『夜に紅い血の痕を』 十六〜十七章  ▽ 第十六章 彷徨 △ 一 ドラゴン  グラスロードはラウルスから分岐して、南へと伸びていく。  極地に最も近いドラゴンズマウント領。寒冷地独特の澄んだ空。氷河が削りあげた鋭い山が遠くにかすむ。車窓に明るい湖が広がる時もあれば、針葉樹の暗がりに視界をさえぎられることもある。  再開した駅馬車は海岸に点在する集落をつなぎ、遠く雪原まで行くらしい。大地を深くえぐる細長い湾は渡し舟で越えて、温水が湧く湖のほとりにあるという、夜空を極光が彩る最南端の村の安否を確かめるために。  だが、アレフの目的地は白い大地ではない。  毛長牛の列に道をふさがれて馬車が止まる。御者の舌打ち。ブチ犬と牧童が褐色の群れを急かしているが、当分は動くまい。見渡せば、家ほどもある黒い岩が草原に影を落としている。大昔の氷河の忘れ物か。  探しにきたのは、もう少し新しい忘れ物。ウリシアダがファラと協力して作り上げた最強の魔導生物ドラゴン。まだ一頭、残っているという。だが海に突き出した崖の上の城は焼け落ち、人も家畜も……ネズミすらいなかった。  目撃談はこの先にある、メニエに集中している。ハラワタを食われたアザラシの死体が丘の上で凍っていたとか。放牧中の毛長牛やカリブーが何頭か消えるとか。  空からの驚異に逃げ惑い、足を折る家畜が後を絶たないという理由で、退治するか追い出そうという話もあるらしい。  邪魔だと、要らないというのなら、引き取りたい。  モルに対抗する力としては、あまり役には立つまい。ウリシアダが可愛がっていた五頭は、テンプルの侵攻を止められなかった。異界から召喚された毒蝶の鱗粉を吸い込み、つぎつぎと海中に没したという。  アレフは少し不思議な気分で前の席のティアを眺めた。これまでは、行く手に討ち果たすべきモルがいた。今回の南下は、完全な無駄足といえる。なぜ、まだ行動を共にしてくれているのだろう。  復讐を諦めたのなら、テオの唐突で素朴な提案にのっても良かったはず。命の危険がなく罪に手を染めることもない、普通の暮らし。子供時代の喪失を埋める温もりと愛情が手に入る道。  それにしても、出立間際に求婚とは…… 「ずっと、オレの横にいてほしい」  テオの真剣な声と表情が脳裏によみがえる。  命に関わる危機を協力して乗り越えた者の間に特別な感情が芽生えるという。確かに、テオは灰色の法服を目で追っていた。ティアを妄想の中で抱いていたのも知っていた。だが、具体的な未来までは考えていなかったはず。誰かに何か言われたか。  自警団の悪友や年かさの者が、今のがしたら二度と会えなくなると、冷やかし混じりに吹き込んだか。それとも私の素性に気付いている誰かが、ティアの身を案じて引き離そうとしたのか。  なぜ腹立たしく感じるのだろう。私がどう頑張ってもティアに与えられないものを、テオは与えることができるからか。温かくたくましい……まだ成長過程にある生身の体がうらやましかったのか。  何年経とうと変化しない、冷えた身体に少し倦《う》んだのだろうか。かつては羨望の対象だったこの身が、今では皆にうとまれる事に、疲れたのかも知れない。 「ごめん。あたしには、応えられない。まだやることがあるから」 「……アレフか」  うなづき、手を振りほどくティアの姿を思い出すと、嬉しくて誇らしい。  だが、テオが言ったのは、どっちの意味だろう。ティアが私を選んだと思って諦めたのか。吸血鬼の親玉たるアレフを打倒するまでは応えられないと解釈したのか。  どっちも、同じか。 (ポニック翁が、目覚めぬまま亡くなりました)  強い、そして沈痛な心話に、思考がさえぎられた。  バックスと戦う力を集めるために、しもべ達の心の奥底に力の通路を開いた。体が弱かった者や年老いた者のうち、幾人かが力の通過に心を飛ばされ昏倒したと、翌日 知った。  カウルの代理人も倒れたが、二日後には目を覚ました。最古老のカクシャクとした姿が目に浮かぶ。半死のアンディは逝ってしまうかと思ったが、数日後に快方に向かった。だが、かつては父の代理人でもあった流氷の村の長は……。  犠牲者を出してしまった。これでは闇の子を食らったバックスを責められない。  気絶しないまでも、心身の調子を崩した者は大勢いる。 (イヴリン……それでシノアスは)  海の向こうで名代を務めてくれている女丈夫が、決然と顔を上げるのを感じた。 (紅い指輪をさせた者を向かわせています。臨時の代理人にする手続きは整えました。彼にシノアスを任せるに足る村人を見極めてもらいます)  本来なら私がやらねばならぬことか。 (バフルの商人たちが金を出し合ってクインポートで雇った船は、倉庫にあふれていた荷を積み終えて、明日には出港です。そちらは?)  急な話の切り替えに、しばし何の事か悩んだ。小麦の輸入差し止めに対抗して、臨時に組まれた会舎か。 (スフィーの教長が募った出資者から集めた金で船は雇った。シルウィアにつき次第、小麦や茶葉を積んで出航するようだ。欲が勝手に計画を転がしている)  しもべとなっても衰えない、あの者の蓄財への情熱には、敬意すらおぼえる。 (それより、イヴリン自身は大丈夫なのか)  東大陸に、領内に私がいないとバレたせいで、イヴリンへの非難や抗議は過激なものとなっている。だまされたと感じる代理人たちも多い。  間もなく一年。  もう限界かもしれない。 (ご心配にはおよびません。我が身を守る算段は立てております)  独自に任命した、イヴリンの個人的な衛士たちか。  だが力で抑えれば、どこかにほころびが生じる。 「やっと毛長牛の群れ、切れたね」  ティアの声に、意識が引き戻された。ムチをもらった馬がいななき、馬車が揺れた。  今は、取り返せない過去や、手の届かない海の彼方より、目の前の明日を思いわずらえ。そう言われている気がした。  メニエ村のはずれ、寒風が草をなでる丘の上に繋いだのは、毛長牛の若いメス二頭。褐色のカタマリが身を寄せるのは、夜風の冷たさだけではあるまい。周囲に振りまいたカリブーの血と臓物の匂いにおびえている。生臭い風が呼び寄せる牙ネコや、空をよぎる影がもたらす死を、予感しているのだろう。 「ウリシアダが、乙女や幼児をドラゴンに食わせてたってのは……教会のウソだよねぇ」 「さて? 愛犬や愛猫に自分と同じ物を食べさせたがる人は、多いみたいですが」 「じゃあ、あたしがおかわりした毛長牛の煮込みの方が、美味しそうに見えたんだ。あんたがタブらかした赤いほっぺのバカ娘より」  ティアが怯むと期待したわけではないが……何も新しくしもべとなった者をおとしめなくても。  まさか嫉妬か? 「草の図形は、何か意味があるの?」  身を隠している布一枚の簡素な天幕をおおう草を風精に刈らせた時、丘全体を結界に包む円の他に、春の土色を意味する文字を書かせた。 「オークル……生き残ったといわれるドラゴンの名です」  四十年前はまだ幼獣だった。戦いにかり出さなかったのは一番若かったからかも知れない。 「もうすぐ来る?」  この丘で見つけたのは、アザラシの骨。牙ネコの歯形も刻まれていたが、毛長牛より重い海獣をここまで運んだのは、もっと大きな生き物のはず。だが、すっかり干からびて新鮮とはいえなかった。 「オークルのナワバリはかなり広いようです。数日以内に姿を現す保障はありません。アザラシの繁殖期は過ぎているし、海岸を離れているかもしれない」 「なんだ、ツマンない。宿で休んでる。来たら心話で呼んで」  アクビしながら、茂みに偽装した天幕をティアが出て行く。 「牙ネコが待ち伏せていると厄介だから」 「分かっております」  護衛としてドルクがティアを追う。丘を下るふたつの影を見送ってホッとした。  重い体と長大な牙のせいか、牙ネコは言われているほど危険ではない。中型の肉食獣から獲物を横取りするのが得意な死肉食いだ。それでも人間がひとりで対抗するのは厳しい。だが、二人以上なら牙ネコの方が避けてくれる。  それにドラゴンは夜行性というわけではない。私が見張る事が出来ない昼間は、あの二人に任せるしかない。今のうちに休息をとってもらうほうが助かる。 (召喚の方陣かと思った。異界から呼び寄せるより楽でしょ。同じ世界にいるんだし)  ティアからの心話。その手もあったか。だが、こちらの都合で強引に喚んだら機嫌を損ねそうだ。だいいち触媒もなしに人より大きな生き物を転移できるだろうか。知能と魔力も高い。抵抗される気がする。  でも……方陣を少し変えて、心話を送ってみるぐらいは、してもいいか。応えるかどうかはオークル次第。  水晶球を通じてケアーに接触し、オークルの個体としての特徴を確かめた。草に溜まったカリブーの血を爪につけ、手帳に小さな方陣を描き上げる。  紙片を破りとり、掲げ、真名を呼ぶ。  たいして期待しないまま、応えを待った。  星がじりじりと空をめぐる。  ふと、指に挟んだ紙が震えるのを感じた。耳を澄ませると甲高い声のようなものが、紙から生じている。 「ダレ? ドコカラ呼ンデル?」  繋がった。 (私はアルフレッド・ウェゲナー。十一番目の血の盟主) 「東大陸カラ、呼ンデルノ?」 (いや、森の大陸。ドラゴンズマウント領の海辺。メニエの)  オークルの困惑を感じて悩んだ。人が勝手に土地につけた名など、ドラゴンには分からない。  頭の中に地図を描いた。 (春先、海の氷がゆるむころ、アザラシがたくさん上がってくる岩場を覚えているか。大きく切れ込んだ五つの海岸の北。オークルの足に似た半島の近く。丘の上だ。……近くに居るなら、おいで。毛長牛を二頭、用意して待っている)  ドルクを呼び戻そうかと迷ううちに、毛長牛が哀しげに鳴いた。  頭上を影がよぎる。  海からの照り返しにビロードのような皮翼を輝かせて、土色のドラゴンが次第に高度を下げてくる。外洋船よりは小さいが、馬車や家よりはるかに大きい。こんなものが羽ばたきだけで飛べるハズはない。オークルが空を自在に舞えるのは、体内に御座船を浮かべている力と同じものを持っているからだと聞いた。  まるで羽毛が落ちるように、優雅に着地する。土けむりも衝撃もない。爪は長いが体に比して細い足。身軽に歩く姿は鳥に似る。ただ、畳まれた翼の他に、前肢がもう一対あるあたりに、造られた生物らしい変則ぶりがかいま見えた。 「毛玉ノホカに角ツキノ匂イモスル」  尖った口吻の根元に開いた鼻腔が、ヒクついている。 「残念だが、カリブーの肉はないんだ」  血と臓物を分けてもらった家の庭先で、太いモモや脂の乗ったバラ肉は塩をすり込まれ……今頃、燻製小屋にぶら下がっているはずだ。 「カリブーの方が好きなのか?」 「若イ毛玉モ好キ」  口を開けずに話している。発声器は喉や口ではないらしい。  居すくんだ毛長牛を、縦長の金色の眼がねめつける。無造作に首に食らいついて地面に叩きつけたあと、腹を爪で裂いて首を突っ込む。引きずり出したハラワタの量からすると、羊くらい丸呑みにしそうだ。  綱を切って暴走しようとする、もう一頭の影を踏んで金縛りにしてから、オークルにゆっくりと近づく。足と腹を被うツヤやかなウロコ。背中と翼を保護する柔毛。金の飾り毛が美しい尾。  寿命は人の倍程度と短いが、肉を持つ眷族の中で、もっとも力強く美しい存在。  毛長牛の骨を噛み砕き、皮を引き裂き、硬質の顔を赤く染めて夢中で食らう姿を見ているうちに、哀しくなった。 「この世にたった一頭のドラゴン……。オークルは寂しいと思ったことはないか?」  返事は無い。聞いていないのかもしれない。 「私は寂しいよ。同族がどこかにまだ生き残っていないか、世界中を旅して、こんなところまで来てしまうぐらいに。でも、仲間がいたはずの城は全部廃墟だった。見つかるのは遺言ばかりだ」  物言わぬ犬猫に告白するように、言葉が口からあふれ出る。  残った毛長牛に襲い掛かる背中を見上げる。タテガミに埋まっているのは首輪……それとも鞍だろうか。 「いや……一人だけ、この近くで仲間を見つけた。なのに私は彼を滅ぼしてしまった。やっと見つけた同族だったのに。何をやっているんだろうね。また、一人になってしまった」  オークルの体は温かい。尾がひっかけた枯れ草を取り、筋肉がうねる足をなでてみた。毛長牛を引き裂く前肢の器用さにしばしみとれた。 「ファラ様に造られたという意味では、この世で私に一番近しい存在はお前かも知れないね」  毛長牛を残骸に変えたオークルが、昇って来た月に向かって鳴いた。木の笛が奏でるような温かい咆哮。喉にもちゃんと発声器官はあったようだ。 「仲間、イルヨ」 「他にもドラゴンが?」  オークルがかぶりを振る。単に顔についた汚れを飛ばしているだけだろうか。 「違ウ」 「いる? 私と同じような者を知っているというのか」  喜びかけて……戒める。ドラゴンに人間と死人の区別が果たしてつくだろうか。 「まさか。空から見ているだけでは、人との区別も出来ないだろう」 「影ノ無イ男」 「私の様に足元に影を持た無い男がいるのか?」  オークルが胸を地面にすりつける。 「乗ッテ。今カラナラ朝ガ来ル前ニ、会エル」  馬の背より太いドラゴンの首。手をかけるとウロコは乾いて温かかった。タテガミは柔らかい。地を駆ける馬の背にも乗ったことがないのに、空をゆくオークルに乗れるだろうか。不安がよぎる。  登ってみると、やはり鞍だった。オークルの土色の胸に合わせた皮ベルトで固定されている。黄色い騎座は光沢のある布。新しくはないが古くもない。それに、毛穴のない皮に綿でも絹でも羊毛でもない布。この材質は…… 「チャント乗ッテル?」  オークルに注意されて後橋に腰をあわせると、自然と首に抱きつく姿勢になった。タテガミに埋まったもう一本のベルトが手に当たる。牛の角で出来た持ち手……位置からすると私より少し手の短い者に合わせてあるようだ。 「この鞍をつけたのは、誰……」  問いが終わらぬうちに、背後で膨大な筋肉がうごく気配がした。振り向くと視界におさまりきれない長大な翼が広がり、大気を叩いた。後肢が丘を蹴る。大きな魔導の力を感じた。浮遊と呼ぶには安定した静かな上昇。  ちょっとした遊覧飛行でも、無断というわけにはいくまい。 (ドルク……オークルの背に乗って、行ってくる) (先ほどの鳴き声は、やはりドラゴンでしたか。それで、どちらへ) (オークルが見かけたという不死者の元へ。夜明けまでにつくらしい。そう遠くはないと思う) (もしや、バックスやシャルのようにテンプルに作られた不死者では)  従者の不安はもっともだが、鞍を据えた者がオークルの言う私の仲間なら…… (違うと思う)  根拠を説明しようとして、塩水の粒を頬に感じ、慌てて物理障壁で我が身を包んだ。  ツバメが水を飲むように、海面をいく度かかすめて、オークルが水しぶきを上げる。最後に濡れた頭部から首までを震わせ、水滴を飛ばした。心地よさげな咆哮。毛長牛の血と肉片で汚れた頭と首を、海水で洗いたかったのか。 「障壁デ、体ヲ包ンダ?」 「水は苦手だ。海水浴は私が乗っていない時に頼むよ」 「ケド、息シナクテモ大丈夫。寒サモヘイキ」  からかうような声。どうやら顔の近くの空気を魔導の力で振動させて出しているらしい。  水面すれすれは相変らずだが、波をかすめることはなくなった。とりあえず、向かっているのは森の城ではない。さすがにバックスらの事でなかったか。  では、どこへ向かっているのかと星の位置を確認しようとして、別の物理障壁の発生を感じた。オークルが作り出したらしい。ドラゴンの鼻先を頂点とした鋭角の障壁。だが、なぜ目に白く映る?  障壁に沿って不定形に揺れる白いものは水蒸気が飽和して生まれた雲か。水面をかすめてはいないのに、扇形に海に広がる白波。障壁に身を包んでいたせいで気付けなかったが、恐ろしい速さでオークルは飛んでいる。 「ソロソロ行クヨ」  広がっていた翼が半ば畳まれて体躯に沿った。尖った羽の先から白い雲が生まれ細い筋となって流れ去っていく。真後ろに高い水柱がたつ気配がした。だが、水音がしない。物理障壁が切り裂いているはずの風の音もない。 「まさか、音を置き去りにする速さなのか」  答えたのは愉快そうな笑いの波動。飛ぶのを楽しんでいる。  音が空気を伝わる速さはたしか、人が走る速さ約の百倍……一日で星を半周してしまう。  夜明けまでに会えると言ったが…… (すまない、かなり遠出になりそうだ)  困惑したドルクを安心させてやりたくとも、目的地の候補がありすぎて答えられない。  景色が単調な海上に飽きたのか、オークルがほぼ垂直に上昇した。静かなまま雲に飛び込む。視界が効かない白い空間を突き抜けると、落ちた時のことなど考えたくもない高度に達していた。頭上には高山で見るような瞬きの少ない星々。  ドラゴンズマウント領の複雑な海岸が雲の切れ目から見えた。精密な地図を見ているような錯覚におちいりそうになる。地形と星を見定めて、やっと方角がつかめた。 「この先にあるのは私の所領なんだがな」  父の事だったのだろうか。滅ぶ前にこの鞍をオークルに与えたのか。だが、父がドラゴンを手なづけていたウワサなど、バフルでは聞かなかった。牛や羊を与えていたなら、公式の記録にも残るはず。  だが、薄い空気と雲も凍る低温の中で、ドラゴンの首に掴まり、ずっと身を低くしているなど生身の者にはむりだ。息をする必要がない者。元から体が冷たい者。疲れを知らぬ者だけが、オークルと共に飛ぶことができる。  夜明けの光が赤く地平に広がる頃、眼下に陸地が見えてきた。形から判断すれば、東大陸でもっとも人が少ない南西の海岸。だが、オークルは海岸を行き過ぎ、山に抱かれて霧をたたえた盆地の上で旋回を始めた。   二 一時帰郷  オークルは速度と高度を落としながら、低木とまばらな草の群生地に向かって吼えた。四角い一軒屋が目のハシにかかった。目を凝らせば、その前でこちらを見上げている人影がひとつ。  白い長衣。黒髪に褐色の肌。高いほお骨とわし鼻。見たことのない男。霧の中では足元に影があるかどうか確認できない。だが、生身の人の気配でもない。 「どうしたオークル。この前きたばかりなのに、珍しい」  少し高い声にも聞き覚えがない。  着地したオークルから、慎重に下りた。 「ほう、これはこれは初めてのお客人……でもないか。断りもなく居ついた流れ者を追い出しに来られましたか、地主殿」  男が笑う。口の端に白い牙がこぼれる。 「間もなく夜が明ける。狭いあばら家だが、雨風をしのぎ、陽光をさえぎる役にはたつ。申し開きもさせていただけるなら、茶ぐらいは進ぜましょう」  盆地の一軒家は、ワラを混ぜた日干しレンガで作られていた。小さな民家に見える。だが、窓がない。周囲に畑はなく家畜もいない。台所も便所もない。生活臭がない。ここは生者の住処ではない。  代わりに障壁と方陣に包まれた作業台があった。部屋の中央には金属の卵。中に封じられているのは唸る炉。繋がれているのは小型の自動織機。高速回転する加工機械。分子をも止める冷温庫。灼熱する坩堝《るつぼ》。その上で、銅《あかがね》のポットが輻射熱にあぶられ吹いていた。  ヨレた白い裾を熱気にあぶらせながら、ポットを覗きこんだ浅黒い男が空中にロウトを描く。渦が生じ霧を集め結露させ、透明な雫をポットに降らせる。井戸も川も泉もなければ、水は空気から得るしかないか。 「ヨク、イラッシャイマシタ」  乳鉢に凍った茶葉を入れ、一定のリズムで叩いているのは、ヒザまでもない自動人形《オートマタ》。木のイスに座った彼女にはサウスカナディで見た、ロビィの面影があった。  壁をくぼませた棚には、本と薬品のビンと、ガラクタにしか見えない器物。金属と樹脂と布と木からなる機能的なカタマリ。いや、あれは刃物や杖。見ただけでは判断のつかない物も、どことなく禍々しい。 「若い女の血の匂い……」  耳元でささやかれて、アレフは振り返った。いつの間にか背後に男が立っていた。おおげさに息を吸い、笑みを浮かべ、胸元を指す。白粉がわずかについていた。赤い頬の娘が暗がりで抱きついた時か。  慣れぬ化粧と胸の開いたドレス。何をされても構わないと覚悟した娘が思い描いた最悪は、一人で赤子を生み、周囲の非難に耐えて育て上げ……数年後、跡取りを迎えに来たと、うやうやしく馬丁にかしずかれて馬車へ乗り、羨望の視線を浴びて生まれ育った村を後にすること。  彼女が想定した物語のような最悪よりは、マシだったろうか。幻の恋と実体のない快楽と引き換えに、血と心を奪われ、捨て置かれる現実は。 「こんなまがい物、お坊ちゃまは召し上がられた事はないでしょうが。まぁ、渇いてなくとも話のタネに一杯どうぞ」 「黒茶は嫌いじゃない」 「ほう」  意外そうな顔から目をそらした。  外に朝日がさす。オークルが太陽に向かって吼え、舞い上がるのを感じた。 「心配しなくても、海辺へエサをあさりに行っただけ。日暮れまでには戻ってくる」 「私独りなら転移できる……夜になればだが」 「なかなか器用でいらっしゃる」  自動人形から乳鉢をとりあげ、黒い粘液をガラス器に分け、湯を注いで塩を落とし混ぜる男から目を離さないまま、そっと二羽の使い魔を放つ。一羽は外に。もう一羽は屋内に。暗殺の危険は低いだろうが、念のために。 「茶を頂く前に、名を教えてはいただけないか? 礼儀というなら名乗ろう。私はアルフレッド・ウェゲナー……」 「名で私を特定するのはムリ。私自身が忘れてしまった」  渡された茶に不審はないが、渡した相手はナゾのカタマリだ。  生暖かく塩味のする黒茶は、シリルで飲んだものより濃く強かった。乾燥ではなく凍結保存されていたせいだろうか。 「八千年間、ファラ様は優雅に無視なさった。ロブ様は年に一度、使い魔を寄越して私の存在を確認するだけ」  ちりりと頭の奥が刺激される。八千年前……この大陸が不死者の支配に対抗する最後の砦であったころ。戦いしか知らぬ人々を、平和に慣れられぬ哀れな戦鬼を、ファラ様が劫火を使って大地もろとも焼き尽くした黎明期。 「へパス……様?」 「そのアダ名は好かん。おとぎ話の醜い小人の名だとヴァエルにさんざんからかわれた。それもまた、劫火を作ったむくいか」  黒茶をすするへパスを、伝説より古い呪われた魔法士を、無遠慮に見つめていたことに気付いて、あわてて目をそらした。 「身体を壊す武器。心を腐らせる毒。人を殺しつくす流行り病。街を砕く力。大地を焼く見えない火。そんなものに心を捕らわれた私は、放逐され居ないものにされた。人が、テンプルとかいう奴らが、ファラ様を滅ぼしても、私は無視され続けた。対抗する力があると手紙を書き送っても返事は来なかった。そしてお前さん以外、みんな滅びてしまった」 「なぜ、ファラ様は、わざわざ永遠の命を与えたのですか。無視するくらいなら……」  沈黙の中で、ヘパスが天井の一角を見つめた。クモが小さな巣を編んでいた。 「造られた者の痛みを知れと、言われたな」  飲み干した器を置き、へパスが手を伸ばす。触れ、手触りを確かめたのは夜空の色をしたマントの裏打ち。 「二十年前、ドラゴンズマウントから逃げてきた私が、地代として無名でした贈り物は受け取ってもらえたようだな。身につけた者の精神に反応して形状と性質を変える布」  気付かなかった。 「まぁ、凶刃を防ぐ程度のものだが。他にもある。欲しくないか。セントアイランドから灰色の同胞殺しどもを一掃する力。この地を、民を、守る力が」  一瞬、欲しいといいかけて気がついた。見上げているのは、新しい遊びを見つけた、子供のような黒い目。 「父は、テンプルの者と戦った時……これを着ていませんでした」これに包まっていた“なりそこない”がマントを形見として受け取ったのは、モル等と戦う直前「それは、たぶん正しい」  テンプルは開発する。刃を防ぐ布を見たら、それを貫く剣を。いや、もっと強い武具を。果てのない破壊と暴力の追求は、世界に多くの死を広げる。 「私が欲しいのは、ただ一人を殺す力。父を滅ぼした者を倒す力。かの者が悪用している賢者の石を奪う力。強盗をする力で十分です」 「モルか……あれは厄介らしいぞ。剣で殺せるが殺せない。世界を滅ぼさねば滅びない」 「それは何の言葉遊びですか」  不死者が人に理不尽を強いるかぎり、抵抗する者は出てくる……という意味だろうか。 「私にも詳しいことはわからん。ファラ様がそういった。知りたければファラ様が書き残したものでも読むがいい。だが、お前さんは支援者ではなかったかね」 「それは三百年以上昔の話です。開祖モルの」 「同じことだ」  九千年以上生きている者からすれば数百年はほんの少し前。先祖も子孫も大して変わりないか。 「そんな事より……テンプルの司祭から強盗するなら、魔法も防げる布がなければ返り討ちだ。ミスリルを編み込んだ法服を貫く刃物くらい要るだろう」 「剣やナイフは扱えないので拳鍔を」 「それは、強盗される側の護身用だ」  呆れた笑みを無視して、心を飛ばす。代金を用意するためにも、まずはイヴリンに相談を。それに領内に戻っているのに会わぬわけにもいかない。 (ああ、アレフ様)  危急とも取れる逼迫《ひっぱく》した気配に、不安を覚えた。 「日が沈んだ頃に、もう一度参ります。ここに転移のための方陣を描いてもいいですか」  陽光の下での転移はさすがにムリだ。 「そりゃ、かまわんが……バフルの城の中庭でいいか。オークルを迎えにいかせるのは」 「……ええ、お願いします」  明るい北向きの斜面をグリゼルダは見下ろした。バフルヒルズ城を囲むブドウ畑は、上からみると畝ごとに色が違う。ブドウ樹の種類だけでなく土まで違う。眼下の畑はバフル近郊の黒い土。南にはクインポート近郊から運ばれた赤い土と小石。  摘房《てきぼう》にかり出され、暑さとホコリと腰の痛みに苦しんでいた時には、土の違いに気付けなかった。枝と葉と未熟な果実しか見ていなかった。他に関心があったとすれば、日没に渡される銀貨の枚数と腕組みした監督の顔色。  あれから十年。農林試験部の副主任となった今は違う。ブドウ畑で行われている数十年単位の試験と畝の色の関係をグリゼルダは解っている。  早すぎる昇格は上につかえていた者が一年前のあの日、一掃されてしまったせいだが、役職に見合う知識と実力は身につけたつもりだ。ブドウだけではない。考えや立場の違いから来る、人の種類も見えてきた。夜明け前からの臣民と夜明け後の移民。貧しきものと富むもの。代理人と公人。城に仕える官吏と町を司る事務官。保守派だ急進派だと、生い立ちと所属で人は様々な色を身につける。  グリゼルダの祖父母は中央大陸生まれ。移民だ。裏通りの借家育ちだから財産はない。ブドウ畑で監督に気に入られて城仕えになった技官のはしくれ。部署的には保守派だ。  傾いた旧家のお嬢サマで、町政に携わる事務官のハズが、代理人という特殊な地位を利用して、城まで取り仕切り、武官でまわりを固める急進派のイヴリン・バーズとの共通項は……ビンボーだけか。  失われた城の文官を町の事務官が一時的に補うのは仕方ないと思う。移民を重用してくれるのは嬉しい。別に彼女を悪人だと決め付けているわけじゃない。ただ、権限を多く握りすぎている。  職分を侵されたと感じる城仕えの年寄りと、先祖代々武官を勤めていた者たちが会っているのをよく見る。いつ実力行使に出るかわからない。イヴリンの暗殺や失脚は反動を招く。移民の孫であるグリゼルダも巻き込まれて……多分、失職する。  足音に振り返ると、移民組みの中でも変り種のジナが立ち止まるところだった。手下のブースも一緒だ。 「こんな所でブドウ園なんか見てたの。来て。もっと面白いモンが見られるわ」  ジナが浅黒い指で示したのは中庭側の窓。庭を挟んだ南の棟に動く影が見えた。海老茶色のドレスをひるがえして階段を登る中年女性。若い衛士を従えていない。珍しくイヴリンは独りだ。 「あの性悪女、石か木で出来てるもんだと思ったけど……人並みに頬を赤らめて執務室を出てったのよ。衛士も連れず、理由も言わないで。逢引よ、アイビキ」 「心を主に縛られた代理人が色恋なんて」 「クインポートの代理人は結婚して娘までもうけてたじゃない。それに、血の絆はとっくに消えてるかもよ。代理人連中はゴマカしてるけど」  ワインじいさん……イヴリンの片腕と持ち上げられながら、最近はすっかり遠ざけられているワイン醸造の統括部長は、まだ心を縛られているように見えた。心から光があふれた……そんな夢みたいな体験談を繰り返している。 「裏口から入る若い男を見たって」西階段から上がってきたのはストゥーか「しかも、通交証も顔も確かめずに素通し。警備してたのは冷血女が今年採用した衛士だ」  まったく、他人の逢引をここまで情熱的に詮索出来るとは。当のイヴリンよりコイツラの方が、よほど色ボケしている。  ただ、色っぽい醜聞は弱みだ。独善をたわめる力になるかもしれない。脅迫は卑怯だが、これも職場の円滑化のため。五十路になるまで勤め上げ貯金を続ければ買えるはずの、農園つきの一軒家のためだ。  主の長きにわたる不在で、昼も夜もひとけがない最上階。先代様がここで滅びたと思うせいか、寂しく重々しい墓所の空気を感じる。グリゼルダを含め五人ともが息を殺し忍び足になっていた。  廊下を伝わる人声に耳をそばだてた。女と男の声。謁見の間の近く、南側の控え室。あそこなら寝椅子がある。分厚いじゅうたんも優しく恋人たちを受け止めてくれそうだ。  止め具に彫金はほどこされているが、ニスも塗られていない無骨な木の扉に耳を寄せる。ジナが笑う。この場を冒涜する物音や睦言が聞こえないか期待する下卑た笑い。 「嫌、やめて」  普段の強い口調とは違う、弱々しい拒絶。声に含まれるのは快楽を予感した甘い諦め。性急な若い男の欲望を受け入れながら、事後に心理的優位に立とうとしている熟女の手管。どんな痴態をさらしているか。扉の前で妄想にひたる。  だが、急に己が卑しく浅ましい存在に思えて、気分が悪くなった。  濡れ場をおさえ仲間を証人に冷血女から譲歩を引き出す……別に最中でなくてもいい。言い訳も可能な、抱き合ってキスしているところで十分だ。大ハジかかせて、本気で怒らせたりしたら、かえってマズい。ほどほどが肝心だ。  そっと持ち手を引き、扉を押した。 「名代殿、お声がしましたが何かありましたか」  光を絞ったテーブルランプの側に二つの人影が見えた。赤いスカーフが解かれ襟元ははだけられている。思ったほどイヴリンは乱れてない。  けど妙だ。  驚いたり怒ったりしない。グリゼルダたちを見ない。イヴリンが見つめているのは、城へ引き込んだ若い男の白い顔。闇に沈んだ黒衣の待ち人。 「おゆるしを」  頬に光る涙と、追い詰められた目。わななく唇。相手の肩を押しやろうとする手。怯え拒絶しながら、喉だけは無防備にさらしている。  これは……吸血鬼に蹂躙されようとしている犠牲者の図。  常に上に立ちはだかり思いのままに権力を振るっていた独裁者も、太守にとっては血の提供者でしかないと思い知る無残な姿だった。  失礼を詫び、すぐに退出しなくてはならないのに、足が動かない。目が離せない。間近で見た本当の主は冬の月の様に冷酷に見えた。  首筋に下りる赤い唇に応えるように、イヴリンが横を向く。目があった瞬間、グリゼルダはあとじさった。 「わ、私より、その者たちの方が、若くて血も熱いかと」  媚びと必死さが混ざった声。喉にかぶさっていた白い顔が、こちらを見やる。 「ご所望にお応えしたいのは山々ですが、森の大陸との貿易に銀船への対応。私はいま臥せるわけには」  見苦しい言い訳。 「そうだな。失うにはまだ惜しい」  白い手が肩から離れる。開放されたイヴリンが座りこんだ。 「そこの……グリゼルダか。お前の命を少し貰いたいが、かまわないか?」  許諾を求める言葉。  形式的でも、断れば助かる。  だが舌が動かない。首を横に振ることも出来ない。視線で縛り否を発せられなくしてから問うなんて。 (卑怯だ)  不遜な抗議を心の中でしてみたが、応えたのは愉悦の笑みだった。  太守の足元からはいずってきたイヴリンが、ジナたちを廊下に押し出す。金縛りが解けたように、口々に非礼をわび、駆け去る薄情な仲間達を背中で感じていた。 「どうか、ごゆっくり」  視線の呪縛から逃れ、余裕を取り戻したイヴリンの声。扉が閉まる。薄暗がりの中に一人取り残された。  目の前にいるのは青白い絶望。ゆっくり近づいてくる、薄く笑う顔をただ見つめていた。 「上役を強請《ゆす》るのは褒められた事ではないな」  聞いていた通りの冷たく硬い腕。捕らえられた瞬間、全て終わったと感じた。 (あなたをどうかして、好き勝手しているものと……)  心話で問いながら首をひねる。どこに居たのだろう。領内でウワサを聞かなくなってから、一年近く。いくら忍びで視察中だとしても、代理人をたずね贄を求めれば、人々は暗いウワサをささやきあう。 「当たっていなくもないが、全くの専横でもない」  冷やりとした唇が、首筋に触れる。内に秘められた牙を思うと体がすくむ。直後、心の高ぶりと喜びを覚えた。 「領民が私の所有物だと本心から思ってはいない。だが今は、海を越え昼に転移して、少しばかり渇いている。不運だと諦めて……いやそれは理不尽か」  耳元での勝手なささやきに聞きほれた。 「許せ」  牙が食い込んだのは感じたが、痛みはなかった。頭をしびれさせる快楽と開放感。飢えが慰められる喜び。この為に生まれてきたのだという、唐突な達成感。大きなものに取り込まれ一体化する安心感。  万能感に不安が消える。ドラゴンはいいかもしれない。神秘の生き物。目に見える力。グラついていた皆もきっと安心する。  銀船は大きく重い。浅いバフル港には入れない。  引船や小型の帆船に分乗して上陸してくるなら、勝ち目はある。  目の前には絹糸の様な銀の髪。心を作り変えられてゆく恐怖も満足感に解けていった。 三 北へ  キニルは、ムカつく思い出ばっかりだ。  泥水をすすった事は何度もある。中でもキニルの水が一番臭かった。そのせいか食い物もまずい。そして……ヤな思い出がまた一つ増えた。  ティアは熱《ほて》ったほほをふくらませて、にらみつけた。  黒いマントに包んだ肩をふるわせて、笑いの発作に耐えている道連れ。このクソ吸血鬼、知ってたな。教宣用の人形劇が変わってるって。  歌にあわせて揺れてる金褐色の髪。あの聖女人形があたし!? 何でテオと恋仲なのよ。  つーか、わざわざ陽の高い時間に教会に誘うか。こんなクダらない嫌がらせのタメに。  もしかしてキングポートでからかった……仕返し? 一年も前の、それも軽い悪ふざけじゃない。今ごろやり返すなんて気が長いにもほどがある。  スネをぶっ叩いてやろうと、スタッフを回した瞬間。 「もしやティア聖女。うぶわっ」  笑顔で駆けよってきたキニル西教会の司祭のケツにスタッフが当たった。法服に包まれた脂肪のカタマリが倒れてくる。支えきれず、教会前の広場に尻もちをついた。  手使い人形を見てた視線がこっちに集まる。逃げようもなく子供たちに取りかこまれた。謝りながら引き起こしてくれた司祭と、ヨダレ臭いハナたれガキの向こうで、黒いフードの下の赤い唇が声もなく動く。 『タ・ノ・ン・ダ』。  そのまま、アレフは視界から消えた。振り向きもしない。 「いやはや、最前線におられる方は常に臨戦態勢でおられるのですね。不用意に近づいた私も悪いですが、ここは夜を退けし光の地。どうか得物はお納めください。それにしても……どうやって、森の大陸の南端から?」 「話すと長く……えっと、機密です」  タネはポケットに入ってる水晶球。転移の呪なんてメンドくてややこしそいモンを、よくちっこい玉なんかに収めたモンよね。呪の本体は亜空間にあるケアーって、脳みそだけのオートマタらしいけど。  何ヶ月もかけてたどった道を、一瞬で移動できるのはすっごく便利なのに……何でヒミツにしなきゃいけないんだろう。ファラを滅ぼした時と同じか、それ以上の混乱が起きるって、大げさすぎないかな。 「機密ですか。それで当教会に寄られたわけは」 「その、大門を通る許可証と、馬車の手配に。あ、時間が時間だし、お昼食もいただきたいな」  髪をひっぱるガキを笑顔でにらみつけてから、教会の門に突き進む。  だいたい、結界があると作動しない呪を広めたところで、なんて事ないと思う。結局は橋を渡ってホーリーテンプルに入らなきゃいけないなら、意味がない。正門から入るんじゃ泥棒も暗殺も出来ないじゃない。  集まってきた聖女や生徒の握手ぜめを乗り越えたあとは、視線に耐えながらの昼飯。マズさ五割り増し。こんなのにずっと耐えてきたモルを、初めてスゴイと思い始めた頃、通交証と馬車の用意が出来たって言われてホッとした。  えらい人しか乗れない……師匠のお供でないかぎり、見習いには乗車許可が出ないはずの馬車に乗って大門をくぐったのは、日が傾き始めた頃。御者がワザとゆっくり馬を走らせるもんだから、橋の上ではいい見世物。最初は少し気持ちよかった、あこがれとヤッカミの視線も、その頃にはウザくなってた。  その上、車寄せから白亜の正門まで、灰色の法服で埋め尽くされていた。すこし物見高い参拝者も混じってる。笑みを義務のように顔に貼り付けた。ここで憎まれ口たたいて警戒されたらマズいってのはわかってる。  だけど、あたしを仲間はずれにした奴らが友達顔でベタベタしてきた時には、苦笑しか出来なかった。  視線から逃れられたのは、便所だけ。  さすがに調子のいい同期生も遠慮してくれた。 「ようこそ、ホーリーテンプルへ。十一番目の血の盟主、アルフレッド・ウェゲナー」  呼びかけて、心話を試してみる。 (どう、イケそう?)  わずかにアレフの気配を感じた。左手薬指の青い指輪。マジで結界を無効化できるんだ。でも転移はムリだろうな。それに心話も弱い気がする。  心に映ったのは夕闇迫る湖。足元が揺れてる。漁師さんに借りた小舟に乗ってるのか。湖までは入れるけど……これって頭痛かな。げ、同調してこっちの気分まで悪くなってきた。  見えない使い魔を放って結界を探ろうと……うわ、砕けた。精神体の一部が潰れるのって痛そう。あちゃあ、舟でうずくまっちゃった。  ここの結界って、けっこうスゴイんだ。 (入るの諦める? あたしが図書室でファラの研究書や日記を探して読むんじゃ、ダメなの?) (精霊呪の呪文書より遥かに手ごわいですよ。ファラ様の使う文字は独特で複雑ですから)  まったく、いくらビミョーでフクザツな概念を書き表すためだからって、文字を勝手に作る神経って解らない。伝えるための道具なんだから、他人が読めなきゃ意味ないっての。  全ての文字を覚えるのに人が半生を費やさなきゃならないなんてバカげてる。しかも、太守ごとに微妙に……時にはまったく違うなんて。旧字って使い勝手わるすぎ。  まぁ、人が使うためじゃなくて、無限に時間があると思い込んでた吸血鬼どもが作った字だからしょうがないか。きっと、知識を独占するためにワザと難しくしたんだろうな。 (たった一人が書いた資料でも一万年分です。いくらティアさんでも意味が分からない文字を大量に丸暗記はできないでしょう)  そりゃ、さすがにムリだけどさ。 (ティアさんの目を私に使わせてもらえれば何とか……) (それは、嫌)  心を一部でも明け渡して、体を勝手に使わせるなんて冗談じゃない。 (で、どうする?) (裏口を試してみます。始原の島の北の対岸。ホワイトロック領……湖岸にあるヴァエルの冬城の地下通路は、まだ通じているそうですから)  そんな道があったんだ。そっか、バックスが脱出したのは北に通じている地下道。 (って、今のホワイトロック領は厳冬期じゃない?) (それが何か)  まったく、高い山だの雪原だの。寒さを感じないヤツはこれだから。 (すそが長い毛皮のコート、買ってよね。厚くてもこもこの上等なヤツ。古着でいいから。アースリングを祭壇に隠したら、適当にフケるつもりだけど、多分二・三日はかかるから、その間に絶対に用意しといて。ドルクの分もね)  物見高い連中も、三日ほど騒げば疲れるはず。ううん、きっと二日で飽きる。顔見て握手して作り笑いで質問に答えておけば、みんな気がすんで、あたしは日常の一部になる。ヤジ馬たちも別にヒマしてるわけじゃない。日々の勤めがある。  さて、さすがに大きい方でも時間がかかりすぎか。便秘や、ぢと思われるのもシャクだし。  水を手に取り、髪を手ぐしで整え、笑顔を作った。 「久しぶりだねい。ティア」  便所から出たとたん、モリス高司祭のウサんくさい笑顔にぶつかって、顔が引きつった。他のヤジ馬たちは追い払われてた。 「メンター師は、忙しいから会えない。すまないって謝ってた」  まぁ、顔を合わせたところで、あたしも何を話していいのかわかんない。先生にはウソつきたくない。でもウソをつかなきゃなんない。 「伝言だ。シリルの件はありがとう」 「解ってる。あの人形劇やらせたの、メンター先生でしょ」  モリスの、まだらなヒゲにおおわれた口元がゆがむ。 「あと、なすべき事が終わったら、かえっておいで。だとさ」  なすべきことね。  モルをブチ殺すことかな。  吸血鬼の武器屋が言ってた、剣で殺せるが殺せない。世界を滅ぼさねば滅びない。その意味を突き止めて、あいつを完全に消滅させたら……ここで落ち着くのも悪くないかな。  やだよ、こんなのってねぇよ。ヴァエルもファラも滅びて、夜は明けたんだ。城に連れて行かれるのは、ジイさんの代で終わったんじゃねぇのかよ。  それも、おれらのナワバリで……こんなのって、ねぇよ。  これは誰の思いだろう。  アレフは丸い物理障壁を白く包みゆく吹雪を見上げた。  峠で飲んだ山賊か。ヒゲも生えそろわぬ金髪の坊や。カシラがさらってきた女に産ませた末息子。深雪《しんせつ》に足を取られ、あがいていた白い首を噛んだ。  彼らはこの吹雪から逃れられたろうか。ヴァエルの冬城まであと半日の距離。だが、伸ばした手も見えない白い闇の中では、一歩も進めない。私はともかく、白ウサギのコートを着込んだティアと、厚ぼったいアライグマの上着をかき合わせるドルクはムリだ。 「ハデな髪した白い人が多いよね、この辺」  銅の小ナベをランタンにかざし、雪を溶かしていたティアが顔を上げる。戻っても褒賞はなく祝賀の宴も開かれない。空虚な人形劇の英雄。ティア自身はその扱いをなんとも思っていない様だが……  『全てが終わったら』か。  自らにかかった紅い疑惑を晴らすまでは、戻るなという意味ではないだろうか。悪いうわさは止められない。父親が私に呪縛されていた事を、暗くささやく者もいるだろう。  今は副司教長の密命を受けての潜入任務といったところか。いずれ私をその手で滅ぼし、晴れやかに凱旋する時まで。期限を定めぬ任務……それはむしろ追放に近い。 「モルやあんたのご先祖って、ここらに住んでたの?」  母がしてくれた話が本当なら、もっと北の方だが、うなづいておいた。 「雪ヒョウや白熊が白いみたいなもん?」 「まさか、雪原を人は裸で歩かない。陽の光に弱く夜はめだつ白い肌は、生物としては欠陥だ」  ティアが身を包む白いコートに触れた。 「でも、ウサギも白いよ」 「キニル周辺で飼われているウサギが白いのは、毛が染めやすいからでございますよ。野生のウサギは茶色です。高い山には冬毛のみ白くなるウサギもいますが」  ドルクが乳鉢を出し、コカラと砂糖を潰し混ぜ始めた。 「湯が沸くまで、退屈しのぎに昔話でもしようか」  脳裏に浮かんだのは、皮肉な笑みを浮かべた白い母の顔だった。 四 昔話  むかし むかし あるところに……  いや、本当にあった話なら時と場所をぼかすべきではないな。  千年ぐらい前。北の果ての太守が、氷の海に突き出した半島に村を作りました。冬には海さえこおる雪に閉ざされた村。それでも、氷河から流れ出す水は大地をうるおし、夏が来ると村は花でいっぱいになりました。  毛長牛やカリブーは夏に柔らかい草を食んでたくさん仔を産み、たくさん乳をだしました。海には大きな魚や海獣がたくさん泳いでいました。村人は食べものに困りませんでした。  チーズや毛皮と引き換えに小麦粉や南の野菜も手に入ります。ヴァエルが作りし風の精霊たちに守られた村は、嵐や吹雪を知らず。村人はなに不自由ない暮らしをしていました。  いや、不自由してないというのは大まちがい。  村人はとても不自由な暮らしをしていました。半島に通じるたった一つの断崖の道には関が作られていて、村人がヨソへ行く事は禁じられていました。村人は、半島の外では目立つので、舟で逃げても海岸で捕まり、すぐに連れ戻されました。  なぜなら、半島に住んでいたのは、赤や金の派手な髪を持つ、目の色の薄い人ばかり。周りの茶色い髪と目を持つ人の中に逃げ込むことは出来ませんでした。  だから、村の人は、同じ村の人の中から結婚相手を見つけるしかありません。  全ては、闇の女王様を喜ばせるため。  愛するファラが好む髪と目の色の人間を集めて、増やすためにヴァエルは半島の村を作ったのです。  白い肌にソバカスやシミがうかないよう、閉ざされた村の人たちはいつもヴェールをつけるよう定められました。そして、なるべく同じ髪色の人間との結婚がすすめられていました。 「白ウサギ同士を掛け合わせるみたいなもの?」 「それだけでは褐色の肌と黒髪をもつ配偶者との間にも、白い肌と薄い髪色の子しか生まれぬ説明がつかない。ワイドールが作り出した生き物の姿形に作用する呪法もかけられているはず」 「ドルクがオオカミに変わるようなもん?」  獣人の変身は、目に見えぬ微細な自律因子による、遺伝子への転写と急激な細胞増殖と細胞死によってもたらされる。変化時の痛みを和らげる内分泌物は、戦いへの恐怖をもマヒさせ、発毛や筋繊維の増強以上に、戦闘力を上げる一因だが…… 「もう少し穏やかで、限定的な呪法。母親の胎内にあるときに、まだ命のタネでしかない時にだけ働いて、特定の髪や目の色を発現させる。でも、自律因子そのものを親から受け継ぐ確率は、他村の血が混じるたびに半減していく。だからこそ……」  何百年かすると、村には体の弱い人が増えていきました。しんせき同士、いとこ同士で結婚しすぎたからかもしれません。  それに男の子も女の子も年頃になるとヴァエルの検分を受け、半分以上が連れて行かれてしまいます。闇の女王に捧げられた乙女と若者は村に二度と戻って来ないので、いくら子供を生んでも生んでも、追いつきません。  だから赤髪の一族や金髪の一族は少しずつ数を減らし……特にファラのお気に入りだった銀髪の一族は、元々数がすくなかった上に、宴のたびに所望されるので、両手の指の数より少なくなってしまいました。  若者や乙女が奪われるたび、たくさんの対価を下賜されていたので、一族は大理石の御殿で暮らしていましたが、全然しあわせではありませんでした。  ある冬……新年の会合が開かれるから、家に残った娘と息子、そしておさな子までも宴に侍らせるようにと言われ「もうたくさんだ」と銀髪の一族は半島から逃げ出しました。  目立つ髪を黒く染め、真冬の氷の海を歩いて渡りました。足の指はこごえて取れてしまいましたが、半島から出る事は出来ました。  お金はあったので馬車をやとって、地の果てに行く船が出る、港町に向かって、昼も夜も休まないで旅をしました。  でも、船が出る港で、追っ手に捕まってしまいました。  キニルに送り返すしたくが整うまでの間、港を治める不死者の館に留められた黒く髪を染めた一族は、涙を流してお願いしました。 「せめて子供らだけでも船に乗せてください。もうわが子を奪われなくてもすむ土地へ行かせてください」  すると、金銀が格子になった盤が目の前に置かれました。上には黒曜石と水晶の駒が並んでいます。 「これで勝負をして勝てたなら、全員を船に乗せる。でも負ければキニルへの馬車に乗せる」  エイドリル様のたわむれに、父親が受けて立ちました。でも相手は人の心を読める不死者。打つ手打つ手、全てが裏目になって、どんどん追いつめられていきました。  盤上で追いつめられた水晶の王。一族の命運も共に尽きたかと思ったとき。横で見ていた娘が、父の代わりに一つ駒を動かしました。思わぬ手におどろいたエイドリル様は次の手を誤りました。  その誤りを上手に利用する一手を、今度は母が思いついて駒を動かしました。その次は息子が駒を動かしました。その次は祖母が動かしました。その次は祖父が。時にはおさな子が思わぬ手で盤を混乱させ、誰の心を読んでいいのか分からなくなったエイドリル様を、打ち負かしてしまいました。  読心を使っての勝負など、最初から公平とはいえません。一対一の勝負だという約束もしていません。  何より、盤上で起きた見事な逆転劇に感心したエイドリル様は、ファラに手紙を書きました。そして、返事を待たずに一族を船に乗せて東大陸へ逃がしてくれました。  宴のたびにヴァエルが魔法のように連れてくる珍しいニエ。どのように生みだされ、どこから連れてきていたのか。全てを知ったファラは、半島の村人を解放するように、恋人に頼みました。  やがて関所は取り払われ、半島に閉じ込められていた人たちは、自由に住むところを決め、好きな相手と結婚できるようになりました。  だけど今も、北の地を治めるヴァエルの領地には赤い髪と金の髪の者が多く住み、東の大陸には銀の髪をもつ人が住んでいる村があるそうな。 「何でファラは銀の髪の贄を欲しがったの。ファラは黒髪だったんだよね。初恋の相手が銀髪だったとか?」  過去形で語られる永遠の女王の嗜好とその理由を、今さら忖度《そんたく》しても無意味だ。 「さあ。ヴァエルは金髪だったよ」  数人で挟み撃ちを仕掛けてきた山賊の中から、私はなぜ、あの金髪の坊やを選んだのだろう。一番若かったから……いや、褐色の頭の間に見え隠れする薄い髪色が、川床の砂金のように目だったからか。 「単に珍しかっただけかもしれない。白化したアカスジ魚を養殖して祝宴用に高値で市場へ出すように」混乱期に生簀《いけす》も需要もドライリバー周辺からは失われたようだが「祝いの席にふさわしい、珍味とでも思われていたか」 「親から子へ、母親の胎内で受け継がれる呪いか。どうりでキニルじゃ冷たくされてたわけだ。うっかり恋仲になったら、子孫が呪われちゃうんだもん」  湯気と共に甘い香りを結界内に広げるコカラを、ティアがすする。  だが、同じ人だ。肌や髪色で味の違いを感じたことは無い。直前に、塩辛いものを食べたかどうかなら分かる。むしろ、日ごろから注目を浴びているせいか、高慢なひねくれ者が多かった気が……私もか。 「この辺りでは、年頃になっても髪色が薄い者の確率は、そう多くないと思う」  キニルで高額の花代がかかる笑い女や評判の妓女。人買いが大枚を払って連れてくる女に、色鮮やかな髪色の者が多いせいで、北の者はみな薄い髪色だと誤解されているにすぎない。関が取り払われて数百年。とっくに混じり薄まり、自然の発現率と大差ないはず。 「でも、東大陸の村はそうじゃないよね」  持ち込んだ富と太守にも勝る知を守ろうとするあまり、オキテとプライドに縛られた、つまらない故郷だったと母は言っていた。いにしえの取り決めに従い、立ち入ったことはない。母方の親族に会ったこともない。贄や代理人を求めた事もない。 「銀髪の子が出来るって計算して、一番血が濃い族長の娘と結婚したんだよね、あんたの父親は。自分の子をファラの大好物に仕立て上げて、セントアイランドに送り込むなんて、いい度胸よね」  当時は入植して百年足らず。たしかに呪はまだ濃かったはず。  だが白亜の城に招かれた時。まだ生身だった頃も、身に危険を感じた事はなかった。ファラ様の前で、怖気づいた覚えもない。物心ついた時に、父はもう不死の身だった。慣れていたのかもしれない。吸血鬼のそばにいるのが、当たり前だと。 「怖いとは感じなかった。塔で育った赤子が、高さを恐れないのと同じかもしれない。それにファラ様の公子や公女には幾人か、銀髪の闇の子がいたと思う」  単なる食いモノと割り切っていたなら半島を開放しろなどといわれないはず。ファラ様は人を慈しんでおられた。 「それに太守の身内を勝手に贄にするようなムチャはなさらない。それが地の果ての小国の太守の関係者であっても。だいたい、噛まれたからといって必ず死ぬわけでも」  溜息をついてティアが丸く白い天井を見上げる。風の音が小さい。白い嵐はおさまりつつある。 「心の奥では、吸血鬼を恨んでたとか?」 「たぶん……。私が転化してから、母は夢の世界で生きるようになった。最期まで現実を直視する事なく逝ってしまった」 「おふくろさんじゃなくて、あんた自身」  言われている意味が分からない。血がもたらす高揚感から冷めたあとにくる、自己嫌悪のことだろうか。 「キニル近くの丘で話してたじゃない。開祖モルに弟子を会わせて、教会の設立に手を貸したって。心のどこかでファラやヴァエルに復讐したかったんじゃない? あんな昔話を聞かされて育てられたから」 「そんなことは……」  いや、もしかすると。  文字を学び書物から知識を得て知性を磨くことで、私は定命の身から不死の身に成り上がった。ある意味、不遜な下克上。領民を豊かにする道として、知識を得る手段の提供に賭けたのは……その先に広がる、今の世界を望んでいたのかもしれない。 「ところでさ。何でエイドリルは、ひとりで大勢と勝負したの? しもべや闇の子に心話で知恵を借りれば、銀髪の一族と同じことが出来たでしょ」  甘く熱いコカラを飲み終わったティアの問い。これには何とか答えられる。 「時々、感じていること考えていることが、本当に私のものなのか、血と共に取り込んだしもべのものか、分からなくなる。エイドリル・ヤシュワーは、それを厭《いと》うたのかも知れない。古く誇り高い太守だったから」 「それ、血の絆や読心に関係なく、みんな一緒だと思うよ。あたしがあんたを倒して父親の呪いを解こうって思ったのは、教会の人形劇を見たから。あたしの考えじゃ無い。だれかから聞いたり教えてもらったり、読んで見て覚えたもの……あたしの心も、他から取り込んだもので出来てるよ」 「そう……だね」  心の中心に居座る、ティアを守りたいという思い。自分のものなのか、そうでないのか。行動に移す事によって既に裏打ちされた決意の出どころなど、追求するのは無意味かもしれない。 五 火精 「止んだかな、雪」  ティアがほの白い雪の天井を見上げる。 ドルクはすでに、歩き出す用意を始めていた。飲み終わったカップを雪で拭き、砂糖やコカラの袋と共に、背おい袋に収める。厚い手袋をはめ、新雪の上を歩くための底が広い毛皮のブーツをはく。  ドーム状の結界を揺さぶると、積もった雪が落ち、澄んだ空が広がった。星が美しい。北の赤い光は極光の一部だろうか。  暗い針葉樹が見下ろす斜面。時折、空の果ての赤い輝きを振り返りながら、歩いて登る。山賊の襲撃時に馬を失わなければとも思うが、仕方ない。それに、彼らのうち二人は命を失った。一生のこる傷を受けた者も幾人かいる。我々が無事なのは不死と治癒呪のお陰でしかない。  不意に目の前が開けた。平らかで明るい湖。湖岸に方形の城が建っていた。ヴァエルが冬期にのみ滞在していた城。ホワイトロック最南端の地。ファラの居城に応えるごとく、白く優美だがひとけはない。平地が少ないせいか城下町もない。  上陸した港。木材の積み出し港の明りは、ここからでは見えない。ただ、こちらの斜面は雪の積もりが薄い。風向きのせいか、湖がもたらす温もりのせいか。あるいは城を守るように飛び交う風精の力かもしれない。 「手に封じた風精を先行させてみないか。仲間だと思ってくれたら、我々もすんなり通してくれるかも知れない」  ティアが左手を差し伸べ、風精を放つ。 「あそこに、あなたの仲間がたくさんいるんだって。ごあいさつ、ひとりで出来るかな?」  子どもにお使いでも頼んでいるような口調だ。  つむじ風が白い雪を巻き上げながら下っていった。  しばらくして戻ってきたつむじ風に、ティアが手を差し伸べる。うまくいかなかったらしい。 「名前を聞かれたんだって……あたしたちじゃなくて、この子自身の名前。どうしようか」  いつの間にか名前の概念が分かるほど成長していたのか。昼間も魔力を注ぐ者がいると、育つ早さもかなり違う。 「キングポートで譲ってから、ずっとティアさんが育ててきた。育ての親が名づけ親になればいい」 「だったら、フレオン……自由な風がいい。お前の名前はフレオン」  古い言葉だ。親友の意味もあったはず。立場や身分を越えて結び合う心の絆。束縛を受けない想い。  つむじ風が誇らしげにティアの周囲をめぐり、雪を巻き上げ、空気を揺らす。細かな振動が繰り返し呟いていた。  『フレオン』と。 「まさか……」  テオはそれ以上、言えなかった。剣帯に汗がにじむ。暑い日差しが剣の重みでかしいだ肩を焼く。午後の陽は目の前の麦わら色の頭もこがしていた。  モルの深刻そうな口元。法服に影を落とす尖ったあごを見つめていた。ソバカスがのこる細い鼻とまばたかない大きな目。英雄なんて称号がにあわない、少し年上の司祭。  リンゴ酒のビンをかかげ、木影に手招きする灰色の姿を見た時から、冗談だと思っていた。吸血鬼退治の話が聞きたいだなんて。オレの活躍をねたんだ誰かが、からかうために寄越したウソつきに違いないと。 「彼もヴァンパイアなのです」  暗くて焦げ臭い城の空気と、生々しい痛みがよみがえる。聖女見習いが太陽に見えた。清浄な破邪の光にスタッフと髪を輝かせたティア。ドライアドから救い出してくれた時の、愛らしい笑顔。  巧みな年配の弓の使い手はありがたくても、細い魔法士とティアを最初は足手まといだと思っていた。けど、村を、この大陸を、吸血鬼の脅威から救ってくれたのはティアだ。大胆な体さばきと破邪呪の威力。  心をもっていかれた。 「聞いていますか。その、アレフという男は」  あいつはオレにパンをくれた。崩れた階段で足を踏み外した時、自分の身もかえりみずに手を差し伸べてくれた。それだけじゃない。何度もかばってくれた。ケガした時は治癒呪で治してくれた。  気絶から覚めた時、捨て身でヒゲのヴァンパイアと殴り合ってた。あれはティアを思う愛が起こした奇跡だ。だからこそティアを託してもいいと、アレフなら納得だと諦めたのに。 「ヴァンパイアなのです」  ティアは叫んでいた「アレフ、離れて!」と。あれは思い違いだ、夢でも見たんだと思っていた。人が天井すれすれまで跳べるハズがない。鳥よりも軽がると。ホーリーシンボルに巻き込まれないための跳躍。  人離れした死人の素早い動きに対抗していた。人体をあっさりと引き裂く力に、マントと上品な服だけで耐えていた。鎧を着たオレを片手一本で引き上げた。そして一人だけ何も食べず飲まなかった。シリルで済ませてきたって“食事”は…… 「まさか」  もう一度つぶやいた。でも、今度は納得していた。 「じゃあ、ティアは」 「このままではアレフに血をすすり尽くされて死にます。そして吸血鬼にされてしまう。テオ、力を貸してください」  モルに手を握られた。 「アレフを倒さないかぎりティアは……我らが聖女を守ってくれた騎士よ、どうか力を!」  村を救ってくれたティアを今度はオレが救う。  テオはうなづいた。  与えられた時間は日没まで。急いで荷物をまとめ、要らない物は暖炉の横にゴミとして積んだ。兄夫婦に旅に出ると告げた時、義理の姉は少しうれしそうに見えた。 「これ裏のコリン坊やが欲しがっていたナイフ……泳げるようになったらオレの代わりに渡してやってくれ。約束なんだ」 「二度と帰らないみたいな言い草だな」  ナイフを預かってくれた兄が眉をひそめる。 「ガキの成長は早いから。約束は破りたくないだけさ」 「いつ帰る?」 「用事が終わったらすぐに」 「ホーリーテンプルの?」 「実際にヴァンパイアと戦った時の事を、新米のテンプルナイトや司祭のタマゴに話して聞かせるんだ。臨時雇いの先生。イカしてるだろ」 「ああ、お前は英雄だ。立派な弟をもって兄さんは幸せだよ」  本当の行く先はホーリーテンプルじゃない。でも、ウソをつかなきゃ、兄さんと母さんを心配させちまう。 「気をつけてな」 「元気で。姉さんも」  扉を閉めた後、ほっと息をついた。慌てて肩に引っ掛けてきた剣帯を直す。大振りな剣はきちんと背負わないと重くてしょうがない。  モル司祭が待つ、森の幸亭へ行きかけて、立ち止まった。口止めはされた。でもパーシーさんなら話しても大丈夫だ。  村長の館の前庭を、早足で突っ切る。足元からニワトリの群れが、半ば飛びながら散った。  扉を軽くノックして、応えを聞く前に入る。 「あら、いらっしゃい」  包丁と野菜を入れたカゴをかかえたアニーおばさんが、横をすりぬける。これから井戸バタで夕食の下ごしらえか。パーシーさんは村の集会場にもなる食堂で書き物をしていた。 「その格好……旅支度かい?」  紙を裏返していた手が止まる。 「力を貸してほしいと誘われました。モル司祭について行くことにしました」 「やはり、森の幸亭へ来た司祭様ご一行は」目を閉じたパーシーさんがうなづく「それで力を貸すとは?」 「ティアを助けにいきます」  立ち上がりかけていたパーシーさんが止まった。木彫りの人形のようだと思った。  決心がにぶる。  きっとパーシーさんは笑うだろう。  お前はふられたんじゃないのか? ティアもアレフの事を好いてると思ったから、男らしく身を引いたと言ってなかったか。それに彼女は何の助けも必要としていないよ。  どう言えば信じてくれるだろう。  村を救ってくれたティアも、ヴァンパイアの魔力にとらわれていたなんて。ティアが魅入られた魔物は、この村を恐怖のどん底に落とした森のあいつより年を経た強大な存在だと。  あいつは人間のふりをして、陽のある内に村に入り込み、タック伯母さんを襲った。旅人として宿を乞い……  パーシーさんはあいつと二日間、この屋根の下で過ごした。最上のもてなしをした客人に、裏切られていたと知ったら。  オレ自身、まだ信じられないでいる。  アレフか本当にアレフだったなんて。  あいつの正体が何百年と生きてきたヴァンパイア、闇の一族の統率者だったなんて。一族の裏切り者を制裁するために、オレやティアを利用していたなんて。 「アレフを退治するためか」 「うん……え?」  いつしか床の木目を見ていた眼を上げると、パーシーさんが溜息をついていた。紙束をテーブルに置いて、イスに座り直すのを見て、やっと声が出た。 「知ってたんですか? アレフの正体」  違う、きっとモル司祭が教えたんだ。 「子供の頃、会った事があるからね。年寄りの何人か気づいてたよ」 「知ってて……泊めた?」 「いや、思い出したのは……まあいい。一介の旅人として訪れた者を、追い出す訳にはいくまい。それに村を救ってくれた」 「でも、それは」 「理由はどうあれ村は救われた。お前も何度も助けられたと言っていたろう。なのにモル司祭に協力するのか?」 「だって、ヤツは伯母さんを!」  お見舞いに行けば、タック伯母さんは豪快に笑ってお茶を振舞ってくれる。でもやつれは隠せない。首にまいたスカーフの下には治らない傷痕が残っている。まだ伯母さんは魔物の呪いにかかったままだ。 「救ってない。あいつも同じだ」 「違う」 「どこが!」 「これ以上犠牲者は出ない」 「……どういう意味だ」 「気に入った相手が死ぬまでは、他の者に手を出す事はない。ひとつの村でひとりだけ。何か月も……何年もかけて命をすすりとる。昔は……犠牲者が吸血鬼になる事はほとんどなかった。そうでなければ、とうに人は食い尽くされている。何千年も彼らはそうやってきた。町も村も滅ぼさず」 「伯母さんは見殺しにするのか」 「大勢を殺されるよりマシだ」 「そんなの」 「いい事だとは思ってない。昔の支配関係を蘇らせようとは考えてない。だが、テンプル以外にも黒茶を買い取ってくれる先が出来れば、双方に圧力をかけられる。適性な価格で買い取ってくれるよう」 「金かよ。そんなこと村長が言うなんて」 「金は大事だ。人が生きていくには。それにアースラ・タックについてはティアが……」  言いかけてパーシーさんはおしだまった。  そうだ、ティアだ。 「ティアこそ村の恩人じゃないか。今度はオレが助けなきゃ」 「たとえアレフを倒しても、ティアがお前と一緒になるかは」 「わかってる。でも、魔力でとりこにされてるんだ。その呪縛を断ち切らないと」 「そう思うのか?」 「決まってる。でなきゃ聖女がヴァンパイアを愛するはずがない」  パーシーさんは優しい顔をしていた。 「若く素直な心に真実は映るという。でも事実は、時間をかけて磨き上げた多くの鏡に映さなくては見えてこないものだ」 「何だよそれ」 「この村を出て広い世界を見ておいで。目をしっかり開けているんだよ。お前が守るべきもの、お前を守ってくれるものを間違えないようにな。後悔しなくてもいいように」  パーシーさんは壁ぎわの引き出しから小袋を出して、オレの手に握らせた。中身は数枚の金貨だった。 「持っていきなさい。くれぐれも気をつけて。利用されないように」 「ありがとう……ございます」 「モル司祭が待ってるんじゃないのかね」 「はい。行ってきます」 「生きて帰ってくるんだよ」  そうだ、もう二度とこの村に帰れないかも知れない。  アレフの強さは十分に知っている。力も速さもオレより上。攻撃呪の威力もわかっている。でも、愛する人を救うためなら、命は惜しくない。  森の幸亭へ向かう足取りは、いつしか力強いものになっていた。  小さくかたい足音がうるさい。下の階で地精《グノーメ》が分裂して追いかけっこしている。体にふさわしく心まで幼女。あたいより年上とは思えない。遠く弾ける水音はムカつく水精《ウンディーネ》。湖水を引き込んだ地下庭園を魚臭い尾で荒してる。  ピュラリスは、赤い熾《お》きを引き寄せた。羽を少し動かして狭い暖炉に新鮮な風を呼び込む。  むき出しの地面があれば、世界の半分をおおう海とかいう水たまりがあれば、どこででも何時まででも存在していられる地精や水精と違って、火精は居場所が限られる。  火を絶やさぬよう番人が見守る古い暖炉か、常に火と煙を吐く山。  滅びた城で消えずにいられたのは、乾いた木の枝を運び入れ、燃えカスを吹き飛ばしてくれる風精《シルフ》たちのお陰。  最後の枝に火を移した。この枝が芯まで白い灰になったら、あたいは冷えて消えてしまう。 「今日は、シルフ達おそいな」  もう火精を飼うのに飽きたのかな。開きっぱなしの窓の外を飛び交う風精にたずねようとして、やめた。  近くに風を感じた。  まだ子供……っていうか、赤ん坊に近い風精が手ごろな良い枝を落としていった。端に獣脂が染みた布と縄が巻きつけられてる。たいまつか。 「こんなモンどこから。それに、見かけない顔だね」 「フレオン!」  うすい胸を張って名乗り、くるくる飛びまわる。またやってきて「フレオン」と胸を張り、かっ飛んでいく。幼い風精の考える事はよくわからない。たいまつは、ありがたく暖炉に引きこんだ。  重い足音がした。人間だ。めずらしい。この辺りに住む連中は、ヴァエル様の怨念を恐れて、城には近づこうとしない。だけど、現れた灰色の娘を見て納得した。ファラ様を滅ぼし、島に居ついたテンプルとかいう無法者のはしくれだ。 「いた! 赤くてちっちゃいトカゲ人間」  こっちを指差している。あたいが見えるのか。 「髪の毛が逆立ってゆらゆらしてる。ドラゴンみたいな羽もついてるし。コレでしょ?」  コレって言うな。失礼な。指か褐色の髪につかみかかってヤケドさせてやろうかと思ったとき、懐かしい気配を感じた。足音もさせずに娘の後ろに立った黒い姿。 「ピュラリスか?」  ヴァエル様から逃げ出した供物の分際で、不死を与えられていい気になってた若造。ファラ様のまなざしを、数百年間にわたってヴァエル様から奪った恩知らず。千年もすれば私の元に愛しい女神は戻ってくるとヴァエル様は明るく笑っていらしたが……青い眼の奥に、怖い炎が燃えていたのを、あたいは知ってる。  あたいより若い不死者が出してきたのは、火炎の紋を、血で内側に刻んだ水晶球。 「ここに居たいか。それとも私と共に来るか」  目の前に差し出された透き通った牢獄に、何であたいは入ってしまったんだろう。  暖炉から同じ部屋を見ている毎日。四十年間、壁と床の石の数を数えながら、風精が運んでくる焚き木を待つのは、退屈すぎた。  もしかすると……。 青白い死人の肌は火に弱い。嫉妬の炎ではなく、あたいの炎で丸コゲにしてやるつもりだったのかも。  でも、心残りがひとつある。  水晶球に収まってから、なぜ暖炉に留まってたのか、ワケを思い出した。しかも目ざとい灰色の娘が、奥の壁の石が少し出っ張っているのに気付いた。ずっとあたいが守ってきた宝物に、汚い手で触った。  それだけなら“まだ”許せる。こともあろうに灰色の娘は、ヴァエル様の宝物を読み上げ、ニヤついて元の場所にもどしやがった。破りもせず、焼き捨てもせず。 「こんな面白いもの、次に来る誰かにも読ませてやんなきゃ」  停滞の呪がかかったガラスの筒に大切に封じられた、恋文の下書きとファラ様からの返事。二つの巻紙を貫き止める、ガーネットのピン留めまで、元通りにして。  でも、こいつらが今へたってるのは、ヴァエル様の思い出を守れないまま水晶に封じられた、あたいの恨みのせいじゃないよ。  あれから何日、こいつらは地下を歩いてるのかな。昔、ファラ様とヴァエル様が逢瀬に使ってた機械仕掛けの土竜は、炉の寿命が切れてて動かない。さびないレールだけが、夜も昼も無い闇の中に延びている。 「お腹すいたー。もう黒茶は飽きたー!」 「我慢してください、ティアさん。もう少しですから」 「それもう、聞き飽きたぁ」  また騒いでる。生身の娘なんか連れてくるからだ。本当に叫びたいのは、黙って二人分の命を支えてる始祖のはず。いっそ飲み尽くして転化させちゃえばいいのに。みんな不死なら飢え死にはしない。渇いて滅びるかも知れないけど。 「ホントにセントアイランドの地下? 一休みしたあと、方向まちがって歩き出したりしてない?」 「数日前から、心話が他の誰とも通じない。もうホーリーテンプルの結界内に入っている」  再び立ち上がって歩き出したみたい。水晶球を入れた物入れも一緒に揺れる。 「ご心配でしょうが、イヴリン様や他の代理人の皆様をお信じ下さい。人が操る船は風任せ。嵐を避けたり流されたり。思わぬ寄り道のせいで、モルはまだ東大陸に上陸していないやも知れません」  この声は、ケモノ臭いドルクとかいう使用人。まったく、太守なのにお供が少なすぎる。いくら辺境の貧乏領主だからって、落ちぶれすぎ。  遠くで笑う声がした。歩みとおしゃべりが止まった。 「今度は死体じゃなさそうね」 「いや、本当の人かも知れません」  この地下通路に声を出す生き物なんていたかな。壁は結露して湿ってるからカビやダニくらいなら。 「来た」  物入れが開いた。湿気た空気と白い指が入ってくる。油の小ビンと一緒に、あたいも掴みだされた。  何、アレ。  アーチ型の天井にぶつかりながら飛んくるのは、頭がデカい変なワシ。飛ぶのが下手くそすぎるフクロウかも。足のカギ爪が光って見えた。 「ピエロバード?」 「違う、頭が人と同じ大きさだ」  異界の鳥に、人の顔がついていた。目は見開かれて、裂け目の様に口は真っ黒。アザだらけで毛は半分ない。けたたましい笑い声。鳥臭い風が吹き抜ける。 「ネックガード……入り口で見た死体と一緒」 「心は顔ほど原型を留めていない。意思も記憶も、全てが痛みと絶望で砕けている。ピュラリス、頼む。彼女を死なせてやってくれ」  彼女って、あの半人半鳥のこと? 油は好物だけど、この鳥女、なんだか気持ち悪いよ。 「焼いちゃうの? もったいない。鳥のローストって嫌いじゃないけど」 「食う気か? 彼女は人だ、禁呪で他生命と不完全な合成をされた。聖女見習いとして共に寝起きした仲間じゃないのか」  鳥女が、ティアに怒鳴ってたアレフの肩に噛み付く。  あたいは落っことされた水晶球から飛び出した。転がったビンから滴る油を口に含んで火を吐いた。  鳥女が逃げて、少し離れた天井にぶら下がる。諦めるか、もう少しかじってみるか、迷ってるみたいだ。つまり、力量どころか人数でも勝ち目ないって事、理解できないんだ鳥女は。 「黒茶だって樹と合成された人の成れの果てじゃない。葉が髪の毛なのか皮なのか知らないけど」ティアが笑う「入り口のミイラ。噛まれた痕があった。バックスは助けに来た弟子の血を吸い尽くした後、そいつらで渇きをいやして北へ抜けたのよ」  鳥女が不意に逃げてった。数はわからなくても、食い物にされそうな気配は感じたみたいだ。正直、あの笑い声とうつろな顔が消えてホッとした。 「でも、モルの研究成果が脱走してウロついてるってことは、本当にあと少しなんだ。地下の出入り口は幾つかあったけど、どうせなら見つかりにくい階段か、まだ入った事がない面白い部屋がいいなぁ」  そんな無責任な希望が、数日後に本当に叶うなんて。  油一口分の仕事は終えたと、水晶球の中にもどり、ベルトにくっついた物入れの中に収まったあたいには、予想もつかなかった。 六 知の聖地  歩いても歩いても変わらない地下通路。つま先から染みこむ単調という名の闇。始原の島を包む強力な結界に外界からの心話をさえぎられ、同じ場所で足踏みをしている妄想が払っても離れない。  山城の地下に身を横たえたまま、たちの悪い悪夢に取り付かれているだけではないだろうか。疲れを知らぬ身は現実感をくれない。むしろ非現実へと心をいざなう。  己自身が疑わしい時は、目に映るわずかな変化もありがたい。通気坑から入り込んだコウモリの糞。泥の筋として残るいつとも知れない浸水の痕跡。ティアとドルクのたわいないやり取りが、狂気を退ける。悪夢から生まれでた実験体の襲撃が、正気をつなぎとめる。  地下通路の終わり。  そっけない灰色のプラットホームが、どんな絶景より感動的に見えるとは思いもしなかった。  ティアとドルクが歓声を上げて駆け出す。生身の彼らは疲労と寒さからくる幻覚にも悩まされていた。無理もない。  かつては世界を照らす、不変の月だった白亜のセントアイランド城。縦横に広がり幾層にもわたる地下迷宮は、闇の女王と、側近く仕える者達の寝所。静けさとほの昏い悦びに満ちた私的空間。  だが陽の光に安らぎを見出す、温かい血を持つ者達が城の主となったあと、目ぼしい家財や私物は地下から運び去られたらしい。手紙や日記の類も残っていない。湿ったホコリとカビしか見当たらない空き部屋ばかり。  ひと気があったのは、目をおおいたくなる人体実験の成果が閉じ込められた一角と、厳重に封印された銀の格子の向こう。 「懲罰房よ」  ティアが舌打ちする。放り込まれた経験があるらしい。  開かぬ格子はあきらめ、ケアーが映し出すかつての見取り図と照らし合わせ、北東の狭いらせん階段に決めた。この上は古い公文書が収められた、人の寄り付かぬ書庫のハズ。ファラが書き残したモノが運び込まれた可能性も高い。  ひと目につかないのが何より重要だが、司書がひとりで当直していてくれれば、なお良い。  足音を忍ばせ、幻術をまとい、久しぶりに地上の気配を感じた時……心を騒がせる甘い香りにとまどった。高価な蜜ロウの香り。麝香《じゃこう》を中心に調合された艶めいた香煙。人の汗と分泌物の匂いに心が引かれる。同時に、不健康なよどみに眉をひそめた。  階段の先は薄い板の扉だった。小さな取っ手を回し押す。  開いた先に書類棚はなかった。金糸と銀糸のたれぎぬが視界をさえぎり、深いじゅうたんが足を沈ませる。室内に気配はひとつ。いや、周囲に等間隔に並ぶ警護の者の緊張がある。  酒精が混じった老臭の源は、数十本のろうそくに照らされた黄金の寝台の上にいた。たるんだ皮膚に無数のシミを浮かび上がらせた顔の赤い老人。酒と煙花の乱用が、健やかさと若さを削ぎ落としてしまっただけで、本当は初老かも知れない。 「誰、だ? モルか」  ぼんやりとした老人の意識が、モルへの恐怖でまとまり、理性と思考が動き出す。  まさか、マルラウ司教長。  最悪だ。  この状況では暗殺目的に忍び込んだと疑われても、申し開きのしようがない。  ファラ様が書き残した記録を調べるためなどという真実には、誰も耳を傾けないだろう。 (地上に出られるのが嬉しくて忘れてた。この辺、偉いさんの寝室だった)  心話に振り向くと、ティアが舌を出していた。 (一年近く過ごした場所だろう。どこに何があったかぐらい、忘れないでくれ)  そうか、書庫を司教長の居室に造り変えた際、地下への通路を緊急用の避難路として残したのか。 (では、アクティアス宮は) (そっちは施療院よ)  ファラ様の滅びと四十年の月日は、白亜の城をも変容させてしまったらしい。 「誰か! 妙な連中が、地下から」  目をそらしたとき、マルラウの呪縛が解けたらしい。かすれた声を上げ這いずって扉に向かっていた。たるんだ半裸の背に飛びかかり、床に押さえ込む。主の危機に駆け込んできた銀色の騎士をドルクが押し止める。ティアが走り、金の布の影からスタッフをふるう。  これ以上、騒ぎを大きくするワケにはいかない。  音を伝えぬ結界で周囲をおおった。無音の中で騎士が倒れる。  息を飲むマルラウを引き起こし、静寂の中で噛んだ。  予想通りにごった血だ。酒と煙花の酔夢に溺れる理由は、モルへの恐れ……仮にもホーリーテンプルの最高権力者とあろうものが、たった一人の司祭に対して、身を破滅させるほどの深刻な恐怖を、なぜ抱く? (わからない、あの日、一介の見習いと面談しようなどと思ったのか。選抜試験を満点で通ったから……英雄モル司祭長の曽孫だったからか)  マルラウの思考が現実からはなれ、過去に遊離する。  暑い日だった。  腹と脇に綿布をおいて法衣を着ていた。綿布に汗が染みて気持ち悪かった。粘りつく汗だった。なぜモルと二人きりだったのだろう。人払いを命じられた。違う、みんな勝手に出ていった。見えない何かに追われるように。 「久しぶりだな、マルラウ。私との約束通り余計なことはせず、よく司教長の座を守ってきてくれた」  ハタチの若造とは思えない、老成した嫌な笑み。 「今すぐ明け渡せとは言わない。ただ、私が戻ってきた以上、ホーリーテンプルは我が手に返してもらおう」  あれは死の床にあっても周囲を威圧した英雄、モル司教長そのもの。恐ろしい師であり主人。逆らおうなどと考える事もできなかった。 (アレフ様が出てこられた隠し通路、その先にあるモルの研究室。そこで何が行なわれているのか、知らないし知りたくもない)  この寝台で訓戒していた見習い聖女が何人か、隠し通路からきたモルに連れ去られた。彼女達は救われたと感謝してついていった。より恐ろしい運命が待っているとも知らずに。  そんな夜は、地下からかすかな悲鳴が聞こえていた。耳をふさぎ、気が遠くなるまで痛飲して朝を迎えた。  シンプディー家の財力と人脈で、実権を握りにかかっていたメンター副司教長。あいつの権勢を、モルがもぎ取って行くのは小気味良かった。だが、明日我が身だ。  司教長位は終身制。生きている限り地位は安泰。だがそれは、モルが手柄をたて、ある程度の年齢に達するまでのこと。時がくれば始末されてしまう。  今ならわかる。英雄モル司教長が死に際にマルラウを指名した時の、哀れむような笑み。あれは生贄に向ける慈悲の笑顔。 (そんなハズはない。酒と煙が見せる幻覚だ。いくら子孫でも、そこまで鮮明な記憶と人格を受け継いだ生まれ変わりなど、ありえない) (いいえ、あり得るのですよ、アレフ様。あの者はファラを倒した英雄モルであり、教会を創始した開祖モルでもある。記憶は遠く千年の昔にさかのぼると自慢しておりました)  マルラウが引きつった笑みを浮かべる。  そろそろ、無音の結界も限界か。  二人がかりで倒した銀の衛士を、寝台の裏に隠してから、結界を解いた。  警戒しながら入ってきたもうひとりの衛士には、マルラウの口から、説明させた。同僚には隠し通路の先でした不審な物音を調べるよう命じたと。妙だと思っても、司教長の言葉を疑い、確かめる勇気はあるまい。  だが……本当にありえるのか。  特定の血筋に発現する生まれ代わり。知識を受け継いだ英雄の系譜。そんな吟遊詩人が歌う伝説のような事が。 「剣で殺せるが殺せない。世界を滅ぼさねば滅びない」  へパスの言葉が、ふと口をついて出た。  翌朝、アレフは北西の棟へ向かった。  マルラウに用意させたカギと許可証を示すと、流水と白鳥を刻んだ扉は、灰色の手袋をはめた守衛によって開かれた。  扉の向こうに並ぶのは、手すりつきの足場で上段、中段、下段と区切られた、桂の書棚。巨大な脳髄のヒダにも見える。ただよう香りは紙魚《シミ》よけだろうか。  正五角形の外観をもつ図書館を満たしていたのは、こごえる冷気とほの暗さ。文字を追う学徒たちの、無意識に動く唇から生じる白い息。幻術で黒衣を法衣に見せかけた偽司祭に、疑惑の目を向ける者はひとりもいない。堅すぎる結界は内に致命的な弛みをもたらすらしい。  空気を震わす鼓動は併設された印刷工房からだ。各地の教会で分散保存する本の複製を作り、多額の寄付をした支援者へ送る美麗な記念本を刷る。印刷機は日のある間、文字を捺した紙を吐き出し続ける。  もう一つの四角い建物。明るい窓辺で百人が写本と修繕に勤しむ銅屋根の筆耕房と、勤勉さを競うかのようだ。  五弁のバラに例えられる図書館を生かす、二枚の青葉。永遠の命を持つ者に知が独占されていた四十年前の停滞はもうない。ここは生気に満ちあふれている。  だが、北の二弁。  鉄格子に区切られた禁書庫に、ひと気は無い。  黄銅のカギで鉄格子を開き、中ほどまで進む。白い翼を広げ天井を支える水鳥の彫像を見上げた。平たい水かきのすぐ下まで、箔押しの背表紙が並んでいる。目を背後に転じると、中央ホールの天井画で無腕の聖人が微笑んでいた。 「知は光だと、言っていたが」  その知を保存し伝える本は、光を嫌う。真昼でも吸血鬼が大手を振って歩き回れる薄闇の中に、無数の本はまどろんでいる。  誰かが司教長の異変に気付く前に、知識を得てここを立ち去る。一冊づつ目を通す時間は無い。  物入れから水晶球を取り出した。亜空間上にある脳だけの自動人形《オートマタ》ケアーへの道標《マーカー》を刻んだ透明な球に向かって呪を唱え、空中に使い魔を生み出す方陣を描く。  ほどなく虹色のゆらめきが身をくねらせた。コウモリではなく、薄い板状の擬似生命。本棚の端に厚みのない半実体を滑り込ませ、ページを走査させた。  使い魔の身に転写される無数の文字が、視覚野に映し出され、水晶球を通じてケアーに記録保存されていく。読解するつもりがなくても、記憶は刺激され、精神力はすりへっていく。消耗を防ぐため、目を閉じ集中した。  どれくらい経ったろうか。時を告げる鐘の音を聞いた。最後の一列にかかった時、モルの名が繰り返し出てくるのに気付いた。好奇心を抑え、使い魔に最後まで走査させる。  虹色の使い魔を回収してから、検索にかかった。水晶球が映し出す記述を追っていく。教会が成立する前、年号が定められていなかった頃は、併記された惑星の位置で見当をつけるしかないが……九百年ほど前か。  おのれの血脈に呪をかけ、意識と記憶をひ孫の脳に転写したと豪語する、見た目は若い魔法士の伝記。あるいは、ひいジイさんに体と心を奪われた、哀れな若者の記録。これが“最初の転生”か。  水晶球が映し出す淡い光の文字ではなく、手書きの記録で確かめようと、本棚に触れ、ページを繰った。写本を繰り返したせいか、文字の欠落や誤記もあったが、だいたいは読み取れた。  永遠を賜りたいと願いながらファラ様に拒まれた魔法士。傷ついた自尊心をいやすため、わが子に過大な負担を押し付けたか。ウェゲナー家に悲願と厄介な家訓を残した曾祖父にそっくりだ。  だが、彼がしたのは。 「時が経つほどに広がる、回収不能な呪い」  まとまりかけた思考を横から言い当てられ、本を取り落としそうになった。  本棚の谷間、鉄格子に近い場所に、目の鋭いやせた男が立っていた。藍色の法服。肩から垂れるストールの紋は豪商シンプディー家を象徴するブドウ。  ティアの師、メンター副司教長。  足元に白い輝きが生じていた。くもった大理石の床に生じていたのは不死の身を解き崩す破邪の方陣。術者はいつぞや孔雀亭で会った貧相な司祭か。だが直接手出しできない本棚の向こう、隣の禁書庫から仕掛けている。跳躍すれば発動前に効果範囲から逃れられるが…… 「お連れの方はこちらで丁重に歓待しています。不出来な我が弟子がしでかした騒動と無礼のお詫び。私の代わりに導いてくださっているお礼も兼ねて」  ティアとドルクを人質に取られたか。二人に心話も通じない。調べ物に夢中で気付かなかった。 「それはご丁寧に。いたみいります。ですが、間もなくおいとまする刻限。私の連れはいずれに?」  返事は沈黙と穏やかな笑み。その奥の心が読めない。 「昨晩、不審な物音を調べに地下へ下りた司教長付きの衛士が、今朝、遺体で見つかりました。お心当たりは?」  二人を殺人の罪で処刑しようというのか。 「ありません。 地下で異界の生物と合成された聖女を見かけました。他にも理性を失っている者が何人か。衛士を殺めたのは彼らでしょうか?」  我ながら下手な言い逃れだ。日頃、読心に頼りすぎているせいだろうか。言葉を重ねて相手の真意を探るのは、ひどくもどかしい。 「調査を命じたマルラウ司教長も、責任を感じてか、酒を断ち煙花を遠ざけ、禁欲的になっておられる。見習い聖女への個人的な訓戒もやめるとおっしゃっている」  司教長らしくせよ。そう、縛りをかけたが……あまりに唐突な改悛が、不信を招いたのか。 「とはいえ命に従っての殉職なら位階を上げ、遺された家族に十分な手当てを支給できます。これが護衛対象を守りきれず、むざむざ司教長を吸血鬼の餌食にしてしまったというのでは、不名誉極まりない。たとえ善戦の末の討ち死にでも、手当てどころではなくなりますからね」  メンターの微笑が、鎖のように重い。 「それにもし、本当に吸血鬼が入り込んだのなら、夜のうちに相当数の転化者が出ているはず。死体が転がり灰が舞う、昨日まで語り合い笑いあっていた者同士が殺しあう、怒号と悲鳴に満たされた白亜の聖地……できれば見たくない光景です。お互いにね」 「吸血鬼など入り込んでいないとおっしゃるなら、私の足元の方陣は?」 「余興ですよ。ご心配なく。生身なら無害。むしろ爽快なくらいです」  慈悲深く響く声に滅びを予感した。 「もっとも、吸血鬼というのはマシな呪いです。死と破壊をもたらすと同時に、秩序も構築する。上位者が下位の者に振るう生殺与奪の権。そして心話。この二つでどれほど混乱した状況をも治めてしまう。たとえ暴走しても、始祖さえ滅ぼせば終わる。実に制御しやすい呪いです」  一体メンターは、何の話を始めたのだ。身に迫る危機とは別の、冷たい不快感が湧き上がる。 「使い勝手の良い、戦《いくさ》の道具と言い換えてもいい。人の意思で統御できる疫病。劫火よりも広範囲に燃え広がり、人だけを灰にする炎」  造られた者の痛みを知れ。  疫病や劫火に関心を示すへパスに、ファラ様が不死の身と共に与えた言葉。  そういう事か。  だが己が本質的に剣と同じ、道具にすぎないというのは、楽しくない認識だ。 「寸鉄より短い牙など、武器としては石つぶてにも劣ると思いますが」 「その石つぶてにも劣る力で、一度ファラは世界を滅ぼしました。始原の島に結界をほどこし、囲い込んだわずかな賛同者を残して」 「ウソだ」  叫び返した直後に、思考が勝手に結論を導き出す。断片的にしか残っていない、有史以前の豊穣な文化と多様な言語。あれは、今よりもっと大勢いたハズの人間ごと、殺戮された歴史の残骸。 「吸血鬼化した人々が血を吸い合い殺し合い、外界にいた者すべてが渇きで灰になるまで四年かかったようです。この島は淡水に囲まれ適度に広く温暖。土を耕し家畜を飼い魚を釣れば、数万人が生きていくのに何の支障もない」  手にした本がひどく重い。書棚にゆっくり戻し、水晶球に目を落とした。思考に反応したのか淡い光が初期の記録を映し出していた。 「東大陸も海に囲まれ、容易には近づけぬ地。かの地の太守がファラと同じ暴挙に出るのではないか……ずっと気がかりでしたが、どうやら取り越し苦労でしたね」  水晶球にまたたく有史以前の記録は、メンターの言葉を裏付けていた。ここにある何冊かを彼も読んだのだろう。 「ならば私達の問題はひとつに絞られる。ひとりを殺しても解除されない厄介な呪いの方。百年ごとに特定の道標《マーカー》を持つ者の中から一人を選び、保存された記憶を流し込む転生の呪い。世代を経るごとに道標《マーカー》を持つ者は増える。人という種そのものを汚染しかねない危険な呪法です」 「だが、その道標《マーカー》は命に潜み紛れているのでしょう。特定のアザといった外見的な特徴は何もない」ヴァエルが髪色を固定した呪いと原理は近いが、はるかに厄介だ「誰が道標《マーカー》を持っているかも分からない。何の罪も犯していない者に、断種を強制する事は出来ないと思いますが」 「確かに、今さら香茶に混ざった黒茶を分離する方法はありませんね。でも、発現のきっかけは、決まっているようです」メンターが笑う「吸血鬼の存在」  水晶球が映し出す文字で確認をとる。今、メンターが語っているのは事実だ。 「今のモルに呪いが発現したのは、東大陸で大っぴらに生き延びていた二人の太守のせいです。その始末をつけるのは、目覚めさせた者の義務ですよ」  その決めつけには、反論せねばならない。 「モルはホーリーテンプルの司祭。彼が振るうのは、教会を司る者が与えた力でしょう」 「ですから、もし、かの者を葬ってくれたなら、見返りに少しばかり譲歩いたしましょう。不可侵の盟約あたり、いかがですか?」  どうせ戦わねばならぬ相手。否やはないが、古い秩序の最後の担い手として、はっきりさせておきたい重要事項がひとつある。 「ビカムアンデッドの触媒となる賢者の石。ファラ様が持っていた紅い石は、今ここに?」 「タマゴの様な紅い石ならモルが持ち歩いています。ご所望でしたら、力づくで奪い返すしかないでしょうね。 では、あとは全てが終わったのちにでも」  あっさりと背を向けた、無防備なメンターに虚を突かれた。いつしか足元の方陣も消えている。  さきほどから気になっていた疑惑を、藍色の背にぶつけた。 「森の大陸に抑制を知らぬ吸血鬼が放たれ、港が封鎖されたのは、道標《マーカー》を持つ者が多いかの地を、無関係な人々ごと浄化するためだった、ということは……ありませんよね?」  メンターは振り返らなかった。  ため息をつき、ふと水晶球に落とした目が、あり得ぬ文字列を読んだ。紅い石という言葉が引き出した禁呪の術式。  身を切る後悔ごと、見たものを心の奥に押し込めた。  ▽ 第十七章 生きて帰りし者が語る △ 一 テオの戦い  頭上に掲げた大剣が重い。午後の陽で篭手《こて》が熱くなりかけている。潮風が髪をなでる。したたる汗が変に冷たい。 「怖気づいたんじゃねぇの。英雄テオさんよぉ」 「遊んでないで、そろそろ片付けろよ、オーエン」  周りではやしてる水夫や拳士は無視だ。  目の前の相手に集中する。面防からこぼれる黒髪。銀の鎧は薄いらしく動きが軽い。ひらめく白い布が肩の動きをみえにくくする。  オレより背が低い聖騎士の得物は、長短二本の棒きれ。鉄芯を入れた模擬刀。こっちは真剣だってのに、バカにしている。オレは夜にヴァンパイアとやりあったんだ。木切れなんか粉砕して、ノド元に切っ先をつきつけてやる。  ちょろいさ……と思ったのは最初だけ。  振り下ろすと横によけられて、脇腹に一撃くらう。横になぐと下をくぐってきてヒジを突かれる。足元をねらったら、刀身を踏まれて、つんのめった額をこずかれた。  だったら不意打ちだ。気を張って時を待つ。  足元の傾きが変わる。銀船が波に乗り上げ越える。  今だ。  飛び込みながら刀身を下げ、足元からすくうように切り上げた。だけど向こうも突っ込んできた。胸元に飛び込まれて、体当たりされた。避けきれずぶつかって勢いが止まる。ノドとミゾオチを突かれた。  昼に食った固焼きパンを吐いた。息もよく吸い込めない。苦いゲロと涙にまみれて甲板で身体を折った。 「これが銀の剣だったら、お前、終わりだな」  面防を上げた浅黒い顔は、見下して哀れんでた。勝ち誇られるより悔しい。 「仕事、増やしやがって」  水夫に海水をぶっかけられた。目に染みて痛い。デッキブラシでつつかれて、嘲笑の輪からよろめき出た。  船は狭いから大剣は不利なんだ。お前ら見物人や垂れてる綱なんかを斬らないよう気ぃ使って遅れをとったんだ。足場がナナメだったから……揺れるから。  言い訳は痛むノドにつっかえて咳に変わった。  敗北の一因となった愛刀の刃こぼれを調べ、ボロで汚れをぬぐい油を染ませたなめし皮で拭き上げる。 「やはりテオさんは英雄だ。そんな重い武器でオーエンとあそこまで渡り合えるなんて。水夫にバカにされたからって、気に病むことはありません。連中は何も分かってないのですから」  優しい慰めの言葉。モル司祭が痛むのどに手を当てて、治癒呪を唱えてくれた。けど、息が楽になっても、敗北の痛みまでは取れない。 「オレが弱い、だけだ」  認めなきゃいけない。 「オレひとりじゃ、ヴァンパイアは倒せない。ティア聖女と……あいつがいたから」 「当たり前です。あんな化け物、マトモな手段では倒せません。歳を取ることをやめてしまったあれは、原生動物に退化した群体。いや、下等生物にすら劣る。正々堂々と対決する価値もありません」  麦色の髪の下から、モルが笑う 「極限まで強さと軽さを追求した武具。ムダのない動き。人外の化け物を倒す技を体に叩き込んだオーエンでも、実戦では足止めが精一杯。そのオーエンと、あなたは対人間用の重い剣で戦えた。素晴らしい素質です。あと少し力があれば……アレフを倒して、ティアを救い出せる」  あと少しの力。 「どんな鍛錬を積んだらいいんだ?」  今だって、目一杯やってる。毎晩、疲れ果ててハンモックに倒れこみ、夢も見ずに眠っちまうほどに。 「ですから、マトモでない手段を使うんです」  モルがフトコロから取り出したのは皮袋。 「これは大いなる力を秘めた貴重な触媒。命そのものを変容させる賢者の石。これさえあれば不可能などありません」  中には大きな紅い宝石が入っていた。 「森の吸血鬼は元司祭。戦士でも拳士でもない。多少、腕に覚えのある取り巻きはいても、ほとんどは戦う術を知らない普通の村人。それでも大変だったでしょう?」  その通りだ。自警団が倒したのは、吸血鬼になりたての子供や女性、おっさんばかり。そんな相手でも手こずった。 「テオさんの話を聞くかぎり、アレフは攻撃呪の心得がある。格闘術のマネゴトも出来る……まったく余計なことをしてくれる、あの小娘」  最後の方が早口で聞き取れない。 「厄介な敵ですが、力を合わせ知恵をしぼり、うまく出し抜けばあなたは勝てる」  船がきしむ。船べりの黒ずんだ銀をこえて波しぶきがかかる。 「アレフの従者に獣人がいたでしょう。斧と弓をたしなむ」  ダーモッドか。 「アレフの父親がつけたそうです。息子が暴虐に走った時、いさめる者として。せめて力だけでも凌駕する獣人をね」 「まぁ、偉いヤツの子供なんて、たいてい甘やかされて育ったバカばっかりだしな。でも、あいつは」 「いえ大切なのは、獣人なら力で勝るという点ですよ。獣人の力で、その大剣を振りまわしたら?」 「オレに、オオカミ男になれって言うのか」 「いいえ、森をウロつく犬コロなんかより遥かに強いものに。幾種かの生き物の優れた力を取り込んだ、最強の剣士に。英雄にふさわしい、神話の様な姿になってみませんか」  獣人になる。人でなくなる。産毛がぞわぞわする。  ……でも、それで勝てるなら。 「ティアさんを救えるなら、オレはどうなってもかまわない」ティアさんの前であいつに負けて、さっきみたいに這いつくばって、ゲロ吐くのだけは嫌だ「オレは、勝ちたい」 「では、おいでなさい。間に合うように今日から少しずつはじめましょう。急いでやると負担がかかりすぎて、体と心が壊れてしまいますからね」 「……壊れるって、痛いのか」 「関節の痛みなしに背は伸びないし、肉の痛みなしに腕は太くなりませんよ」  そうかも知れない。いつもの鍛錬だって痛みと引き換えに、力を強くしてるようなもんだ。 「でも安心してください。煙花から抽出した痛み止めがありますから。痛くも怖くもなくなる妙薬です」  そんないい薬があるんなら、がんばれるかも知れない。 「あなたがあなたで無くなってしまったら、何の意味もありませんからね」  笑顔で昇降口を下りていくモルを追って、暗い船底へ足を踏み入れた。  打ち付ける波。板のきしむ音。しめっぽくてカビ臭くて、物陰から何かがこちらを見つめているような気がして落ち着かない。闇の中に複雑な魔法陣が広がり、ランタンの光で、ぼうっと照らされていた。 「牙ネコ、大ザル、白熊、ドラゴン。さて、どれからいきましょうか」  名ばかりの町長は、赤レンガの商館を見上げた。  締め切られたよろい戸。扉に打ち付けられた板。ここの二階にある舶来品まみれの集会所で、町の全権掌握を承認されてから二度目の夏が過ぎようとしている。精密な世界地図と航路を織り表したジュウタン。頭上に輝くシャンデリア、そして木彫りの飾り柱。すべて運び出されているだろう。  クインポートでもっとも華やかで豊かだった港付近の商業区は今、昼下がりの農村よりも静かで寂しい。入港する船の数が減っていくにつれて、商店や倉庫から、商品と人と富が去っていった。キングポートに引き上げた豪商。北のバフルに拠点を移した商会。大きな建物から空き家となり、残ったのは商いの規模と資力で劣る地元出身の商人のみ。  あの魔物の指図に違いない。暑くても決して外せぬノドもとのボタン。うっすら白く残るふたつの噛み痕。鏡の中で見るたびに屈辱がこみ上げる。血を吸っても配下に出来なかった腹いせに、クインポートの町そのものを潰そうとしているに違いない。迂遠で小心な卑怯者め。  悔しいが、ヤツの企みは成就しつつある。頑固で旧態然とした代理人を憎み、人の利益を擁護《ようご》する“町長”を求めた支援者は皆いなくなった。今もクインポートの首長でいられるのは、謀反《むほん》や裏切りの罪を問われた時、責めを一身に受ける生贄が必要だからだ。 「お珍しい。港の視察ですか?」  声をかけてくる男に曖昧にうなづいた。内心でうとみ軽んじている者にまともに答えるなどバカバカしい。それに、宿舎兼事務所から数日ぶりに出て、桟橋に向かっている理由は、他人に説明するのがむずかしい。  夜明けに夢を見た。  見知らぬ屋敷のテラスで茶を飲んでいた。鳥の声を聞きながら花を眺めていた。満たされて幸福だった。なぜか夢だとわかっていた。  向かい側の席に誰かいた。お茶会に招いてくれたご夫人だと感じた。生けられた花と逆光に邪魔されて、美人かどうかはわからない。 「いい、お庭ですね」   大輪のバラが咲き乱れ、小さな噴水が木漏れ日にきらめいていた。 「気に入っていただけましたか」  落ち着いた婦人の声に聞き覚えはない。 「苦労しました。なかなか招待に応じてくれなくて」 「忙しかったんです」 「ええ、大変なお仕事ですから」  実感のこもった声音に心が安らいだ。 「お伝えせねばなりません。直前となってしまいましたが、今日の午後、テンプルの船がつきます。モル司祭の銀の聖船が」  心が高鳴った。支援者たちを糾合し組織し“町長”という役職を作り出してくれた恩人。教会にパンと銀貨を配ると告知させて、広場に集めた窮民を、演説であおり、代理人の館を襲撃したモル司祭。やっと本当の夜明けが来る。 「バフル港で拒まれ、期待していた水と食料を得られなかったせいか、かなり殺気立っていると思われます。水夫の死体が吊り下がっていました。反乱を起こした者への見せしめでしょう」  血なまぐさい話題は、光と安らぎの席にふさわしくない。耳をふさごう。早く目を覚まそう。 「聞きなさい。代理人制度を拒否して自治を望み、わたくしの使者を追い返し、教会を通じた手紙までも破った。その是非を、今は問いません。強い決意と実行力には感嘆したいほど」  やかましい女だ。会ったことは無いが、バフルの女代理人は、こんな感じかも知れない。 「でも、あなたの意地にクインポートの住人まで巻き込まないで。せめて女子供だけでも避難させなさい。周辺の村と町には受け入れの通達を……」  茶を飲み干し、席を立った瞬間、目が覚めた。  寝台から下りても、ヒゲをあたっても、薄れることなく鮮やかに残る夢の記憶。やってもやらなくても影響の少ない仕事を午前中に切り上げ、食後の散歩だと自分自身に言い訳して……今、突堤から海を見渡している。  停泊している帆船はない。朝の水揚げも終わり、無人の漁船だけがゆれる波止場は、静かだ。むこうに釣り人が一人いるだけ。  水平線に目を向けたとき、尖ったものに気付いた。かすんでいるが帆柱の先端。順に現れた横帆は三枚、いや重なり合って判然としない。四枚かも知れない。上部の帆にはテンプルの聖紋。ずんぐりとした船体は、黒くて幅が広い。 「本当に、船が」  つばを飲み込んだ。  港を守護する風精の助力を得たのか、黒い船は真っ直ぐ近づいてくる。出迎える準備のため、波止場前の事務所に飛び込んだ。居眠りしていた白髪の留守番に、港湾員の手配を頼む。  突堤の灯台守が鳴らす鐘に気付いて、野次馬が集まりだす。夢の不吉な後半が一瞬よぎった。目を凝らしても、吊り下がった死体は見えないが、物売りやおもらいを近づけない方がいいのだろうか。  迷ううちに、イカリは投じられ、黒い壁の様な船体がゆるりと向きを変える。喫水から上の部分だけでも三階層はありそうだ。網ばしごに大勢の水夫が取り付いて登り、天を突く四本のマストを飾る横帆がたたまれ、船尾に縦帆が広がる。  水夫の動きに乱れがある。もれ聞こえる言葉づかいは乱暴だ。だがこれは商船ではなく、テンプルの戦船《いくさぶね》。少しばかり横柄で荒っぽいのは仕方ない。でなければ、この地を支配する魔物を倒して光をもたらすことなど出来はしない。  納得できる理由を必死で考えているうちに、黒い船尾は岸に迫ってきた。速すぎる。それに無様だ。野暮ったく下手くそな操船ぶりに、幾つか野次が飛ぶ。  停泊していた漁船が一つ潰れ沈んだ時、悲鳴と罵声が上がった。  銀船は桟橋の先を壊しながら止まった。縄が投げ落とされてきた。おっかなびっくり近づいた港湾員の手で、無事な杭に回し結ばれる。縄梯子を下りてきたのは武装した戦士や剣士。そして曲刀を手にした水夫。剣呑な雰囲気だが、彼らが作った輪の中心に、灰色の法服を着た者達が降りてくるのを見て、胸をなでおろした。  彼らは無法な海賊ではない。テンプルの理想を実現し、司祭の意思に従って闇を払う光の使徒のはず。  野次馬をかきわけ、遠巻きにしている港湾員をねぎらい、歓迎の口上を述べた。 「お久しぶりです、モル司祭さま。闇の中に打ち込まれた光のクサビ。私に託していただいたクインポートを、闇の者共から守りぬいてまいりました。この日を何度、夢見たことか」  一瞬、今朝方の夢が頭をよぎった。 「アレフは港を取り返さなかったんですか。思った以上に無能な領主、いや、俗世間に関心がなかっただけかな。ところで」  麦色の髪の下で、明るい茶色の眼がしばたく。 「あなた、誰でしたっけ?」  言葉が出なかった。 「まぁ、誰でもかまいません。クインポートは接収します。人も物も建物も、すべて私の片腕たるラットル司祭の指示のもとへ。今度は、投げ出さないでくださいよ」 「も、もちろんです」  モルに応えたのは、広場の火刑台で我々を見捨てて逃げた前歯が目立つ司祭。 「ラットル司祭の指示に従えと? それに接収とは」 「商売の禁止、逃亡の禁止、あらゆるものの持ち出し禁止。もっとも、高楼に黄色い吹流しがないって事は、富と物資の大半は、すでに持ち出された後かな。まぁ、貧乏人の戸棚に隠したパンまでかき集めれば、ふた月ぐらいは篭城できるでしょう」  今、目の前にいるのは本当に英雄と呼ばれている司祭なのか。顔はそっくりだが、海賊が化けているのではないか。あり得ぬ考えが浮かび、消える。 「お待ちください。この街は既に闇の支配から解放された昼の街。力づくで奪わなくても」 「だからですよ。殺され奪われるのに慣れていた家畜や奴隷じゃなくなったから、武器と流血、見せしめと恐怖がいるんじゃないですか。それでは手はずどおりに」 「騎士オーエンは北門を制圧し閉鎖。拳士ルシウスは南門を制圧し封鎖。私らは街の制圧を開始します」  数人の水夫を連れた銀鎧の剣士と、黒い刺し子の布鎧の拳士が、野次馬を突き飛ばすように、早足で港を出て行った。  同じように街へ向かおうとするラットルの前に、手を広げ立ちふさがる。 「待ってくれ、食料が必要なら、私が責任をもって必要な分を集める。だから、この街で乱暴な事はしないでくれ」 「邪魔です」  肩をついてくる手にすがった。 「離しなさい」  離せるか。 「邪魔をするな。呪われし闇の眷属がっ」  頭に痛みが走った。めまいがした。青空に掲げられたスタッフに赤いものがついている。頭から生暖かいものが顔にしたたり落ちてくる。 「離せっ」  続けてラットルに殴られた。一瞬気が遠くなった。  気がつくと桟橋のザラついた板に頬がついていた。野次馬たちが悲鳴を上げて逃げ始めるのを感じる。 「やめとくれ、商い物も金も全部やるから」  あの声は果物売りのばあさんだろうか。振り売りの釣り銭まで根こそぎ奪うつもりなのか。 「私は丘の中腹の屋敷で休んでいます。今日の仕事が終わったら、報告を頼みますよ」  遠ざかる足音はモル司祭か。 「お前が生きてると困るんだよ。前の時の話をされると色々と都合が悪いんでね」  食いしばった歯の間から押し出すようなささやき声。ラットルの失態は多すぎて、どれのことを言っているのか判然としない。 「逝っちまえ、クソ町長」  目を開けると、高々とスタッフが掲げられていた。青空に、金色の先端とこびりついた血が映える。裏切り者の手にかかって死ぬのかと思ったとき、上から大男が降ってきた。  きしむ桟橋。驚いて振り返ったラットルの手からスタッフをもぎ取った腕は異様に長く太かった。 「もういいだろう」  太い眉の下のこげ茶色の目は優しげで、厚い唇は愛嬌がある。女たちが騒ぎそうな、よく日に焼けた鎖帷子の戦士。 「モル司祭のお気に入りだからって、いい気になるなよ、化け物め」  憎々しげに吼えるラットルにスタッフを返した目は、哀しげだった。 「あいつらが町の人に乱暴してたら、オレが頑張って止めるから、しばらくここで休んでてくれ」  頭をそっとなでる腕は毛深く、見間違いでなければ手の甲に黒光りするウロコが見えた。  一体、こいつらは何なんだ。  腕と足が奇怪なくらい太くたくましい剣士を、その背負った大剣を見ながら、町長はゆるゆると身を起こした。  岸壁で、モルとクインポートの教会の副教長が話している。ぼやける視界に映ったのは紅い封蝋の手紙。中身も見ずに破ってしまったバフルからの封書。もう一通あったのか。  読み終えたモルが哄笑した。 「いいでしょう、“我が友”のご招待に応じようではありませんか」  何が書いてあったのだろう。  いや、そんな事は、どうでもいい。  街から物の壊れる音と、悲鳴と赤子の鳴き声が響く。そちらの方が重大だ。這ってでも止めにいかなくては。  あれこそが多分、私の仕事だ。  女の悲鳴。 「またか」  テオは石畳の坂道をそれ、路地に入った。この辺りは庭の広い家が多い。体をたわめ、バラの生垣を軽々と跳び越えた。  庭に運び出した陶器や彫刻の前でウンチク垂れながら値踏みしてる見習い司祭をぶん殴った。引き出しを開けて服を散らかし、ネックレスをポケットにねじ込んでる水夫は蹴飛ばした。 「これはモル司祭の指示なんだぞ。アレフは卑怯で臆病だから、こうでもしないと、出てこないって」  言い訳にもならないへリクツをこねて、寝台で女を押さえつけてたバカ者を締め上げて、廊下に放り出した。  天蓋付きの寝台から身を起こしたのは、少し年上の黒髪の美人だった。はだけた胸元から目をそらして、シーツをかける。 「もう大丈夫だから」  悲鳴が上がる前に背を向けた。 「あり……がとう。助けてくれて」  驚いて振り返った。  他の人みたいに、おびえたり化け物とののしったりしないのか?  細い手が、何かを探すように揺れていた。顔はこっちを向いているのに、視線は違う場所に向いている。 「目が?」  うなづいた女に顔を寄せた。頬や額を、温かな手が探る。 「若いのね。それに、いい男。恋人、いるんでしょう」  不意に涙がこぼれた。気がついたら、つっかえながら今までの事を話していた。  好きな人がいる。こんな体になってでも、助け出したい大切な人。  だけど、その人も怖がるんじゃないか心配だ。 「待ってて、お礼がしたいの」  着替えた女の人が連れてきたのは、いつも家事を手伝ってくれてる隣の婆さんだった。  昔、お針子してたって婆さんは、紐で腕の長さと太さを測って、シーツを切って、腕をすっぽりおおうシャツを作ってくれた。肩と袖がひとつながりになった、楽なシャツ。あいつらが散らかした部屋を片付け終わった頃、二人がかりで縫いあげたシャツも出来あがってた。 「大丈夫。声がこんなに優しいもの。どんなに姿は変わっても、真心はきっと伝わる」  縫い目のあらいシャツ以上に気持ちが嬉しかった。勇気をもらった気がした。色々、疑問はあったけど、もう少しモル司祭についていこうと決めた。 二 カウルの山城  馬車は、アレフが待つ山城に向かっていた。  腕がカユい。掻くと、たっぷりしたリンネルのソデ口から黒いウロコが一枚こぼれ落ちた。 「火の呪法に対抗するために合成した火竜ですが、含まれた毒素をテオの体が拒んでいるようです。今度は別のを試しましょう」  振動する床から黒いカケラを拾い上げ、モル司祭が笑う。 「普段は人の姿で、戦うときだけ変わるってわけには」 「とっさの時に困りますし、元に戻った時に弱くなる。それに、テオの体にあまり負担をかけたくありません」  信じていいのだろうか。頼りないラットルなんかに、クインポートの街を預けた、この男を。 「見えてきましたよ」  モル司祭が、馬車の行く手を指差す。厚くなった背中を苦労してひねり、三倍に膨れ上がった肩を座席に押し付けて、顔を車窓にそわせた。いくつも重なった山の中腹、紫色にかすむ四角くて細い城館が、目のスミに映った。 「あそこに、アレフがいる?」 「逃げ回っていなければ、ね。でも、呼び出す手段ならいくらでもありますよ」  モル司祭は、時々、不安になる笑い方をする。  ふもとの村に、人は少なかった。残っていたのは老人ばかり。若い者はみな逃がしたと、赤いスカーフの村長が笑った。 「そちらの酒場はやっとりますよ。酒も食い物も全て支払い済み。好きなだけ飲み食いするがいい。二階の宿も貸切りだ。だが他の家には何にもない。チーズひとかけ、パンひときれも残しちゃおらん」  モル司祭は肩をすくめると、部屋に引きこもってしまった。ワインとチーズとパンを盆に載せていくと、変なにおいが廊下までもれ出してて、呪文が聞こえた。こんな時は邪魔しちゃいけない。  扉の横に盆を置いて酒場に戻った。  テオは軽い酒を頼んだ。店主が樽から泡立つ酒を陶器のカップに注ぎ、無言でカウンターに置く。目は伏せられたままだ。静かに飲んでいるオーエンや、騒いでいるルシウスの他に客らしい客は……スミにショボくれた老人が一人いるだけだ。  村人はオレ達とかかわりあうのを恐れている。だからといって、領主に加担して毒をもる気はなさそうだ。アレフは畏れられてはいても人望はないってことか。 「城主は、無慈悲なヤツなのか?」  酸味のあるまろやかな白い酒を一口飲んでから聞いてみた。 「逆らった村人を殺すのか?」  答えてはくれないと思いながら、問いを重ねた。 「いいや」  予想した答えが返ってきた。  でも、この村を、そして大陸一つを支配している強大な吸血鬼の領主と、静かで細いあいつが重ならない。 「本当にアレフは血を吸うのか?」  口にしてからマヌケな質問だと笑えた。 「娘をさらったり……人を襲ったりするのか?」  亭主は奇妙なものを見るように、こっちを見ていた。盛り上がった肩や毛深い手ではなく、顔を見つめられたのは久しぶりだ。 「さあな」  答えは短かくあいまい。でも否定だと感じた。もし本当にあいつがアレフなら。 「ヤツは代理人の血に飽きたら村人を館に呼ぶ!」  悪意がしたたるような老人の声だった。 「わしの姉はあいつの餌食にされた。弱って……二年後に、十八で死んだ。お前の仲間だって、あんな目にあわされたじゃないか。 生け捕りにされて、三人とも血を吸われて。生きているのが不思議なほど青ざめて、歩くことも出来ないほど弱って。無事に帰りつけたのか? あの司祭や騎士より、お前たちは強いのか?」  前にもテンプルはアレフの討伐を試みたのか。 「でも……殺されはしなかったんですね」 「殺されたも同じじゃ。あいつの口づけを待ち続ける人形。姉と同じだ。どうせ何年と生きられまい」 「信じられない」  老人がつめよった。息が酒臭い。 「何がじゃ」 「あんなに、華奢な……」 「お前……見た事があるのか?」 「銀の髪で灰色の、夢でも見てるみたいな目をした、細くて若い男……?」 「若くはない! わしの五倍以上生きとる化物だ。村の若い者から命を吸い取って若く見せかけとるだけじゃ!」  モル司祭の言ったことは本当だった。  しかし、何かが納得できない。  何が釈然としないのか分からないまま、夜明け前に村を出て、城に向かった。  白茶けた岩の間をハイマツが緑で埋める山肌に、急な坂道が刻まれていた。馬一頭、走りぬけるのがやっとの道ハバ。登っていくと、朝もやの向こうに背丈の三倍はある滑らかな石壁が見えてきた。道に迫る石壁の間に四角い闇が開いている。  城へ通じる隋道《ずいどう》。その前に、ワーウルフが一頭、待っていた。鮮やかな黄色に黒の鉄片が縫い付けられた布ヨロイ。大きなハチに見えた。 「お待ちください。まだ歓迎のお支度が整っておりません。一度、カウルの村にお戻りいただけませんか」  獣の口がつむぐ言葉は、くぐもっていた。 「……つまり、アレフは留守ってことですか」  モル司祭は、ワーウルフを指差し、俺に笑顔を向けた。 「こいつを殺しなさい、テオ」  背中の剣に手をかけたが、抜けなかった。 「何で……?」 「じゃあオーエンでいい。こいつを殺って下さい」  聖騎士が銀の剣を抜いた。  戸惑っていたワーウルフが飛び退り、四角い闇に消える。眼をこらすと黒い槍を壁際から取る黄色いしまヨロイが見えた。オーエンが突っ込む。金属がぶつかり合う音がした。 「港に降り立った時から、戦いは始まっているんですよ。この城内にいるのは、全て敵です」  そうだ。あのワーウルフはアレフの手下。倒さなきゃ、ティアを救えない。  剣を抜いて四角い闇の中に足を踏み入れた。薄暗い中で、オーエンとワーウルフがやりあってる。間合いの違いと地の利が無いせいでオーエンは攻めきれないでいた。  身をかがめて大剣を抜いた。この武器なら槍の間合いでも、届く。石の床を蹴って、突っ込んだ。オレのほうに向いた槍の穂を、横合いからオーエンが脇に押さえ込む。動きが止まった獣人の胸を、大剣で貫いた。  骨が砕けつぶれる嫌な感触と歪んだ悲鳴。 「やった」  剣を引くとワーウルフはくたりと倒れた。毛が抜けて鼻が縮んでいく。死に顔は人。頭が薄くなりかけたおっさんだった。最期は呪いが解けて元の姿になるよう定められているらしい。 「まだです」  真後ろからモルの声がした。胸の大穴が少しずつふさがっていく。おっさんの指が動き、目が開いた。 「くたばれ!」  オーエンがおっさんの首に剣をつきたてた。ヒュッと息がなる。今度こそ……だが、剣を抜くとまた、キズが治り始める。 「不死……なのか」  オーエンが胴を両断しても首を切り落としても、頭を潰しても、ずたずたに切り裂いても、血が集まり肉片はうごめき、くっついて再生しようとする。かき出した腸の断片が、うごめき一本に繋がっていく光景から、目が離せない。 「ああ、わかりました」  モル司祭が血だまりに浮かぶ腕を見下ろす。切り落とされた手首を足で踏みつけると短刀を振るった。指が落ちる。中指を拾い上げ、指輪を抜き取った。  うごめいていた肉塊が静かになった。 「死ねない呪いがこもった指輪です」  軽く投げ渡されたのは血色の指輪。宙で受け取ってドキリとした。同じものがオレの指にもはまっている。指が太くなっても食い込まず、外れない紅い指輪。確かティアの指にもはまっていた。 「たぶんアレフの魔力を受けて、生命力に変える術具でしょう」  肩をすくめると、モル司祭は床に溜まった血を指につけ複雑な魔方陣を描き上げた。  もう一つの塩で描いた円の中に入り、ルシウスやテオも側へ来るよう手招きしてから、呪文を唱えはじめた。長い詠唱。赤い魔法陣から気味の悪い煙がたちのぼり形をなして行く。ひと抱えはある虫。硬そうな大トカゲ。見たことの無い生き物ばかりだ。  モルが塩の円の中から小瓶の粉を降りかけ、紅い石をかざす。固まりかけていた獣や太いミミズが、崩れて混ざって、かたまった。現われたのは寄せ集めの生き物だった。こいつらはオレに近いモノだ、そう感じた。  モル司祭は次々と怪物を魔法陣から呼び出し、異様な姿に混ぜて固めて、城の奥へと向かわせた。吐き気のする行進だった。  闇の向こうで、争う音と悲鳴が聞こえた。 「行きましょうか」  塩の輪から出て、モル司祭が笑う。剣をぬぐっておさめ、ランタンに火を入れて、隋道《ずいどう》の奥へ進んだ。  掲げたランタンの灯に、引き裂かれた大コウモリや、食い裂かれたオオカミが照らしだされる。人と獣の中間の死骸。侵入者をはばむ落とし穴の底であがく異様な怪物。それらが暗闇の中からむっとした血の匂いとともに現れた。人の遺体としか思えなものもあった。手にはホウキ……掃除婦かもしれない。  城は廃虚じゃなかった。でも荒らされ血と死体だらけ。動いているのは異形の怪物とオレたちだけ。恐れていたヴァンパイアの襲撃はなかった。アレフは仲間を増やそうとは思わなかったのだろうか。  少しマシな地下室で棺を見つけた。空っぽだった。 「やはり戻ってはいないようですね。では、待ち伏せといきましょう」  モルが笑う。 「テオ、まさか怖じ気づいたのではないでしょうね」  急いで首を横に振った。でも今までの出来事に……殺戮に、心が悲鳴を上げていた。なぜかアレフやこの城の者より、召喚された怪物どもやモル司祭のほうが恐ろしかった。 「あんな怪物を召喚して、大丈夫なんですか」  もし、城の外へ出て、村を襲ったりしたら。 「ここでアレフがしていた悪事に比べれば、たいした事ではありません。大きな悪を滅するのに正攻法だけでは無理です。我々はか弱い人間なんですから。この大陸に夜明けをもたらすためには、あらゆる手段手を駆使しなくてはね」  モル司祭が暗がりの中で手招きする。従って降りた先に地下牢があった。いくつもの鉄格子が並ぶ暗い通路。森の城の地下にもあった。さらわれた村人が閉じ込められていた。でも、ここには誰もいない。 「アレフの食料庫ですよ。気が向いたときに楽しめるよう、人間を閉じ込めておく地下牢。やつの食欲を満たすためだけに、捕らえられた罪もない人々の、絶望と無念が石壁に染み付いています」  なえかけていた、怒りがかき立てられる。 「あなたが負けたら、ここは“順番”を待つ人間でいっぱいになる。この大陸の人々はいつ狩られるかわからない、不安な夜を過ごすことになる。ずっとね」  城の上の階は、静かだった。城を守る者とモル司祭が召喚した異形の怪物との攻防は、主に地下で決着がついたらしい。今はもう、争いの音はない。  むき出しの石の壁。荒削りのアーチ。簡素な木の燭台《しょくだい》。錆びかけたよろい戸から日の光が糸の様に入り込んでいた。  荒れた森の城にはあったタペストリーやカーテン、華やかなガラスの大窓は見当たらない。  一階の台所には茹でかけの牛肉。すぐ側の倉庫には酒樽と麦の袋が積み上がっていた。棚には硬いチーズがならび、くんせい肉がぶら下がっている。木箱に詰ったイモと干した果物を見つけた。ねばつく甘味が、落ち着いた気持ちを思い出させてくれた。  二階の食堂と客室は宿屋の様に整えられていた。新しいシーツと暖炉の横に積み上がった薪。突然、住人が消えてしまった昔話の村を思い出した。  三階のホールは明るかった。太く無骨な柱が邪魔だったけど、ここにはガラスを贅沢に使った窓があった。 「ここで待ちましょう」  モル司祭の言葉には、心から賛成だった。死体と血と闇からは、なるべく遠ざかっていたかった。  日あたりの良い北向きのテラスから、モルは方形の中庭を見下ろした。 「二百年……招待を受けてからずいぶん時が過ぎましたが、やっとあなたの城館に来ることが出来ましたよ」  地を這うコケモモ。寒冷地でも育つ白バラの茂み。他に見るべきものはない。  南の書庫から持ち出した手書きの書物に視線を戻した。時と空間についての思弁的な論説。線の細い小さな文字に、顔がほころんだ。 「懐かしい。それに新しい」  容姿だけが取り柄だと、周囲もご自身も、低く評価されがちだった。実際、会うまでは軽んじ、内心あざ笑っていた。  ファラの歓心を買うために、容姿と知能に優れた配偶者を求めて子を成すなどという、地道な方法を選んだ愚直なイナカ者。イモを改良するように、わが子を並べて跡取りを選んだに違いないと。  だが、ウェゲナー家は成功した。泥臭い方法で二十年の間にファラの弟子をふたりも輩出してのけた。さげすみと嘲弄は嫉妬の裏がえし。それに…… 「私の話を初めて真剣に聞いてくれた太守」  人間相手の論戦に負けた悔しさを、尊敬に昇華して乗り越えた柔軟な不死者。八番目の弟子であるかのように、私の助命に奔走してくれた、ファラの秘蔵っ子。  人などが語る夢を支援してくれたのは、私の弟子たちと同じように若かったから、でしょうね。あなたもお父様も当時は三百歳……人の命を手折るのに慣れても、血と共に味わった思いと記憶が澱《おり》のように心にたまり、なにがしかの影響を受けるお年頃。もしかすると、 「初めて食らった人間の名を覚えているくらいに、ウブだったとか?」  その気になれば数日で覚えられる、簡略化された表音文字と数字。教会に人を集め、一人の教育官が一度に大勢に、それを教える。誰もが文字を書いて読めるようになったら、みんなで、どうすれば幸せになれるか"考えられる"ようになる。世界中の人が同じ数字を使えば、契約や取引が、そして貿易がもっとさかんになって、豊かさを分かち合える。  そんなタワイない夢を本気で信じてくれた理由。あなたが味わってきたこの大陸の人が、みんな貧しくて不幸だったからでしょうか。  でも、世界中に教会ができて、商人たちが大きな取引をするようになっても、富んだのは最初から豊かだった中央大陸と森の大陸でしたね。  それにしても、商人たちの信頼を得た教会が、遠方の取引には欠かせない為替を管理するようになり、その保障となる黄金を、地下の保管庫に預かることになったのは嬉しい誤算でした。ひそやかに営む金融業で教会の活動資金はふくれ上がるし……厳重に護られ、不可侵とされた地下の金蔵は、公に出来ない術を研究する場所として、うってつけでした。ホーリーシンボルを始めとする破邪の術は、すべて教会の地下金庫で開発されたもの。あなたは知らずに手を貸していたわけです。ご自分や友人や愛する者を滅ぼすテンプルに。 「でも、最初の夢は叶ったでしょう」  私がファラを滅ぼしたあと、取り巻きどもは東大陸に逃げ込んだ。連中が持ち込んだ資産と職人たちのお蔭で、東大陸は今、繁栄のただ中にある。 「夢……か」  もちろん、あの頃は私も信じていましたよ。皆が幸せになれる道があるはずだと。いや、信じていたのは、生意気にも私を抑え込んで、知識だけを利用していた、開祖モルですがね。 「区別するのはおかしいですか。私だった者の全ての記憶は、欠けることなく受け継いでいるのですから」  ファラに両腕を奪われた私のために、あなたは逃げ散った弟子たちを探し出してくれた。聖騎士の祖となったガディと、聖女の称号をはじめて名乗ることになるウェデン。ふたりに私が釈放される場所を教えた。一昼夜、飲まず食わずだった私のために、壷煮の牛乳がゆとバフル産のワインを託してくれた。 「あの白ワインは本当に美味しかった。まさに命の水でした。いつかお返しをしたいと思っていたんですよ」  父親を滅ぼせば、引き継ぐためにあなたは目覚めさせられる。そう思って、あなた好みの若い司祭を、聖騎士と聖女に託しました。 「四十年ぶりの命の水……気に入ってもらえたでしょうか」  それにしても、スフィーで噛み跡のある司祭を見たときは驚きました。催眠術をかけてみて、あなたが私を追って来ていると知った時は、胸が高鳴りました。あれから夜毎《よごと》、あなたの襲撃を待っていたんですよ。  でも互いに旅の空の下では、すれ違うばかり。なんだか男女の恋を描いた、ありがちな人形劇でも見ているような、もどかしい日々でした。でも…… 「ここで待っていたら、もうすれ違いはないでしょう?」  門番や通いの女中を殺したのは申し訳なかったと思いますよ。普通、ヴァンパイアの棲み家への招待状など受け取ったら、腕に覚えのある用心棒を集め、幾重にもワナを仕掛けて待ち構えていると考えるものです。まさか“招待”を本来の意味で使っていらしたとは。 「そういう素直で単純なところが、実にあなたらしい」  それにしても……遅いですね。クインポートや、この城の惨状がまだ伝わっていないのでしょうか。麓の村の代理人から心話を受けたら、すぐにも飛んで来ると思っていたのに。ドラゴンの生き残りをてなづけて空を駆けているとウワサを聞きました。それに、森の城にいったなら、転移の呪も見たはず。あなたなら解いてモノにしていると思ったのですが。 「もしかして、心話の通じない場所におられる?」  始原の島。ホーリーテンプルを守る強力すぎる結界の内なら、あり得るかも知れませんね。 「吸血鬼を倒すのだと意気込む若人たちの夢。富や地位を求めていがみ合っていた老人たちの野望。全て無残に食い裂かれましたか」  せっかく手に入れた世界の中心ですが、いた仕方ありません。それに私さえいれば、テンプルは幾つでも、何度でも作り直せる。  生意気なメンターに、もう会えないのは残念ですが 「お互いに帰る場所を潰しあったって事で、恨みっこなしでしょう」  さて、日がだいぶ西に傾いてまいりました。  単に領内でお休みということなら、そろそろお目覚めになる刻限。私の訪問と、留守をまもる衛士の死に様を知るはず。あなたは怒るでしょうねぇ。  なるべく早く、怒りに任せて私の傑作たちと戦い、ここまでたどり着いてください。  もし数日以内に来ないなら、あなたの大切なテオを、殺して殺して殺し続けて、繰り返される断末魔の叫びで、呼び寄せることも考えなくてはなりません。  あなたの長年にわたる親切と友情に報いるためにも、私のこの手で、滅ぼしてさしあげたいのです。  灰の一粒も残さず……完璧にね。 三 純白 「大丈夫? もう、動ける?」  動けるが大丈夫ではない。先ほどまでアレフの身をさいなんでいた脱力感は消えていた。突然の喪失。死に瀕していたしもべが逝った。誰なのか分からないもどかしさに、硬い壁を叩いた。ノミあと鋭い岩肌に拳が切れる。  顔を上げると、小作りな手が差しのべられていた。こんな時のティアは優しい。ほだされそうになって、気を引き締める。計算を感じる。もし演技でないとしても、馬に塩や黒糖を食わせ、重い荷を運ばせようとする馬丁の愛情だ。  とはいえ、暗い地下道で座り込んでいても仕方ない。急がないと夜が明ける。方向感覚と距離感が狂っていなければ、間もなく始原の島を包む結界をぬけ、キニルの地下に至るはず。  メンターの後姿を見送り、無人となっていたホーリーテンプルの図書館に立つくした時から、半日は経ったろうか。  音を伝えぬ結界を仕掛けられたぐらいで、学徒たちの避難にも、建物を囲む騎士や拳士の気配にも気付けなかったとは。  知的な興奮に支配された時、傍目にどんな醜態をさらしているか……自覚はしていたが、印刷機の音がしない事すら気付かなかったウカツさには笑えた。  表の扉から出る事は叶わないが、図書館にも地下に抜ける通路は存在する。確か禁書庫と呼ばれる北の一角。  記憶に従い、床のくすんだ渦の意匠に手を這わせた。地下に待ち伏せの気配はない。渦の中央を押し込み、代わりにせり上がった白波に指をかけ、丸い床石を引き開けた。  地の底へ、らせんに切り込む急階段に足を踏み入れ、内側から床石を戻した。  闇の中へ下りながら案じていたのは、鉄格子が閉じていた時のこと。強力な結界に邪魔され転移の術が使えないのでは、すぐに袋小路へ追い詰められてしまう。  だが、心配は無用だった。  これ見よがしに開いた鉄格子の前に、ティアとドルクは転がされていた。ロウソクとガラスの水器を術具とした、心話を通さぬ結界に包まれ、手足を戒められて。  そして今、ティアのポケットに入っていた地図に従い、未知の通路を進んでいる。方角は南。なだらかに続く上り坂。手掘りと思われる壁と天井は雑で、二人並ぶのがやっとという狭さ。絶え間なく雫が落ち、真ん中に切られた溝にせせらぎの音。  いい様に利用された気がする。マルラウを血の絆で縛った事すらメンター副司教長の計画の内ではないかと。あるいは、返しきれない恩を売られたか。求めていた知識と、脱出手段。どれほどの値《あたい》となるだろう。庶子であろうと出家していようと、シンプディー家の者。貸しを取りはぐれるとは思えない。ウォータでオーネスがどれほど利殖に励もうと、動かせる資金の量において、田舎領主が敵うものでは無い。相手は教会を実質的に統べる者だ。 「出口、近いんじゃないかな」  ティアが天井を指す。いつしかレンガのアーチになっていた。岩盤を抜け土の層に達したらしい。頭を重くする結界も少しゆるんでいる。やがて階段が見えてきた。うっすら緑に染まっている。時折、光が入るらしい。  階段の先は下水の一角。すぐ近くで湖へ流れ落ちる水音がしていた。音と微かな光に導かれ、悪臭とぬかるみの中を行く。  湖岸に密集する掘っ立て小屋、その屋根に渡された板の上に出た。 「勝手に見物するな! 銭を払え!」  飛び出してきて怒鳴り散らすのは、ミノムシのごとく着膨れた老女。銀貨を投げ渡すと、少し声を抑えて、勝手に地下道の来歴を説明し始めた。  木のハシゴを降りていた耳に、英雄モルの名が飛び込んできた。 「へぇ、こっから忍び込んでファラを滅ぼしたんだ」  先に降りたティアが、流れ落ちる汚水を振り返る。 「下水の整備にカコつけてね。十年かけて掘ったのさ。生き埋めになったり、急な出水で溺れ死んだりしながら。 おや、聖女さまでしたか。実際に見るのは初めてですか?」  強固な堤防をモグラが潰えさせるように、不変と思われた夜の女王の御世を終わらせたのは、下水に掘られたみすぼらしい地下道だったか。ティアに地図を渡した者のヒネクレた諧謔《ユーモア》には、苦笑いするしかない。 (アレフ様)  微かな心話に、浮かべた笑みが消える。覚悟してイヴリンに応えを返した。 (カウルの城を守る衛士が、討たれました)  湖の側から早足に離れながら、カウルへ意識を向ける。村の代理人は無事だ。しかし、城内にいたはずの、人とそうでない者達、しもべの気配はほとんど消えていた。感じられるのは…… (奇妙なのですが、テンプルの者達の中に、しもべの気配があります。異形の剣士。彼は何者です?)  テオか。 (ティアに恋こがれる奇特な若者だよ)  だが、何か気配がおかしい。 (バフルに被害はありません。カウルをはじめ、周辺の集落に関しては避難が間に合いました。ですがクインポートでは犠牲者が出たようです。反逆者、いえ町長は捕らわれて地下牢に)  すべては、長らく留守にしていた私の罪か。 (どうなさいますか。いっそカウルの城に閉じ込めて飢死にでも) (隋道《ずいどう》を埋めたぐらいでは、封じられまい。私が行く。あの者を葬ることが、我々とテンプルの間で取り交わす盟約の条件らしい。それにもし、彼に全ての記憶があるなら……最期に話す相手として最適だ) (ですが) 「ティアさん、モルがカウルの城にいるそうです。直接、転移しますか」  水晶を道端で掲げ、転移の方陣を展開しながら振り返った。 「もうすぐ夜明け?」 「大地の真裏だから、向こうは日没です」 「歩き疲れたから、少し休みたい。あんたも真夜中の方が調子いいんでしょ?」  転移先をバフルに変え、イヴリンに知らせながら、少しほっとしていた。  荒らされた街を見たら、城で身近に仕えていた者の遺体を前にしたら……冷静でいられる自信が無い。  だが、あれほど復讐に燃えていたティアは冷静だ。  なら大丈夫。  結果はどうあれ、悔いが残るような事にはならない。 「これは、何の冗談かなぁ?」  ぴらぴらしたボリュームたっぷりのドロワーズも、胴ヨロイ代わりのコルセットも、肩と腰まわりがフクれたドレスも、指だし手袋も、ブーツも…… 「どうして、真っ白なのよ!」 「よく似合ってるよ、ティアちゃん」  透きとおったヴェールつきのティアラを片手に、ニヤついているヘパスとかいう世捨て人……じゃないや、世捨て吸血鬼をにらみつけた。 「なに、無粋な法服より燃えにくいし破れにくい。斬撃に強いし、重ねたレースが打撃も防ぐ。夜の女王様に献上するつもりだった戦装束《いくさしょうぞく》を仕立て直したモノだが、染める時間がなくてね」  純白は死人がまとう屍衣の色。さもなきゃ結婚式の花嫁衣装だ。人里はなれた一軒家で、おっさんが夜なべして白無垢をぬってる姿を想像すると、かなりキショい。こいつがファラに嫌われた理由、人がたくさん死ぬ呪法が好きってだけじゃない気する。  そりゃあ、ドルクがまとうような漆黒のプレートメイルなんか着込んだら、あたしの身軽さは生かせない。テンプルで苦労して身につけた体術も使えなくなっちゃうけど。 「このティアラは生身の娘さん用に新調したからね。守りの要となる、物理障壁の呪式を封じ込めた水晶に、耐火呪と耐冷呪を封じた青玉と紅玉」  載せられたティアラが頭になじむ。込められた力そのものは信用できるみたいだ。 「使い魔を先行させ……」  不自然に止まった言葉。虹を帯びた夜明け色の裏打ちに変ったマントと、半透明の刃つき手甲をつけたアレフが後じさりしてた。 「入り口でたじろぐな! 頬を染めンな! 花ムコじゃあるまいし」  おっと頬がバラ色なのは、どっかで血を吸ってきたからか。ううん、そういう細かい事はどうでも良くて。 「とても奇麗ですよ。小麦色の肌に白は似合っ」 「気持ちわるい!」  こいつの女への気遣いって、なんかワザとらしい。仕込んだのが母親かファラかは知らないけど。シッポの先まで完ぺきにシツケられた犬を見てるみたいで、イライラする。 「その、明りがついていたのは城館の最上階のみ。結界を作りかえられたようで、テラスへの転移は無理。ワナや異界からの召喚獣が配置されていると思うが」 「正面から行くしかないんでしょ。いいじゃない。じぶんちなんだから堂々と帰れば」 「忍び込むには、少し目立つ格好でございますしね」  獣を象ったカブトの奥で含み笑いしてても、ドルクには腹が立たない。これって人徳ってヤツかな。  とりあえず、外で軽くスタッフを振って型を試してみる。スネまでのスカートは法服より軽くて頼りないけど、足には絡まない。腕の動きも邪魔しない。レース重ねた立ちエリは色気より守り優先。これが戦装束ってのは本当みたい。なによりムレないのが気に入った。  転移の呪の方陣に入った時、見送りに出てきたヘパスがつぶやいた。 「アレフの内に居る非業の死を遂げた……と、死地に向かう乙女への、せめてもの手向けさ」  お生憎様。あたしは生きて帰るからね。オヤジの仇を討って、無事に帰ってみせる。  笑って見返してやった。  丸い結界の向こうを虚ろな無色が包んだ。  頭上に星と月に輝く雲が戻ったとき、目の前に四角い闇が口をあけていた。漂ってくるのはムッとする血の臭いと瘴気だった。 四 異形  あたしは何度も夢に見た。  能力を最大限に生かす得物と防具を身につけ、触媒や薬を物入れに詰め、考え付く限りの準備を整えて、カウルの城を見上げる。  といっても真っ昼間に、横で強ばった顔してるヒョロくて黒い魔物の胸に杭ぶっ刺しに行く場面だけど。  まさか真夜中に、こいつと乗り込む事になるとは想像もしなかった。 「単独での召喚なら還す事も出来ましたが……」  アレフが見つめてる闇から、のっそりと出てきたのは、片羽の獅子? 「微生物の感染ならまだしも、異なる生物を混ぜられては」  後ろ足にヒヅメあって尾がムカデって。意味あるのかな。特に折れ曲がった羽。 「すっごく機嫌が悪そうなんだけど」 「口臭がおかしい。融合した内臓がまともに機能していないようです。痛みを感じないよう、脳の分泌器官に異様な血流が」 「良くわかんないけど、吐きそうなのにイイ気分になってる、タチの悪い酔っ払いみたいなモン?」  深刻ぶってうなづくアレフはほっといて、ドルクに目配せする。  ざわりと身震いしたドルクの気配が変わる。獣化。ヨロイに包まれてて分かんないけど。 「参ります!」  漆黒の刀身を抜き放ち、片羽の獅子に切りかかる。あたしもスタッフを構えて突っ込む。  振り下ろされる前足を、肉球ごとドルクが断ち割る。咬み返そうと開いた口に、スタッフを突き入れた。首を振って後ろ足で立ち上がった胸に、黒い切っ先が突き刺さる。よし、一匹たおした。 「まだです!」  無事な方の前足が頭上に落ちてきてた。ギリギリでガラスめいた四つの刃が突き刺さった。避けて振り返ると、支えきれなかったのかアレフがヒザをつく。 「ピュラリス、お願い」  炎が舞ってタテガミが燃え出した。ドルクが剣をヒネりながら抜くと、真っ黒な血があふれ出して、片羽の獅子は動かなくなった。 「ありがと。助かった」  顔が引きつってるクセに、大丈夫なフリして鷹揚に頷いてるのがおかしい。憎まれ口を叩きたくなる。 「すっごい進歩よね。一緒に“なりそこない”と戦った時は、役立たずだったのに」  ドルクは先に行って、石の床を確かめてた。  なんか悔やみの言葉を呟いてる。  あたしの眼には暗がりにしか見えない。渡されてた水晶玉を介してケアーに触れた。ドルクやアレフの視覚を借りて、視てみる。  白い塩の輪と、赤黒い複雑な……魔方陣。砕けた骨と肉片。変色した皮膚がはり付いてる。引き裂かれた血染めの布ヨロイ。  ここを守ってた衛士の亡骸か。 「心残りだろうけど、埋葬するのは後。今は前に進まなきゃ」  奥から別の気配が近づいてくる。この臭いはケモノと……カエルかな? まったく節操無く合成したもんね。生きて動いてるのが奇跡だわ。 「彼らが外へ出ないよう、ここに結界を張っておきます」  獅子の血で二本の線を引き、小石を配して、アレフが呪を唱える。 「あの獅子は、あたしたちが近づくまで出てこなかったよ。そういう風になってるんじゃない?」 「召喚者であるモルが死んでも、統制が利いているなら良いのですが……それに、後始末をするような親切心、彼が持ち合わせているとは思えません」  確かに。 「次きたよ。カメの甲羅を持つ牙ネコ。でも動きは鈍いし、首引っ込められないから、楽勝かな」 「油断は禁物です」  そりゃ体重はありそうだけど……って、このカメ、火を吹きやがった。どんな体の構造してんだ。てめえの口も火傷してるし。  耐火呪を仕込んでくれたヘパスにちょっとだけ感謝しながら、炎を突っ切りスタッフで頭をぶん殴る。下に突き出した牙が敷石のスキマにはまり込んだ。機会を逃さず、うなじにドルクが剣を叩き込み、強引に引き切る。血と火を断面から吹きながら、頭を失ったカメが結界に突撃し……弾かれて、ひっくり返った。 「へぇ、けっこう丈夫じゃない」 「……物理障壁も合わせておいて正解でした」  爪先立ちで壁にへばりついてる情けない姿については……もう、いいや。  その後も、ヘビを全身に生やした大ザルをぶちのめし、分かれ道でウジの体を持つデカいネズミを叩き潰し、階段にはびこる、酸の実をゾウの鼻っぽいツルで器用にぶつけてくる食虫花を焼き払った。チョウの羽をウロコの様に背中に一杯生やしたドラゴンは、前足を切られて逃げてった。咳が止まらない。毒チョウだったのかな。風精《フレオン》に鱗粉を吹き清めさせて、進んだ。  むしろ歩みを止めさせるのは、焦げたオオカミや溶けかけたコウモリ。実体を持つ生きてた使い魔と、城仕えの使用人の、遺体。両断されて変身が半分解けないまま逝った獣人。頭を食いちぎられたエプロンドレスのオバさん。 「全て終わったら、人を呼んでちゃんと弔おう。だから今は」  決まり文句の様に繰り返して、先に進む。  皮がヨロイみたいに分厚い、馬っぽい首の牡牛を追い払い、壁を腐食させながら広がるでっかい粘菌は適当にやり過ごし、ヒレの代わりにタコの足をひらめかせる太いウナギは、風と火で乾かしてやった。  城の上部は……意外と質素。飾りが何もなくてツマんない。地下道を進んでいるのとあんまり変わらない。  ケアーから送られてくる見取り図で、迷うこと無く北に位置する舞踏室にたどり着いた。  この城に入って始めて見る、華やいだ彫刻が施された扉。開けた瞬間、後ろに強い力で引っ張られた。水が上から落ちてきた。丸い物理障壁に沿って流れ落ちて床をぬらす。異臭はない。 「ただの水?」 「聖水です。たちの悪いイタズラだ」  見上げると、ひっくり返ったツボが縄に吊られて揺れていた。  拍手がした。  扉の向こう、窓際に数人分の影。中央は灰色の法服を着たモル。やっと再会できた。さっき逃げた毒チョウのドラゴンや、牡牛をはじめとする幾体かの怪物をななめ後ろに従えてる。横には黒い布ヨロイの拳士と銀の戦士ふたり。で、大ザルっぽい剣士は何? 人間と合成した怪物かな。 「ティア、魔物から、アレフから離れてこっちへ来るんだ! そいつが欲しいのは生き血だけだ。ささやくのは偽りの愛だ。そ、そんな花嫁衣裳なんかに、だまされるな」  あれ、この暑苦しい声と顔…… 「テオ? こんなところで何してンの?」  オレをまっすぐ見つめてる。気味悪がってない。やはりティアは、真心が伝わる娘《こ》だった。  あの人の言うとおりだ。信じてよかった。  なのに、どうして気付かない。  幻想の愛。偽りの誓い。奪われるのは生血。与えられるのは永遠の束縛。  幸せを包むはずの花嫁衣裳が死のワナだと、どうして…… 「ゴツくなったけど、テオだよね。何で?」 「何でって」 「あたし達、始まる前に終わってるよね?」  オレ……またフラれた? 「ちょっと言葉が遠まわしすぎたかな。だからマジな色恋ザタって苦手」  いや、ティアはヴァンパイアの魔力に捕らわれているから、だから。 「誤解させてごめんなさい」  ティアが人差し指で、背後のアレフを指す。 「“コレ”は断るための口実で」  次にオレを……いや、オレの後ろを指差した。 「“ソレ”を、あたしのオヤジと同じ目にあわせてやるのが“まだやること”」  振り向くと、ソレ呼ばわりされたモル司祭が笑みを浮かべていた。 「誤解を解くのは大事でございますが、傷ついた青年の心に、塩をすり込まずとも」  ティアの袖を引いてる禍々しい黒ヨロイ。声に聞き覚えがある。弓は持ってないけど、森に選ばれし戦士。一緒に戦ったダーモッド?  ティアがうるさそうに、ダーモッドを振り払う。 「それに、あたしは人を殺した手で赤ん坊のおしめを替えるつもりはない。わかった?」  オレは一方的な思い込みで、海を渡り、体まで変えて。  いや、ティアが振り向いてくれないのは、少しだけ、覚悟してた。  魂を自由にする。  呪われた運命を断ち切って、ティアを開放するためにオレは来たんだ。  真っ白なティアの後ろに、佇んでる黒い影に向かって、一歩踏み出そうとした時。 「危ないですよ」  眼前にくるりとスタッフが下りてきた。真横にモル司祭の顔があった。月光を含んだ髪が、ほぐした亜麻のようだった。 「おかえりなさい」  嬉しそうな声。今にも笑い出しそうな尖った横顔。 「司教長の血は……美味でしたか?」  アレフの口元が歪んだ。もしかして味を思い出して笑ってんのか。  敵が来たと叩き起こされて、この広間に駆けつけた時、言われた。ホーリーテンプルが全滅したかもしれないと。信じられなかった。でも……  アレフが右腕を軽くふる。森の城で失った鋼の手甲の代わりに、不吉な黒い手甲がはまっていた。ティアが真顔になる。半回転したスタッフが正面で静止する。ふたりとも、言い訳しない。モル司祭が言ったことを否定しない。  世界に夜明けをもたらした白亜の聖地は、血に染まって闇に落ちた。アレフを倒せるのは、もうオレ達だけなんだ。背負った剣の柄を握りしめた。 「教則本に従うなら、敵はすべて排除したと、安心して棺に横たわっている胸に杭打って断首ですが……玄関のワーウルフ。私はイヌが嫌いでね。うっかり殺してしまいました」  後ろめたい痛みがよぎる。うつむきかけて……硬い音に顔を上げた。ダーモッドが黒い剣を抜いていた。  応じて、オーエン達も剣を抜く。オレも背中の剣を抜いて、両手で構えた。 「これじゃあ私の訪問がバレてしまう。だから覚悟を決めてここで待っていたんですよ」  ヒビが入った薄い板を渡るような緊張。でも、頭が澄み渡る。心が静まる。互いの位置がはっきり分かる。 「じゃあ、始めましょうか。ヴァンパイア退治を」 五 アレフ達の戦い 「父さんの仇っ!」  ヴェールを後ろに引いてティアが突っ込んでくる。ドルクとオーエンの剣がぶち当たる音が響いた。支援に向かおうとしたルシウスの前に炎が舞う。室内を暴風が駆けて壁際のキメラたちの邪魔をした。  視界が明るい。森の城でもこんな感じだった。一瞬、自分どこにいるのかテオは混乱した。敵味方の位置を確認して、アレフに詰め寄られているのに気付いて慌てた。  黒と銀の影から繰り出される拳。四本の刃が、目の前に迫る。とっさに剣で受けた。姿勢が崩れ、剣が弾かれる。柄から右手が離れる。でも筋肉でふくれあがった左手が剣を掴みなおす。力を増した足が踏みとどまってくれた。  開いた右肩を掴まれ、脇腹を蹴られた。肩を砕かれそうな痛み。たわむ肋骨。初めてアレフが人間じゃないと確信できた。  でも、肩は動く。息は吸える。まだ剣は振れる。背を丸めて転がって起きた。敵は……すこし離れた位置。オレは太ももに力を溜め、一歩で切り込んだ。  うまく意表をつけた。アレフの反応が鈍い。  胴を両断するつもりで、ないだ。硬くて弾力のある奇妙な手ごたえ。斬れない。骨を砕けない。  でも細い身体は、ふっ飛んで壁にぶつかる。力は強くても体重は見かけどおり。むしろ軽い。  追い討ちをかけようとして、立ち止まった。虹のキラメキ。袖に仕込まれたティアの小刀。軌跡はわかっていた。リネンの袖で絡めるように叩き落とし、振り返った。もう、ティアはこっちを見てない。ホーリーシンボルを使わせないよう、炎を伴って、モルとスタッフをぶつけあってる。  この連携がオレたちの強みだった。互いが盾となり、デタラメみたいな牽制が、離れた敵の態勢を崩す。  視線を戻すと、アレフは消えうせていた。どこへ……見上げたが頭上にはいない。求める心が、部屋の入り口に視線を引きつける。たしか、モル司祭が聖水を仕掛けた場所。青白い魔方陣。浮いているのは無数の氷。まずい。  風に乗って飛んで来る白い粒を、跳んで避けた。後ろで上がる悲鳴。モル司祭が顔をおおう。不意を突かれた拳士ルシウスがティアに殴り倒される。銀のヨロイを紅く染めてヒザをつく聖騎士。その向こうで、黒い獣めいた騎士が剣を振り血を払う。  なぜ避けない。来るのが分かって……  もしかして、分かっていたのは、オレだけ? 「その通りです」  真後ろで声がした。振り向こうとした足を払われた。仰向けに倒れた。  アゴを掴む冷たい手と、肩を押さえこむヒザのせいで、動けない。アレフが右ひじを引いていた。オレの首を、命を、引き裂こうとしている四つの刃。  殺られるのか。  でも白い顔は、怯んでいるような、迷っているような?  足を高く上げ、反動で強引に起き上がる。首と肩の痛みを無視して、アレフの体をはねあげた。  アレフが体勢を立て直す前にないだ。あの妙な感触はマントだけ。細長い左腕には刃が食い込み、血がしぶく。  アレフは左腕を押さえて間合いを取ろうとしてる。呪の詠唱。森の城でいく度かオレも世話になった回復呪。治される前に。 「トドメを刺す」  狙うなら心臓か頭。壁際に退いた黒い姿めがけて、剣を構え、体ごとぶつかった。  勝利を確信した瞬間、横から何かがぶつかり視界が暗くなった。体が横に流れる。剣が壁に突き刺さる感触。外した。気が遠くなる。  ……床の敷石が滑らかで冷たい。オレ、まだ生きてる? 「汚いわよ! アレフがテオを傷つけられないの知ってて、連れてきたのね」  真上から声が降ってきた。目を開けると、白かった。これはティアの白いブーツとスカート? 「おやおや、テオは貴女を助けに来た騎士ですよ。手加減ナシに頭を殴るなんて……むごい聖女様だ」 「平気よ。イモータルリングをしてるから。アレフが滅びない限り、テオは死なない。どんな傷をおっても」  剣戟の音はしない。銀の聖騎士と黒い獣騎士の決着はついたのか。オーエンは……生きてる。でも手首に小刀。足の骨を折られて呻いている。もう一人は、失血で意識がない。  仲間が傷ついて、死にかけてるのに、どうしてモル司祭は笑っていられるんだ。まだキメラが居る。だけど、あいつらは言うことを聞かない。 「痛みはあるだろうに」 「死ぬよりはマシよ」  沈黙。  嫌な感じがした。オレの一部が……力を求めて獣や竜の力を合成した腕や足が、震えてる。 「死んだこともないくせに」  低い声。ねばつく憎しみ。 「死なないお前等は化物だ。人の手におえる相手じゃない」  モル司祭の声なのか。いつもの余裕も、若さも感じられない。 「人は儚くて弱い。我慢してファラに頭を下げてやったのに。私には資格が無いと言ったのですよ。あの女!」  こんな声、聞いた事がない。反乱を起こした水夫が、操舵室に立てこもった時も、そいつを縛り首にしたときも、モル司祭はいつも落ち着いて、穏やかに哀しげに微笑んでいたハズ。 「でも、もういいんです。私は作り上げました。人の力を源とする不安定で弱点だらけの不死身なんかとは比べ物にならない……真の強さ」  身体が、行きたがっている。惹きつけられる。 「こっちに戻っておいで、テオ。私の……生者の明日を守る盾となるために」 「行っちゃダメよ」 「テオをだまして盾にした魔物。可愛がってくれた伯母さんを襲った吸血鬼。アレフを倒すためにキメラとなったはずでしょう?」  立ち上がり一歩踏み出した鼻先に、ななめ下からスタッフが突き出された。 「逆でしょ。アレフがテオの盾やってくれてたンじゃない。伯母さんに頼まれて……っていうか、縛られて。血の絆って言うより、血の呪いよね」  アースラ伯母さんが、頼んだ。何の話だ。 「テオ、教えたはずです。もう身体は元に戻せない。その身は私の元でしか生かせないと」  そうだ。力と引き換えに、人としての身体と未来をモル司祭に差し出したんだ。オレにはもう、当たり前の人生はない。数年の余命だって言われた。  ヘタり込みそうになった時。後ろから冷たい手に捕らわれた。 「テオはしもべ。とおに私のものです。先に約束したのは私」指が熱い……左手の血色の指輪から熱が広がる「シリルの村長に無傷で連れ戻すと」  風邪を引いたときみたいに、皮膚が、ウロコが泡立つ。骨と関節がきしむ。肉が痛む。ブカブカの袖から血と膿が滴る。足が腕が、崩れ剥がれ、しめった音を立ててて足元にたまる。なぜか痛みがない。それが一番無気味だった。 「再生力を上げるだけの指輪かと思ったら、過去の肉体を記録しておいて、再構成する術具でしたか」  病み上がりみたいに体が重い。床にたまった赤い水たまり。オレの一部だった生臭い泥の中に、ヒザをつき、倒れた。  鉄さびの様な笑い声が、耳をこする。 「まあ、いいでしょう。テオを取り込み盾とするのは余興。あなた方の困った顔を見たかっただけの事」  風で縫いとめられていた、異形の怪物たちの悲鳴が上がった。 「私が理想とする力と美には、少し余分でしからね」  何かが生まれようとしている。  血の匂いがする生暖かなぬかるみから顔を上げた。窓際に、赤い光を抱いた歪な影。モル司祭だったモノが、新たな形を得ようと蠢いていた。  月光を透かせて青緑の翅《はね》が広がる。踏み出されたのはオレンジ色の毛に覆われた大熊の前足。床石を砕く爪は光沢のある赤。窓を粉砕する紺色は太いサソリの尾。体躯と太い後肢は鮮黄色のウロコがきらめくドラゴンに見えた。肩には黒い炎狗《ファイアドッグ》と半透明の海獣の頭。急激な変化で裂けてしまった法服をかなぐりすて、隆とした肩と胸を誇示しながら見下ろす顔は、麦わら色の髪の青年そのまま。  平行世界から喚びだした生き物の血肉と、術者自身を素材に生成された三つ首のケンタウロス。身にまとう物理障壁と耐術障壁の干渉が生み出す金属的な輝きを含め、美しいと言えるかも知れない。だが……嫌悪と哀れみがアレフの胸に湧き上がる。後戻りできない術だ。消化管が潰れている。いくら力が有り魔力が高くとも、数日の命。敗血症か壊疽で腐り死ぬ。モル・ヴォイド・アルシャーには勝って長らえたいという、本能すら欠けている。心にあるのは妄執ではない。重なる死と生の記憶の果ての虚無。 「アレフ様をバケモノと呼ぶのは、鏡を見てからにしていただきたい」  ドルクは剣を構えた。 「うるさい」  モルが、異形の怪物が、吠えた。右肩の黒いコブが赤い口を開き、炎を吹きだす。  ティアが左に走るのを見て、ドルクは右に走った。扇状に広がる炎を迂回して、後ろ肢に斬りつけた。聖騎士のヨロイを易々と断ち割ったへパス様の黒耀の刃が、黄色いウロコに弾かれる。ついた浅い傷もすぐに肉芽で埋まる。  止められなかった炎の先を振り返った。アレフ様がテオを抱えて、廊下まで跳ばれるのが見えた。まったくご奇特なことで。情けをかけられた若者が、さらに傷つかないといいが。  上からの殺気を感じて飛びのくと、立っていた床に、丸太の様なサソリの尾が突き刺さった。  モルの関心が正面のアレフと右のドルクに向いたのを見計らい、ティアは風精《フレオン》と共に高く飛んだ。麦わら色の頭をシマウリの様に割ってやる。スタッフを振り下ろした瞬間、でかいチョウの翅《はね》が打ちふられ、すごい風が起きた。  フレオンが吹き散らされる。上下が分からなくなった。物理障壁を司どる額の水晶に意識を集中しながら、身体を丸める。痛手が最小限になるよう願った。背中にぶつかったのは床でも壁でもない……アレフ? テオの次はあたしのフォロー。気が効くようになったじゃん。 「逃げますか。あの図体です。階段は下りられない。重いから翼はあっても飛べない。跳び下りたら四肢が砕ける。何もしなくても、近いうちにモルは死ぬ」  今さら、なに腑抜けたこと言ってんのよ。 「イヤよ。自殺も病死も、あたしは認めない」どうやったら、この甘ちゃんの逃げ道を断てるんだろう。あ、そうか「紅い石を悪用すれば、モルは不死者になれるよ」  バフルヒルズ城を悲劇でおおった術具。サウスカナディ城に押し寄せたキマイラも賢者の石によるものだったはず。  永遠の命をもたらす貴重なファラの遺産。だが人の手に渡ってからは、大量の死を振りまいてきた呪われた石になった。  アレフは黄金のキメラに目をこらした。  そうだった。  紅い石を奪い返すために、ヘパスの協力を受け入れた。  いま、紅い石はモルの体内にある。おそらく下腹にある異種生物との結合点。障壁と毛皮と厚い筋肉の奥。 「厄介ですね」  風は打ち消される。炎も効果が薄い。氷……素材となる水がもうない。目の前が暗くなる。  月を雲がおおったのか。  闇に乗じてドルクが切りかかる。黒い刃を食い込ませたままモルが足元の銀の剣を拾い上げ、打ち払う。火花が散った。  腕の中からティアの重みと温もりが消えた。スタッフでの殴打をまた試みるのか。太く硬いサソリの尾が振り上げられる。かろうじてスタッフで受けながした様だが……共感した右手がしびれる。せめて動きを止めなければ。  水がないなら、降らせればいい。  今夜は珍しく雲が多い。 「フレオン!」  散った風精を呼び集め、魔力を注いで再構成した。 「雲を上に集めてほしい。好きなだけ飛び回ってかまわない」  幼女のけたたましい笑い声を含んだ風の音が、壊れた窓から飛び出し、上空へと遠ざかる。  物入れから鉄粉のビンを出し、大気に干渉する魔方陣を描き上げた。ここは自城。今は夜。クインポートで雨を呼んだときよりうまくいくハズ。  気圧がさがる。雲と霧が渦となって上空へ吸い上げられていく。 「……何を仕掛けようとしている!」  気付かれたか。だが、ドルクとティアの相手で精一杯のはず。魔力を込め、雨を呼んだ。フレオンが大量の雨滴とともに上空から駆け戻ってくる。  氷の呪の詠唱を開始する。 「また氷つぶてか。そんな子供だましが効くか!」  モルが吼えた。物理障壁が強化されるのを感じた。ならば、氷そのものの性質を利用するまで。 (伏せて下さい)  ガラスの破片と共に吹き込む風雨が室内を荒らすに任せる。全てが濡れそぼったあと、おもむろに氷の呪を……大気から熱を奪う術式を、モルを中心に発動させた。  オレンジ色の毛皮もウロコもサソリの尾も、びっしりと白く凍りついた。だが、雪像と化したケンタウロスから、笑い声が響く。人体と黒狗のあたりから、氷は溶けていく。 「体温を少し上げればすぐに融ける氷で、この身を拘束できると思ったか」  さすがに凍え死んではくれないか。だが薄い翅は……寒さで感覚がマヒしていたであろうチョウの翅は、表面を薄くおおう氷の重みに耐え切れず、割れ砕けた。 「ティアさん、フレオンをお返しします。もう、キメラは風を呼べません」 「よくも」  獣と人。「よくも、よくも、よくも」三つの口が同時に悪態をつき呪をつむぐ。くぐもった詠唱と共に床に走る光。あらかじめ用意してあったと思われる10の交点。「私の美しい翅を」目は眼窩からこぼれ落ちそうなくらい、見開かれていた「もう遊びは終わりだ。消え去れ、滅びそこないの吸血鬼めっ」  舞踏室の床全面から、破邪の清浄な光が吹き上がった。 「……千年の望み。十度生まれ変わりし我れらが宿願を、ついに果たしましたよ」  まばゆい光に満たされた舞踏室で、モルは天井に手を差し伸べ、笑った。  アレフが滅べば、しもべも滅ぶ。ティアはまだ転化していなかった様だが……身寄りの無い小娘ひとりに何ができる。師匠の後ろ盾も得られぬ辺境で、混沌に飲み込まれる故郷を見ながら、野良犬の様に野垂れ死ぬがいい。  それにしても、たわいの無い。  わざわざ身を変じるまでもなかった。だが、多くの犠牲の末に作り上げた術式だ。ヴァンパイアどもが執着していた、人と他の存在との融合。連中の手が届かなかった領域、作り出せなかった究極のキメラとなり、最後の一人を滅することにこそ、意味がある。  ファラの時の様な、不意打ちではつまらない。眠ったまま滅ぶなど許さない。無念で心が張り裂けそうなまま消滅してもらわねば、今生の余命を犠牲にした甲斐がない。 「吸血鬼どもを全て滅ぼし、人を解放する。世界に真の夜明けをもたらす。私が千年の夢、ここに実現せり」  薄れゆく破邪の光の中での、勝利宣言。身のうちから誇らしさが湧き上がる。 「それはウソでしょう」  喜びを打ち消したのは、ありえぬ声。消えゆく破邪の光の中に、変わらぬ黒い影が立っていた。 「なら、どうして始祖を作る必要がある? ホーリーテンプルの地下にいるアレは? あなたもテンプルも、真の夜明けなど望んでいない」  防ぐ術のない最強の破邪の呪。なぜ滅びていない? 「吸血鬼から人を守る存在として、肥大しながら永久に存り続ける。それこそが真の望み。あなた方の浅ましい夢。存続し続けるために、吸血鬼を見逃し、始祖を生み出し、闇の子を街に放つ。そうしなければ金も敬意も集まらなくなる。百年後、子孫に記憶を引き継げなくなる」 「なぜだ」  ホーリーシンボルが効かないはずはない。 「地の呪で少々、相殺を。あとは崩壊するこの身を聖女が回復呪で補ってくれました。やはりティアの方が呪力では上。だから、恐れた。殺したいほどに」  語りおえた赤い口は、細い月のように釣りあがっていた。 (けど、ピュラリスの炎も効かないし、氷ももうダメっぽいよ)  ティアは心話を送りながら、癒えていくモルの背中をにらんだ。うすい翼は砕けてコブになったけど、本体をどう料理すればいいんだろう。風精によるカマイタチのキズなんて、すぐに癒える。 (ティアさんはホーリーシンボルの用意を)  は? なに考えてるのよ。 (破邪呪なら対術障壁にさえぎられない)  そりゃそうだけど。生身には効かない攻撃呪。どうやって不死化させンのよ。この化け物を。  噛みつくぐらいは……運と勇気と、牙が折れても構わないって覚悟でどうにかなる、かも。  けど、血の絆を受け付けるようなタマじゃない。それに (殺さなきゃ闇の子には出来ないんじゃないの?)  殺れないから困ってるのに。 (不死化の準備はモル司祭がしてくれています。そして欠くべからざる触媒もそろっている)  低い詠唱。闇に紛れて目立たないけど十の交点を結ぶ黒い魔方陣が形成されてく。この形は、ホーリーシンボルの反転。  逆か。  この術式を反転させて作ったのが破邪の呪。  ドルクが剣舞みたいな派手な動きしてる。足止めかな。  しょうがない。乗ってやるか。  フレオンに油のビンを抱かせ、水晶球から呼び出したピュラリスと組ませた。 「炎のつむじ風で、あいつの毛をチリチリにしちゃえ!」  ドルクの剣と炎に惑わされてるスキに、三つ首の死角に入り、ホーリーシンボルの詠唱を始める。黒い魔方陣、その最も密な下に隠すように、白い方陣を組み上げた。 「何を仕掛けている!」  ドルクを大熊の手で払いのけたキメラが、闇にたたずむアレフに迫る。 「ビカムアンデッド」  応えたのはうすい笑みと冷静な声。そして呪を締めくくる発動の詞《ことば》。  湧き出した闇が渦巻き、キメラにまとわりつき這い上り、その身を侵していく。 「貴方がバフルで使った、不完全な術式の組み換えです」 「一度見聞きした術を模倣《もほう》する……か。相変らず小器用な。しかし、マネで私は倒せない!」  黒い霧をまとって、アレフに突進しようとするケンタウロスが方陣から外れる前に、叫んだ。 「ホーリーシンボル!」  スタッフを床に突きたて、方陣にありったけの力を注ぎ込む。  清浄な光が黒い霧もろとも、転化しかけていたケンタウロスの半身を飲み込んだ。  人と獣の絶叫。伸びてきた大ザルの前足から身をかわし、アレフが廊下に退避する。サソリの尾が蒸発し、骨までむき出しになってドラゴンの下肢が崩れていく。  黒い剣を杖にドルクは立ち上がった。獣化した足をたわめて跳ぶ。ウロコと対物障壁を失った背、毛皮との境に、体重を乗せた剣を振り下ろした。背骨にぶつかって両断とはいかないが、そのまま腹まで斬り下ろす。  剣を投げ捨て、血を浴びながら、創傷に手を突っ込む。異なる組織の継ぎ目、脈動する肉の奥で、硬い滑らかな石を掴んだ。直後、橙色の腕に払われた。全身の骨がきしむ。転がって壁にぶつかった。だが握りしめた手の内に紅い石はあった。  異形の司祭が唱える治癒の呪。刀傷から肉芽《にくが》が盛り上がる。失われた下肢も、生身のままで灰化しなかった赤剥けの肉やハラワタからブドウの房状の肉が生まれ膨れ、補っていく。  いや、違う。肉の表をおおうのは硬い殻とぬめる粘膜。生えて来たのはヒヅメとヒレと触手。無秩序に様々な組織が分化し混在していた。 「か、体が、体が、脹れる! 裂ける!」  モルの叫び。裏返った甲高い声。  無数に生えてくる四肢が、まばたき産声を上げながら現れる幾つもの頭が、うごめく尾が……伸びると同時に本体に亀裂を走らせる。苦鳴が吐血にさえぎられる。表皮の成長が内部組織の増殖に追いついてない。筋肉や筋、骨までもあらわにして、オオトカゲの尾が落ち、ヒヅメがついた肢がもげる。膨れて裂けて再生するイビツな肉の球と化した本体から、人に近い上半身も剥落した。  麦わら色の頭が床にぶつかり、太い腕がのたうつ。アレフは駆け寄った。 「解呪法は」  戻す方法は無いと分かっていても、聞かずにはいられなかった。もし見つからない衛士のイモータルリングを、たわむれに一度でもはめていれば、あるいは…… 「もう、おそい」  モルが血の泡を吹く。むき出しの内臓が肉芽を無秩序に生みだしては崩れ、流れ出していく。崩壊が進む本体も、生じる組織が次第に小さく短くなり、血と断片を周囲に広げながら氷の様に解けていく。 「これが、今生での貴方の成果か」 「長生きは飽きました。老いても生き続けるのは疲れる。……いつまでも若いあなたには分からないでしょうが」  英雄モルは長寿だったと聞く。開祖モルも長命だった。だからといって……いや、よそう。  たとえ前世の記憶があろうと、モル・ヴォイド・アルシャーとしての生は一度きり。そんな分かりきった事でも、いまわの際に聞かせるのは残酷だ。それを言う資格もない。  弱いと、すぐに倒せると、私が侮られていたことが、この若者に性急な方法を選ばせた理由かも知れない。  ファラ様の様に強大であれば。用心深く狡猾であれば。眠り姫などという、ふざけた二つ名をいただくような、無能で卑小な存在でなければ。  時をかけ思考をめぐらせる過程で、受け継いだ記憶に流されぬ強い自己を、彼も確立できたかもしれない。 「私はまた戻ってきます……私の子孫の中に。ファラの弟子なら私の血を受け継ぐからといって罪もない者を殺す……など」  モルは勝ち誇ったように笑った。 「七十年後にまた再会を……」  モルの息と鼓動が止まった。内臓の崩壊も止まる。胸から上は人の姿を保ったまま、冷たくなっていく。  見開いた目をなで、閉ざしてやった。 「そんな遠い再会を待つ気はありません。未来へ行くのは貴方だけ。それに、寝起きの悪い危険な英雄を、わざわざ目覚めさせる親切心も持ってません」 六 生きて帰りし者  ホーリーシンボルに全精神力を注ぎ込んで座り込んでいたティアがふらりと立ち上がる。 「バッカみたい。自分にかけた術が暴走して壊れちゃうなんて」  動かなくなった肉塊をスタッフでつつき、ワザと踏みしだき、モルの死に顔を覗き込んであざ笑い、悪態をつく。  むくろ相手に父親の遺恨を晴らしているティアは放っておいて、紅い石を握りしめたまま、壁際で震えているドルクに治癒呪を施し、ねぎらった。 「ありがとう。賢者の石を奪い返してくれて」  渡された紅い石を見つめる。先史文明の遺産。今の技術では作れない触媒。これを砕いてしまえば、不死化の呪は当分使えなくなる。いずれ再現する者が現れるかもしれないが、百年や二百年ではムリだ。  私と、ホーリーテンプルの地下に閉じ込められている、作られた始祖が滅びてしまえば、この世から不死者はいなくなる。モルの記憶を受け継ぐ者も、当分は現れない。  命をゆがめ、作り変える、暗い卵。存在そのものが禁呪といえる血に染まった紅い石。方陣と星辰と贄が整えば、影の無い身を、実体に戻すことさえ可能だと、ファラ様が残した書にあった。  森の大陸で失われた……いや、奪ってしまった数万の命。ファラ様の滅びと共に、四十年前ここで灰となったネリィ。この賢者の石があれば助けられたかも知れない。生身に戻せたかも知れない。  不可能だったと、ありえないと、理性は否定しても、握りしめた可能性と手段の実在が、胸の奥から後悔を引きずりだす。  掲げた紅い石が、目を射るように鮮やかに輝いた。光源をアレフは見上げた。砕けた窓から月が射していた。風精《フレオン》に集めさせた雲が切れたらしい。黒茶に似た香り招かれ、舞踏室を出てテラスに立つ。足元に白い花びらが1枚、貼りついていた。  恣意的に引き起こした風雨に耐えた白バラが、中庭から恨みがましく見上げていた。眠りに逃避していた間も、誰かが世話をしてくれたらしい。  だが、ネリィはこの花を目にする直前に逝ってしまった。  割れたガラスを踏む音に振り返った。白いドレスをまとった蜜色の髪の……目の色が違う。足元に影がある。ネリィではない。白い婚礼衣装を血に染めたティア。赤黒く広がる斑点が月のあばたの様だ。 「死に切れていない聖騎士と拳士、どうする?」  スタッフが指し示すのは血臭と臓物の山の向こう。これ以上、片付ける死体を増やすのもバカらしい。自力で歩み去ってくれるなら、ありがたい。  治癒呪を施し、混乱する二人に命じた。 「モル司祭がどうなったか、クインポートと銀船に残っているものに告げにゆけ。速やかにホーリーテンプルに戻らぬなら、同じ目に遭うと」  這いずっていく二人の前にドルクが立ちはだかる「証だ」破れたモルの法衣と死んだ騎士の盾を押し付ける。  もつれた二つの足音が遠ざかる。これで退いてくれればいいが。頭を倒しても、人の集団は消えてなくならない。高い城壁を備えたクインポートに立て篭もられると厄介だ。食料が尽きるのを待っていたら、町の住人まで食われるかも知れない。 「ホーリーテンプルは、全滅したんじゃないのか?」  だぶついたシャツと鎖帷子を血に染めたテオが、幽鬼のように立っていた。なりばかりか言葉まで常軌を逸している。誰に何を吹き込まれたのやら。 「全滅などさせたら、金の流れが止まって」いや、森と村しか知らぬテオに理解は無理か「統制を欠いた司祭や聖騎士が世界を血に染める。この城のように」己が目で見たものなら理解できるはず「私は訪ねてくる者を歓待しろと言い置いた。害せと命じた覚えはない。それでも殺した」 「だって、夜明けをもたらす……ために」 「ではクインポートは。既に人の街だった。少なくとも町長とやらは、そう信じていたはず。何が起こった?」  テオの心に、クインポートの惨状がよぎる。守る側に回ってくれたのか。 「すまない。詰問は不当だった」 「けど、手下にシリルを襲わせた。アースラ伯母さんを襲って、オレを指輪の呪いで縛って」 「呪い?」  血膿で粘つきからむ左袖とテオが格闘を始めた。袖が邪魔なら裂けばいいのにと、イラ立ちを覚える。テオ自身もじれたらしい。左手を見せるのはあきらめ、右手で腰の物入れから紅い指輪をつまみだした。  テオのイモータルリングは左の薬指にはまったまま。  では、あれは。  昨夜、こちらでは今朝か。命を支えきれなかった衛士の指輪。 「良かった。見つからないから、砕かれてしまったものと。これで、彼だけは蘇らせることが出来る」  おびえた顔で逃れようとあがくテオから、指輪をもぎ取り、舞踏室から出て、早足で階段を下りる。テオはドルクに任せたほうが良さそうだ。私が何を言っても、かたくなに拒む。  ついてきた足音は一つ。そして軽い。  足を止め、ため息をついた。  扉を開き、中庭に出る。雨あがりの土の臭い。風で折れた枝と葉のせいか、花の香りより青臭さが強い。散り落ちたバラの花びらとコケモモの小さな白いベル。上からみたときは地に広がった星空にも見えた。そんな、ささやかな光を飲み込んで、ぬかるんだ足元に光の方陣が広がる。  破邪呪。  対処法は、術者を殺すか、効果範囲から……。 「逃げないの?」 「貴女が全てを犠牲にして求め続けた望みですからね」  ティアの心の奥にある硬質な決意。憎しみの結晶。  モルは死んだ。  仇を討ち果たせば、私を永らえさせる理由はなくなる。  それにティアなら、私より強い決意と実行力をもって、賢者の石を砕き、テンプルの地下に封じられた始祖を滅ぼしてくれる。二度と吸血鬼に肉親を……親しい者の心を奪われる者がないように。報われぬ望みと孤独にさいなまれ、干からびる心を作らぬために。 「ひとつ遺言がある」 「遺したい言葉なんてあるの」 「私のじゃない。クインポートを守ってくれていたブラスフォードの最後の言葉」 「我が主《マイロード》、でしょ」  ティアが鼻で笑う。心が一段と硬くなる。初めて言葉を交わしたとき、泣いていたティアが、繰り返しなぞっていた父親の最後の言葉。 「続きがある」  ティアを守りたいという闇雲な思いは、多分、私自身のものではない。少なくとも最初のうちは、動かしがたい気持ちだけがあって理由を後付けして納得していた。まるで、ヴァンパイアの瞳の力に囚われたヒトのように。 「四十三年間、血と忠誠を捧げてきたのに、なぜ見捨てる。応えないなら血の絆をもって呪詛するぞ。我が娘ティアを守れ」  ティアの頬が赤い。キニルで人形劇を見たときにも、こんな顔をしていた。 「先に呪っておいて、脅して要求を突きつけるのもどうかと思うが……眠っていた私の夢を裂いて、刻んで逝った」 「女の子を助けたのに、下心があまり無いなんて変だと思った。父親の目であたしを見てたんだ」  年寄りは時折、未熟な若者の世話を焼きたくなるものだ。だが父親の情を透かし見ることで、ティアが納得して心安らぐなら、訂正する必要はないだろう。 「親なら子をもう少し見守っていたいとか、思わない?」 「親は成長した子より先に逝く。いつまでも死んだ父親が近くにいては、子は前に進めなくなる。それに亡霊が長く側にいると命が縮む」 「あんただって……あたしを死んだ女に重ねてたでしょ。さっき幽霊でも見たような顔して、少し懐かしそうにしてた」  相変らず、カンが鋭い。 「ネリィと共に、私の心も四十年前に滅びたのかも知れない。抜け殻にしもべたちの思いを詰めて、心の代わりにしているだけで」 「その、しもべは、代理人はどうなるの。いきなり心の繋がりが消えたら混乱しない? それに心話を使っての急ぎの連絡も出来なくなるじゃない」  不思議だ。ティアは私を滅ぼさない理由を探している。 「中央大陸は烽火塔とハトで何とかなっていた」メンターは戦《いくさ》の道具だと言っていた「人の心を用いて強制的に行う通信など、元から異常なのかも知れない」 「滅ぶ以外に方法はない? モルの親戚みんなぶっ殺す以外に、あいつが二度と子孫に取り憑かなくなる方法」  二度と……は無理だろう。いずこかの亜空間に組まれたケアーのようなオートマタが、記憶を保存し、百年ごとに条件が合致した者に接触し、知識を共有する転生の呪い。  害悪とも言い切れない。遠い未来に吸血鬼を倒す英雄が必要となるかもしれない。 「あんたをでっかい水晶球に封じ込めるとか」  擬人化精霊じゃあるまいし。いや非実体の亜人と言う点では大差ないか。だが 「ありますよ、方法は」  ずしりと重く感じる紅い卵を出して握る。五百年近く長らえるために歪め奪ってきた、無数の人生の重み。 「キメラが合成できるなら、人の身体も組むことが出来る。素材となる贄があれば、理論上は不死の身を実体に置き換えることも」 「人に戻るって……こと?」  人をたぶらかし、心を奪い血を奪い、最後は命を奪って、実体の無い死人と変えるヴァンパイアが、偽りではない恋に落ちたら。成就させる方法はふたつ。殺してこちら側で共に永遠をさすらうか。殺される……人の命に殉じて、あちらの限られた時を心中の道行きのごとく、生きて逝くか。  こちら側に来たネリィは悲劇で終わった。今度は私があちら側に行く番だろう。  光の方陣が消える。足元にかりそめの星空が戻った。花々を照らすほのかな光は、薄れゆく月と、地平の向こうから雲の端を輝かせる朝のきざし。 「いつになるかは、ティアさんのお師匠さま次第ですが」 「なんでここで、メンター先生でてくンのよ」  四十年で肥大した教会とテンプルが、あり様を変え、敵役を必要としなくなるまで、五年かかるか十年かかるか。  血の絆に頼らぬ秩序を編み上げるにも、時が要る。  それでも、夜明けはすぐそこに。      完 『夜に紅い血の痕を』 十六〜十七章 了  * * * * 本作は、2007年8月〜11月にかけてブログ上で連載小説として掲載したもののダウンロード用改訂版です。 連載していたブログ http://akaitinoato.blog.shinobi.jp/ HTML版(まとめサイト) http://members.at.infoseek.co.jp/nayuka_aaaa/novel/akai_mokuji.html 本作をお読みくださってありがとうございました。ご意見ご感想・誤字脱字等のご報告などありましたら、ブログのコメント欄、Web拍手に付属したメッセージフォーム等に頂ければ狂気乱舞します。 2008.12.11 久史都子(ひさふみ みやこ)   作品の無断複製・無断転載はご遠慮くださいませ。