城主は頻繁に町に現われ、時々気に入った者を城に連れ去った。生かして返されたとしても当然血を吸われ半病人のような状態になっている。それでも町の人々は肉親や友人の血をすする怪物を慕っていた。  この城の主は四十年にわたってカウルの村にもクインポートの町にも犠牲者を出していない。元もと『代理人』と呼ばれている指定した者の血だけで満足し、他の者を襲う事はめったになかったという。しかし実害がなくても村人は城のある山を見るとき恐怖の色を浮かべ、声をひそめる。  恐怖とは知らないものに対する感情。相手を知ればどんな敵も恐くはない。  教科書の戦術心得の一文が思い浮かぶ。  長く権利を放棄すればいずれは忘れ去られ無視される。義務を放り出せば蔑まれる。  要は無責任な城主がその報いを受けようとしているのだ。  長い眠りについた理由も村の老女から聞き出すことが出来た。  四十年前、英雄モル司祭長がファラ真始祖を倒した。そしてファラの魔力でヴァンパイアとなった女が一人滅びた。ここの城主の愛人だったらしい。それが全てを投げ出した理由との事だった。  軟弱だ。  そんな城主に仕える手下も強くは無いだろうと高を括っていた。  実際、山腹にうがたれた城に通じる地下通路の入り口を守っていたワーウルフは、こちらの姿を見るなり、持ち場を捨てて逃げ去ってしまった。  地下通路の入り口で魔法陣を描き上げ城内にブロブとスモークそしてジンを召還した。運が良ければ連中が全てを片付けてくれる。よほど運が良ければだ。  最年少で力の落ちたヴァンパイアとはいえ、ここの城主は始祖の一人だ。死の眠りをむさぼる棺の回りには、魔力で結界が張られているだろう。召還した低級の魔物では破るのは無理だ。結局は彼女たちが直接とどめを刺さなくてはならない。  聖騎士が剣を構えて前に立ち、何かあったときの為、常に補助や回復の法術を準備して彼女が続き、しんがりを攻撃呪担当の司祭に固めさせて、慎重に歩を進めた。  山腹から城へ続く地下通路は、湿気はあまりなく天井は高かったが、侵入者を迷わせるためか、枝分かれして入り組んでいた。もちろん照明はなく、手にした松明の光だけがたよりだった。  だが、敵はいなかった。いくつかの袋小路で引き返す間に見かけたのは、彼女たちが召還した魔物だけだった。  いつしか、油断が生まれていた。  ふと違和感を覚えて振り返ったとき、後ろをついてきていたハズの新人司祭の姿は、消えていた。前を行く聖騎士を呼び止め、松明を背後の闇に掲げる。光の届かない闇へ溶けて消える通路には不審なものは何も見えなかった。 「冗談は止めろよ!」  イラついて銀の盾を壁に打ち付けて叫んだ聖騎士の声が空しく響いた。いくらなんでも敵の牙城でこんな質の悪い冗談をする理由などあるはずがない。彼女たちは引き返した。 道が二股に分かれた所で立ち止まった。どちらに連れ去られたのだろう。どちらも行止りだった。  隠し通路を見落としていたのかも知れない。  そう言おうとした時、突然無数の気配が生まれた。  一ひろはあるジャイアントバットが鋭い声を上げながら、頭上を舞い飛ぶ。スタッフで応戦するが数が多い。聖騎士も剣を振りまわしているが、攻撃呪の使える司祭がいないのはつらい。  コウモリたちが突然去り、ほっとして振り返った彼女の目の前に剣が迫っていた。 「何するのよ!」  避けた直後、今まで立っていた敷石に剣がぶちあたり火花が散った。カブトの奥を見てはっとした。目が恐怖に見開かれている。彼女を見てはいるが仲間だと分かっていない。  術にかかっている。  テンプルで開発した“惑乱”に似た作用の術。あのコウモリどもは単なるうるさいペットではなく、多少の魔力を付加されたタチの悪い守衛だったようだ。  剣が迫る。かろうじてスタッフで受け流すが手がしびれた。正気に戻す方法が分からない。一時避難するしかない。  彼女は弾けるように後ろへ飛び下がるとその場を逃げ出した。背後で見えない敵に向かって剣を振り回す聖騎士の影が、松明の光の中で揺れていた。  暗闇の中、火口箱で新しい松明に火を付けようとした時、手をねんざしているのに気づいた。愚かな同士討による負傷。  引き返すべきなのかも知れない。さらわれた仲間の事は諦めて、聖騎士が正気に戻ったら、一緒に山を下りるべきだろう。  この程度のキズで回復呪を使うべきか悩んでいた時、ふと暗闇の中に青い光を見た。次々と増えていく点。うなり声を聞くまでもなくオオカミの群れだ。彼女は立ち上がり、じりじりと下がった。  向こうには刃物を振り回す危険な仲間がいる。どうしようかと思ったとき、剣の響きが聞こえない事に気づいた。  もう正気に戻ったのか?  わずかな希望を頼りに彼女は走った。後ろからいつ獣の群れに襲いかかられひきずり倒されるか……焦りを胸に全力で来た道を戻った。  松明の明かりにたどりついたとき彼女は立ちすくんだ。そこにあったのは転がった松明だけ。聖騎士の姿は消えていた。背後で鍔なりがした。 「いたんじゃない……」  安堵の言葉は途中で消えた。  すぐ後ろに立っていたのはオオカミの群れを率いたワーウルフだった。ミゾオチにワーウルフの持つ剣の柄が食い込んだ。  意識が闇に沈む前、獣と人が入り混じった顔が笑みを形作るのを見た。 「ちょうど、良いところに来てくれた」  何が? 問い返す前に彼女は気を失った。  目覚めたのはついさっき。  まだ生きていた……。  意外だった。あのままオオカミの餌食にされるものと思っていた。  痛む手をさすり立ち上がる。仲間達はどうなったのだろう。いずれにせよ使命に失敗したのは事実だ。彼女達は分断され、一人ずつ捕虜にされた。  一応手首以外はケガをしていない。装備は全て奪われてはいるが体一つで生き延びる術は習っていた。  まず鉄格子を確かめる。ビクともしない。扉は大きくカギがかかっていた。鉄格子の向こうは通路のようだった。  仲間の名を呼んでみた。気絶から覚めた事を敵方に知られても、状況に大した違いは無いだろう。 「無事だったか……」  ほっとした声が左隣からした。混乱して剣を振り回した聖騎士だ。  右隣から呻き声がして身を起こす衣擦れの音がした。 「ここは?」  最初にいなくなった司祭のまぬけ声だった。 「牢屋よ」  彼女は冷たく言い放った。 「あんたが捕まったからこうなったのよ。何ぼんやりしてたの?」 「突然、毛むくじゃらの手に口を押さえ込まれて、当て身を……ああっ。全部とられてる。魔除けの腕輪まで」  もごもごした言い訳のあと、やっと状況を把握したらしい悔しそうな声がした。 「もう、未練がましいわね」 「だってこれじゃ、ほとんど裸じゃないか」  彼女はため息をついた。 「それにしても、なぜ俺達を生け捕りにしたんだろう」  聖騎士の声が不思議そうに問う。 「いつ出してくれるのかなあ」  司祭がどこか情けない声で嘆く。  私が知るわけないでしょ。という言葉は飲み込んだ。仲間内で言い合いしてても何にもならない。向こうの出方を待つしかない。まさかこのまま飢え死にさせるとは思えない。食料は差し入れてあるのだ。食事が日に三回なのか一回なのかは分からないが、いずれ誰かが来るはずだ。 「聞けばいいでしょ。苦労して捕まえた捕虜を放っておくとは思えないし」 「このパンとスープのおかわりか?」 「そうよ。ところで」  誰が最初に毒見をする?  そう聞きかけた時、少し光が陰った。  牢屋をほのかに照らしている明かりは通路の向こうから石壁を反射して届いているものだ。誰かが来る。耳をすませたが足音は聞こえない。彼女はこぶしをつくって身構えた。 三 ためらい  数十年使っていない骨と筋肉が悲鳴を上げている。  右手の指の付け根にはなじめない金属の違和感。さっき手渡されつけるようにと忠告されたささやかな武器だ。こぶし一つ満足に握れないことは自覚していたが、やはり抵抗がある。握りが安定するのは分かるがこれは生き物を殺傷するための道具だ。  今の立場を選んだ動機は資格があったという以外に、無限の時間という誘惑や、そうなるべきだという父親の思いの強さもあった。  しかし“生き物を殺さなくても生きられる”という事も決意をうながした一因だ。  それがまやかしに過ぎず、“食事”を提供した者が、たとえその時は死ななくとも、短命となる事は知っていた。だが食べる為に殺すよりは、幾分マシなような気がしたのだ。相手も納得尽くならたいして罪悪感は覚えない。見返りは十分に与えていた。  でも、これからすることは……  手の中のカギが冷たい。  どうすればいいのかは知っていた。同意していない人間の血を啜るは初めてだが、相手が怯えないように魅了してしまえば後は普段の食事と変わりは無い。差し出されたノドに牙を突き刺せば済む。同意の上での食事でも最初のときは術をかける。それと同じだ。  しかし…… 「アレフ様が御手に捕らえずとも、数十年後にはうたかたの様に消えていく者たちです」  ドルクが優しく微笑んで言った言葉。人と獣が入り混じった顔が、意外と微妙な表情を作ることに今更ながら気づかされた。  誰かから殺意を向けられているというのも衝撃的だった。  潜在的な敵意なら昔から感じていた。人々の目の中に怯えと共にある感情。  それに父が滅ぼされたという事実はあまりに大き過ぎて実感できない。  眠っている間に何かが大きく変わってしまった。まずはそれを確かめなくてはならない。その為にはルナリングがいる。日の光を浴びたからといって即死はしないだろうが、無事ではすまない。実際に試したいとも思わない。 「ご自分で取りにいらしてください。  この城内すら歩けないようでは外にお出しできません」  きっぱりとした口調はドルクがまだ守役だった頃、幼い反論を封じた穏やかな厳しさを思い出させた。  人であればまだ生きていただろうネリィが、自分のせいで滅びてしまった現実に、立ち向かえる自信はない。ただ胸を引き裂くような悲しみは長い眠りが癒してくれたようだ。  だが、四十年の眠りは同時に体の衰えをもたらした。  今までにないほどの渇き。足元が沈みこんでいく疲労感。気を抜くと指先の感覚が鈍る。これは姿を保てなくなる限界、灰化の予兆か。飢えという言葉は知っていたが体験するのは初めてだ。自らの存在を脅《おびや》かすほどの消耗……  すぐに食事を摂らなくてはと思うが、まだ、ためらいがある。  村までもたないのは分かっている。  彼らで済ませるしかない。  階段の踊り場に足を踏み入れたとき、話し声が止んだ。最後に聞こえたのは女の声。階段を下りた先に地下牢がある。閉じ込められている者たちの緊張した浅い息遣いが聞こえる。さらに耳を澄ませば彼らの心臓の鼓動まで聞こえてきた。その拍動に合わせ奔流となって動脈を流れる血潮を思い浮かべたとき、自然に足を踏み出していた。  冷たいカギを握り締めて階段を下りきる。  一番手前の鉄格子の前に立って、中を見た。三十過ぎの筋肉質の男がこちらを見て後じさる。いまひとつ目の焦点が合っていない。人にとってここは暗すぎるのだろう。太い首筋を脈打たせる頸動脈のありかを見取って、カギを鉄格子の錠に差し込む。金属的な音がして止め金が外れた。男が息を飲む。その時に小さな悲鳴のような声を上げた。可哀想なほど怯えている。  扉を開き中に入ると同時に、男の目を見つめて術にかけ怯えを取り除こうとした。意図を察したのか男が急に目を閉じた。近づく者を阻止しようとするかのように顔の前に手を伸ばす。 「私の目を見なさい」  優しく言うつもりだったが渇きがひどいせいで、しわがれて早口になってしまう。男はますます強く目を閉じて壁ぎわまで後退り、背中に壁が当たった時、絶望的に叫んだ。 「お、俺より、隣の女のほうが旨そうだと……」  術にかかるまいとする、あまりにかたくなな態度に業を煮やして、突き出された男の手首を掴むと、力任せに左右に開いて壁に押しつけた。悲鳴を上げた男の顔が苦痛に歪む。渇きのあまり手加減するのを忘れたが、幸い骨は砕いてない。固く目を閉じたままの顔が間近に見える。だが視線はどうしても脈打つ首筋に落ちる。そう意識したときにはすでに唇を喉に押し当てていた。  男が全身の力を振り絞って壁に押し付けられた両手を動かそうとしている。足で蹴ろうともしているようだが体が近すぎて単なる足掻きにしかなっていない。  この男に術をかけるのは絶対に無理だと感じた。男を放して他の者を試すという考えが浮かぶ。同時に、薄い皮膚と肉を通して感じられる温かい血潮がより強く脈打ち誘う。  もういい。十分に機会は与えた。  安らかな夢見心地の提供ではなく、苦痛と恐怖をこの男が選んだ。  そんな考えが浮かび、正しいような気がした。  口を開き脈打つ皮膚に牙を突き立てる。男の全身が強ばった。皮膚と肉を貫くと、熱い血が口中に広がった。男の体からゆっくり力が抜けていく。血とともに男の気力までが流れ込んでくる。  接触すれば目を見なくても術はかけられる。遅ればせながら男に安らぎと快感を与えた。苦痛や脱力感を感じているだろうが男の意識には快楽と受け止めさせる。男が全身の力を抜いた。手首を放し肩を掴んで、もっと飲みやすい角度に抱きなおす。温もりが喉を滑り落ちていく度に、痛みと飢えが少しずつ慰められてゆく。  もっと……と思ったところで頭の隅に警告を感じた。  飲みすぎている。  目を閉じ未練を断ち切るように口を離す。まだ男の体には血が残っているが、これ以上は命にかかわる。印を結んで付けてしまった二ヶ所の傷に軽い治癒呪をかけ、ぐったりとした体を床に横たえる。  まだ足りないと、四十年ぶりの食事をした体が訴える。今は飢えと空腹の中間ぐらいか。  普段の代理人相手の食事なら気を失う程吸ったりはしない。ほんの一口か二口ほど。それでも満足できたはずだった。しかし今、飲み尽くして殺してしまっても構わないという不穏当な考えが、意識の無い男を見下ろしながら浮かんできた。  元々彼らは、私を滅ぼしに来たのだ。返り討ちに遭うことぐらい覚悟の上だろう。死んだとしても自業自得だ。  首を振ってその考えを追い払う。  「まだ二人残っている……」  隣の牢からすすり泣く声が聞こえていた。  隣でカギを使う音がしたあと、彼女は全身を耳にして様子を伺った。食事の差し入れではない。では尋問だろうか。闇の生き物どもは足音を立てないのがやっかいだ。何人かも分からない。  怯えた息遣いと短い悲鳴、乱れた擦り足。  「私の目を見なさい」  しゃがれた早口の言葉が聞き取れたとき全身に冷水を浴びせられたような気がした。  「お、俺より、隣の女のほうが旨そうだと……」  恐怖のあまり仲間を売ろうとする情けない言葉は、争う物音の後、苦鳴に変わった。しばらく抵抗しているような気配はあったが、やがて何の音もしなくなった。  屈強な聖騎士を襲った運命の正体が何か彼女には分かった。  眠り姫が目覚めた。四十年ぶりに。恐ろしく渇いているに違いない。自分たちはちょうどそこに乗り込んだ。  (良いところに来てくれました)  ワーウルフの笑みの理由が分かる。そして生け捕りにした理由も。  夢中で奪われたスタッフを探している自分がいた。そして絶望感に呻く。何もかもが奪われていた。ほんの小さな護符まで、ヴァンパイアから彼女達を守ってくれるものは何一つ残っていない。  格闘技の心得はあるが何の役に立つだろう。彼女より遥に力が強く闘いにも長けた男が、いま餌食になっているというのに。普段まとっている法服や護符に対して、あまり意識したことは無かったが、失った今になって、どれほど頼りになるか痛感していた。  彼女は分厚いカラを奪われた剥き身の貝の気分を味わっていた。摘み上げられ口に放り込まれるのを待っているだけの無力な存在。  喉からすすり泣く声が漏れる。止めようとしても止まらない。声を立てれば魔物の関心を引いてしまう。黙って気配を殺さなければならないのに、体は震え、息をする度に声が漏れる。それが泣き声になる。見習いの頃一度しか泣いたことは無かったのに、今、子供のように恐怖に震え泣いていた。  うずくまっていた彼女の目に黒い影が映った。  鉄格子の向こうに音もなくふわりと現われたのは、マントをまとった背の高い人影だった。仲間の死を確信した。血を吸い尽くして殺し、一人では満足できず次の犠牲者を求めて来た。暗くて顔はよく見えないがこちらを見たのが分かった。暗い死の運命そのものにみつめられている気がして、冷たい絶望に心をつかまれる。助かる術はないか考えても思考は空転する。  目を見てはいけない。ヴァンパイアの目には魔力がある。見たら最後、意志を奪われ怪物の意のままにされてしまう。彼女は目を閉じた。真の闇の中でカギを使う音がした。  入ってきた。 「来ないで、化け物!」  喉を両手で包んで守り目を閉じる。腕が恐ろしく強い力で掴まれ引上げられた。苦痛に声が出る。あっさりと喉を包んでいた手は引き剥がされた。  血の匂いがした。先に犠牲になった仲間の血の匂いだ。冷たい唇が無防備な喉に触れた。 「いやあっ!」  叫んだ次の瞬間、喉に激痛が走った。牙が突き刺さる音を聞いたような気がした。  彼女の血を容赦なく吸い始めるヴァンパイアの震えるような喜びを感じた。混乱の中で彼女は悟った。今、心が繋がりかけている。喉に突き刺さった牙といっしょに入り込んでくるヴァンパイアの意識を締め出そうと身悶えた。逃れられないまま相手の心の力が強くなり、彼女の気力は弱まっていった。  その中でヴァンパイアの名前がアレフだということを知った。今、アレフは彼女の血を思う存分味わって歓喜している。そして彼女も同様に感じるべきだと思っている。奉仕する幸せ。血を吸われるのが至福だと感じるよう、高揚感と共に彼女の心の奥底に刻み込んでいる。痛みをともなった倒錯した恍惚感はどこか性的な快楽に近かった。身を滅びへと駆り立てる自虐的な喜び。アレフに全てを捧げつくし死ぬ事を望む自己犠牲的な愛に似た感情。  朦朧《もうろう》としてきた意識の中でアレフの深刻な飢えも理解した。あのぐずの司祭も彼女の後でアレフの口づけを受けるのだ。隣で怯え切っている気配がアレフの意識を通して感じられる。  意識を失う前、アレフの新しくて古い傷が見えた。  自分のせいで恋人を早死にさせてしまった後悔の思い。人のままなら老いさらばえた姿でもまだ生きていたかもしれない。恋人が永遠の命を望んだとき強く反対しなかった己の弱さを恨む思い。ネリィの幸せを望むならいっそ別れるべきだった……たとえ共に暮らせなくても生きてさえいれば。  意識が闇に沈む前、彼女が感じたのは嫉妬だった。 四 初陣  「なんなんだ、コレは」  右手を押さえて得体の知れないガスの塊から跳び退りながらアレフは叫んだ。人の顔とも手とも見える突起をそなえた動く煙。ふわふわと近づいてきた“それ”をないだ右手が、焼けつくように痛む。煙はそこから苦悶するかのように揺らめき空気へと溶けていった。  無気味でとても生物とは思えないモノ。まっとうではない……少なくともこの場に相容れない気体。しかも何らか意志があるらしく、敵意をもって迫ってくる。  傷ついた手に治癒の呪をかけながら、石組の固い壁に背中をつく。  注意は受けていたが、安全なはずの自分の城に、危険な何かが徘徊しているという現実を目の当たりにすると、冷たい流れに足を踏み入れたような気分になる。歩き慣れていたはずの地下通路が、似て非なる異空間に思えてくる。  手の痛みが消え、ふと気配を感じたほうに目をやってぎょっとする。石を敷いた床の上を、濁った水が盛り上がり這い進んでくる。目玉のようなものをそなえたそれも、生き物らしい。しかも一匹ではない。左右から床を埋めるように寄ってくる。  跳び越そうとしてまたあの煙どもも近づいてきたのが見えた。  囲まれていた。  にごり水のような固まりが急に跳ねて飛んできた。とっさに殴ったが衝撃は弾力に富んだ体に吸収され大した痛みもなかったらしく、ベチョっとおちたその生き物はまた這い寄ってこようとしている。  数が多すぎる。  本気で危険を感じ始めていた。何とかしようにもどうしたらいいのか分からない。  野性の生き物なら炎を恐れるのではないか? そう思いついて火炎を呼び出す呪を唱えた。安定した照明用の火球を生き物すれすれに飛ばしてみた。一度は驚くものの火球が過ぎると、またじりじりと近づいてくる。  一斉に跳びかかってきた。  それらを避け、払い、もぎ離す。体のあちこちに打身の痛みや腐蝕性らしきガスや液体の痛みが走る。頭だけは何とか守りながら、絶体絶命の事態であることをやっと悟った。  なんとか助かるすべはないか必死に考える。ふいに火の玉が敵を焼き尽くす光景が浮かんだ。アレフ自身の記憶ではない。さっき血を吸ったとき、犠牲者の意識をいじるのに心を読み取った……その中にあったもの。とっさにさっき使った火球の呪を再び放つ。ただし今度は押し包もうとしている生き物を掠めるのではなく直接ぶつけた。  声なき悲鳴が上がった。生きながら焼かれ悶え絶命していく生き物たちの心の声。  危機を脱して座り込んだ回りで、生き物たちがのたうちまわり動かなくなっていった。  一瞬助かった喜びに放心したあと、不意にぞっとした。世界の探究と思索に使われるべき知識と技を、殺りくの為に悪用してしまった。それは、殺傷だけを術の開発の目的とする、侮蔑すべき“テンプルの連中”と同類になったことを意味しはしないか?  しかし思考はそこまでだった。  まだあのぶよぶよとした生き物は残っていた。  そして仲間の屍の上を這ってまた襲い掛かろうとしていた。  それらをにらみつける。本来、贄をおとなしくさせ食事をしやすくする為の力を使ってみる。こんな生き物たちの心など知りたいとは思わないが、魅了出来ればこの危機から脱出できる。出来ることは何でも試してみるしかない。  彼らの心にあったのは、単純な飢えと戻りたいという帰巣本能、そして強烈な不安。ここは彼らが本来いた世界とあまりに違う。空気さえ違う。苦しくて不安で凶暴になり襲い掛かってきている。  彼らにとってはこちらの方が得体の知れない恐ろしい怪物だった。別の怪物に逆らえば殺すと脅され、不安と恐怖で襲い掛かってくる。 それらを取り除き本来彼らがいた場所の幻覚と強烈な快楽を与えてみた。  幻覚にとらわれ、動きを止めた彼らを踏み越えて何とか角まで逃げた。  傷ついた体に治癒呪をかけ、痛みが収まると腹が立ってきた。なんでこんな風に、生き物を勝手に呼び出して、その後を顧みないでいられるのか。命を道具扱いしているあいつらに対して無性に腹が立った。  素早く地下牢まで駆け戻った。  あの生き物たちを呼び出した者たちは今、彼の虜囚だった。うち二人は、先ほど飢えに耐え兼ねて犠牲にした。命までは取っていないが、すでに相応の報いは受けている。さっきまでは己の食欲に嫌悪を覚え、彼らには悪いことをしたと思っていたが、今は手ぬるかったと思っていた。  こんな事を平気で出来る連中なら、血を飲んだとき術にかけて安らぎや快楽など与えるのではなかった。苦痛の中で命をすすり取られる恐怖を味あわせてやればよかった。  それにこの生き物たちを召還した者は、まだ手付かずのまま牢の奥で震えている。あまりに怯えていたので見逃してやろうと思っていたが、気が変わった。さっきの戦いで消耗し、空腹がひどくなってきてもいた。  牢のカギを開け、情けない悲鳴を上げ命乞いをする男の肩をつかむ。 「召喚したものたちを元の世界に戻してやれ」  男が首を激しく横に振った。 「で、できない、喚ぶだけで還す術は、し、知らないんだ」  そのあまりな無責任な物言いにかっとなる。 「ならお前も、二度と戻れぬ死の世界に送り込んでやろうか」  そう脅しつけて震える喉に顔を埋めて牙を突き立てる。男が断末魔のような絶叫を上げた。もがく体を力尽くで押さえて飲みつづける。やがて男の意識がぼやけ体から力が抜けていく。それから精神の支配に取り掛かった。  相手の記憶の中から召喚の呪と魔法陣を読み取り、過去に学んだ似た術を呼び出して照合し検討する。結論を出すまでそれほど時間はかからなかった。帰還の呪と魔法陣を頭の中で組上げた。そしてそれを描くに相応しい場所を特定しながら、男の体を離して立ち上がる。  ふりかえると穏やかな笑みが開きっぱなしの牢の向こうから覗いていた。 「凄い悲鳴が聞こえましたので……」 「殺してはいない」 「ひょっとして、最初にお召しになった戦士は、命まで……と思いましたが、この男は三人目ですからね」  いつしかドルクが半獣から人の姿に戻っていたのに気づいた。理由は、もう主に襲われる心配はないから……だろうか。 「で、ルナリングは?」  首を横に振るしかない。 「まずはあいつらを何とかしてやらないと……」  なるたけ避けてきたつもりだったが、魔法陣を描くのに適した地下道の最深部についたとき、背後にはあの悲しい生き物たちの群れが迫っていた。手首を噛み切り、ほとばしる血で素早く魔法陣を描き上げる。傷が癒着したとき生き物たちが襲い掛かってきた。その攻撃に身をさらしながら呪を叫ぶ。  術式が完成すると同時に、生き物たちは魔法陣の中心に生じた暗い穴に向かって、その存在した空間ごと、次々と吸い込まれて、帰っていった。  全ての異界の生き物が……アレフや部下や使い魔の手にかかったもの以外が帰ったのを確認して、やっと一息つけた。  意味も無くため息をつきながら、すぐそばの扉を開ける。  奥は物置部屋。よく言えば宝物庫。長年にわたって作り上げた、魔力を込めた宝玉から何でもない日用品、さまざまなガラクタが四十年前のまま雑然と詰め込まれていた。  棚の小箱に入った、黄色い石がはまったリングを見つけて指にはめる。目的を果たしてから、ひどい格好に気がついた。さっきからの戦いで、身を守ってくれた夜会用のマントは無残な状態になっている。  衣装箱を見つけて、少しましなものに取り替えた。陽光の下をゆかねばならないのなら、こんな布一枚でも羽織れば日よけになるだろう。  だが、もうあんな生き物たちと戦うのだけはごめんだ。  しかし異界の生き物たちがいるのは、ここだけにかぎっていないことを、ほんの短い旅にさえ危険が伴う事を思い知るまで、それほど時間はかからなかった。  ▽ 第二章 追憶の村 △ 一 老人  早朝から刈っていた牧草が、腰の高さまで積みあがったところで、老人は山を見上げた。紫にかすむ中腹に、堅牢な城の輪郭が見える。近くはボヤける老いた目も、景色を見るには支障はないわい。  ほがらかな気分で、先日、村に来た彼らの事を思い出していた。  あの三人は自信たっぷりだった。年は下のセガレより若い……三十前後だろうか。銀色に輝く鎧をつけた隆とした戦士。法衣をまといテンプルの存在意義となしとげてきた戦果を熱心に語る若い司祭。優しく笑んで村人の不安を闇に怯える子供と同じ、と評した聡明そうな聖女。  代理人以外の村人を広場に集めた彼らは、これから山の城に潜む血に飢えた悪鬼を滅ぼしに行くと宣言した。うろたえ騒ぐ村人を制したのは司祭の放ってみせた炎だった。火炎はまっすぐ立ち上り天を焦がすかと思うと、司祭の手の中に消えた。 「人は無力ではない。我々テンプルは長い研究と鍛練で、バンパイアどもの邪法を打ち破るすべを編み出してきた。もう怯える必要はない。盗んだ命で不自然に長らえてきた化け物を、本来あるべき虚無へ叩き込んでやる」  村人は顔を見合わせた。やがて一人が賛同した。老人も賛同した。あとは雪崩のよう。人々は口々に三人を激励した。最高のチーズや酒が振舞われ、テンプルからきた戦士たちをもてなした。彼らは村人に山の城主の事を聞けるだけ聞くと、翌朝、みなに見送られて出発した。  一人をのぞいて村人は期待に胸をふくらませた。  山を見る目は、かつてのような怯えと不安ではなく、期待と喜びに満ちていた。  そろそろ戻るのではないだろうか。  五十年前の悔しい思いがよみがえる。  老人がまだ、少年だった頃。体が弱かった自分の分まで、元気一杯に家を手伝っていた姉は、本当に美しかった。活発な姉は子供の頃から、木登りもウサギ狩りも、男の子より上手かった。熱を出しては臥《ふ》せることの多かった少年に比べ、姉は風邪も引いた事がなかった。村の若者たちは姉にさまざまな贈り物をしては、しつこく求婚に来ていた。肉親である少年の目にも姉は輝いて見えた。姉には幸せが約束されていたはずだった。  代理人はまだ前の代。  山の城主が来る日、村の女たちは総出で代理人の館の掃除にかりだされ、わずかばかりの金をもらう。数週間に一度の行事、いつもの事だった。そして夕刻とともに訪れる賓客を出迎える。そんな、なんでもない行事が悪夢に変わったのは城主が代理人にささやいた瞬間からだ。 「あの娘は?」  ヒザを軽くまげ歓迎の態度をとっていた若い女たちの間を無言の戦慄が走った。 「……マネの娘……クリスです」  一瞬のためらいの後、代理人が答えたとき、気丈な姉の手がぶるぶると震えていたと隣のおかみさんから聞かされた。 「クリス、お前の血を少し貰いたいが、いいかな」  城主は銀髪の若い男の姿をしている。涼やかな声も外見に相応しいというが、姉にとっては墓場から呼ばわる声に聞こえた。そう後で聞かされた。  城主は数週間に一度、代理人の生血を吸いにくる。しかし何年かに一度、気紛れを起こして代理人以外の村人の血を求めることがある。命の輝きに魅かれるのだと誰かが言っていた。その時もっとも生命力にあふれ輝いている者を指名する。  本人に許諾を求める口調だが拒否できるものではない。この村はもちろんこの大陸全てを二人で支配している権力者……というだけでなく、天候を操る魔力を持っている。彼らが制御しているから、毎年の豊作が約束されているのだと聞いた。もし、機嫌を損ねれば村の一つや二つ、豪雨で押し流されてしまうと。 「はい……ありがとうございます」  姉が、かろうじて口にした答えを聞くと城主は代理人の屋敷に入った。  駆け戻ってきた姉は顛末《てんまつ》を話した後、呆然としている家族に健気に笑ってみせた。 「で、何を望みましょう」  見返りはあった。あるていどの金銭や財産が血の対価に支払われる。少年はもちろん母も父も無言だった。 「命まで取られる訳じゃないんでしょ。そんな深刻にならなくても」  姉は笑っていた。  家の扉が軽く叩かれ、家族の沈黙は深くなった。城主の従者が迎えにきていた。ドルクと名乗った従者はていねいな口調と態度で、両親と姉に、代理人の家への案内を申し出た。そして何か望みはあるかとたずねた。  家族の誰もが言い出さぬ中、姉が少し寂しそうに口を開いた。 「弟がお嫁さんをもらうとき、結納にする家畜がほしい。それと病気がちの弟を元気にする薬って、ありますか」  ドルクは少し考えた後、少年の手足や腹に触れ、目を覗き込んでうなづいた。 「望みは叶えられましょう」  夜の闇の中、姉は手を引かれて代理人の館へいってしまった。  朝の光が差すまで眠らずにいるつもりだったが、有明の月が昇る前に少年は眠ってしまった。  起きると姉は家に戻っていた。青ざめた顔でベッドに横たわり、母が心配そうについていた。バラ色の頬をした生き生きとした姉しか知らなかった少年にとって、憔悴《しょうすい》した白い顔の姉は別の人のように思えた。首には母が愛用していたスカーフが巻かれて傷を隠していた。  姉はその日一日眠り、翌日、仔を孕んだ数頭の牝牛と羊、そして小ビンに入った薬が届いた時、目を覚ました。届けられた家畜を眺めていても、どこか夢でも見ているようにぼんやりとして、話しかけても返事があるまで妙に間があった。  快活な姉に再び戻るよう、滋養のつくものは何でも食べさせた。やがて姉は床を離れ家事の手伝いもするようになったが、少しの無理で熱を出した。変わった香りの薬を飲んで、寝込むことが少なくなった少年とは逆に、姉は病を得やすくなり、季節の終わりに臥《ふ》せる事が多くなった。  それから2年目の冬、風邪をこじらせた姉は、あっという間に逝ってしまった。  血と共に姉は寿命も吸い取られたのだ。そう老人は考えていた。  人から吸い取った寿命で、城の主は五百年近く生き長らえているという。 「とても奇麗な方だった」  夢を見ているように語る姉を思い出す。そんなのはいつわりの若さと美だ。今の老人よりはるかに年寄りなのだ。大勢の人間から若さや美しさを奪って保っているものだ。 「最初は恐かったけど、目を見たら何も恐くなくなって。何だかとても幸せだった。噛まれた時もちっとも痛くない……」  そう話したときの姉のこう惚とした表情がたまらなく悲しかった。あいつらは、まやかしをかけるのが得意だということを、姉は忘れたのだろうか。  あいつの話をする時の姉は変に美しくて心が騒いだ。当時は分からなかったが、今ならそれは色気だと言える。姉はしじゅうため息をついて、何かを探すかのように視線を宙にさまよわせていた。何をというより誰を探しているのか解っていた。  しかし姉をこんなにしたあいつは、気紛れでした“食事”の事など、すぐに忘れてしまったろう。  姉が死んでから十年後だったろうか。  二軒先のネリィという娘が、城主の指名を蹴ったのは。  いまだに認めたくなかった。信じたくなかった。ネリィは咎《とが》められなかった。村も咎められなかった。しかしネリィは奪われた。“食事”ではなく愛人として遇され、永遠の命をもたらす口づけを受けた。  そして口づけを授けた真始祖ファラが滅びた時、ネリィもまた滅びた。  あいつは女を不幸にしかしない。当時結婚をして最初の子供をもうけていた老人はあざ笑った。  ネリィの死は城主にとっても痛手だったらしく、以来、姿を見せなくなった。  すでに四十年はたつだろうか。その間に老人の子は成長して結婚して孫が出来た。妻が死んだのは去年のこと。老人が妻の元へいく日も近いだろう。  この四十年、天候は制御を失い、時々日照りをもたらしたが、ひどくなる前にバフルを治める城主がなんとかしてくれたらしい。山の城主はすでに滅びたと言う者もあったが、代理人の様子を見るかぎり、まだ血の呪縛は解かれておらず、健在が伺い知れた。  それに従者のドルクだけは時々村を訪れ、代理人の屋敷に集められた税を城に持ち帰り、城で働く半ば人、半ば魔の者のための食料や日用品を今も買っていく。  老人は腰を伸ばした。  あのテンプルからきた3人は姉の仇を討ってくれたのだろうか。老人の目は山へと続く道をたどった。凱旋する人影が見えはしないかと探す。目のはしに何かを捕えた。道にそって動く何か。朝と昼の中間の透明さをまだ失わない、光の中を歩んでくる人影。  目を凝らす。数は二つだ。そして…… 「ひっ」  思わず声が出た。二つの人影は銀の鎧をつけていないし、灰色の法衣も、白いローブも着ていなかった。黒い衣装の……武装した男と悠然とマントを風に揺らせている若者の姿をしたもの。はっきりと見えたわけではないが老人は確信した。そしてカマもスキも打ち捨てて、まろびかけながら村への道を駆けた。  あのテンプルから来た三人がどうなったのか、考えるのも恐ろしかった。なぜあんな事に加担したのか自分が呪わしくなる。村は謀反の意志ありとして滅ぼされるのではないか。老人の脳裏に無邪気に笑う孫の顔が浮かんだ。 「アレフ様が……」  村に入るなり老人は叫んだ。若いものはきょとんとしたが、年かさの者の反応は早かった。 「山の城主がこっちへ来る」 「あの化け物が」 「あの、テンプルの司祭様は? 聖女様は?」 「隠れろ! 殺されるぞ」  やがて恐慌は若者にも伝染し人々は家へ駆け込んだ。扉のカギをしめ、よろい戸を落とす。それが気休めであったとしても。  四十年待ち続けた代理人は喜んでいるだろうと老人は思った。  胸が苦しい。村まで走り続けだった。  孫たちにも誰かが知らせてくれただろうか。 「じいさん、急げ」  誰かが老人に肩を貸して、どこかの家につれて入ってくれた。老人が日陰にはいると背後でカギを閉める音がした。目をあけるとそこは酒場で、店主が冷たい水をくれた。  カウンターでは二人の行商人を含む客たちが、声高に喋っている。 「あっ」  窓をみていた若い酌婦が短く声を上げた。  数人が窓にとりつき無人の道を歩む二つの人影を目で追う。 「ほんとに、来やがった」 「でも、奇麗な方」 「バカヤロウ、生血を吸われたいのか」  押し殺したささやきは、やがて沈黙に変わった。  手が白くなるほど握り締めていたカップをそっと床に置いた。その小さな物音でも注目を浴びてしまう。そんな張り詰めた店内で、老人は床に座り込んだまま動悸《どうき》が収まるのをひたすら待っていた。 二 代理人  村がざわついている。  それが、最初に受けた印象だった。  煙突のけむり。堆肥の臭い。刈られた青草。そして人の息遣い。四十年前の記憶にあるのと大差ない家々の営み。しかし畑にも水場にも、働いているべき場所に人影はなく、土を踏み固めた道も広場も無人だった。  空気にみちているのは煮えたぎるような緊張。投げ出された農具や風で転がる麦藁帽が、ほんの少し前までここにも人がいたのだと、寂しく主張していた。  よく知っている道を、それでも案内するドルクが皮肉な笑みを浮かべた。  (普段はもっと賑やかなんですがね)  そう心がつぶやいている。  耳を澄ませば鍵をしっかりとかけた戸口の向こうで目配せしあいながら、恐れと不安とわずかな憧憬をつぶやく声が聞こえる。いつしかアレフは苦笑していた。これ程まで化物扱いされたのは初めてだ。 「よく、代理人の館が焼き討ちに遭わなかったな」 「村人は分をわきまえておりますよ。反乱を起こす度胸などありません。せいぜい、討伐隊に酒を振舞って鼓舞するのが精一杯。罰をお与えになりますか? あの愚かな勇者たちに親しくした者に」  軽く首を横に振った。そして青空に目を向ける。  太陽は北の空を目指して駆け上がろうとしていた。 「では、館の方に。そう……分かっておられると思いますが、彼に慈悲を与えてやって下さい。忠実な代理人として、ずっとアレフ様を待ち続けてきたのです」  二階建ての代理人の館は、記憶より少し色あせている気がした。黒い石の門をくぐり、鉄の鋲《びょう》が打たれた堅牢な扉を開いて、ドルクが中を指し示た。  陽光から逃れて一息ついた時、白髪の男が目に映った。頑健だった肉体は少ししなびていたが、端正な姿勢は失われていない。しかし皮膚には深いしわが刻まれ、眇めた目はこちらの姿をよくとらえていないようだった。  彼はもう七十歳を超えている。生気と自信に満ちあふれた壮年の戦士ではない。 (アレフ様……アレフ様……)  しもべの心は叫び続けていた。 「私だよ。よく待っていてくれたね」  話しかけたとたん痩せた喉からうなり声がもれた。しわ深い目に涙が湧き出す。近づいたアレフの腕を、ブルブルと震える手が確かめるように触れた直後、床に膝をついた。 「お待ちしていました……四十年……ずっとずっと。アレフ様には一眠りでも、わたくしども人にとっては……」  心に苦い光景が去来するのが見えた。ひとしきり泣くようなつぶやきが続いた後、不意に彼は立ち上がった。顔は泣き笑いになっていた。 「すみません、取り乱しました。どうぞ」  目を閉じて手を下ろし頭をめいっぱい後ろに反らす。しわと筋におおわれた痩せた喉があらわになる。  動揺した。これほど年老いた者から“食事”を採ったことはなかった。  しもべたちは大抵短命で、五十程でみな後継者に後を委ねて死んでいった。しもべ以外の村人を欲しいと思い、この館へ呼ぶことはあったが、それもほとんどは年若い、まだ二十歳になる前の者たちだった。 「はやく……」  ドルクが少し懇願するように促した。彼が待ち続けていたのは分かっていた。しかしこの奉仕は、命と引き換えになりはしないだろうか。  代理人の心に失望と悲しみが広がるのが感じられた。待ち続けているうちに己が主の欲望の対象になる資格を失ったことを悟り始めている。時が彼から奪ってしまったものは大きい。  しかし、今の村の状況では身代わりを差し出すのは難しい。主に選んでもらうために、館の庭に村人を並ばせるだけの権威を彼は失っていた。主の歓心を得られそうな健康な若者や美しい娘を館に招集する力はもうない。主の期待を裏切ってしまった罪悪感が浮かぶ。  それらを読み取りながらも、決心がつかないでいた。  しもべがゆっくりと頭を元に戻す。申し訳なさそうに目が伏せられる。悲しみと絶望、そして足もとの崩壊感。  慈悲を……というドルクの言葉を思い出した。  痩せた肩に手を伸ばした。触れた瞬間、しもべの体が緊張する。 「いいのか?」  しわ深い顔が幸せそうに輝いた。  もろいガラス細工を扱うように注意深くしもべの肩に手を置き、引き寄せる。かつてはドルクより逞しかった腕は細く、胸も薄くなっていた。手を回しそっと抱き締めた。しもべが目を閉じて再び頭を反らす。たるんだ皮膚が昔の感覚を思い出して期待に震え緊張している。喉ぼとけがはっきりと上下に動いた。脈動する紅い流れの位置を確認しながら、欲求のたかまりを覚えて微かに眉を寄せた。  城の地下で哀れな捕虜から満足するまで飲んできたのに、この枯れたしもべからもむさぼろうとしている偽りの本能に嫌悪感を覚えていた。結局血さえ味わえるなら相手が誰だろうと気にしない怪物が心に棲んでいる。悲鳴を上げ抵抗する侵入者でも、黙って従順に喉を差し出す臣下でも。  少し相手の体を傾ける。心得てしもべが首をそちらへ少し曲げる。すでに繋がっている心に恍惚と安らぎを呼び起こした。痩せた体から緊張が解けていくのを感じながら首筋に顔をうずめる。唇で細くなった血管を探り、痛覚が麻痺しているのを確認してから、牙を突き刺した。  溢れる血の味と香りに歓喜する。それを相手に伝えながら冷静さを失わないように、気を引き締めた。  一口分飲み下したところで中断する。治癒の呪をかけながらしもべには喜びを伝える。枯れた喉から呻くようなため息が漏れた。  傷口にしみだすわずかな血を未練がましく舐めとってから、痩せた体を静かに抱き上げた。  至福の笑みを浮かべた軽い体を寝台に運んだとき、罪悪感が込み上げてきた。すべてはニセモノだ。しもべが感じている快楽は、全て最初の口付けの時に植えつけたもの。血をすすんで提供するよう快楽中枢をいじって作り上げた、不自然な陶酔だ。  しかし、それは己自身にも言える事かも知れない。不死の肉体を保持し、力の源となる生者の血。それを求める渇望と血をすする時に覚える歓喜。全てはためらいや罪の意識を乗り越えるために植え付けられた、不自然な欲望かも知れない。  しもべの幸薄い生涯に哀れみを覚えているのに、口の中に残る血の味を楽しんでいる、飽きを知らない欲望。真始祖ファラの心配そうな顔を魔法陣の中から見上げた時。この体に変化して、初めて目を開いた時から、既にあった衝動。  代理人のしわ深い寝顔をもう一度見下ろしてから、光の一切入らない地下室へ向かった。招かれざる者に心理的な圧迫を与える呪を施した厳重な扉も、すみに置かれた書き物机も、地の力を取り込む結界を施した黒く艶やかなひつぎも、ていねいに磨き上げられホコリ一つ落ちてはいない。  浮き彫りが施された蓋を開き、紗布を張った狭い空間に身を横たえる。闇の生を削る昼の過酷さも、ここにだけは届かない。目を閉じ意識をほどいていく。物理世界を動かしている精緻《せいち》な法則の夢を見ながら、しばしまどろむために。  父の事は確認するまで考えたくなかった。  人々の変化も、うつろいやすい、もろく短い人の命が造り出す営みや、政治といった面倒な事も……。  それでもアレフはこの大陸の半分近くを“持って”いた。いくつかの小さな村と町、そして貿易港が一つ。そこに暮らす領民に責任がある。  しかしすでに制度は完成され、数百年の間、予想外の事はまず起こらなかった。  必要な血を提供してくれる人々。支配を確実にするために啜る代理人という名のしもべの血。これは形だけ、ほんの数口、時には舐めるだけ。健康をそこなわないように、時間をおいて慎重に飲む。  不足した分は数ヶ月か半年に一度、しもべが用意してくれる贄から欲しいだけ貪った。人の少ない村では数年に一度。貿易港を持つ町からは毎日数人の贄を提供させる事もできた。  何百年とその習慣は続き、変化は世界の秘密を解き明かして行く知的な道程だけのハズだった。  領民は従順な提供者でそれ以上のものではなかった。欲しいと言えば形式的な承諾を得るだけでしもべの館で味わうことが出来た。拒絶する者がいると聞いてはいたし。しかし要求はいつも叶えられていた。  ネリィに会ったあの日まで。 三 酒場  魔物と従者が代理人の家に消えると、酒場にため息が満ちた。奴が来ることを代理人はなぜ知らせなかったのかと、老人は腹を立てた。山の城主が下りてくる前には必ず知らせがあるはずだ。代理人は、城の主に呪縛されその意志を感じ取って村人に伝える役をしていたはず。  いや、代理人は多分、村人に知らせるのを諦めたのだ。  あのテンプルの三人を歓迎した村人が、主を迎えるために代理人の屋敷の掃除などするはずがないと。また少し不忠な村人への仕置と言う心積もりもあったのかも知れない。城主の滅びを願った村人への報復はなんなのだろう。 「あ、ドルクさん」  窓を見ていた者がつぶやいた。ヒゲの男がこちらへやってくる。途中、ロップの店によるのが見えた。数瞬の押問答の後、よろず屋は扉を開いた。普段通りにしてテンプルの連中に力を貸した事には口を拭おうと言うのだろう。  酒場の店主も目配せをした。そしてカギを開ける。 「いいか、いつも通りにするんだぞ」  抗議しかけた者も、代案が無ければ黙りこむしかない。  いつも買物を済ませた後、ドルクは酒場に立ち寄り、亭主に噂話を聞いていく。そんな事をせずとも様々な神秘的な手段で、作物の出来も気象のことも知悉《ちしつ》しているはずだが、村人の考えを、自らの主の評判を知るためなのだろうと、老人は思っていた。  扉が開く。 「いやあ、久しぶりだね」  陽気な声がした。少年の頃家に姉を迎えに来たときは丁重で礼儀正しい態度だった。そして普段は気さくで陽気な男を“演じて”いる。  少なくとも老人にはそう見えた。 「これは、ドルクさん……二か月ぶりですか」  店主がどこかぎこちない笑みを浮かべる。麦から作られた発砲酒を注いでいる手も微かに震えている。 「こないだ城に三人の招かれざる客がきましてねえ。この村にもご迷惑をおかけしませんでしたか?」  酒杯を受け取ったドルクの放った言葉は酒場に居た全員を一瞬凍り付かせた。 「え、ああ、あのテンプルから来たというウサンクサイ連中ですか」  店主が無理に笑顔を造る。 「ああいう詐欺師みたいな手合いは好きにはなれませんな」 「ほう」 「大言壮語がはげしくて、妙なまやかしを見せて酒や食い物を要求しました」  一番熱狂していた男が言う。その豹変ぶりに老人は呆れて悲しくなった。あの三人は多少尊大だったが、命懸けで村の為に戦おうとしていた。その心意気に老人は打たれたのに。 「まあ、そうでしょうね。テンプルは魔物を追い払うと言っては、多額の寄付や寄進を要求するらしいですよ。断わると、魔物を召還して人を殺させるといいますし」 「え?」  ドルクの言葉に酒場の者たちが驚く。 「連中の召還した魔物どもの気色の悪いことと言ったら……。城にはいりこんだ奴らを一掃するのにえらい手間がかかりました。あんなのがこの村を襲っていたかも知れないと思うと、いやあ、ぞっとしますね」  麦酒を飲み干してわざとらしく体を震わせてみせる。 「で、その三人は?」  恐々と誰かが聞いた。 「私としては、あんな人の姿を借りた災厄はさっさと始末したほうが、世の中にとって良いと思っているんですが……アレフ様はお優しいですから。 命までは取らず、“口づけ”だけにとどめられました」  ならば死と同じではないか……。老人は思った。生命力を血とともに吸い取られ半病人となった奴隷。城主の意のままになる人形にも等しい。 「数日したら城の者にこの村へ送らせるつもりなんで、クインポートから船にのっけて送り返してやってください。費用は代理人に預けてありますからね」  ジョッキをかえしドルクは立ち上がると、代理人の館へ戻っていった。 「おとがめナシか」  店主が息を吐いた。 「あいつらも、ホント、口ばっかりの連中だったんだな」 「金をとられるのか」  ざわざわと話し始める客たちには、もう城主に逆らおうと言う気概の気配すらない。四十年の歳月がはぐくんだ反抗心は、たった一度の城主の来訪で朝露よりもはかなく消えた。老人は下唇を噛んだ。しかし今、代理人の屋敷に押しかけて、光を避けて地下室で眠る魔物の胸にクイを打つ度胸はない。 「姉さん……ごめん」  かすかなつぶやきが老人の唇から漏れた。 四 紅い夢  真昼の夢の中では、数十年前の思い出も幾百年も昔の記憶も、ひとしく色と音を得てよみがえる。数えきれない夜をつなぐアレフの追憶は、ほとんどが真紅で彩られていた。  温かい体から今の冷たく青ざめた体となる過程は、眠らされている間に終わっていた。  セントアイランド城の最深部にあった秘術の間。金と珠で硬い床に象嵌された魔方陣から起き上がったときには、使われたはずの幾つかの薬剤も、奇跡の触媒たる賢者の石も、全て片付けられていた。それは秘密を守るためだという。不死化の術の詳細を知るのは大魔法士ファラただ一人。  そして、欲望はすでにあった。視力を始めとした五感と精神感応力の飛躍的な増大と、手足の筋力の感覚の相違に対する驚きと共に。 「分かっていますよ」  優しく豊かな声が安心させるように響き、美しい手がアレフを別の部屋にいざなった。裸でいる羞恥心より、ファラがこれからくれるものに対する期待のほうが強かった。  白い小部屋に案内され、薄ものをまとっただけのほっそりした少女を見つけた時には、どうすればいいかもう分かっていた。  怯え震えている少女に笑みかけ、その目を捕えて術をかける。  以前ならとても出来なかった行為へ、欲望が導いてくれた。  少女の心に偽りの恋情を生じさせた。他者の心をいじる事に嫌悪を覚えていたなど信じられないほど自然に。昨日までは一番魅力を感じていた胸のふくらみや露わな足より、薄い皮膚をかすかに波打たせる首筋の脈動に魅かれた。抱き寄せて少女の温かみを確かめてから少し腰をかがめ、新しく生えた牙を初めて使った。  簡単に皮膚と血管を貫けた。  あふれ出した温かい液体を夢中で飲んだ。少女の口からあえぎ声がもれ、記憶が流れ込んできた。幼い頃の親への思いや、友達の顔、初恋のときめきと苦い思い出、姉が陥っている苦境、悲壮な決意。短い人生が流れ落ちていった……彼女には家族を救うだけの財貨を得る方法がこれしかなかったのだ。涙を溜めた姉の顔がよく思い出せない。  そっとファラに肩を掴まれた。少女を離す様うながされた。少女の体から力は失われ、意識も薄れ混濁していた。しぶしぶ口を離したとき、耳元でささやかれた。  「飲み尽くした時は気をつけて、同情から力が働いて贄を仲間にしてしまう事がありますから」  動揺や罪悪感はあった。しかし確かな快楽も覚えていた。  数日前、ああいう楽しみはもう最後だと言う父の手配で、宿に呼んだ遊び女の嬌声や柔らかな体から得た喜びより強烈だった。  泣いたのは、震えていたのは、少女の命が消えていく哀しみのためではなく、一人の人生を破壊してでも生き血をむさぼろうとする、己が恐ろしかったせいかも知れない。  快楽は悪を良いことだと錯覚させる。そんなに悪いことはしていないと言い訳をさせる。  楽しかったから……だって、仕方のない事だし……。そう、心が自己弁護を始める。  身なりを整えながら、すでに父から聞いていたこれからの生活の注意点を聴いていたとき、疑問が沸いてきた。しかし尋ねることは出来なかった。  セントアイランド城の広間には、新しい不死者の誕生を祝福するため、既にヴァンパイア達が集まっていた。  月明りだけを照明にした、花と血の香りが混じり合う祝宴。そこには酒も料理もなかった。悲しげな笑みを浮かべた、あるいは強ばった顔をした、若く美しい人々が宴席にはべっていた。彼らがこの宴の美酒であり佳肴だった。そんな生け贄たちは、滑らかな足取りで始終入れ替わり、何人いるのか主賓であるアレフにも分からなかった。  笑いさざめきながら、気が向くと側にかしずく若者や舞っている乙女を捕え、牙を閃かせる同族たち。十人いたはずだ。中には誇らしげな父の姿もあった。夜明けまでに幾人かの若者と乙女が青白い者たちの間で冷たくなっていった。  さっきの少女から受けた衝撃が生々しく心に残っているにもかかわらず、促されて、側に控えていた若者を呼んだ。  「男は量がたっぷりあるし、熱いですよ。ためしてみなさい」  笑顔で勧めた同族は、乙女のぐったりとした体を抱き締めていた。  黒髪の若者は覚悟しているように前に来てうなだれた。背は少し低いが体つきはしっかりしていた。筋肉のつきかたから普段は力仕事をしているらしいと見当をつけた。自分の知らない世界を知っている若者。雰囲気に流され目で射すくめる前に抱き寄せた。  不意に腕の中の若者の筋肉が盛り上がった。無言で若者は巻き付いた冷たい腕から逃れようとした。それを押さえつけていられる事に優越感を覚えながらゆっくりと締め上げていったのを覚えている。やがて若者から挑戦的な気迫が失われ力が抜けた。顔に敗北と諦観が現われた。  屈伏させ無抵抗になった若者の喉に唇を這わせたときに再び疑問が沸いてきた。血への期待でわくわくしているのは本当の自分なのだろうか。さっき少女の命を貪り、まだ飽き足らずにまたあの快感と高揚感を求めようとしている。この欲望や悦楽は、施術の時植え込まれたものではないだろうか。昨日までこんな欲求は無かったはずだ。  他の心の動きは人だった頃とあまり変化してはいない。この血に対する欲求は術によるもののはずだ。己があさましい訳ではない。このどうしようもない欲望は仕方のないもの。真始祖ファラに植え込まれた恩恵なのだろうから。  しかし若者の喉に牙を突き立て血とともに若者の心をも味わっていた時に、違うのではないかという疑念が広がった。  若者の心は乱暴な争いと勝利の喜びに満ちていた。苦しい生活の中で真に生きていると実感出来るのは誰かと殴り合いをしている時。過激な日常。はずみで人を殺してしまった彼は、償うためにこの宴を選んだ。  ただ従順に贄になるのではない。彼は力自慢だった。本当に不死者が人間離れした力を持っているのか、命がけで試したいという挑戦的な気持ちもあったようだ。自分のほうが強いはずだと根拠の無い自信を抱いていた。はるかに華奢な腕に捕らえられ、締め上げられるまでは。  疑念の元は……若者が血を見て興奮した記憶だった。なぐりつけ、血が飛び、唇が切れて塩辛い味が広がる。若者はそれを楽しんでいた。いま若者の血を味わいながら感じているのと、そっくり同じ高揚感を覚えていた。  血の色が人を興奮させる事は知っていた。しかしそれは単なる知識だった。闘鶏や闘犬が行なわれている場所へ足を踏み入れた事はなかった。事故やケンカに群がる人々を侮蔑の目で見ていた。それらは自分とは関係の無い衝動だと思っていた。  しかし昨日までは、彼らと同種の野蛮な生き物だった。そして基本的に不死者へ変化するとき精神はほとんど変化しないということになっていた。  慄然として若者の喉から口を離した。若者が呻きながら退がるのにまかせた。  この浅ましい欲望は、血を味わう時に覚える高揚感や歓喜は、元もとあったものではないのか。人間なら誰でも持っているもの。それが表に出てきただけかも知れない。実行するだけの社会的な地位と物理的な力を得て、あらわになっただけの事で。  その考えは自らの偽善性を暴いたような気がして、しばらく心を悩ませた。  今となっては、元からあったものであろうと植え込まれたものであろうと増幅されたものであろうと、己の本質の一部を成している。あの少女以来、この欲求を満足させる際に腕の中で殺した事はない。配下となる力を分け与えた死者を作ったこともなかった。  私が滅びるとき彼らは道連れになる。そんな重荷は負いたくはなかった。   甘美で苦しい夢が始まる。  ハツラツとした手足。真剣な瞳。日の光をいっぱいに浴びて輝く蜜色の髪。要求を拒絶した娘。血の提供に首を横に振った始めての人間。  ネリィは教会の事を語った。それは受売りで好みの理屈や教義だけを抽出した勝手なものだったが、過去から続く慣習を打破する心理的な後ろ盾を彼女に与えていた。  諦めないこと……  捕えられ、見せしめに両手を奪われた男が語った、屈伏しない理由。落ち着いて穏やかに迫害者の一人に話す、力を持った言葉。 「明けない夜はない……」 「人の術で作られたものなら人の術で打ち破れる……」 「元は同じ人であったのに、なぜお前は人から命を盗む?」 それは二百年の時を経て一つの思想になっていた。  アレフを沈黙させた静かな問いは、かなり過激な活動に変化してるようだった。驚きは興味を産み、ネリィとの会話を楽しむ中、彼女の理解が浅薄なのを知ったが、その頃には瞳のきらめきや常に変化する感情。不可思議な感性に魅かれていた。  聞きかじりの教義は彼女の一部でしかなかった。  共にいながら完全には理解しあえない心の響きを楽しむようになった。理解できないのに離れがたく結びついていく想い。生身の肉欲からは開放されているはずなのに、衝動を覚えた。存在を確かめるために抱き締めたくなる。そんな事をすれば怯えて遠ざかると分かっていたから、つとめて距離は保ち続けていた。  距離がなくなったのは、いつものように呼び出した後、ネリィのおしゃべりを聞きながら木にもたれかかって目を閉じていた時だった。  虫の声や、風が星の間を渡る音を聞きながら、すぐ側に柔らかな体が近づいてくるのも感じていた。野性の小鳥がどれだけ近くまで来るのか確かめるように動かずにいた。触れるほど近づいた時、あたたかな唇が押しつけられた。  驚いて目を開けたとき恥じるような訴えかけるような目に出会った。咎められるかと不安に目は宙をさまよいながら、口は決意に引き結ばれていた。勇気……その一言で示される心が彼女の魅力の根幹だと分かった。  思わず抱き締めた時、彼女の体が恐怖でこわばった。しかし抵抗はなかった。糧にされるのを覚悟した上での想いを伝えるキス。目を閉じ喉への痛みに耐えようと固く閉じた唇を冷たい唇で塞ぐ。緊張が解けた温かな唇が蕾のように開くのを奇跡のように感じていた。細い手がおずおずと冷たい体を抱く。  なぜこんな無意味な情熱が存在するのか理解できないまま唇の感覚に心を奪われていた。遠い記憶にある荒々しい衝動も体の変化も起きない。生殖に何の寄与もない結びつき。それでも、本当に生きていた頃にした経験より、鮮烈で重大なものだと感じていた。  同じ感情を彼女も抱いているという認識が生み出す幸福感。何よりこれは術で生み出した偽りの心ではない。  そして世界は変わった。  ネリィの名を口にするだけで、「アレフ」と呼ばれるだけで、笑顔がこぼれる。周囲が光のきらめきに感じた。何もかもが初めてみるように鮮やかだった。ともにいたいと言う闇雲な想い。幸福な時間は長く続かないと知っていたからこそ夢中になった。 「同じものになりたい」  ネリィの言葉は驚きだった。喜びと同時に理由の無い不安を感じた。今なら止めるべきだったと言える。しかし、明日のことなど分かりはしない。ただ永遠に一緒にいられるという無邪気で幸福な未来しか想定できなかった。  しかし、完全に心を通じあわせてしまえる配下として不死を与えるのは、ためらいがあった。同じではないからこそ愛しいのだから。それに万が一の時、愛する者まで道連れにしたくなかった。  別の不死者の配下として、ネリィの不死を求めた。  真始祖ファラに頼んで望みをかなえてもらった。  それは二人にとっての結婚式だった。  祝福の死を与えられ、そこから目覚めた彼女をかき抱いた。幸福の絶頂に酔っていた。月明りの中、何時間も抱きあい唇をかさね、たあいない会話に時をついやす。  夢のような一ヶ月が過ぎた。  月明りの見事な夜、咲き初めた白バラを見せようと、窓際に導いていた時だった。  不意に彼女が表情をこわばらせ自分自身を抱き締めた。 「か……体が……」  異状に気がつき、動転して彼女の体を抱き締めた。 「たすけて……アレフ!」  そして絶叫、あれはどちらの上げたものだろうか。  腕の中で彼女の体は溶け崩れ骨すら脆く壊れ、そして一塊の塵になりはてた。泣きながら蘇生呪を叫び腕を切り裂いて血をふり注いでも彼女は再生しなかった。  ファラの滅びを知ったのは、正気を失いかけた数日後だった。  自身を責め、死の眠りへ逃げても、夢は何度も繰り返した。  同じ夢、今見ているのと同じ甘くて痛い夢。 「アレフ様、もう日は傾きました。そろそろまいりましょう」  ドルクの声が現在に意識を引き戻した。  目を開き、手探りで蓋をあけ、身を起こす。薄明りの地下室。人にとっては真の暗闇に見える場所。どこへ行くのかという疑問の答えは、すぐに思い出した。 「生きてきた甲斐がありました」  西日の中、喜びに満ちた顔で見送る下僕の館を後にした。  彼女の……ネリィが人であった頃住んでいた家は、もう建て直されていた。  懐かしい、初めて触れあったあの木が残っているのどうかも分からない。  村を出るときもう一度振り返った。  あいかわらず鍵をかけた扉の向こうから伺っている人々。しかし最初より慣れたのか、緊張の度合いは少し薄まっている。  その気になれば、彼らが恐れているような怪物として振舞う事もできる。板を引き裂き、怯えている人々を引きずり出して、その喉を食い裂く事も……あるいはもう少し穏やかに、心に干渉して誘い出し偽りの恋を植え付けて、この腕に飛び込ませる事も。  微かに笑って考えを追い払う。  悪意を悪意で返す必要はない。慈悲を返して悪意を溶かすべきだろう。時には奇跡のように通じあう事もあるのだから。元は同じ存在だったのだ。  背を向けたとたん緊張の解けるため息が無数に聞こえた。道を急ぎながら、かつてほど傷が痛まない事に少し寂しさを覚えていた。  ▽ 第三章 オールドボーイ・ミーツ・ガール △ 一 明けない夜  北の都バフルから、貿易港として栄えるクインポートを経由し、東海岸沿いに散らばる町や村を繋いで伸びるグラスロード。西部も中央部も荒地と砂漠に占められている東大陸で、緑と人里があるのは、何百年も昔に整備されたこの街道沿いだけだった。  昔は……。  でも今は違う。  街道の南の始点だったカウル直近の駅は、厩《うまや》の数が増えただけでなく、倉庫が増設され砦の様になっていた。新しい道がさらに南へと伸び、宵闇の中を乗合馬車が近づいてくるのが見える。屋根には荷物だけでなく乗客も二人ばかり上がっている様だ。  何もかもが新しく変わっていく駅で、この貴賓室だけが時代に取り残され、古びていた。  カギを探すために管理業務総則を繰っていた駅長の様子を見る限り、この四十年間、プラットフォームの鉄柵は開けられたことはなく、部屋どころか階段に足を踏み入れた者もいなかったのだろう。 「緑が増えたな」 「アレフ様が天候の管理をやめてしまわれたので、ロバート様が入植者を募って植林させたんですよ。井戸が枯れては、羊も領民も干上がってしまいますから」  家具にかけられたホコリよけの布を取り払いながら、ドルクがやんわりと皮肉で返す。 「よく金があったな。確か植林を条件に入植した者からは税を取らず、育った樹木の本数に応じて報奨金を与えるということになってなかったか?」  窓から見渡せる範囲でも、小さな城の一つ二つ軽く建ちそうな金が注ぎ込まれている。かつては貧弱な放牧地しかなかった乾いた大地に、森と……並木に囲まれた麦畑が生まれていた。 「眠っておられた間に、色んなことがあったんですよ。今のクインポートをご覧になったら、きっと驚かれますよ」 「驚く……か」  目覚めてからまだ一日。所領のハズなのに見知らぬ異国を旅している気分だった。クインポートの代理人を喪い、迎えの馬車をよこすことができず、駅まで歩かされた不便も、行き先の事情がまったく分からない事も、なぜか不快とは感じなかった。  どこか面白がっているようなドルクの表情を含めて、この状況はむしろ楽しい。  言葉にすれば“新鮮”か。 「こちらにお掛け下さい。馬車の手配に、もう少しかかるでしょう」  振り返ると、花の木彫が施された背もたれに、ドルクが手をかけていた。 「足は疲れてない」 「窓際にずっと立っておられますと、道行く者達が怖がります」 「そう……か」  かつてはクインポート以北の豊かな地域ですら滅多に見られなかった、定員超過の乗合馬車に興味はあったが、乗降客の観察は諦めるしかなさそうだ。  座りかけて、ふと誰かに呼ばれた気がした。城を護る衛士やコウモリ達に意識を飛ばしてみるが、特に異常はない。もっと別の、心話にもならない気配のようなもの。 「……馬車が整うまで無駄に待つぐらいなら、夜通し歩いた方が早くないか?」 「また、ヒトニグサどもが足に絡んで来るかも知れませんよ。それにクインポートは逃げません」  確かに、この程度の遅延など、バフルまでの遠い道程を思えば、気にするほどのものではない。いつしか気配そのものも階下の賑わいに紛れて消えてしまっていた。 「くそったれぇ」  猿ぐつわの下では悪態もうめき声にしかならない。死刑宣告に続いて処刑方法を得々と語る元同僚をにらみつけようにも、感覚がなくなるほど堅く縛り上げられ床に転がされている身では顔を上げるのも困難だ。手足が壊死してないのが奇跡に近い。いや、飲まず食わずで七日目。まだ意識がはっきりしている事に、彼女自身が驚いていた。  吐き気をもよおす悪臭は、この数日間に垂れ流した彼女自身の汚物。尿が染みこんだ聖女見習いの法服は、寒い時期でなくても容赦なく体熱を奪っていった。悪臭のおかげで性的な暴行を免れたのかも知れないが、そんな事は慰めにもならない。  むしろ手を出してきてくれた方が、殺して逃げる機会もあろうってモンだ。  こんな事なら浄化や破邪の術ばかり修行せず、精霊魔法も覚えておくんだった。風や火の術が使えれば、手足の綱を断つことや、燃やすことが出来たかも知れない。印も結ばない中途半端な回復術だけでは、いまに体力も気力も尽きる。  いや、精神力が切れる前に、火刑台で煙に肺を焼かれて息が止まるのが先かな。  手と口さえ自由なら、耐火呪の一つも唱えて、見物に来たやつ等全員が、悪夢にうなされるような死に様を見せてやれるのに。ただれた顔でにらんで、一人ひとり指差して名を呼んで、二度と忘れられないような呪いの言葉を吐きかけてやれるのに。 「なんで、逃げなかったのよ、父さん」  ヤバいのは分かってたはず。モル司祭にあおられた町の人が館に押し寄せるずっと前から、身の危険を感じていたハズだ。  商会の旦那連中が勝手に街を広げはじめて、事務官たちがどんどん辞めてって、もう誰も父さんの言うことを聞かなくなって……邪魔にされて憎まれてたの、分かってたはずなのに、なんで館に居続けたんだろう。  大事なご主人様のため?  何にもしてくれないのに、マイロード? 笑っちゃう。  眠ったまんまの吸血鬼より、そのヘン飛んでる蚊に頼る方がずっと気が利いてる。  頬骨が砕けて目が潰れるまで殴られて、手足の骨も肋骨も砕かれて、血ヘドと一緒に吐き出した最期の言葉がマイロード。目の前で実の娘がブン殴られて踏みつけられてたってのに。  まぁ、その後、大暴れして父さんを殺ったヤツらをボコったせいで、縛られて、牢屋に転がされちゃってるんだけど。  あいつらすっかりブルってたな。一人ぐらい殺しちゃったかな。死んでてほしいな。でなきゃ、死んでも死に切れない。 『明けない夜はない』か。  夜が明けたらあたしは処刑される。  明けない夜があるのなら、あたしはそっちの方がいい。 二 クインポート  行く手に見えてきた石壁は、アレフの記憶にある首都バフルの城壁より高く長かった。その防壁の向こうに高い建物が幾つか見える。見覚えのない家紋を染めた旗がそれぞれにひるがえっていた。旗の全てに黄色い吹流し……他領との交易許可の証がついているという事は、クインポートの町は豪商と呼べる者たちが集い、楼閣の高さを張り合うほどに発展しているということか。  馬車が二つの尖塔をもつ南門をくぐると、見覚えのない美しい通りが姿を現した。四つの車輪は石畳の上を滑らかに進み、焼きレンガで造られた建物の窓には板ガラスがはまっている。朝の気配がのこる煙臭い空気の中を行き交う人々は、整備された歩道を歩き、黒塗りの馬車に注目することもない。港へ向かう道に目をやったとき、朝市のなごりと思われる露店と人の多さに、大都市キニルに迷い込んだような錯覚を覚えた。 「広場に人が集まっているようです。少し遠回りして代理人の館に向かいます」  手綱を操るドルクの言葉に、坂の中ほどにある広場のほうを見ようとしたが、すでに遥か後方だった。 「何だと思う?」嫌な予感がする。 「……火刑台の様でした」 「人が焼け死ぬところなど、見ても気がめいるだけだろうに」  町は美しく立派になっても、住んでいる人の心はそうでもないらしい。  西の高台にある代理人の館が見えてきた時、さらにその思いは深くなった。 「これは……」  馬車を止めたドルクが絶句する。打ち砕かれた門には無数の斧のあとが残り、庭の花木は踏み折られ、かつてはこの建物にしかなかったガラス窓もすべて割られていた。壊された扉の奥に広がるホールは竜巻が通り過ぎたかのように、書類と帳簿が足の踏み場もないほどに散らかり、古い血の匂いがかすかに漂っていた。  この光景があることを、すでに知っていた気がする。  目覚める直前、最後に見た悪夢と痛みはおそらく、ここで起きた現実だ。  不意な脱力感で、膝をつきそうになる。 「大丈夫でございますか。お腹立ちかも知れませんが、反乱を起こした者への処分は後まわしです、まずは」  違う、多分これは、守護が……不死の命を分け与えたしもべが、滅びに瀕して始祖の力に頼り蘇生しようとしている感覚。  広場の方に黒煙が見える。  意識を飛ばせば息苦しさと皮膚を焼く炎の熱さも感じる。  あそこで殺されようとしているのは生命の共有者。  名前すら知らない、おそらく術具による擬似的な闇の子だとしても、魔力の供給を断って見殺しにするわけにはいかない。  だが、どうしたらいい。どうすれば、今すぐ助けられる? 「火刑……なら水か」  ウンディーネ……いや、水場からは遠い。ならばシルフ。ヴァエルが擬人化に成功した大気の精霊を幾体か譲り受けた時、クインポートにもひとつ常駐させたはず。  貿易船を見守るよう命じておいた彼女は、まだ解体せずに居るだろうか。  アレフは踏み折られた枝を拾い、大気に干渉する魔方陣を描きあげた。  魔力をこめた瞬間、目まいに襲われる。やはり陽光の下で天候をあやつるのはキツイ。 「シルフィード!」  手を空に差し上げ、喚んだ。  何の反応もない……  目を閉じた時、指先を風が巻いた。 「来たか……」安堵で笑みがこぼれた。 「海上から風を集められる限り集めて、街の上空へいざなえ」  クインポートを包む大気が、海上から風を吸い上げ、強い上昇気流を生じさせる。雲が生まれ灰色に厚く伸び上がり日光をさえぎり、仮のたそがれをもたらした。 「ありがとう。これで、なんとか力を揮える」  大気を動かしてくれた精霊の労をねぎらい、あらためて雨を呼ぶ呪を唱える。待っていたかの様に大粒の雨が地面を叩き始めた。 「……雨だけでは消しきれないか」  まだ生命の共有者の痛みは続いている。だが、滝の様な雨が広場に集っていた見物人の大半を建物の中へと追いやり、館の前からでも火刑台がはっきり見えるようになった。  力を飛ばし火刑台の周囲に多量の熱を奪う魔方陣を組み上げる。すでに全身をヤケドしている身に、凍傷が少し加わったところで文句はあるまい。青白く輝く術の発動と同時に火が完全に消え、白い煙が雨の中をただよった。  雨の中、広場へと坂を下りていくアレフを見てドルクは慌てた。  火刑台に集まっていた野次馬どもは、不意の豪雨をもたらしたのが何者か気づいて逃げ散ったが、まだ残っている者がいる。一人は剣を抜き、もう一人は法服をきた司祭。  闇の中で不意をつくのならともかく、明るい場所で正面から近付くのは危険すぎる。もし破邪の呪を食らったら……。 「ええい、先陣を切らせていただきます」  腰の剣を抜き、半獣化する。  主を追い抜き、敵の注意を引きつけるために、左右に大きく振れながら坂を駆け下り、人にはあり得ぬ速度で司祭に切りかかった。  刃が届く寸前に、横の剣士に防がれた。  直後に裏返った声で司祭が呪を発動させる。 「しまっ……」振り向くと、光の方陣に包まれた主が道に倒れこむところだった。だが、なんとか消滅も灰化もせずに耐えておられる。  ならば、  次の破邪呪の術式が完成する前に、剣士を片付けて司祭を殺せばいい。  切り結んだ腕に力をこめ、剣士を弾き飛ばした。  そして司祭のほうに切っ先を向けようとして……一目散に逃げる背中が路地に消えるのを見て唖然とした。それを見た剣士も這うように逃げ出し、少し残っていた町の連中も一斉に建物に逃げ込んだ。  残ったのは、火刑台に縛りつけられ、顔も服もススまみれになった少女と、その前に立ちはだかり、近付いてくる主を震えながら睨み付けているアゴのとがった男。武装はしておらず呪の詠唱の気配もないから危険はなさそうだが、目つきが少々マトモではない。 「わ、わたしは、町の人に選ばれた新しい町長だ。も、もう、人はお前の家畜じゃない! 人のコトは、人が決める!」 「お前が新しい代理人になると?」 「私は、お前に血を吸われて喜ぶドレイになるつもりはない。お前に操られて圧制を布いていたものは排除した。ここはもう人の街だ。速やかに立ち去れ」  主が額に手を当てる。多分、男が言っている言葉の意味を判じかねておられるのだろう。 「私のしもべを……ブラスフォードを殺して、彼の娘をも焼き殺そうと『決めた』のは、お前だという意味か?」 「それは……だから、ここはもう人の街だ。速やかに」 「まぁ、いい。代理人候補だろうと反逆者だろうと」  不意に男の胸元をつかんで引き寄せた主が、無造作に首筋を噛むのを見て目をそらした。何が起きたのか一瞬わからなかったらしく、少し遅れて男が悲鳴を上げた。  日中に風を呼び雨を降らせ氷の術を使い、破邪の呪に身を焼かれた。多少なりとも言葉を交わす時間、渇きを我慢されたのが不思議なくらいだ。  けたたましい悲鳴と足掻きは多少小さくなってきたが、静かにはならない。“町長”はまだ意識を保っているようだ。尊敬には値するが、いま我を張るのは愚かしく無意味だ。戦う力を持たず仲間もいないのに、飢えた不死者と対峙するのと同じくらいに。  始まりと同じく唐突に町長が解放された。よろけながら逃げ去っていく後姿を見る主は、どこか残念そうだった。 「……折れなかったか」  驚いた。しもべには出来なかったという事か。  いや、それよりもまずは、  ドルクは積み上げられた柴とワラを蹴り崩し、綱を剣で断ち、火刑台から娘を抱きおろした。すでに娘の肌をただれさせていたヤケドは癒えはじめ、焼けた髪が徐々に色とツヤを取り戻していく。  娘の指にはイモータルリングがはまっていた。衛士たちに与えられる不死の指輪。  やせて垢と汚物にまみれた様子を見る限り、指輪の回復効果がなければ焼かれる前に死んでいたのかも知れない。 「代理人の館へ連れていきましょう。間もなく真昼です」  主がくちづけを与えても“町長”の心を支配できなかったのは、昼間だったせいかも知れない。雨も小降りになってきた。太陽が顔を出す前に地下の寝所に入っていただかなければ。  町の者の暴徒化は怖いが、さっきの派手な突風や雨、そして町長が上げた悲鳴に恐れをなして、しばらくは息を潜めていてくれることを期待しよう。  ドルクは意識のない娘を沐浴させ、略奪と破壊をまぬがれたベッドに寝かせた。ススと垢をこすり落としてみると、日に焼けた引き締まった肢体と蜜色の髪をもつ、十五・六のなかなか可愛い娘だった。意志の強そうな眉は父譲り。他は母親から受け継いだものだろう。暫定的な不死状態なら、体が冷えたところで風邪の心配はないが、一応毛布をかけてから浴室にもどった。  驚いたことに娘が着ていた服はほぼ無傷だった。織り込まれたミスリルの効果だろうか。これだからテンプルの装備は怖い。  各所に施された魔よけの紋に文字通り手を焼きながら、何とか洗濯をおえて裏庭の洗濯ヒモに通した。  洗濯物の周りを緩やかなつむじ風が舞い始める。久しぶりに主に名を呼ばれたのが嬉しかったらしい。この調子なら日が傾く頃には乾くだろう。  それにしても、砕けた扉と家具でとりあえず入り口を塞いだ正面ホールを通る度に、ため息が漏れる。 館の中を片付けるのは諦めた。割られた陶器とガラスを片隅によせ、足の踏み場を作るのが精一杯。町の者たちが運び去った置物やタペストリーといったすぐに換金できるモノより、床に散乱している紙の方がよほど価値があると、誰かが気づくまでほっておこう。  公的な記録をなくして困るのは、ここを襲った連中のはずだ。  出来る範囲の仕事を終えて、地下の寝所に降りた。  予想はしていたが、主は起きて机に向かっていた。この状況で眠っておられないことに正直ほっとした。 「面白いな」 「はい?」 「いや、皮肉といった方がいいのか」  ホタル火ほどに絞った灯の下に開かれている革張りの帳簿は、交易船に関する去年の記録だろうか。 「ファラ様が滅びて中央大陸が人の物になったから、東大陸が富んだのか」 「それは……極論かと」 「ぶどう酒と毛織物以外、ロクな産物がなかった貧しい流刑地とは思えない取引額だ。  帳簿に書かれている明細を信じるなら、ファラ様や他の太守たちが宝石よりも大事に抱え込んでいた細工師や織工、絵師に陶工に指物師……私がどんなに書簡を送っても、末の弟子さえよこしてくれなかった名だたる工房が、バフルとクインポートに集まっていることになる」  ページを繰る主の口元に、自嘲的な笑みが浮かんでいる。 「人同士の争いや街道での略奪が当たり前になった中央大陸から、平安を求めて東大陸に大勢の者が渡って参りました。その……毎年の様にアレフ様が送っておられた書簡が、彼らに渡航の決意をさせたのでしょう」 「それは違うだろう」  即座に否定する主を前に、ドルクは口をつぐんだ。書簡を渡航許可証代わりに握り締めてきた者達はいたが……それはわずか数名にすぎない。 「周りを囲む海を盾に、最後まで我を通したがる時代遅れなガンコ者の土地だからだろう。ここを本気で潰したければ、ファラ様がしたように瘴石と重水から作り上げた劫火で焼き尽くすしかない」  昔話が本当なら  ここは、ファラ・エル・エターナルがもたらした平安を最後まで受け入れず、何もかも焼き尽くされた反逆の大地……土の中にいるという目に見えない生き物までもが死に絶え、何千年ものあいだ一本の樹も生えない不毛の大陸だったという。  ならば船を作って逃げることも叶うまいと、時おり反抗的な人々とその血縁者が、半ば捨てられるように送り込まれたとか。  このクインポートの周囲に広がる始まりの森。  あの木々の根には一つづつドクロが抱え込まれているという伝説もある。それだけ多くの罪人が野垂れ死んだという意味かと思ったが、そうではないらしい。  人の力で、雨に流される土を押しとどめ、草を育み、木を植え……クモの糸でジュウタンを織るような、気の遠くなるほどの手間と時をかけて、人が住める土地を少しずつ増やしてきた。名も無き祖先達が成した偉業を誇る伝説だと教えて下さったのは、アレフ様のお母上様だったろうか。  北の空にかかる月と同じ色の髪を結い上げ、肌を守る黒いヴェールを指先で少し上げて、木陰で書物に親しんでいた美しい横顔を、いつしか主に重ねていた。  誇りなのだと言われても、骸骨を抱く森を不気味だとしかドルクは感じなかった。  手を抜けばたちまち雑木がはびこり、畑も村も森に飲み込まれてしまう故郷とは、風の軽やかさからして違う土地。世界で一番小さな乾いた大陸は、五百年近く過ごしてきた今も、ドルクにとって異郷だった。 三 ファム・ファタル  懐かしいけど見慣れない天井と木目を、ティアはしばらく見ていた。今までのことを全て夢だと思い込むには、梁のフシアナが三つばかり余分だ。ベッドから身を起こして、ここが館に勤めていた事務官の宿直室だと知った。部屋は荒らされてないけど、扉は壊されている。  少なくとも、館が襲撃されて父さんが殺されたのは夢じゃない。  服は脱がされてたけど、特に乱暴された形跡や痛みはない。  作り付けの棚に、白い布の小山があった。家出する前につけていたあたしの下着だった。もう小さくて着られないかと思ったら、無理すればなんとか入った。なんだか、この二年間、ちっとも成長してないとあざ笑われているみたいだ。  西日が射す窓の向こうに、風で揺れる法服を見つけた。枝に引っ掛けられているブーツに縄の跡が残っているのを見る限り、縛られて牢で過ごした日々も現実。見習いの身分を示す白い腰紐の焦げっぷりからすると、広場で炙り焼きにされたのも本当にあった事みたいだ。  少し迷ってから、靴下を握って窓を乗り越え素足で庭に降りた。そこそこ乾いているのを確かめて、軽くかかとのホコリを払ってから靴下とブーツを履く。クツ紐も燃えたらしいけど、物置に予備ぐらいあるよね。  灰色で地味で厚ぼったくて、ドレスとしてはまるでイケてない法服をかぶって銀の留金を止めたら、やっと普通の感覚が戻ってきた。 「……おなか空いた」  ここで働く人や、手続きに来た人を相手に、薄く切ったパンに茹で野菜や塩漬け肉や揚げ魚を載せて売ってた店が近くに……あ、もう商売替えしてたんだった。  よく考えたらお金も持ってない。  しかたない、何か金目の物を見つけて売っぱらうか、直接食べ物と交換してもらおう。  ひらりと窓を跳び越えて戻り、隣の部屋や父さんの部屋、昔使ってた自分の部屋を探してみたが、目ぼしい物は残ってなかった。  普段は上がっちゃいけない事になっていた二階へ行ってみようとホールに出た時、散らかった紙の間に広がる黒い染みが目に飛び込んできた。 「なんでよ……」  あんなバカ親父のために、どうしてあたしは泣いてるんだろう。涙をこぶしでぬぐって、さっきの続きに取り掛かろうと顔を上げたとき、階段の前に若い男が立っているのに気がついた。 「あんた、だれ?」  あっちゃー、もう二階も物色されちゃった後か。なんとか盗品を横取りできないかな。一応ここの娘だし、泥棒の上前はねる権利ぐらいあるよね。ゴネたら軽ぅくヒネっちゃお。あ、でも、なんかすごく申し訳なさそうな顔してるし、これは脅しつけるだけで言うこと聞いてくれるかも。 「本当にすまなかった」  おっと、脅す前に謝るなんて素直じゃない。ていうか、まだ質問に答えてもらってないんだけど。ひょっとして泥棒じゃなくて知り合い? ヤバい、記憶にない。まさか、昔あたしが小遣い巻き上げた近所の子……じゃないよね。年上っぽいし。うわ、沈黙が痛い。 「この町にこんなイイ男はいたかなぁ。でも顔色悪いわね。  まるで……ヴァンパイアみたい」  こら、なんで黙って目を逸らす。ここは笑うか怒るか突っ込むところ…… 「ひょっとして、マジ?」  言ったあたし自身が驚くほど、低い声だった。 「……遅いじゃない。父さん、ずっと待ってた。  殺された瞬間まで!  あたしは、そんな父さんがキライで、だいっキライで。ぐれて、家出て……ホーリーテンプルの聖女見習いになったわ。あんたを倒したくて!」  そうだ、あたしはコイツから父さんを解放したかった。  だけど、間に合わなかった。 「……街の人達が父さんに乱暴して。  止めようとしたら、あたしも ヴァンパイアの手先だって決めつけて……」  たしか火焙りにされたはず。もしかしなくても、助けてくれたのはコイツか。火傷が治ってるのも、飲まず食わずだったのになぜか死ななかったのも、コイツのお陰だとしたら……理屈はわかんないけどツジツマは合う。 「イチオウ言っとくわ。 あ り が と う !」  でも、素直に感謝なんて出来ない。 「で、何が欲しいの? やっぱ、あたしの血? いいわよ。好きにしたら」  首筋を噛むなら体はくっつく。そして食事にどれくらいかかるのか知らないけど、確実に動きは止まるし油断もする。心を支配される前にホーリーシンボルの一発ぐらいぶちかませるはずだ。  たとえ滅ぼした直後に、コイツの後ろに影のように控えている従者に刺し殺されるとしても、かまわない。 「ティア……さん アレフ様はただ、あなたのお父上の……」  父さんがなんだっていうのよ、このヒゲおやじ。父さんのバカげた忠誠のお返しに、あたしを助けてやったとか言いたいわけ?  あ、違うか。  謝ってた。それに今も顔は伏せられたままだ。父さんを死なせたお詫びに助けてくれたのか。もしかしなくても、ものすごくあたしに負い目感じてる?  ……これは、ちょっと作戦変更した方がお得かも。  えっと、父さんはコイツのことをどう言ってたっけ?  まじめとか、魔導の研究がどうのとか、学問好きとか、教会の理解者……なんつー物好きな。ということは私への敵対心は……最初からないか。  とりあえず、さりげないお世辞で探り入れてみるか。 「わかっ……てる。そのキレーな顔に書いてあるもん。テンプルが言うほど悪い存在ってツラじゃないもん。人は殺さないって父さんに聞いていたし……」  えっと、コイツの負い目を最大限に利用できる要求ってなんだろう。普通に考えたら金とか地位かな。でも代理人になるのはまっぴらだし……っていうか、いま落ち目だよね。バフルの城主が滅ぼされて、その跡を継ぐのかどうかも分かんない。もしかして金だの地位だのは、カラ約束になるんじゃない? 「よし! あんたにくっ付いてってあげる」  迷った時は、一時保留! あとで利子つけてがっぽり回収。  おっと何か言いたそうだけど、しゃべるスキはあげませーん。 「家はこんなだし、もうこの街にもいられない。テンプルのやり方も気に食わなくて逆らっちゃったし……私の居場所、もうどこにも無いんだ」  しおらしく、なるべく心細そうな声で言ってみる。  よーし、ほだされてる、ほだされてる。 「まあ 非常食だと思ってくれてもいいよ」  あ、少し怯んだ。よし、今なら反対されないよね。 「そうと決まったら、ちょっと旅支度してくるね」  これで、けってーい。  たしか背負い袋が部屋にあったはず。  走り出しかけて、空腹を思い出した。 「あ、何か食べるもんない」 「でしたら、台所に茹でたイモの残りが……」 「ホントに? イモが無事なら、塩も略奪を免れてるよね」  なかなか気が利くじゃない、ヒゲおやじ。あ、自分用の余りか。ま、いいや。腹ごしらえしたから旅支度だ。 「アレフ様、なんだか楽しそうですね」  ドルクに指摘されて、微笑んでいたことに気がついた。親を亡くして悲嘆にくれる娘に向けていい顔ではない。いや、健気におどけて見せたのは娘のほうが先か。怒り、敵意、哀しみ。めまぐるしい感情の動きの最後に、唐突すぎる好意の様なモノ……? 「気の強い人だ。アレフ様にタメ口を利くなんてネリィ様以外……失礼しました」  確かにネリィに髪の色は似ているが、“あんた”呼ばわりされた事は一度としてない。突然、心の中にまで飛び込んで来たのとも違う、奇妙な距離感。  そうか“見下されて”いたのか。 「それも当然か」  個人的な感情に囚われて現実から背を向け責任を放棄した。そのせいで、ブラスフォード親子を始めとするしもべたちが味わった辛酸を思えば、侮蔑されても仕方ない。ティアの他にも助けを求めた者がいるはずだが、結果的に見捨ててしまったのだから。 「確かにこの街に置いては行けません。身の振り方を決めさせる為にも、バフルまで連れていくしかないでしょう」 しもべに出来なかったとはいえ“あの町長”の記憶は読み取れた。ブラスフォードの圧制というのは、太守の承認が必要な港の大規模な改修や町の整備を差し止め続けた事を指す様だ。そのせいで生じたと信じる遺失利益と、街に投資した多額の資金を、町長を支援する豪商たちは諦め切れないらしい。  その恨みが解けない限りこの街でティアの身の安全は保障出来ない。ドルクが言うとおりバフルに連れて行くしか無いだろう……一応、本人の希望とも一致している。 「とはいえ……彼らも、一枚岩ではないか」  海から湿度の高い風を集めた時、港に停泊していた船と積荷に少し損害を出してしまった様だ。処刑はやりすぎだったのではないかと、逆恨みめいた抗議を船主から受けている町長の困惑が、取り込んだ血を媒介にして伝わってくる。  呪縛はおろか心話すら送れない、片恋の様な血の絆だが、これはこれで使えるかも知れない。読みとられる可能性に気づいてもいない者の心は主観的で正直だ。  確かに町長の言うとおり今のクインポートは“人の街”だ。だが人がアレフ以上の失策をすれば、強権的な手段で制圧せずとも、諸手を挙げて太守の支配を受け入れる時が再び来るかも知れない。  まずは風の精霊の加護を今後も受ける為に、こちらに譲歩してくるか、人の力だけでやっていくと突っぱねるか…… 「あくまで突っぱねるか」 「は?」 「“町長”を置き去りにして逃げた……司祭だったか。教会に金を出している商人の会合で吊るし上げを食らっている。もうすぐ、こちらに来ることになりそうだ。  この街の者は、私を滅ぼしてシルフィードを解体したいらしい」 「これまで貿易船を加護してきた彼女に、あまりの仕打ちですな。  その、一人で、ですか?」  「ドルクが弾き飛ばした剣士は腕を痛めたようだ。偽傷かもしれないが」  人狼が露骨に安堵のため息をつく。 「だが、あの光の術は厄介だな。陽光をやわらげる指輪と……雨水に力を持っていかれないよう、念のためにまとっていた精霊魔法の結界を貫いてきた」 「へぇ……ラットルのホーリーシンボルには耐えたんだ。腐っても始祖ね」  いつの間にか布袋を担げた娘が、食べかけのイモを片手に立っていた。  声をかけられるまで、気配を感じなかった。それに婦人の荷造りにしては驚くほど早い上に、少なすぎないだろうか。  ドレスや帽子や靴、様々な小物が限界まで詰ったチェスト数個に、化粧品その他の手回り品を詰め込んだカバンを、座席下の物入れや後背部の立ち台に、複雑なパズルでも組むように積み込んでいた、母やネリィの荷造りを何となく予想していた。 四 死なない者の殺し方 「心配しなくても、ラットルの力量じゃホーリーシンボルは一日一発が限度。もう食らう事はないんじゃない」 「ホーリーシンボル?」 「あ、知らないのか。寝てたから」  このティアという娘が露骨に向けてくる侮蔑。和らぐ日は来るのだろうか。  年長者には敬意を払え、などと説教する気はアレフにはない。かつて、三十倍どころか数百倍は長生きしている者達に若造呼ばわりされ、それでも負けまいと互して討論していた過去を振り返れば、何か言える筋合いでもない。  だが……ため息はもれる。  とはいえ、弁明の余地がない以上、ティアの態度を改めさせるより、合わせる方が賢明か。 「そのホーリーシンボルという術について、無知な浅学菲才の身を啓蒙していもらえますか?」 「あー、難しい言葉をわざと使って、あたしをバカにしてるでしょ」 「まさか」ばれたか。  対ヴァンパイア用の切り札なら、当の相手に極意を教えるはずがない。たとえもう、テンプルの者でないとしても、軽々しく奥義を口にはしないだろう。 「結び目を解く力よ」  答えなど期待していなかっただけに、ティアの言葉に驚いた。 「その体、触れるけど実体じゃないんでしょ。その証拠に影が無い。  物質世界に力を及ぼす為の道具って意味では生身の体と同じだけど、本体は精神世界にある。だから年をとらないし、その体を破壊してもすぐに再生しちゃうし、わずかな量の血で維持できる。違う?  ヤワな半実体だから、陽光ごときで焼けちゃうし、水の流れにもっていかれそうになる。そんな不安定な体と精神世界の本体を繋いで、なんとか存在させているファラの邪法を『結び目』に見立てて……それを術者の精神力で解いちゃうのがホーリーシンボル。不死化に使われた方陣を反転させた破魔の形が術の本質、だったかな」  遠い記憶をたどってみたが、ティアが身につけている法服の紋と、セントアイランド城の地下にあった魔方陣の共通性は見出せなかった。しかし、魔方陣は平面とは限らない。表に出ていなかった部分を図形化し反転させているのかもしれない。 「その辺にありふれてる力とか、物そのものに作用する術じゃないから」 「精霊魔法や陽の光と違って対術反射や物理結界では防げない……か」  雨の中、不意に大地から湧き出し、不死の身体を内側から焼いた白い光。細胞の一つ一つを分解される様な痛みと消耗。あれが“結び目を解く力”か。術の性質上、精神力だけでなく、本来は不死者に味方するはずの地の力も加味されていそうだ。 「術の原理は分かった。対処法は?」 「方陣の効果範囲から逃げるか、仕掛けてる術者を殺るぐらいしか、対処のしよう無いと思う」  なるほど、ホーリーシンボルの奥義を洩らしたところで問題は無いわけか。 「……ティアさんも使えますか?」 「使えるって言ったら……ビビる?」  ハッタリか本気か判別しにくい不敵な笑みを浮かべた元聖女見習いは、不思議と魅力的に見えた。 「それは、怖いですね」  人を捕食し続けてきた存在を前にして、わずかな怯えも見出せない。負い目からこちらが手を出さないと確信しているとしても、ここがティアのナワバリと言える生まれ育った家である事を考慮しても、何の対抗手段も無しで落ち着いていられるとは考えにくい。  世の中全てを見下す青臭い態度は虚勢だとしても、ラットルとかいう司祭より“使える”という自信は本物だろう。  何かが引っかかった。  ティアに教えられるまで、ホーリーシンボルの原理を、なぜ知らなかったのだろう。テンプルの者が使えるのは精霊魔法を応用した炎の術と、触媒を使った召喚術のみだと信じ込んでいた。だから、さっきは足元に出現した光の方陣を危険なモノだと思わなかった。  城に侵入した三人はホーリーシンボルの概念を持っていなかった。そういう術があるという知識を聖女は持っていた気がするが……結び目だとか不死化の術の反転といった術の本質に対する理解が、あの若い司祭には全くなかった。  ワナや結界や守護をかいくぐって寝所にたどり着いたとして、どうやって私を滅ぼすつもりだったのだろう。白木の杭でも隠し持っていたか、時間をかけて焼くつもりだったのか。  それとも…… 「ねえ、馬車の車軸にイタズラしてるヤツがいるんだけど?」  ティアの言葉で思考は中断した。彼女の視線は背後の窓の外に向いている。 「日が暮れる前にと、走って来たみたいですね。それにしてもセコい手を使う司祭サマですなぁ。借り物の馬車を壊されても困りますし、ちょっと注意してきます」  ドルクがカギを開け、窓を開け放った拍子に、残っていたガラスの残骸が幾枚か落ちて派手な音を立てた。それに驚いて振り向いた、妙に前歯が目立つ男。確か火刑台のそばにいた…… 「てっめぇ、ラットル。よくもあたしを焼き殺そうとしやがったな!」  若い娘の物とは思えぬ怒号と共に、金と灰色のカタマリがホールを突っ切り、窓を跳び越え、手にしていた布袋で司祭の顔を殴打した。 「なんで、ピンピンして……この化け物女!」  殴り倒された司祭が対抗して投げた石は、車軸のクサビを緩める為に握っていたものだろうか。それを顔に当たる直前に防いだティアの反射神経には目を見張るものがある。だが、 「あー、まだ半分以上残ってたのに!」  ゆでイモで衝撃を吸収したのは計算ではなかったらしい。  怒りに任せて振り下ろした足を捕まれて転んだあと、灰色の法服を着た者同士の取っ組み合いが始まった。いくら威勢が良いとはいえ、若い娘の身で大の男と格闘とは無茶をする。ドルクが助太刀に向かった時には、地面に置かれていた武器……おそらく破魔の紋を刻んだスタッフの奪い合いになっていた。  もしもの時は近くに居たほうが守護《ガード》の再生は早い。窓を乗り越え、ガラスの破片に注意して歩み寄った時、不意に司祭がうめき、ティアがスタッフをもぎ取って立ち上がった。 「裏切り者め。その回復力、やはり吸血鬼の眷属に成り下がったか」  司祭の非難はあながち間違ってはいないが、どうもティアのカンには触ったらしい。奪い取ったスタッフを高々と振り上げるのが見えた。 「誰が裏切り者よ、モルのオマケのくせにっ」 「操り人形が……食らえ」  司祭がベルトに挟んでいたガラス瓶をつかんだ。弧を描くようにあたりに撒かれたのは透明な水……いや、ドルクが怯み、数滴かかった手が熱湯を浴びたように痛む。もろに浴びたティアが顔はおおって悲鳴を上げた。水に念を込めた“聖水”とかいう攻撃呪か。だがこの程度のヤケドなら、回復呪ですぐに癒えるはず。 「熱いじゃないっ」  手にしたスタッフで座り込んでいた司祭を滅多打ちにしはじめたティアを見て驚いた。手加減など考えていない、殺意のこもった殴り方。仮にもラットルは元同僚ではなかったか。  うずくまった司祭が頭をかばう。その手にも容赦なくスタッフは叩きつけられ、嫌な音のあと力なくずり落ちた。あらわになった頭を突き砕く勢いで振り下ろされるスタッフを、あわてて後ろから掴んだ。 「ジャマしないで!」 「やりすぎだ。殺すつもりか」 「そうよ」  振り向いたティアは、当たり前のように言った。 「だってコイツ、あたしを殺そうとしたのよ。今だって、馬車に細工して事故らせようとしてたじゃない」 「……未遂だし、何も殺さなくても」 「なんで?」  不思議そうに聞き返されて、一瞬言葉に詰った。 「なんでって……理由はどうあれ殺人は重罪」 「ラットルはホーリーシンボルを仕掛けたんだよね。太守を害そうとした者は家族もろとも極刑じゃなかった?」  そういえば、そんな法もあったな。 「もう何百年も適用していない」  ナイフを隠し持ち贄として近づいた若者の首を、親兄弟ともどもクインポートの広場に晒したのは、統治を始めて一ヶ月目だったろうか。見せしめの効果より、反感という弊害の方が大きい上に、執行した側により痛みが残る無益な処置だった。  南の鉱山に送るか、血であがなわせるか……いっそ見なかった事にする方がまだマシだ。  這いずるように門から出て行こうとしている司祭を、今も見逃そうとしているように。 「ちょっと、離してよ。逃げちゃうじゃない」  ティアは全力でスタッフを引っ張っているが、やはり非力だ。先端に施された破魔の紋は熱いが、掴んでいられないほどでもない。もうしばらく離さないでいればティアも諦めるだろう。逃げていく司祭の背中に目をやった瞬間、不意にスタッフが軽くなり、同時に掴んでいた手に激痛が走った。  不敵な笑みを浮かべたティアが、空中で掴んだスタッフをくるりと回し、門の向こうへ走り出していく。 「なん……」 「油断なさいましたね。司祭も関節を極められてスタッフを奪われたんですよ」  馬車の車輪のソバにかがみこんだドルクが、苦笑していた。  しばらくして不満そうな顔で帰ってきたティアが、返り血を浴びてないことに心底ほっとした。あれだけひどく殴られても、あの司祭の逃げ足の速さだけは損なわれなかったようだ。 「ひとつ、聞きたいことがあるの……聖水が痛いんだけど、なんで? あれって、もったいつけたタダの水じゃないの? 眠っているうちに……噛んだ?」  首に巻かれた銀の防具を不安そうになでる。その左手に、血色の指輪がはまっていた。 「アレフ様が闇の子になさったのなら、陽の光に肌を焼かれますし、そんな防具はつけていられませんよ。そのスタッフを持つのも法服を着るのも、辛いと思いますよ」  馬車の点検を終えたドルクが安心させるように笑む。 「ところで、イモータルリング……その紅い指輪はいつから?」 「これは父さんが死ぬ前に……  げ、この形見の指輪のせい?  やだ、外れない」 「簡単に外れても困ります。貴女のような向こう見ずな方には必要な指輪だと思いますよ。まぁ、造ったアレフ様が滅びない限り不死身になったと思って下されば……」  ひとしきりあがいた後、指輪を外すのを諦めたティアに、なぜニラまれなくてはならない? 「いい手考えたわね。噛まなくても仮の眷族に出来る術具なんて。不死身の従者は欲しいけど心は繋ぎたくないってコト? 利用するだけ利用して、いつでも捨てられるように」  これはまた、ずいぶんな誤解だ。 「道づれにせずに済む……昼も動ける仮の守護を作る術具です。くちづけを与えても生身は生身。正式な闇の子に比べて弱い衛士を危険な地へ赴かせる時、身の安全を保障するための指輪。渡す目的は使い捨てとは真逆ですよ。ティアさんが心話を……私の何もかもを拒んでいるだけで、その気があるなら心は繋がります」  あの町長といいこの娘といい、クインポート育ちの者は独立不羈《どくりつふき》の精神にあふれすぎている。 「……あたしの心、読んでるの」 「時々」 「ヘンタイ」 「この流れでなぜ変態呼ばわりされるのか、理由がサッパリ解らない程度の読心など、気にする程のモノでも……それに、テンプルの者はヴァンパイアの精神支配に対抗する修行をしているのでは?」  急に娘の心が読めなくなった。特定の条件下で発動する自己暗示の一種だろうが、なかなか見事な芸当だ。 「その方が助かる……狭い馬車の中でずっと敵意を向けられても気詰まりです」  ドルクが裏手の小屋で草を食んでいた二頭の馬をひいてきてくびきに繋ぐ。陽も傾いてきた。そろそろ潮時か。今回は一人だったが、日が沈めばもっと大勢で押しかけてくるかもしれない。人の心に住む荒ぶる魔物が力を増すのも、闇の中だ。 「シルフィード、すまないが、また、船を見守っていてくれるか?」  風の精霊はマントを軽く吹き上げ、からかうようにティアの髪を巻き、港の方へ駆け下りていった。貿易商達に下らない嫌がらせをした所で、譲歩を引き出せないのなら意味は無い。何より金が湧く泉を埋めるのは愚行以外の何ものでもない。 「そのスタッフは後ろに……狭い車内に持ち込んでも邪魔でしょう」  ドルクにうながされて、しぶしぶティアがスタッフを手放す。太守と同席する以上、ある程度の武装解除は覚悟していたのだろう。  というか 「それは元々ラットルの物では?」 「それがどうしたの」  強盗の罪を指摘したところで、また予想外の事例か理屈を持ち出して来そうだ。この娘には、根本的な部分で当たり前の常識や倫理が通じない。それが、当人の資質によるものか、テンプルの教育によるものなのかは解らないが。 「いや、なんでもない」  見た目は可憐な無頼の者との道行きは、緊張に満ちたものになりそうだった。  ▽ 幕間 葡萄育む北の都 △ 〜メイド・コスプレ、却下のワケ〜  客たちが慌しく出て行き、薄暗い雑貨屋は貸しきり同然となった。仕方なく店内を見回していたドルクの目が止まったのは、ビンに詰められた優しい色の粒。赤、黄、緑、白…… 「糖蜜星ってんです。飴みたいにべトつかないしカビもふかない。旅のお供にいいですよ」  頼んだ茶葉の包みをカウンターに置いた店主が、いかにも女の子が喜びそうな砂糖菓子を棚から取り、オマケだとロウ引き紙に包む。値札を見れば買い求めた茶葉の倍の値。  媚びた笑みがぎこちない。  急ぎの旅の途上。  昼をやり過ごすのに立ち寄った、街道沿いのせまい町。窓を閉め切った箱馬車から降り立ったのが領主アレフ様だと、世界で一番貧しい大陸を封土とする太守だと、とおに知れ渡っているらしい。  同時にわたくしが吸血鬼の従者であることも。  御者台で姿をさらしていたから、当然か。  本来、アレフ様の“口づけ”を受けるべき町名主は、留守だった。数日前に首都バフルへ出立したとか。  身代わりを押し付けられたのは、やせた養女。下女同然の扱いを受けていた遠縁の娘。手を付けられずに帰された事も、町中のウワサになっているのだろう。  お気に召さなかったワケではない。今は血を必要とされていなかっただけのこと。  わたくしも夜通し馬車を操るため眠気覚ましの香茶を求めて、宿と定めた館を出てきたにすぎない。アレフ様の好みに合う贄を見繕いにきたのではない。怯える理由はないと……説明するまでもないか。  地下に光の入らぬ寝所を備えた館で少しお休みいただいたら、夕方には北へ向かって立つ予定だ。  考えているうちに、高価な砂糖菓子は黒い上着のポケットに押し込まれた。  店主に礼を言い、茶葉を小脇にかかえ店を出た。  注目と囁きに囲まれながら、土の道を歩き、素焼き色の館に戻る。  不当な好意を断りきれなかったのは、昨日から主と同席しているティア嬢のせいかも知れない。歳のわりに冷めて見える、金茶の髪をした見習い聖女。港町を差配していた代理人ブラスフォードの忘れ形見。  愛らしい顔立ちを台無しにする厳しい紺の眼。開けば辛らつな言葉が飛び出す歪んだ唇。だが、甘い菓子を味わう時くらいは、花の様にほころぶかも知れない。  門前で、土ボコリにまみれてしまった馬車を黒く磨きあげ、2頭の馬をわら束でさすっていた老人をねぎらう。それから、館の鋲打ち扉を開けた。  ティア嬢は灰色の法服を着てスタッフを手にしたまま、玄関ホールの壁にもたれていた。  奥から出てきた接待役と称する恰幅のいいエプロンドレスのご婦人に、遅い昼食を頼み、二階に上がろうとして、ティア嬢がついてこないのに首かしげた。 「お昼は召し上がられました?」  首をふるティア嬢に手を差し伸べる。 「ご一緒しましょう。ムサいひげヅラで宜しければ」  金茶の髪の娘をエスコートして2階のバルコニーのある部屋に入ったとき、懐かしさを感じた。40年前にも温かな娘の手をとり、よく昼のお相手をさせていただいた。  アレフ様に合わせ、夕べに目覚め、朝には横になっていらしたネリィ嬢。時たま昼過ぎに目覚められ、お食事に付き合いながら、貴婦人としての礼法やら教養を、僭越《せんえつ》ながらご指導させていただいた。  いや、比較しては失礼というもの。  仮にもティア・ブラスフォード嬢は、クインポート代理人のご令嬢。城暮らしに憧れる農家の娘とはワケが違うはず。  ネリィ嬢は日々の野良仕事で肌ばかりか髪も日に焼けて褐色の髪は少し色が抜けて……いや、小麦色の肌にかかる表面だけの金髪は、ティア嬢も同じか。鍛えられ引き締まった逞しい腕。農具や牛と格闘していたネリィ嬢と同じくらい、ティア嬢の手も硬くカサついている。  その手をいったん離し、背もたれが高いイスを引き、無垢材のテーブルに導いた。  接待役の婦人と共に白いテーブルクロスを広げ、中央にパンかごを置き、銀のフォークとスプーンを整えた。料理人が息を切らして運び込んだ寸胴ナベは、サイドテーブルに据えさせた。 「お手数お掛けしました。後はわたくしどもで致しますので、皆様はお休みください」  料理人とエプロンドレスの婦人を下がらせたあと、楕円のスープ皿に金色の上澄みをよそい、塩粒で味を調え、香草の葉をちぎって落としてから、ティア嬢の前に置いた。  なべの中にはこぶし大のバラ肉が浮かび、皮を剥いて割ったイモと細切りニンジン、乱切りのキャベツが沈んでいた。  小ツボに用意された調味料は、あら塩の他に、削ったチーズ、卵と油のソース、コケモモのジャム。  キャベツとイモはチーズ。ニンジンは卵ソース。肉は酸味の強いジャムというのも面白い。 「のんびり食べててイイの? ご主人様の昼の警護は」  スープをひとサジ飲んだティア嬢が、パンを浸しながら問う。 「買い物のついでに町を見てまいりましたが、のどかなものでした」クインポートと違って、この町の住人に反意はない「それに、わたくしがここに居る以上、地下の寝所には誰も近づけません」  この部屋にある、黒くいかめしい扉の奥にある階段だけが、アレフ様のもとに通じている。ティア嬢の背後、渦の形に細工された黒鉄のヒンジと、扉を埋め尽くす複雑な模様。あれらは入るべからざる者に畏怖を植えつける結界の方陣。  テーブルにつき、スープを飲んでみて感心した。材料をナベに放り込み煮込んだダケにしては、なかなかに美味。干しアンズを焼きこんだパンは昨日のものらしく少し固いが、十分に香ばしい。  からになった皿を一度下げ、ばら肉を乗せて切り分ける。コケモモのジャムを添えていると、ティア嬢が立って覗きにきた。 「面倒くさいから、いっぺんに入れちゃわない?」 「山盛りになりますよ。味も混ざるし。もし毒や異物が入っていた時の事など考えますと……関心しません」 「物騒なこと言うわね」  苦笑して皿をテーブルに置き、着席をうながす。とろける脂身に果実の酸味を添えて、やはり正解だった。赤ワインの水割りとの相性も良い。 「給仕、サマになってるじゃない」 「側仕えとして上がる前に、厳しく仕込まれましたので」  とはいえ、主が生身の客人を迎えた時以外、発揮する機会はなくなってしまった。思えば給仕も40年ぶり。手が覚えていてくれて助かった。  もう一つ、主の飲み物を用意する方は、今なお大事な役目だが……ワインを選んだり、果汁を冷やしたり、茶葉を吟味し新鮮な牛乳を調達していた頃とは違って、あまり心楽しい仕事とはいえない。  主がこれと選んだ者を、なだめすかし、説き伏せて館まで同道し、入浴させるついでに衣服を改め、身と心に凶器や毒物を帯びていないかどうか確認する。  理不尽な運命に、驚き怒り嘆き絶望する者達の、暗い感情を受け止め、吐き出させ、泣きつかれて諦め、抜け殻の様に大人しくなった頃合を見計らって、主の元に連れて行く。  何度くりかえしても慣れられない。  誇らしさも達成感も感じない。  贄がたとえ、罪深い者であっても、やりきれなさが残る。  考え事をしながら野菜を盛ろうとして、うっかり手にキャベツを落とした。  城に侵入した三人の法衣や銀のヨロイを脱がせ、銀のネックカードや護符を外した時のヤケドの痛みが、ふと指先に蘇る。 「もしかして着替えの手伝いもしてる?」  明るく問う声に、作り笑いを口に刷《は》き、首をかしげて見せた。そのまま野菜を盛った皿を置き、白いタマゴソースをかける。 「アレフって、自分では靴ヒモを結べなかったり、ボタンもはめられなかったりする?」  しばし野菜をむさぼっていたティア嬢が問い直す。口元はニンジンをあえた卵ソースで白く染まっていた。 「そんな事はございませんよ。いや、お着替えはお手伝いさせていただいてますが」  つまんないと口を尖らせるティア嬢に違和感を覚えた。どうもご令嬢という感じがしない。ネリィ嬢よりガサツに思える。男手ひとつで育てられたせいだろうか。 「あたしには無理だなぁ。野郎の着替え手伝うなんて」 「当たり前です、うら若いご婦人がそのようなこと」 「馬車は操れるけど、御者台には上がらせてくれないんでしょ」  主の命に関わる事柄に、ティア嬢の手を煩わせることなど考えられない。たとえ、テンプルの者ではなくなったと当人が主張しても、断崖の道でワザと馬を暴走させて海に突っ込まないという確信がもてない。 「じゃあ、助けてもらった恩はコレで返すしかないか」  ぐっと握りしめたティア嬢の拳に……第二関節や指の付け根、骨が透けて見えるはずの場所に、不自然なくすみがあった。  ネリィ様を思い出させた手の荒れは、鋤や鎌ではなくスタッフや剣の修練の成果。手の甲のタコは素手による格闘術を嗜《たしな》む者の証。 「拳で……でございますか」  そういえばクインポートで司祭相手に結構な腕前を披露していた。  イモを皿に盛り、チーズをかけながら、ウワサに聞いたテンプルの起源を思い出した。  教会が文字と数字を人々に広め、手紙や為替を扱うようになり、帳簿上の金の差を埋めるべく金貨を駅馬車で輸送するようになった時……賊の襲撃から金と大事な文書を守るために組織された武装集団が、テンプルの元だとか。 「馬車や要人の警護が、元来の生業《なりわい》でございましたね」 「研修期間は短かったけど……イザとなったら身を盾にする覚悟ぐらいあるよ」 「それは心強い」  冗談に紛らわせようとして……気を引き締めた。権勢欲や野心は、機会があれば心にはびこる雑草のようなもの。お父上が滅ぼされたのを好機と思う何者かに、アレフ様が狙われないという保障は無い。 「でもアレフ様には申し上げない方がよろしいでしょう。うら若い娘に庇われるなど、まず受け入れられないかと」 「実がないプライドなんて、とっとと潰しといた方が本人とまわりのためだと思うけどな」 「では、身体を張っていただく優秀な警護人に、手付けとしてこれを」 「あたしはハシタ金なんかで……」  ロウ引き紙から透けて見える、糖蜜星の柔らかな色彩に、不機嫌そうな顔がほころんだ。  イモを潰す手を止めて、菓子の袋を光に透かせている顔は、歳相応にあどけなかった。  それから数日後……。  小さな駅に住み込んでいる管理人一家に断って、ドルクが井戸を使っていた時……珍しくアレフ様が馬車から降りて、婦人に何か尋ねていた。  背の高さを聞いていらっしゃるようだが、はて?  一緒に降りて、油断なく目配りしているティア嬢の……いや、ティアさんの警護ぶりを少し眺めてから、息の荒い馬たちに水を与えた。次の宿場町まで走らせても平気かどうか、馬蹄を検分していた時、不意に馬に蹴られかけて跳びのいた。 「法服は絶対に着替えないわよ」  ティアさんの硬い声に、馬たちは驚いたようだ。 「それもエプロンドレスにだなんて、ナニ考えてるのよ」  初冬の氷雨より厳しい声色。 「何って、先日の様な騒ぎを避けるためには随行者らしい服装に替えた方が何かと。つまり貴女の身を守るために」  馬より鈍感な……いや、図太いアレフ様は説得を試みておられるが、ティアさんは頷くまい。  平時ならば、いらぬ揉め事を避ける手段として、地味なドレスをまとうのは正しい方策だ。  しかし生存率を上げたいのならミスリルを織り込んだローブ以上の装いはない。あざとい言い方をするなら、生きた盾としての性能が上がる。 「あんた、バカでしょ?」  今は非常時。ティアさんの言い分が正しい。心話で助力を求める主に、笑って首を横に振って見せた。  そして、ティアさんを使って  ▽ 第四章 葡萄育む北の都 △ 一 トラブルメーカー  クインポートを出てから起きた最初のモメ事に関しては、完全にこちら側の落ち度だ。馬を換えるために止まった駅で、手洗いに行きたいと言うティアを単独で行動させてしまった。ずいぶん時間がかかるとは思ったが、うら若い女性の様子を便所まで確かめに行かせるのは、はばかられた。  複数の大声。  そして 「すぐに御出立を。テンプルの聖女見習いが武装して暴れております。近くにアレフ様のお命を狙う司祭が潜んでいるかも知れません」  興奮した駅長が早口でまくしたてるのを聞いて、やっと事態を悟った。ティアは法服を見とがめられて駅の職員や乗降客に囲まれ、戻りたくても戻れなくなっていた。  急いで迎えに行き、彼女は連れだと説明したが、人垣は解けない。ティアの傍らに立って肩を抱き、マントで包むようにして彼女に害意が無いことを見せて、やっと連れ戻すことが出来た。  ただ、一つどうしても解せない事がある。 「用足しに行くのに、なぜスタッフを持っていった?」  個室でも手を洗うときも、長物《ながもの》は邪魔でしかないはずだ。 「こういう時のタメよ。得物がないと不安でしょ?」  そのせいで、“こういう時”になったとは考えないらしい。  いや、武器を持っていなくても、テンプルの法服や鎧をまとう者が太守に近づけば騒ぎになって当然か。不死者を倒す為に訓練された者の証だ。法服に縫い付けられた破魔の紋ですら、触れれば冷たい肌を焼く。 「“こういう時”を招かないための、替えのドレスは?」 「そんなもの無いわよ」 「……まさか。  それでは、その布袋の中身は」 「んーと、下着ふた組と水筒、もしもの時のハーブと包帯。でもって火口箱にロープに、そうそうランタンがあったんだ。ホヤにヒビ入って、カサつぶれてるけど。 あのさ、次に止まったときアブラ買いたいんだけど、いい?」  ずらりと並べて見せた袋の中身は、およそ女らしくない……まるで辺境の地へ向かう開拓民の様だった。身だしなみを整える物と言えるのは、クシと薄くなった石ケンのみ。  着替えが無いのなら仕方ない。  次の駅からは、ちょっとした買出しや用足しにも、ドルクを付き添わせた。それでも、馬車を止めるたび、ティアの周りでモメ事は起きつづけた。バフルに近づけば近づくほど、彼女がまとう法服への反感は高まっていく。  小さな駅を住み込みで管理している一家から、古着を一枚買い取って与えようとしたが、ティアに拒否された。黒無地のロングドレスにエプロンという装いなら、身の安全を図れると思ったが……使用人めいた地味な衣装は、大きな町を差配していた代理人の娘のお気に召さなかったらしい。 「今度は何をやらかした?」  道端に止めた馬車に一人残っていたアレフは、危急を知らせるドルクからの心話に対して、思わず声で問い返していた。  それにしても、あと一日で北の都バフルに着くとはいえ、真夜中の街道はさすがに人通りが絶える。今止まっているのは駅ではない。およそモメ事など起こりえない……生き物といえば風にそよぐ草しか見当たらないグラスロードのただ中で騒ぎを起こせるとは。  これはもう、一種の才能かもしれない。  とにかく馬車を降り、急いでと呼ぶドルクの方へ向かう。月明かりの中を舞う奇妙な鳥と、全身に火をまとった犬のような生物に囲まれたティアを見て、立ち止まった。 「それは……なんだ?」 「ピエロバードとファイアドッグよ」  犬の横っ面をスタッフではたきながら、ティアが叫ぶ。では、これらもテンプルの者によって異世界から召喚された生き物たちか。 「アレフ様、すみませんが氷の呪を……」  いきなりそう言われても、ノームに羽根が生えたようなピエロバードも、草を焼いて走る火の犬も動きが早い。その上、草に燃え移った炎はドルクとティアを分断し事態はどんどん悪くなっていく。一体一体の周囲に魔方陣を組んでいては間に合わない。  だからといって火刑台の時の様に全てに術をかけて、二人の蘇生と回復はイモータルリング任せでは一体でも仕留め損なった時の対応が……  そうか、イモータルリングを中心に防御結界を組んで装備者を保護してから術を使えばいいのか。  元々魔力を中継する術具。我が身を結界に包むのと同じ要領で出来るはず。  目を閉じて意識を不死の指輪に飛ばす。指輪のまわりに対術障壁を巡らせてから、ここで動いているモノ全てを囲む大きさの魔方陣を組み、熱を奪う呪を唱えた。  発動と同時に空中の水分が白い霧に変じて、周囲を薄ぼんやりとした優しい月明かりに包む。奇妙な鳥たちが地面に落ちてつぶれる音と同時に、炎を失った体の奥で儚く消える犬たちの生命を感じた。どちらも穏やかな景色には似つかわしくない感触。心の奥が軋む。 「へぇー、意外とやるじゃない」  霜をまとった死骸をスタッフで突いているティアに、聞かずにはいられなかった。 「なぜ、そんな哀しい生き物たちを放置する? そもそも、何のためにテンプルは異界の生物を召喚する?」 「あんたを倒すため」  スタッフをまっすぐ向けてくるティアの前に、ドルクが立ちふさがる。 「そうやって、従者や使い魔に守られているヴァンパイアを、精鋭とはいえ少人数で倒すなんて無理だもん。護衛を誘い出して守りを手薄にしてくれる、使い捨ての味方が要るわけ。野に放たれたコイツらが家畜や人を襲ったら、城の衛士を派遣しなきゃならなくなる。城の中にコイツらを召喚すれば危ないペット達や残った護衛の手もふさがる。今だってあたしとドルクを足止めしてた。馬車に残ってたのはアレフ一人……  暗殺には絶好の機会だったでしょ」 「確かに……うまいやり方だ。手段の汚さはともかく」 「この程度で汚いなんて言ってたら、バフルじゃ気絶するわよ。多分、すごくエグい事してるハズだから」  思わず北の地平に目を向けていた。ここからでは街の灯など見えるはずなど無いのに。  いつもなら明るく感じる北の空が、不安のせいか暗く見える。 「あたしも実際に見てないから、行ってみないとモルが何やったかはハッキリ言えないけど。急ぐんでしょ」  先に立って馬車に戻るティアの背中を見ながら、もう一つ疑問が湧いてくる。 「その、テンプルの術や、戦い方を……なぜ私に教えてくれる?」  テンプルに居場所は無いと言ったものの、彼女は外見も中身もかたくなに聖女見習いのままだ。不死者を滅ぼすのが存在理由なら、奥義を宿敵に明かすのは裏切り行為のハズ。 「……聞かれたから。っていうか、教えて欲しいから聞いたんじゃないの?」  振り返ったティアに真顔で問い返されて、混乱する。どうも何か根本的な部分で規範が違う。その違いが何なのか……答えを知っているのに理解できない。そんな歯がゆさを感じていた。 二 グレープヒル  車窓の景色から、いつしか暗い針葉樹や天を突く細い木々が消えていた。  今は横広がりの明るい広葉樹ばかりが目立つ。  朝の光の中、地平線にせりあがってきた丘は、ブドウ畑が織り成す細やかなシマ模様でおおわれ、影を落とす雲の形すら違って見えた。  グラスロードの北端、首都バフル直前の最後の駅は、付近の醸造《じょうぞう》所から集められたワインだるを一時保管する、赤レンガの倉庫に囲まれている。  すでに知らせが行っていたらしく、四頭立ての大型馬車と、黄色い布ヨロイに黒ガネの細板を縫い付けた、遠目にも目立つタテじまの護衛が数人、駅の前に待機していた。 「ドゥーチェスと申します。お迎えに上がりました」  アレフに最敬礼するつるりとした顔の衛士の首には、太守のくちづけを受けた者の証である赤いスカーフが巻かれていた。だが、その下にもう噛み傷は無いはずだ。血の呪縛を施した主が滅びても、その不肖の息子にまで変わらない忠誠を尽くしてくれる姿に目頭が熱くなる。  だが、そんなドーチェスも同乗者の法服を見れば顔を強ばらせる。 「クインポートを守って殉職したブラスフォードの娘だよ」  この説明をするのも飽きてきた。危険が無いことを示すために、人目がある時はティアの肩を抱いて出るのも、その度に彼女が身を固くする感触にも、いい加減なれた。 (ああ、ネリィ様と同じ髪の色。……仕方ないか)  年かさの者が発する、諦めたような苦笑交じりの心の声にも。 「バフルの街は無事……なのか?」 「街は、無事です」  安堵すると同時に、昨夜のティアの言葉を思い出す。 「街は……か」  ここからは専門の者に手綱を任せられる安心感か、御者台から解放されたドルクは、妙に明るい笑顔で扉を開けて待っている。だが、行く手に待つ惨事や責任を思うと、馬車のステップを登る足はどうしても重くなる。  いつもの様にティアを引き上げようとした手が、空を掴んだ。蜜色の髪をひるがえし、ドゥーチェスの前に早足で戻った彼女の、ささやくような声が聞こえた。 「モルは禁呪を使ったの?」 「私にはテンプルの者が言う禁呪が何か分かりません。ただ、あなた方の教義を否定するような邪法という意味でなら……」 「やっぱり」  荒っぽく座席に収まったティアの目は、朔の日の海より暗かった。その横の気遣わしげなドルクの表情といい……車内が広くなった気がまるでしない。まだ、真横に元気な敵意を感じていた前の馬車の方が開放的だった。 「禁呪、というのは?」  尋ねてみたが、今回はなかなか答えが返ってこない。そのうちに馬車は動き出し、前後を固める四騎が規則的な蹄の音を響かせ始める。背もたれの向こう、板一枚を隔てて立っているドゥーチェスらニ人の警護者の、晴れがましく浮き立つような興奮を、沈黙の中で感じていた。  この大げさすぎる出迎えは、街の者の不安を少しでも取り除くためのものだろう。まだもう一人の太守は健在だと知らしめる為の儀式ばった演出。  それにしても、一体なにを城内に召喚して父を滅ぼしたのか。まるで見当がつかない。少なくとも今まで見てきた異界の生き物より厄介な存在なのは確かだ。 「ホーリーテンプル……教会の今の本山がどこか知ってる?」  ティアが口を開いたのは、アレフ自身が質問した事を忘れかけていた頃。馬車が丘を一つ越え、行く手に首都を囲む一重目の土塁が見えた時だった。なにかイラついているような口調だ。  さて、オリエステ・ドーン・モルが最初に教会を開いたのは森の大陸北部にある古都スフィーだった。巨大な石造りの建物が街を圧するように建っていたのを思い出す。  だがあえて“今の本山”と問うならば……別の場所に移ったという事か。  血と共に取り込んだ若い司祭の記憶にあった学び舎は、やけに明るく白かった。正午の陽に輝く南向きのステンドグラス。そして四季折々の花を配した中庭とそれを囲む白い円柱の回廊。モザイクタイルの床と細密な壁画には確かな見覚えと懐かしさが…… 「セントアイランド城?」  夜の女王がしろしめす白亜の王宮。世界の平安を護る真白き要石。かつてネリィと永遠を誓ったあの場所で、テンプルの叙任の儀式は執り行われていた。 「ファラが作った賢者の石、いま誰が持っていると思う?」 「まさ、か」  ホーリーシンボルが不死化の際に使われる方陣の反転なら、その元になったビカムアンデッドの術式全てを、テンプルは解析していることになる。あとは触媒が……賢者の石があれば、不死者を作ることができる。 「禁呪とは始祖を作ることか!」 「あんたに施された術と違って、もっとおおざっぱで、いいカゲンで、ロクでもないシロモノだけど、ぶっちゃけて言えばそう」 「大雑把な不死化?」  なんだ、それは。 「“なりそこない”って呼んでた」 一定範囲の者を一度に不死化させるの。力は分散するから、死んでから復活するまで時間がかかる。停滞の魔方陣も無く保護の呪も無く放置されるせいで、肉体の一部は腐って、特に脳は取り返しのつかない事になって……けど、ぱっと見は生前のままだから、ダマされて……助けようと手を差し伸べた者を噛んで、どんどん殖えて、収拾がつかなくなる」  強くなり始めた陽光を防ぐ為、ドルクが黒いカーテンを閉める。にわか作りの夜の中で陰惨な想像が広がった。 「いくら捨て駒とはいえ、指示を聞かないのでは味方といえないだろう」 「“なりそこない”は見境なしに動くものを襲う。けど、破魔の紋を身につけた人間には噛み付かない。理性は壊れて本能もおかしくなってるけど、脊髄反射だけは残ってる。おとついだか、うっかりネックガードに触って手を引っ込めてくれたおかげで、危うくあたしが袋ダタキになりかけた時みたいに」 「あれは……」根に持ってたのか。  車輪の音が硬くなっていた。  草原に刻まれた土のワダチから、石だたみの道にさしかかったようだ。 「不完全な不死化だから、そんなに長生きはしないと思う。数ヶ月もすれば完全に腐って骨になって……でも、そんなんがあそこにうろついてたら、みんな落ち着いて眠れないよね」  ティアの視線の先には、北東の丘にそびえる灰色の城館があった。  周りを囲む背の低い果樹園には最初にこの大陸に植えられたブドウ樹の直系を始め、改良を重ねて生み出された全種類のブドウ樹がひと畝ごとに植えられ、ワインの試作品が何種類も作られていたはずだ。  だが、今は働くものの姿は無く……よく見れば城の窓という窓全てが、外から板でふさがれ、荒んだ空気を漂わせていた。 三 バフルの代理人  果たして馬車は、“なりそこない”がまたウロついている城ではなく、街の大通りの先にある、区画ひとつを占める石造りの館に向かっていた。  道端で立ち止まって馬車を見物している人々の、歓迎するでもなく嫌悪するでもない、期待と諦めの混ざった中途半端な沈黙は、居心地が悪い。  四階建ての建物に囲まれた正方形の中庭へ入る直前、周囲の道に並ぶ数十台の馬車に気づいた。ため息がもれる。ある程度予想はして、クインポートからずっと何も口にしては来なかったが…… 「半分くらい、イモータルリングでゴマ化せないものかな」 「衛士はともかく代理人はダメでしょう」  互いの信認を得るために血の絆を結ぶ儀式。覚悟や能力を試すのはこちらだが、間違いなく彼らも比べてくる。力が、そして資質が、どれくらい父より劣るのかを。  中庭を囲む全ての窓に黒い紙が貼られているのを見れば、夜まで待ってくれそうに無い。車寄せを覆う日除け布の向こうに立っていた出迎えの者は五人。中央に立つ、葡萄茶色のドレスをまとった紅いスカーフの婦人の厳しい顔を見るかぎり、既に比較も落胆も始まっている様だ。  ドゥーチェスらが立ち台から降りてステップを固定し、ドルクが馬車の扉を開いて先に降り、周囲の安全を確かめて降車をうながす。 「道中、嫌な思いをさせて悪かった。これで最後だ。この先は私の想い人だと誤解させなくても身の安全を保障できるはずだ」  降り立つ前にティアの肩を抱き、耳元にささやいた。 「どうかなぁ。それに、まだ貸しはたっぷり残ってるんだけど」  今回は肩に触れても反応がない……興味深そうな視線を出迎えの者達に向けたままだ。この八日間、同行していたにも関わらず、この娘の考えている事は未だ良くわからない。 「アルフレッド・ウェゲナー様ですね。わたくしはお父上ロバート・ウェゲナー様にくちづけを賜り、このバフルを任されておりましたイヴリン・バーズと申します」  凛とした声だった。ティアの法服を見ても全く動じない女丈夫と、父が遺した家臣団が最初の相手か。  四十年の間に街が様変わりしているのも、館に馴染みが無いのもクインポートと同じ。町長の時の様に相手の領界に踏み込む愚はもう犯したくない。イヴリンの知識と忠誠心はすぐにでも欲しいが……今は硬質の意志に魅了の力も弾かれる。  陽光の入らない部屋でなら、術がかからない相手にも、少しは優位に立てるだろうか。 「父が滅びた後もよく街を守ってくれた。その事に関してはどれほど感謝の言葉を並べても足りはしない」四人の取り巻きから引き離せば弱気を誘えるか?「父の方針は出来る限り踏襲したい。詳しいこと知るために、出来れば落ち着ける場所で……その、思い出すのは辛いかも知れないが」 「残念ですが、そのようなお時間は今、お取りできません」  これは、つけこむスキを作るどころか……くちづけ自体を断られたか。 「深刻ぶった顔で見え見えの芝居しても、この人達の心は掴めないと思うけどなぁ。それに、どうせ噛んだらバレちゃうよ。館の周りに止まってた馬車の数見て、舌なめずりしてたの」  全ての思惑と体裁をあざ笑う言葉を横から浴びせられ、驚いてティアから手を離す。いや、接触したからといって人は心を読めないはず。指輪を介して覗かれた、か? 「父を……いや、主を喪った者達の心痛を思えば、おのずと」 「そうかなぁ、目の前にご馳走が五つも並んでて、内心うれしくてたまらないクセに」 「何を言って……」  無邪気を装ったティアの笑みから目をそらす。連れの非礼をどう詫びるか考えながら、イヴリンとその横に並んでいる男たちの、こわばった顔を見つめた。  無意識に、五人を品定めしていた事に気づかされる。彼らも比較しているのだろうが、こちらも比べていた。それも美味しそうか不味そうかという失礼にも程がある基準で。  不意に、さっきまであった力を受け付けない壁のような意志が消えているのに気づいた。今なら視線を捕らえるだけで簡単にイヴリンらを魅了できる。  考えてみれば、今日、この館に集っているのは、血と引き換えに権力を望む者たちばかりだ。既に承諾は終わっている。あとは……魅了し、崇拝と悦びを心に刻んで、数口分の血と記憶を取り込めば、感覚と意識を共有するしもべとなってくれる。頑なな抵抗など、元々あるはずが無い。  扉の向こうに感じる気配の多さを考えれば、この五人を味わって、状況確認と気力の回復をはかっておいた方がいいだろう。長旅の疲れを取るためにも……いや、その為の出迎えのはず。太守としての資質を試したあげく門前払いする為に待っていたわけではあるまい。  たとえ、しもべにできなくても、血と記憶が得られればそれで十分。  ただ、イヴリンだけは違う気がする。  喉を包む紅いスカーフの結び目は、堅い誓いの象徴に見えた。 「イヴリン・バーズ。亡き主への義理を立てたいというのなら、喉へのくちづけは止めよう。その代わり手首を噛むが、いいか?」  茶褐色の瞳を見つめ、多幸感と快楽を与えながら、反射的な防御反応を引き起こさない様、アレフはゆっくりと近づいた。 「いえ……すみません。どうぞ」  震える手によって解かれたスカーフが、足元に落ちた。同時に心の芯がほどける。  これは……父と比較されていたのではない。  野心か。  生身の小娘に引っかかってウツツを抜かす“ぼんくら太守”なら、責任感や恩義で縛り、状況を有利に整えれば丸め込めると考えたのか。血と心を差し出さずに代理人の地位を守り、あわよくば補佐という名目で側近として権力を掴む計画……  もう少しで成功しかけていた。遠まわしの要求を拒絶された後、身代わりに差し出される予定だった黒髪の男を味わえば、彼女の目論見どおり、他愛無く誤魔化されていた気がする。  イヴリン達を守る強い意志を挫き、目論見を破ったのは……聖女見習いのはずのティアだ。  テンプルの者に魅了の力はほとんど効かない。対抗する手法が体系化され、訓練も受けている。それが可能なのは、どうして人がヴァンパイアの瞳に縛られるのか、理由と条件を知悉しているからだろう。  さっき、その条件をティアは言葉で満たしてのけたのか。  人は己が被捕食者だと自覚した瞬間、恐慌状態に陥り、簡単に支配可能な心理状態になる。あの言葉は、本音を読み取っての物ではない。私を捕食者だと自覚させる呪。相対するイヴリンの心に食われる者という自覚を鏡像のように生じさせる言霊。  今、イヴリンを抱きすくめているのは、ティアの言葉に煽られたせいだとも言える。自らの発言が引き起こした結果に無関心なフリをして、中庭の花なんぞを愛でている小娘の思惑通りになるのは腹立たしいが、すでにイヴリンらの心を弄ってしまっている。今更、食事を中止する訳にもいかない。  間近で見るイヴリンの上気した顔は、年のわりに愛らしく見えた。彼女の記憶に残る父のくちづけとは逆側の首筋を噛み一口だけ味わう。これだけでは、前菜どころか食前酒にもならないが、扉の先に待っている催事を取り仕切れるのは彼女だけだろう。肝心な時に貧血で倒れられては困る。  それに、イヴリンが飢えた“ぼんくら太守”の餌食にされそうになった時、身代わりとして差し出されるはずだった取り巻きがいる。  イヴリンを離す前に、予定が狂ってうろたえている黒髪の男を視線で縛った。 「彼女が落ち着くまでの間、当初の計画通りお前を味わうが、構わないだろう?」 「……はい」  半泣きでは良い返事とは言えないが、身を投げ出しても守りたいほどに思っていた女性が、贄となる様を見た直後ならば仕方ないか。力が抜けたイヴリンをその場に座らせ、男を抱きすくめる。量を過ごさないように、彼からも一口だけ啜った。  予想通り、ウィルとかいう見てくれが良いだけの若い男は何も知らされていない。  残る取り巻き三人は、まだ血の絆を結ぶに足る資格を持っていそうだ。  希少なワインと資料が“なりそこない”にダメにされていないか案じている醸造担当の技官。  城内に置き去りにした部下の終焉を、時間に任せるしかない事に苛立つ、衛士長。  バフル港から貿易船が出なくなってから二十年……いまや形だけになってしまった港湾の責任者。  全員正装だが、所望されればすぐに襟を開く覚悟はあると示すためにネクタイは外している。なら、期待に応えて一口ずつ味わってやるべきだろう。  去年が五年ぶりのワインの当たり年であった事。生き残った衛士はバフルの治安維持に携わる者だけで、クインポートを制圧するだけの人員など確保出来ない事。何年も浚渫《しゅんせつ》していないせいで、沿岸で漁をする小船ぐらいしか停泊できない、港のわびしい現状を把握し終えた時…… 「そろそろ、お気も済まれたでしょうか」  なんとか平静をつくろったイヴリンに声をかけられ、口元をぬぐって振り返った。 「ありがとう。一息つけた。……予行演習にもなった」  衛士長と技官が両開きの扉を押さえ、館へと招く。 「では、どうか供宴の場に」  風除室に足を踏み入れた時点で、館の中に偽りの夜が作られているのがわかった。窓は紙と布で二重に覆われ、明りは揺れるロウソクの炎がわずかばかり。  背後で黒い帳が下ろされ全てが薄闇に包まれた時、館が自分の領域だと確信できた。内部の間取りも、予定されている式次第もイヴリンの心から読み取ってある。もう気後れはない。  まとめていた髪を解く。人の目では顔の輪郭がなんとか分かるかどうかの暗がりだ。薄い色の髪なら夜目にも目立つ。これぐらいの演出は必要だろう。 四 信認の儀式  ガラスにもぶどうの意匠を施されている真ちゅうの扉に手をかけたイヴリンは、大きく息を吸い込んでから開いた。丸天井を支える円柱の間にひしめいている代理人候補たちが、一斉に注目する。  ロバート様を喪ったと感じた翌日から、矢継ぎ早に使者を派遣して、バフルに集める事が出来た代理人候補は七十八名。取りこぼしは元々代理人を置いていなかった南方の三つの村。以前にロバート様のくちづけを受け、今度はアレフ様の信認を得るために来た年かさの者から、新たに志願したと思われる年若い者まで、ここにいる者たちの背景も年齢もばらばらだ。  時には舞踏会や観劇も催される、絵画と彫刻に彩られた華やかなホールは、今は闇に沈んでいる。約三割を占める女性候補がまとっている胸元が開いたドレスも、黒でなければ紺や深緑。色彩の見分けはほとんどつかない。  壁際に飾った花の香りを楽しむ者も、会話を楽しんでいた者も居ない。彼らを滞在させていた宿には朝早くに使いの者をやったから、湯を使い正装に身を包むのか精一杯だったろうに、壁際に用意した焼き菓子や干し果物にもほとんど手がつけられていない。  死ぬはずの無い支配者。いや、既に死人だった太守の滅びを悼んで、約半月経った今もみな喪に服しているのかも知れない。  でも、今日からは……。  ぶどうのツルを象った金色の取っ手を握ったまま大きく扉を開き、体を半転させて背で押さえる。少し遅れてもう片方の扉がウィルの手で大きく開かれた。  銀の髪とマントをなびかせて入場する新たな主の姿を、イヴリンは陶然と見つめた。  これから始まるのは、太守と血と信頼の絆を結び、代理人としての権限を授かる儀式。いや、アレフ様にとっては権力をエサに集めた人間を味わう宴だろうか。  代理人候補たちの逃亡を防ぐように、イヴリンは扉を閉じ、閂《かんぬき》の代わりにその前に立った。 「平安と秩序を守る礎《いしずえ》となるために、万難を排して集まってくれた事にまず感謝する。中には遠路はるばる、幾日もかけてここへたどり着いた者もいるだろう。私自身、陽光をおして旅して来たが……整備すらされていない道行きの苦労は想像しても余りある。  携えてきた望みの全てを預けて欲しい。責任をもって受け止めよう」  心を揺さぶり頭の芯を甘やかな恐怖でしびれさせる視線が、言葉と共にこの場にいるもの全員に向けられているのがわかる。  首筋に冷たい牙が当たる瞬間を待ち望みながらも、原初的な恐怖に顔を引きつらせる者から、陶然とした表情でため息をもらし見つめ返す者、全てを拒むように目を逸らす者と、反応は様々だ。  緩やかな曲線を描いて二階へと伸びる階段を、ウィルに先導させてゆっくりと登ったアレフ様が、最上段から鮮やかな笑みを階下の者達に向ける。  一瞬、胸が高鳴るのを抑え、貴賓室へ入られる直前に受けた心話に応えて声を上げた。 「遠方から来られた方より三名づつ、アレフ様の元へ。謁見は数日来の話し合いで決めた……今朝方お渡しした封書で通知したとおりの順番を厳正に守って頂きますよう、お願いします。スノーコーストのフィッシャー氏、ニューエルズのベニエ女史、シノアスのポニック翁」  三人の男女が階段を登り始めるのを確認して、イヴリンは背後の扉を軽く三度ノックした。正式な代理人となった者がすぐに故郷や任地へ出立できるよう、手はずどおり馬車三両を中庭にまわさせる為に。  同時に、かなり待たされるはずの候補者たちが、騒ぎもせず、壁際の席につき軽食に手を伸ばし、所どころで談笑を始めるのを見て、胸をなで下ろす。  街や村の規模や歴史を根拠に、順位を先にしろと主張してくる代理人候補たちを、太守からの指示や各地からの要望が通じない期間を少しでも短くする方が人々の不安を抑えられると説得し、その為には遠方からきた代理人候補を優先させるべきだという合理性でねじ伏せた。今は収まっているが、時が経てばどうなるか分からない。  これほど多くの代理人を一度に信認するなど歴史上かつてなかった事。血を媒介として心を結んだ者が各地へ散る事によって確立される支配制度。その要となるアレフ様の食の細さが気がかりだ。一人から一口ずつとしても、かなりの量となる。一両日で済むかどうかも分からない。だが、急がなくてはならない。クインポートの様な造反は、もう許す訳にはいかない。  それにしても、太陽が中天にある間は地下で休息したいという主の要求を、どう皆に伝えたものか。  赤いスカーフを誇らしげに喉元に結んだ三人がざわめきの中を横切り、代わりに呼ばれたのは五人。おそらく午前中はこれで終わる。 「信じらんない。あいつに血を啜られる為に馳せ参じる人間がこんなにいるなんてね」  一時解散させるか全員この場に足止めするか、判断を迷っていたイヴリンは、聖女見習いの言葉に息を呑んだ。足早に出立した代理人たちと入れ替わりに入り込んだのか。 「さっきは残念でした。もうちょっとだったのにね、オ・バ・さん」  ふざけた口調で笑う小娘を、回廊の奥、東の翼へ伸びる廊下に押し込んだ。  イヴリンを認め、この町を差配する権限と引き換えに血をひと啜りして、その後何年も放ったらかしにした黒髪の太守と違い、銀髪の太守は生身の女に弱いと聞いた。ネリィや同行している聖女見習いの様な小娘に可能だった事が私に出来ないはずはない。元代理人と代理人候補を集め、彼らの血を啜らせてこの大陸を掌握する手伝いをしながら、自分たちの血だけは飲ませず、対等の立場で取り入る。うまくゆけば太守を言いなりに出来ると思った。 「あなた本当に聖女見習い? 私達をあの方に差し出すような真似をして」  このティアとかいう娘が私達をご馳走呼ばわりして、紡ぎかけていた対等の関係を砕いた。 「別にどっちがどっちの操り人形になってもイイんだけどさ、あんなんでも一応命の恩人らしいから。それに、オバさんが心配してたほど、色ボケじじいでもなかったでしょ」 「よく、私達がアレフ様を傀儡にしようとしていると気づきましたね」 「そりゃ、赤布を巻いた代理人が太守に名乗るなんて変だもん。身分詐称以外にも、なんか企んでるって考えるのがフツーでしょ。あのドゥーチェスとかいう警護主任を、アレフがつまみ食いしなかった時に、何となく」 「摘み喰いって」  ティアの物言いにイヴリンは苦笑した。 「だって見逃すには惜しいエモノだもん。バフルの事情知りたがってたし……タテジマの目を借りたら閉め切った馬車の中からでも外の様子が分かるし、何より優秀な生きた盾が手に入るのに」 「それは見当違い。テンプルの者らしい……いえ、中央大陸の者らしい発想ね」  この娘が法服を着て馬車に乗り込んでいた理由が分かった。この娘が真に警戒していたのはアレフ様ではない。 「海の向こうでは、金持ちの馬車が護衛なしで街道を走れば、ひと駅も保たない様だけど、グラスロードで賊の心配はありません」 「うん、木綿のドレス着せられそうになった時はトンでもないバカだと思ったけど……びっくりした。意外とみんなキチンとしてんのね。太守が滅ぼされたら好き勝手始めると思ってたのに。ただ、モルのクソ野郎が召喚した魔物には襲われたけど」  娘の言葉が生々しい悲劇の記憶をよみがえらせ、怒りと悔しさが心を騒がせる。収まるまで深呼吸が三回ばかり必要だった。 「ところで、代理人になっても、心を隠そうと思えば隠せる、よね?」  娘の指には血色の指輪がはまっていた。不死者と装備者の心と命を結び、生身の衛士にかりそめの不死を与える術具。アレフ様が作られた……確かイモータルリングとか。 「しもべが増えれば一人ひとりに御心を裂いてはいられないでしょうが、今はまだ」  時折、イヴリンを介して会場の代理人候補たちの様子を視ている別の意識を感じる。 「いい方法教えたげようか……『明けない夜は無い』『人の作りし存在なら、必ず人の手で破れる』『不死者は人の命を盗む盗人……』」 「やめて!」  思わず大声を上げていた。  先ほど痛みと共に受け入れた、死の感触を秘めた至福が綻びるのを感じた。怖れで心が震える。計算や共通文字と共に、教会が当たり前の様に広めている単純な言葉が、意外な力を秘めている事にイヴリンは驚いた。 「ごめん……オバさんを不安がらせるつもりはなかったんだ」  薄闇になじむ地味な法服の肩がすこし落ちる。それから、小さな顔が上がった。 「あのさ、バフルの教会は今、どうなってる?」  四十年前に街の中心街から移転させられ、貧民街の一角を占めるようになった木造の教会は、普段なら文字や数字を書き取る者達の机が、道まではみ出しているが…… 「閉鎖中です。あなたと違って教育官は法服を脱いで身を隠していますよ」 「いろいろ困るんじゃない? 授業だけじゃなくて、大きい取引したい商人とかは教会の為替が使えないと……」  確かに再開を求める商人の組合や工房の親方達と、閉鎖を撤回しないイヴリンらは対立状態にある。 だが 「もう少し落ち着かないと、街の者が何をするか」  教会の閉鎖を解かないのは、そこで学ぶ者と働く者の安全を守るためだ。 「オバさん、ひとつ提案があるんだ。 あたしが、『聖女見習い』として城の“なりそこない”達を片付けたら、教会を再開してもいいって文書、バフルの代理人名義で出してくれる?」  テンプルが仕出かした事を、この娘がテンプルの者として収めたなら、街の者の反感は解けるかもしれない。しかし 「危険すぎます。それに、あなた一人で何が出来ますか」  思考をはじめ生前の能力をほとんど失っているとはいえ、当時城にいた文官と武官、そして救援に向かった衛士のほぼ全員を相手にすることになる。いくら破魔の紋を施した法服を着ているからといって、見習い一人では手に余る。 「今は真昼だから眠っているのを浄化するだけだし……あたしは死なないもん」  自信の根拠はイモータルリング。だけど、蘇生は不死の源泉となる始祖にかなりの消耗を強いるハズ。 「アレフ様にご迷惑をかけることは許しません」 「ケチぃ……せっかくオバさんの夢を叶えて、ついでに街のみんなが安心して眠れるようにしてあげようと思ったのに。それに、いつまでも代理人事務所をアレフの御座所にしといちゃ、色々こまると思うんだけどなぁ。首都と大陸全部の事務を一ヶ所に集めたら、狭いでしょ」  確かに、統治を支える雑多な事務に携わる人員と場所そのものの確保は頭の痛い問題だ……が。 「私の夢?」 「もし、あたしに何かあった時、何もかも投げ出してアレフが飛び出したら…… あたしに色ボケじじい、ちょーだい」 「はぁ?!」 「だって、要らないでしょ、そんな無責任な太守。 バカ領主をお飾りにしてココを治めるのが、オバさんの理想でしょ」  確かにそうだが、こうも明け透けに言われると怒りを通り越して、バカらしくなってくる。 「好きにしなさい。文書は用意しておきます。それとお守り代わりにこれを持っていきなさい」  渡された物をみて聖女見習いが舌をだす。新たに信認を受けた代理人が五人、階段を下りてくるざわめきが扉越しに聞こえる。 「……幸運を」  ホールに戻ったイヴリンは、代理人候補達に軽食を摂らせる段取りを確認しながら、遠ざかる小娘の気配を感じていた。  テーブルと共にホールに運び込ませた銀盆には、蒸し貝やくんせい肉、果物や焼き野菜、揚げ魚やパイが盛られていた。どれも新鮮で最上の食材ばかり。刺激物や香りの強い素材を使わずに作られた昼食を、取り皿を手にみなが楽しみ始めるのを確認して、階段を登る。  この会場に集まっている各地の代表者や名士も、ある意味、銀盆に載せられたご馳走だ。一口ずつ加減して召し上がるのに嫌気がさした時のため、死なせてもかまわない贄も用意した。バルコニーの優美な手すりから不安そうに階下を見ている、それぞれ異なる魅力を持った三人の乙女たち。代理人候補を信認する順番すらままならない今、嗜好品ぐらいは選ぶ愉しみがあっても良い。それが、たった三つの選択肢でも。  控えの間で所在なげにしているウィルを階下の仕切り役として向かわせ、一段と闇が濃くなる貴賓室へ入る。扉を閉めれば、目が慣れても足元さえおぼつかない暗がりに包まれる。人への配慮がなされていない室内。ここで優先されるのはアレフ様のご都合。  記憶にしたがって深いじゅうたんの感触を確かめながら、四歩進んだ。 「呪縛が解けかけているね」  声がした方を見たが白い顔は見えなかった。  不意に硬く冷たい腕に抱きかかえられる。足元から床の感触が消えた。闇の深部へと運ばれていく間、絶体絶命の状況に身が震える。喉から漏れる悲鳴は必死にこらえた。  すぐに抱擁は解かれたが、入ってきた扉の方向を見失い、逃げる術もなくしたイヴリンは闇の中に佇むしかなかった。  冷たい指がおとがいに触れ、顔を上げさせる。目と心を覗き込まれているのが分かった。全てを受け入れるつもりで、目の隅でだけ捉えられるぼんやりと白い顔を見つめ返したが、喜びが心を満たす瞬間は訪れなかった。 「やめておこう。心を弄らなくても、貴女は職務を果たしてくれる」  落胆と同時に助かったという思いで涙ぐみそうになる。心が壊れていく深刻な恐怖を伴う快楽に、もう溺れなくても済む。  短い呪のあと灯ったランプで、室内が暖かい光に満たされた。濃紺のじゅうたんの上に艶のある木彫を施した調度類が置かれていたはずだが、そのほとんどは壁際に片付けられていた。闇に怯えて逃げようとした者に怪我をさせないための配慮、だろうか。  外套と上着を脱いで佇む横顔はどこか疲れて、白いゆったりしたシャツに包まれていても、薄く細く折れそうに見えた。  今は真昼……不死者の力が最も削がれる時間。  イヴリンは花を象ったろうそく立てにランプの火を移すと、森の木々と鳥たちを象嵌した壁に手を触れ、風鳥の尾を押して隠し通路を開いた。 「こちらへ」  奈落の底へ降りていくような狭い階段の果てには、急ごしらえの寝所を用意してあった。 「地の方陣は施してない……か」  アレフが黒い石の床にひざをついて、自らの指を噛み棺のまわりに美しい図形を描き始める。 「すみません。私どもには魔導の事は解りかねますので」  昨日貼った壁紙の糊の香が漂う地下室。東にある厚い樫の扉の先にはホールの裏手に通じる階段。そして……軽い呪を唱え、血で描いた魔法陣に琥珀色の輝きを与えた主に、北の壁を指し示す。かけられたタペストリーをめくり、もう一つの扉を見せた。 「もしもの時は、ここから裏の路地に出られます」 「……もしもの時?」 「ファラ様が滅ぼされた後、全ての寝所に抜け道を作るようにと、ロバート様から密かに指示がありました」  わずかに動揺したような表情でうなづき、棺に身を横たえる主を見守ったイヴリンは、閉じられた重厚な蓋に一礼して、狭い階段を登った。三階分だと多少息が上がる。  心を縛らなかったのは、信頼して下さったからと思えば良いのだろうか。それとも、ちょっとした“仕返し”だろうか。  眠りにつかれた四十年前には無かった儀式用の馬車に豪奢な建物。そして昼の光にロバート様の威光。揃えた人数に立ち位置と、考えられる限り有利な条件を整えて挑んでおきながら、戸惑ったような灰色の眼になでられ、やがて明らかに食欲の対象として見つめられた瞬間、全てを諦めてしまった意気地のない黒幕気取りへの、意趣返しかもしれない。 五 バフルの教会  影を足元にへばりつかせる真昼の光を浴びながら、ティアは灰色にかすむ遠い城館に目を向けた。背後では、代理人が乗った馬車の車輪が、かしましく石畳を噛み、それぞれの故郷目指し疾走していく。急いだところで、アレフが倒されれば全ては無駄なのに。  とりあえず、スタッフは返してもらった。でも、これだけでは心もとない。浄化の呪の初歩といえば聖水。前は軽く見てたけど、この前、身をもって威力を知った。それに、聖水はその気になればたくさん用意できる。  まずは真水を調達しないと。海に近いこのあたりの共用井戸は塩分がどうしても混ざる。買うとしたら…… 「テンプルのヤツに飲ませる酒なんてないね」 「誰も酒なんか頼んでないって。あたしが欲しいのは、上等な酒を割るのに使うキレイな真水。ワインの空き瓶に十本ばかり詰めてよ」  大通りに面した、大きな酒場のオヤジと押し問答してたら、いつの間にか女給だの昼飯食いに来てた客だのに囲まれていた。これはちょっとヤバいかも。大立ち回りしたら、高そうな酒とかグラスとか全滅だよね。弁償とか治療費とか全額押し付けたらさすがに怒るかな……あのオバさん。 「はいはい、ごめんなさいよ」  不意に肩に手を置いてきたヤツを反射的にニラみつける。いつもの鼻の下伸ばした白い顔の代わりに、ドルクの笑顔があった。この愛想のいいひげオヤジが相手だと、何だか調子がくるう。 「まあまあ、ここは私に免じて……」  店のオヤジが顔を引きつらせ、客たちがザワめいたのは、ドルクが首に巻いた赤い布のせいだな。オバさん同様、立派な身分詐称……でも無いのか。牙の痕はなくても、太守と心が繋がった側近なのは本当だ。 「このハネッ返りは私の知り合いでね。見習いのクセに城の“なりそこない”を浄化して安らかに眠らせてあげるんだと、まぁ、えらく張り切ってまして。そこまで言うんなら、ひとつやらせてみようかと言うことになって……それで、真水なんですが、用意していただけませんかね。お金はお支払いしますから」  カウンターに金貨が置かれて、あたしもビックリしたけど、酒場のオヤジも目を丸くしてる。 「あ、ついでに何かおなかに溜まる物もお願いしますよ。朝から何も食べてなくて、ぺこぺこなんですよ。ティアさんもおなか、減ってるでしょ?」 「え、うん」 「……イモを練りこんだ麺のスープでいいか。野菜と塩漬け肉もたっぷり入ってる」  セージを効かせた山盛りの皿がふたつ、目の前のカウンターに置かれた。お腹が鳴り出す。そういえば、昨日の夜から何も食べてなかった。もしかして、指輪を介して代理人候補を貪っているアレフに同調しちゃって、ハラペコなのにあたし気づかなかった?  うー、ヤダヤダ。   厨房の奥では見習いらしき男のコが、オヤジの指示でロウト片手に水をビンにつめてはコルクで栓をしてる。コトは順調に進んでるけど、面白くない。 「なんでドルクだとみんな言うこと聞くのよぉ」 「せっかくバーズ女史がくれた物を、ティアさんが使わないからですよ」  ドルクがさりげなくスプーンを向けたポケットから、赤布がはみだしてるのに気づいて、慌てて奥に突っ込む。 「あたし、噛まれてないもん」  噛まれたとしても、誰がこんなダサいもん結ぶか。なんだか腹が立って、スープ皿を持ち上げて料理をかっこんだ。  緑に茶色、なで肩にいかり肩。形も色もバラバラのビンを、酒場のオヤジは一本ずつ麻ヒモの網に入れてくれた。それを前後に五本ずつ振り分けて肩げてんのに、背筋は真っ直ぐなまま普通に歩いてる姿をみると、つくづくドルクも人間じゃないと思う。ううん、これぐらいの芸当なら鍛え抜かれた聖騎士ならやってのけるか。 「ねぇ、アレフの側に居なくていいの?」  剣の腕は信頼できるし、目的地まで結構あるから、こうやって重いモノを持ってくれるのは助かるけど、あたしなんかに付き合ってていいんだろうか? 「血の絆を結んだしもべが数人がかりで守ってくれてますから。私ひとりぐらい居なくても大丈夫ですよ。それより、貴女を自由にさせておくほうが心配です。色んな意味で」  保護者気取りは相変らず……要はあたしが信用されてないってコトか。  裏町に入ってしばらくすると、まわりの建物が低くなってゴチャついてきた。足元の石畳が割れたり剥がれたりしててコケそうになる。  ドブ臭さが鼻についてきたころ、急ごしらえの一階に日干しレンガで二階を継ぎ足し、ついでに廃材を寄せ集めたらしい屋根を、つけたして道にまで軒をはみ出させた学び舎にたどりついた。  これは教会というより悪ガキ共の砦に近いかも知んない。  中に入れなくしている、クサリが巻きついた杭は蹴り倒した。物見高く遠巻きについてきてた連中や、窓から顔出してるヤツらが騒ぎだしたけど気にしない。衛士を呼ばれてもドルクがいるから大丈夫……かな。  壁に掛けられた文字の表や黒板、机や石版にうっすらホコリがつもってた。  図書房も印刷工房も、荒らされてはいないけど、ホコリと雨漏りで薄汚れてる。でかい錠前と結界の方陣で厳重に封印された地下室には、通信に関わる機密書類だの金塊が保管されてるハズだけど、今んところ用は無い。つーか、世界中の商人を敵に回したくない。  用事があるのは一番奥の教室の一角を占めてる祭壇だ。捧げられた花は枯れてるけど、ここはそんなにホコリっぽくなかった。 「ここにビン、並べて」 「おおせのままに……」  ウィンクしたドルクが網から出したビンを祭壇前に並べた。  祭壇には、簡単な文字と基本的な計算を人々に広めることで世界を変えられると信じて、一生を教会作りと教育に捧げ……本当に世界を変えてしまった男の似姿が掲げられている。  まぁ、確かにオリエステ・ドーン・モルは偉人には違いないけど、絵の具を塗りたくった紙きれなんかに、単なる真水を聖水に変えるなんて力、あるわけない。  水を祭壇に供えるのは、ちょっとしたケンイ付け。実際に力を与えるのはあたしだ。でも祭壇って力を集中させる結界みたいなモンがあるから、今みたいに聖水を大量生産したいとき少しは楽できる……かな。  空から無限に降り注ぐ陽光を受け止めるように、体の前でてのひらを上に向け、集まってきた暖かな力をビンに詰めた水に注ぎ込む。ちょっとしんどいけど、ここでがんばっておけば後は手間要らず。てゆーか戦闘中にこんな事ちんたらやってらんないか。 「何をしているんです」  不意に声をかけられて振り向くと、コロコロした三十歳くらいの男が、教室の入り口にたっていた。首から垂れてる紐は黄色……准司祭、ううん、テンプルの聖籍を持たない代理教官か。 「見てのとおり、お祈りよ、オイノリ」  ビンの中の水にティアは意識を集中させようとしたが、背後からせまる代理教官の重い足音に邪魔された。ため息をついて振り向くと、イモムシっぽい指が出口を指していた。 「すぐ出て行ってください。教会にいると危険です」  ほつれた袖口から糸がたれてる。代理教官の日当って少ないんだっけ。教え子への愛情だか学問への情熱だかに突き動かされて、なりふり構わずがんばる姿には頭が下がるけど、そでの糸は……ネコじゃなくても気になる。単に個性的な体格に合う古着が、なかなか見つからないだけかな。 「聞こえてるんですか?」 「危険って、つぎはぎ……じゃなくて、継ぎ足しの屋根がそろそろヤバいとか?」  見上げれば、いつ壊れるか賭けをしたくなる天井が、薄暗がりに広がっている。 「あなた方、バフルの人じゃないでしょう」  今、ちらっと田舎モノをバカにする顔したな。あたしが生まれ育ったクインポート、負けてないと思うんだけどな。少なくとも教会の立派さじゃ勝ってるし。 「ここはまだ“夜が明けてない街”なんです。元々おおっぴらに人が学問する事もはばかられるってのに、モル司祭が城に詰めてた人たち化け物に変えて、そのうえ太守を滅ぼして……私やここで学んでいた子供達までもが、怪しげな術を使う人殺しの仲間だと、白い目で見られてるんですよ。いま波風を立てたらどうなるか」 「そんなの、攻撃呪は教えてませんって、ちゃんと言えばいいのに」  東大陸じゃ、攻撃呪は絶対に教えてくれない。あたしが通ってたクインポートの教会でも、攻撃呪どころか回復呪さえロクに教えてくれなかった。だから家出して、海を渡って、ホーリーテンプルまで行かなきゃならなかった。 「口でいくら説明しても、法服を着た聖女が祭壇でそんなことしてたら、教会は二度と再開できなくなります」 「そんな事って……?」 「ワインに祝福を与えているようには見えないんですが……聖水ですよね?」  確かにこれは、言い訳のしようがないかも。 「これは城の“なりそこない”を浄化する為に作ってるだけで、アレフにぶっかけようなんて少しも思ってないんだけどなぁ。ダメ、かな?」  なるべく無邪気な顔で小首を傾げて見せたけど、代理教官の顔はゆるまない。 「誰が信じるっていうんです。早く、法服を脱いでここを立ち去ってください。あなた自身と、我々のためにも」 「信じてくださいますよ、アレフ様なら」  あ、ドルクのこと忘れてた。 「アレフ……ああ、顔が良いってだけでファラが始祖にした、太守の息子ですか」  実もフタもない言い方だな。間違っちゃいないけど、その顔がいいだけのボンボンの為に、苦労してホーリーシンボル覚えた身としては、ちょっとムカつく。 「ずっと眠っているものとばかり。いつからバフルに」 「今朝方」 「夜は明けないままか」 「そうでもありませんよ。今は施療院になっている代理人事務所のはすかいにある赤レンガの建物……あれは元々、バフルの教会としてアレフ様が寄進なさったもの。教会の活動には理解のある方でしたから、そう悲観なさることもないかと」  知らなかった。っていうか、本物の物好きだ。自分達を滅ぼそうとしてる相手に、タダでりっぱな建物をくれてやるなんて。 「それに、この聖女見習いが法服を脱がないのは、代理人イヴリン・バーズとの誓約だからです。この姿でモルの邪法の犠牲になった城の者たちを安らかな眠りにつかせる……テンプルの、いえ教会の者として償いをするというのが、この教会を再開させる条件です」  オバさんから書付とかもらってないし、口約束だけど。 「本当に……再開できるのか」 「この見習いさん次第ですけどね。だから、もうしばらくここで準備を整えさせてやってくれませんか。それに、こう見えましてもわたくしはアレフ様の名代、この件に関する見届け人を仰せつかっている者ですから、ご心配には及びません」 代理教官の額に汗が浮いてきた。やっと喉の赤布に気づいたのか。薄暗いとヒゲと一体化しちゃうんだよね、赤い色って。 「ちなみに、この娘はアレフ様の想い人ですので、ちょっかいなど出されませぬように」 「誰がよっ!」 「冗談です」  胸倉つかんだ手を軽く払われた。憎たらしいのに憎めない。このヒゲおやじ、ぜったい食わせ者だ。 六 バフルヒルズ城  バフル西側の新しい建物群が、宝石ごってり化粧こってりドレスだけはやたら薄い都の女なら、北東の丘にそびえる四角い城館は、地味で丈夫な普段着をまとった村の女。土くさいけど、大きくてふところが深くてガンコ者。そんな女を落とすなら、正攻法より意表を突いた方がうまくいく……なーんてね。  ティアはスタッフにロープを結ぶと二階のバルコニーに向かって放り投げた。うまく手すりに引っかかったのは四度目。法服のすそを腰紐に挟んで登ったあと、ロープを手すりに結びなおして、十本のビンを引っ張り上げる。最後にロープ伝って登ってきたドルクと一緒に、扉に打ち付けられた板をひっぺがして城内に入った。  真昼なのに中は薄暗くて、腐臭というか死臭がひどくて口で息してても吐きそうだ。天井を支える石組みのアーチはキレイだけど、床と壁は赤黒いシミが目立つ。廊下の隅には灰も少し積もってる。戦いの痕跡というより、閉じ込められたなりそこない同士が、共食いしたアトかも知れない。  突き当たりは中庭。丘の頂上だ。前の太守が健在だった頃は、ここで新酒のお披露めかねた園遊会とかやってたらしいけど、今は単なる土の空き地。片隅の布の固まりは、光が怖いって本能すらなくして、陽に焼かれて灰になった“なりそこない”の忘れ物かな。 「どこから手をつけたものやら」 「窓が少ない一階の、陽が当たらない南側で眠ってると思う。地下は結界あるよね」  真っ暗な階段を下りる前に、ランタンに火を灯す。でも、火は絞って油は節約。もしもの時、火と油は武器になる。といっても城館が焼け落ちたら元も子も無いから、街に被害が及びそうになったとき限定の最終手段だけど。  南側の倉庫で一体目を見つけた。  入り口近くの床で丸くなってた黒と黄色のタテジマ男。ヒザを抱えた青黒い手には爪も無く臭いもひどい。ドルクから緑のビンを受け取ってコルクを抜く。ビンを眉間の前に構えて、もう一度、水に力を込める。 「完全浄化にどれくらいの量が必要かわかんない。少しずつ注ぐから。その……暴れだしたらよろしく」 「いくら生前の意識が失われているとはいえ、気が進みませんな」  それでも剣を抜くドルクに心の中で感謝しながら、聖水をなりそこないのヒザに垂らした。  煙とともに曲げられた足がクタっとへこんで床に白い灰が広がった。同時に声なき悲鳴と共に、なりそこないが意外な素早さで仰向きになり、ヒジから先が灰化した左手を支点に身を起こす。原型をとどめている右手に掴まれそうになった瞬間、肩口にドルクの剣が突き立って、なりそこないを床に縫いとめた。あがく頭部と胸に聖水を振り掛ける。ナベから吹き上がる湯気みたいな勢いで大量の煙があがり、金属の板を縫い付けた布鎧だけが灰の積もった床の上に残った。 「だいたい二割ね……手持ちの聖水だと五十体がせいぜい」  コルクをねじ込んだビンを、ランタンの光にかざして確認する。痛みを感じて開くと手のひらが焦げてた。なりそこないが起き上がった時、うっかりぬれたコルクを握り締めたみたいだ。ビンの口から垂れた雫は、注意して袖でぬぐった。 「元はあたしの力なのに、自分も焼いちゃうなんて、なんか納得できない」  内にあるときは無害なのに、出したとたん毒になって肌をただれさせるだなんて 「まるでウン……」この例えはさすがにバチ当たりか。  二体目はカラっぽの樽の中で眠っていた。見つかりにくい場所を選ぶって事は、少しは思考力とか記憶とか残ってたのかも知れない。まばらな髪の毛を申し訳程度に包む白布に向かって聖水をかけ、彼女を一塊の灰としわくちゃなドレスに変える。今度は苦しまなかったはず。なりそこないに痛覚が残っているのかは疑問だけど。 「やっと二人目……で、聖水が尽きたあとは」  渋い顔しているドルクにスタッフを構えて見せた。 「これが白木の杭の代わり。腐乱死体でも胸板をスタッフで突き破るのは体力使うし、気持ちいい感触とは言えないけど」 「そして私が剣で首を、ですか……衛士にはキツい仕事ですな」  死斑におおわれて腐りかけてるなりそこないでも、やっぱ主に重ねちゃうもんなんだ。 「昼間のうちに見つけられる限りのなりそこないを片付けたいけど、全部がこんな風に楽に終わるなんて最初から思ってない。本番は夜になって動き出してから。 中庭にワナ張ってエサでおびき寄せて、一気に片をつけるつもり」  地面に血の一滴でも垂らせば簡単に集められるはず。 「で、その餌は私らですか?」  察しのいいヒゲおやじに笑ってうなづいたら、深い深いため息をつかれてしまった。 七 合流  この若者も、か……。  アレフは苦笑を抑える努力をとうに放棄していた。悲壮な決意をたたえた目で見返しているソバカスだらけの代理人候補には、好物を前にした人食いの笑みとでも受け取ってもらえれば幸いだ。  この若者の様に人脈や影響力を持っていない、そもそも村や町を治める才覚も気概もない、名ばかりの代理人候補は何人目だろう。いや何割というべきか。既に実権を後継者にゆずってしまっている老人。根拠の無い自尊心と現実との差に押しつぶされそうになっていた、口先ばかりの無能な男。  血を啜ってしもべにしたところで、彼らを通じて下した命令を、誰も聞きはしないだろう。そして、彼らから村や町の真実が報告されることもまず無い。この青年も故郷に戻ったとたん体よく軟禁され、太守が訪れた時にだけ引き出されて、代理人の役を演じさせられる。単なる血を提供者として。その為だけに人々に選ばれた人身御供なのだから。  血の絆で編み上げる心の網であまねく領土を包むはずが、素材がこれでは……  脆弱な網の目からは、何もかもこぼれ落ちていく。  やはり、直接足を運んで見出した代理人候補でなくては質が落ちるのは免れない。そもそも代表者を人に選ばせたのが間違いだ。  それでは人々に選ばれたことを権力の根拠にしていた、あのクインポートの町長と大差ない。いや、反抗する気概があるだけ奴の方がマシだ。  しもべとして能く治める者は、謀反の首魁となり得る者だ。反抗の芽を摘むのではなく、矯めて益となる果実を実らせるのも、血の絆を結ぶ大事な目的。とはいえ、今は……  たとえ表層的でも各地域の状況を知り、こちらの存在感を知らしめるだけでも十分。後で何度か村を訪れ、仮の代理人の寿命を削りながら、影に隠れた真の実力者に目星をつければいい。そいつを後継者として相応しいものだと指名させ、呼びつけて代理人として血の絆で縛っていけば、おそらく十数年後には領内全てを掌握できるはず。  だが……  果たしてそんな時間が、私に残されているのだろうか。  ファラ様が倒されて以来、次々と太守は滅ぼされてきた。つい先日、父も滅ぼされたというのに。  あと何年……いや、何ヶ月という未来しかないのかも知れない。遠からず訪れる死の運命に怯えている腕の中の若者より、私が長生きできる保障などどこにも無い。  そう考えれば、名ばかりの代理人候補は、村や町の顔役たちにとって丁度いい時間稼ぎだ。この若者の命を啜り尽くすまでに、他の太守達のように私も多分……  突然生じた背中を熱く貫く衝撃で、悲観的な思考が中断する。  一瞬、眼前の若者がナイフでも隠し持っていたかと疑ったが、抱きすくめられた状態の者が刺せる位置ではない。強烈すぎる心話、いやこれは耳を塞ぎようのない苦痛の叫び。 「ティア……?」  意識を向けたとたん、背中から溢れる血が法服を重く湿らせる感触と、頬に触れる土を感じた。かろうじて上げた彼女の視線の先には、ぎこちない動きで剣を振るう異形の者。まとっている衣装は衛士の物だが、肌は青黒く変色し腐臭もひどい。  これが“なりそこない”か。そして、たった一人で対抗しているワーウルフはドルク。 (ドジっちゃった)  自嘲的な心話の合い間にも回復呪は唱えているようだが、治癒が追いついていない。そして、新しい刀傷がわき腹に増えるのを感じた。 「……すまない。夜明けまでには戻る」  噛まれる直前に抱擁を解かれたことに戸惑う若者の横をすり抜け、控えの間で棒立ちになって見送るウィルに軽く視線を向けた後は、素早く階段を駆け下り、立ちすくむ代理人候補たちの間を走りぬけ、中庭に出た。 (何のために隠し通路をお教えしたと……)  イヴリンのボヤきに苦笑しつつ、宵闇の中、人通りの多い道を全速力で駆ける。背後で広がる動揺とざわめきは感じるが、足を止める気になれない。ひたすら気ばかりが焦る。だが、このまま走っていては時間がかかりすぎる。  バフル港を見守っていた風の精霊……父がつけた名は確か 「プシケ!」  風の後押しを貰い、手近な建物の庇を足がかりに屋根の上まで跳ぶ。 「我が身を城へ運べ!」  力の限り空に向かって跳躍し、吹き上げる風に身を任せた。  血が出すぎたのか頭がふらふらする。指の感覚もなくなりかけてる。  それでもティアは、囲みを縮めてくる “なりそこない”共の足元をスタッフで払った。破魔の紋がスネを焼き、死人の群れが面白いようにすっ転ぶ。その隙に這いずって壁際まで逃れた。さっきまで倒れてたところに出来た血溜まりを、掴み合い押し退けあいながら啜る浅ましい姿を油断無く見据えながら、回復呪を再開する。  夕方までに聖水とスタッフで浄化できたのは六十体程。日が暮れてからは、血と物音に引き寄せられてきた動く死体どもを、景気よくスタッフで殴り倒しながら、浄化の術を使う機会を狙っていた。  素手の“なりそこない”なら囲まれても怖くない。だから、なるべくたくさん中庭に集めようと欲張りすぎた。破魔の紋を施した法服に頼りすぎてた。まさか剣を扱う知恵が残ってる奴がいたなんて。  ドルクはまだ無事。法服の加護がないから最初から油断なんかしてなかったし、のろまな“なりそこない”なんてワーウルフの敵じゃない……と、思う。でも、数が多いせいか、だいぶ息が上がってるみたいだ。  それに、テンプルの聖騎士と違って、ヴァンパイアを守る操兵ってヤツは人型の敵を殺す戦いには慣れてない。人間を生け捕りにするのは得意なんだろうけど、頭や胴体を叩き潰すか、腕や足を切り落とさない限り動きを止められない“なりそこない”相手じゃ、かなり勝手が違うはず。 「心臓をたまごの中に隠した魔神の話、また聞きたいのかい?」  今はおとぎばなしを聞いてる場合じゃないよ、父さん。て、やばっ。頭に血が足りてないんだ。無関係な過去を勝手に幻視しはじめてる。  ヴァンパイアに捕まって血を吸われても最後まで抵抗できるように、とかなんとか言われて首絞められたとき、今みたいなクッキリした幻視を体験した。あの、バカ師範代……訓練なんてウソだ。ぜったい楽しんでた。  けど、暗い穴の向こうの光だとか、花畑が見えたわけじゃない。まだ、戦える。  一番近くまで迫ってた、上等な服着たなりそこないの喉笛を、下から赤スカーフごとスタッフでぶち抜く。上手いこと脳幹を灰にできたらしく動きが止まった。背後の壁を支えに立ち上がり、重力も利用して喉からスタッフを引き抜き、左手から寄ってきてたもう一体のコメカミを横殴りにする。骨が砕ける感触がして、側頭に焦げ跡つきのへこみが出来た元老人が倒れる。  体力、戻ってきてる?  それに、立ち上がっても今はめまいが起きない。回復呪を中断してるのに、背中の傷が治っていく。左手薬指にはめた血色の指輪が温かい。これって術具を介した回復呪だ。力の源泉は……かなり近い。 「全部片付けた後、ワザとやられたフリして、呼び出すつもりだったのに」それで何しに来たんだとあざ笑ってやる計画だったのに「背中を刺された時、心がモレちゃったか」  オバさん、悔しがってるだろうな。  やっと吸血鬼の呪縛から解き放たれたのに、別の吸血鬼に噛まれて、それも忠誠を捧げる甲斐のない、ワタクシ事で公務をあっさり投げ出す無能な主となれば救われない。……分かってた事だけど。  父さんと同じ不幸に落ちてくオバさんの姿だけは、どうしても直視できなかった。噛まれるところ見たら、きっと助けたくなる。衝動的にホーリーシンボル仕掛けてしまいそうで、意味も無く庭に咲き乱れる花の種類を数えてた。  でも、あたしがどれだけ耐えてたか、アレフは気づいてない。ちょっとした想像力と感情を推し量れる知能があれば、怖くてあたしの肩なんか抱けないはず。あのニブさは男特有の……違う、きっと読心能力に頼りすぎて、その手の感覚が退化しちゃってるんだ。 「もう、いいか」  中庭に集まった“なりそこない”は倒れてるのも含めて二百体ぐらい。一気に片をつけるって当初の作戦からすれば物足りない数だけど、傷と体力の回復がほぼ無制限なら、後は一体ずつ片付けていっても夜明けまでには全て終わる。  油断しないように、得物を持ってるヤツが居ないのを確認してから、半歩踏み出してスタッフを背中に構え、わずかに溜めを作ってから、迫ってきた“なりそこない”共をなぎ払い、両手に素早く持ち替え回転させながら、死人の群れの中に一本の道を開く。時々体を半転させ、背後からせまる連中をけん制しつつ、中庭の中央まで進んだ。  日のあるうちに用済みとなった十本のガラスびんを土の中に等間隔に埋めておいた。水晶に比べれば質は落ちるけど術具としては十分。寄ってくる死人を牽制するためのスタッフの回転にあわせて呪文をつむぎ、呪力の流れを線に変えてガラス瓶を交点にして結び合わせ、中庭全体に広がる光の方陣を組みあげた。  頬に風を感じる。目を上げると、西の塔の屋根に黒い人影が降り立つのが見えた。そこなら特等席だ。四十年間眠り続けて、いまだに寝ぼけてる不死者の目を覚まさせるには、派手に光る見世物が一番。  ヒゲを震わせて、ドルクが危険だとか叫んでるけど、塔は効果範囲から外れてるし、余波ごときで滅びはしないはず。  それじゃ、回復してもらったお礼も込めて、あたしの全力みせてあげよっか。  軽く息を吸い、まわしていたスタッフを方陣の中央に突き立てた。 「ホーリーシンボル!」  無数の元衛士や城勤め“だった”者達と、砕かれ断ち切られてもなお、生にしがみつこうとアガき続けていた人間の“断片”が、内庭全体に生じた高密度の光に飲み込まれていく。悲鳴も最後の抵抗も……アレフが密かに覚悟していた、滅びる間際に不死者が発する、苦痛や絶望に満ちた心を突き刺す思いの叫びも無く、何もかもが一瞬で消滅した。  方陣の解消と共に、半球状の空間に封じ込まれていた破邪呪の余光が減衰しながらも天空へ屹立する光柱に変わる。とっさに背を向け顔を庇ったが無駄な行動だったかもしれない。チリチリとした痛みが全身を刺す。  真昼の光などという表現では足りない。黒鉛をも一瞬で蒸発させる太陽本体の顕現。ただし熱量を一切含まない、冷ややかで残酷な、不死者を消滅させるためだけに作り出された、破壊の力。  内庭の土の上には灰の一つまみも遺っていなかった。持ち主を永遠に失った服だけが生々しく散らばっている。その中央で挑戦的な笑みを浮かべるティアと目があった時、人に対しての警戒心が、恐怖に取って代わった。  異質で理解できない思考で行動する、全てを奪う力を持つ存在。  だが、遺された衣類を乱暴にスタッフでめくりあげ、見つけた宝飾品や財布を法服の隠しに入れるのだけは、見過ごすわけにはいかない。次々と湧き出す暗い想像と共に足のすくみはひとまず封じ込めた。風の力を借りて、遺品を踏まないよう注意しながら、ゆるやかに内庭に降りる。 「降りてこられる度胸……あったんだ」  からかうような口調の聖女が紅玉の指輪をつまみあげる。 「それは、ティアさんの物ではないはずですが。先ほどから拾い集めている金品も」 「えー、ケチィ」  スタッフを同僚から奪ったときといい、テンプルの者にとって戦闘と略奪は切り離せないものらしい。ファラ様が永遠の平安をもたらす以前の……人が食料や財貨や土地を奪うために、殺し合いを繰り返していた、野蛮な時代そのままに。 「対価が欲しいのでしたら、金貨を用意します。それは遺族に」 「“なりそこない”退治のお礼は、バフルの教会を再開させるってコトで、オバさんとはもう話しがついてるんだけどな……それに、一つ一つ持ち主確かめて相続人に返すのってすんごい手間だよ。今、人手不足でしょ」 「どんなに時間がかかっても返します。そうやって身近な者がもう戻らないと実感しない限り、前に進めない者も居る……私の様に」  城へ来たのは死に瀕したティアを回復させる為だ。しかし、町の灯を下に見ながら風を抱いて、丘の上の城館へ急いでいた来た時に分かった。本当は何を置いても、ここへ来たかったのだと。直接、心を父と繋いでいたイヴリン達の喪失感を共有しても諦められない……永遠に存在し続けると思っていた父が喪われたと、どうしても信じようとしない己の未練を断ち切るために。そして、現実を受け入れるために。 「ふーん、実感しに来たんだ。 ……行ってみる? 玉座の間。 多分、モル司祭たちとロバート・ウェゲナー太守が戦った場所」  何らかの証拠があれば諦められるのだろうか。先ほど見たようなホーリーシンボルで倒されたとすれば、灰も何も残らない。身につけていたものが残ったとしても、高価な物は持ち去られているだろう。それでも 「行って、この目で確かめたい」 「そう。じゃ、エスコート代は別途料金ね」  東の棟へ向かうティアの背中に、大きく赤い染みが広がっていた。それを見ても匂いを嗅いでも、今は何も感じない。単に満足していて今は欲していないから、という事でもなさそうだ。彼女を怖れているのか、あるいは、やっと本当に求めていた事が目前にあるせいなのか。  土ばかり選んで歩くせいで不規則になった足音が背後からする。  だが、ドルクから伝わるのは不思議と明るい喜びだった。  無頓着に衣類を踏んでいくティアが、不意に振り返った。 「なんでマントなんか着てるの? 邪魔でしょ。  なんだか、実体より大きく見せる為に、毛を逆立てて背を丸くしてる臆病な子猫みたい」 「日除け……いえ、偉そうに見せる為かも知れません。臆病という評価には反論しません」  完全に直射日光を防いであった館内であろうと夜になろうと羽織っていたのは、代理人候補達を多少なりとも威圧しようてしての事。臆病だからといえなくも無い。  ただ、建物内に動く者の気配がある。そう簡単に目的は果たせそうに無い。こんな布一枚でも使い方しだいでは、理性を失った死人のツメをかわすぐらいは出来るだろう。 八 遺す想い  一千年前に作られた砦の外壁をそのまま使用している、バフルヒルズ城。その無骨な外観に変化は見えなくとも、内部にはかなり手が加わっている。地下通路は入り組んで迷宮と化し、廊下や上層階へむかう階段の壁には、侵入者からは死角となる窪みが施されていた。  血と共に取り込んだ衛士長の記憶を元に、アレフは東の大階段の窪みに意識を向けた。  怯えと飢えと、とっくに理由を忘れた使命感に取り付かれた、弱々しい心の呟きを感じる。そのまま大人しくしていて欲しいと念じつつ、ドルクに階段の見取り図と共に“なりそこない”の気配を伝えた。 (彼らが戸惑っているうちにティアさんを抱えて素早く登れば……) 「五段くらい上の壁の窪みに二人います」  突然、剣を抜いて叫んだドルクの声に驚く。今は無用な争いの必要などないはず。 「待ち伏せとは、シャレた真似してくれるじゃない」  二段飛ばしのあと跳躍し、有利な立ち位地を確保した上で、立ちすくむ元衛士を打ち倒すティアを信じられない思いで見上げた。  同時に、相棒を助けようと衝動的に出てきたもう一人を切り伏せるドルクの行動も理解できない。相手は剣を抜いていない。いや、彼は日々肉をえぐり腰骨を露出させていく重量物が何なのか、その名前も使い方も分からないまま、大切な物としてベルトに下げているにすぎない。 「炎の魔法をお願いします!」  ドルクが振り返り叫ぶ。言葉と意味はわかるが理由がわからない。もう、彼らは敵対する力も意思もない。ただ、恐慌に捕らわれてあがいているだけだ。皮膚が乾ききっている彼らに火球を当てれば、皮下脂肪に燃え移りすぐに灰と化すだろうが…… 「使えねー」  吐き捨てるように呟き、ティアがスタッフで足下の頭骨を砕く。反り返る体を蹴り上げて仰向けにさせた元衛士の心臓を、容赦なく打ち抜いて灰にした後、こちらを睨んでため息をついた。同じく作業的にもう一人の心臓を貫き、首を切り落とすドルクは無言。もしかしなくても“使えない”というのは私への評価か。 「彼らは“持ち場”にこだわっていた。素早く通り抜ければ追ってこない。無駄な戦いは」 「元衛士なら法服を見て昔の仕事を思い出すかも知れないし、上の階でも戦いになった時、上がってくるかも知れないじゃない」  冷厳なティアの言葉は正しいかも知れないが、可能性を理由に念のため殺しておくという発想には納得できない。だが、彼女は説得できる相手ではない。もうわかっている。 「剣を抜かぬ者を、どうして斬った? 彼は剣が武器だという事も忘れていたのに」  行き場を失った苛立ちが、ドルクへの非難めいた言葉に変わる。 「思い出すかもしれません。わたくしの戦い方を見て、体に染み付いた技を思い出さないとは言い切れません。彼らにも学習能力はございます。先ほどティアさんが遅れを取ったのも」 「彼にはまだ昔の記憶がわずかに残っていた……それを焼き殺すのは」 「己が何者なのかもわからない不安の中で、飢えや肉体が壊れていく恐怖にさいなまれるだけの偽りの生を、炎で速やかに終わらせるのも慈悲かと」  ドルクの苦しげな表情を見ているうちに、己の正しさの確信が揺らぐ。 「記憶が残ってたら、生身だった頃に戻せんの?」  軽蔑したようなティアの言葉に、反論できないまま沈黙する。 「無理よね。不死化の呪方って、ある瞬間の肉体を変化しないよう固定するモノでしょ。“なりそこない”は壊れかけた体と精神を不完全に固定されてんのよ。その後に受けた傷とか腐った部分は回復呪で治せるかもしれない。でも、正気は戻らない」  彼らを元に戻す手段が無いのはわかっている。無力さに、いつしか足元を見つめていた。 「殺すことが慈悲だとはどうしても……どんな状態でも、生きられる限りは生きるべきだと」  原則論や理想論でしか言葉を返せない、己の浅さが悔しい。 「そっか……アレフは人を殺さないんじゃない。人を殺せないんだ」  そう、なのだろうか。罪人の処刑命令書にサインするのも広義では人殺しだ。人々の中から贄を選び心行くまで味わうのも、遠からず起きる死をもたらす行為といえる。単に人の生命が目の前で失われるのは嫌だという我がままにすぎない。目に映らない場所で起きる死に関しては、時には積極的に加担してきた。 「“なりそこない”はもう人間じゃない。だからといってアレフの同類でもない。もう既に死んでる体が生前の機能を取り戻して動いてるだけ。近いうちに終わるただの現象。火で焼いたって……連中はそれを悲しいとか辛いと思う感覚も失ってる」  確かに、断末魔の時も、彼らは苦しみや痛みというより、単なる反射で動いていた。 「この先はちゃんと援護してよね」  先に立って階段を登り始めるティアを追う足取りは、ますます重くなっていた。  玉座の間……正確には謁見や任命、時に宴会に使用されていた三階唯一の広間にたどりつくまで、廊下で三度なりそこないと遭遇した。火災を恐れ、火炎の呪を使ったのは周りに可燃物が無かった一度だけだが、その時の臭いが、のた打ち回る元衛士の姿と共に心に染み付いてとれない。  だが、殴るのも手以上に心が痛い。自身の手も傷ついていた事にしばらく気づかない程、相手の肉と骨が潰れる感触は不快だった。ガス状生命体やゲル状の異界生物を殴ったのとは全く別の、畏れに近い後悔を伴う痛み。 「ケガ、してない?」  情けない事に、震えが止まらないコブシは、ティアの温かい手に包まれるまで開くことも出来なかった。殴った時の衝撃で爪が手のひらに深く食い込み血がにじんでいた。 「仕方ないなぁ」  包帯が厳重に巻かれ結ばれるのを眺めていた。使っていない左手にまで包帯を巻こうとするのを見て、違和感を覚えた。 「もう、傷はいえています。それに左手にケガは……」 「何カン違いしてんのよ。素手で戦う時は包帯でコブシを保護するもんでしょ。でなきゃ痛くて全力で殴れない……っていうか、どこの世界にヴァンパイアを手当てする物好きがいるっかっつーの」  手早く、そして的確に関節を中心に巻かれていく包帯。それが、信認の儀式を行っていた部屋に忘れてきた、指の付け根に装着するささやかな武器と同種の物だと、遅まきながら気づいた。 「ほい、完成。あ、さっきみたいに硬い骨じゃなくて、殴るなら柔らかい急所を狙うこと」  平然と凶悪な指導をしていくティアは、まだ戦いに飽き足らないらしい。  骨に守られていない急所を全力で殴る。予測された感触と結果に吐き気を覚えた。胸を押さえた手が、血と漿液にまみれているような幻覚に襲われた。ティアの無邪気さが疎ましい。いや、不死者を倒す方法を研鑽し続けてきたテンプルに所属する者が、知らない筈は無い。どうなるか解っていて、殴れと言ってのける精神に底知れない無気味さを感じた。  幸い、ためらう間に傍らのドルクが剣を振るい、今もティアが巻いた包帯は白いままだ。しかし見慣れているはずの従者が無表情に元同僚を屠るのも、見方を変えれば空恐ろしい。ティアの同類ではないかと疑い始めてしまう。目覚めた時に護身用だとくれた武器。侵入者が城内に召喚した、人外の敵に備えてとの名目だったが……捕虜に反撃された時の用心だったのでは無いだろうか。  首を振って下らない思考を振り払う。目的地であるハズの眼前に広がる暗い広間に意識を向けた。呪を唱えて安定した小さな火球を呼び出す。天井近くの二重円の簡素なシャンデリアの周囲を巡らせ、残っていた二本のロウソクに火を灯した。まばゆい光に目がくらむ。  一段高くなった奥に据えられた椅子が、かかっていた牙猫の毛皮ごと無残に断ち割られていた。壁を彩るタペストリーも港の様子を描いた一枚を除いて、刀キズに火炎の跡と酷い有様だ。白と黒の石タイルで床に描かれた曲線にも、抉ったような傷が幾つも走っている。  何か父の最期を知るよすがとなる物がないか、目だけではなく意識でも探り始めたとき、隣室の気配に気づいた。 「右手の控えの間に三人。噛まれて逃げてきた仲間を介抱する為に受け入れて、看取った後に襲われた元女中達です。食い合った末、肉体の損傷が酷くなって動けないでいる」  その中の一人が脳裏に焼きついた光景を繰り返し見ている。名前も思い出せない今、その記憶だけが彼女の全てなのだろう。 「仲間の血肉への渇望に苛まれながら、優しさから下した判断を、後悔し続けています」 「敵の数と居場所を教えてくれるのは助かるんだけど……いい加減、“なりそこない”の心読むの、やめてよね!」  鉄板で補強された扉の前で、ティアが振り返って怒鳴る。なりそこない達の心は単純で無防備だ。その分、気配を探るのは容易いが、意識を向ければ思っている事も流れ込んでくる。止めろと言われても無理だ。そして無視するには哀しい心が多すぎる。 「戦いが始まったら、相手を倒すことだけをお考えください。同情なさってもアレフ様の苦しみになるだけです」  ドルクまでもが冷酷な物言いをする。普段は慈悲だの思いやりだのと口ウルさいくせに。  二人が扉に体当たりして控え室になだれ込む。女性用の控え室だ。複数の寝椅子にクッション、鏡やついたてに御丸と障害物は多い。暗い中で転倒もせず、物影に潜む者達に的確な滅びを与えるのは無理だろう。なにより最初に戦う相手は扉前に積み上げられた家具類の山だ。  だが、反撃される心配は無い。  砦たる家具類崩壊の危機も、闖入者がまとう法服に染み付いた血の匂いも、衰弱しきった彼女達の体を動かす力足り得ない。他の消え残る思いは、何か大事な布にくるまったまま灰になった同僚への嫉妬。彼女たちを控え室へ逃がす際、父が一人に何かを命じ、そのせいで走り去ったまま二度と戻らなかった友人の心配。 「もう、やってらんない!」  呪の詠唱? 内庭同様、部屋全体を浄化するつもりか。 「ティアさん、待っ……」  制止の言葉を飲み込む。白い方陣の光が幾何学模様を床に描き出す。その範囲から数歩離れた時、室内を白い光が満たし、三つの気配が消失した。  変わり果てた姿をさらす事無く逝けて、彼女たちにとっても良かったのかも知れない。そう、考え直す。 「ドルク、左奥の透かし彫りの衝立の裏に、父が遺したマントを守った者が……それと」大切な物を隠すとすれば、恒常結界と迷宮に守られた場所「地下の書斎に行った者がいる。彼女の足取りを追いたい。もう少し付き合ってもらえるかな?」  数ヶ月前から警告があったという。懇意にしていた貿易商の進言から始まり、最後にはバフル教会を通じた無記名の親書が父の手元に届いた。血の絆による情報の即時性とは、無縁な者たちが持ちえる最速の通信手段といえば、烽火塔の色煙と手旗信号。そして七羽編成で海を渡る伝書鳩の通信筒。どちらも教会……いや、テンプルの管理下にある。  おそらくモル司祭がホーリーテンプルを進発すると同時に、複数の経路で警告は発信され、幾つかがバフルにまで届いた。建前はともかく、テンプル全てが不死者の殲滅《せんめつ》に動いているわけではない。 「なりそこないとやりあってる時は、ほとんど何の役に立ってないのに、終わるとなぜか壁に懐いて、一人反省会やってるお宅の坊ちゃん、なんとかなんない?」 「すみません、アレフ様には気配の知覚と読心の区別というのは難しいようで」  地下へ向かう東の階段前で、ティアとドルクが囁きあっている。  来た道順を逆にたどれば平穏に済むところを、わざわざ遠回りして余分な争いは引き起こす。滅びた死人を悼みながら、体力を補充してやっているというのに、聞こえよがしの皮肉を言う。そんな、個性的な聖女見習いも所属している組織だ。多様性に満ちていて当然か。 「真っ暗ね……あ、このランタンに火つけて」  階段に足を踏み入れる直前に、ヒビの入ったランタンを押し付けられた。仕方なくホヤを両手で包み呪を唱え、灯心に火球を発生させる。眩しさに目を背けた瞬間、ランタンは奪われた。 「階段を降り切った三歩先に、落とし穴が」  早足で地下道に下りていったティアが、たたらを踏んで恨めしそうにニラむ。 「右の壁に渡し板が立てかけてあります」 「四十年以上、誰も落ちなかった落とし穴っと」 「穴が掘られたのは十年前らしいですが」  板を倒し、渡りかけていたティアが引き返してきた。 「そっか、城内の間取りと罠の位置、全部知ってる人間の血を吸ったんだ……じゃ、ハグれた時のために見取り図描いて」  無遠慮に胸元に突きつけられた手帳を、押し返す。 「私からの精神干渉を受け付けてくれたら、ティアさんの頭の中に直接書き込めるんですがね」 「それは、イヤ」 「なら、私の後をついて来てください……もうなりそこないは出ません」  地下はこの城に唯一残された安全な場所だ。彼女が心の中に踏み込まれたくないように、ここの詳細な地図は、出来れば部外者に渡したくない。  統治者が夜にしか現れなくとも、大半の城勤めの者は昼間働いていた。だが夜間も数百人は詰めていた。彼らが地下道を抜け城外へ逃れる時間を稼ぐため、小鳥を誘うパン粉のように衛士を配置し、最上階で迎え打つ予定が……禁呪で先手を取られた。  一階にいた者と二階にいた約半数が、突然の死に見舞われ不完全な蘇生を果たし、城内は収拾のつかない混乱に陥った。  結局、この地下道から避難できたのは百人にも満たない。  それにしても、なぜモル司祭は先に父を滅ぼしたのだろう。クインポートからの距離を考えても不自然だ。  能力が低下する昼間は、人々を巻き込まぬよう郊外に設けた寝所を転々としていた父より、四十年前から居所がハッキリしていた私を滅ぼす方が容易なはず。力を最大限に発揮できる夜間にのみ首都へ戻る父に、正面から挑むなど……  考えられる動機は力の誇示か。  書斎へたどりつくまでに、四つの角を曲がり三つの落とし穴を回避した。  扉を開くと壁際の書架に蓄えられた蔵書と、書き物机が目に入った。インクと皮と紙の匂いが気分を落ち着かせてくれる。  磨き上げられた書き物机の上に、水晶球がひとつ、むき出しで置かれていた。呪法をも封じ込めることができる、記録用の術具。  父に命じられてこれを運んだ者は無事に逃げられただろうか。  滑らかな球面に指で触れると、仄かに光を放ちはじめた。水晶球の周囲に小さな方陣が生じる。微かな空気の振動は次第に振幅を上げ、音声に変わった。 『さて、何を言い残すべきか…… いざとなると照れるものだな。 アレフ、これを聞いているということは、眠ったまま滅ぼされはしなかった……何かの偶然か、誰かの差し金で生き延びられたということだな。 そして私はオリジン・ヴォイダーに、いや、モルに敗れたか』  目をこらぜば透明な球体の中に、うっすらと黒髪の男の顔が浮かんでいた。小さくて表情も読み取れない。 『世界は我らの物ではなくなった。生きる事は、世界を敵にまわして戦う意味に変わった。争いを嫌うおまえが、どこまでやれるか。 テンプルの下で、人々が昔より仕合せになったとは思えぬが……』  小さな顔がゆっくりと首をふる。 『父のカタキを討とうとは思うな……これは、勝手で無責任な願いかも知れん……だが、どんな事をしてでも生き延びてくれ。アレフ……』   言葉が終わると方陣が薄れ、水晶球から光が消えた。  おそらく混乱の中、慌てて記録された音と光。言葉を選ぼうとしてまとまらなくなった、温かい想い。 「泣いてるの?」  ティアに問われて、頬をつたうモノに気づいた。血色の雫をぬぐい、紅く染まった手を握り締める。 「で、どうすんの……また寝るの?」  ネリィの時は眠りに逃げる事が出来た。だが今は立場が、逃避を許してくれないだろう。 「あたしの父さん、殺させたのもモル司祭なんだ」  抑え付けたような低い声と共に、水晶球の横にランタンが置かれた。 「あたし、すっごく憎んでる。アレフはなんともないの?」  ぞっとするような憎しみの波動を傍らに感じて、思わず身を引く。だが、強引に両腕を掴まれた。女のモノとは思えない指の力に驚いてティアの顔を見る。炎を映した青い瞳がまっすぐに見上げていた。 「あたしと一緒に行こうよ! モルはホーリーテンプルに呼ばれて戻ったんだ。 クインポートで船に乗って、モル司祭を追っかけよう!」  強い深い青い瞳に、既視感を覚えた。  興奮と感嘆を込めて見上げる強い瞳。冷たく力強い指の記憶。あの時、ファラ様から受け取ったのは喜びと誇り。  だが、ティアが熱い指と瞳で植え付けようとしているのは……たぎる怒りと破壊の衝動。 「あたしは泣き寝入りなんてイヤ。奪われたら、壊されたら、そいつも同じ目に遭わせてやる。力が足りなかったら、努力して考えて、どんな手段を使っても復讐する。絶対に諦めたりしない」 (そのために、一緒に来て欲しい!)  耳元で叫ぶような心話と共に鮮明な記憶が送り込まれる。  ティアを床に押さえつける無慈悲な手。その目の前で打たれ蹴られ動かなくなる初老の男……クインポートを任せた青年の面影が微かに残る血まみれの顔。凄絶な光景を穏やかな笑みを浮かべて見下ろす、若い司祭の冷ややかな眼。 「血と引き換えと言うのなら、ネックガードの外し方を教えるわ。後ろのネジは右回し。左の留め金は斜め上に押し込む。そして右の」  耳をふさごうとして、掴まれた手を振り払った。よろめいたティアに睨みつけられて背を向ける。血と共に彼女の記憶を取り込んだら最後、自分が自分でいられなくなる気がした。  すでに復讐は空しいと分別臭く語れる気分でなくなっている。  父を滅ぼし……武器を持って立ちふさがる衛士ならまだしも、事務官や下女にまで無残な運命を強いた者への殺意が、心の奥で芽吹くのを感じていた。だが、彼女の言葉にうなずく事は出来ない。 「冷たいよ……。ねえ、私の敵討ちに付き合ってよ!」 「海を渡る旅は好きじゃない」 「なによそれ、意気地なし、ばか、臆病者、怠け者!」  知っている限りの悪口を叫び続けるティアから逃げるように、暗い地下道を早足で戻る。  だが、城へは戻らず、北東へ伸びる新しい通路をたどった。  たまったホコリを湿り気が固めているのか、敷石はねっとりとした感触に覆われていた。後ろを気にしながら、ついてくるドルクの足音も湿っている。  城内にはもう、動く者の気配はない。たとえ、なりそこないがまだ残っていたとしても、何のためらいもなく浄化の術を使うティアの敵ではない。むしろ私がいたほうが足手まといだ。  在りし日の思い出を無残に砕く城の有様と、変わり果てた父の元忠臣たちとの戦いで、とっくに心は限界になっていた。ティアの言葉も戦い方も、日光の様に苛烈すぎる。既に、会話する気力も残ってない。 九 御座船  潮の香りが強くなってきた。耳を澄ませば地下道の先から、波の音も聞こえてくる。万が一のとき、落ち延びるための長い抜け道。この地が平和でなくなった証だ。  そういえば、眠りをむさぼっていた城にも、新たな通路が掘られ、ワナが多数仕掛けられていた。多分、城と地下の寝所を守るためにドルクたちが作り上げたものだろう。 「世界はもう、我らのものではなくなった……か」  気を抜いたら、油断したら滅ぼされてしまう。臆病なウサギのように、耳をすませ、ワナを仕掛け、寝所を移し、テンプルが差し向ける刺客の裏をかく。そうして、考え付く限りの手をつくしても、無事に次の夜を迎えられる保証はない。  重苦しいため息をついて目を上げると、そこに海原が広がっていた。  月の下でうねり、牙をむき出しにする波の群れに圧倒されて、しばらく立ち尽くした。  道はそこから、ガケに刻まれた階段に変わっていた。吹き上げる風に持っていかれそうになるマントをしっかり体にまきつけ、慎重に下まで降りる。波が引いた時に、湿った砂地を踏み、衛士長の記憶にあった、ガケの下にうがたれた洞窟に足を踏み入れた。  白砂の上に黒い船が“浮いて”いた。  帆は外され、縄も全てくくられ巻きとられていたが、三本の朱いマストと銀色の窓枠がほのかに輝く船尾楼は昔のままだ。もっとも新しくてもっとも小さく、そして一番早い御座船。 「クインポートから出たあと……ここに隠されていたのか」  引力を遮る力場と風の結界に護られ、海とグラスロードをすべるように走っていたセレネイド号。  宮殿に見紛う壮麗な船をもつ太守もいたが、この地を取り巻く厳しい自然と経済状態では、控えめなこの船ですら、背伸びしすぎた買い物だった。莫大な建造費の返済は滞り、結局半分も返さないうちに、造り上げたシーナンも施主だった父も滅びた。  荒波を越え、遠いセントアイランドまで一月以内に辿りつくため、速さを求めた船体は強く細く、見た目は人の為の帆船とそう変わらない。だが、光の入らない十の貴賓室と、会合が行えるホールは備えられていた。そして船底には二十室の…… 「ティアさんは、太守の旅がどんなものか知らないんですよ……その残酷さも」  振り向くと、ドルクが波打ち際に立っていた。 「四十年前のあの日から、セントアイランド城で会合が開かれることはなくなりました。二十年前には森の太守も、ドラゴンズマウントの太守も滅ぼされ、この船が向かうべき地はもうございません。ティアさんが物心ついた頃には、『船』は海を渡らなくなっていたんです」  一月以上前から、寄港する予定の港や町に先触れを出し、準備を怠り無く整えて始まる、数年に一度の船旅。帆を新しく作らせ、優秀な水夫を雇い入れ、彼らと随員のための食料と水を調達し、最後に、金は無いが夢と自信だけはある年若い同行者たちを募る。  清潔で居心地のいい船室と、海難事故の確実な回避、十分な食事を約束して集められる、船賃を払えない旅人達。彼らには船室を出る自由はなく、必ず目的地にたどり着ける保障もない。  たそがれと共に衛士が訪れて彼らにクジを引かせる。当たってしまった者は船上では贅沢となる湯浴みの後、白い薄物一枚の姿で太守の晩餐の席に招かれて……旅が終わる。  そうやって、彼らのうち約半数の夢と根拠の無い自信を船上で奪ってきた。  知り合いのいない港町で解き放っても弱った体では野垂れ死ぬだけだから、飲み尽くしてしまえと父はいったが、どうしてもできなかった。苦笑して腕の中から犠牲者を引き取った父が、最期まで血をすすりとる様を、黙って眺めていた。  最後にこの船で死なせたのは、クインポートでの商会勤めを望んでいた青年だったろうか。水平線にまたたく目的地の灯を切なく見つめていた彼の心の中は、服と共に浴室においてきた紹介状の事で一杯だった。数口味わったあと、転化したばかりで多くを必要としていたネリィに譲り……無邪気に飲みつくす彼女を見ていた。 「今から帆を発注しても整うまでに半月はかかるでしょうな。港町ではなくなったバフルで熟練の水夫を集めるのは難しい。それに……どのみち、この船は使えないでしょう。 中央大陸の街々で補給のために投錨しても、集まってくるのは貧しい旅人ではなく……恐怖に駆られ、油と炎と武器を手にした大勢の襲撃者でしょうから」  クインポートでの惨状を思えば、中央大陸どころかこの東大陸でも、船が無事に昼を過ごせる保障など無い気がした。 「敵討ちに、ティアに付き合ってやりたいというお気持ちがおありですか?」  問われて心をあぶる焦燥感を思い出した。生命の危機に陥った彼女を助けなければという、義務感にも似た思い。ティアの父親を死なせてしまった後悔を基点として生じた、危なっかしい少女に対する保護欲。  だが、仇を求めてティアが遠い地へと旅立ってしまえば、イモータルリングを介して死にかけている事が伝わっても、蘇生させるのは難しくなる。まして幾重もの結界に包まれたセントアイランド……いや、ホーリーテンプルに、大地の真裏から力を届かせる事は不可能だろう。  傍らに居て守りたい。しかし 「ここを離れて旅に出るなど……出来ないし、海を渡るすべも無い。それに、待っていればいずれ向こうから来てくれるだろう?  私を滅ぼすために」 「……方法が無いわけでもありません」  ドルクは心を静め、主に真意を読み取られないように慎重に言葉を選んだ。 「ティアさんの言うとおり、クインポートで船に乗って追いかければよろしいのです。月の中頃には中型の定期船が入港するはず。偽名で旅券を用意させて、人間の旅人を装って海を渡れば」 「そんなこと……出来ない」 「半月、いえ風の良い季節ならキングポートまで十日もかからないはず。それぐらいなら、食事をなさらずともお命に関わるようなことは無いでしょう。 四十年ほったらかしにしても、代理人たちはちゃんとやっていてくれました。あと半年ばかりアレフ様が勝手をなさっても、問題など起こりませんよ」  なるべく気楽そうに、なんでもないことの様に言ってみる。実際、バフルの代理人も、彼女が選び出して主に差し出した代理人候補達も、しっかりしている様に見えた。彼らの裁量に任せてしまうほうが、やる気の無い太守に居座られるより遥かにマシだろう。  何より、このまま座していてはアレフ様は確実に滅ぼされてしまう。ならば、領地も立場も捨てて、いまだ混乱から抜け切らない中央大陸に身を潜めるのも悪くない。旅を続け居場所を定めなければ、生き長らえる可能性が見えてくるかも知れない。 「二人とも、こんな所にいたんだ」  声と一緒に、最後の数段をぽんと跳んで、ティアが降ってきた。 「始めて見た。これか御座船ってヤツなんだ。動くの?」 「……海にはもう、出られません」 「なんで。底に穴でも開いてんの?」  わが主に滅びの運命を招き寄せるシガラミ。それを断ち切る斧となってもらうため、機会あるごとに、さりげなくティアに吹き込み続けた。同じ仇に父親を奪われた、貴女と同じ憎しみを心に抱く方がすぐ傍に居ると。貴女の悔しさも哀しみも全て解ってくれる、心強い同志だと。  仇討ちの成否など、正直どうでもいい。真理の探究だけを悦びに過ごしてきた年月の中で、わが主がいつしか薄れさせていった生き抜こうとする意欲。その源となり得るならば、どんな下らない理由でも構わない。色恋であろうと報復であろうと。 「今度、クインポートから出る定期船は、この船より一回り小さいですし、一等客室を取ったところで昔の様な快適な船旅は楽しめないでしょうが……多少の揺れをガマンしていただけるならば」  しゃがみこみ、白砂から浮いた船底をなでていたティアが笑顔で立ち上がった。 「付き合ってくれるの?   よかったぁ、お金なんて持ってないから、また密航でもしようかと思ってんだ」 「またって……家出した時にも?」 「うん、コーカイシとかいう人と一晩付き合ったら、こっそり乗せてくれたの。あとで、船長にすんごい叱られて、一緒に三日間メシ抜きになっちゃったんだよ、ひどいと思わない?」 「ちょっと待って、二年以上前というと……十三歳で男と一夜を過ごしたという事に」 「それが、どうかした」  貞操観念の違いに目まいを起こしている主の初心さを、微笑ましいと思っていられない日々が始まる。  来月の大型船を待たず、次の船で出るよう進言したのは、もし正体を見破られても五十人が相手なら一夜で制圧する事が可能だからだ。  そうなれば、操船に必要な最低限の船員をしもべとして呪縛し、アレフ様に必要な数人の客を残して、他の乗員乗客全てを海に放り込むことになる……果たして、海賊まがいの乗っ取りを、是として下さるだろうか。  キングポートに無事着いたとして、いつ正体を暴かれるとも知れない不安はつきまとう。明日眠る場所も定めない旅行中に“金では購えぬ食料”を得るためには、強盗同然の行為が必要になる。  はるか昔、山賊の仲間だった事が、よもや役立つ日が来るとは思ってもみなかったが、巡り合わせとはこういうものかも知れない。  ティアはアレフ様を同行させる本当の意味をわかっているようには思えない。  いや、船に乗るまでは、お二人とも解っていないほうがいい。  追い詰められ、ほかに手段が無ければ、出来ないと思い込んでいた事も意外と出来てしまうものだろうから。  ▽ 第五章 出で立ち △ 一 旅装  今の城に行くのは不安だった。  先代のロバート・ウェゲナー様の服なら三度作ったことがある。前は不安な事は何もなかった。しかし新しいご領主は……アルフレッド様はどうだろう。  使い慣れた巻き尺、採寸表と鉛筆、問屋が置いていった最新の生地見本。仕立て屋のクリムはカバンの中身を再確認しながら、最近薄くなってきた頭の中で、街で聞いた噂をひねくり回していた。  本当の年齢は先代様と大して変わりない。だが、見た目は若い。城にモル司祭が放った魔物を一掃したのなら強い魔力を持っているのだろう。しかし、四十年間眠り続けていたから、面識のある職人仲間はひとりもいなかった。老舗の靴屋が古い足型を出してくれたが、左右に目立った違いが無く、肉が薄い事ぐらいしか解らない。  代理人の使いが服の仕立てを頼みにきたとき、クリムは十五年やってきた店を畳むか弟子に任せるか考えている最中だった。断ろうかとも思ったが、違う土地で新しく店を構えるとなれば銅貨一枚だって欲しい。結局承知してしまった。  だが寸法が解らない。御用職人だった仕立て屋は亡くなっていた。跡取り娘は帽子屋に商売替えしていて、昔の記録は何も残っていなかった。城には行かなくてはならない。気が重かった  馴染みの無い客。しかも権力者とくれば誰だって腰が引ける。ちょっと物言いが気に食わないとか、わずかなしくじりで罪を着せられ処刑される事もありえる。それ以上に、人を食う存在だという真実が恐い。  夕日を背にブドウ畑に刻まれた坂道を登り、日没と同時に城についた。  門を警護していた衛士に招きいれられ、石造りの廊下を行く間も不安だった。立ち襟に蝶ネクタイ、黒無地に貝ボタンをあしらった型の古い衣装の案内人にも馴染みが無い。ドルクと名乗り新しい領主の側近く仕える者だとにこやかに話しかけてくれたが、クリムには狼の笑みに見えた。  通されたことの無い西角の部屋に案内され、新しいご領主に引き合わされたとき、じっとりと手に汗がにじむのを感じた。 「呼びつけて済まなかった。急ぎ旅装をひとそろい仕立ててはくれないか。材料と方法は任せる」 「それでは、失礼してお体を測らせていただけますでしょうか」  目を見ないように注意して巻尺を首にかけ採寸表を鞄から出す。助手は連れてこなかった。危険は自分一人でいい。 「手伝いましょう」  手を差し伸べる案内人に礼をいって記録を頼み、采寸に取りかかる。上着を脱いだ不死者の体を正確に細かく測ってゆく。先代様より細く手足がひょろ長い。しかし布の下の硬く冷たい感触は同じだった。鉄の腕《かいな》ともいわれる強靱な肉体。生身の体ならひとたまりもなく掴み潰され引き裂かれる。  その体を覆うシャツは布地も仕立ても良いものだったが、型は古くあちこち擦り切れかけていた。墓場の匂いがするような気がした。 「取って食いはしないから、落ち着いて仕事をしてくれればいい」  いつしか指が震えていた。クリムはおのれを叱咤して何とか采寸を終えた。 「三日お待ち下さい。ご満足いただける品をお持ちいたします」  今着ていた衣裳で好みも大体分かる。 「よろしく頼む」  紅い唇がつり上がる。肉食獣の笑み。気に入らなければ食い殺されるかも知れない。  クリムが店に戻ると使者を通じて手付け金が届けられていた。  クリムは采寸した表を見習いの小僧に書き写させ、同じ体格の若者を捜しに行かせた。  まずはシャツの型紙を起こす。襟は多少広く当世風に。しかしボタンは隠して派手さは抑える。袖が少し膨らんだ艶と張りのある白無地のシャツ。皮脂の汚れとは無縁なお方だが、三枚分裁断した。先代様の様に、胸元に赤い染みをつける事もあるだろう。  旅装ならば上着は丈夫な布がいいだろう。青ざめた白い肌と銀の髪が映える滑らかな黒い布。銀色の裏地と唇に合わせた血の色の飾り紐。それらを問屋から取り寄せる間に数点のデザイン画を描き、弟子のカイルと職人たちに見せて感想を聞いた。  型紙に起こしたのは腰周りを絞り込んだ物。広がる裾には三つのスリット。肩に入れる芯は小さめ。袖は動きやすさを優先して余裕もたせ、背の中心と脇下には大胆に切れ込みを入れた。同じ布で作るズボンは真っ直ぐな足の線が出るよう極力飾りを廃し体に沿わせる。  翌朝、追加だと“直し”の依頼書と共に届けられた夜空を思わせる布で裏打ちしたマントは、一度解いた後、繊細なヒダが出るようクリム自らが慎重に針を進めて縫い直した。  仮縫いは、小僧が見つけてきた細身の若者に銀のカツラを被せて済ませた。クリムはお針子を集め、職人たちと共に一昼夜かけて衣裳一式を縫い上げた。木型を見せてくれた靴屋に頼んだブーツ、その知り合いに依頼した、黒い皮手袋や靴下、ベルトに物入れといった小物も何とか整った。  夕刻、それらを収めた箱を抱えて馬車に乗り込んだときは、疲れと出来栄えにたいする自信で、前ほどの恐れはなかった。  同じ部屋に通されたのも落ち着けた理由かもしれない。ドルクに手伝わせてご領主が新しい服をまとうのを怯える事無く見ていられた。  思った通りに出たヒダと影にクリムは満足した。夜の闇と月光が凝ったような姿に見とれた。寸分たがわぬ体形のはずだが、仮縫いに雇った若者とは風格が違う。  主従からの賛辞を頭を下げて聞き、その後、普段用のコートを頼みたいと言われた。クリムは首を横に振った。 「弟子のカイルにお任せ下さい。私はこの仕事を最後にバフルを出るつもりでおります」  思ったよりすらりと言葉は出た。 「それが良いかもしれないな」  応えたのは若者が不意に年をとったかのような……本当の年齢の声。気迫のない、敗北者の響きだった。  君主としての装束ではなく旅装を注文する新しい領主。クリムは確信した。この方は領地を捨てようとしている。この小さな大陸の外は人の世界なのだ。近いうちこの地にも夜明けがもたらされる。その前に、密かに逃亡しようとしている。  クリムが作った衣裳には危険な闇が込めてある。この上なく魔物に似合う服。それは海の向こうの同胞へ放つ警告だ。血の香りと闇をまとう旅人に近づくなと。黒ずくめの異邦人が秘める牙に気をつけろと。  クリムはドルクから残りの代金を受け取った。ずいぶん重くて慌てたが 「新しい地での店の資金に当ててください、とのことです」  そう言われて初めてクリムは魔物に感謝した。  一ヶ月後、通りの店を弟子に任せたクリムは、妻が唯一遺してくれた娘を連れてバフルを出た。 二 偽名  教会が再開されると、工房が作る組合や、大商人らとの関係は改善した。  歩み寄りの証として代理人事務所にやってきたのは褐色の肌と巻き毛を持つ、独立したばかりの調香師。会合で損な役を押し付けあった末、慌てて差し出された贄かと思ったが、当人の強引な立候補と知ってイヴリンは驚いた。  あの夜、疾走するアレフ様を見てしまったらしい。  無意識の魅了……罪な事をなさる。  血と引き換えに太守の後ろ盾を望む香水屋を伴って、イヴリンが城を訪れたのは出立の直前。  表面的には昔どおりの威容を誇る広間。だが、かつてを知る者の目には、薄いじゅうたんは床の応急修理の跡を隠す為だと知れる。新品のタペストリーは絵柄同士に関連性もなく、色合いも軽く感じられた。  赤いベルベットを掛けた玉座の前で商会の代表者を迎えたアレフ様の装束に、かすかに眉をひそめる。一応、領地を掌握する為に、視察に出かけるというウワサは流してあったが、このような場面では略式過ぎないだろうか。自己紹介の途中で瞳を捕らえられ、頬を上気させて冷たい抱擁に身を任せた調香師は、気にしていないだろうが。  張りのある褐色の肌を楽しむようにゆっくりと唇を這わせた後、牙を閃かせて首筋に顔を埋める様をイヴリンは見ていた。うっとりと細められる目と、香水屋がもらす溜め息に喉の疵痕がうずく。この感情は嫉妬、だろうか。  正式な場で丁寧に味あわれている調香師と、支配関係を確立する為の形式的な一口しか飲んで貰っていない私。状況が違うと言ってしまえばそれまでの事。量と回数を抑えるのは、有能なしもべを長くもたせたいという意向の表れ。信用されている事を誇りにこそ思え、心を揺らせる理由は無い。  抱擁を解かれた香水屋が陶酔にひたったまま退出する。扉前で警護していた衛士も共に去り、空虚さが残った。  笑みを浮かべ後味を楽しんでいる主にそっと声をかけた。 「ウェルトン様……リチャード・ウェルトン様、リック!」  夢から覚めたように主の目がイヴリンに向けられる。 「ああ、私のことだったな」 「一瞬、反応が遅れただけでも、目ざとい者は気づきます。ドライリバーを越えるまではお気をつけ下さい」  携えてきた五冊の手形帳を差し出しながらも、不安がよぎる。人を介して複数の名義で口座を開いたが、為替による海を越えた送金を司っているのは教会だ。 「うち一つは古い口座を孫が相続したという形に。筆跡がそっくりなのは祖父に似たのだと言って」 「手数かけたね。……その上、こんな物まで押し付けようとしている私を、恨んでくれて構わないよ」  引き換えに渡された水晶球は、手には温かく感じられた。肉体を持たない精神だけのホムンクルス。そう説明は受けているが、正直仕組みはよく解らない。  解っているのは使い方。特定の呪を唱えれば、しばらくの間だけ水晶球を持つ者の心と代理人達の心を繋ぎ、アレフ様の代わりに心話を送る事が出来る。同じ声音《こわね》で……いや、心色《うらいろ》という言葉を使っておられたか。  距離が遠くなれば心話は弱まる。遠い地では季節も違えば日没の時間も異なる。本当はこの地を離れていると気づかせない為の術具。目を凝らせば赤く細い筋が水晶の内部に幾つも走り、繊細な模様を織り上げていた。この色は血、だろうか。 「歳若い代理人には特に気配りを……ひとりで解決できない問題なら、水晶を介して老練な者に助言を求めればいい。私より的確な答えが返ってくる」 「皆をあざむく様な術具を作られずとも、わたくしを闇の子にしていただけば、名代を務めさせていただきますのに」  黙って首を振る主に、やるせなさを感じる。滅びの道連れとなる命の存在が、主をこの世に繋ぎ止める縁《よすが》になればと思っての申し出。永遠の命などという幻想に興味は無い。 「まずはジェイルの工房に、香水ビン製作を考慮するよう指示を出してみてくれないか。貴女が連れてきた巻き毛の青年の望みだ」  腕の良い型師を抱えたワインボトルの工房。てのひらに乗る小瓶など児戯にすぎぬと門前払いを食らった。そう、道みち香水屋が話していたのを思い出した。 「わずかな血と引き換えにどれほどの力を得たのか……彼も疑っているが、私自身も知りたい。知己のいない工房が、時代に取り残された老人の言う事を聞いてくれるものかどうか」  イヴリンの肩に軽く手を触れた後、扉へと向かった主が突然声を上げて笑った。 「どうなさいました?」 「必死に権威の網を張ろうとしているのが自分でもおかしくてね。晩秋に壮大な巣を張るクモの様だ……どうせすぐに凍えて死ぬのに」 「不吉なことを」  クモの雄は秋に恋をする。そして思いを遂げたあと雌に殺されるという。その身を次代に捧げるために。 「あの、聖女見習いはどうしています?」 「書庫に入り浸っている。精霊魔法を覚えたいらしい。辞書片手では何年かかるか」  手に入れた存在の貴重さを彼女は分かっているのだろうか。アレフ様が滅びてしまえば血の絆は崩壊し水晶球の力も失われる。東大陸の秩序の要を預ける以上、身を犠牲にしてでも守っていただかねば。  間違っても、食ってもらっては困る。 三 宿命の対決  夕闇の中、焚火が揺れ、緊張したティアの頬にも熱気が揺れる。  相対している敵はマントをはおったまま、身構えもせず悠然とたたずんでいる。  身のほど知らずな挑戦者を見下している魔王みたい。でも、油断からくる余裕の態度には、手痛いしっぺ返しが付き物。教宣用の英雄歌でも人形芝居でも、この手のカタキ役は、甘く見ていた挑戦者の実力に驚き、本気になったところでヤラれちゃうのがお約束。今だってそうなるはず。ティアは確信していた。  この瞬間をずっと夢見てきた。  そのために寝る間も惜しんで、努力した。  知識を貪り、体をいじめてきた。 「体コワして、今に死ぬって」 「男になりかけてるぞ、ムネ全然育ってねーし」  聞こえてくるのは心配にカコつけた呆れ声とやっかみばかり。けど、少しずつ認めてくれるようになった。  特に格闘術……ガルト拳師は心強い味方になってくれた。教科書にはのっていない危険な技や奥義まで教えてくれた。  術の先生は、男のほうが攻撃呪を扱う集中力に長けてる。女は補助のための呪を覚えるべきだって伝統に固執して、使い物になンなかった。だから書庫に忍び込んで本から学んだ。  一番覚えたかった術、ホーリーシンボルに関しては、正式な司祭にも負けない知識と理論を頭に詰め込んで、演習も繰り返してきた。今のテンプルで最も強い光だと後見のメンター先生は褒めてくれた。  今はまだ発動させるまで時間がかかり過ぎるけど、威力についてはバフルで実証済み。  唇を舐めた。薄く笑みが浮かぶ。  倒したいと願いつづけてきた敵が今、目の前にいる。  だけど、今から始めるのは殺し合いじゃない。お互い武器も魔法も使わない。そう取り決めた“試合”だ。  アレフは本気じゃないだろう。熱心に頼んだあたしに根負けして応じてくれただけ。手を出さずに避け続け、疲れを待つ気なのはわかってる。速さと持久力には自信あるだろうから。  でも、しばらく一緒にいたから、こいつの戦い方のクセは頭に入ってる。そして、大きすぎる欠点も。 「いくわよ」  まずは本気になってもらう。  構えて、相手の目を真っ直ぐ見つめ、大地を蹴る。  そばで成り行きを見ていたドルクの口から「ほう」と感嘆の声が上がる。瞳の力を使わないと計算した上での戦い方。アレフも一瞬驚いたのか、余裕で避けられるはずの拳があごをかすった。  続けて回し蹴りを放つ。焦ったらしく防御のために手が出てきた。けど予想済み。ハンパな体勢ではいくら人間離れした力でスネを打たれも、たいした事はない。むしろ有利な間合いに持ち込んだあたしのヒジのほうが強い。  伸ばしていたヒザを曲げ、守りとすねへの攻撃の為に伸びてきた手刀を空振りさせ、回転と体重をかけたひじ鉄を脇に打ち込む。肋骨にヒビ入ンなくても、女の子の攻撃をモロに受けた驚きはかなりのハズ。特にケンカ慣れしてない“男の子”なら。 「防戦では、あたしに勝てないわよ」  脇を押さえよろめいたアレフに宣告して、言葉が終わる前に連続で拳を繰り出す。さすがに優雅によけ続けるって作戦は返上したらしいけど、弾くだけで攻撃してこない。これがもう救いようの無い最大の欠点。  生前の意志を失い、腐り残った本能だか反射で襲ってくる“なりそこない”にさえ手加減する。  もう、何度注意したことか。  こいつには状況がまったく分かってない。  その上、体系化された格闘術はもちろん、我流のケンカ拳法すら一度も考えたことがないと思える、ムダのありすぎる動きと不安定な構え。せっかくの速さと力が全然生かされてない。  これならあたし勝てちゃうじゃない。  だから今日、試してみる。  避けた時に広がったマントの影を利用して、カカトを首筋に叩きこんだとき、さすがにアレフの目に戦意が閃いた。直後に繰り出された突きを、あわやという所でのけぞってかわす。  本気になったヴァンパイア相手に、一対一で戦って人間が勝つなんて、まず不可能だ。生き延びる事さえ難しい。だけど、その不可能を可能にするために、テンプルは諦めずに研究を重ねてきたハズ。  いままでしてきたのは、対人間用の格闘術。  でも、今からするのは違う。  人間より遙に反射神経が鋭く力も強い敵との戦い方。習得した技は、本当に通用するのか……  ティアはぞくぞくするような高揚感を覚えた。  ティアの顔が左右の目にズレて映る。気持ちが悪い。脳に加えられた振動のせいだ。首もうまく動かない。もし生身だったら頚椎を損傷している。  これは為し合いじゃない。ティアは明らかな殺意をもって腕と足を繰り出してくる。このままでは殺される……いや“壊され”る。  焦って出した右手は、また空を切った。  跳び離れたティアのきらめく瞳。親族含めて死罪となる大逆を為そうとする者の顔。いや、立場と義務を投げ出した時から、太守としての法的特権は失っているか。  クインポートまであと半日。街道から少し外れた牧草地に人影は無い。馬車を換えフードを目深にかぶり軽い幻術をまとっての、忍びの道行き。斃されても死体が残らない身ならば、ティアを咎める法は無い。目撃者がいなければ……  ああ、ドルクがいた。止める素振りもなく、夕食の支度に勤しんでいるが。  考えている間に目の焦点は合い、首の痛みは消えていく。だが、回復に関して条件は等しい。私が滅びない限り二人とも死ぬ事は無い。  ならば、ティアの手か足を折って行動不能にすれば、このバカげた事態は終わる。幸いイモータルリングを介した心理干渉は拒絶されている。同調してこちらまで痛みを感じる事も無いはずだ。  為し合いである以上“まいった”の一言でもこの事態は終結する。だが、負けてもいないのに、口にはできない。ティアの身を思ってナドと言い訳したら後が怖い……気がする。  ティアの右腕に殺気を感じる。  突っ込んでくる前に、跳び込んで掴もうとした。突き出されたハズの拳が消失する。左側頭を殴られて混乱した直後に、ミゾオチに尖ったモノが食い込む。灰色のスカートの影にある足首を掴もうとしたが、そこには何もなかった。  距離をとって心を落ち着ける。さっきまでの打撃と違って痛みはさほど無いが、ティアの動きが見えない。いや、違う。見えているのとは少しズレた位置から手足が来る。おそらく錯覚を利用した技だろう。悔しいが身体の扱いでは彼女の方が長じている。  私に、ティアの手足は掴めない。  ならば動きの鈍い胴体か頭……は、幾らなんでも危険すぎるか。肩を捕らえ骨を砕いて動きを止める。こちらの手も無事では済まないが、このままでは勝てない。  狙いを定めた直後、ティアの方から突っ込んできた。肩に伸ばした手が打たれて外れ、横合いから重いものが叩きつけられた。夕空が回転する。  気づくと目の前には青草。その向こうでティアが太ももを撫でながら息を整えていた。ダメだ。胴体に集中すると末端と他の四肢の動きが完全に視界から消える。  だが何度打たれ蹴られても、諦めなければ……最後に一つでも当てれば勝てる。  同じように回復はしていても、生身には限界がある。柔らかな筋肉は栄養素を消費し続け熱を帯び疲労が蓄積する。必ず動きが鈍る時が来る。  そのためには、休んではいられない。  立って、可能な限りよけて、変化を待つ。  喉を突きにくる左手を、体をハスにして避けた直後、足の甲に痛みが走る。うずくまろうとした腹に一撃を食らう。  だが、今回のは確かに見えた。  踏まれなかった足で踏み込み肩に手を伸ばす。掴みきれなかったが、服にはかすった。  限界が、来た。  次は捕まえる。  反転しながら背後へ回ろうとするティアの腕がはっきり目に映る。  これなら楽に手首も捕らえられる。掴んでひねり上げれば、終わる。  手が届く寸前、彼女の腕がブレた。爪に柔らかい肌を裂く感触。赤い線から血がしぶく。鮮烈な色と香りに思わず手を引いた直後、灰色の塊が胸にぶつかり、手のひらで突かれた。心臓がひしゃげるような激痛。うその様に体が宙に舞う。地面に頭が叩きつけられ感覚が途切れた。  意識を引き戻したのは、胸が重量物に潰される衝撃。血が逆流する苦しさに体が反る。何が起きているのか知ろうと開けた目を白い光が刺した。  耳には心地良い歌うような詠唱。地面に走る白い方陣。  これは、ホーリーシンボル。  対処法は術者を殺すか……効果範囲から逃げる。  手に力が入らない。  痛む足が空しく地面を掻く。  わずかなら移動できるが術式完了まであとわずか。間に、合わない。  右ヒザいっちゃったな。立ってるのも辛い。けど胸骨ごと心臓ツブせたんだから安いモノ。痛みでかえって破邪呪に力がこもる。  こいつさえいなければ、父さんは、よそン家の父親みたいに家族だけを愛してくれたはず。母さんが新しい恋人と出てく事もなくて、あたしは夕空を見上げて泣いたりしなかった。  このバカが四十年も眠ったりしなければ、父さんは辛い思いしたあげくに、あんな酷い殺され方しなかった。あたしも牢屋でカツえたり凍えたりしなくて、胸を刺す痛い夢を見て飛び起きる事もなくて…… 「でもね、ティア。 君が生まれたのも、私と出会えたのも、お父上を呪縛した魔物のおかげ、とも言えるんだよ」  メンター先生、あなたが言ってた事は、悔しいけど正しい。  父さんが結婚したのは母さんが似てたから……魔物が愛して失った娘に。たぶん父さん自身の想いじゃない。母さんがあたしを身ごもったのは、そんな父さんを振り向かせるため。でも、ダメだった。まだ若かった母さんは傷ついて絶望して、人生をやり直した。  それに、アレフが眠り続けてなければ、老いて寂しくなって結婚なんか考えだす前に、父さんの命は啜り尽くされてた。独身であるべき代理人がもうけた、あり得ない子供。  光の方陣から逃れようと無様にあがいてるこいつが、父さんを食い残してくれたから、あたしはここに居る。  だからって感謝する気には、やっぱりなれない。  ……でも、敵討ちを手伝ってくれそうな心当たり、他に居ない。 「ティ、ティアさん!」  見物を決め込んでいたドルクが、慌てまくって叫んでる。 「冗談よ、ジョ・ウ・ダ・ン」  詠唱を中止して、笑ってみせた。 「あたしを侮って、最初本気出さなかったバツ」  ヒゲオヤジってば、剣に手をかけてニラんでる。ちょっとヤバかったかな。  回復の呪文を唱えた。心の奥に感じる光を呼んで、広げて包む。  切り裂かれた腕と、不自然な動きを強いて壊れかけてた手足の筋肉、それと右ひざの痛みが軽くなっていく。  治癒の効果は、倒れてるアレフにも及んでるはず。  そろそろ口、利けるかな。 「どう、これが今からアレフが闘おうとしているテンプルの力よ。しかもあたしは見習い。下っ端だからね」  身を起こしかけて胸を押さえたアレフから、ささやくような声が聞こえた。 「お強いんですね」  危機感のない言い方に、ムカついた。 「まだ、分かんないの! テンプルが得意なのは今やったみたいな個人戦じゃなくて、数人が連携する集団戦! あんたは魔法を使わなかったし私も補助魔法は使わなかった。 でもね、 ホーリーシンボルを中止しなかったら、今頃滅びてたのよ。 あたし一人に苦戦してて、この先どうなると思ってんの?」 「いや、でも今まで見たテンプルの司祭と比べたらティアの方が。あのクインポートにいた……ラットル?」  あたしを縛ったまんま牢屋に閉じ込めて、焼き殺そうとしたムカつく司祭か。馬車に細工しようとして、とっとと逃げだした意気地なし。 「あれはクズよ」 「あんなのを基準にしちゃダメ」  だが、ティアを基準にするのはもっと間違いだろう。  初めて会ったとき、彼女の言葉にこもる意志の強さと目の光にアレフはおどろいた。周囲の目を引き、好悪ないまぜの感情を喚起し、騒動を振りまき続ける娘。  禁呪を操り父を滅ぼしたモル司祭。テンプルでもっとも実力と実績があるはずの彼に、殺されかけたとティアは言った。  目を覆いたくなる内規のゆるみと身びいきが横行するテンプル。仲間である見習い聖女を、あれほどの手間をかけて公衆の面前で処刑するなど……。密殺では安心できず、確かに死んだと大勢の証人を必要とするほどの、怖れを抱いたのではないだろうか。 「あたしはテンプル流拳法の名人ってわけじゃないよ。最近は術のほうに力入れてたし……並ってとこかな。 それに女の子だし、腕の長さでも不利。あたしが勝てたのは奇跡だって、誰もが思う。でも、あたしはもう一度勝つ自信あるよ」  わかっている。本気になっても、かするだけで触れる事も出来なかった。最後にティアの手首を裂いてしまったのは、心臓への一撃を放つための目眩ましだったと、今ならわかる。最後までいいようにあしらわれた。  もし、なんらかの武器……スタッフを持っての試合だったら、もっと早くティアが勝っている。  だが、今まで人間に負けた事はない。未知の魔法にかかったような気分だ。 「この前城に侵入したテンプルの……」  反証を挙げようとした口をつぐむ。ティアの同僚にした非道を思い出した。怯えきった虜囚の血を力尽くで飲んだ。飢えに苛まれて、という言い訳は卑怯だろう。 「そう言えば、クインポートに帰ってきたモル司祭ご一行、人数が足りなかったわね。何人かはカウルの山城にいったんだ。で、あんたが倒したの?」  絶句した。 「無理よね。ドルクか、城に放し飼いにしてる使い魔にやらせたんでしょ。 今の顔からすると、とどめだけは刺したんだ。どうせ武器を奪って縛り上げた無抵抗な捕虜の首に牙を突き立てたんだろうけど」  縛り上げてはいないが、装備を奪い光の無い牢にバラバラに閉じ込めた。それに彼らは殺されるかもしれないと怯えていた。何があっても命までは取られないと確信しているティアとは違う。少し曖昧にうなづいた。 「完全武装した聖騎士に、あんたが勝てるとは思えないもん」 「生け捕りにしたかったので、罠にかけて一人づつ捕まえました。確かに、テンプルの連携戦術は侮れませんからね」  切れ目を入れた丸いパンに、あぶったくんせい肉を挟みながら、ドルクが深刻な顔で同意する。 「ヤバいと思うでしょ?  テンプルはひたすらヴァンパイアを倒すことだけ考えて来たのよ。闘うことがオシゴトなの。そんな連中を相手に闘おうってのに、あんたは拳ひとつ満足に握れてない素人なんだもん」  胸の痛みが取れたのを感じて、肺に空気を取り込んで吐いてみる。もう血の香りは混ざってない。 「ケンカが苦手なのは性分だから仕方ないとして、せめて魔法ぐらいは実戦で使えるようになってもらわないと。 それに、ある程度体術が出来てなきゃ、呪文を唱える間合ってヤツが掴めないのよね。 というわけで、今日からあたしがみっちり鍛えるから」  言葉の奔流に溺れかけていた頭が、最後の一言を理解したとき、ティアが目の前に立っていた。 「鍛える……って?」  それは無理だ。老いない体は成長もしない。 「鍛えるのは、ココ」  額を人差し指で突かれた。  ため息交じりの精霊を呼ぶ呪と印。  微風がティアの周囲を舞って、大気に溶けていった。 「寝る間も惜しんで魔術書を訳したけど、使い物になンなかった。自律した意思ある風なんて意味わかんない。辞書に限界があるの分かってたけどね。共通文字じゃ抽象的な術のガイネンってやつは表現できないから」  話題の展開についていけない。鍛える話と精霊術に何の関わりがある? 「あたしの頭の中には、古い魔導師が作った旧字体とガイネンってやつが入ってない。だから術をモノにするのに時間がかかる。でも、アレフは多分、見よう見まねでもホーリーシンボル使えるんじゃない? 反作用で滅びちゃうから発動は出来なくてもさ」  出来る、だろうか。考える時間が何日かあれば…… 「多少の変更をしてもいいなら、近い事は」 「丸覚えじゃなくて改良も出来ちゃうんだ、マジすごいね」  あからさま賞賛に、敗北に腐りかけていた気分が少しだけ上向く。 「術だけでなく色んな学問にも、ガイネンとか公式ってあるでしょ。 ケンカとか斬りあいにもあるんだ、公式とか専門用語にあたるものが。頭の中のそれが体の動きに結びつくとワザになるの。あたしはそれを使って闘ってた。 でも、アレフはいちいち考えてたでしょ。辞書片手に共通文字で魔術書を読むみたいに」  複雑な方程式を、教会が教えているような単純な数式だけで解くわずらわしさを想像した時、ティアの言いたいことが……勝てなかった訳が理解できた。 「じゃ、あたし達が晩御飯食べてる間、型の練習ね。マント脱いで」  抗議しかけてにらまれる。 「負けた奴は勝ったもんの言うこと聞くのが約束よ」  いつした、そんな約束。少なくとも試合の前には言ってない。という言葉は飲み込んだ。ティアの正しさは分かっている。 「本当は強い筈なんだから。ヴァンパイアは人を捕食するのに十分な力を持ってるはずでしょ」  だが、それは闘うための力ではない。傷つけないための……諦めさせるための力だ。  時々ティアから殺意を感じる。  私を滅ぼす為に身につけた技術と知識を、当の相手に教えようとする心境……憎しみと愛が似ていると言ったのは誰だったろうか。まだ何色にも染まっていない幼い恋人候補を、理想の伴侶にしようと教育に奔走する恋多き老人のような動機だとしたら。 「鍛えたせいで滅ぼされるのなら、これほど空しい努力もないな」  聞こえないようにつぶやきながら、時々飛ぶ指導に合うよう体を操り、ティアがやってみせた型を忠実になぞる。こぶしの突きから始まり、かわしと防御、そして蹴りに移る一連の動作。  その目的と筋肉と骨の形と構造、力学的な理論が、美しい一つの完成形となっていると感じた。確かに無駄なく力を拳や足にこめることはできる。理にはかなっている。  しかし、別の肉体を壊すための道具として身体を使うという考え方は、楽しくない。なぜテンプルはこうした知識を破壊に使おうなどと考えられるのだろう。創造と永続に使われてこそ、知識は活きるものだろうに。 「やるじゃない、完璧よ。でも……限界まで速く」  口に食べ物を含んだまま冷酷にティアが指示する。 「あのね、アレフはどーしようもないほど華奢なのよ。あたしの腕と大差ないじゃない。身長がある分あたしより重いはずだけど。ドルクと比べていかに情けない体格かは分かるわよね」 「あの……」抗議しかけたドルクが、ため息をついて首を振る。 「殴ったり蹴ったりって技にはあんまり力は関係ないの。手足が筋肉で盛り上がってない場合は速さが勝負。そこんとこをアレフは使い間違ってるのよね」 「ああ、そう言えばティアさんの闘い方は打撃だけでしたね」 「ヴァンパイアと組討ちになったら命取りだもの。いかに体を掴ませないかっていう闘い方を叩き込まれたわ。手首一つ取られて骨を砕かれたら戦力半減。でも、もしもの時は腕一本犠牲にして反撃の関節技、なんてのもあるし、死物狂いの人間は恐いわよ」  それは、恐怖にとりつかれていなければ、という条件つきでだ。 「ティアは……私を恐いと思っていないから」 「そうね。でも偉大な英雄の遺功で偉そうな顔してる困った連中ばかりだと思ってもらっても困る。テンプルにはもっと根性のすわった、あたしみたいのがゴロゴロしてるから」  本当にこんな人間が大勢いるのなら、なぜこの世界がヴァンパイアの配下になったのか、永く安穏に暮らして来れたのか不思議になる。  いや、  だからこそ、もう世界は人の物になったのか。 「それにモルとその片腕やってる聖騎士は間違いなく強いわよ。今のあたしよりはね」 「今の?」  思わず聞き返す。 「近い将来、あたしのほうが強くなる。その時、せめて足手まといになんないようにあんたを鍛えとくの。あんたにとっても親のカタキでしょ。アダ討ちに参加したかったら、文句言わずに鍛練する!」  近い未来、私は狩られ滅ぼされる。元は人であったのに術を使い強力な力を身に付け、生血と富を搾取して永い命を享受してきたツケだと言われれば、返す言葉もない。  敵討ちに行こうというティアの意見は無茶だが、残された時間が短いのなら、積極的に動いたほうが有意義だろう。予定のない不確かな旅も悪くない。海の向こうに広がるのは、私が滅びたあとに来るはずの、この地の未来。  それに、モルという名の命を奪う決心をしたなら、その方法を学び身につけるべきだろう。たとえ返り討ちにあうとしても、努力をしないわけにはいかない。  ティアを死なせたくはない。  ふたたび型をなぞりながら、心の奥から響く思いを感じていた。 四 船出 「リチャード・ウェルトン様、そのイトコのティア・ウェルトン様、そしてドルク・デルイナン様……ご予約いただいたとおり一等船室をふたつ確保してございます。お確かめください」  カウンターに並んだ三枚の乗船券の日付と名義を確かめたドルクは、手形を差し出した。  金額の次に受付係が指でなぞったのは、アレフ様が振出人欄に書かれた偽名のサインではなく、名宛人欄に押されたバフル教会の印。生まれたてのウェルトン商会には実績どころか実体もない。だが、十袋以上の金貨を教会に預けさえすれば、紙切れ一枚で小さな家一軒ぐらいなら買えてしまう。為手というのは魔法や自動人形以上に不思議なカラクリだ。  数枚の荷札と乗船券を入れた皮の書類挟みを受け取り、波止場前の事務所を出る。輝く水平線を背景に、グースエッグ号がマストから下がる索具を静かに揺らしていた。人足たちが水樽の積み込みにかかっている。天候が大きく崩れない限り、出航は明日の午後だ。  薄緑色の船首では、腕を翼に変じた女性像が軽く口を開き潮風の彼方を見つめている。彼女の妙なる歌声が血臭にむせて止まる事があってはならない。その為に、必要な旅支度があとひとつ残っている。  主の気配を探れば、市場の方で人いきれと陽光に参っている様子がかすかに感じられた。魚の匂いと喧騒に満ちた広場へ早足で向かう。売り手の威勢のいい呼び込みと、したたかな買い手の値切る声が、レンガの壁と石畳の間で混ざり合いドルクを包み込んだ。  赤茶色の外套で法衣を隠したティアは、虹色に輝く貝柄の刀子ひとそろいを半額にしようと粘っているらしい。だが、財布を握っている連れの服装が上物すぎる。貝細工屋の老婆は値札から銅貨一枚たりとも負ける気は無さそうだ。  あの二人が周りの者にどう見えるのか考えながら、ドルクはしばらく眺めていた。若夫婦や恋人同士と見るには距離を感じる。兄妹にしては似てない。親戚、友人……いや、わがままなお嬢さまと付き人だろうか。  青空の下では、太陽の傍らに控える真昼の月のようにアレフ様は影が薄い。これは人目を引かぬようにまとっている幻術の効果だろう。  同じ術は、このクインポートである意味有名人なティアにもかかっているはずだが、彼女の存在感は相変らずだ。 「そろそろ宿に向かいましょう」  声をかけると、悔しそうな顔でティアが振り向いた。 「時間切れかあ」  立ち去りかけた直後 「ちょいお待ち。仕方ないねえ、こっちのベルト込みでどうね。暗器だけ買っても腕や足につけられなきゃ、意味無かろうね?」  老婆がやっと折れたらしい。それにしても、腕輪や耳飾りではなく隠し武器とは……えらく物騒な貝細工があったものだ。  市場に近い水鳥亭は、港に集まる商人目当ての真新しい宿だった。一階は魚介類の料理とワインが自慢の食堂。二階と三階は客室。気取りすぎてはいないが、建物は立派でそれなりに料金も高く、接客係のしつけも行き届いている。  部屋が整うまでの間、朝昼兼用の食事を勧められたが、案内されたのは奥の席。柱と籐編みのついたての陰だった。最上階のもっとも広い部屋を要求した客への対応としては及第点といったところだろうか。他の客からの注目を浴びること無くゆっくりできる席。窓から遠いのも助かる。  だが…… 「あ、玉子もちょーだい」  アレフ様が召し上がらない事をごまかすために、隣の皿からも食べてくれと頼みはしたが、もう少しさりげなく出来ないものか。ティアの無作法に、そろそろ給士がイラ立ち始めている。  貝柱のクリーム煮に、ハーブを添えた焼き魚。すべて奪って平らげてしまうティアの健啖振りを、アレフ様ご自身は楽しそうに見ておられるが、傍目には腹立たしい光景だろう。  肉料理を出す機会をうかがっている給士を手を上げて呼び、部屋の方がどうなっているかたずねた。整っていると聞いて逃げ道を見つけた心地がした。 「すみません、馬車に揺られたせいかリック様はどうにも気分がすぐれませんで。出来れば先に部屋に」 「承知いたしました。お客様、お部屋へご案内いたします」  疑問が解けたような笑顔を浮かべて主と共に去る給士を見送ったあと、代わりについた女給を呼んだ。 「少し休まれたら、リック様も何か口に出来ると思いますので、昼ごろに軽い料理を部屋に運んでもらえますかね?」 「では、白身魚と玉子の蒸し物と、干し貝のスープで煮込んだ麺などはいかがでしょう。臭いや油気がなくて体調が良くない時もすっと喉を通ります」 「それはいいですね。よろしくお願いします」  厨房に向かう女給を笑顔で見送って、ほっと息をつく。 「エゲツないことするわねぇ」  テーブルの向こうから厳しい目でティアがにらんでいた。 「心配なさらずとも何も起こりません。泊まっている宿で“食事”をすればどうなるか……それぐらいの分別はお持ちです」  そう、この街ではたぶん何も起こらない。ただ、渇きは自覚されるはずだ。  天井の漆喰には波の意匠。壁には砂浜を思わせる麻布が貼られ、床には海色のじゅうたんが広がっている。白木の調度からは生々しい樹脂の香りがはなたれ、魚をかたどった薄緑色の花瓶が呑む白バラの香りとせめぎあっていた。  水鳥の羽を詰めた寝具は柔らかく軽いが、土から離れているせいか落ち着かない。青く塗られた鎧戸と金茶色の厚いカーテンが陽光を防いではいるが、完全な闇とはいいがたい。数百年ぶりに身を横たえた開放的な寝台は、アレフに浅いまどろみしかもたらさなかった。  船上では、これに揺れが加わることになる。 「馬車で昼をやり過ごすよりはマシか」  数日前から架空の人間……リチャード・ウェルトンを演じてきた。光のある場所では影を足元に作り、ガラスや金属面に姿を投影し、息があるフリを続ける。周りを畏怖させ魅了する気配を、穏やかな無視をうながす雰囲気に変え、代理人の館で休む事もなく、人の間で常に緊張を保ってきた。  しかし、そんなわずらわしさを苦役と感じない、往路とは異なる楽しみがあった。  誰にも恐れられず注目される事もなく、その他大勢に埋没することで見えてくる人々の暮らしと息遣い。贄の心から読み取るしかなかった、普通の人間の生活。駅の待合室で交わされるグチや、市場の露店商の売り口上にすら、新鮮な感動を覚えた。  さっきも慌しくエビと豆のワイン煮をかきこむ出立間際の旅人や、干し果物を焼きこんだ菓子とハーブティーを楽しむ散歩途中の老人、彼らの周囲をめぐり世話を焼く給仕や女中を見ているだけで楽しかった。三階の奥まった部屋に追いやられた事が罰のように感じられる。眺める事に夢中になりすぎて手元の演技がおろそかになった罰だと。  控えめなノックの音がした。  扉の向こうに重い盆を広げた指先で器用に支える女の気配があった。眠ったふりをするには、彼女の心配と思いやりが一途すぎる。真昼独特の倦怠感をおして身を起こし、鍵を開けた。 「失礼します。ご気分はどうですか?」  入ってきた彼女の笑顔が強ばり足が止まる。明りを点けるのを忘れていた。ランプの位置は分かっているが、商人のウェルトンが火の呪を使うわけにはいかない。仕方なく南側の窓を開けた。青空と白い雲が目に辛い。 「お休みのところをお邪魔してしまったようで、すみません」  彼女がテーブルに置いたのは、滑らかな半円の玉子料理と、白い汁に浸った深鉢の麺。困惑しているのが分かったのか、言い訳めいた言葉が添えられた。 「お連れのドルク様がたいへん心配していらして、昼食をお持ちするようにと」  食欲がないと言いかけて、やめた。自分の為だけに作られた料理など、それこそ転化して以来初めてだ。老いた母の時間を大切にしようと、同じテーブルに着き食べるまね事をしていた時期もあったが、あれはあくまで母のための料理だった。  フォークの使い方を思い出しながら、黄色い球面から一口分を切り出す。震えるカタマリを慎重に口に運んだ。ゆるい粘土のような食感の中にほぐされた繊維状の魚肉が混ざっていた。甘みを覚える動物質と塩味は血に似ていなくもないが、美味しいとは感じられない。固形物を拒もうとする喉をだます様にして嚥下した。  次の麺は難敵だ。フォークに絡んだ数本をまき取り、口に含む。潮の香りがする平たい小麦粉の加工物を噛み、スープで強引に流し込む。胃の腑を締め上げるような痛みと、嘔吐の衝動をこらえて、もう一サジだけ温かなスープを口に含んだ。頭の中で白濁した液体を紅い液体にすり替え、なんとか満足そうな笑みを浮かべる事に成功する。  善意が報われたとほころぶ口元を見上げた時、“本物”が手の届くところにあると気づいた。彼女自身が昼食だったのではないだろうか。ほんの数口だけなら健康を損なう恐れもほとんどない。瞳を捕らえて抱きしめて……いや、その前に身を明かして承諾を得て、法にのっとった手続きを経てから、ゆっくりと。  だめだ……そんな事をここでしたら騒ぎになる。  明日の船で立つ事など出来なくなる。 「ありがとう、こんなに美味しい料理は久しぶりです。時間をかけて食べたいので、すみませんが後で食器を取りに来てもらえますか?」  脈打つ首筋から視線を引き剥がし、食べかけの料理に目を落とす。彼女が部屋を出るまで、もう一口分切り取った玉子料理を見つめていた。  気配が遠ざかるのを待って鎧戸とカーテンを閉めた。ほの暗い中、石牙螺貝《つめたがい》を象った便壷にいま食べたもの全てを吐き出した。胃液が無いせいか吐しゃ物独特の臭気や喉を焼く痛みはない。だが吐く苦しさは生身の時と多分変わらない。  空しさと渇きを抱えて再び寝台に身を横たえた。  気を紛らわすために意識を代理人たちに向ける。前にクインポートに来た時は、片手の指で足りる数だった視点が、今はほぼ東大陸全土に散っている。  それぞれが差配する町や村の近況と抱えている問題を確かめ、人々の暮らしぶりをきく。ひどく困窮している者はいないか尋ねるのは、為政者としての当然の義務。そして慈愛の精神からだが……隠された別の意図を含んでいる事を、しもべ達も心得ている。  血の対価で家族を救おうと思いつめている者。生きる事に疲れ果て絶望している者。贄に指名されても拒む事が出来ない者。  馬車を雇い急いで向かえば、朝日が昇る前に戻って来られそうな南の漁村。そこに、舟と男手を嵐で失い破屋で震える妹達を掻き抱き途方にくれている娘がいると知った時、不幸な境遇に同情する心話を送りつつ、口元に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。  身支度を整えながらドルクを呼ぶ。すぐ近く、隣室から応えがあった。警護というより軽はずみな行為を止めるために控えていたのではないかと勘ぐりたくなる。とうに対価となる金袋と馬車の手配を済ませていた手回しのよさにも、軽い腹立たしさを覚えた。  足音も無く入ってきた黒い従者に、テーブルを視線で示した。 「残さず食べてくれ」  何も知らぬまま危難にさらされた彼女の善意を無駄にしないため、陰険な依頼の後始末ぐらいはしてもらおう。 「眠そうな顔してますよ、船長」  船尾楼甲板から出港準備に駆け回る水夫たちを見下ろしていたグレッグは、甲板長の言葉でアクビをかみ殺した。手渡された荷のリストと乗客名簿に目を向ける。今回は余裕で黒字になりそうだ。 「朝っぱらから同じ階の部屋でハデな痴話ゲンカがあってなぁ、朝寝しぞこねた」 「おやおや、料理で上客を掴んでいたと思いましたが、創業三ヶ月で水鳥亭は連れ込み宿に成り下がりましたか」 「同じ客だと思うんだが、ナイフが壁に突き刺さっては引き抜く音が宵から夜中まで続いとったよ。それも十二回刺しては十二回抜く。板から刃をひっこ抜く甲高い音が耳について、ワインをひとビン空けても眠れんかった」 「なるほど、お隣は嫉妬深い投げナイフ師と浮気性の美人妻。大道芸夫婦でしたか」 「朝帰りは男の方だよ」 「男が的のナイフ投げは見たくないですなあ」  今回は特等船室に客が入る。夜は沈黙の行となりそうだ。ナイフの音も気味悪いが、モロに音が響く船尾楼甲板や操舵室、壁一枚隔てた船長室で、ガキの夜泣きに悩まされるのは楽しくない。  桟橋の方を見れば、手続きを終えた乗客たちが三々五々、グースエッグ号に向かってくる。荷物は昨日から今朝にかけてそれぞれの船室に積み込み済み。大抵の客は手ぶらだ。それでもタラップを渡り、上甲板を歩く足元はおぼつかない。  歳若い者が多いのは……やはり“避難”だろうか。グレッグが索梯子《ラットライン》をへっぴり腰で登っていた頃も、この手の上客が多かった。ただ三十年前とは逆に、今は東大陸から中央大陸へと、オンナ子供や跡取り夫婦のたぐいが渡っていく。 「ジェフが野菜売りの婆さんから聞いた話だと、すぐ南の村に太守が来てるとか。可哀想に若い娘が一人、連れて行かれたらしいですよ」 「のん気なもんだ。領民が不安がってどんどん逃げ出してるってのに、ご領主サマは生娘の生き血を一杯やりながら物見遊山か」  ふと視線を感じて甲板に目を向けると、生あくびをしながら見上げている銀髪の細い男と、傾いてきた陽に髪を金に輝かせている娘が左舷の昇降口に向かって歩いていた。 「またあくびしとる。ありゃあ出帆したとたん船酔いだな」 「たぶん一等船室の客ですね。タールの臭いにアテられたのかも知れませんよ」 「で、我らがグースエッグ嬢のご機嫌はどうだね」 「私と同い年の熟女ですからねぇ。元気ハツラツとは行きませんが、この前フジツボどもを掻き落として化粧しなおしたし、一点を除いて問題ありません」 「一点とはなんだい」 「寝不足気味のグレゴリー船長殿ですよ。特別船室のお客が来てます。出迎えなくていいんですか?」  慌ててグレッグは上甲板へ駆け下りた。途中、操舵室のガラスに顔を映し、固めたヒゲの形と帽子の角度を微調整する。差していたパラソルを脇に畳んで乗船してくる巻き毛の夫人の手を引き甲板に導いたあと、タラップの直前で立ち往生している若い父親から、抱いていた幼子を引き取った。  見知らぬオヤジに抱かれても泣きもせず、無邪気にヒゲを引っ張る男の子は、夜泣きとは無縁そうだ。今夜は安眠できる。グレッグは胸をなで下ろした。  荷も客も全て積み終えた夕方、再びグレッグは船尾楼甲板に立った。じっと風を待つ。白髪交じりのもみ上げを撫でる微風に、笑顔でうなづく。クインポートの風は気心の知れた古女房のようだ。引き舟の助けを借りたことなど一度もない。 「後部縦帆、展帆《こうぶじゅうほ、てんぱん》」 「後部縦帆、展帆。よーそろー」  甲板長が後ろへ向かって叫び、三本のロープを引く水夫たちに細かい指示を飛ばす。ほどなく広がった帆が夕日の中で風をはらむ。 「イカリ、上げー」  船首の方から重い鎖を巻く音が響く。潮の流れでグースエッグ号がゆらりと傾いた。 「面舵《おもかじ》」 「面舵、よーそろー」 「舫《もや》い解けー」 「舫い解きました!」  見送りの者が手を振る中、桟橋から離れた船はゆるやかに港の中央へ向かう。外海の波から船と港を守る半島と石組みの堤防の間に差し掛かると、待っていたかのように風は沖へと吹き始めた。こんなときグレッグは風に確かな思いやりを感じる。  程よい追い風の中で水夫たちがマストに登り、六枚の横帆と三角の補助帆を張り終えると、グースエッグ号は軽やかに外海へ、そして中央大陸へ舳先を向けて走り始めた。  全てを見届け水夫たちの労をねぎらった後、グレッグは階下の食堂へ向かった。新鮮な野菜と肉をふんだんに使ってジェフが腕をふるった晩餐を、新天地へ向かう乗客たちと楽しむ為に。 『夜に紅い血の痕を』 一〜五章 了  六章へ続く  * * * * 本作は、2007年8月〜11月にかけてブログ上で連載小説として掲載したもののダウンロード用改訂版です。 連載していたブログ http://akaitinoato.blog.shinobi.jp/ HTML版(まとめサイト) http://members.at.infoseek.co.jp/nayuka_aaaa/novel/akai_mokuji.html ご意見ご感想・誤字脱字等のご報告などありましたら、ブログのコメント欄、Web拍手に付属したメッセージフォーム等に頂ければ狂気乱舞します。  本作をお読みくださってありがとうございました。 2008.11.11 久史都子(ひさふみ みやこ)   作品の無断複製・無断転載はご遠慮くださいませ。