『夜に紅い血の痕を』 十一〜十四章  ▽ 第十一章 古都キニル △ 一 退魔の境界  キニルという街を、ドルクは好きになれない。  灰色に垂れ広がる肥満した街。数千年の昔から都市でありつづけた人の巣のカタマリ。息がつまる。  外周には棒を立てボロ布を掛けた粗末なテント。拾った板をはぎ合わせて作った仮小屋。汚水でぬかるむ腐臭ただよう難民の町。  争いで町が焼ければ、家族と暮らしが奪われる。帰る場所を失った者が、生きるために集まり結んだ砂粒のような家々。  そんなささやかな営みを押しやって、レンガや石で組まれた大邸宅がそそりたつ。赤や紅色の高い塀をめぐらせた広い庭を持つ屋敷。緑豊かな農村や森が背景なら見栄えもよかろうが、貧民街のただ中では、華やかな屋根飾りや、いかめしい門扉《もんぴ》は醜悪でしかない。  昔も富裕と貧困が隣り合う街ではあったが、街区によって分けられていたはず……。 「そこの緑屋根に八角の小塔がある家。あたしの最初の恩師が建てたんだって」  ひとり馬上にいるティアの顔に嘲りがにじむ。  街を南北に区切る大通りを見下ろす物見の台。立ち止まりフードごしに目を向けられたアレフ様が、軽く舌打ちをされる。花や飾り紐を手に群れる童が、物入れに手をかけた様だ。 「前は師を訪ねるヒマも無かったのか。なら今からでも」 「向こうは覚えてない。クインポートの教会って授講料タダじゃん。だから廊下まで生徒があふれてる。ハシっこでヒザや壁を机代わりにしてたガキなんて、ジジイの目には入んないよ」 「なかなか蓄財の術にも長けた方のようで」  ティアの真意はともかく、成した事の結果をご理解いただくのは悪い事ではない。 「あたしらを教えるより商人と話してる方が好きだったみたい。余った寄付金やガメた助成金を、ウマ味のある商品に換えてキニルで売って、立派なお屋敷たててゼイタク三昧」  領民が自ら明日を拓く術を学ぶものと期待して、乏しい財政から絞り出した金。それが眠っておられる間に掠め取られ、個人の利殖に費やされていた現実の苦さに、主の唇が引き結ばれる。 「身勝手な教育官ばかりではございませんよ」  荷を背負わせた馬の手綱を引きながら、一番マシだった代理教官の痩せた顔を思い起こす。  似たような手段で得た大金を手に、死蔵されていた印刷機を求めてカウルの山道を辿って来た若い代理教官。何時目覚めるとも知れぬ主には無用となった馬車と共に払い下げた。  その金で人足を雇い城の防備をかためる普請に取り掛かった頃、クインポートで刷られた無料の教本が一部届いた。草の繊維を漉いた紙をつづった薄い本。羊皮紙を綴じた城の蔵書に比べあまりにもろく粗末で、同じ印刷機を使ったと思えなかったが……限られた時を生きる者に相応しい書物だとも感じた。  一抱えはある白い石柱が、道に三本そびえ立っていた。旧市街の市門。今まで目にしてきた中央大陸の町や村に比べて、あまりに開放的だ。  ファラ様が湖の島で今の世を開かれて以来、キニルは世界の中心であり続け、失火はあっても焼き討ちや略奪に遭った事は無いと聞く。  町並みに秩序はあるが、どこかしら奔放で華やか。道端に植えられた果樹やテラスの花、壁面を飾る艶やかなタイル。路地にひらめく色鮮やかな干し物。頭上に渡された空中廊下。道に敷かれた石は花や魚をモザイクでかたどり、猥雑な市場をアーチ状の屋根がおおう。  地平へ消える大路の果てに、厳重な城門が見えてきた。淡水湖に浮かぶ広大な島へ通じる大橋の入り口。  三階層のファサードには、薄物をまとった顔の無い女王と火を吐き風を起こす竜の浮き彫り。その足元では、大剣を背負う騎士が二人、通行料を払う人々を威圧している。  大路と同じ幅の石造りの橋。その半ばあたりから見え始める白亜の宮殿。尖塔と優美な曲線をはじめて目にした時の記憶が鮮やかに蘇る。  今は灰色の法服が棲みつき我が物顔で歩き回っているとしても、遠目には往時の姿を保っていると信じたい。思い出を打ち砕く絶望を目にするとしても、橋を渡らなくては。  だが門に近づくにつれて、暗い連想ばかりが浮かんでくる。この先は敵のただ中。素性がバレたら絶望的な最期がまっている。次第に足も上がらなくなる。悪いものでも食べたかのように胸がムカつく。寄付という名目の通行税を払おうとして、たまらず座り込んだ。 「どうしたの」  下馬して覗き込むティアは平気そうだ。人を手にかけたばかりだというのに、いつもと同じ様に朝食をたいらげたこの娘が元気なら、食あたりとは考えにくい。  振り向くとアレフ様が手招きしておられた。吐き気と目まいをこらえながら傍らにヒザまずく。 「強力な結界が施されている。心話も阻害される。無理に越えようとすれば無事にはすまない。おそらく気付かれる」  主の方が、より辛そうなのに気付いた。 「……では、ひとまず宿を取りましょう。夜になれば少しはマシかもしれません」  引き返すと決めたとたん、心と体にかかる負担が減る。 「ちょっと、橋の向こうにも宿坊はあるよ」  手綱片手に抗議するティアを無視して、東の街区へ向かおうとした時、来た道からざわめきが近づいてきた。  人々が退き、道端から見つめるのは、馬の背に遺体を乗せて運ぶ聖女。思ったより早く意識を取り戻したらしい。その後ろには同じく遺体と共に揺られながら、宙空を見ている拳士。  アレフ様が幻術の呪を呟き、人垣にまぎれた前を行き過ぎたあと、聖女らは仰天した騎士達に迎えられた。 「血の呪縛も届かないか」  呆然と呟く主に、改めて大橋の門を見上げた。生身の人は通せど、不死人を拒む見えない境界。テンプルもなかなか侮れない。 二 ホーリーテンプル  丸みを帯びた屋根のフチが午後の陽射しに白く輝く。薄青色のアーチと飾り格子が、中庭に広がる四角い水面に映る。  施療院に向かう回廊で、モリスは法服をはたいた。テンプルに来て二十年。遺体を焼くニオイにはまだ慣れない。故郷から遠く離れた病床で、不安と無念を抱く学徒達や、最期を静かに迎えようとしている老人達に、嗅がせていいニオイでもない。  アクアマリンとヒスイで幾何学模様を象嵌した大理石の壁と床。かつてアクティアス宮と呼ばれた東館は、吸血鬼の女王の居室だったらしい。流水を嫌う魔物には似合わぬ呼び名だが、月夜に舞う優美な蛾を意味すると聞いて納得した。  風通しが良く、淡い青緑の壁は赤い血の補色になるという合理的な理由で、今は施療院として使われている。膿と血に汚れ、汚物と消毒薬の臭いが漂い、傷病者の悪態と嘆きが満ちる現状を見たら、ファラは怒り狂うかもしれない。  厳重な二重扉のむこうには八っつの病床。  一番手前に聖女ダイアナが腰掛けていた。銀のネックガードの下に覗く白い包帯が痛々しい。 「ルーシャとオットーを焼いたの? ムダなことを。二人を殺したのはヴァンパイアじゃないのに」 「規則だからな。それに殉教者の遺体をモルのオモチャにするのは、忍びない」 「私もいずれ、聖油をぬられて北の釜で焼かれるね」  寂しそうな笑みが、丸天井を見上げたまま瞬きもしないハジムに向けられる。 「時をかければハジムもあんたも完治するさ」  空しいなぐさめだ。施療院を生きて出る者の方が少ない。 「ハト小屋にルーシャの報告書、届いてたんでしょ」 「読まずに副司教長室に届けろって言われてた」  ダイアナの目が閉じられる。 「私たちはもう少しで勝てた。装備さえマトモならオットーは死ななかった。ここを守る騎士を無駄に飾るくらいなら……」 「なかなか戻らねぇし、すぐ出てっちまうからだろ。マトモな装備一式誂えるのに何日かかると思ってる」居心地悪くなるよう仕向けたのをゴマかすため言葉を重ねる「それに、見た目は大事だ。威厳ってやつは無用な争いを退ける」 「そういうものかもね。ルーシャもヤツも威厳が無さすぎたから」  ひとしきり笑った後、ダイアナがにじんだ涙をぬぐう。 「モリス高司祭、あんたもたいがい威厳ないよ。なんだいその、白黒まだらのヒゲは。まるで使い古しの絵筆じゃないか」  最筋肉が落ちてきたホッペタと、シワが増えた口元をまばらにおおうヒゲを撫でながら、モリスは笑ってみせた。 「笑って泣けるなら大丈夫だな。次は見舞いに赤ワインでも差し入れてやるよ」  吸血鬼の口付けを受けた他の患者たちの様子をひと通り診る。今日襲われたダイアナが一番元気だ。被害者と加害者、どちらの資質に負うものなのか……興味深い。  見舞いを終えたモリスは回廊を抜けて西棟に向かった。  黒と薄紅の大理石が彩る中央の聖堂には善男善女。いや、金持ち連中か。その間を素早く抜け、薬草園を横切り、遠目に道場や工房を望む階段を登る。  お偉い司教連中の執務室がある三階にたどり着いたときには、息が上がっていた。  廊下を飾るフレスコ画は七聖の偉業を讃えているらしい。だが、細かい三角の半貴石で動植物を現した天井のモザイク画に比べて、どうにも見劣りがする。暗い過去を払拭するためと称して、壁の石を剥がして売って儲けた先人が少し恨めしい。  ダイアナに言わせればムダ飾りでしかない騎士が、モリスの来訪を取り次いでくれた。寄木細工で飾られた扉を開けて、迎えに出てきたのは、栗色の髪ごしに賢そうな目を輝かせる紅顔の美少年。 「頑張ってるなミュール、辛くねえか」 「はい。日々まなぶ事がいっぱいで、楽しいです」  先日、副司教長付きに配置換えとなった見習い司祭。メンターの新しい鑑賞物にして気分転換の話し相手。  抱きもせず触れもせず、眺めて時おり話すだけで満足という、上司の趣味は理解できない。大体、なんで同性なんだ。モリスが知る異性の弟子はティア・ブラスフォードぐらいだ。  書類棚が壁面をおおう執務室。白い薄布が和らげる西日を背に、藍色のガウンにブドウを刺繍したストールをつけたメンター副司教長が、書類に目を走らせていた。白い羽ペンを取り、数文字ばかり書き加えてから、書類を金属の箱に放り込む。  それから引き出しのカギをあけ、チョウを象った止め具を取り出した。挟まれているのは、数枚の細い巻紙。 「選ばれた人間」 「それはまた、人はすべからく平等であると説く教会の、首座を狙う御方の言葉とは思えませんねぇ」  大きな黒檀の机を滑ってきた銀のチョウを捕らえて開いた。ここ数ヶ月、ハト小屋から真っ直ぐ運んだ通信筒の中身だった。 「モリスは運命を信じるかね」 「運命は信じるものではなく感じるもの、でしょう。偶然と努力が生み出した偉大な成果に憧れたアカの他人が、勝手に過去を詮索して、たまたま一本スジが通ってる様に感じたもの……猊下のお言葉ですよ」 「居るハズの者が居るべきところに居ない。そして、居るべきでない場所に居ないハズの者がいる」 「早口言葉にしちゃ出来が悪いねぇ」  メンター副司教長の生き生きした目を見返して、モリスはため息をついた。モリス自身も老けたが、同期の出世頭もシワと白髪が増えた。でも謎をかけたがるクセは、黒髪が豊かだった時から変わらない。 「移動したんだろう。よその大陸じゃ木や建物も動くそうな」  適当に答えながら手元の細長い通信文に目を落とす。最近は手をめいっぱい伸ばさないと細かい字が読めない。 「あのお騒がせ娘が火刑台のケムリとは」  東大陸の実力による開放。  野心まみれのモルの誘いを受けて師を裏切り、副司教長派の体面を潰してのけた小娘。腹立たしいのに悲しい。陽光が少しかげった気さえする。 「目の離せない聖女見習だった。あんな我がままを通さなきゃ若い命を散らす事は……なんだ、死んでねぇのか」  二枚目を読んで安堵した。そして選ばれただの運命がどうと、似合わぬ事を言い出したワケが分かった。 「ティアは目的を果たしたのか」  後悔を知らない勇気とともに密航し、錐のような決意を胸に抱いてキニルにたどり着いた娘。危うい少女の外見と未熟な肉体を唯一の資力に、良心なき度胸と千変の嘘でホーリーテンプルに入り込んだ騒乱の源。蜜色の頭には狡猾さと愚直さが同居していた。 「バカの一つ覚えみてぇに演習してた破邪の呪、無駄にならなかったか……」  いや、ティアが太守を滅ぼしちゃマズいのか。メンターの実家のため、そして、ホーリーテンプルを崩壊させないためには。 「ティアの心に呪をかけておいた。アレフを滅ぼせると確信した時、発動するよう」 「ひでぇ師匠だな。全てを賭けて挑む弟子を潰したのかい」  一瞬のためらいが死に繋がる人外の者との戦いで、あまりに致命的だ。 「滅ぼす前に損得を計算しろという暗示……いや、少々小細工を加えた人として当たり前の教育だよ。永らえさせても利がないと感じたら、ティアはためらわない」 「その損得は師匠とテンプルの利益ってことですかい?」 「ティアの、だよ。出来れば我々も利に含んでくていれると嬉しいがね。久しぶりに目にした故郷と親の幸福でも構わないと思っていた。だが、ティアの望みは永遠に叶わなくなった」  薄い陶器がぶつかり合うかすかな音に、言葉がとだえる。  ミュールが運んできたシリル産の香茶が、静かな室内に森の香りを広げる間に、残りの通信文をナナメ読みした。  再開されたバフル教会からの通信文を見る限り、ティアは上手くアレフに取り入ったようだ。メンターの意が通じるものが魔物をいつでも制する位置にいる状況。これは願ったり叶ったりだが…… 「つまりルスラン達を殺ってダイアナを噛んだのはアレフか。どうして、こうなった? あのアバズレ娘は五百歳のジジイに何を吹き込みやがった」 「私が聞きたい。出来れば速やかにお帰りいただきたいが……。遠方からお越しの太守は、英雄モルの命をご所望だ」  モルにバレない様に、ハト小屋を押さえさせたのか。 「ティアもアレフもキニルにはいない。それでモルは押し通す」 「ティアの方から押しかけて来るだろう」 「始元の島を外界から隔てる結界は、決して不死者を通さない。闇の女王が築き故モル大司教が強化したもの。始祖とはいえ齢一千歳にも満たない若造に破れるものではない……らしい」 「それは表の話だろ」 「裏に気付く前にキニルを出ていただく」  どうやって……という問いは、廊下で争う物音に立ち消えた。  突然ひらいた扉。武装し騎士と拳士を従えて許可なく入室した歳若い司祭。遅い午後の日に映える金髪の下の目は、不遜な輝きに溢れていた。 「危急の帰還命令を出しておきながら、理由は告げずに早ひとつき。しかも速文とハトの翼が運ぶ通信文は全て、そこの腰ぎんちゃくが副司教長室へ届けたあと行方不明」  挨拶もなしにまくし立てる来訪者が、薬品臭い指を突きつける。モリスは、懐に隠した通信文からなるべく意識を離して、憮然としてみせた。 「テンプルの、いや教会の真髄は全ての知を共有する事だと唱えて、私の研究は秘密主義的だと日ごろ非難しておられたのは、どこの誰でしたでしょう」  腕組みしたモル司祭に、金の蝶を象った留め金でまとめた書類を、うやうやしい態度でメンターが差し出す。 「遠征の直後は疲れているのはないかと。なるべく雑音はさけ心安らかに休暇を過ごし、地下での研究を進めてもらいたいと配慮したつもりなのだが、余計な気を回しすぎたようで……いや、すまなかった」 「実戦に出たことのない、親の金で司教位を買った貴方がめぐらせるふやけた企みなど、底が知れてます。そのあたりをわきまえて、そろそろ引退後の屋敷を建てるために難民を駆除する準備をはじめられては……」  片手で引ったくり、口元を歪めて通信文の束を読んでいたモルの眉間に深いシワが刻まれた。 「シリルにヴァンパイアだと? あり得ん」  机に跳び乗ったモルは、ストールごとメンターの胸倉を掴んでゆすぶった。 「貴様、地下の実験体を勝手に逃がしたな?」 「何を言っている。ヴァンパイアを滅ぼす使命を帯びたテンプルが、吸血鬼を作るわけがない。居ないものを逃がすも何もない」  手を離したモルは、来た時以上に荒々しく出て行った。 「本当に……逃がしたんですか」  乱れたエリ元をととのえる超然としたかつての友への問い。氷が張った湖に飛び込むぐらいの勇気が要った。 「モリスまでそう言うのかね? 地下牢に閉じ込められたまま何年も放置されていた男を哀れんで逃がしたのは私ではない。 と、真実を話したところで、どうせ信じないくせに」  本人が危険な地下にいく必要はない。誰かをソソノカして逃がすよう仕向ける事など、メンターにはたやすい。その誰かがどうなったのかは、考えたくない。 「それより、使いにたってくれまいか」 「居ないはずの者に?」 「いや、ティアにだ」 三 異なる氏族  空気が重く肌にまとわりつく。人いきれだけで霧が生まれる。真夜中を過ぎても明りが灯り、月が雲に隠れても真の闇はおとずれない。常に人の気配がして、落ち着かない。  世界最大の淡水湖がうるおす大都市キニル。湖岸沿いの下町を歩いてみたが、結界にスキはなかった。湖に意識を向けると常に頭が締めつけられる。人の目に安らぎを与える岸辺が、アレフの目には歪んで見える。  暮れゆく波打ち際から走ってきた子供が、堤防に並べた焼き物やガラスの丸いカケラ。銀貨一枚でひと握り。血を捺《お》してドルクに並べさせ、結界の相殺を試みたが効果は薄かった。  落胆で終わった幾つかの試みを振り返りながら、にぎわいの中を歩く。すれ違う人々の心からこぼれ聞こえるつぶやき。わずらわしく感じるのは結界のせいなのか、朝の出来事を納得し切れていないからなのか。  等しく朝日を目にしながら、今宵を迎えられなかった命。  実際に手をくだしたのはドルクとティアだが、生命が消えていく最期の想念は頭に残る。心を押しつぶした感触が後悔を広げる。善意に付け込みダマして得た血と共に、取り込んだ想いが内側から心を刺す。  道にはみでた箱と樽と板の食卓で、貝や野菜のスープにひたった麺を食べる若者の群れに目を細めた。頼りないロウソクやランタンに本をかざす彼らが妙にまぶしい。そして哀しくも感じる。  乏しい光の中で文字をたどり、英雄になることを望んで受ける選抜試験。その行き着く果てに無残な死が待つと彼らは思わないのだろうか。倒すはずの者に捕らえられ、血を吸われて終わるかも知れないと。  まだ飢えていないのに、みずみずしい首筋に引きつけられる。  若い命で薄めたいのかも知れない。仲間の骸のただ中で、冷たい口付けを受け入れた女の悲嘆と絶望を。  だが獲物はまわりにあふれていても、道端で食らうわけにはいかない。裏道にも人の気配が複数ある。あてども無く迷路のような道をたどるうち、四角く狭い庭に踏み込んでいた。  見上げると窓に幾つか明りが灯っている。教本を照らすトマろうそくの控えめな光。繰り返し読む小さな声。書き写すことで暗記を試みている気配。テンプルの選抜試験は二ヶ月後、か。  安普請のこの建物は引退した教育官の持ち物。細かく区切られた貸間に住むのは、試験に挑む若者ばかりのようだ。  大抵は相部屋だが……三階右手の部屋の主は、少し裕福そうだ。本や衣類が積みあがった狭い部屋をひとりで占有している。  壁の薄さは気になるが、悲鳴さえ封じれば少しくらい乱暴に事を運んでも疑われないだろう。壁のキズ。散らばった本の潰れたカド。部屋の主は学業に行き詰ると物に当たるクセがあるようだ。  幸い、訪ねてくる友人もいない。キニルに滞在する間、毛布をかぶった若者は安全な提供者になってくれる。  とがめるようなドルクの視線を背中に感じながら、きしまないように階段を上る。せまい廊下をたどり、薄い扉を軽く叩いた。 「ジャマするなと言ってるだろ」  壁にぶつかる本。立ち上がり二歩で扉に手をかけ、開けると同時に彼は怒鳴った。 「お前らと付き合ってると、バカがうつるんだよ」  知り合いでは無いと気付いて、何やら謝罪を呟く口を手でふさいだ。足元の本の山を蹴り崩しながら壁に押し付けて首を噛む。後ろでドルクが扉を閉め、見張りを始める気配を感じた。  数口ばかり味わう間に呪縛をかける。  他者との比較から生まれる強い恐れと、根拠の無い自信と高揚感が混ざり合う、不安定な若い心。  あなたは優秀だと甘くささやき、たわめて丸めながら、手こずっていた幾つかの言葉と概念を刷り込む。  なかば物置棚と化している壁の寝台に寝かせて部屋を出たときには、気分は治っていた。無言のドルクに笑みかけ、階段の踊り場まで跳び降りてみせる。  暗い小路を戻りながら、若者の血がもたらした高揚感に温かく酔う。  だが、不意の脱力感に足が止まった。首筋の甘やかな疼痛。頭頂に弾ける多幸感。全身から精がほとばしるかのような果ての見えない快楽。寒さと死の予感に震えながら思い出した。  昔、ひとりの贄を父やネリィと共有した時に、近い感覚を味わった。  しもべにした人間を、別のヴァンパイアに奪われようとしている。 「どうかなさいましたか」 「しもべを、横取りされた」  急いで駆け戻る途中、不遜なほどに自信家で孤独だった若者の意識が永久に途切れた。  喪失感にしばらく立ち尽くした。  やがて怒りが胸に湧き上がってきた。  あまりに非道で礼儀知らずな同族を、引き裂いてやりたい衝動にかられる。  人とは違う気配が窓から中庭に飛び降り、こちらへゆっくりと近づいてくるのを感じた。  姿を現したのは巻き毛の男。暗赤色の上着のエリに指を滑らせながら、赤い唇に小ばかにしたような笑みを浮かべていた。 「北の果てからキニルまで、遠方はるばるご苦労さん。だが、ここはイナカ者には暮らしにくい街だ。でもって下町はオレの狩場だ。痛い目を見たくなかったら、とっとと帰りな」  転化する前から、シャルは夜に生きていた。父親はわからない。母親は薬酒と病気が頭にまわって死んだ。乳をくれたのは妹分の浮かれ女。亡くした娘の服を着せられたシャルは、客が来ると犬と一緒に追い出された。  酒場で残飯をもらうために客引きをした。ヒモのマネゴトや、サイコロのイカサマもした。義兄弟になってくれたゴロツキの手下をやってた時、サグレス司祭に出合って、侍童になった。  学は無くても、ケンカと強請《ゆす》りは得意だ。サグレス司祭を邪魔するヤツは、殴って脅して黙らせる。  捨て犬みたいなオレにだって恩返しはできる。  シャルが生きる目的を見つけた時、サグレス司祭は消えてしまった。庇護者を失ったシャルは、キニルの街に放り出された。  再会したのは、ひと月後。ヤケになってボコられた夜の路地。  サグレス様の口づけを受けて、シャルは吸血鬼になった。太陽にも真っ当な暮らしにも、未練はなかった。  シャルの闇の親、サグレス様が欲しがるのは、力を感じる学生。未来の司祭や聖女候補。今夜の捧げ者を物色していた時、銀髪のヨソ者を見つけた。  心話が通じない。  ニオイも違う。  サグレス様が転化させた吸血鬼じゃない。サグレス様の始祖、バックス様の血族でもない。  気配も消せないドシロウト。シャルの尾行にも気付かないマヌケ野郎。氷とぬかるみの森にはびこる山賊《バンデット》や、バカで大柄な浮かれ女と同じ、薄い色の髪と肌。  湖の向こう、ホワイトロックから出て来たイナカ者の分際で、オレよりイイ服を着てるなんて生意気だ。偉そうに背筋を伸ばして歩くのもカンに触る。  ここはオレのナワバリだ。  だから、一番ムカつく事をしてやった。 「なぜ、殺した」 「オレの言ったこと、わかんなかったか。悪い悪い、キニル育ちで早口なんだ。イナカ者にも分かるように、ゆっくり言ってやるよ」  後ろから腕を引っ張ってるヒゲのオッサンは、昼の寝所を守る生者の用心棒かな。 「その者はおそらくテンプルの……ここは、お引きください」  素直に言うこと聞いとけばケガしねぇのに、振り払ってやんの。バカだねぇ。 「この町はオレのナワバリだ。ここの学生はオレのものだ。お前はオレのものを盗った。奪い返して何が悪い?」  挑発したら突っ込んできやがった。軽く足を出したら、見事にすっ転んでくれた。  銀色の頭を踏みつけて、肩をヒザで押さえ込む。ドレープが出来るほど上等な布をたっぷり使ったマントも生意気だ。 「イナカ者にしちゃシャレたモン着てるじゃないか。どうせ似た背格好の金持ち殺して盗ったんだろう?」  悔しそうなツラを踏みにじる。キバが下唇に刺さって痛いはずだ。 「てめーの血は、どうだ? 腐れて飲めたモンじゃねえか」 (すみま……せん)  体の奥から声がした。心話にしては小さくてハッキリしない。そっか、さっき飲んだ血を介して送ってるのか。 (お金……さしあげます。それで……)  怯えた灰色の眼。こびをうる負け犬の目。 「最初っから、素直にはいつくばってワビ入れてりゃ良かったんだよ」  足をどけてやった。  一握り分の銀貨と金貨がつまった皮袋の重さに、シャルは満足した。 「なぁ、お前の闇の親も、ホワイトロック城の地下を抜けて来たんだろ? ったく、ひでぇ事するよなぁ」  白い顔に笑みが浮かんだ。愛想笑い……いや、違う。獲物をし止めたような、場違いな笑い方。  だから最後に、形のいい鼻を蹴り潰してやった。 「もういい、とっととうせろ」  すぐに治るだろうが、鼻血を垂らしながら通りを歩くヤサ男は見モノだ。日ごろ食い物にしてる人間に、笑いものにされる吸血鬼はユカイだ。 「それで、つけてったら……アイツ、孔雀亭《クジャクてい》に入っていったんですよ。生意気で小シャクで不釣り合いで分不相応です」  地下水道の奥、印刷所跡でシャルはまくしたてた。  昔、テンプルが秘密結社だった頃、使われていた地下の活動拠点。それがサグレスを頭と頂くシャル達の隠れ家だった。シャルたちが昼間眠る乾いた部屋は、吸血鬼を倒す武具を開発していた鍛冶場らしい。  ここで教宣ビラや読売りを印刷していた時に、手入れを受けて大勢殺されて逮捕されて、ここは放棄された。でも、今のシャルには関係ない。サグレス様の不機嫌こそが問題だ。 「お前が今宵の供物を持って来なんだ言い訳は、それで終わりか?」  サグレス様の言葉に、うつむいた。義務を果たした他の闇の子たちのあざけりが痛い。 「明日の夜は必ず」 「宵にしこたま飲んだのであれば、宴に参加する必要もなかろう。もう休め」  優越感に満ちた二十四の眼に追い立てられるように寝所へ向かう。 「金さえ払えば卑しき者も泊めるとは……格式を重んじる孔雀亭も落ちたものよな」  青ざめた娘を抱き寄せながら、つぶやくサグレス様の声には、どこか懐かしそうな響きがあった。生者だったころ、泊まられたのかもしれない。  そうだ今度、生意気なヤツの部屋に押しかけて、部屋付きの女中を噛んでやろう。宿の者にヤツが犯人だと言いつけよう。正体がバレたと、身のハメツだと、ビビって泣き出す白い顔が目に浮かんだ。 四 孔雀亭  なんで目を覚ましたんだろう。  ティアは燭台《しょくだい》を見つめた。ロウソクは三分の二の長さ。真夜中は過ぎてる。隣の主寝室や控え室に気配はない。あいつら、まだ街をほっつき歩いてんのか。  重いベッドカバーから静かに足を出す。緑の絹に金の縫い取り。本物のクジャクも嫌いだけど、この宿のしつらえや家具も、ハデで重々しくて気に入らない。寝室が扇子《せんす》みたいにつながる間取りはイカガワシイ。  ブーツを脱がず服のまま寝るのにも慣れた。肌着で寝ていられたのは、父親の元で過ごしていた子供の頃。油断のならない道中は服のまま休んだ。テンプルの寮では、すぐに動ける格好で浅く眠るよう仕込まれた。すぐ異常に対処できるように。  天蓋を支える黒い毒蛇の柱。立てかけたスタッフに手を伸ばす。握ると頭も体も澄みわたる。  この続き部屋専用の階段を上がって来る、かすかな気配はひとつ。マクラをベットに突っ込んでふくらみ作るのは間に合わない。  だったら、出会いがしらに一発ブチかます。  扉の横でスタッフを振り上げた。そのまま呼吸を整え、心を静め、空気と壁に同化する。 「起きてるよなぁ、ティーアー」  間の抜けた声がした。  あけると、モリス高司祭がニヤけてた。 「女の部屋に入ると誤解されちゃう時間だと思いますけどぉ」 「仕方ねぇだろ。この程度の宿、キニルに何軒あると思う? 一軒ずつ訪ねてオドして買収して……これでも早いぐらいだ」  勝手にイスに座ったモリスが、ブーツを脱ぎ足をもむ。  ニオイに思わず立ち上がった。ごまかしついでに一本だけだったロウソクの火を、他のロウソクやランプに移した。カーテンと鎧戸を開け、ガラス窓だけ閉めた。これで外からでも異常に気づくはず。 「実はなぁ、地下からバックスが逃げてな」  モルに連れてかれた地下で見た、白ヒゲの老吸血鬼。不治の病にかかって、治療薬を求めて旅立ったはずの元司教。目隠しされて、足首と法服の白い袖を、銀のナイフで貫かれ壁に縫いつけられてた。  タマゴを腹にかかえたまま標本にされた、太ったガに見えた。ここ数年間の吸血鬼騒動の元凶。モルの手柄と出世の種。  あれって“試し”だったのかな。あたしがモルの秘密を知っても騒がないかどうかの。  あの頃はアレフを倒すことしか考えてなかった。あんなジジイがどうなろうと、知ったこっちゃ無かった。 「森の大陸に落ちのびたのは、まだ薬草の事が頭にあったのかも知れねぇが」  不意にモリスが黙り込んだ。階段をあがってくるかすかな物音。気配を隠そうともしてない。 「危機感のねぇお坊ちゃん育ちを警護すんのは大変だよなぁ。お互い様だけどよ」 「あたしも一応、お嬢様なんですけどぉ」 「“育ち”だよ。お坊ちゃん生まれとは普通言わねぇ」  納得させられてしまった。  手招きされるまま、クジャク石のテーブル挟んでモリスの前に座る。 「でな、救出したのはバックスの弟子なんだが……そいつがキニルの地下で血族集団を作ってんだよ。あんたんトコのと面倒おこすと、色々となぁ」 「テンプルのお膝元でヴァンパイアが勢力争いはじめちゃ、メンボク丸つぶれだもんね。でも、あたしらが何でキニルまで来たか……ルーシャの報告書で知ってるよね」  口ひげがヒクついた。声を出さずに笑ってる。 「モルを森の大陸に派遣する。シリルで厄介事を起こしてるバックスの討伐な」  モルがテンプルを……始原の島を出る。だったら橋を渡りたくないとゴネてた二人も、文句言わないはず。  心が高ぶった。 「いつ出立するの」 「支度金ふんだくって夕方にゃ出ていっちまったよ。正式な辞令とか広報とかの手続きは、明日からなんだけどな」  モリスが肩をすくめて立ち上がる。  朝イチから旅立ちの準備を始めても丸一日の遅れ。海路、山越え、遠回りだけど平坦な陸路。森の大陸へ向かう道は一つじゃない。途中で追いつくのが理想だけど、港で待ち伏せって手もある。 「時々は手紙だして、生きてるかどうかくらい知らせろよな。オレは帰って浴場で足伸ばして、明日は一日中寝さしてもらう」  アクビと伸びを同時にしてるモリスの先回りをして、扉を開けた。  居間の暖炉に火が入り、シャンデリアのロウソクが灯ってた。 「計算が合わないんだが」  ひと繋がりの部屋から階段に通じる、たった一つの出口を、腕組みしたアレフがふさいでた。  青金石のタイルと、濃紺の家具をかざる金だか黄銅だかに映る灯火。手燭が見当たらない。火打石の音や火炎呪の詠唱を、モリスは聞いてない。呪なしに精霊術を使うってぇ報告はマジだったか。  そして……こいつが、ファラがいつくしんだ屍人形《しかばねにんぎょう》。  闇に映える銀髪。白い頬に生々しいバラ色。アニーを貪った後、街でも人を喰いやがったな。  暗緑色の腰紐にたばさんだ、銀の小刀に右手をかけた。 「オレが一等きらいなモノ教えてやろうか。血色のいいヴァンパイアだよ」 「私を見逃せという手紙を送ったのは、貴方の上司でしたね」  小賢しい。こっちが手を出せないと思って余裕かましてやがる。 「ああ、そうだよ。お前は世の中にはびこってる吸血鬼の親。最後の始祖だ。夜明け後の世界に残る闇のトゲ。悪の根源……ってコトになってるな」  不本意そうなムクレ顔。けど、怒りはしねえか。永く生き過ぎて感情が磨り減っちまってんのかな。 「お前を滅ぼした者は、三十年ばかり空位になってる大司教に祭り上げられる。明日の世界を手に入れる。俺は、そんな重荷なんざゴメンだからな」  ティアの肩を叩いて退かす。さて、部屋の境界に立ってたこの娘は、どっちを守ってるつもりだったのかな。俺かあいつか、両方か。 「だから滅ぼしたりゃしねえよ。けど、目や鼻をえぐられたくなかったら、今夜どこのどいつを襲ったか言え。施療院に収容する。それとも飲み尽くしたか? なら遺体を」 「……殺されました」  殺したではなく、殺された……か。もう、サグレス一派と接触したか。 「情けねぇなぁ。末端の吸血鬼から、てめえのしもべ一人守れないのか。始祖のくせに」  だが周囲に不穏な感触はない。つまらん意地やプライドの為に殺し合うより、折れて平穏を取ったか。ジジイらしい消極的な判断だ。 「無断で領界を侵したのは私の方です。位階の上下は関係ない」  なるほど、旧時代の太守はイタズラに騒乱を招くことを好まず、新入り相手でも秩序を重んじるか。 「彼を、焼くのですか」 「炎による浄化だ。転化する前に人として逝かせる」  嫌そうに呟いた共同宿舎と学生の名を記憶に留める。  メンターの言うとおり、一歩間違えば世界を滅ぼしかねない元司祭どもより、抑制が効いててカタキ役として使い勝手はいい。 「こちらが答えた以上、あなたにもひとつ答えていただきたい。彼らは氏族を形成していた。モルを本山から出すために、昨日今日、逃がしたとは思えない。彼らの始祖がシリルに居るとすれば、少なくとも」 「なるほど、計算が合わないか」  バックスが逃亡したのは、どう考えても一年ほど前。おそらくモルが東大陸討伐に出た直後。だが今日までメンターは隠し続けた。理由は宿めぐりしているうちに気付いた。 「お前かオヤジさんか……どっちでもいいから、モルかティアが滅ぼすのを待って、討伐隊を緊急に呼び戻すための口実だ。  広報して金を集めて、反対する連中を説得して無理を通してやった東大陸討伐だ。成果ナシじゃ格好つかないだろ」  さすがに顔がこわばったか。 「けど、最後の太守をモルに殺らせるワケにもいかない。血の呪縛と闇の専横がまかり通っていた昔と違って、こちとら上位の者の命令は絶対じゃない。討伐を中断させるにも、誰もが納得できる理由が要るんだよ」  問責されたら……だがな。  それと、明日から始まる読売と人形芝居による教宣用の筋書きにも、納得できる口実が要る。 「そうだ、ティアに血をやってチコとかいうガキの呪縛を解かせたろ。  お前が昨日の朝噛んだ、アニーの解呪用に血をくれたら、一つ大事なことを教えてやるよ」 「触媒は必要ない。始原の島を包む結界に阻まれて心話も通じない。体力と精神力が回復すれば、いずれ血の呪縛は解けます」  つまりアニー以外の犠牲者は呪いの根源が本山の地下にいて、呪縛し続けた後遺症が残っているって事か。あるいはバックス以外にも作られた始祖が、まだ地下にいるのかも知れない。  まあいいや。  拒絶するように握られている白い手に触れた。肌が接触すれば、心を読ませることが出来たはずだ。 (なぜティアがお前を滅ぼさないか分かるか。師匠に暗示をかけられてるからだ。お前を滅ぼしそうになったら発動する。そして一定の条件下で解けちまう。せいぜい気をつけるこった) (その条件は?)  へえ、通じるもんだねぇ。  白く冷たい手を離して、横をすり抜け扉を開ける。 「そいつは教えられねえ」  捨てゼリフを部屋に残して扉を閉め、暗い階段を駆け下りた。  碧く輝くクジャクの羽。ペンが文字を生み出すたびに揺れる目玉模様に視線が奪われる。確かにいい邪眼よけだ。宿泊費の受け取りを書く亭主の顔から、アレフは目を逸らした。 「選抜試験当日まで、当館をご利用いただけるものと思っておりましたのに、残念です」  孔雀亭は敵対する夜の氏族と、テンプルに知られている。落ち着いて昼を過ごせない。 「すみません。ゆうべ訪ねてきた伯父が、どうしても紹介した宿にしろと」  あの言いたい放題の司祭。貧相な外見に似合わぬ神経を逆なでする不遜な態度。せめて口実として使わせてもらおう。  インクが乾くのを待ちながら、紗布ごしに射す朝日に目を細める。亭主の表だけ丁重な態度も気に食わない。昨日は色の薄い髪と肌を見て、野良犬でも追うような手つきで追い出そうとした。  老練なポーターが上客だと耳打ちし、このサロンに通された後も、金貨を見せ一泊分を先払いすると言うまで、腕組みを解かなかった。今も、身をひさいで金と支援者を得たか、強請を常習とするならず者の同類と見下しているようだ。  亭主がにらむ通り、モリスは本当の伯父ではない。それに容姿でファラ様の気を引き、今の立場を得たのも真実。だが、やっかみ混じりの悪口も、四百年ばかり聞いていればさすがに慣れる。  それにしても、花街と笑い女達への蔑視はひどい。かつては洗練と典雅を極め、夜の貴婦人として憧れと尊敬を得ていたように思う。この程度の宿、よほど過激な衣装でない限り、門前払いなどされなかったはず。  “夜明け”後、不平等と贅沢は悪徳だと説く教会の元で、妓館は壊され花街は湖岸に押し込められ、卑しき事とされたらしい。街では他の職に就き難い、固定化されたヒトの白変種……白夜の民への風当たりも冷たくなっているようだ。  この街を形作る木材や、煮炊きにつかう薪は、彼らの白い手で切り出され、湖を渡って来たものだろうに。 「立たれる前に、クリームと砂糖をたっぷり入れた香茶はいかがですか? 茶葉はシリル産の一級品。紅い水色《すいしょく》が美しい」 「遠慮しておきます」  心にもないことを。朝食に向かう他の泊り客たちの、目配せとささやきに気付いてないとでも?  人を装うために座った遅い昼食の席で、露骨な咳払いと給仕への抗議に、部屋へ追い立てられたのは、つい昨日のことだ。食いっぱぐれたティアのために料理を運ばせ、余分な心づけを払うはめになった。それに部屋で食事を取る演技をしても意味が無い。結局、ドルクと二人で街に出てしまった。  乾いた領収書の金額を確認し、横のイスにかけていたマントに手を伸ばした。旅馬車を手に入れたドルクが、こちらへ戻ってくるのを感じる。市場で買い物をしているティアを拾ったら、どこかの宿で昼を過ごし、日が暮れる頃にはキニルを出る。  だが、これほどキニル滞在が短いとは思わなかった。  選抜試験までとは言わないが、ひと月くらいは滞在するつもりだった。昔から始元の島には招かれざるものを拒む強力な結界が巡らされている。仇がかつてのセントアイランド城に入ってしまっているなら、出てくるまで待つより手がない。  まさか昨日のうちに、この街から出ていたとは……  立ち上がった時、潜めた声と繰り返し向けられる視線に警戒を覚えた。数羽の孔雀が木に止まるタペストリー。その前に佇む二人組みの男。一人はメモをとり、もう一人が指をさしている。見張りだとすれば、まく方法を考えねばならない。  不審そうに見上げる亭主を意識しながら、目を閉じ読心の見えざる手を伸ばす。  すぐに、笑いがこぼれた。片方は酔狂な若者で、もう片方は仕立て屋。昨日の昼に見かけた、この黒衣がいたくお気に召したらしい。似た感じのを作れと無理難題を吹っかけたようだが……丈が合うなら交換してやりたいぐらいだ。  キニルでの滞在中に、旅装を新調する予定だった。着心地には全く不満は無い。ただ、あまりにも己に合いすぎる衣装は、隠しておきたい本性をさらけだす。  だから余計な注目と疑いを招く闇と血の色を脱ぎ捨て、灰色か茶の、少しヤボで目立たぬ旅装に改めるつもりだった。  クリムだったか。バフルを出るとか言っていた、あの仕立て屋。おそらく気付いていたはずだ。所領を捨て全てから逃れようとしていた私の弱さに。  己自身から逃れられる場所などないと、非難と警告が縫い目に込められた黒衣。  不本意だが、これからも付き合うことになりそうだ。 五 聖光  白い柱とアーチに支えられた透明な天井。モリスが見上げた青空は湯気でけぶっていた。百人が一度に入れそうな浅い円形の湯舟に身を浸し、古傷が残るふくらはぎを揉む。たぶん明日、痛みが来る。  広い湯殿は光と温かさで満ちている。壁と床を幾何学模様で埋めるタイルは永遠を幻視させる。地下深くから絶え間なく吹き出す温水とナツメヤシが、ここを楽園だと錯覚させる。  頬のかすり傷に手を当てた。孔雀亭の階段下にいたヒゲ野郎、本気で切りつけてきやがった。まったく、夜中に吸血鬼の棲み家なんぞ訪ねるもんじゃない。命がいくつあっても足りゃしない。  いや、ここホーリーテンプルも似たようなものか。地下には実験で作られた魔物。地上は民から膏血を搾り取る法服を着た化け物だらけ。最奥《さいおう》は深い闇に沈み手を伸ばしても届かない。  数千年の昔から変わらぬ白さを保つこの建物も謎だらけだ。  軽くて割れない天井の素材は不明。石に見えるが継ぎ目のない柱の素性も分からない。ヒビがなく水垢のつかない湯船の作り方もよくわからない。  ホーリーテンプルに来たばかりの無知な学生どもは、ここを女王の湯浴み所だと騒ぎ、偉くなった気分でふんぞり返る。モリスもそうだった。カン違いを正してくれたのはメンターだ。 「確かにここは、闇の女王のために作られた大切な施設だよ。だけどヴァンパイアは水が苦手だ。汗をかくことはないし垢も出ない。風呂には入らない。では誰のための浴場だと思う」  答えが分かった時、あいつの謎かけに潜む底意地の悪さを思い知った。  ここはファラに血を吸われる人間が最後に身を清めるための浴場。死に怯える若者や我が身を哀れんですすり泣く娘が、悲壮な覚悟もって未来を諦めた場所。はたして何万人いや何十万人が、この湯船で最後の安らぎを見出し、闇に飲まれていったか。  それを考えるようになってから、広い湯船に浸かるたび、モリスは台所で大量に洗われているイモの気分を味わうようになった。まったく余計なことをしてくれる。  闇の女王は数年に一度は吸血鬼どもを集めて、会合と称する宴を主催していた。風呂場が広いのはそれだけ大勢の人間が一度に召し上げられた日もあったという事か。  アレフも宴に招待されていたはず。ここで体を清めた人間で喉をうるおしていたわけだ。無性に腹が立ってきた。あの白い顔をアザだらけにしてやりたい。  手にすくった湯を顔に叩きつけ、モリスは冷浴槽に向かった。水風呂で体と心を引き締め、乱暴に体を拭く。法服にソデを通し、しめった髪とヒゲを風になぶらせながら、寮と宿坊の間を早足で抜ける。  どうせここらも昔は、生贄や下僕が使っていたんだろう。  七聖の像が見守る工房は新しく建てられたものだが、図書館は蔵書も含めて昔のまま。授業が行われている講義室も古い建物だ。昔は行政に使われていたのか、客室だったのかは分からないが。  かすかに歌が聞こえてきた。そろそろ太陽の南中時間。夜明け前は宴のための広間だったという壮麗な礼拝堂では、一般向けの講話が行われている頃。  聖堂を覗くと、美声と黒ヒゲが自慢のレオニード高司祭が、壇上で開祖モルの栄光を語っていた。見習いの少年や聖女候補の合唱に乗せ、抑揚をつけ感情を込めて語る偉業に、うっとりと聞きほれているのは繁殖期の雄鳥のように着飾った金持ちども。 「苦難の中にこそ光ありて、失いし二つのかいなは七人の使徒に生まれ変わりぬ。  闇の濃き時はすなわち夜明けの兆しにて、立ち上がりし御足の元より暁の光は生まれ、やがて世を照らす太陽の力強き輝きと変われり。  そは心の中の太陽、光の子たる我ら人の本性であり知恵の本質なり。  闇を討ち払い全ての人に夜明けの福音を告げる御言葉は光そのものなり。  命の盗人にすぎぬ魔物を畏れるは蒙昧の闇ゆえの事。  明けない夜はなく、人の造りしものは人の手により討ち破られん」  天上から差し込む数十条の光を、壁に埋め込まれた半貴石が虹の輝きに変えて反射し、壇上に立つ者の背後に光輪を生む。白い法服が眩しいほどの輝きを帯びる。高まる歌声に包まれてレオニードはますます尊大に胸をそらす。  陽光を巧みに取り入れる構造は夜に生きる魔物が作ったものとはとても思えない。それとも連中は月光の元でも同じ光彩が見られる目を持っていたのだろうか。  見物を終えたモリスは副司教長室へ向かった。途中、最上階を占めるマルラウ司教長室を見上げる。  マルラウもモリスと同期だった。高司祭だった頃から、メンターとマルラウはモル大司教の後継者争いをやっていた。人望も能力もマルラウよりメンターの方が上だった。  だが、大司教の遺言でマルラウが司教長となりメンターは副司祭長に納まった。おかげで、テンプルはふたつの派閥が合い争う、なんとも居心地の悪い場所になった。世界に夜明けをもたらし英雄と呼ばれた偉人も、死ぬ前はモウロクしてたって事か。  高位の職は基本的に終身だ。マルラウが死ぬまでメンターは司教長にはなれない。二人は同い年だ。同時に老いる。  そして今、マルラウは若いモル司祭の言いなりになっている。もう誰もマルラウ派や司教長派とは言わない。連中はモル派だ。そう呼ばれるようになってから、全てがメンターの不利に回り始めた。  どうも森の大陸から来た金髪の司祭は得体が知れない。白い肌色への偏見でガキの時から苦労して屈折しているせいかと思っていたが、昨日、それは違うと感じた。外見や年齢はヤツの一部ですらない気がする。  近しい印象を覚えたのは、昨夜の吸血鬼。いや、あいつは外見や年齢を意識してないだけで分かり易いか。一点だけ疑問は覚えているが、それ以外は底の浅い苦労知らずで素直なガキに見えた。  疑問も、報告がてらメンターに聞けば解けてしまいそうな気がする。  階段を登り終えたところで息を整え、モリスはメンターの執務室に向かった。  モリスが招き入れられた副司教長室の控えの間には、甘く香ばしい匂いが充満していた。 「大変だな。食ってる間も仕事してるような師匠に仕えるのは」  一口大に切ったチーズや塩ゆで肉を、炙った薄焼きパンの欠片にのせ、短い串で刺すという手間のかかる作業に忙殺されている少年をねぎらう。ついでに、蜜の入ったリンゴを一切れつまんだ。  抗議したそうなミュールの口に、リンゴのカケラを押し込んでから、樫の扉をノックする。 「お入りミュール。もう昼食の時間かな」 「残念ながら、昼メシはまだ準備中」  一度は上げた視線を、メンターはすぐに書類に戻した。 「明け方、お前が詰め所の騎士達に運ばせた死体。エブランの末息子だったよ」  寝床からずりおちた状態で、喉を食い破られていた若者。至福の笑みを浮かべたまま硬直した顔が浮かんできて、ため息を誘う。 「売りゃあ当分遊んで暮らせるぐらい本が散らばってたから、イイとこのガキだとは思ってたが。ウルサイご親戚さんのご子息とはご愁傷さま……で、焼きましたか」  書類を置いたメンターが眉間をもみほぐす。 「布に包んで荷馬車に乗せて橋にさしかかったところで……急にもがきだして灰になったそうだ」 「人として送りたかったが、転化してたか」  サグレスの腐れ野郎、際限なく吸血鬼を増やしてどうする。 「また嘆願書が来る。東大陸を再討伐をしろと」 「居ないモノをどうやって……」 「寄付金もついてくるだろうがね」  若い命を悲劇で飾って金に換えるテンプルも、若い命を貪って老人が我が世の春を歌うという点で、吸血鬼どもと大差ない気がしてきた。 「ティアは元気だったかね」 「それはもう。モルがシリルへ向かったと言ったとたん、目ぇ輝かせてました。それと、ダイアナが言うとおり噛まれてなかった」  優しくゆるむ目元に、少しほっとした。弟子への思いやりが芝居でないなら、この腹黒い昔馴染みに命預ける価値はある。 「確かかね」 「俺には背を向けても、ヤツには背を向けなかったし」 「居たのか……よく無事で」 「サグレスの弟子とやりあったらしく夜明け前に」軽く傷に触れた「獲物を横取りされて、尻尾巻いて逃げ戻ってきやがった」 「別の血族に噛まれた場合、支配関係や絆がどうなるか、いい検証材料になったと考えると、今朝の灰化は惜しいな」 「ダイアナも回復すれば呪縛が解けちまうらしい。始原の島には心話も通じないと」 「では、彼女に催眠をかけての動向の監視も無理か」 「そんなこと、企んでたんかい」 「それに血の絆による選抜試験の不正も無理のようだね」  これは、冗談として笑うべきかな。  ノックの音がして、ミュールが盆を机に置いて一礼して出ていった。片手で摘める昼食は、楽そうだが気ぜわしい。 「読みながら飯食うと胃が痛くならねぇか」 「夕方からは、森の大陸への進発式。それまでに判断するべきものが、この厚さだ」 「華やかな式典は司教長《おかざり》でいいだろ」 「モルが立ってから、杯《さかずき》片手に煙管《キセル》くわえて、寝室で聖女見習い相手に個人教授。出てきやしない」 「昨日の今日でか。ひどくなってねぇか」 「あと暫らくの事だ。大目に見てやってくれ」  まるで犠牲の王だ。一年後に殺される代わりに、好き勝手を許された者。モルが完全な夜明けをもたらした時、おそらくマルラウは死ぬのだろう。表向きは病死か事故死か。 「ところで、ティアが噛まれないうちに、連れ戻さなくていいんか」 「……モリスはティアと深い仲になりたいと思うかね?」 「遠慮するかな。接吻ひとつで財産全部もってかれそうだ」  黙っていれば愛らしい唇だ。しかし、つむぐ言葉は毒を含み、舌や唇を噛み千切られそうなキケンを感じる。 「体で結ばれた絆より、血の絆は深くて恐ろしかろうよ。心と心を結んだら最後、財産どころか正気をもっていかれる」 「弱み見せたくないがために厳格な禁欲生活つづけてるお方が、聞いた風なことをおっしゃいますねぇ」 「ティアは炎だよ。見ている分には熱く美しく魅惑的だが、じかに触れれば身を焼き滅ぼす」  触んなくても、十分まわりはヤケドしている。だが、メンターにとっては、あの程度の裏切りは、ちょいと熱い程度らしい。 六 祭り事  大勢の人が集まっている重い気配。嵐が近づいて来るような、心かき乱すざわめき。陽光を締め出した寝室で、夢からうつつへと意識が浮かび上がっていく。  覚醒するまでの短い間に、アレフは遠い過去を垣間見ていた。  街を彩る花と布。ひとでを見越して並ぶ串焼きの屋台。ふるまい酒に酔う人々。鼓手と楽師が繰り返す音曲に合わせて、夜中まで踊る男女の群れ。  キニルの事務所へ回させた小ぶりな貸し馬車。花街の宿へ向かった折に黒い紗布ごしに眺めていた光景。ムチと手綱をふるうドルクの背中が闇に溶けている。灯火では照らしきれない暗い夜。生身だった頃の最後の記憶。 「まったく連中の気が知れない。ヘビの誕生を祝って歌うカエルなんて滑稽。新しいネコに乾杯するネズミがいたら大笑い」  赤い髪に緑の耳飾り。眼の色に合わせたルリ色の衣を、しどけなくまとった女が窓辺で笑う。身を明かさぬ偽名の客を、からかう視線。  祝われている当人だとは知らなくとも、橋の向こう側に属する者だと、知った上での戯れごと。  転化して初めてファラ様に与えられたのが、赤毛の娘だったのは、偶然ではないだろう。最後の夜の事を読み取って、好みに合う者を手配した。他意はないはず。  苦界に身を沈めた姉を、血の対価で救おうとした娘。加減できず命まで奪ってしまった初めての贄。ネイラの妹とは限らない。単なる偶然にすぎない。似た境遇にいる娘が幾人この街にいるか。  意図せず赤毛の姉妹に招いたかもしれない悲劇。血の対価に上乗せした命の対価は、ファラ様のしもべの手で届けられ、当時も確かめる術は無かった。  真実は時の彼方にまぎれた。身内を奪われた者の嘆きが、恐れと共に幻聴となって心にこだまする。  思い出すことも厭《いと》っていた後悔。鮮やかに蘇るのはかつての花街に近い宿にいるせいか。それとも向き合う強さを得られた証だろうか。  単に繰り返してきた罪に慣れ、時の中で恐れる気持ちが薄れてしまっただけだろうか。  天井から下がるビロードの布を振るわせる歓声は、ファラ様を讃えるものではない。ウェゲナー家を祝福するものでもない。  繰り返される名は『モル・ヴォイド・アルシャー』。とうに街を出て東に向かった討伐隊を指揮する、英雄の名を人々は叫んでいる。 「お目覚めですか」  寝台から下りた背中に、ドルクが上着を着せ掛ける。鼻をつくインクの匂いとともに紙質の悪いチラシが差し出された。  耳ざわりのよい形容詞を連ねながら、森の大陸での悲劇とモル司祭の勝利を決め付ける読売り。スミに小さく書かれた寄付金という名の新たな税の導入がサギに見える。 「紙質もひどいですが、内容もひどいものです。昔はもう少し骨のある、小癪《こしゃく》な読み物でしたが」 「……かつての我々も、同じくらい思い上がっていたのかも知れないな。周囲から聞こえるのは、おもねった美辞麗句ばかりだった」  苦笑しながらルナリングをはめ、陽光をやわらげる結界をめぐらせる。マントを羽織ったとき、あわただしく階段を駆け上がる足音とともに、ノックもなしに扉が開いた。 「ね、ちょうど下を通ってるの。窓開けていい?」  返事を待たずにティアがカーテンを払い、窓を上げ、鎧戸を押し開く。差し込む夕日に、かりそめの夜が吹き払われた。  窓から身を乗り出す蜜色の髪のかたわらに立つために、フードを目深に下ろす。  下の大通りを人が埋めていた。  見渡す限り沿道に集まり背伸びする頭。振りまかれる花びらと紙片。白馬に乗った先触れの騎士に続く、銀ヨロイの剣士の列。太鼓とラッパからなる楽団。  その後ろに、タテガミと尾を紐で飾りたてた白馬に乗って手を振る、灰色の法服たちと拳士の一群。中央の金髪の若者に向かって人々は手を振り、武運を祈っているが……カツラか。 「やっぱニセモノか。本物だったらここから突風のひとつもブチかましてやったのに」 「人ごみのただなかで攻撃呪を使うつもりか?」  目にゴミが入る程度で済めばいいが、無秩序な混乱が起きれば、見物人に肩車されている幼児や、足元のおぼつかない老人が、大勢に踏まれて死ぬかもしれない。  これから本物のモルを追う事になるが、出来ればひとけのない、街道で追いつきたいと密かに願った。宿を襲撃するような事態になれば、死人が何人出るかわからない。  それにしても、なんと膨大な人の数と歓呼の声か。  祝福や呪詛の声ひとつなく、バフルに迎え入れられた己との違いに目まいを覚える。都市の規模が違いすぎるとはいえ、うごめく頭のじゅうたんに、酔いそうになった。 「かつては、こうして見る側ではなく、見られる側だったのでございましょう?」  ドルクのことばに、ティアが照れたようにうなづく。 「ハデなのは次の宿場町まで。あとはガックリするほど質素な旅だった」 「みな、若いな」 「テンプルは独身が条件だから。タテマエでは子供が出来たり結婚したら籍を離れることになってる。今でもね。  そりゃ地方の教育官は所帯持ちもいるけど、ホーリーテンプルに入るときは係累を全て切るって誓約書を書かされた」 「不自然な禁欲は、身の毒だろうに」 「……あんたがそれを言うかな。昔は吸血鬼を滅ぼそうとする者は、家族もろとも死罪でしょ。幼子も例外なし。だから恋も結婚も基本は禁止。今となっちゃタテマエ以外の何ものでもないけどさ」  昨夜、灯火の元で教本を読んでいた若者たちを見たときに覚えた哀しさを、再び感じた。  不意に、彼らを哀れんでいたわけではないと気付いた。全てを賭けて私の滅び願う者に囲まれている事実が哀しかった。あれは投影した自己憐憫。  世界に拒まれている孤独感を埋めるために、彼らのうち一人を篭絡し、絆を結んで安心を得たかったのか。実に的外れな欲望。無意味さに笑いがこみあげる。  そのために死んだ……いや滅びてしまった若者こそが、真に哀れな存在だ。  転化させておきながら、渇いて目覚める子のための贄を用意せず、日暮れ前に陽光さしこむ部屋に放置して立ち去った、シャルとかいった吸血鬼に対して、改めて怒りがこみ上げてきた。  ひとりの血を共有したことによって、腹立たしい事に、わずかな絆がまだ感じられる。地上の賑わいをまどろみの中で聞いている、あの者の寝所は暗い下水の一角。古い教会の、廃棄されレンガで塞がれた抜け道の奥。かつての事務所の向かい隣。  破滅まで望みはしないが、投げ文で潜む街区を示すくらいは、かまわないだろう。巡回が強化されれば、多少は慎み深くなるかも知れない。  もっとも、彼らもテンプルの思惑で動かされる駒だとしたら……私同様、居場所も動向もおおよそだが知られているはず。今、読売りのウラに書こうとしている、筆跡をいつわった密告文は、余計なお世話か。  進発したモルの身代わりを見送り、太鼓とラッパが遠ざかるにつれて熱と興味を失い、日常へと散っていく人々。  見ているうちに、怒りも哀しみも平らかになっていく。  結局、書き上げた文は、わずかな銅貨を握らせた子供に託して、車中に身を置いた。  詰め所に届けられたとしても、ゴミ同然の紙に書かれた無記名の手紙など、無視されるのがオチ。  届けず捨てられてもかまわない。偶然の連なりが、運命だ。 「私といるのが嫌なら、下りてもいいんですよ」  皮肉混じりの高めの声。駅馬車の窓から、西の地平を見ていたラットルは、慌てて首をひっこめた。共に行くと決めた若者に愛想笑いをしてみせる。  東大陸の時の様に、一人で残るのは避けたい。  灰色の布を巻いた麦わら色の髪と眉。その下のあまり動かない茶色の眼をみると、なぜか全てを見透かされている気がして落ち着かない。相手は六つも年下。鼻にソバカスがうっすら残る、二十代の若造のはずなのに。 「今頃キニルじゃ、私らの身代わりが進発式に」  眼を閉じれば一年前の熱狂が、心地よさと共に蘇る。  広場と大通りを埋める数え切れない人の顔。空気を振るわせる大歓声と拍手。この世界の全てを見下ろしているかのような興奮と、面映い高揚感。  この若者といれば、何度も味わえると思ったが……。 「ラットルはあんなものに興味があるのですか。メンターが金集めのために催すバカ騒ぎなんて、わずらわしいだけでしょう」 「でも、次の司教長が誰なのか、万民に知らしめるのは大事なことだと思いますし」  お世辞のつもりだったが、答えたのは詰まらなそうなため息だった。 「司教長に大司教。役職なんてしょせん道具です。私が成そうとする事の助けにならないなら意味が無い。テンプルは金と知識と力を集めて私に提供してくれれば、それでいい」  ご高説ごもっともと神妙にうなづいてはみるが、出世に興味がないとも聞こえる発言の真意は理解出来ない。 「まったく、森の大陸にゆかせたいなら、そう速文に書けば済む話です。バフルから船を出させれば、シリルまではたったの二ヶ月。わざわざ本山まで呼び寄せてからとは……副司教長の底意地の悪さは、害ばかりで益がない」  不意の帰還命令。ついに司教長が暗殺でもされたかと、ラットルは勘ぐった。だからクインポートに自分が残るといってまで、モルの帰還をうながした。メンターに全てを掌握されたら、モルについたラットルは野垂れ死にだ。 「まぁ、そんなコトより、もう一度聞かせてくださいよ。クインポートでのあなたの武勇伝を」  地下の研究室に閉じこもっていたモルにやっと再会できたのは馬車溜まり。出発しかけた馬車の前に立ちふさがり、強引に乗り込んでから、この話をするのは三度目だ。 「あなたが選ばせた町長に助言しながら、私は東大陸の混乱を抑えて、人々を光へと導いてたんですよ。例の呪われた聖女見習いを炎で浄化しようとしたら、とつぜん風が吹いて黒い雲から激しい雨が」  うなづいているモルの目元が、笑っている気がする。 「私にはすぐに分かりましたよ。あの街を腐らせていた元凶。代理人などという過去の遺物で人々を縛り付けていた吸血鬼のしわざだと。 即座にホーリーシンボルの詠唱に入りました。坂を降りてくる銀髪黒衣の魔物にケンコンイッテキの光の呪法。ヒザをつかせてやりましたとも」  激しい身振りを交えて語るあまり、馬車の揺れですこし舌を噛んでしまった。 「ですが私ひとりでは……獣人などに恐れをなして逃げた剣士が、もう少しホネのあるヤツだったら、決して遅れはとらなかったものを。むざむざ、罪人を奪われるコトもありませんだした。まったく、あの役立たずの鈍《なまく》らめが」  私が悪いんじゃない。町の自警団からきた、あの剣士が腰抜けだっただけだ。 「もちろん、日のあるうちに墓所を暴こうとしましたよ。でも私の法力に恐れをなしたのか、日が沈む前に馬車で街から逃亡してしまいました。それも私の目の前を。あの手癖の悪い聖女見習いが、私のスタッフをかすめとっていきまして」  首を振り、悔しそうにため息をついてみせる。 「私ひとりなら追撃するのもやぶさかではなかったんですが……魔物が無事という事は、カウルの城に向かった新入り三人は任務に失敗したということ。彼らの身を案じたら、もう気が気ではなくなりました」  先ほどの失点をゴマかすためにも、ここは少し大げさにしよう。 「急いで山城に向かい、仕掛けだらけの地下通路を抜け、見張りを出し抜き、苦労のすえ牢獄からあの三人を救出したというわけです」  本当は貸し馬車でクインポートに送り届けられてきたのだが、そんな事、今となってはどうでもいい。 「残念なことに、三人の首筋にはキバの痕が。誰かが付き添わねば旅などとても出来ない状態でして。それに早く呪われた地を出なければ、呪縛はますます酷くなり、このままでは転化しかねないと。それで仕方なくキングポートまで私が付き添うことに。決して、約束を忘れたわけでは」  なぜ、モルは笑みを浮かべる? 東大陸討伐からの新しい部下の中でも、少し無能な部類だった三人。だが、任務に失敗し、敵に捕らわれて生き血を啜られたと聞けば、怒るか悲しむものだろう。 「ラットルが全力で頑張ったコトは、わかっています。ところで、ずっと二番手だった者が、急に一番になったら……どんな気分なんだろうね」 「それは、メンター副司教長のことですか」 「心地いいのか、不安で押しつぶされそうなのか」 「そりゃあ、気分いいでしょう。今まで司教長に遠慮して出来なかった事が、思い通りになるんだから」 「じゃあ、一年ばかりそっとしておくのも悪くはありませんね。地下で七年過ごしたセミは、羽化して十日間、自由に飛んで歌って恋をする……今度は少しゆっくりいきますか」  これは、森の大陸での吸血鬼騒動を解決したら、いよいよメンターを排除し、マルラウを始末して、頂点に立つという意味だろうか。いくらなんでも三十そこそこでテンプルの最高位とは早過ぎないだろうか。開祖モルや英雄モルならいざ知らず。  だが、本当にそうなれば、ラットルも司教位につき、猊下と呼ばれる日が来るかもしれない。 「御身に仇《あだ》なす者を、せっかく私が始末しておいてやろうとしたのに、わざわざ助けるとは。まったく物好きな」 「は?」  楽しい妄想をさえぎった、独り言の意味を問い返したかったが、薄く笑ったまま目を閉じたモルは、なぜか石の彫像めいて、ラットルは話しかけるのを断念した。  ▽ 第十二章 無法者の正義 △ 一 スレイ  ガラス職人の吹き方が悪いのか、材料の質がマズいのか。泡粒とムラでひずんだ景色を見ながら、スレイは登録書を埋める過去を考えていた。暑い仕事場はガキの時にこりた。ガラス工房の徒弟だった事は書かないでおこう。  キニルに数ある奉公人の紹介所の中で、ここは下のほう。できれば給金以外にもお仕着せや小遣いをくれるお大尽の屋敷に奉公したい。けど、手クセの悪さを理由に解雇された身だ。紹介料の高い紹介所には、似顔絵つきの注意書きが回っているかもしれない。  チョッキのポケットには銅貨が三枚。今夜の寝床もない。こうなったら、コキ使われるだけで給金も遅れがちな中堅どころの商家や、夜中叩き起こされたり、遺体の清拭なんかもさせられる治療師の助手でもかまわない。明日の食事と寝床があればいい。嫌ンなったら、また金目の物を失敬して逃げりゃいい。  念のため、今度は祖母のシナン姓を名乗ろう。歳は、さて、いくつだったかな。二十六でいいか。男で独り身。従僕の経験あり。特技はシャツの火ノシかけにしよう。  宿屋にも奉公してたから、料理人の経験ありはウソじゃない。賭場の用心棒時代に学んだケンカも武術には違いない。馬丁の経験もあり……朝の早さにネを上げて三日で逃げたがな。  よし、これで使用人を一人か二人しか雇えない、カツカツの商人や、引退した騎士や拳士あたりからお呼びがかかるはずだ。  人生を切り貼りして作った豊かな職歴を、ガラス越しのぬるい日差しにかざそうとした時、不意に店が暗くなった。  紹介所の前に止まった大きな黒塗りの四輪馬車。紋の無い貸し馬車だが、一日借りるだけで金貨何枚かかるか……上客だ。  御車台から下りてきた男に目を凝らす。歩き方。入ってきた時のほがらかな声。キニル生まれとは違う言葉の響き。整ったヒゲ。イヤミのない笑顔。スキがない。何より上等のお仕着せ。かなり気前のいい主に仕えているようだ。  カウンターでベスタまで同行してもらう召使がひとり要ると話す男の前に、書きあがったばかりの登録書を置いた。 「スレイと申します。キニルから離れるのは初めてですが、馬の扱いには長けてます。野遊びやカモ狩りに同行したことがありますので、野外での料理もお任せください」  読み始めた男の視線を見守る。職歴をながめた後、小声で年齢を読み上げるのが聞こえた。まずい。調子に乗って書きすぎた。期間が短い理由を聞かれたら何とウソをつこう。六っつの時から奉公に出てた……うん、これでいこう。 「体は丈夫ですか? 持病とかは。急ぎの旅ですし、山道を行くつもりなので。頑健な方でないと勤まらないかと」 「ええ、それはもう。この通り」  拳術の型のマネゴトは、カウンターの向こうのババアの咳払いにジャマされた。 「ウチの店先で勝手に話を進めんどくれ。まだ登録料も紹介料も払ってないよ。それに若い女中が欲しいと言ったろ?」 「考えてみたら、危険な道中になるかも知れませんし、男の従僕が良いという気がしてきました。取次ぎの手数料は、この……スレイさんの分も当方でもちます。何より時間が惜しいので」  数枚の銀貨が積まれ、カウンターの向こうに消えた。代わりに雇い主との間で取り交わす、契約書が二枚さしだされた。 「基本的な条件は刷ってあるよ。給金や休暇やこまごました事は、そっちで話し合っとくれ」  お仕着せは急ぐので誂えではなく古着。寝床が馬車の座席。食事は日に三度だが、山越えの際は、乾パンと干し肉スープと干しブドウ。だが給金が並みより上ならかまわない。  それに港町ってヤツにも興味がある。塩辛い水に浮かぶ大きな船を一度見てみるのも悪くない。  署名して契約書を交換して店を出た。 「服は後でもいいんですが、道中の安全のために得物を買ってもらえませんかねぇ」 「ご心配なく。わたくしにも心得はありますし、護衛役はすでに居ますから」  開いた馬車の扉の向こうには、値踏みするような視線をむける若い聖女が座っていた。 「お仕えするのは、こちらのお嬢様で?」 「いえ、彼女が護衛です」  よく見れば傷だらけのスタッフは飾りではなさそうだ。テンプルの戦士や拳士が、たまに隊商の護衛をするという話は聞くが、彼女もそうなのだろうか。 「テンプル仕込みの治療師さんが一緒なら、心強い道中になりますね」  さて、仕えるべき主は若い男か。フードからこぼれた銀色の髪と白く細いアゴ。なるほど、ベスタの商人がキニルで囲った女に産ませた子か。急ぐというのは父親か本妻の子に何かあって、跡継ぎに担ぎ出されたといったあたりかな。 「はじめまして、スレイ・シナンと申します。誠心誠意、お仕えする所存でございます」 「よろしく、スレイ」  酷薄な感じはしない。スネてる感じもない。少しおっとりした育ちの良さそうな声。うまく取り入れば金品を無心できそうな気がした。  示された席は主の横。恐縮しながら座ってほどなく、馬車が動き出した。ふと、荷物の有無や今の住居の事を聞かれなかったのに不信を感じたが、揺られているうちにどうでもよくなってきた。  元々、前の奉公先から叩き出された時に、家財も着替えも失った。不名誉な理由で職と住まいを変わるうち、紹介者も親戚も愛想をつかしていった。最近は住まいも奉公先も告げてない。  いい機会かもしれない。遠いベスタで、家人からの冷たい視線や陰口にさらされ、孤独に悩む若様に取り入って、おいしい思いをするのも悪くない。  馬車はいくつかの店によって、いくつもの荷を受け取った。肩にかついで待つ手に渡し、全てが屋根と後部の立ち台に固定されたあと、街道を東へと……夜がせまる方へと、馬車は走り出した。 二 月翼山脈 「しばらくは晴れそうだ」  頭上に迫るガケに区切られた澄んだ空。編隊を組んで南下する白い鳥の群れを見上げながら、アレフは安堵《あんど》の笑みをもらした。  振り向けば、高地特有の小さな花を避けて、スレイが石を並べて炉を組んでいた。その横で、ドルクはナベに満たした水に押し麦を放り込み、干し肉をナイフで削り入れている。焚きつけにする木の皮を裂きながら、ティアが干し肉を一本くすねようと手を伸ばす。  刻々と変わりゆく夕昏の光と、バラ色と紫に染まった山嶺。最高の絶景に、誰も目を向けない。  地平に山が見え始めた頃は、彼らも興奮していた。昼ひなかに窓を開け、身を乗り出して行く手を眺めるなどという暴挙をしでかしてくれたが……もう、飽きたらしい。  それとも、高山ゆえの息苦しさと頭痛と動悸《どうき》に悩まされるあまり、山そのものを厭《いと》わしいと感じるようになったのか。  キニルからベスタ港経由で森の大陸に向かうには、中央大陸の南岸に横たわる偉大なる月翼山脈がジャマになる。溶けない氷雪と切り立った絶壁。命あるものを寄せつけない白き峰。  回避する方法は三通り。  一つは山脈の西端にあって、豊富な地下資源で栄えるウェンズミートまで南下し、沿岸を船でたどる海路。  二つめは山脈の東端にある湿地帯と森を抜けて迂回する、平坦な陸路。  三つ目が、雪を被った翼の合わせ目。南と東から中央大陸へぶつかり沈み込む海底が、押し上げヘシ折って生み出した月翼山脈の裂け目、鳥越えの谷に刻まれたけわしい道。  鳥越えの谷は、古くからある交易路だが、道幅が狭く植物も生えがたい気候。グラスロードは敷かれなかった。  それでも、ここは白き山脈に抱かれ海に開かれた港湾都市ベスタに直に通じる最短の道。  ただし、天候が穏やかならば。  吹雪で半月も足止めされれば、海路や迂回路を選ばなかった事を後悔するだろう。夏に凍死する旅人もめずらしくないと聞いた。薄い空気が平地の者には辛いようだ。  はたと気付いた。 「フタに石を置いたほうがいい。干し肉はまだしも、生煮えの押し麦は困るだろう」  指先から飛ばした火を、風精に育てさせているティアは顔を上げない。反応したのは組み立て式の食卓にスズの器を並べていたスレイだった。 「そりゃあ、何のマジナイです?」 「風邪気味の上に腹を壊されては……その、困る」 「はいはい……ご主人様は太った男がお好みと」  従僕が太っていないとベスタでは体面に関わる。最初に告げたいい加減なウソを本気にしてはいないが、真意にも気付いてない。  いや、いくらか不審は覚えているのだろうが、横に座るたびに魅了の呪をかけてきた。なにやらカン違いしている気もするが、そろそろ命綱の役を果たしてもらおうか。  最後の村は眼下に遠く、次の山荘は遥か上。呪縛しそこねて逃しても、ひと目に触れる前に連れ戻せる。  低い温度で沸きはじめたナベに石を置きながら、ドルクが哀しげな目を向けてくる。  あれは、ふもとの町で山越えの無事を祈って、杯をぶつけあった夜だったか。  好意と信頼を寄せられ、あす飢える心配なく眠りに落ちる日々を過ごすうち、スレイが変わり始めているとドルクが言っていた。信用ならないと思っていた臨時雇いの従僕の心に、自然な仲間意識や忠誠心が芽生えていると。  だが、噛んでしまえば心は縛られ、細やかな感情の機微は霧消してしまう。血の絆による妄信と奉仕が全てに置き換わる。 (仕方ないだろう!)  心話を叩きつけて車内に引きこもる。出立時にキニルで噛んだ商人の血も、ウェンズミートに向かわせた旅芸人の血も、とおに乾いてしまった。高地に点在する宿場町では借り上げ馬車は注目を浴び、“密猟”もままならなかった。代用品では渇きをなだめきれない。  馬に与える飼葉を馬車の屋根に積むように。リンゴと水の樽を後ろの立ち台に載せたように。身寄りのない奉公人を積んできた。  天候が崩れれば……いや、たとえ晴れ間が続いても、高地をゆく過酷な旅を無事に終えるには、スレイが必要だ。貧血で動けなくなったら、山荘に置き去ると雇う前から決めていた。 「はい、晩メシ」  器に入った麦ガユを手に、ティアが車中に乗り込んできた。 「せっかくの景色なのに。そんなに使用人と一緒に食うのがイヤなんですかねえ」 「私らが、緊張しないようにというご配慮ですよ」  聞かせる気はないのだろうが、周囲が静かすぎて、ささやき声が締め切った車内に入り込んでくる。 (今夜、噛むの?)  持ってきたカユを自分でかき込みながらティアが視線を向ける。 (呪縛のためにひと口だけだ) 「難所を越えるまでガマンできない? 失敗したら、逆らえなくなるまで(血を吸って)弱らせるんでしょ。それじゃ足手まといになっちゃう」  まさか、ティアもスレイに好意を抱いているのだろうか。血色の指輪を介して緩やかな絆を結んでいるはずなのに、妙な疎外感を覚えた。 「この山脈は今も高さを増し続けているそうだ。一年で爪の厚さほど」 「なんだ、一万年で人の身長にも満たないじゃん。ファラが生まれた時も今も、そう違わないんじゃない」 「頂に雪を被るほどの高さになるまで、途方もない時が積み重なっている。永遠の命と誇ったところで、山や大地の寿命に比べれば、朝開いて夕べに散る小さな花と大差ない」 「定命の者の一生はもっと儚いから、気軽に摘みとっても構わないって言いたいの?」  空っぽになった器に、カユにまみれたサジを落としたティアが、歪んだ笑みを浮かべた。 「前から一度、聞いてみたかったんだけどさ。  アレフにとって人は何? 単なる食料?」  自分にとって人とは何か……  問われた瞬間、白く凍りついた山頂でたったひとり、青黒い空に囲まれている気分に襲われた。山すそは闇に沈んで見えない。星が瞬いていてもいい暗さなのに、雲も無くただ透明にどこまでも続く宵の空。  高揚感というには冷たすぎる無気味なおののき。体温のない身が氷の彫像に変わり永久に動かなくなるような、孤独。  いや、思い違いだ。  心を向ければ血の絆で結ばれたしもべたちの心の呟きが聞こえる。決して従順なばかりではない彼らは、己の一部ではない。確かなる他者。繋がりあった眷属。  彼らを食料と思ったことは無い。  選んで捕らえて口付ける。家畜の死肉や、茹で殺した植物を、人が食らうのとは全く意味が違うはずだ。  今は日常とは違う旅のとちゅう。時に強引な方法を取ることもあったし、おそらく今回もそうなるだろうが、本意ではない。  食うには違いないのかも知れないが、心の繋がりを伴う……いや、テンプルの者達は仕方ない。あれは報いだ。こちらを滅ぼそうとするものを捕らえたなら、どう扱おうと構わないはずだ。  それに、私以外にも不死者はいる。キニルで会った新参者に、その闇の親。さらに海を越えた遥か南の彼方、シリルにいるという始祖。私は一人じゃない。ウサギだけの国に取り残された、たった一匹のキツネじゃない。  この妙な気分は、空の半ばまでおおう巨大な山を見上げながら数日を過ごしたせいだ。初めて間近でみた偉大すぎる景色のせいで生じた気の迷い。 「それは……」  答えかけて気付いた。  聞かれている。  男女の睦言でも聞こえないかと、下種な聞き耳を立てにきたスレイに。  今までのティアとの会話を全て思い返しながら、スレイの疑念を晴らす答えを考える。疑惑を確心に変えて、いま逃がすわけにはいかない。せめて山道を走るのがためらわれる闇が下りるまで。残照が峰から消えるまでは。 「知りませんよ。直接会ったこともないヴァンパイアの思惑など。いくら東大陸の生まれでも」  今の偽名はアヴジュだった。世間話として語ればいい。本から得た山の知識でも話すように、アレフの事を。 「ただ、中央大陸で言うほど、無体でも非道でもないと聞いていますが」  ティアがつまらなそうに口を尖らせる。外の気配に気付いての質問か。  ドルクと私を慌てさせたかったのか。怯え逃げるスレイを、追いかけ捕らえる様を余興として見物したかったのか。  何もわざわざ身を明かして恐れさせる必要は無い。泥のような眠りに落ちている真夜中に、奇妙な夢のふりをして訪ない、夜明けと共に忘れさせてしまってもいい。 「分かった。次の山荘を立った後にする。このガケ際の野営地では何もしない」  今日を逃したら、機会はあさってか。いや、足を伸ばして眠った後の方が、血のよどみも少ないかも知れない。  石原と緑と白い雪渓が陣取り遊びをしているような緩やかな斜面。毛が長く寒い時期にも荷を運べる山ラクダの群れのただ中に、巨大な本を伏せたような石組みの平たい山荘はあった。  石片をふいた屋根の端にある煙突。たなびく煙の元は、家畜のフンを乾燥させたものだろう。 「ねぇ、その辺で座って用足ししてもいい? ここの便所、マトモな肥溜めの倍は臭いんだもん」  渋い顔をした山荘の雑役夫が、ティアを便所に押し戻すようなしぐさをする。  茶色や白や黒のケモノが群れる中に建てられた、貴重な木の板に囲われた便所は、生身の人が生み出す汚わいそのもの。  背景の清冽な峰との対比が、いっそ清々しい。 「うちの山ラクダ六頭と、そっちの馬四頭。交換しないか。馬の半分しか食わないし、疲れ知らずで言うこともよく聞く。何より悪路に強い」  馬体にブラシをかけながら厩舎で男が笑う。馬の半分しか食わないかもしれないが、力も半分。そして山ラクダの値段は馬の五分の一と聞いた。 「ありがたい申し出だが、このままでいい。この馬たちは何度も山越えをしているそうだ。この先の道も駅馬車が月に二度行き来できるように整備されていると聞いた」  心づけを渡した後、雪渓から染み出す清水を樽にうけているスレイの丸めた背中に目をやる。  もう少し旅人は多いと思ったが、今夜、他の泊まり客はいない。しかも男女で泊まる部屋が分けられている。男性客用の広い部屋に、今夜はドルクと私とスレイだけ。邪魔が入る恐れはない。  今夜、眠りに落ちるのを待って、少し頂こう。  ふと、視線を感じて、ゆるみかけた頬を引き締めた。便所から出てきてむせているティアが、涙にうるんだ目をまっすぐこちらに向けていた。 三 煙花の夢  木炭でこした水が溜まるのを待つ間に固まった腕をかばいながら、スレイはかついだ樽を馬車に載せた。直後、すげぇ臭いに振り返る。この娘は時々、足音もなく後ろに立っている。灰色の野ネコみたいだ。 「これはティア聖女。変わった香水をつけてますね」 「まだ臭う? ったく、目に染みるし、力んでて少し吐きかけたわよ」 「良かった、風邪気味で」 「うらやましい。便所に行かないヤツはもっとうらやましいけど」  急に落ち着かない気分になった。馬車から降りている時、わけもなく不安になる。理由を考えるようとすると気持ち悪くなる。故郷から離れた者が感じる旅愁だと、ドルクは肩をたたく。そして山は寒いから風邪でも引いたのだろうと笑う。 「逃げないと今夜、喰われるわよ」  キニルを出て二日目、宿場町の近くで野宿しようとしていたリュート弾きを思い出した。黒髪の旅芸人は、夕闇の中で歌を披露し、幾ばくかのゼニを帽子に受けたあと、もっと花代を弾んでやると肩を抱く主に馬車の中へ連れ込まれた。  また悪いクセが出たとため息をつくドルクに、見なかった事にしてくれと口止めされた。けどリュート弾きはすぐに馬車から下りてきた。エリ元を乱し少し顔が赤らんでたから、何もされなかったワケでもなかろうが。 「大丈夫、生っ白い大柄な男は柔らかいんだ。簡単にはいかないもんだ」  ニヤついて片目をつぶって見せたら、あきれられた。 「そんなんじゃないって、本当は気付いてるでしょ」  手が青ざめて冷たいのは、きっと体質だ。寒い山の朝、窓に顔を近づけても曇らないのは、単に息を止めていたからだ。便所は……使用人に無様な姿を見せたくなくて、気付かれないように済ませてるだけだ。  腹いっぱいになるまでお代わりを許してくれた親方はいなかった。暖かい毛皮のコートをくれた主人もいなかった。ずっとウサン臭いヤツと思われてきた。同じ席に座って真っ直ぐ目を見て、頼りにしていると言ってもらったのは始めてだ。  首を振って背を向けたとき、追いすがるようにささやかれた。 「あんたの忠誠心や友情を、あいつらは裏切ろうとしてる。本当の名前も旅の目的も話さずに、ウソで固めてスレイをダマして利用しようとたくらんでる」  けど、偽名ならオレも使っている。 「そういうあんたは、本当を知ってんのかい?」 「本当の名はアレフ……森の大陸へ向かったモル司祭を殺そうとしてる」  思わず吹きだした。 「ガキ相手に教会がやってる人形劇じゃあるまいし」  キニルで見た。終わりがなかなか見えない進発式の行列。あれにたった一人で挑むのか?  吸血鬼は噛んだ人間を手下にする力があって、昔はそれで人と世界を支配してたんだったかな。けど、おれ等が手下になっても、シロウト三人と小娘でどうにかできると思えない。 「峰を西にいった先に小屋があるんだって。そこから徒歩の旅人が利用する抜け道が北に伸びてるみたい」  横をすり抜けながら、聖女がささやいた。  一人になって、山荘の暗い影で黒い馬車のそばにいると、見えない何かが背中や足元に忍び寄ってくる気がして、うぶ毛が逆立った。追われるように明るい方に出ると、日が遠い稜線に沈んでいくところだった。雲が血色に輝く。冷たい風がうなじをなでる。 「夕食の支度が整ったそうだ」  不意に声を掛けられて、足がすくんだ。夜、フードをとった若い主は髪も肌もほのかに光って見える。いや、陽をロクに浴びてない肌と整った顔が目を引くだけだ。 「今日は私らと一緒に?」 「私は先に終わった。何もすることが無かったから」  そういえば飯を食ってるところを見た事がない。一度、乾杯した事があるが、口をつけたグラスの酒は減っていなかった。 「スレイ、疲れているようだね。食べたら早めに休むといい」  赤い唇が笑う。霧に包まれたように頭がぼやける。この山脈の隠された谷で取れるという緑の花。目覚めながら夢を見られる煙花を吸ったみたいに心地いい。  気付くと、干し果物が混ざった焼き菓子と、塩漬け肉のスープを義務のように食っていた。今夜は早めに休もうと考えながら、心のどこかが炙《あぶ》られるようにヒリつく。  治療師から聞いたヨタ話をぼんやりと思い出していた。煙花の効用には不吉なモノがある。  確か……  冷水に身を浸したように体が震えだした。  早く眠ることを考えながら夕飯を終え、馬の様子を見てこようと決心して厩舎に向かった。馬をなでて心を落ち着かせる。ついでに馬車の車輪も点検しようと、強く念じながら裏手に回る。  馬車の荷から干し肉と干し果物を一掴みづつとってポケットに詰めた。金は無いが、下界にたどり着いた後、この毛皮のコートを売ればしばらくは何とかなる。  物音を立てないように、なるべく何も考えないように努力しながら、西へ向かった。石を注意深く踏み、風の強い時は岩を這って、太陽の名残が残る方向をひたすら目指す。  ふと、明るさを感じて振り返ると、薄赤い月が東から昇って来ていた。白い山が月の光に輝く。見上げれば満天の星。きれいすぎる景色がワケもなく怖くなる。  登りになると息が切れる。下りは転げ落ちそうで冷や汗をかく。本当にこの先に小屋はあるのだろうか。不安を感じて月をみやると、まだそんなに経っていない。歩いても歩いても進まず、時も移ろわない悪夢のワナにはまった気分だった。  干し果物を一つ口に放り込み、味と歯ざわりで正気を確かめる。ここは夢の中じゃない。まだ、おれは狂ってない。いや、正気を失いかけていた自分を、やっと取り戻したんだ。  考えてみれば、使用人にああまで良くしてくれる主なんているわけない。下心があるに決まってる。オレは豚のように太らされて喰われるところだったんだ。  不意の突風に、何か薄いものが顔にぶつかったが、周りを見ても何も無かった。かじかむ手を擦り合わせた時、稜線が小屋の形に出っ張っているのに気付いた。  せまい小屋の中は、ワラ束の様なもので一杯だった。踏み越えて苦労して暖炉までたどり着く。上に置かれた火打石を探り当て、手探りで木炭の粉を確かめた。ベルトの金具にぶつけて火花を飛ばし、息を吹きかける。頭がふらふらし始めた頃、赤い火が力強く燃えさしの薪に広がって、ほっと息をついた。  手をかざすと、温もりで身の脂と疲れが解けていく。ちらつく光を頼りに燃やすものが他に無いか、暖炉の周りを見た。薪はどうやら外らしい。もう少し休まないと立ち上がるのも辛い。  仕方なく、周りにたくさん積み上げられている乾燥した草の塊を、火に放り込もうとしたとき、背後から手首を掴まれた。  冷たく無慈悲な硬い手。振り向かなくても白い顔が見下ろしているのが分かった。 「煙花など暖炉にくべたら、心地いい夢どころか悪夢から一生覚めなくなる」 「これは……不死者の呪縛を断つ聖なる薬だって聞いた」 「違う。口付けに近い快楽を得られるというだけだ。シリルの吸血鬼騒動で大量に商われているようだが……代替物に過ぎない。むしろ害の方が多いだろう」  手首を締められ、煙花と共に逆らう気概が床に落ちた。 「お前の命を少し貰いたい」  掴まれた手を強引に引かれ、振り向かされた。暖炉の暗く赤い熾火《おきび》に、白い笑顔と、赤い口元からこぼれる牙が照らされていた。 「殺しはしない」  言い訳の様にささやきながら巻きついてくる冷たい腕。死ぬよりもっと酷い運命が待っているはずだ。身も心も縛られ、死んでも安らかな眠りはない。永遠の奴隷となるさだめが、唇と共に喉元に押し付けられる。  首の付け根あたりに、氷の針を突き刺されたような痛みが走った。同時に脳天から快楽が弾けた。全身の毛が泡立ち、肉が震える。煙花がなぜ代用物になるのか分かった。けど、共に高みに駆け上がり心の広がりを実感できる、口付けと血の絆の方がずっといい。  所有の印を焼きつけるように、飲んで頂いたのは一口だけ。月翼山脈を越えてふもとにたどり着くまで、オレは少しずつ主の糧となれる。名残り惜しそうに首筋を舐める冷たい舌が嬉しい。  やっと手に入れた宝物の様に、大切に抱えられて戻る道。揺るがない首にかけた右手の甲を、麻糸より細い髪が包む。来た時と全く違って、景色が明るく見えるのは、半分はアレフ様の眼で見ているからだろうか。  ふと立ち止まられた主の視線を追って、高さを競う二つの峰を見上げた。真ん中に月が青白く浮いている。白く輝く稜線は、地平まで伸びる月の翼。  だから月翼山脈と呼ぶのだと、今さらながらに感動していた。 「あちらの方にいま、灯りがっ。戻って来られたようです」  月明かりとタイマツを頼りに、岩陰やくぼ地を捜していた山荘の者達にむかって、ドルクは叫んだ。 「お散歩好きなご同僚と、情け深い坊ちゃんにキツぅく言っといてくれ。ここは下界とは違う。滑り落ちたら命はないってな!」 「月夜に出歩きたくなる気持ちは、分かっけどよう」  炎を手に戻ってきた男たちがボヤく。  振り向けば山荘のある高原を抱く白い山なみ。近づくほどに偉大さを増す白と黒の壁を背景に、月光に髪を梳かせたティアが立っていた。 「見つかっちゃったんだ」  雪と石を踏んで同じ場所に立ち、濃い茶色の頭を見下ろす。 「煙花の取り引き小屋で待ち伏せして……無事に。まったく何を考えて。もしスレイが彼らに話してしまったら」 「それはないって。人に話を信じてもらったコト、スレイは無いから」  手を振った娘が小ずるい笑みを浮かべる。 「口付けを見たくなくて、逃がそうとなさったのですか?」 「卑怯だなって思った。ウソついて心を弄って誤解させて、楽しんでたからムカついた」 「真実を告げないのも優しさでしょう」  結末が変わらないなら、深刻な恐怖も危険をおかしての逃走も、全てむなしい。 「本当の事ってツライよ。でも、知らずに間違う方がキツい」  まだ若い。微笑みそうになって、顔を引き締めた。 「スレイはすでに我が主のもの。これ以上よけいな事はなさいませんように。さすがにご不興をかいますよ」 「食い物の恨みはコワイもんねぇ」  鼻で笑ってティアは山荘へ歩き去っていく。ここで独りにされても、自力で山を越える自信があるのだろう。  夜になると敏感になる鼻が、風の中にスレイの臭いを感じ取る。斜面を駆けてくる黒い影。月明かりになびく髪の見分けがつくあたりで、スレイを抱えておられているのに気付いた。  高山の寒さや息苦しさは生者の足を鈍らせても、不死者の動きを妨げない。最初から逃げおおせるのは無理だと分かっていて真実を告げたのなら、意地が悪すぎる。 「出迎えご苦労。我々を案じて探してくれた者達に、酒と心づけがいるな」  小猿のようにしがみついていたスレイを下ろしながら、浮かべられた笑み。スレイの心をいいように操ったという意味では、主とティアは同罪なのかも知れない。 「明後日には、あの山を越えるのか」 「正確には、あの間の峠を……で、ございますが」 「上空で氷の雲が広がり始めている。天候を安定させる術式が要るな」  星空を見上げても異常はわからない。風が冷え、水分が増しているのは感じた。 「山荘の者たちに無事なお姿をお見せになってから、方陣を描かれるなり呪を唱えられるなり、なんなりと。それと影」  下りていく二人のうち、一方の足元に染み出した細長い闇。どうも食事の後は気がゆるまれる。  天候よりも、主の甘さがドルクには気がかりだった。  濃い霧に包まれた翌朝。  山荘の者たちに案じられながらの出発となった。霧が天然なのか、昨夜アレフ様が描かれた方陣によって、雨や雪が砕かれて生まれたものかは、判断つかない。  ぼんやりとした貧弱なカタマリに見える日の元で、気分が弾んでしまうのは、闇に属する者のヒガミだろうか。それとも威圧的な山嶺が見えないからだろうか。  目に頼らずにあたりを知覚している主の意を受けてドルクは手綱をさばく。片側は切り立ったガケという道がしばらく続いたが、見えないことが幸いしてあまり怖くはない。  山岳種の小型馬では上がらぬ坂道は、スレイだけでなく主の手も煩わせることになった。  霧の中から不意に現れる岩に驚かなくなった頃、右側から差す夕日に、馬車が照らされ、一瞬、霧の中に丸い虹が現れた。早く知らせないから珍しい虹をロクに見られなかったと口を尖らせるティアは、夕食の支度を頼むと、食い気に負けて大人しくなった。  本性を隠さなくても済むようになった主は、暮れてからの方が調子が出るのかも知れないが、馬と御者がもたない。馬を休息させるために、馬衣をかけ結界で包んで夜を過ごした。  霧が晴れると、巨大な谷のただ中にいた。  向こう岸にそびえる峰も、道が刻まれた木のない山肌も、あまりに大きすぎて距離も高さも見当がつかない。呆けて眺めたあと、足元ばかり見るようになった。  茶を沸かし山ラクダのチーズを入れたカユを作った。朝食を済ませた後、主に呼ばれたスレイを黙って行かせる。幸せそうな笑みを、複雑な顔で見つめるティアの心の内は読めない。逃がそうとしたのは本気でスレイ思っての事だったのか、歪んだ嫉妬からなのか……  昼過ぎ、峠を越した。  銀色に輝く海がはるか彼方で弧をえがいていた。登りより急な下り道はいくつもの鋭い曲がり角をもって、斜面に刻まれていた。その先に黒い森と耕作地らしい四角いモザイク模様。ベスタの街はもやって見えない。 「今夜、宿泊する山荘にスレイを置いていく」  感情を押し殺した主の声に驚く。哀しげなスレイの顔色は悪くない。まだ健康を害するほど飲まれていない。 「しばらく滞在して旅人から話を聞いてもらう。万が一、ここをモルが通ったら、私に知らせてくれ」  代理人、ということか。二度とないかもしれない主の訪ないを待ち続けて、山で一生を無為に終えろと。  従順にうなづくスレイを見る、ティアの目が厳しい。いらだったように石を蹴り飛ばす。 「呪縛、解いていい」 「触媒は与えられない。それにスレイも私も解呪を望んでいない」  何か言いかけて背を向けたティアに向けられた笑みは、ひどく透明で、胸を締め付けられた。 「スレイの行く末は心配しなくてもいい。私がモルに滅ぼされたら、呪縛は解ける。勝てたとしても、私は長生きしない」  高地にいた間は黒みがかっていた夕空が、全体的に赤く明るい。またたきだした星も鮮明さを失い、眼下を流れていた雲が霧のような顔をして行く手をよぎる。  北からの登りに比べると、南への下りはおそろしく急だ。  はるか下にきらめいていた川が、白い滝となって落ち込む青い淵《ふち》のほとり。レンガ造りの山荘の客室で、アレフは目を閉じ、しもべの心に意識を飛ばしていた。 「見つけた?」  ティアの声に、意識が引き戻される。夜に染まりゆく滝つぼと、行く筋にも分かれた水のカーテンが、目に映った。絶え間ない水音は、密林の雨より騒がしい。  街の高級な宿屋に劣らない調度にガラスのはまった窓。浴室に酒場、そして個別の客室。旅人や行商人だけでなく、夏は避暑をかねて登ってくる物見遊山の客も泊まるようだ。流水ですらわずらわしいのに、大量に落ちる水をわざわざ見に来る者達の気が知れない。 「街道沿いの教会を中心にウワサを集めさせているが、曖昧なものばかり。東へ向かったのかも知れない。モルがベスタに着く前に、こちらが有利になるような結界を整え街道で不意打ちすれば……」 「ベスタで迎え討つんじゃないんだ」  横で籐色の果物をかじりながらティアが物騒なことを言う。街中で互いに攻撃呪を使い、武器を振り回したときの惨状を想像できないのだろうか。 「関わりの無い者は出来るだけ巻き込みたくない」  御者や他の乗客のケガや死も避けたいが……駅馬車を襲うなら、それは無理な話か。 「なりふり構ってられないと思うけどな。アニー達より頭数おおいし腕も立つと思う。数十人ほど転化させて足止めに使って、敵味方いっしょくたに攻撃呪とかやんないと」  また無茶を言う。 「私が滅ぼされたら、吸血鬼化した者たちは灰と化し二度と復活できなくなる。そんなサギ同然の不死など与えられない」 「でも、普通の人にイモータルリングつけさせても役に立たないと思うよ」  ティアから聞いたモルの人となりが真実なら、生身のしもべを盾とするのは愚策だ。 「モルを仲間から引き離し、三対一に持ち込む方法を考えた方が良いだろうね。いくら腕が立っても生身の人間なら」 「どうかなぁ。騎士が二人、ずっと一緒にいたよ。風呂でも便所でも。あいつ人間の敵も多いから油断しないと思う」  首をふって不毛な会話を打ち切る。強い魔力と豊富な知識を持ち、人を人とも思わないインケンで大胆な男か。ティアからの伝聞だけでは、主観が入りすぎてよく分からない。  居場所を特定し、使い魔を放って当人を観なければ、暗殺のための策など立てようがない。  ノックの音に応えると、夕食の盆を手にしたスレイがドルクに付き添われて入ってきた。 「ここで、働けるよう話しつけてきました。その方が、お探しの野郎が泊まったとき、話しかけやすいから」  歓声をあげてテーブルについたティアの前に、ツボ煮のシチューや焼きたての干し果入りのパンを並べていた手が、ふと止まった。 「本当は敵討ちなんて、やりたくないんでしょう。滅びるかもしれない危険も、お嫌なんでしょう」  うつむいたままの低いささやき。血の絆で結ばれたばかりの、一番近しいしもべに心を隠すのは難しい。 「ずっとここに居ましょう。滝がお気に召さないのなら、近くに使われなくなった別邸が何軒があるそうです。四人で暮らしましょう。おれの血に飽かれたら、美女でも活きのいい若者でも、お好みの贄をベスタで調達してくるから」  おのれの血が主を支えているという自負に執着が混ざり合い、熱く重い感情となってほとばしる。  ドルクの目が揺れる。似たような事を考えていたのか。東大陸を離れたあと、中央大陸の辺鄙《へんぴ》な村に居を構え、喰らい尽くし、最後は火を放ち村ごと葬る。全てをならず者の仕業にして。  ベスタ近郊の廃屋生活よりは長持ちするかも知れないが…… 「逃げ隠れしたところで、一時しのぎにしかならない。モルを倒すのも一時しのぎだが、何もしないでいるよりは、気がまぎれる」  英雄と喧伝《けんでん》した若者を殺されたら、テンプルは総力を上げて私を滅ぼしにかかるかも知れない。大司教となる新しい英雄を作るために。  定められた立場を守り役目を果たし、外からもたらされる滅びの時を待つより、心のままに振舞う事を選んだ。その結果、滅びても、最後の瞬間に納得できているならいい。 「自前の闇の子を戦いの道具にしたくないってんならさ、元司教サマがシリルで増やしてる吸血鬼を借りちゃうってのは、どう?」  パンをちぎりながら、ティアが笑った。 「それなら断末魔の心話で胸が痛むこと無く、利用できるんじゃない? 利害もイッチしてるしさ」 「増えたねい」  脇に挟んできた経緯報告書の束を置く場所に困って、モリスは苦笑いした。副司教長の執務机は寝そべるコトが出来るくらい広いはずだが、今は手をつくのも難しい。つまみあげた厚い承認書には三本マストの外洋船の構造図がついていた。 「すでにウェンズミート方面には寄付を求める触れ文《ふれぶみ》が回っている。表向き、今回の遠征もテンプル上げてのモノだからね。無視を決め込む事も出来んよ」  目頭をもみほぐしながらメンターがボヤく。そろそろ徹夜は止めさせよう。いっそ茶に眠り薬を盛るようミュールに言おうか。  それにしても、うっとうしい雨の朝だ。窓を叩く無数の水滴をみていると、古傷が痛む。気分が滅入る。 「普通に風を待って定期船に乗りゃあ安く済むのに、なんでモルの野郎は、てめえだけの船を欲しがるかねぇ。鉄鋼組合の新しい帆船を買い上げるだけでも、えらい金がかかるのに、銀メッキの鉄板で補強かい」 「夜は吸血鬼が苦手とする海に逃れ、他の船から矢や攻撃呪を仕掛けられても対応できるようにというコトだろう。そして森の大陸でバックスを滅ぼしたあと、シリルから東大陸へ渡るには船が要る」 「なるほど。出てねぇ定期船には乗れないか」  森の大陸と東大陸の交易は例外なく禁じられている。だが、禁じた当のテンプルは、埒外《らちがい》か。 「で、そっちはどうだったね?」  引退司祭が遺した邸宅を、新たな施療院にする。そのためにモリスはここ数日、聖女たちと走り回っていた。  屋敷を改造してくれた大工や職人、設備を入れてくれた商人に説明した表向きの目的は、キニルの貧しく病める者たちの救済。しかし重要なのは三階の奥の部屋。もっとも守りが厳重な主寝室を改装して作った特別な病室。 「特別室に移した者の内、三人は症状が改善し三人は悪くなった……アニーも悪くなった方だな。ハジムを含むあと二人は、あんまり変化しねぇ」  テンプルの結界から外に出て回復したということは、三人の呪いの元は本山の足元にいるってコトか。なんとも薄ら寒い話だ。  そしてバックスの血脈に連なる吸血鬼の犠牲者は二人に特定できた。 「悪くなった犠牲者は元の部屋に戻してやってほしい。アニーをのぞいて」 「手配は済んでるよ。ここにサインくれたら、すぐに再移送さ。けど、アニーに煙管《きせる》くわえさせて暗示をかけて質問するのは、ちょいとな」 「ダイアナも納得したと言っていなかったかな」  黙ってうなづく。仲間の仇に呪縛されている現状を悩んでいた彼女は、進んで幻惑の煙を吸った。血の絆を結んだ主を裏切り、その動向をモリスに伝えるために。 「煙花の夢の中でダイアナは何を語った?」 「白い山が見えると。プラムとオレンジの果樹園を下る山道。目指しているのは赤い屋根と白い壁の港町……だとさ」 「アレフは山越えを選び、間もなくベスタにつくか」 「モルがウェンズミートにいると、アニーを介して伝えたらいいのか?」  メンターは首を横に振った。 「何もしなくても、読み売りか人形芝居で知ることになる。こちらの手の内はさらしたくない。何よりダイアナに注意が向いて、裏切らぬように強く呪縛されたら困る」  その点はモリスも同感だ。  だが、メンターが最終的に目指している未来が分からない。モルがアレフに殺されたら、誰が森の大陸に逃れたバックスを浄化するのだろう。まさか俺……か? 「ティアが本懐遂げたら、森の大陸の方へは、新たな討伐隊を行かせるんか」 「バックスが生前と同じくらい冷静なら、いずれ事態は沈静化する。そうでなければ、勝手に増えて飢えて滅びる」  突き放したような物言い。うっすらと笑みを浮かべた顔。魔物に相対した時より、モリスは落ち着かない気分で報告書を置いた。 四 ベスタ  北の空に浮かぶ動かない雲。それが雪をかぶった山だとアンディが知ったのはベスタに来て半年後だった。教えてくれたのは、横にいる丸顔のタリムだ。それまでは生きるのに必死で、空を見上げるヒマはなかった。  最近のベスタは騒がしいが景気は悪い。アンディたちが狙う商人たちの荷物や財布の中身もショボくなった。陸揚げされる荷がへって、暗い船倉からはいだしてくる子連れの貧乏人が増えた。  昔は俺も垢とノミまみれのガキだったのかな。  道端に座り込んだ母子の前に置かれた小鉢から目をそらす。赤い屋根の間から見上げる空を、カモメがよぎる。  親の事は少ししか覚えていない。六っつの時に戻れなくなった故郷もだ。  はっきり覚えているのは森の大陸をさすらっていた頃の空腹。金や食い物をうまく手に入れた時の興奮。殴ったヤツの顔と、かばってくれた娘の胸。  北へ北へと流れた果ては石の都スフィーだった。古い教会が見下ろす重くて堅い街から逃れるように、貨物船の下働きになった。そしてマストの見張り台から、陽に輝く赤屋根と白壁の港町を見たとき、アンディはベスタを楽園だと思った。 「今日はアネハヅル亭だっけ?」 「ああ」  人懐っこいタリムの声で、楽園の幻が消えて日常が戻る。今日の仕事場は、赤毛のドリーが働いている山の手の宿。  石段を二段飛ばしで登る。上で小太りのタリムを待ちながら、栗色の髪を手ぐしで整える。今朝食ったオレンジの皮でつけた匂いと艶。ドリーが喜ぶ上品ぶった言葉遣いをおさらいする。今から俺は、没落した名家のゴラクインだ。  荷車よりも辻馬車がハバを効かせ、気取った連中が高そうな店に出入りしているオリーブ通り。黒い木枠と白いしっくいがひときわ鮮やかなアネハヅル亭に向かった。  ドリーから留守してる部屋の鍵を借りるため、裏の洗い場に向かおうとした。中庭に通じる正門から楽しそうな亭主と客の会話が聞こえてくる。シリル産の香茶がやたら高いとか、間もなく森の大陸との定期便がなくなるってウワサ。下らない世間話だ。  身なりのいいヒゲの中年。護身用にしてはゴツい手斧は物騒だが、出かけるなら関係ない。けど、どっかで見たような…… 「それではお気をつけて、ドルク様」  亭主の言葉にアンディの息はとまった。  そうだ、父さんの背中に隠れてみた顔だ。頭をなでられて怖くて泣いた。ヒゲおやじは城の使いだ。罰が怖かった。連れてかないでくれと頼んだ。父さんは困った顔をして背中をやさしく叩いてくれた。  でも、なんでこんな所に居る?  愛想よく手を振って人ごみに消える背中をじっと見つめた。  職を失ってここまで流れてきたなんてハズはない。テンプルの討伐隊が魔物のすむ城を攻めたら、呪われた家来たちは、命と引き換えにしても主人を守ろうとするはずだ。  アネハヅル亭の横の路地を駆け抜けた。裏庭の井戸端でイモを洗っているドリーを見つけた。 「アンディ! 来てくれたのね」  ドリーが幸せそうな笑みを浮かべ、あかぎれた手をエプロンでぬぐう。  いつもなら言葉を尽くして雰囲気たっぷりにするキス。肩をつかみ好きだと一言だけささやいて、あわただしく済ませた。  荒々しい恋人の振る舞いを、激しい情熱とカン違いしたのか、ドリーが抱き返してくる。 「いま出ていった客。ヒゲの中年の男だ。上等な黒い上着に黒いズボンはいた……」 「ドルクさんはダメよ! うちで一番いい部屋に泊まってる上客なの。女将さんに迷惑がかかっちゃう。それに連れの若い人がまだ部屋で寝てる」  若い人。心臓が高鳴る。 「すっごくきれいな男の人だって。体が弱くて今も寝てる」 「きれいな……男?」 「センパイは弱々しくて儚げなトコロがステキだって騒いでるけど、アンディの方が絶対いい男だよ。あたしはアンディがいい」  媚びる目を見つめ、髪に手を差し入れながら頼んだ。 「カギをくれないか」 「だから、あたしは何とも思ってないよ。それに眠ってなかったらどうするの? アンディがつかまっちゃうなんて、嫌だよう」  涙ぐむまぶたに口付け、背中を安心させるように叩いた。 「大丈夫、ちょっと確かめるだけだ。ヘマしねぇよ」 「……分かった。他にも今留守にしてる客室のカギ、いくつか取ってくるね。待ってて」  ドリーが裏口に消えたあと、後ろでタリムのため息が聞こえた。 「人がいる部屋に入るなんて、強盗みたいなマネ、俺はやだぜ。俺らは盗られた事にも気付かせない洗練されたやりかたでいくって、誓ったじゃないか」  タリムの抗議にインディは首をふった。ちゃんとワケを話さなければ納得しそうにない。 「あいつは、ドルクさんは城の使いだ。子供の頃に見た。あのころと全然変わってねぇ」 「城の……つかい?」 「俺の生まれた村のすぐ近くに城があったんだ。時々税を受け取ったり買物したりすんのに、あのドルクさんがやってきてた。城主の一番の家来さ」  最上階にのさばる客室は静まりかえっていた。通りの騒がしさがウソみたいだ。アンディはそっとカギを差し込んだ。小さな音にも動きを止めて耳を澄ませる。  息が浅くなる。胸の鼓動が聞こえそうだ。恐くないと言えばウソになる。でも初めての盗みと同じくらいワクワクする。  泊まり客に盗られたと気付かせないキレイな仕事。チェストのソコの隠しから抜き盗るのは、銀貨数枚。宝石箱のスミで忘れられた安い指輪ひとつ。手引きしてくれる宿の下働きの娘に、迷惑かけたコトはない。  けど、今日カギを使うのは盗みのためじゃない。全ての客室に出入りできるオレにだけ出来るコト。本当に魔物なのか確かめて光にさらす。オレにだって正義を行なう勇気はある。  カギのかかった上等の部屋に隠れていれば安全だと思ったんだろうが、運が悪かったな。  声を出さずに笑った。  コソ泥が世界に夜明けをもたらす。誰にも名を知られない英雄。最高にかっこいいじゃないか。  窓を閉めきられた部屋は薄暗かった。目が慣れるまでうずくまる。床に探し物はなかった。元もと最初の部屋にあるとは思ってない。半開きになった扉の向こうを覗いてみる。狭い控えの間だった。  探しているのは人が入れるぐらい大きな箱。故郷で一度だけ見た黒光りする棺。恐い代理人のおっさんの目をかすめて忍び込んだ地下室にあった。細かい彫刻を指でなぞっていた時に見つかって、こってり叱られた。  あのとき中は空っぽだった。でも今は中にいるはずだ。棺ごと窓際に引っ張っていってフタを開け、真昼の光にさらして灰にしてやる。生血を啜られる犠牲者が二度とでないように。  中庭を見下ろせる大きな寝室に通じる扉をそっと開ける。中は闇だった。鎧戸が閉められた窓。糸のような日の光が三本もれていた。  寝息もイビキも聞こえない。でも奥に気配を感じる。深呼吸して心を落ち着かせる。オレンジとライムの香りがした。思い切って扉を大きく明け放つ。広い部屋がぼんやりと浮かび上がった。  オリーブの木を織り現したジュウタンと分厚そうなカーテン。樹木から浮かび上がるドライアド達がなまめかしく笑うタペストリー。アネハヅル亭の精一杯の贅沢をかき集めた組み木の調度。  棺を探したがなかった。一番大きい家具は二つの寝台。その影かと思って部屋に足を踏み入れたとき、奥の寝台に白いものがあるのに気づいた。慣れてきた目が人の顔だと見分けた。  意外だった。あの地下室は真っ暗だった。少し年上の遊び仲間がろうそくを掲げていた。暗い中で、さらに光から逃れるように分厚い蓋をそなえた棺があった。ここでも完全に光をさえぎって眠っているもんだと思ってた。  寝台は窓際までひきずっていけない。大きすぎるし、床と天井にくっ付いている。 「シーツに包んで引っ張ればいいか」  じかに触れたいとは思わない。こいつは大昔の死人だ。肌は冷たくぬめって死臭もする。そう聞いたのは故郷でじゃない。海を越えて魔物が支配する地から離れた後だった。  テンプルが魔物を倒し、餌食になる運命から人が開放された地で、魔物は諸悪の根源だった。皆がののしり、悪業や冷酷なふるまいを、目を輝かせてウワサしていた。  支配者の悪口を表立って言えやしないから、故郷で大人は口をつぐんでいたんだろう。  子供の頃に言い聞かされていたウソが崩れる心地よさにアンディはしばし酔った。  眠っている魔物を見下ろす。黒リボンでゆるく束ねられた色の薄い髪。やせて生気の無い白い顔。ドリーが病人だと言うはずだ。一応きれいと言えるかな。オレの前で裸になってくれた女は別格として。  ため息をついた直後、見とれていたと気づいて焦った。仕事を、いや正義を行なわなければ。  首を振ったとき、閉じていた目がゆっくりと開くのを見た。息を飲んだ。 「……昼間なのに」  まっすぐ見上げる目に、気味の悪い光が宿っていた。赤い唇がつりあがる。  人が普通に起き上がるように半身を起こすのを、ただ見ていた。  カン違いしたんだ。こいつは昼間も寝床を離れられない、ひ弱な病人。部屋を間違えたと適当に言い訳して、ここを立ち去ろう。  そう思うのに足が動かない。言い訳も口に出来ない。まっすぐ見つめている灰色の目から逃れられない。なんでこうなったのか、空しくワケを考えていた。 「確かめに来たんでしょう?」  笑いを含んだ声。カンにさわる笑顔。何がそんなに愉快なんだろう。 「英雄、アンドリュウ・ランク?」  悲鳴を上げたいのに声が出ない。魔物は人の心を読み操る。 「分かっていたのに何を怯えているんです? 私に近づけばどうなるか、昔話で聞いていたろうに」  助けてくれ。必死な叫びは心の中だけに終わった。  この部屋に入ることを知っているのはタリムと手引きしてくれたドリーだけ。待っていろと言ってしまった。助けは来ない。  突然、後ろで扉が閉まった。部屋は闇に包まれた。 「これで邪魔は入らない。私を滅ぼし英雄になりたかったのでしょう。なら、容赦する理由はありませんね」  闇の中でも見すえられているのが分かる。 「獲物の方から来てくれるとはありがたい」  舌舐めずりしているのが見えるようだった。  昔話や怪談で語られる、愚かで不運な犠牲者の最後。関係のない見知らぬ誰かの事だと思っていた。  これから魔物に食われるのはオレ自身。不運を嘆いても物語は終わってくれない。 「ヒザをつきなさい。その方が飲みやすい」  言いなりになんてなりたくないのに体は勝手にヒザをつく。どうしてこんな事になったのか半泣きで考え続けていた。 「あなたの意思でしょう。食われるため、では無いだろうが……諦めなさい」  冷たい手が肩と頭を掴んで、むき出しになった牙の方へ引き寄せる。全力で逆らおうとしたがダメだった。  鋭い痛みに呻きが声がもれた。  飢えが満たされる喜び。これはアレフのものだ。体だけでなく心まで自分のものではなくなってくる恐怖は、すぐに快楽に押し流された。  己がなくなる喜び。大きなモノにすすり摂られ一体化してゆく不思議な安心感。今日までの記憶が現われて流れ去っていく。体が重い。力が抜ける。  一階で塩入オレンジを飲んでいるタリムを感じた。奇妙なほどくっきりした幻想。ふいに現実だと悟った。これはオレの血をむさぼっているアレフが感じているもの。  山越えの間、贄の体に配慮して控えめにしか飲めなかった。その不足を思う存分満たせると食らいついた空き巣狙い。  都合のいい獲物だと思ったのに、仲間がいたことに焦っている。タリムも呼び寄せて呪縛できないか考えている。もう操り人形としては役に立たないオレにイラ立っている。飲みすぎたと後悔しながらも、死ぬまでまだ余裕はあると、口を離さず味と温もりを楽しんでいる。  今すぐ逃げろとタリムに伝えたかった。タリムはオレの話を世迷言だと思いながら、不安であたりを見回している。  何かを見つけたのか立ち上がった。  暗い眠りに落ちる前、死を覚悟したのはアンディ自身。それだけは確かだった。 五 命盗人  北から熱い風が吹くこんな日は、塩入りオレンジが何よりのご馳走だ。一口飲んだカップをカウンターに置いて、タリムは台所の奥を見るふりをした。 「またダチのお供か。人の恋路に付き合ってないで、自分の相手を見つけたらどうだい」 「しょうがないよ。俺はアンディの引き立て役だもの」  すけべ顔の給仕はアンディがドリーと裏庭でよろしくやってると思ってる。  アンディがモテるのは仕方ない。長い手足と栗色の髪。涼しげな目に不敵な笑み。あいつが口説いた娘たちは、愛の力でアンディを働き者の真人間にして、幸せに暮らす未来を夢見る。そのためなら無理難題にも応えてくれる。  オレンジみたいなツラしてるオレには出来ない芸当だ。愛嬌では負けるとアンディは笑うが、女に通じないんじゃ意味がない。もじゃもじゃした髪に手を突っ込んで、さっきの話を思い返す。  アンディが生まれ故郷の話をしたのは一度だけ。ウェンズミート生まれで人外の支配者を昔話と思っていたタリムは、身を乗り出してはたかれた。東大陸に住んでいるのは絶望の中で日を送る無気力な人々と思っていた。普通に当たり前に暮らしてるってのが意外だった。  それにアンディだって人ならざる城主を知らない。姿を見せなくなって何十年。きっと寝すぎて灰になっちまってると笑っていた。ヴァンパイアに怯えて眠る夜は、アンディの故郷でも昔話だと。 「きれいな男か」 「男に使うホメ言葉じゃないな。アンディは精悍《せいかん》ってやつだろ。今朝ついた金持ちのぼんぼんがキレイだと女どもは騒いでたが、俺は虚弱な男は好かんな」 「金と顔に恵まれても病気がち。人間そんなもんかもな」 「お供のおっさんは気に入ったけどな。豪快で太っ腹。おまえらもそういう歳のとり方するんだぞ」  年下はみんなガキ扱いか。タリムは内心そっと舌を出した。  城の使い。吸血鬼の手下。魔物に心奪われて人の苦みを喜びと感じる裏切り者。主の命令で村娘をさらっていったり、逆らう者を殺したりするのか。さっき表で見かけた、あの愛想の良いヒゲのおっさんが?  普通のおっさんに見えた。目が据わってたり、陰険で冷酷な感じの悪党だったらまだ信じられる。アンディの恋敵になりそうな病弱な男が、魔物かも知れないなんて妄想もいいとこだ。  だけど様子を見るだけ、確かめるだけと上がっていったまま、アンディはまだ戻らない。興奮した声。ヤツだとしても昼間は無力だと笑った顔。まさかと笑い飛ばしたい気分を、イヤな予感が押しつぶし始める。 「遅いな」 「恋人の時間は邪魔しちゃいけないよ」  給仕の気取った言い方が鼻につく。オレンジの酸味が喉を刺す。  しかめた顔を見せたくなくて表の方に目をやると、灰色の法衣をまとった娘と目があった。笑み崩れた給仕がオレンジを注いだカップに、貴重な氷を放り込む。玉子とバターの香りがする渦を巻いた焼き菓子と一緒に、娘が座った奥の席へ運んでいく。 「おごってくれんの?」 「もちろんです」  給仕に向ける抜け目の無い笑顔。  ドリーより若いから見習い聖女だろう。でも、上には力をもった司祭や聖女がいるはずだ。  丸いテーブルを挟んで、娘の前に座った。 「何か用?」  金茶の髪がいろどる小さな顔は愛らしいが、紺色の眼はキツい。男の背中に隠れる女じゃない。オレなんざハナにも引っ掛けない自信たっぷりの態度。口説きだと誤解されたらヒジ鉄だ。 「ヴァンパイアがいる」  本題から切り出した。 「まさか」  鼻で笑おうとした娘の目が閉じられ、舌打ちと共に開いた。 「どこに?」  タリムは上を指差した。 「北東の一番いい客室。様子を見に行ったオレのダチが戻らない。頼む、あんたの師匠を呼んで来てくれ」  娘が腕組みして考え込む。 「シリル辺りじゃ吸血鬼が増えてるらしいけどさ。港では乗客も船員も一人残らず聖水かけて調べてる。荷物も全部開けて魔物が隠れてないか厳重にあらためてるよ。ベスタに入り込むのは無理だと思う。  ……一応は確かめるけど。案内してくれる?」 「俺達だけじゃ、危ないんじゃないかな」  アンディの話が本当なら、見習い聖女の手に負える相手じゃない。 「新参の吸血鬼なら昼間は無力よ。歳を経たヤツでも陽のあるうちは半分も力が出ないから。ほら、護身用の聖水」  テーブルにガラスの小ビンが置かれた。  仕方なくタリムは小ビンを掴んで立ち上がった。重い足取りで階段を登る。すぐ後ろから聖女見習いがついてくる。扉の前で不安になって振り返った。 「大丈夫。不用意に近づかなければ。でも目には気をつけて」  教会の人形劇でも、邪眼に気をつけろと言ってた気がする。 「扉は開けとくね。ヤバそうならここまで逃げるの。明るいところには出てこれないんだから」  背中を叩かれて暗い部屋に入った。腹に力を入れる。今逃げたらこの娘は一人で確かめに行く。テンプルで修業して腕っ節が立っても、たとえ相手が魔物じゃなくても、若い娘ひとりに危ない事を押し付けられない。  足音を忍ばせて奥の扉を少し開ける。隙間から覗いたが、暗くて何も見えない。  手をついていた扉が急に大きく開け放たれた。  よろめいたとき、娘に尻を蹴られて床に這いつくばった。  顔を上げるとアンディの後ろ姿が見えた。寝台の側にひざまづいていた。腕はだらりと垂れている。栗色の頭を白い手が掴んでいる。肩にも白く長い指がクモの巣のように広がっていた。  アンディの少し傾けられた首筋の向こうから見つめている眼。うなじの生え際の毛が逆立つ。アンディの頭と肩に這っていた白い手が消えた。  薄青のシャツに包まれたアンディの上半身が、うつぶせに寝台に倒れ込む。 「連れてきてあげたわよ。貸し一つね」  勝ち誇るような娘の声。  後ろで扉が閉まった。  暗闇に取り残されてあたりを見回した。寝台に目をこらしても人影は見えない。握りしめた小ビンの栓はカタくしまっていた。  あの娘はどうしてこんな事をする。  震える手を固い栓にかけた。冷たい手が体に触れたらぶっかける。聖水はヴァンパイアの肌を焼く。怯んだスキにアンディを引きずって逃げる。  でも指が痛くなるだけで栓はビクともしない。口で開けようと栓を噛んだ。 「それは多分、ただの水です」  意外と遠くで声はした。  明るくなった。光源は芽を象った淡い緑の壁際のランプ。側に白いシャツ姿のヤツが立っていた。薄く笑っている。細いし色も白い。でも病弱には見えない。精気に満ちた力強さを感じた。 「いや、イタズラ好きの彼女の事だから、本物の聖水かな。だとしても、あなたの歯を痛めるほどの価値はありません」 「あの見習い……つるんでたのか」  深緑のじゅうたんに手をついたまま、タリムは呟いた。 「俺はバカだな」  声がかすれる。昔みた人形劇。大きな黒い人形に捕まって貪り食われる小さな人形に、アンディや見習い聖女が重なる。  オレも喰うつもりか。  青白い顔を睨《にら》みつけようとして、目を見るなと言われたのを思い出した。視線をそらすと、寝台に上半身をあずけたまま動かないアンディが目に入った。 「ご友人はしばらく目を覚まさない。おそらく数日は起き上がれない」  死んだらアンディも吸血鬼になるんだろうか。そしてオレやドリーや、コウノトリ亭のエミーを襲って、不死の呪いを広げるのか。 「ご友人は死んでも人のまま。安心して連れ帰って……面倒ならドロレス嬢に見させればいい」  声にしていない疑問に答えが返ってくる。心を読まれている気味悪さと絶望感に手足がなえる。 「雇い主と客を裏切ってあなた方を手引きした娘は、短くても幸せな時を得るはずだ」  ドリーの事もバレている。  短い幸せ…… 「アンディは死ぬ、のか」 「人はいずれ死ぬ。愛情のこもった看護で長らえる者もいる」  はぐらかすような言葉。付け加えられた希望にすがっていいのだろうか。 「オレは、見逃してくれるのか」 「私に危害を加えない限りは」  すくむ手足を動かして、アンディににじりよる。安らかな顔。色の悪い唇と、首筋の二つの傷さえ無視すれば、熟睡しているようにも見える。  黙っていたら俺は助かる。でも犠牲者は増え続ける。ドリーや給仕や、宿の者がこの部屋に呼びつけられて……  すぐ後ろで小さな笑い声を聞いてすくみ上がった。 「失礼。これを取っておきなさい」  シャツの左ポケットに数枚のコインが滑り込んできた。重みから金貨だと思ったが額を確かめる余裕はない。 「騒いだら、俺たちが金貨を盗んだと言い立てるのか?」 「……なるほど、そういう手もありますね」  何のために、そして、どうやってアンディが客室に入ったのか。説明できない弱み。 「汚ねぇ」 「あなた方とは共感しあえると思ったのですが」  落ち着き払った声に怒りが込み上げてきた。 「共感? なんだそりゃ」 「どうしても必要な物を手に入れる方法が、少しマトモではないという点で。他人の物を奪わなくては生きていけない身の上同士、理解しあえると」  耳元へのささやきに、首をちぢめた。真後ろにいるハズなのに体温を感じない。気配がうすい。わざとらしいため息は、温かくも冷たくもない。 「金貨に心動かされず、己の罪が露見することも覚悟の上。買収も保身も眼中に無い、潔癖で勇敢で立派な若者には、こう言ったっ方が良かったかな」  首筋に冷たい指が触れる。 「私は昼でも動けます。齢を重ねた不死者は陽の光で即死はしません。少なくともこの宿にいる者全員の喉を食い裂くぐらいの事はできるでしょうね。証を見せましょうか」  鎧戸が開けられた。まぶしい光が差し込んで目を射る。恐る恐る目を開けると窓際で光を浴びている白く細い姿が見えた。 「あなたは勇気がある。見知らぬ他人をも守ろうとする立派な心がけもお持ちだ。なら、この宿の者全員の命を盾に取られてしまっては、どうしようもない。私を告発できなくても卑怯でも恥でもない」  歯の浮くような世辞に秘められた嫌味。言葉でいたぶるのを楽しんでる。 「良心を眠らせるのは夕方、私が船に乗るまで。手続きはすでに私の仲間が済ませている。何より……」 「アンディ!」  扉の開く音と、ドリーの声。  悲鳴とともにアンディに駆け寄ってきて、ゆさぶったドリーは、敵意のこもった目で壁際の魔物をにらんでから、タリムにすがるような目を向けた。 「何があったの」 「だから、強盗だと思って突き飛ばしたら、打ち所が悪かったらしくて目を覚まさないの。一応、治癒呪はかけたから、二・三日寝込めば気がつくんじゃないかな」  裏切り者の聖女見習いが、寝台の上に金の詰った小袋を置く。 「なんでアンディが部屋に入れたのか、聞かれるとあんたも困るでしょ。だから見舞金で手を打ちませんか、だって。そのお金で精のつくもの食べさせてあげて。弱っている時に優しくしてくれた女と結婚する男って、多いらしいよ?」  ずるい手だ。いま陽の中に立っている吸血鬼にアンディは襲われたのだと言っても、たぶんドリーは信じない。いや、信じたい幸せな未来しか、ドリーには見えない。  ぐったりした親友の体を肩にかつぐ。ドリーが心配そうに、でも、どこか誇らしげにアンディの脇に背を入れて支える。  宿の下女をだましての泥棒家業は、そう長続きしないと思ってた。女たちが焦り始め、誰かが恋敵を蹴落とそうと密告でもしたらおしまいだ。  アンディにとって、これが潮時なのかもしれない。  聖女見習いが先回りしてあけた扉をくぐる。不意に満面の笑みを浮かべたのが不思議で、視線の先を振り返ってみた。 「熱っ」  小ビンのフタを開けて、すぐに放り出し、恨めしそうに右手を振っている吸血鬼。  中身は本物の聖水だったのか。 「バッカじゃないの。だいたい泊まってる宿で……」  扉が閉まる直前、もれ聞こえたキツい声。自ら招いた窮地で女の手に頼り、逃れられない大きな借りを作ったのはアンディだけじゃないみたいだった。  ▽ 第十三章 たそがれの地 △ 一 月虹  もし海と帆船を見たがっていたスレイがいたら、ベスタ港に幻滅したかも知れない。規模に比して船が少ない。白い帆とロープを外された船は、羽をむしられたアヒルにも似て貧相だ。  熱風をはらんで広がろうとするマントを、アレフは体に巻きつけた。頬を焼く午後の陽に顔をそむけ、フードを深く下ろす。 「ここから船に乗ったら、もう戻って来れないね」  ティアが、浮き桟橋の先を指し示した。  大きな艀《はしけ》が浮いている。そこで上陸の時を待っているのは船荷や家畜ではなかった。森の大陸からきた大勢の人。さえぎるモノのない陽差しと、海から立ち上るネバつく湿気の中で、声もなく座り込んでいる。  桟橋と岸壁の境に真新しい小屋。あらい格子の向こうに、灰色の法服と腕まくりした港の自警員が見える。久しぶりに見た関。教会と商会が管理する街道沿いでは、ついぞ目にしなかった。  乗り込む側の桟橋に関は無い。留められるのは上陸する者だけ。垢じみた渡航者を、聖水を使って調べているようだ。船に積む大きな水樽に手を浸して水滴を弾くやり方は、どうにも間が抜けている。  それに不死者とその眷属かどうかの判定に、人妻に触れたり子供をこづいたり、大声で恫喝《どうかつ》する必要はないはずだ。 「弱みにつけこんだ小遣い稼ぎをしている様ですな」  憤然としたドルクの言葉で得心がいった。判定の手数料は渡航者が出せるだけの金品。財布の中身だけでなく、婦人の赤い耳飾りを外させ、子供の木靴に隠された銀貨を奪う。長引かせるのも暑さと渇きで思考力を奪って、より多くを得るためのようだ。 「直射日光の下に座らせるだけで、検査は済んで……そうでもないか」  ティアが歪んだ笑みを向けてくる。だが、すぐにオレンジを積み上げている飲み物の屋台を目ざとく見つけ、駆けていった。  乗客から小銭までむしりとる関のせいで退屈していた売り子が、注文に応じて生き生きとナイフをふるい、しぼり器を使う。  追いついた時には、数枚の銅貨と引き換えに、くり貫いたオレンジに満たされた生ぬるい果汁が差し出されたところだった。  艀と桟橋からティアにうらやましそうな目が向けられる。嘆息の中に秘められた憎悪。幼子や老人の中には、今、水分を取らなければ危ない者がいる。 「そちらの旦那様は?」  物入れをさぐり、金貨を置いた。 「すいません、そんなにお釣りは……」 「オレンジを全て。特に幼い子供と老人は優先的に」  艀をさすと、売り子が困惑した。 「あんな関でも、通るたびに通行料が要るわよ」  ほとんど飲み終わったティアが口を尖らせる。 「そこに詰めている者達も? 法服を着た者と、その命に従う者からは取らないはず」  不敵な笑みを浮かべたティアが、スタッフを手に交渉に向かった。しばらく押し問答していたが、いきなり格子をスタッフで引っ掛け、海に叩き落とす。 「オレンジ屋さんは、通っていいって」  ティアが大声で叫ぶ。わめいて掴みかかろうとした中年の司祭を振り返りざまに叩き伏せる。自警団員たちは、どちらに加担すべきか迷ったあげく、テンプル内のもめ事には関わらないと決めたようだ。  手早く移動の準備を整えながら売り子が笑う。 「昨日は、ぐったりした子供をゆさぶって泣いてる母親や、泡吹いたジイさんにすがって泣いてるばあさんがいて、見てて辛かった」  輪留めを外し引き手をつけ、屋台は桟橋を疾っていった。 「何事です」  乗る予定の船に、荷を運び入れていたドルクが、駆け戻ってくる。 「関を壊せと言ったつもりは無いんだが……教会の紹介状か、副司教長の名で押し切るものと」  群がる者たちに向かって、幼子と老人から配るとティアが宣言していた。抗議する不埒ものをスタッフで脅し、赤に近い橙色の実を的確に渡していく。 「あれだけでは足りませんね。人夫たちに他の屋台を呼びに行かせます」  騒ぎに集まっていた者たちに、ドルクが幾ばくかの駄賃を渡す。最初の屋台に積まれた果実がなくなる頃、街の広場や市場の匂いをまとった屋台が、渡航者を検査している自警団員と、打たれた肩をおさえる司祭を押しのけるように、艀へ向かった。 「彼らの目に映っているのは慈悲深い聖女サマだけ。オレンジを買い上げた金の出所までは思い至りますまい。それに今日は救われましたが、次に船が着けば、また」 「分かっている。恨みより感謝に包まれて欲しかっただけだ」  ほぼ全員に果物と果汁が行き渡ったらしく、屋台を引く売り子とティアが談笑しながら戻ってくる。 「お優しいことですね。昼前に召し上がった盗人の仲間を、噛まずに見逃されたのも、ティアさんのためですか」  だまして連れて来るよう頼んだが、すぐに誤りだったと反省した。ティアの手で人を贄として差し出させるのは余りに酷だ。私に呪縛された父親と重ね、後悔で眠れぬ日々を過ごすのではないかと案じた。 「あの者達に私を告発する事は出来ない」 「人の心は変わるものでございます。この地を離れたと知り、時間が恐れを薄めれば、考えを変えるかもしれません。今、ティアさんに伸された者なら、賊の言うことに飛びつくかも知れません」  最悪の事態を予想する従者を見ていると、逆に心が軽くなる。 「スフィーの港についたとき、逃げ場のない船の中で破邪の呪を仕掛けられるかもしれません。鳥による通信文は、船より速うございます」  苦笑を抑えるのに苦労する。 「その時は、その時だ」  夜風に泣く索具。波にきしむ船体。傾いた吊り寝台から聞こえる二人の寝息。白き峰はもう水平線の彼方。アレフは手帳に鉛筆を挟んだまま、薄雲にかすむ星空を見上げた。天候がくずれかけている。  窓のない喫水下の船室を希望したが、案内されたのは船尾楼の客室。他に旅客はいないから遠慮するなと船長は笑っていた。だが、割増金はしっかり請求されたとドルクがボヤいていた。  風向きと波によっては、窓から月明かりが船室に射しこむ。厚いガラスごしとはいえ、陽光も容赦なく降り注ぐだろう。父の形見を仕立て直したマントで防ぎきれなかったら、下層で昼をやりすごす適当な口実を考えなくては。  それより…… 「いよいよか」  下弦の月が海面を照らす真夜中の海。目を閉じて感覚を断ち、心を飛ばす。  数刻早く、曙光が広がり始めたキングポート。  大きく窓を取った離れで、しもべが息を引き取ろうとしていた。寝台に寄り添うのは、亜麻のドレスをまとった女主人と年かさの女中。 (来て、下さいましたか)  気配を感じて上げた額に、巻き毛が揺れる。 (苦労をかけるね)  東大陸出身者の互助会と基金の運営に疲れた心と目を労わる。植えつけた喜びに勝る自発的な意欲を感じて安堵した。  彼女達が夜半から見守り続けた男に精神体で触れた。羽枕に埋もれた死相に、かすかな笑みが浮かぶ。血を進んで提供させるために条件付けた不自然な悦び。  つかのま戻った意識。だが実体同士をへだてる距離に絶望が広がる。再度の口付けを切望しながら、決して叶わぬと悟った哀しみ。全てを捧げて迎える最期を願いながら、無為に消えてゆく命を残念がっている。  涙がにじむ。人を傷つけてきた罰だと感じている。街道をいく馬車を襲い、多くの人を苦しめてきた報いだと。  それは違うと、後悔を忘却に沈め、いつわりの安らぎで包んだ。命でつぐない、すでに許されていると信じ込ませる。  体と心がゆるむ。  深く息が吸いこまれる。吐き出す前に心臓が動きを止めた。血流が止まり意識が解けてゆく。  看取った者達のすすり泣く声を聞きながら、壊れていく脳が最期に見せる幸福な幻影を追う。転化させてしまわないよう注意しながら、死を見守った。  離れに射しこむ朝の光に集中力が乱れ、臨終の場から引き離される。  目を開くと、月明かりに輝く夜の海と、船の騒音が戻ってきた。  ウートの短命は報いでもなんでもない。飢えていた時にたまたま隣にいただけのこと。私に危害を加えようとして、吸っても構わない条件を知らずに満たしてしまった、不運な罪人。  それに血の提供が償いになるのは、東大陸での法。中央大陸では、むしろ罪を重ねることになるはず。  ウートもアンディも、私刑の犠牲者でしかない。  暗い気分を変えようと通路へ出る。気付いて身を起こすドルクを制して扉を閉め、一人で上甲板に出た。  小さなつむじ風を生んで喜びを表す風精に応えながら、帆柱を見上げた。前方しか注意していない上方の見張りの背後に、淡い虹が垣間見えた。上空の薄い氷雲が見せる水平の虹色。人の眼には天の河よりも淡い白い帯としか、映らないかも知れない。  夜の虹を不吉だと言ったのは誰だったろうか。死後に魂が返る場所。大いなる源への架け橋という伝説を、今夜は信じたい。  感傷的になりすぎていると首をふって気持ちを切り替える。  傾き揺れる甲板で、転ばないよう注意しながら拳術の型をなぞる。両手の突きとかわしの動作から始め、下段への蹴りに繋ぐ。  キニルのヴァンパイアに、にわか仕込みの拳術は通用しなかった。だが、何もしないよりはマシだ。こちらが無力では助力を得るも何も無い。手を組んだ方が有利だと納得させるため、時には粗暴な力を示す必要もあるだろう。  目を閉じ心を飛ばせば、ウェンズミートの造船所で働く者達を安らげるリュート弾きの歌が聞こえてくる。背後で輝くのは赤い夕日を反射する銀の船。  予想はひっくり返された。モルが陸路ではなく海路をとるとは。それも呪術的な防備も施した大型帆船。嵐を呼んで沈めることも可能かも知れないが、大勢の船員が巻き添えになる。それに、向こうにも精霊魔法の使い手がいるかもしれない。  だからといって乗り込んで戦うのは危険度が高すぎる。水上で魔力は弱まる。船には厄介な仕掛けも張り巡らされているだろう。  有利に戦うなら大地と闇の領域で。深い森に守られた、放棄された城に誘い込み、こちらに有利な結界を施せば確実に勝てるはず。  だから、船首で妖精が蝶の羽を広げる、ダナウス号に乗った。  僚船が荷と客を求めて港と航路を変えた後も、ダナウス号がベスタ・スフィー間を走り続ける理由。船主であるハーラン商会の起源と拠点が、スフィーにあるからだと、船員が話してくれた。  渡り蝶のように、同じ名をつけた同じ型の船を、幾世代も重ねて育て上げた航路と販路。いまさら捨てる事は出来ない。いずれ夜明けは来るはずだと、たくましく笑う。  このご時勢に森の大陸へ渡らねばならない理由を聞かれた折、病いに伏した親がいるとウソをついた。  もし、夜が永久に続くよう、手助けをするためだと言ったら、海に叩き込まれたかもしれない。 二 海門 「音が聞こえる場所にいたら、ぶっ飛ばす!」  ニヤついている水夫にすごんでから、ティアは便所にこもった。海へ落ちそこねたブツが便座の内側だけでなく、床にもこびりついててスゴく臭い。赤い目をしたハエもウザい。  明日には小ウジになるはずの白いタマゴの固まりを踏みつけ、換気窓の向こう……船首像のカカトごしに見えてきた、二つの岩山に挟まれた海峡《かいきょう》をにらむ。  船を沈めた数を競ってた化けクジラと大イカが、スフィー沖で決闘して白と黒の岩山になった。なんて、おとぎ話があるらしい。  今も時々、船を沈めるだって?  バカバカしい。  船が沈んだのは、海流と波の下に隠れた岩のせい。それと、岩山の頂上に埋め込まれた術具が張る結界も、少しは関係してるかもね。  森の大陸を治めていたユーリティス城主ワイドールが組み上げた見えない壁を、スフィーの教会が今も維持している。海から来る招かれざる者から森の大陸を守る防壁。普通の人は通しても、人外の者は一定の儀式をやんないと力を削られる。  つっても、境界の向こうから正式な名前を呼び、迎え入れる意思を示すだけ。つまり船首の便所にいるあたしが境界を越えた後、船尾の最下層で、淦水《ビルジ》の汲み出しを見学しているアレフを迎え入れる。  ドライリバーを越える時にもやらされたけど、ガキのごっこ遊びみたいで気恥ずかしい。本名を口に出して言わなきゃならないのも面倒の元。事情を知らない他人には聞かせたくない。  えっと、この階層は……もう近くに誰もいないかな。  ダナウス号の水夫たちはあたしにビビってる。ベスタ港でスタッフを振るった時、船べりから見物してたみたい。  船首楼の厨房には、足音も気配もない。台所も吐きそうなくらい臭うから無理もないか。船首の見張りは……波と風に声がまぎれて、何を言ってるか聞こえない、かもしれない。  小便臭いシミが複雑な地図を描く板カベに手をついて体を支えながら、その時を待った。波に乗り上げるたび、便座の上で腰が跳ねる。だから床にこぼれたのか。腹こわして間に合わなかったワケじゃなくて。  やっぱ客室の便ツボの方が、揺れが少なくて落ち着けるな。ニオイもマシだし。  山の陰に入ったのか、急に暗くなった。船に迫る白い岩と黒い岩。岩に砕ける波しぶきってけっこう迫力ある。  何か布みたいなモノが背中に触れ、体の中を通り過ぎたのが分かった。防壁ってヤツを越えたらしい。 「ようこそ、森の大陸へ。アルフレッド・ウェゲナー、臆病な血の盟主」  名を呼ぶと、目の前で見えないカーテンが開き、風が吹いた気がした。でも、あまり長くは開けていられない。少しずつ閉じ始めてる感じだ。  手の紋に収めていた風の精を解き放つ。船を風でつつみ加速させる。  間に、あうかな。  結界に不死者が触れたら、多分スフィーの教会にバレる。  それとアレフは自制心ってヤツが少し弱い。削がれた力を取り戻そうと、見さかいなく人を襲うかも知れない。  いまだ人を殺せない甘ちゃんのままだし、ここは海上。バレて船倉から陽の下に引きずり出されたら、気絶して袋叩きだ。身包み剥がされるついでにルナリングを奪われたら、焼けコゲちゃうのかな。  もう一度、口上を述べようとして足音に気付いた。今もよおしたバカがいるらしい。 「今使ってるから、ちょっと待って」  扉の向こうに声をかけながら気配をさぐる。閉じかけている実体のない壁の感覚。アレフは、船底を移動してる。暗くてもつまずかずに動けるのって便利だな。  水樽と押し固めた煙花の横で、体を横にして結界のすき間をくぐり抜けるのを感じた。  ……良かった。  便座から見下ろした青い海にむかって用を足してみる。壁に釣られた皮袋の水を手に受けて洗って出たときには、ちょっとニオイに慣れていた。 「お待たせ」  肩を叩いたら、まだぬれてたみたいで手形がついた。すきッ歯の水夫がイヤそうな顔をして、ちょっと笑えた。 「ホセの野郎、また便所でサボってんじゃねぇだろうな」  急な風の変化で呼び集められた水夫たちが、帆を傾けるツナをたぐりながら怒鳴ってる。そんな上甲板の騒ぎに舌を出しながら、船尾の昇降口に向かう。  堅い木を銅で締めた扉を四回は開け閉めして、階段を上がった。操舵輪の動きにともなう歯車のきしみとカジが切る水の音。甲板長の大声と復唱する水夫たちの声も力強い。  二つ岩を越えたら入港は早くて半日後だったかな。結界を越えるまで左手の紋に閉じ込めてた風精が、やたら張り切ってダナウス号を押してる。昼過ぎには揺れない地面を踏んでるかもしれない。  船室に戻ったら、窓際の長イスにドルクとアレフがいた。元は一人か二人用の部屋だってのに、寝台が三っつもブラ下がってるせいで頭うちそう。でも、この危なっかしい部屋とも、今日でオサラバだ。 「お疲れ様でした」  ねぎらいの言葉と一緒に、割ったアーモンドが出てきた。 「忘れてたけど、ドルクは結界とか平気?」  キニルではアレフと一緒にヘバってた気がする。 「人の姿なれば。元々わたくしはこちらの出ですし」 「ワイドールが獣人を作ったんだっけ」 「教会が使う通信文を運ぶ白い鳥も、ワイドール様が作られたハズですよ。ハトを元にして」  昔は教会と吸血鬼が仲良しだったってのが、あたしには理解できない。  そっか、ドルクたち人外の衛士も“しゃべる贈り物”ってやつか。地縁も血縁もない他領の獣人なら、領民に酷な仕打ちもできるし、主の悪行をバラす事もあんまりないから。  けど今は、生きた人間が進物品あつかいされてた頃の話なんかしても意味がない。 「ね、スフィーってどんなとこ? 昔は教会の総本山があって、城壁にかこまれてて、カタ苦しい街だって聞いてたけど」 「魚料理とシカ料理。お茶と果物がおいしい街でございますよ。黒い教会が街の真ん中に居座っていて、すこし邪魔ではございましたが……」  口ごもったドルクが探るようにアレフを見る。 「大遷座かぁ」  ファラ打倒がテンプルの……英雄モルの武勇伝なら、こっちは教会側の手柄話し。メンター師や太っちょのマルラウが若いころにやった、総本山の移行。 「地下のカネ倉に積まれた袋の中身を少しずつ石ころに入れ変えて、人も帳簿も手形の控えも半年ごしで船で運んで……。  ファラが滅んだ翌日、ワイドールの手勢が踏み込んだら総本山は空っぽ。休会日だから生徒も代理教官もいなくて、千人が手ぶらでトボトボ帰ったんだよね」  教会にとっては痛快な脱出劇でも、逃げられた方は牙が折れ砕けるぐらい悔しかったろうな。  教会の幹部連中と大金が、報復を恐れて海を漂っている間に、セントアイランドとキニルをおさえた英雄モルはオリシアを滅ぼしてウェンズミートも落とした。ついでに教宣ビラで手柄を広く知らせて、覆《くつがえ》しようのない名声と、人々からの信頼を手に入れてた。 「木陰や空き家で、何日かおきに教室を開いていた開祖と弟子たちが、初めて得た安住の地がスフィーのはず。教会基部に当時の壁が一部残され、土地と建築資金を寄付したワイドール様のお名前が刻まれておりました。その恩をアダで返す、ひどい裏切りでございますよ」 「ファラ様を滅ぼしセントアイランド城を占拠したのは、過激な若者が作った秘密結社テンプルの暴走だと、当時の教会は言い張っていたようだが」  恋人が灰になって、フテ寝してたはずなのに良く知ってんな。アレフの手元には光がまたたく水晶。そっか、シーナンとオートマタ達が残した記録を読んでるのか。 「そんな嘘、よく通ったもんよね」 「テンプルの者が父を滅ぼしても、バフルをはじめとする東大陸の教会が無くならなかったのと、おそらく同じ理由だろう。既に人の暮らしは為替がなくては立ち行かなくなっていた。少なくとも商人や太守は。今も助けを借りている」  船賃も金貨や銀貨じゃなく、紙切れで払ってた。この先は教会そのものが危ういかも知れないから、いくらか宝石や銀に替えたみたいだけど。 「太守の家紋を刻印した金貨の量より遥かに大きな金が、教会が保障する手形や為替として出回り、信用されるようになっていた。もう勝負は決まっていたかも知れない」  歪んだ笑み。アレフが嬉しそうなのは何でかな。 「いずれ滅ぼすべき魔物との取り引きは全て破棄。  教会からの一方的な通告で、ワイドールは数千年にわたる蓄財の全てを奪われた。それに比べれば、ウェゲナー家が失った預金はわずかなものだ。  むしろ、千年かかっても返せそうにない借財が破棄されて、助かったくらいだ」  なるほど、ドサクサに紛れて借金を踏み倒したのか。実際に踏み倒したのはオヤジさんだろうけど。  借金のカタに取れるモノなんてロクに無かったろうから、信用貸しだと思うけど……いくら位だったんだろう。  もっとも、返済期限が千年後の借金なんて、額を聞いてもピンと来ないだろうな、絶対。 三 黒き教会  とがった半島と深い湾が続く海岸。  少しずつ沈降していく小さな漁港を無償で貸し与えた時、期限をたずねる教会の者どもに、こう言ってやったとワイドールは笑った。 「海中に没するまで」と。  数万年後も生きていると確信しきった不死者の傲慢《ごうまん》。  ワイドールは二十年前に滅び、漁港は大陸随一の港湾都市スフィーとなって今も在る。  とはいえ……  海からぬっと伸び上がる黒い壁を見上げながら、皮肉な笑みを浮かべられるのは、今だからこそ。  船を導く灯台も兼ねた幾つかの見張り台。上に案内されて交易船が居並ぶ港と、月の下で眠る出来たての街を見下ろした三百年前。アレフの胸にあったのは羨望とあきらめだった。  東大陸の財政は厳しかった。首都バフルの居城ですら過去の城砦を改修したもの。開祖モルが描いてみせた、学問の拠点となるべき数千人を収容できる強固な建物など夢また夢。増えるであろう学徒を養う水や食料を調達するアテもなかった。  何より東大陸には地の利というものがない。他領との間に横たわる広大な海が、あらゆる可能性の邪魔をする。  比べて、スフィーには全てがそろっていた。  広大な森を水源とする豊かな川。狭いながらも魚を肥料にして高い収量を誇る耕作地。  港と街が整うと、ウェンズミートの貴金属や、シリル特産の薬草やコカラ豆を積んだ商船が自然と集まり、スフィー・ベスタ間は最も金を生む航路となった。  だが、数十年ぶりに目にした夕日の中のスフィー港は、暗くわびしかった。倉庫前に積まれた荷は少なく、人夫や船員もまばらだ。  船を見つめている無数の目は、船賃を払うのがやっとという避難民のもの。今日、出航できそうな船がないのに街へ通じる大門の下に座り込んでいる。宿に泊まる金もないということか。  居心地の悪い注視の中で城門をくぐると、ティアとドルクが鼻をおさえた。ためしに息を吸ってみると形容しがたい臭気が鼻をつく。市場で売れ残った魚の生臭さや野菜の腐臭、汚物やドブ臭さといった生活臭とは明らかに違う。  壁の内側には、夕暮れの街が広がっていた。黒い石畳と焼きレンガ。火矢や火炎呪を警戒していると思われる鉄の扉と鎧戸に守られた高い建物。集められた富を狙う欲深い者どもから、街と人を守るもう一つの壁。  昔と同じように圧倒される威容だが……空き家が妙に目立つ。修繕されないまま放置された屋根や樋《とい》。外れかけた戸とレンガが幾つか抜けた壁。  迷路のような路地をたどると、路傍からヤセ犬と共に剣呑な目を向けてくる男や、荒んだ目の子供に行き逢った。明るいうちから胸の開いたドレスで酒場に誘う酌婦は、うすい香水と垢じみた獣臭をまとわりつかせている。  視界を圧する黒い教会の前に、大門で感じた異臭の源がさらされていた。午前中、火刑に処されたと思しき死骸が六つ。足は黒い棒だが上は原型が残っていた。かろうじて性別は見分けられるが、年齢はわからない。断末魔のまま歪んで固まった顔は、正視に堪えない。 「これは、本当なのでしょうか。自ら闇の口付けを受けし淫らにして卑怯なる裏切り者を火によって浄化した、というのは」  石柱に貼られた罪人の名。その前でドルクが声をかけた老婆は、露天の古着商のようだが、商い物が少ない。 「旅の人かえ? ヨソじゃここを吸血鬼の巣のよう言うとるかも知らんが、怯えんでもええ。森を越えたもっと南の方はしらんが、その罪状はウソっぱちさね。教会はスゴいんだっておどしに、密告があった家のモンを焼いて財産を没収しとるのさ」  老婆は手元の薄紅色の繻子に白レースをあしらったドレスを掲げて、シワ深い顔をゆがめた。 「あたしゃ、そのおこぼれに預かってるだけさね。この娘なんざ焼いちまうのがもったいない美人だったねぇ。連れの聖女様の普段着にどうだい? モノはいいから」  焼く前に刑吏が脱がせた服を引き取って売っていたのか。  人の世になれば、口付けを受けたものに庇護と特権が与えられる事はない。それは分かっているつもりだったが、あまりに無残な光景に吐き気を覚えた。転化を恐れて死後に焼くならまだしも、火刑はやりすぎだ。キニルでは施療院に収容すると言ってなかったか? 「あたしは教会に寄るけど、どうする? “食事”済ませてから宿で落ち合う?」  ティアが意地の悪い笑みを向ける。  乗客が他に居ないせいで注目を浴びがちだった船内では、我慢していた。そろそろ限界だが、しもべが陥るかも知れない最悪の結末を見せ付けられては、食欲など朝もやのように消え失せる。  いや、こうなりにくい相手を選べばいい。ここの教会には、正式に招かれ、何度か入ったことがある。おそらく結界は拒まないはずだ。そして、教会の上位にある者なら、特権に守られ、無残な最期を遂げる事もあるまい。  厄介なネックガードも、指を焼く覚悟さえあれば、外せないものでもない。 「付き合おう。少し思い出にも浸りたい」  意外そうなティアに先立って、火刑台と焼け焦げた石畳をさけて広場をまわり、堀を渡る。結界らしきものがありはするが、この身を弾く力は感じられない。あっさりと正門をくぐることが出来た。 「平気、なんだ」 「ここは古いから」  ドルクが寄付金と引き換えに、宿坊を一晩借りる交渉をしている間、高い丸天井を見上げ、昔のままのモザイク模様に目を細める。  だが、人は減った。人の少ないホールには、うらぶれた空気が漂っていた。かつての訪れが太守としての正式なものであり、教育官や学徒たちが居並んでいたのは、高貴な支援者に対する礼儀だったとしても、あまりに寂しい。  スフィーは一度、捨てられた都市。世界中から金と人を集めていた黒き教会も一度捨てられた。今でも森の大陸を統括する拠点だが、空き家同然の空白期間が、熱気も本山としての矜持もほの暗い混沌も、全て奪ってしまったようだ。 「案内しましょう」  安いワラの寝具と狭い部屋に大金を支払う酔狂な旅行者を、心の中でいぶかしんでいる太った準司祭を最初の獲物と定める。教会内は安全と思っているのか、簡単に心が読める。  最終的には、法服を着た者だけが入れる上の階で、狩りをするつもりだが、まずは内部事情を把握しなければ。  当たり前の様に奥の扉へと消えたティアが、目となり耳となってくれれば、ムダに口付けする必要も無いが……心話すら弾かれるのでは、まず無理だ。  宿坊へ通じる扉の前で、準司祭はティモシー・リンドと名乗った。体も声も心もぼんやりと柔らかい。最初は読心のために伸ばした力で、少しずつ心身を縛りながら、意外さを覚えていた。 「水は中庭の井戸をご自由に。シーツと枕は廊下のくぼみに洗濯したのが……使ったら横のカゴに入れといてください。寄付されたキルトや毛布もあるけど、服のまま寝るなら今夜は要らないでしょう」  中年で準司祭というのは普通なのか、出世が遅い方なのか。少なくとも今まで接したテンプルの者と比べて、たわいない。 「分かりやすいご説明、ありがとうございます。リンド先生の授業だと、子供たちは大喜びでございましょう」  ドルクの追従《ついしょう》で、荒事とは無縁の教育官だと、ようやく気付いた。 「生意気ざかりの子供らは、大喜びどころか大騒ぎですよ」  自嘲的な笑みに教え子への慈しみがにじむ。リンドと同じく、昔の教会の者たちにも脅威は覚えなかった。  剣呑な雰囲気を漂わせていたのは、教会から教会へ定期的に金袋や文書を運ぶ任についていた者たち。剣や棍棒を帯びた彼らから、テンプルは生まれたのかも知れない。  そういえば、金の返済を滞らせた者に対して、彼らが武器を振りかざして取立てを行ない、負傷したとの訴えが時々あった。何度か教会に抗議した事があったはず。  返済の期限を延ばす……  天候不良や家畜のはやり病。数年ごとに返済が滞るどころか、小麦の輸入のためにさらなる借財重ねていた気がする。代わりに特権を与えたり、土地や建物を返済に充ててゴマかしたり。 無いモノは返せぬと、私以外の太守も期限を延ばしていた。  テンプルによって我らが滅ぼされた理由。度重なる返済の滞りと踏み倒し同然の物納に業を煮やしての、過激な取立てだったのかも知れない。借財は東大陸を二つ買えるくらい膨らんでいたはず。金ごときでとは思うが、納得できなくもない。 「生意気といえば……若い頃、初めて教壇《きょうだん》に立った時、やたら難しい質問ばかりしてくる、生意気な子供がいたんですよ」  割り当てられた個室の扉をあけながら、少し得意げにリンドは笑った。思わせぶりに壁際のロウソクに、火炎呪で火をつけてみせる。ドルクが賞賛の拍手を送った。  室内にあったのはワラを詰めたマットを延べた二段ベッドと、小さな机。窓には内開きの鎧戸と鉄格子。ここはかつて、寮だった気がする。 「まだ十歳にもならないのに、教育官の誰もかなわないほど弁が立って……十三歳になった時、推薦状を持たせてホーリーテンプルにやりました。次々と試験に受かって手柄を立てて、いまや回りからも英雄モルの再来と呼ばれるようになりました」 「リンド先生はモル司祭の恩師でいらっしゃいましたか」  愉快そうな笑顔。扉を後ろ手に閉めてドルクが立ちはだかり、外が堀なのを確認してから、私が開いていた窓を閉めても、特に不信を覚えてはいない。 「あの頃は眉毛がうすくて顔が変だって、少し気味悪がられていました。不自然に黒かった髪は、いま思うと染めてたんですなぁ。他の子にいじめられないようにという親心でしょう」 「こちらにご実家がございますので?」 「アルシャー家といえば、昔はたいそう羽振りが良かったんですが、混乱期で全てを無くしてしまいました」  丸い顔が、嫉妬と悪意と優越感に歪んだ。 「大きな声では言えませんが、人を商ってましてね。愛らしい孤児《みなしご》を引き取っては閉ざされた庭で年頃になるまで育てて、城へ収めるという何とも業の深い商売です。高値で買い上げられた無垢な若者や娘は、他の吸血鬼どもへの“しゃべる贈り物”にされていたとか」  それは法で禁じられていたはずと抗議しかけて口をつぐむ。心当たりがなくもない。この地では木や草が手をかけずともはびこる様に、人は勝手に増えるものとワイドールは思っていた気がする。  草も木も人も、金と手間をかけねば増えない東大陸とは、考え方も常識も違う。 「口さがない者達が言うんですよ。モル・ヴォイド・アルシャーは遠い北の地から仕入れた商売モノに手をつけて生ませた子ではないかと。それが、今や英雄と讃えられるモル司祭というのは、ちょっと愉快でしょう」  それにしても、なぜこんな話をする。見てくれが穏やかでも心のうちまでそうとは限らぬのが人だとは知っている。教え子でありながら階級を追い越したモルへの嫉妬だろうか。 「二十年前に一家離散したあとは、ここの寮に入って、勉学も武術も熱心に取り組んでました。十にも満たぬ子供なのに法術の腕など誰も敵わぬほど。  可愛げが無くてウソつきで。いや、ホラ吹きというか想像力が豊かというか、自分は大司教になると、公言してはばからず……確かに祖母の祖先をたどればモル開祖に繋がっているらしいんだが」  心の深みにまで干渉したとき、脂肪に包まれた胸の奥にうずまく焦りに気付いた。話をとぎれさせたら最後、ネコにひと呑みにされてしまう昔話のネズミのように、言葉が止まれば全てが終わってしまうという脅迫観念。  バカバカしいと心の表面では否定するよう仕向けられても、心の奥では危機に気付いているか。やはり夜明け後の人間は術がかかりにくい。  だが、完全な操り人形にする必要はない。  自ら差し出したにせよ、強制的に噛まれたにせよ、この地では不死者に血を提供すれば身の破滅。必然的に共犯者になってくれるはず。 「しかし、三百年も経てば一年の月の数ほど世代が重なるものです。なんと祖先は四千人以上。そのうち一人くらい開祖モルの親戚がいても不思議はない。ここは開祖モルの故郷なんだし。それに、ファラを倒した英雄モルの、故郷でも、あるんだ……から」  汗がにじむ顔をみつめて金縛りにする。  喉の感覚を奪い、今や教会に所属する者の証ともいえるネックガードを外しにかかった。ダイアナが外しているのを見て、ウェンズミートの金具職人の間で流行した知恵の輪のようだ思ったが、指が焼けて滑る分、手間がかかる。  金属の輪が床を転がる涼やかな音を聞くまで、いく度か舌打ちするハメになった。あらわになった首筋は、苦い汗の味がした。心に広がる絶望も暗く苦い。  牙を突きたて、久しぶりの食事に歓喜しそうになる心を落ち着ける。ひと啜りして、治癒呪を施しながら口を離した。 「話は面白かったが……親切をアダで返して申し訳ない。この通り井戸の水では喉を潤せない身でね。だが、吸血鬼に噛まれたと教会に密告されたら、ここでは火刑だったかな」  動揺をあおり、支配の強化を試みる。  嫌々でも、言いなりになってくれさえすれば、十分。 「実のところまだ飲み足りない。お前が遭った不運と理不尽を、他の誰かにも与えたくはないか? モル以外に、気に食わない者が身近にいるはずだ」 (その者の所まで導いてくれたら、お前からはもう飲まない。だが、案内できないのなら、飲み尽くす)  血の絆を介して心話を送り込み、既に我が眷族であると思い知らせる。  褐色の瞳が揺れ、やがて据わった。 「ウォルト・テレル教長を私と同じ様に。  あいつは卑怯者だ。シリルへ討伐に差し向けた者達から助けを求める速文を受け取ったのに見捨てた。責任を追及されて地位を失っても平気なだけの金を集めるために、密告を奨励し、火刑を始めた最低な野郎だ」  つばを飛ばして訴えたあと、丸い顔に底意地の悪い笑みが広がった。 「でも、私以上に毎日うまいモノ食ってますから、血は甘いと思いますよ」 「紅い指輪を得た者に移民が多いのは、どういう事か。それに新規に募集した衛士を全て、イヴリン殿専属にというのでは、専横と呼ばれても仕方あるまい。近ごろ身辺が騒がしいのは知っている。だが、そもそも貴女が強引な……」  追いすがる衛士長を、くだんの新規募集した若い衛士が押しとどめる。 「お話はまたいずれ。今は急ぎますので失礼します」 「またイヴリン殿にだけ聞こえる、ご下命ですか?」  皮肉まみれの声を、イヴリンは厚い扉と二重の帳《とばり》でさえぎった。  移民を重用したのは“使える”から。縁故という甘えの盾がない分、彼らは誠実に必死に働く。スキを作らず腐敗も少ない。大体、移民出身者は今期任命した者の三割に満たない。半数を超えてから“多い”と言ってほしい。  それに昔から東大陸に住む者に、クインポートの制圧などという、汚れ仕事が出来るかどうか。中央大陸風の強固な城壁と市門に守られた半独立都市。港を封鎖し食を断てば餓えて死ぬ者も出るだろう。最悪、見せしめとして街を焼き同胞を手にかける事になるかも知れない。  この数百年間、闇の王の庇護の元で生ぬるい平安に馴らされた私たちが、非情に徹するのは難しい。  一方……  闇の王達が滅ぼされたあと、人が人を殺し、奪い、貪りあった混乱期。死と炎と混乱が広がった中央大陸から逃れ、命がけで海を渡ってきた移民たち。互いの肉を食むような極限を味わった彼らならば、死に物狂いで使命を果たしてくれるはず。 「そう、口に出して言えれば、すっきりするのだけど」  自嘲的に笑って、樫の机に触れる。遠い昔、森の大陸から運ばれてきたという見事な一枚板。その上にビロードの台座を据え、胸にかけた袋から、水晶球を出して安置した。  昼はバフルに起きる諸問題を片付けながら、閉鎖された港の復興をすすめ、深夜はひと払いした書斎で水晶球を手にアレフ様の名代を勤める。今もやりがいを感じてはいるが、疲れも覚える。  アレフ様がこの地を離れて既に九ヶ月。  表向きは忍びで領内を視察している事になっている。居所をひた隠すのは、テンプルの暗殺者を警戒しているから。この言い訳は、いつまで通じるのだろう。  巷《ちまた》には、様々なウワサが広がっている。  太守は地の底に幽閉され目覚めぬ眠りを強いられている、だの。とおにアレフ様は滅んでいるのに、代理人やしもべ達が特権を失いたくなくて、口裏を合わせている、だのと。  しかも主犯は私らしい。  太守の健在を示し、流言を否定すべき者たちの語気が弱く態度が曖昧なのも良くない。それはアレフ様がこの地に戻られることはないと、私自身が諦めているせいもあろうか。  深呼吸して、水晶球に手をかざし呪を唱える。旅の占い師めいた仕草だが、未来も過去も見えはしない。  脳裏に映るのは、暗く巨大な球面に散らばる光。東大陸ではほぼ全ての村と街に星の様なまたたきが。中央大陸には西から東へ、街道沿いに光の粒が点在する。血の絆によって結ばれた心のつらなり。  繋がりによって知り得る遠き地の出来事。ウォータで両替商を営むしもべは、香茶と煙花の先物買いで財を増やし、東大陸では銀の値上がりに先手を打つことが出来た。  最新の光点は森の大陸、スフィーの教会内。  注意を向ければテンプルの紋を刻んだ銀ヨロイ共に、微笑んでみせる我が主と、しもべの気配がふたつ。  かつて地下の金蔵でテンプルを隠し育んだ、黒き本山の教長を贄になさるおつもりとは、何という無茶を。心づけを騎士に握らせ、企《くわだ》てに手を貸しているドルクを心話でなじりたくなる。  最初にアレフ様をこの地から逃すと言い出したとき、中央大陸の辺境に身を潜める計画だとドルクは言っていた。  混乱に乗じて教会の支配を退けた地域には、身の程知らずにも太守のマネゴトを始めた愚か者どもが無数にいる。王と自称する彼らを呪縛し、裏で贄を召されるなら安全だと。  不信を招いたら全ての罪を操り人形に押し付け、別の村か町へ逃れて同じ事を繰り返せばいい。世界は広すぎる。血の絆に頼れない人々は遠い町や村に起きた不幸を知る術がないからと。  だが、安全どころかアレフ様は危険のただ中におられる。案じても、海をへだてた異郷ではどうにもならない。  有能だが気に食わない司祭や騎士を死地に追いやり、愚鈍で忠実な者を手元に残した、教長の愚かさに期待するしかない。  手の届かぬ物事で心と眠りをすり減らすより、力の及ぶ範囲に意識を向ける。  アレフ様を装って、東大陸の代理人達にねぎらいの心話を送り意見を求める。  『太守をないがしろにする、バフルの女代理人の専横』を直訴する者もいるが、動揺を抑えて耳を傾ける。  むしろ気になるのは、アレフ様がこの地で最後に任命された商工組合いの若き代理人。繊細な細工のビンに詰めて売り出した、香水の注文が取り消されたと青くなっている。  キングポートで互助会を運営している代理人は、例の香水は人気で、高値で取り引きされていると不思議がる……エブラン商会は、東大陸絡みの商売から手を引きたいらしい。  クインポートを見張らせている者に確かめると、商船の数が先月より減っていると応えがあった。紅い指輪を介して不安が伝わってくる。  森の大陸での吸血鬼騒動と、動揺をあおる教会の読売り。キニルから発信されたホーリーテンプルの意思が、東大陸が抱える闇への恐怖と憎しみを、人々に植えつけていく。  読売りに踊らされる彼らの希望はウェンズミートで作られているという銀の船。森の大陸でアレフ様がモルを止められなかった時、バフルは再びあの者の侵攻にさらされる。悪夢の様な“できそこない”たちは、もう二度と見たくない。  投石機や火矢を打ち出す弩《いしゆみ》を海に向け、街の防備を固めはするが、司祭の攻撃呪に対抗する手段がない。海上で迎え討つなら、思いつける手は御座船を持ち出すぐらい。  風に頼らぬ機動力と波に邪魔されぬ速さ。防御を固めすぎたテンプルの重い船よりセレナード号は乗り物として優れているはず。だが、相手を沈めるとなると油と火薬を積んでぶつけるぐらいしか手段が無い。  帆と油を発注すべきだろうか。その金をどこから工面しよう。  悩んでいた頭に、悦楽と歓喜がよぎった。  警護の者をあざむき、入り込んだ黒き教会の最上階。晩餐の席で言葉巧みに人払いさせ、アレフ様は無事に食事を始められたようだ。  火刑に処された数体のムクロをご覧になったぐらいで動揺されて、義憤ともいえる思いを抱いて危険を犯される。そんな感傷的な心もちで、テンプルが作り出した抑制を知らぬ始祖と手を組めるものだろうか。 「仇討ちを果たされるまでは、どうかご辛抱を」  心話に乗せない進言は、空しく帳《とばり》に吸いこまれた。 四 たそがれの地 「次はビビィの番だ」  甘い幻想を破るケリーの声。ビアトリスは哀しく目をあけた。闇の中でも梁《はり》の木目が見わけられる。“変わってしまった”現実がそこにあった。  汗ばむ背をなでていた手が、夜気をつかむ。オノやクワをふるって鍛えた胸と腕が、ビアトリスの上から退いて横に転がる。首筋の傷は、数日前にビアトリスが穿《うが》ったもの。  目をそらすと、丸太小屋にただよう香りの源……香油ビンに貼られたの青いラベルが、飛び込んできた。 『ロスマリン  闇の女王が生身の男に愛される時に使ったともいわれる、高級化粧油』  こんなものに頼っても、得られるのはひとときの平安。  月に一度の痛みも、下着を汚す湿りもない。私の身体は何も出さない、もう何も生まない。  去年……  老夫妻から駅の株を買った時には想像もしなかった。手直しした駅舎の前で愛を誓い、親族や友人の祝福を受け、伯父が持ってきたガチョウの丸焼きを皆に切り分け……幸せはずっと続くと思っていた。  前後の駅から半端な距離にあるせいか、飼葉や軽食の売り上げはわずか。だけどお金を貯めていつか牝牛を手に入れる。子牛を売った金で果樹園を作る。十年後には収穫を手伝う子供らの笑い声が響くはずだと。 「渇いてるだろ」  ケリーは相変らず無口だ。でも心からは思いが溢れる。  赤ん坊が飲む乳は母親の血だ。オレも親の血を飲んで育った。これは罪なんかじゃない。それにオレは二人分食べてる。まだまだ平気だ。  血の絆を介して伝わる思いは、嬉しくて辛い。 「ありがとう、ケリー」  さりさりとした頭とヒゲに触れ、ヤブイチゴより黒くツヤのある目を見つめる。半年前から伸びなくなった髪をかきあげ、日に焼けた首筋にキスをした。恐れと期待が混ざった吐息が耳をくすぐり、ケリーの喉ぼとけが動く。  私がかつて強いられた忌まわしい行為を、愛する夫にする。嫌だと心はつぶやくのに、ケリーの血は熱く甘く喉をすべり落ちる。二つの傷からほとばしる命。温かみと心地よさが冷たい身体に広がる。悦びの奥に現れる切なさと罪悪感が教えてくれる。これは死に向かってゆく空しい愛だと。  だけどケリーの思いと献身を拒んで、渇きと滅びを受け入れられるほど私は強くない。ケリーも苦しみ哀しむ。みかねて私を楽にしてやろうと考えるかも知れない。胸にクイを打ち込み、首を落としたら……私の体と一緒に、ケリーの心はきっと壊れてしまう。  眠りに落ちたケリーに、義母がくれたキルトをかけた。花や草で染められた端切れが描くブドウ。たくさんの孫を期待して縫われた結婚祝い。 「ごめんなさい」  つぶやいてから、静かに部屋を片付け家具を拭く。立ち寄るかもしれない馬のために水を汲み、飼葉小屋に干草と刈った青草を入れた。  裏の農園のスミには、私のお墓。  動く死人となって十日後。訪ねてくる友人や親をごまかし切れなくなって、ケリーは私のお葬式をした。毒ヘビに噛まれた不運を嘆く親戚の涙と、友人が入れてくれた弔いの花に包まれて、私は一度埋められた。  励ますつもりで新しい妻の話をする無邪気な人たちを、罪もなく殺されたヘビの死骸を振り回してケリーは追い払い、私を掘り出してくれた。  それ以来、金や手紙を預かる地下の一時保管庫で昼間は眠り、夜起き出す生活が続いている。  近ごろは馬車の数が減った。夜の街道をいく旅人や馬車はほとんど無い。みんな夜を……吸血鬼を恐れている。だから私は安心して畑仕事が出来る。  カボチャの葉についた虫を取っていた時、北から近づく馬蹄と車輪の音を聞いた。速歩ではなく並足。夜をおして駆ける至急の駅馬車にしては遅い。不安になる。  半年前の不幸も北からやってきた。  予備の馬具を買いに、ケリーが街へ行った日。  蒸し暑く薄暗い、曇り空の早朝だった。  女ひとりでは危ないと、戸も窓も閉じて居留守を使っていた。物言えぬ馬のため水桶だけは一杯にして、家の中で新しいシャツを縫っていた時、馬車が止まった。  下りてきたのは灰色のローブを着た白ヒゲの司祭様と、布鎧の騎士様……窓の隙間から覗いた時はそう思った。 「居るのは若い女ひとりだけだ。酒飲みの夫は夜半まで戻らん。光の入らぬ地下室もある」  獰猛《どうもう》な笑い声。どうしてこちらの事情が分かっているのか。オロオロしているうちに、扉はこじあけられ、あいつらは入ってきた。  水死人みたいな白くむくんだ肌。血走った目。白いヒゲのあいだにひらめく赤い舌。怖くて何も考えられなくて、命じられるまま隠しから保管庫のカギをだし、地下室に案内して……噛まれた。  首を振り、思い出したくない回想を中断する。  あの時につけられた幾つもの噛み痕は、転化すると薄くなり消えていった。でも、押し付けられた屈辱的な快楽と、血を吸い尽くされ体が冷えていく恐怖。そして一度殺された絶望は、怒りに包まれて心に重く残っている。  カボチャの畝《うね》から離れて、カワズ瓜のツルを支柱にはわせ脇芽つみをしていた時、馬車が近づき、止まった。  下りてきた気配は三っつ。心は……読めない。新鮮な水にありついた馬たちの単純な喜びだけを感じる。  なぜか落ち着かない。  そうだ、夜だからと油断して戸締りをしてなかった。ケリーは疲れと貧血で熟睡している。もし、盗賊だったら……  この手で引き裂いて夫と駅を守る。  足音を忍ばせて表に回った。星明りの下、私の姿は闇に紛れ、人の眼には見えないはず。  水桶のそばで馬の飲みっぷりを見ていたヒゲの男が顔を上げる。法服を着た蜜色の髪の女が馬車の荷からスタッフを引き出す。そして白い髪の男が、木の陰にしゃがんでいた私をまっすぐ指差した。 「そこね。ホーリーシンボル完成するまで足止めして!」  ホーリーシンボル。子供のころ人形劇で聞いた言葉。不死の身を浄化し滅ぼす光の術。  女の首には銀色のネックガード。あいつらとは違って、今度は本物の……私を終わらせる力を持ったテンプルの聖女様。  悲しさよりも安らぎを感じたのが、不思議だった。  無残に破れた夢を二人でつづりあわせた、ままごとめいた歪んだ幸福が終わる。  濃い森に抱かれ、ひっそりと建つ小さな駅。見えざる使い魔を飛ばし、アレフが探りあてた気配は二つ。  眠っている人と、動いている人ではないもの。  双方とも心は読めない。異なる血に連なる不死者とそのしもべ。 「争いに来たワケでは……」  駅の前で血気にはやるティアを制しながら、木陰に潜む不死者への言葉を飲み込む。  バックスとその血族相手に事を構えるつもりはない。だが、薄青のスカーフで髪をおおったエプロン姿の農婦を、争いに巻き込もうとしているのは確かだ。 「その吸血鬼以外に、駅に住み込んでる人もいるんだよね。しもべにされた」ティアが笑う「そいつを滅ぼさないと、生き血を貪れないんじゃない?」  農婦が立ち上がり栗色の目を見開く。肉感的な唇が引き結ばれた。吹きつける殺意。まったく余計な事ばかり言ってくれる。 「他の者のしもべに手を出すような無作法はしない」 「でも、あいつらは、あんたのしもべを殺したよ」  シャルとかいうバックスの末《すえ》がした事を、ここでやりかえしてどうする。  それに彼女は農園で作物の世話をしていた。不死者が食べもしない野菜を慈しむ理由。ブドウ酒作りに腐心していた父のように、庇護下にある生者への情だとしたら……守っている者に手を出そうとすれば、壮絶な報復にあうはず。 「始祖バックス殿の血を受けし闇の公女《プリンセス》とお見受けする。連れの無礼を、どうかお許しいただきたい」  通じるかどうか分からないが、古き時代の礼にのっとって語りかける。 「ここに立ち寄ったのは……馬のための水と飼葉を求めてのこと。誓って公女殿下とその庇護下にある者を害する意図はない。むしろ、ここでお会いできたのは望外の幸運。防人《さきもり》を任じられし公女殿下。どうか始祖バックス殿にお取次ぎを。私は……」  正式な名を告げる前に、困惑した表情の婦人が数歩近づいて首をかしげた。 「何を言っているのかわからない。プリンセスというのはお姫様のこと? 私、そんなたいそうなモンじゃない。サキモリなんて知らない。その、バックスって誰?」  始祖の名を知らない闇の公女《プリンセス》。違和感というより異質。重い使命や権限を与えられている訳でもない。なら、なぜ不死を与えた。 「あなたは白いヒゲの老人、バックス元司教に血を捧げ、代わりに力を与えられて転化したのでは?」 「テンカ?」 「その……吸血鬼になること」  始祖と闇の子は強く心を結ばれ、時には知識と感覚を共有する分身ともなるはず。資質や相性にもよるし、関係を一概に決められはしないが……彼女の知識と繋がりは、行きずりに襲われ捨て置かれた贄と大差ないように思える。 「なんだか硬くて気取った言い方。あいつらに体中を噛まれて吸われて、呪われた死人になったのが転化……」  あいつら? 「バックス以外の者からも、口付けを受けたのか」 「怖いおじいさんに噛まれて死にかけたあと、青白い手を伸ばす騎士や女の吸血鬼の方に突き飛ばされて」  顔をゆがめ言葉にならない呟きをもらしながら、不快そうに首や手をこする。群れからはぐれた仔クジラが、サメに囲まれ食らいつされるような、無残な光景が脳裏に浮かぶ。  それにしても、恋仲でも親子でもない闇の子と贄を共有するとは……バックスは破滅や自傷に耽溺する、かなり特異な感性の持ち主なのだろうか。 「では、心話は?」 「シンワ?」 「口に出さずとも通じる会話。相手が血族なら地の果てでも届くはず。心を読みあうようなモノだが」  困惑した表情のまま、ゆっくりと首が横に振られる。彼女を介しての会話も取次ぎも無理か。 「どうやら私はお客さまのお役に立てそうにないみたいです」  ほんのり赤い頬に、どこか均衡を失った笑みが浮かんだ。 「水は無料です。飼葉が入用なら馬一頭に銅貨三枚を。スープ一杯とパンひとつは銅貨五枚がここらの相場です。人より馬の方がたくさん食べるのに変でしょう」  駅員としての口上が芝居めいて聞こえる。  息を吸い込むと刈りたての青草とスープの匂いがした。ふと駅舎を見た瞬間、胸倉を掴まれた。人にはあり得えぬ速さと力。 「夫は噛ませない。悪いけど、あんたの為のものはない」 「承知している」  安心させようと微笑みながら、不安が頭をもたげる。夫婦者が住み込みで小さな駅を管理しているのはよくある事だが。 「ここに立ち寄った客から、血をもらう事は?」 「そんな事、しない! 私はケリーだけで十分だもの」  追い詰められた目。いつごろ転化したのだろう。しもべ一人では、いずれ限界が来る。だが……忠告しなくても彼女は多分わかっている。 「旦那さん、今に死んじゃうよ」  遠慮を知らぬティアの言葉に、一瞬こわばった女吸血鬼の顔が、おだやかに弛緩する。 「あたしなら、あんたを滅ぼすことが出来るよ。旦那さんは助かる」 「それで、あなたの愛しい人に、私の夫を与えるの?」 「愛しいって、あたしは別に」  珍しく動揺したティアに、向けられたのは恐ろしい笑みと低い声。 「それだけは許さない。ケリーは私だけのもの」 「これを……」  敵意をそらすために、紅い指輪を二つ、目の前に突き出してみた。 「あなたを転化させた始祖の討伐にモル司祭が差し向けられた。迎え討つために我らは来た。負けるつもりはないが……万が一、バックスが滅べば、貴女と貴女が転化させた守護《ガーディアン》は不死の力を失い灰になる。これは保険だ」 「積荷が損なわれた時の、賠償の掛け金みたいなもの?」 「バックスが滅びても、私が生き残れたなら、この指輪を介して命を支える事が出来るかも知れない。転化後の者に試した事はないが。理論的には……」  怒りが抜けた後に残ったのは、透明な無表情。細かい理屈は省いて、植物の汁で汚れた冷たい手に指輪を握らせた。  不意に扉が開いた。慌てて手を離したひょうしに、足元へ指輪が落ちる。 「何、してる」  怒鳴ろうとして息ぎれ、開けた扉にすがって目まいがおさまるのを待つ男に、妻への非礼を詫び、馬車に戻った。 「用が済んだなら先を急げ。ここらの夜は物騒だ」  馬を梶棒の間に戻し、くびきに繋ぎなおすドルクを手探りで手伝う男の目は、闇に浮かび上がるティアの法服に向けられている。 「美人の奥さんもらうと大変ね」  からかうティアに乗車をうながし、あわただしく出立した。  意識を向けると、闇の中で二人が何かに怯えるように寄り添うのが感じられた。  いずれ、彼女は夫を死なせ、転化させる。  ネリィが滅びた時、私が半狂乱になって蘇生を願ったように、愛する者の死はつらく受け入れがたい。蘇らせる手段がそこにあれば、何であろうとしがみついてしまう。  ばらまかれた不死は、人の情によって広がっていく。止めどなく増えた不死者は生者を食いつくし、その先に待つのは飢餓による混乱と自滅。火刑はやむなき措置かもしれないと考えかけて、即座に否定した。  それより覚悟しておかなくてはならない事がある。 「あのような者達を、争いにかり出すのか」  ごく普通の父であり夫である者、母であり妻である者。バックスと命運を共にする者達である以上、否やはないだろうが……気が重かった。  橙色の波間に飛び込んだ白い鳥が、赤いクチバシに小魚をくわえて舞い上がる。頭が黒い。旅をやめたはぐれアジサシだろうか。 「大きい川はコクトスで最後なんだけど」  地図を弾く音が耳に突き刺さる。ドルクは御者台から車中を振り返った。 「……まだダメ?」  ため息をつくティアさんの前で、アレフ様は弱々しく首を振っておられる。 「船着場で満潮がいつか聞いてまいります」  高く広い苔むした石橋のたもとに止めた馬車を離れ、長い影を落とす杉の丸太で組まれた市門をくぐった。 「やっぱ夜道はやめとくかい?」  声をかける門番には苦笑で応える。  北の空の縁《ふち》に頼りなく浮いている陽や、どちらに流れているのか見ただけでは分からない川のせいにしておられるが、ご気分がすぐれない理由は別にあると感じていた。  ここシルウィア港の城壁にも、人を焼いた臭いが染み付いている。潮の香りや汽水域の泥くささを圧する不吉な臭気は、血を求めて闇をさまよう不死人に向けられた敵意の表れ。日没ともに市門は閉ざされ、人は丸太と泥の壁の内側……魔よけを施した家の中に閉じこもる。  二十年前、東大陸との交易を禁じた石壁と塔を持つ教会も、今は空っぽ。鐘は時を告げず子供たちの姿もない。森の大陸南部は見捨てられたとロバにも分かる。金と力のある者は安全な北へ逃れた。残っているのは逃げたくても逃げられない弱い者か、信念や愛郷心に殉じる愚か者。 「おーい、あんた……聖女様のお供の人だったよな」  東の倉庫前で鼻の丸い男が手を振っていた。愚直と呼ぶにしても人が良すぎる青年は川で艀を差配する船頭組合の代行理事。名はライリーだったろうか。 「もう行ったと思ったが……やっぱブルっちまったか?」  首には破邪の紋を刻んだ香木のチョーカー。街の周囲に埋めた水ガメとかがり火の結界ともども、ティアさんが魔よけとして指導したモノだが……どれほど効果が見込めるものやら。少なくともアレフ様は気にしておられなかった。 「魚臭いだろ」  豪快に笑いながらライリーが振り返るのは、四頭の馬を繋いだ荷馬車。連結された荷車には干し魚の樽と穀物袋が限界まで積まれ、縄と布で固定されていた。 「昨日、川舟で届いたシリルの香茶と薬草の対価さ」 「返す舟に乗せるとおっしゃってましたよね。水上の方が夜は安全だと」 「それがさぁ、みんなビビっちまって川登り出来るほど漕ぎ手が集まらなくて、参ったよ。しょうがないから、俺ひとりで運ぶことにした。シリルに牛や羊はいないし麦畑もないから、みんなひもじい思いをしてるハズさ」  ウッドランド城のグリエラス様は森を愛するあまり、家畜と耕作地に重い税をかけられた。それが、いまだに尾を引いているらしい。森の太守が滅びた後もオキテが守られる理由は森の恵み……香茶と薬草がいい金になるからだろう。 「干し魚や麦を必要としている者がまだいると良いのですが」 「パーシーさんが頑張ってるかぎり、シリルは無くならないさ」  ライリーの声に敬意と憧れがにじむ。シリルの長の名か。いまだに持ちこたえているとすれば、パーシーとかいう者の指示で、シリルの周囲には魔を退ける結界が張られているかもしれない。 「もし、よろしかったら……私たちで運びましょうか」 「そういや、あんたら商人だっけ。力のある聖女様を護衛に雇えるって事は、デカい商売してるんだろうなぁ。こんな運び屋みたいな賃仕事、若旦那が嫌がらないかい?」 「まあ、何事も経験ですから」  そんなものかと、うなづく単純な青年理事に、荷馬車と馬を借りる保証金として紅玉を二つ渡し、御者台をゆずってもらった。 「パーシーさんは意外とケチんぼなんだ。うまいこと話を持ってかないと、駄賃を値切られちまうから気をつけろよ」  手綱に手をかけてから、聞かねばならないことを思い出した。 「ところで、次の満潮はいつかご存知ですか」 「川の流れが止まるのは……陽があの二連山の間に来る頃かな」  淡い紫色のなだらかな二つの影を眺める。あの山のむこう、森の間に点在する村々のうち、もっとも城に近く大きなものがシリルだった。 「急げよ、川の流れが止まると、吸血鬼が渡ってくるっていうから。まぁ、本当かどうかは分かんないけどさ」  あいまいに笑ってうなづき、馬車ウマの重そうな尻にムチを当てた。荷が重い上に、四頭の息がいまひとつ合わず、動き出すまで少しかかった。曲がり角では後方の荷車の動きに注意が要る。慣れるまでは歩くより遅い速度でゆくしかない。  さて、もう一台の馬車をどうするか。ティアさんは馬車も操れたハズだが、夜目が利かない。  見よう見まねでどこまでお出来になるか…… 「まぁ、何事も経験でございますかね」  少なくとも悩まれるお時間は減るはずだ。  ▽ 第十一章 古都キニル △ 一 森のささやき  霧をふくんだ夜風が無数の葉をゆらせる。つややかなトネリコ。裏の白いカシ。赤き賢人スギの針葉。馬車の行く手、木の根に侵食されかけた街道には、枯れ葉と細き月明りの、かそけき舞い。  御者台で感じる木々の芳香に、アレフは懐かしさを覚えていた。ここは東大陸の植物たちのふるさと。グリエラスによって耐乾性を与えられた種子をたずさえ、人々は河口の港から旅立った。海の彼方の荒れ地を目指して。  だが、造船でも名高かった貿易港シルウィアは、見る影もなくさびれていた。大河コクトスを下る筏《いかだ》や平底船も見あたらない。並行する街道にはハンノキやヤナギが迫り、轍《わだち》も消えかけている。  まろうど……  まろうど?  おなじ、まろうど?  あらたな、まろうど。  うるわしい、まろうど。  なつかしい、まろうど。  こんどは、まことの…… 「なんか葉ずれが騒がしいんだけど」  横で毛布に包まっていたティアがつぶやく。もう1人で馬を御せるから車内で眠れと言ったが聞く耳をもたない。初日に馬を暴れさせてひどい脱輪をしたのは確かだが。かなり信用を失ったらしい。  月の細い夜。人の目では、緑鮮やかな梢《こずえ》と夜空の見分けもつき難い。東の空が白むまでは、ゆるやかに心と視界を重ねてはいるが、石や根、道のくぼみに私が気付かないかぎりティアも気付く事はできない。横に居ても役には立たないのに。 「夜目が効かなくて悪かったわね。それより、まろう……ナンとかって、言葉みたいな音は何?」 「客人《まろうど》。幼い樹霊は物見高い。遠方から来た我々が珍しくて、ウワサしているんだろう」 「木が?」  笑いかけたティアに口をつぐむよう、仕草で注意する。 「ウッドランドでは、森や木の悪口を言わない方がいい。道に迷ったり根につまづいたり、ロクな事にならない」 「緑の髪の乙女? 若い男を樹の中に引き込むドライアドねぇ。心配することないんじゃない? ン百歳のジジイなんて思いっきり対象外。それに女がいたら姿を見せないんでしょ」  ここのドライアドは樹と人を融合させて、グリエラス・フリクターが作り出した眷属だ。昔話の樹精とは性質や性格が異なる。樹と共に滅びるのを良しとせず、時を操り休眠を駆使して数千年の永い時を生き延びてきた、最古の老女達。 「彼女たちが棲む大樹は、森の最深部。ウッドランド城を囲む森にある。ここらにいるのは、ドライアド達の子孫。知恵ある木には違いないが、人型を取ることはない」 「でも、切り倒すと赤い樹液とか出そうよね。薪《まき》を取ったら痛いって大騒ぎ。木の実を食べたら子殺しの極悪人として一生恨まれちゃうとか?」 「森に火を放ったり、断りもなく斧を振るえば報復もあるだろうが……木の実や香茶の元となる若葉を取るのはかまわないはずだ。その分、新たな苗木を植えれば」  この地に住む人は、森のために存在する。下草を刈り取り、増えすぎた草食獣を捕らえ、込みすぎた枝や若木を間引く。  ここでは、人が樹上で生きる手の長い獣だった頃の暮らしが、続いているといえる。もちろん果樹や茶樹の人工林は存在するし、ソバも栽培されている。だが、大規模な牧畜や畑作は行われていない。  後ろからついてくる荷馬車とドルクの気配に耳を済ませる。サケやマスが川を上る季節以外は、海から届く干し魚がたより。野鹿や野ウサギは簡単に捕れるものでもない。塩が貴重な山里では燻製《くんせい》も贅沢品だ。 「森のにおい……変わった?」  ティアの言葉に、夜明け前の空気を吸い込んでみる。湿った枯れ葉と朽木と、キノコの香り。注意深く森を見ると、切り株や三角に組まれた太い枝が木の間に見えた。キノコの栽培地。人里が近い。 「順調ならそろそろラウルスにつくんだっけ。南東のドラゴンズマウントへ向かう街道の分岐点」  自分では暗くて読めない地図をティアが取り出し、眼前に突きつけてくる。 「門は閉まっているはずだ。夜が明けるまで入れないだろう」  門が開いたとして、聖水等による魔か人かの判別があったらどうするか。道の彼方に見えてきた、尖った丸太の壁と見張り台を眺めながら、何とかあざむく方法はないか、考え始めた。  星が残る空に向かって立ち並ぶ、樹皮がついた丸太。人の背の五倍はある。不死者の跳躍力でも超えがたいラウルスの防壁は、シルウィア港より堅固に見えた。  門を守る櫓《やぐら》も港より高い。弓を携《たずさ》えた男たちが見下ろしている。いく種かの木の実油を混ぜた臭い。火炎呪の触媒《しょくばい》か。鉄で補強された門の上には一抱えはある石が十ばかり下がっている。支えるナワを切れば門をふさぎ侵入者を押しつぶす不穏な仕掛け。  明るむ空に振り返れば、しらじらと浮かびあがる川と道。枝を伸べる木々をつらぬき、朝日が鋭く射しこむ。陽光を中和するためにルナリングが力を奪いはじめる。黒いフードを下ろしたい誘惑にかられながら、アレフは安堵の笑みを浮かべて見せた。 「悪かったな、疑って」  クサリを手繰る音。木の歯車のきしみ。門が内側へ、ゆっくりと上がってゆく。 「川が近いなら、堀を切るという手もありますよ」 「堀?」 「柵の外側にミゾをめぐらせ石と粘土で防水し、川を引き込んで流れで囲む。火による浄化は強力だが……森が喜ばないでしょう」  古い文献で読んだ水と泥による防御。バフルには海水を引き込んだ堀の遺構があった。 「旅人さんは物知りだね。おや、髪が白いから年寄りと孫娘かと思ってたが……息子と同い年くらいか」  あいまいにうなづきながら門の脇に置かれた樽《たる》を注視した。さかしまに生けられた枝。腐敗を防ぐ酢と塩の匂い。だが、汲み置き水ならではの腐臭もキツい。 「こりゃあ、教会にいた司祭様が残してった聖水だ。あんたらが魔物の眷属かどうか……なに、形式的なもんだ。少し振りかけるだけ」 「その司祭様は?」  ハシゴを降りてきた男の顔が、沈痛そうにゆがむ。 「シリルに行ったまま戻らん。今は読み書きが得意なモンが交代で子供を教えてるよ」 (大丈夫、もう力は抜けてる)  馬車を降り、樽を覗き込んだティアが心話を送ってきた。見ると鼻をつまんでいる。 「これ、追い足ししてたでしょ。ヨーグルトやパン種じゃないんだから」  数滴の元聖水がふりかかる。肌を焼く痛みはないが、若枝の芳香では消しきれない悪臭には顔がゆがむ。  ティアが毛布を投げて寄越した。 「あんた、テンプルの聖女さんだったのか」  灰色の法服が注目を集めている間に、馬車を門の内側に進めた。 「新しい樽をキレイな水で一杯にして。聖水作るから」 (停滞の方陣ってこうだっけ?)  ティアが脳裏に浮かべたのは、物質の変化を緩やかにする力ある図形。一度見せただけだというのに、素晴らしい記憶力だ。  ドルクが門の内に荷馬車を進めた。荷をあらためた顔色の悪い男が、干し魚を二本ばかりくすねるのを笑って見逃している。 「目的地はシリルだったか。数日前に舟が下るのは見たが、まだ健在だったんだな」 「パーシーさんはなかなかの人物でいらっしゃると」 「パーシバル・ホープか。ガンコで無慈悲でヘコたれないオヤジだよ。あんたは……」 「スフィーで小商いをしております、ダーモッド・ブースと申します」  ドルクの偽名と仮の職業を書き付けた顔色の悪い男が、紙巻の炭筆を向けてくる。 「そっちは?」 「彼女はティア・ブラスフォード。治癒と浄化のワザに長けた聖女見習いさんです。私はアラン・ファレル。在野の魔法師」 「あたしの治癒呪を盗みたがってる、試験落ちした治療士よ」  置かれた樽に水が満たされてゆくのを待ちながら、ティアが口を挟む。目は樽から離れず、火炎呪を応用して方陣を刻む指も止めない。  不審そうな男の視線を追って、あわてて言い添えた。 「光を失った服職人さんの左目を治した時、薬代として服を仕立ててもらったんですが……似合いませんかね?」 「あんた、腕のいい治療士さんかい」  男の心に、夜の眠りを邪魔する背中の痛みがよぎる。 「顔色が少し悪いようですが、診ましょうか?」  すがるような視線が向けられた時、警戒が完全に解けたの確信した。  脊髄《せきずい》を圧する変形した軟骨を治してやると、男は喜んで宿に案内してくれた。旅客が減りヒマをもてあまして慣れぬ自警員をしていたが、本業は宿の主人らしい。  木目が整った板張りの壁。太い柱が支える屋根をふくのは厚く重ねられた樹皮。木の香り漂う上等の客室が、臨時の診療所として提供された。昼間、暗い室内にこもっていても、疑われぬ口実さえ得られれば、何でもいい。  イボや不適切に繋がれた骨折程度なら、治癒呪で治せる。精神的なものなら、いつもの様に心を読み記憶をいじり、認識を組み替えれば改善できる。感染症なら……病への抵抗力をつけるためと言いくるめて瀉血《しゃけつ》も行える。静脈から皿に流れ出た血の行方は誰も気にしない。  だが…… 「母の形見の、金の指輪がどうしても見つからなくて」  体調の相談ならまだしも、失せ物探しまで頼まれるのはなぜだ? どうも治療士という職は占い師やマジナイ師に限りなく近いものらしい。 「いつごろ、無いのに気付きましたか」  水仕事に荒れた手に触れ、質問が引き起こすさざなみに導かれるまま、心の深層に折り重なる記憶の断片を探る。 「ひと月前……」  怪しいのは衣装箱と黒ネコ。念のため部屋の周囲を警戒させている、透明なコウモリを女の家に差し向け、家具の下でホコリに埋もれている指輪を確認した。 「いちど衣装箱を持ち上げてごらんなさい。それと、あなたのエプロンに黒い毛をつけた子を叱らないでください」  婦人が出て行った扉にもたれて、ティアがニヤついていた。 「調子良さそうね。何かというと手を握りたがるイロ男の治療士サン」  ささいな悩みを抱えた女の相談者が多い理由は、ソレか。  苦笑を浮かべて、新たな相談者の気配をさぐる。下の階に静けさと奇妙なざわめき。上がってくるのは若い……いや、幼い心。見えてきたのは十《とお》になるやならずの細くこわばった娘。  土色にカサついた肌。黄色い唇。ドングリ色の眼。そして深緑の髪。自分より小柄な娘を、ティアが無遠慮に見つめる。 「……ドライアド」 「いや、この子には実体がある」  しかし人ならざるこの子には、幻術も魅了もおそらく効かない。 「姉さん達が言ってた。あなたが客人《まろうど》?」  傾けられた顔は幼く、無表情だった。  宿の主が上がってくる気配。今は真昼。ここで不用意なことを口走られたら……。 「母さんの体から作ったトネリコの弓をあげるって、姉さん達が言ってた。矢を作るための歪みの無い箆《の》とフクロウの羽もあげる。でも、銀の矢尻は人の手でないと鍛えられない」  宙を見つめつぶやき続ける娘を、宿の主が怒鳴りつけた。愛想笑いを浮かべ、娘の肩をつかみ、階下へ押し戻してゆく。 「すみません。妙なこと口走ったかも知れんが気にせんでください。ワタシのひいひいジイさんとトネリコの樹の間にデキた娘だって、ヘンな言いがかりつけて先月から住み着いちまった森の子です」 「森の、子?」 「たまぁに、森からやって来て村に住み着いて、いつの間にかいなくなる、可哀想な緑髪の子供です。夢みたいな世迷いごとばかり口走って、マトモに話も通じやしない」  あの娘の言葉を誰も信じないなら、安心か。  だが、銀の矢尻とは……ガラスを掻く音のように、耳に不快な響きだった。  長い夕暮れの影をぬい、前をゆく小ぶりな箱馬車をドルクは見やった。今、ムチを手に馬を御しているのはティアさんだ。アレフ様は淡い木もれ日を避け車中で休んでおられる。出立時に渡された皮袋の重みを不思議そうに確かめながら。  振り向けば、荷車に積みあげた干し魚の樽や麻袋ごしに、夕日を浴びたラウルスの防壁が見える。見張り台で手を振っているのは、夕刻の出立は考え直せと、最後まで引き止めていた宿の主人のようだ。  昨日と今日。たった2日間の診療所は、ここ最近の宿の赤字を返してのけたらしい。もしかすると商売替えを夢見たのかも知れない。妻子を北へやってから、酒びたりになった赤鼻の治療士に成り代われるのではないかと。  思い出し笑いがこみ上げた。  訪れた患者から宿の主がせしめた診療代の一部を渡された時のアレフ様のきょとんとした顔。無償のおつもりだったのか、相談者から密かに得た血を対価と思っておられたのか。  あるいは……ご自分で初めて稼がれた金に戸惑っておられたのかも知れない。  ドルクに手渡されたのは、奇妙な少女のやせた手になる弓の弦《つる》ひと巻き。雷神草から紡いで縒《よ》って樹液を染ませた上物だ。アレフ様に用意するよう言われて、鍛冶屋に鋳造《ちゅうぞう》させた銀の矢尻といい、人狼が懐に抱いて嬉しいものではない。  日が落ちて、薄い霧ごしに一番星が見える頃、前を行く馬車が止まる。  いつもなら御者台に向かわれるはずの主の白い頭が、森に向いた。馬車から離れ、夢遊病者のように木々の間に歩んでゆかれる。ティアさんが呼び止めても振り返られない。 「すみません、馬車をみててください」  手綱を傍らの木に巻きつけ、ティアに後を頼んだドルクは主を追って、森に踏み込んだ。春は小さな花で埋め尽くされる森も、今の季節は下草もまばら。朽ち葉は厚く、じゅうたんのように柔らかく足を沈ませる。  夜風と葉ずれに混ざるのは、小動物の立てる音と鳥の声。イノシシやシカのにおいは古く、危ない牙ネコやクマの気配は感じない。親方が初めて狩りの手ほどきをしてくれた、故郷の優しい森をドルクは思い出した。  人の手で作られた東大陸の薄っぺらい森や、雑多な命にあふれた中央大陸の森とは、臭いも風も音も違う。何より虫の声が聞こえない。樹液を吸うセミや、緑を食い尽くすイナゴやイモムシの類を、森は嫌う。見かけるのはハチやアブ。水面に立つ蚊柱とトンボ。朽木を崩し枯葉を土に返す甲虫とアリ。妖精の化身のような美しいチョウもいるが、木の葉ではなく草を食べてサナギとなる種ばかりだ。  それにしても……迷いも見せず、森を行かれる主の背を見ていると不安がつのる。ドライアドに誘惑され、数百年を眠りの中で過ごした若い木こりの話が頭をよぎる。  不意に、頭上の葉がとぎれた。星明りの下に広がる丸い草地。古き大樹が死んだ時に生まれる空間。キノコが大地に輪を描き、虫がきらめく中に、中空の幹があった。 「雷でも落ちたのでしょうか」  立ち止まっておられたアレフ様がゆっくりと首をふる。 「心を」  開けとおっしゃるのか。目を閉じ、心話の要領で主の意識に触れた。  直後、周囲を包む緑の光に驚いた。  陽光を求めて天空に枝を差し伸べる、つややかなトネリコの大樹。多くの鳥や虫を宝石のようにまとい、風に歌い雨に笑い、体内で育む愛しい人の忘れ形見に微笑む貴婦人。緑のドレスをまとった美女の幻影が木の前に立ち現れた。巨人といえる大きさだが威圧感はない。 「私たちを切り倒す武器を持ちし戦士よ。私はグリエラス・フリクター様の眷属、メリアデスの末娘……私がこの地に災いを導きました。あの者が街道を行くのを見たとき、造り主が戻ってきたとかん違いしてして、姉や伯母たちに歓迎するよう触れ回ったのです」  バックスとかいう元司教のことか。 「だけど、あの者は森に敬意を払わず、我が母を見せしめに焼きました。全ては私の軽率がまねいたこと。その罪を償うため、折れぬ弓を生み、我が娘に戦士をここまで導くよう命じました」  貴婦人が自らの身を裂く。血の代わりに樹液があふれ、大人の身長ほどもある優美な弓と、弦《つる》をくれたあの少女が現れた。 「だが、我らはバックスと手を結び、ある者を討とうとここ来ている」  アレフ様の声。先ほどと同じ立ち居地に……貴婦人の幻影に重なるようにたたずむ主の姿が見えた。 「人が木から離れて生きられぬように、あなた様も人から離れては生きられません。私が取るに足りぬ若木であった頃から、御身を養う温かき血を持つ人々を守護してこられたのでしょう」  貴婦人はほがらからに笑い、少女が弓を差し出す。  無言でアレフ様が弓を受け取られる。貴婦人は樹に戻り、周囲に夜が戻った。眼前にあるのは空ろな幹。枯死した大樹。  夢でも見ていた心地だが、主の手には夜目にも白い長弓が握られていた。  不意に頭上に影がさした。数十羽のフクロウが音も無く舞い、矢の素材となる真っ直ぐな木の棒と、羽を落としてゆく。困惑したまま、主と共に拾い集め、馬車に戻った。  猟師だった時に使っていたのは、ハンニの木やハゼをニカワで貼り合わせた短弓。だが、一本の木から成る長弓も、基本は同じはず。弦を張り中仕掛けをほどこす。矢はとりあえず3本だけ作ってみた。  まず、アレフ様にお渡しした。  手袋をしていただき、持ち方をお教えする。 「矢はつがえてくださいませ。大事な弓を守るためにも」  腕力は十分なはずだが、なんとも構えが不安定でうまく引くことがお出来にならない。矢はあさっての方に短く飛び、弦《つる》で、ほほと腕のうち肉を傷つけてしまわれた。 「こうよ」  ティアさんの構えは美しい。コツはわかっているようで、アレフ様よりうまく引き絞ってはいるが、非力はいかんともしがたい。なんとか狙った方には飛ぶといった状態か。 「考えたらさぁ、あたしは投げナイフがあるし、アレフは攻撃呪があるじゃない。わざわざ練習してまで、面倒くさい弓なんか使う必要、無いと思うんだ」  トネリコの弓と銀の矢を持つのは、わたくしの役ということか。人であった頃なら、引くのがやっとという強弓。だが、獣人の力をもってすれば、狙った的に続けて当てるのも難しくはない。しかし……。  緑の貴婦人が残した言葉が正しいとするなら、アレフ様はこの先、とても辛い思いをなさる。不死者を滅ぼすこの武器が、主を狂気から救う一矢とならぬよう、願うばかりだ。 二 シリル  爪を黒ずませて摘んだ若葉は、すぐ蒸して日陰で乾かす。飲む前に石臼にかけ、なめらかな粉末にする。水を少しずつ加えながら混ぜ続け、ユリやカタクリの球根をすり下ろしてしぼり入れる。 「貴重な塩をひとつまみ。火は熾《お》き火でトロトロと。泡が出たら火を引き余熱で仕上げる」  威厳と願掛けのために伸ばし続けているヒゲに、まとわりつく白い湯気。静かな教会の厨房で、パーシーは暁の日課にいそしんでいた。  父に教えられた通りに淹れた、とろりと熱い黒茶。大きな鉄のポットに移しかえキルトをかぶせて保温する。盆に載せたカップには花鳥の彫金。ビーズや貝が薄闇に光る。亡き妻の嫁入り道具だ。せめて海を越えてきた贅沢な器で、監禁と忍耐に報いたい。 「徹夜の見張り、ごくろう様」  廊下の奥、鉄格子の前でアクビしているカータスの次男坊に声をかける。鉄片を縫い付けた布ヨロイは城の衛士だった親父さんの形見。ヤリの穂先がにぶく光る。  貴重な銀を使った武器は、これを含めて十本あまり。村を守るので精一杯。攻めに出るのはもうムリだ。  厳重な二つの錠前と閂《かんぬき》を外すと、地下への階段が現れる。本来は預り金や教会の文書を保管する場所。だが現金や帳簿類は全て、半年前に引き上げられた。  階段の先、二重の鉄格子の奥には、いくつかの人影。だが通常の牢屋と違って悪臭はない。自主的に捕らわれ人となっているのはフケもアカもなく、息をせず排泄もしない者ばかり。石壁に過ごした夜の数を爪で刻みながら、滅びの時を待つ、死人となった村人たち。  ロウソクのわずかな明りにも眩しげに目をおおう彼らのために、温かい茶を注いで盆に載せ、格子の下から差し入れた。 「黒茶だ」  無言で茶に集まる大小の影。一番ちいさいのはカータスの末娘。まだ三歳のはず。上で滅び行く妹を見張る兄の気持ちは想像して余りある。  かつてウッドランドを治めていた太守グリエラスが、血の代用品として作り出した黒茶。意識が澄み気持ちは高ぶり、徹夜明けの疲れぐらいは吹き飛ぶ。飢えと渇きをひととき忘れる事も出来る。だが、これだけでは人も不死者も長らえる事は出来ない。  先日、ルイザ婆さんがここで灰になった。生前に被っていたスカーフに包まれた白い粉末を日にさらし、墓に埋めたのは二日前、いや、もう三日前か。 「すまんな」 「いいえ、村でおだやかな最期を迎えられるだけで十分です」  五歳の子を残してきたカーラの気丈な声。皆が飲み終わり、器を載せた盆を押し返すのは、司祭どもに案内人として雇われ、討伐の結果を知らせるために、化け物あつかいされるのを覚悟で戻ってきたケニスのゴツい手。  噛まれても始祖の呪縛を受けず、死人となっても村に留まることを望んだ意思強き者たち。そして愛するものの血を啜ってまで永らえる事は望まぬ、心優しき者たち。 「明けない夜は無い」  希望の言葉が空しく響く。家族への手紙や不安を紛らわせるためにこしらえた手芸品を受け取り、石の階段を登る。光がまぶしい。生者の世界へもどった証。盆と共に握っていた手燭の灯を吹き消し、閂を下ろし二つの錠前で止め、カギの一つをカータスの次男坊に託す。  目の下にクマをつくった若者に黒茶を一杯ふるまい、表の井戸で水を汲みポットと器を洗う。全ての器を拭きおわる頃、東の防壁から陽がさした。狭く息の詰る村に変えてしまった丸太の壁。各家の扉や窓には破邪の紋を刻んだ物々しい魔よけ。  全ては約十ヶ月前に始まった。  スゥエンのとこのサニーがいなくなり、血を失い青ざめた死体で見つかった。少年の喉には忌まわしい噛み傷。涙に暮れた若夫婦が我が子を連れ帰ったその晩、サニーはよみがえり母親を襲おうとした。そして、万が一のために詰めていた若者と司祭の手で滅ぼされた。  原因は察していた。一年前、教会に納める寄付という名の税金を、特産の香茶や薬草の出荷制限をタテに、値切った。魔物はほとんどいなくなっていた。重い寄付金を課せられる理由は無いと突っぱねた。  厄介な魔物を召喚し操っているのは教会に属するテンプルだ。教会の総本山が中央大陸に移動してから、新顔の魔物どもは姿を消した。  残ったのは闇の太守が遺していったドライアドや、辺境のドラゴン族。不用意に手出ししたり機嫌をそこねない限り、危険の無い連中ばかりだった。大体、吸血鬼は東大陸にしかいないといったのは、教会のやつらだ。  もう居ないはずの吸血鬼。村人は勇敢にこの脅威に立ち向かったが、犠牲者は出続けた。自警団が組まれ、夜は独りでは出歩かないと取り決めがなされた。  間もなく、親切顔のテンプルの司祭や騎士たちがあらわれた。敗北感に打ちのめされ、その汚いやり口に義憤を感じながらも、寄付の増額を約束し助けを乞うた。それで悲劇は終わるはずだった。  かつてこの村を穏やかに支配していたヴァンパイア……二十年前にテンプルに滅ぼされたグリエラスの居城に、新しいヴァンパイアが住み着いた。  そうテンプルの司祭らはパーシーに語り、自信たっぷりに討伐にでた。そして、彼らは帰らなかった。戻ったのはケニスひとり。  死人となったケニスが語った討伐隊を見舞った惨劇は、酸鼻をきわめた。  村に残って恩着せがましく交渉していた準司祭の、青ざめた顔も忘れられない。準司祭は慌てて増援を頼む速文を書き、鳥と馬に託し、ケニスを火刑にしろと、八つ当たり同然の大騒ぎをした。  その夜の内に準司祭は血を失った死体になって村の広場の木にぶら下がっていた。残った教会関係者は地下から全てを持ち出し、次の日にはいなくなった。  ケニスをはじめとする、転化した者達から知識を得て防壁を築き、魔よけを施した。シリルから出る犠牲者の数は減ったが、今度は他の村が狙われた。ハントのように数日で全滅した集落もある。  逃げ出したくとも、道で夜を迎えたら何が起きるかわからない。なんとか別の村や町にたどり着いても、シリルから来たと告げたとたん、門は閉ざされ、石もて追われる事もあるという。 「シルウィアから干し魚が届きました!」  物見櫓《ものみやぐら》から呼ばわる声がした。良かった。これでもう少し頑張れる。危険を犯して川を下ったフォレストの勇気は報われた。  鶏の声を圧する騒がしさで、門が開く。人々が家から出てきて門へ向かう。かすかな馬のいななきと車輪の音。なんと荷馬車で夜道を来たのか。かつて船を駆って大洋を渡っていたシルウィアの豪胆な貿易商魂は、健在らしい。  遠目に灰色の法服が見えた。そして木の長弓を背負ったヒゲの男が自警団の若いのと快活にしゃべっている。テンプルの法力と、森の加護を受けた弓が彼らを守ったのか。  あの法服は……死んだ準司祭が速文で呼び寄せるといってた、モル司祭だろうか。小柄だと聞いてはいたが、少年に見える。それに従えている人数も少ない。よそ者は、灰色の法服も含めてわずか三人。皮チョッキのヒゲ男と、背の高い白髪の老人。  いや、法服は女だ。横にいる黒マントも老人ではないようだ。声が若い。思い出せないが、会ったことがあるような気がする。  多分、寝不足からくる錯覚だろう。  パーシーは、既視感を苦笑でまぎらわせた。  水をふくんだ綿が頭にのっているような不快感。ハラワタをよじる吐き気や、手足の鈍いしびれ。シリルの門を潜るときに感じた結界の重圧の向こうに、人々の疲れた顔があった。  木の壁や板ぶきの屋根が、果樹や茶樹の間にみえる。泥と石と漆喰《しっくい》が普通だった故郷の常識からすると贅沢な造りだ。干した牛馬のフンではなく、薪《まき》を燃やしての朝の支度。ただよう煙の香気も富者の証に思える。  しかし、いま目に映っているのは、継ぎ当てしたスボンやスカート。色あせたたチョッキやスカーフをまとう貧しき者たちの家々。偽りの名と職を告げながら、森の大陸がもつ普遍的な豊かさに、アレフは羨望を覚えた。  むろんシリルがただの村でないのは承知している。かつてウッドランド城に出仕していた者の村。ドライアドが触れたがらぬ金属を扱う衛士や下男、火を扱う女中がここから城に通っていたはず。櫓《やぐら》から見下ろしている男がまとう、鉄片を縫い付けた緑布のヨロイは城の守衛のもの。  読心を弾く意思強き灰色のヒゲの男がまとうのは、白いシャツとシカ皮のチョッキ。彼がウワサのパーシーだろうか。増殖を続ける不死者の脅威にさらされながら、皆を鼓舞し理性的な指示でシリルの秩序を保ち続けている雄々しくも健気な村長。  疑われぬうちに、ポケットの水晶玉に触れ幻術を発動させる。人ではなく見慣れた木立や石くれ程度の存在だと誤認させる。集まっていた者たちが興味を失い目をそらせる。干し魚のタルや小麦粉の袋、それらの処置を聞くドルクや、吸血鬼の被害をたずねるティアに人々の関心が集中する。 「この村の長、パーシバル・ホープです。シルウィアからの長い道中、よく無事で」 「村長さま自らのお出迎え、恐れ入ります。いやぁ、この弓をくれた森の貴婦人のご加護と、こちらのティアさんの法術で事なきを。ところで、荷はどういたしましょう」  ねぎらうパーシーと応えるドルクの声を背に、家や小さな菜園をぬって曲がりくねる小道に入った。 「まず、ここでタルをふたつ下ろして下さい。食料は皆で平等に分ける取り決めになっとるんです。私が干し魚の本数を数えて家族数に応じて各戸に割り当てるから、その間に、残りは備蓄倉庫へ。エズラに案内させましょう」  村人の歓声と、順番を守るよう告げる声が次第に遠くなる。  丸太の防壁内では日常が営まれていた。ニワトリやガチョウが騒がしく駆け回る庭先には、寝具や肌着がひるがえる。軒先にぶら下がるハーブの束やリンゴ酒の袋を見やりながら、屋内の気配に心を向ける。  フシの多い床を掃いている子供。火の番をしながらナベをかき回している老人。三角のソバ粒を石臼でひいている老女。腐らせた亜麻やイラクサをツボから出して広げている娘。パーシーがティアに語っているように、村人の四半分が殺されたか転化したとは思えない、のどかさだ。  だが、南の日陰には人を焼いた跡と、多すぎる新しい墓。家の扉には破魔の紋が刻まれ、窓には同じ紋を刻んだ金属や香木か掛けられている。ネギやニンニクの臭いを染みこませた目玉模様の布がひるがえり、野蒜《のびる》を編んだ網目飾りが辻に垂れる。  苦痛ではないが、不快感は次第につのる。日の光が届かぬ日陰でも使い魔の動きがにぶり、たまに読心や気配の察知が出来なくなる。はた織り機を操る小太りの女に狙いを定めるまで、ムダに歩くハメになった。 「すみません、道に洗濯物が落ちていたのですが」  庭先の茶樹にかけてあった湿った前掛けを手に声をかける。ブナの波打つ葉と角張った実が刻まれた破風を見上げながら、魔よけの紋を避けて扉を叩いた。陽のまぶしい朝であるせいか、あっさりと迎え入れられる。 「おや、ご親切に。すまないねぇ、あんたは……誰だい?」  洗濯物に泥がついていないか確かめていた目が、不審そうに寄る。笑みかけ魅了しようとした直後、拒絶の意志が湧き上がる。口が丸く悲鳴の形に開いた。  あせって口をふさぐ。勢いあまって壁に女の頭がぶつかる鈍い音がした。 (この化け物め、青白い血吸い野郎!)  心から悪罵があふれ、うめき声も収まらない。テンプルの戦士より勇敢で強情だ。陽のある今、血の絆で配下にするのは無理かも知れない。口を封じるなら半死になるまで血を…… (もう済んだ?)  ティアからの心話。干し魚の配分は終わり、人々は解散しかけている。急かされるように首筋に口づけした。 「そういえば、変な髪色の魔法士さんは?」  赤い陶酔を破る言葉は、ティアの聴覚からか。 「変とはひどいね。遥か北の雪原の地や海の向こうでは普通に見かける髪色だよ。東大陸の太守も銀髪だった」  婦人の不見識をパーシーがたしなめる。 「魔法士って下調べが大事だから初めての村とか町につくとフラフラ歩き回るの。習性みたいなもんよ。気にしないで」 「ああ、井戸が近すぎるだの、屋根にリンゴの枝が被ってるから切れだの、庭の片スミにある切り株が祟っているだのと、まことしやかに言うアレかね」 「そうそう」  ティアとパーシーの会話を聞いていると、血の味がよく分からなくなる。 「おれ、隣のタックおばさんのトコロに持ってってやるよ」  大剣を背負った大柄な若者が、包帯代わりのリネンのスカーフに干し魚を包んで駆け出す。  タック……  まだ抵抗を続けている、この婦人の姓。呪縛はとてもムリだ。気絶させるのも間に合わない。いっそ喉を食い裂いて息を止め……出来ない。それに、かえって騒ぎが大きくなる。  軽快な足音は、容赦なく近づいてくる。  仕方なく治癒呪をかけながら口づけを終えた。アースラ・タックの首筋に小さく残った紅い二つの印。呪縛が伴わないなら数日で消える。 「あなたの勝ちだ」  ささやき、ふさいだ口の位置から見当をつけ、頭の奥の血流を止める。  吸血による穏やかな虚血に比べれば、はるかに乱暴な方法。頭を殴るのにも等しい。襲われた事だけでなく、今朝、目を覚ましてから今までの出来事を忘れてしまうかも知れない。  目まいを起こして座り込んだアースラを放置して、逃げ道を探す。はた織り機が居座る作業場、南の暖炉を中心とした台所兼居間、そして寝室。狭い家だ。裏口はなく、窓は小さい。 「タックおばさん、干し魚……」  明るい声が途切れ、駆け寄る気配がした。 「ああ、テオかい?」 「調子、悪いのか。ベッドに運ぼうか」 「大げさだよ。でも、何であたしは戸口なんぞで」  こっちへ来るのか。寝台の下は物入れ。隠れるのはムリだ。梁に身を隠しても、ベッドで横になれば目に入る。幻術でどうにかなるとも思えない。 (お逃げになりたいのですか?)  そよ風のような心話。振り返ると、明け放たれた窓の向こうで茶樹が揺れていた。 (ああ、二人に見つからぬように) (承知しました)  緑の木を中心に力が集まるのを感じた。村内の茶樹は、ドライアドが宿りし大樹の枝から生じた分身か。元の樹に等しい薬効と魔力を得るために、人が挿し木で増やしたドライアドの指先。  淡い緑の光が周囲に広がる。空間がひずむ。いや、変化しているのは私の体のほう。 「立ちくらみなんて、今までしたことなかったのに」 「休めって。気分が悪いときは、おとなしく横になってれば治るって。母ちゃんの口ぐせだ」 「ガーティーの言いそうなことだね」  テオと呼ばれた大柄な青年が、アースラに肩を貸して狭い寝室入ってくる。避けようもなくぶつかる。だが、何の抵抗もなく、二人はすりぬけてベッドに向かった。こちらの姿も部屋にあふれる緑の光も、二人には見えていない。 (ウッドランド城を隠している空間の移相か?) (影の無い御身が、人の目に映り触れる事もできる。その方が不思議だとは、お思いになりませんか?)  どこか、諭すような心話。茶樹の母なる存在は、私の十倍は生きている巨樹だったろうか。 「なぁ、首筋の……その、虫に刺されなかったか?」 「いんや、かゆくも痛くもないよ。それより、何でしめったエプロンを握っていたのか、トンと思い出せないんだよ」  木靴を脱ぎ、横になったアースラは笑っている。  青年のこげ茶の目が食い入るように噛み痕をみつめ、太い眉が深刻そうに寄る。日に焼けた頬が引き締まり、厚い唇の奥で歯が食いしばられる。細かなクサリを編んだ鎧が身の震えにかすかな音を立てる。背負った大きな剣がどれほどの役に立つかはわからないが、警備の任についていた姿のままで駆けて来たのか。 「テオ、有り金ぜんぶ賭けですったみたいな顔してるよ」 「違うかもしれない。けど……」 「あたしが吸血鬼の犠牲になったと思うなら、パーシーを呼んできとくれ。ここに謹慎か、茶葉の乾燥倉に行くかは分からないけど、あたしの問題さ。あんたがそんな顔する事はないよ」  アースラのふくよかな手が、いくつか直しの跡がある、鉄のカブトをなでる。 「立派な姿だねぇ。伯父さんの鎧兜をスマイスに手直ししてもらったのかい? 重たいだろうに、あたしのために走って魚を届けてくれて……ありがとうね」  皮の篭手《こて》に包まれたテオの右手が握り締められる。聞いているのが辛くなり背を向けた時、意外なほどの身軽さで、テオが駆け出していった。再びすり抜けられても何も感じない。 (あの者が村長を呼んでくるまで邪魔は入りません。お食事の続きをなさいます?) (もういい)  クインポートの町長と同じだ。おそらく彼女は折れない。血と今日の記憶を奪い、この先アースラが生きるはずの時間まで奪うのは気が進まない。 (では……)  室内が色あせ灰色に変わり輪郭も失って闇に変わる。いや、完全な闇ではない。ほのかに光る球体の中央に体が浮いていた。広がる髪とマント。重力がない。ここは地上ではないのか?  体に重みが戻った。球体が消え、周囲に光と色が戻る。風を感じた。軽く落下する感覚。地面に足がついた。眼前には木を削り、新しくたてられた墓標。 (召し上がられた血に溶け込む、女の想いに引かれましたか)  タックの名とドーン暦による生年と没年が、共通文字で刻まれていた。死んだ夫の墓か。だが、地下にアースラの夫だった者のムクロも骨もない。焼かれたのか、元から死骸がなかったのかは、分からない。 「ほら、いた」  ティアの声がした。顔を上げるとパーシーと連れ立って墓地に入ってくるところだった。 「商売とはいえ、新しい墓に刻まれた名を覚えるのも、ひと苦労でしょう。なんせ多すぎますからな」  パーシーの明るすぎる声には、悔しさと哀しみがにじんでいた。 「宿屋さんはもう商売替えして食堂と酒場だけやってるんだって。でもパーシーさんが泊めてくれるから大丈夫よ。馬は門を警護してた人たちが、世話してくれてる。近ごろ馬車が来てないから、馬溜まりの草すんごく伸びてた。あれなら飼葉いらないね」  うなづきながら、さっきの転移について考えていた。一度、この身を移相させてから、空間ごと移動させられた。  ウッドランドでは城や巨樹が忽然《こつぜん》と現れ、時には森の中を幻のように移動するという。先ほどの術の応用だろうか。  だが、本来は虚であり、実体が仮である不死者や、元から亜空間上に組まれたケアーはともかく、確固とした実体を持つ樹や城が転移できるものだろうか。  ドライアド達が守り伝えてきた、ウッドランドの秘儀。村を案内するパーシーと、ティアのあとに続きながら、驚異に触れて活性化する思考にアレフは意識をゆだねた。  後ろの若い魔法士が気になって、パーシーはいく度か振り返った。占いや治療のワザをタネに、手妻で人を引きつけ口先で揺さぶり日銭を稼ぐ漂泊の民……にしては卑しさがない。むしろおっとりした学者や司祭のようだ。 「何やら手帳に書き付けてブツブツ言ってるが……あんなので魔法士が務まるのかね」  村人の名でも暗記しているのかと思ったが、違うようだ。位相がどうの変容の数値がどうと……目の前の現実ではなく思考の遊戯に没頭している。 「あの顔でしょ。女受けがイイのよ。それに話術はソコソコでも、精霊を使った手妻はなかなかのモン。それで引き抜いたんだから」 「ほう、火炎呪で魔物を退けたりするのかい」  水晶球を出して見つめ、あやうく糸杉にぶつかりかけている様を見る限り、荒事となったら足を引っ張る部類に見える。 「それが全然つかえないの。なりそこないが可哀想だとか言って……あ、なりそこないってのは不完全な不死者ね。そりゃ、相手は知り合いかもしんないけど、テメーも危ない時に、どうかと思ったわ」  それはむしろ好ましく思える。このテンプルの小娘は、教会の地下に吸血鬼をかくまっていると知ったら、委細構わず浄化にかかるのだろうか。 「それで、モル司祭は?」  彼の到着は苦しみの終わり。喪失の時。そして教会のくびきに繋がれる未来の始まりだ。 「ウェンズミートから銀を貼った船で出たみたいだけど、あたしは別ルートで来ちゃったから分かんないの。ごめんね」 「こちらに? 東大陸ではなく?」  これは意地悪な質問だ。この娘がどれくらいテンプルの中枢に近い者か、これで推し量れる。  討伐に失敗した連中は、スフィーから来た。かれらは噛まれた者たちの言うことを信じなかった。戦う相手の正体も実力も見誤ったまま“アレフの闇の子”に挑み……白ヒゲの始祖と取り巻きが使うテンプルの呪法に敗れた。  人形劇と現実の区別がつかぬ、子供らに等しい頑迷さと単純さ。一つの思想にこり固まり特権にひたり、テンプルという狭い世界での出世にのみ心を砕いていると、人はああまで退化するものなのか。 「東大陸?」 「以前きた司祭様は、諸悪の根源は海の彼方、東大陸で少し前に目覚めたアレフだと」  その前は諸悪の根源をロブだと言っていた。だが、ロバート・ウェゲナーがモルの手によって滅びたとの知らせが、狼煙とハトによって届いても、吸血鬼は存在し続けた。  いいだろう。全ての邪悪の源が東大陸にいるとしよう。なら四十年間眠り続けていた始祖が、いつ闇の子を作ったというのだ。二ヶ月足らずで、どうやってシリルまで来れたか説明して欲しい。  唯一の手段は、バフルから船でシルウィアか南のドラゴンズマウント領に渡ること。だが東大陸と森の大陸との通交を一切禁じたのはスフィーとシルウィアの教会だ。密かに船を仕立てたとしても、外洋船の残骸すら見当たらないのはなぜだ。森の大陸の漁師は働き者だ。漁場としない海岸などない。 「バッカじゃないの。ウェゲナー家は闇の子なんか作らないわよ。人が担う役職が世襲になるのも嫌ってんのよ。水は淀むと腐るとか言って、まったく臆病で小心なんだから」  テンプルからきたティアとかいう娘を少し見直した。 「それは、厳しい気候とやせた土地だけでも困苦の極みだというのに、上に立つものが腐敗し不正に貪れば多くの人死にが出る……せいだと聞いたが」  尻すぼみになる的外れの反論は、存在を忘れかけていた魔法士のもの。アラン・ファレルという名は中央大陸風だが、髪の色からすると、東大陸の出身なのだろうか。恥ずかしそうにまた、うつむいてしまった。 「では、ティア聖女見習い。今シリルを……ウッドランドを蝕んでいる死の病の根源は何だと?」  四十年前から現れだした新規の魔物と同じく、テンプルが作ったものなのか。 「さあ? ファラが作った賢者の石をガメた、バカどもでしょ」  さすがに名指しでは答えないか。だがティアは知っている気がした。 「それより、どうして森の貴婦人の加護を受けているはずのシリルで、これほどの被害が出たの?」 「牛と羊を飼うために、森を少し切り拓いたせいかな。この村を囲む丸太は、そのときに切り出したものだ。娘を切り倒したせいで、彼女たちの怒りを買ったのもかもしれん」  二十年前、森の太守が滅ぼされ、様々な制約から解き放たれた後、森に甘え傷つけ奪い……知らず知らずのうちに、ドライアドの恨みを買っていたのだろう。でなければ大切な亡き主の城に、新参者を受け入れたりはしないだろう。 「ここが、我が家だ」  いつしかブナが影を落とす家の前にさしかかっていた。ニワトリが石をついばみ、菜園のハーブにチョウが舞う……またイモムシ取りをしなくてはならんらしい。  見ると、通いで家事をしてくれているアニーが、荒れた手を揉みながら、玄関でこちらを見ていた。よそ者がいる場で話してもいいのかどうか迷う風情だ。 「お客様だ。ベッドを三っつ、用意してくれんか」 「パーシーさん、さっきまでテオが待ってたんですよ。深刻な顔で走ってきて。でも、また駆け出していきました」 「テオが……何か伝言は」  だまって首をふるアニーと共に、家に入った。  外が明るいせいか、一瞬闇に見える。やがて広いテーブルに残されたティーカップと、ソバ粉を水と蜜で練った焼き菓子が目に入った。食いしん坊のテオが茶菓子に手をつけないとは、よほどの事があったらしい。  時折、集会も開かれる広い居間に客人を迎え、テオが残していったものを片付けて、イスを勧める。  新たな黒茶を入れるために、アニーが引いておいてくれた黒い粉末を計ろうとした時、あわただしい足音がした。  鎧にぬい込んだ金属と武器のぶつかり合う音。自警団のハーシュか。 「テオのヤツが城に行くと森へ走って行きました。もう我慢できないって。理由を聞いたんですが……その、タックさんがやられたって。あいつ、小さい頃から伯母さんに懐いてたから」 「分かった。アースラのところへは私が行く。  すみません、お客人。どうやらゆっくりお相手できそうにない。アニー、私の代わりにお茶を立ててくれ」  なぜだ。魔よけを施した家からは、近ごろ犠牲者は出ていなかった。魔物が力を増しているのだろうか。  まずは事実を確認して、対策を練る。そして人々に正しく伝え、混乱を防ぐ。熱い一日になりそうだった。 三 差し金  樹脂をぬってツヤツヤに磨き上げた木のカップが三っつ並ぶ。注がれた黒いお茶が白い湯気を立てる。 「疲れが取れますよ」  お菓子のお皿を置いたあと、頬骨の目立つ指の長いおばさんは笑顔を残して奥の部屋に消えた。敷布を伸ばす甲高い音がかすかに聞こえる。  シブさも甘みも、サウスカナディ城で飲んだお茶より強い。でも、青臭さは控えめ。むしろイイ匂い。産地だからかな。それとも意地悪な自動人形《オートマタ》より、アニーっておばさんの淹れ方が上手なだけかな。  素朴な甘さが取り得って感じの香ばしい菓子をほお張りながら、ティアは黒茶をもうひとすすりした。  横から、菓子を入れた木皿が押しやられくる。 「くれるっていうならもらうけど、これ、けっこう強烈な歯ごたえなんだよねぇ。アゴが疲れるからお茶も欲しいなぁ」 「飲みかけ……だが?」 「もう十分、飲んできたんでしょ」  どうもイヤミが通じてないようだから、付け加えた。 「テオって人、大丈夫かなぁ。吸血鬼をブチのめしたいなら、ここで待ってれば良かったのにね。みんな森で探してるみたいだけど、見つからなかったらどうなっちゃうのかな?」  テーブルにヒジをついて、だんだんこわばっていくアレフの顔をのぞきこむ。 「……どうぞ」 「やっぱ、いらなーい」  カップをつき返す。わざわざ息を吸い込んでから吐く、無意味で暗いタメ息が、耳に気持ちいい。 「ティアさん」  にらむドルクには舌を出してやった。  見上げると、屋根を支える黒ずんだハリとケタ。太い柱にはキレイな木目。あたしが生まれ育った館より一回り小さい。けど、使ってる木は太くて継ぎ目がない。  木や花が彫刻された食器棚や引き出しは立派。曲線で出来た木のイスは座り心地がいい。ここは代々、ホープ家のものだったのかな。  窓にガラスははまってないけど、揺れてるカーテンにはヒシ模様の刺繍《ししゅう》。糸を抜いた部分から光がもれてる。外に揺れてる臭いのキツい魔よけと同じ形。 「ところでさぁ、タックさんちの魔よけ、壊しといた?」  招かれたとはいえ、平気でここに入れたって事は、アレフには効果薄そう。“なりそこない”なら数滴で指の一本や二本、灰に出来る聖水も、軽いヤケド程度だし。ラットルのホーリーシンボルにも耐えた。やっぱ長い時間が魔物を強くするのかな。 「あの程度のもの。少しばかり魔力と読心が阻害される程度だ。壊す必要など」 「壊しとけばバックスたちのしわざになるじゃん」  納得してない顔で黒茶を舐めてる。法がどうのとうわべはキレイごと並べて後悔してみせるけど、心の芯では血を吸うのを悪い事だって思ってないんだろうな。  もし疑われても、言いワケして村を出て、なるべく早く城に向かう。シリルからの距離は半日足らず。場合によっては半刻でつく。交渉しなきゃならない相手は、きっと村人より厄介でキケンだ。 「手を結ぶって言葉はいいけど、結局は甘い言葉でダマして脅しての取り引き。エグいコトして、相手に言うこときかせるってコトだよね。最後はモル殺しの罪も何もかもバックスにかぶせて、東大陸だけは火の粉をかぶらない」 「それ……は」  モゴモゴした反論は、古いシーツと枕カバーを抱えて出てきた、おばさんの声にかき消された。 「用意が出来ましたよ。徹夜で街道をきたのなら、少し仮眠をとっては? 黒茶って元気も出るけど、心が安らぐから、心地よくお昼寝できると思いますよ」  用意された部屋も気持ちのいい木の香りがした。ベッドが四つ。リネンのシーツの下は羽毛の寝具かな。小さなテーブルにイスとチェスト。お客さん用の寝室によく使われているのか、窓には染めた糸をおった厚いカーテン。 「では、午前中はわたくしが番をしています。お二人は先にお休みを。昼を過ぎたら、あとはティアさん、お願いしますよ」 「ふぁーい」  あくびをしながらブーツを脱ぎ捨てる。  いちいち上着まで脱ぐアレフに一言いいたいのをこらえる。寝ずの番がいる状況で、すぐに逃げられない格好で横になるってどうなのよ。あたしなんかホントはクツも脱ぎたくないのに。  切れ切れの夢の中で、何か話し声が聞こえて目を覚ました。  この声はアレフ……か。吸血鬼も寝言いうんだ。いや、起きてるのかな。 「ちょっと、うるさい」 「どうなさいました?」 「小麦が……」 「小麦? それならドルクが一人で倉庫に積んでくれたわよ。あんたがフラフラ散歩してるうちに」 「あの小麦の袋ではなくて」  言いかけて黙り込む。説明しようとすると、頭の中で色々組み立てなきゃイケないらしい。ホントまどろっこしい。 「最初は、ドライリバー周辺の小麦の値が下がっているという話だった」 「豊作はいいコトじゃない」 「麦の出来は去年と変わらない。いや最初はいい傾向だと思っていた。ドライリバーから安く小麦が買い付けられる。だが、東大陸へ向かう商船が減り、小麦がダブついて安くなってたらしい」 「森の大陸がこんな状態じゃ、東大陸に仕返しがあっても、おかしくないか。やーい、諸悪の根源」 「……先ほどホーリーテンプルから東大陸への小麦の輸出を禁じる触れが出された。キングポートにその知らせが届くまで半月もない。その間に出せる船はわずかだ。このままでは冬には備蓄がつきる」 「昔はイモとライ麦とカラス麦で、なんとかしてたんでしょ」 「四十年前とは人口が違う。それに、移民たちは小麦なしの食事に耐えられるのか? 豪商が去り職人たちが腕を頼りに出ていけば、全てが立ち行かなくなる」 「捨ててきた故郷のことなんてどうでもいいじゃない。それはバフルのイヴリンおばさんや、クインポートのムカつく町長とかが考えることでしょ。もう、あんたは自由なんだから」  深刻そうな男どもの顔見るかぎり、割り切るのは無理そう。  それより、いま小麦を止めたホーリーテンプル。ううん、実家の利益を犠牲にするような触れをだしたメンター先生。一体なに考えてるんだろう。人形劇であおられ、モルの銀の船に熱くなった人々が、アレフをとっちめてやれって騒いだから……なんて、単純な話じゃないハズ。  メンター先生は、得にならない事はするなと言った。このままじゃ、シンプディー家も他の政略結婚で繋がった豪商たちも、大損だ。先生は色んなものを失ってしまう。  小麦を作った農家の人も困る。東大陸の人はもっと困る……どころか人死にが出るかも知れない。アレフが一番嫌う人死に。  もしかしてアレフが、シリルに入ったから? バックスと手を組ませたくなくて……というより、このままじゃ破滅しちゃう森の大陸をどうにかして、シルウィアやドラゴンズマウント領から麦や砂糖を東大陸に、なんて考えるよう仕向けようと……。  ううん、そんなハズない。もうこのあたりの教会は役目を果たしてない。確かに連絡用のハトも荷馬車に乗せてきたけど、もう色煙の台に人はいない。もう目なんて届か……あ。 「あのさ、おばさん、どうしてる」 「おば……イヴリンなら対応に苦慮して召集を」 「そっちじゃなくて、ダイアナの方。エクアタであたしを縛り上げた聖女サマ」 「彼女はホーリーテンプルに入ってから心話も通じない。既に呪縛自体、解けているかも知れない」 「本当に? 本当に通じない?」  苦笑して試したアレフの顔がこわばった。 「どうしたの」 「……煙花。心も体も、煙が見せる幻と陶酔に蝕まれて、もう」  そっかヤバい薬を使って、血による呪縛を解かないまま、こっちの動きを探らせてたんだ。吸血鬼と犠牲者の共感現象を利用して。  じゃあ、あたし達はメンター先生のてのひらの上ってコト?  それはちょっと面白くない。  煙花が見せる鮮やかな夢。地面に流れだす血の臭気と熱さ。ティアに殴打されたルスランの頭から流れ出す赤黒い……いや、違う。刺されたのは娘を守っていた父親と母親。ミルペンの指物師の作業場を染める、後悔の色。  これはダイアナの苦い敗北の記憶。犠牲者をオトリにして吸血鬼を誘い出し、倒そうとして失敗した古い傷。追い詰め、あと一歩のところで、ワナは砕け追跡は禁じられた。  ダイアナ達が守ろうとした娘は操られるまま、工具を握りしめ、肉親を手にかけ、扉の封印を壊し、青白い悪夢の元へ駆け寄った。見せ付けるように白い喉をさらし、幸福そうに笑いながら。  ダイアナ達が突き刺し焼き焦がし切り裂いた不死の身が、娘の献身で元形を取り戻していく。月明かりとタイマツを頼りに、必死で追うダイアナの前に、娘の死体が投げつけられた。 (だから素直に私の要求に応じたのか? お前たちに痛めつけられた私が、ティアを飲み尽くすと思って)  アレフが心話で問うても、ダイアナの意識からは秩序だった返事は返ってこない。ただ、怯えと悔しさと陶酔の感覚だけが繰り返される。 「見えるもの、感じるもの、何でもいい答えてくれ」  この呼びかけは、クジャク亭で会った貧相なヒゲの司祭か。 「お前がダイアナに幻夢の煙を吸わせたのか?」  ダイアナの声と口を借りて問うた。ダイアナ自身の意識が希薄なせいか、言葉は驚くほどなめらかに出た。  目の焦点が合うと、施療院にしては高価な壁紙としっくいの天井が見えた。細かな虫が肌をはいまわる感触は、おそらく幻覚。継続的な飢餓と酸欠が、理知や勇気といった彼女の美点をいちじるしく損なっていた。言葉もおぼつかないほどに。 「やれやれ、身ばかりか心まで犠牲にしたアニーもここまでか」 「貴様っ」  ダイアナの手で掴みかかろうとしたが、肉の落ちた腕の動きは遅く、高さも足りず、空をきった。 「オレはホッとしてんだよ。おめぇに気付かれた以上、もうコイツは自分で自分を壊さなくていい。やっと煙管《きせる》を取り上げられる。ったく、遅すぎたぐらいだ」  歯ぎしりしようとして、アゴも歯も弱っているのを感じた。  全身をいやすのはムリだ。実体は遠い地で真昼の倦怠感にあえいでいる。意識だけ憑依している状態では高度な術は使えない。それに転化した者ならまだしも、イモータルリングを着けていない生身の人間を、過去のままの健康体に戻すのは不可能だ。  脳の機能は戻せても、記憶の連続は失われ、心も変質してしまう。 「なぜ、東大陸との小麦の取り引きを止める?」 「メンターのヤツがそんなこと言ってたかな。けど、そんなことオレみたいな下っ端に聞かれてもな」  ののしりたいが、目まいと悪寒でそれどころではない。考えられるのは……こちらの対応力を測ろうとしている。私の口付けを受けたものがどれ位いるか、その影響力はいかほどか。  いや、目的は私ではなくティアか。テンプル内の勢力争いの道具にするつもりだろうか。モルをけん制するための。あるいは……後釜か。英雄という名の道化にして、耳障りの良い夢を吹き込み、人々から金をだまし取るための。 「おめぇはもう覚えてないかも知れないが、オレと会った夜、生き血ほしさに一人殺したろ」 「あの若者を殺したのは私ではなく……」 「どっちだっていいさ、年取ってから生まれたバカでも可愛い末息子を吸血鬼に殺された親にとっちゃあな。少なくともエブラン商会が店をたたむ覚悟で航路から手を引いたのは、そのせいだ」  無辜《むこ》の民が苦しみ死のうとも、痛みを覚えぬ豪商たちだが、身内が傷つけられれば、利益をフイにしても怒りを現すものなのか。身勝手とはいうまい。私自身、知る範囲の者を案じるので精一杯だ。 「ところで、そろそろ体をダイアナ女史に返してやってくれんか。どうもご婦人の声と姿でその言葉づかいはな。本人が意識してやってるんなら魅力的だが、男が体を借りてしゃべってると思うと、耳の後ろあたりがムズムズするんだよ」 「この者をお前の術で治せるのか」  小貧なあごひげが、ゆっくりと左右に振れる。 「ハジムの眼を治した術なら、治せるんじゃねえのか?」  ムリだと言いかけて……ダイアナ自身が己が身に術を使えば、記憶と心を保ったまま、治せるのではないかと思いついた。  銀の短剣で刺された際、喉や脇腹の傷を癒すと同時に、服も復元してしまったように。自己の把握は細部にいたる。当人の無意識に任せてしまった方が、間違いないかも知れない。  一瞬、知識の拡散に関する禁忌が頭をよぎった。だが、この者はティアがハジムを治した場に居合わせている。呪を聞き、方陣を目にし、失われた体の復元が可能だと知ってしまっている。その限界も含めて。  ならば時がかかろうとも、いずれは解き明かしてしまうハズ。  必要なのは呪と方陣と、力の喚起。  血の絆で呪縛するときの要領で、記憶をいじり、知識を滑り込ませる。  意識をつづり合わせ、治癒の呪を使う際に力を引きだす心の最奥。限りある命の根源、帰るべき光の海。影として永久《とわ》に在るために、不死者が自ら捨て去った眩しい力に触れた。  これが太陽の命の一部なのか、いまだにわからない。この力を借りるために不死者は生者の血を求め、なるべく多く配下に置こうとするのだと、笑っていたのはファラだったろうか。ヴァエルだったろうか。  ダイアナが力使い始める。光の奔流《ほんりゅう》に弾かれ、アレフの意識は本体に戻った。  全身が重い。頭を押さえつける不快感は、真昼だからなのか、シリルに溢れる魔よけのせいなのか。気がふさぎ、眠気というより気絶するように意識が遠のく。  扉向こうの騒がしさに目覚めたのは、すでに日が沈みかけた夕方だった。 「遅いお目覚めで」  低いドルクの声には、いら立ちが混ざっていた。ティアはスタッフ片手に扉の前に立ち、居間の騒ぎに耳を澄ませている。夕日がもれるよろい戸から逃げねばならぬ事態かと、アレフは寝台から素早くおりた。  汗臭さと金属臭さ。武装した大勢の人の気配。限界まで張りつめた幾つもの心。今朝おとずれた異分子に刺激されてあふれ出し、荒事のために押しかけたとしてもおかしくはない。いや、最後の一滴を投じたのは私か。  そんな危険を犯してアースラから奪った分は、真昼に心を飛ばしたのが災いし、かなり失ってしまった。  身支度を整えながら、あせりが混じった怒号を聞く。 「テオを見捨てろって言うのか」 「だが……もうすぐ日が」  どうも非難や攻撃の対象は、我々ではないようだ。むしろ彼ら自身に向けられている。  薄情者と呼ばれ卑怯者のそしりを受けるのを恐れている。だが、選ばねばならぬ結論は一つ。わかっていながら、熱い塩ゆで肉を前にしたネコの様に、まわりを無意味にウロついている。  無秩序に発せられる言葉に、偶然の空白が訪れる。静かな中、木のイスと床がこすれる音がした。 「みんな、持ち場へ戻りなさい。間もなく夜が来る」  パーシバル・ホープが揺るがない声で結論をつかみあげる。 「でも……」  言い募る若者の声は、小さくなって消えた。 「私の命令だ。テオは、きっと……ドライアドが守ってくれる。彼はいい男だからね」  仲間を見捨てねばならない罪の意識。その重荷を肩代わりしてくれる責任者から、任務という言い訳をもらって、彼らは館を出て行った様だ。 「そろそろ参りましょう。陽のあるうちに出ませんと、余計な疑いを招きます」  ドルクの口元には皮肉な笑みが浮いていた。  扉の向こうには、今朝より一回り老け込んだ顔があった。 「ファレルさん、でしたか。ご気分は? 昼食にお誘いした時は、死んだように眠っていたが」 「ご心配おかけしました。もう大丈夫です」  やはりパーシーの心は読めない。 「アニー」 「お弁当でしたね。ここで食べてけば手間いらずなのに」  さっきまでテーブル周りにひしめいていた者たちが手にしていた、様々な形のカップを水オケに浸し、茶カスを落としていたアンナとかいう婦人が、薄く削った木を編んだバスケットを持ってくる。 「今朝、運んできてくれた干し魚とイモのツボ煮。そば粉のパン。それとリンゴが6つ。このビンは熱いまま詰めた黒茶。口をつけて飲むんじゃないよ。このカップを使って飲んで、キチンとフタ閉めておけば、2日は腐らないからね」  ドルクが重そうに持っている。ベッドの横においた銀貨の枚数で、見合うのか少し心配になった。 「あんたらがテオを探しにいってくれるって事は、話さんかった。期待をさせたばかりに、落胆した者たちが、心無い言葉や理不尽な暴力を、お客人に向けられないとも限らないからね」  いつの間にそういう話になったのだ。昼食事か。 「いくら浄化の術が使えるからって、深追いするつもりないし、ヤバくなったら切り上げるけど、それでいい?」 「白木の弓持つ森に選ばれし戦士が一緒なら、ドライアド達がテオの事を教えてくれるでしょう。そうでなければ……もうこの世に居ないものと、諦めもつく」  ティアに優しい目を向け、ドルクには信頼の笑みを見せ、最後に私をにらむ。非難されているようで、落ち着かない。ふっと笑い、目を逸らせるパーシーに全てを見透かされているようで、不安になる。  館の門前に立ち、見送る村長の姿が垣根の向こうに消えた時、握っていたこぶしを開くことが出来た。 「動揺なさいますな。疑ってはいても、まだパーシーは確信しておりません」  無力な昼間に踏み込まれたかも知れない危機に、今さらながら背筋が震えた。 「夕方に、どちらへ」 「モル司祭が来るまでの下調べ。幻術つかってくから平気」  門を守る自警団員の前で、ティアが水晶球に込めた幻術を発動させる。目の前で話している相手の存在感が薄くなる奇妙な感覚に、目をこする彼らに手を振って、森に足を踏み入れた。 四 巨樹の苑《その》  細い獣道。草と枯葉が少し薄い場所としか見えないが、ドルクの意識を通すと、事情は異なる。テオを探して大勢の人が入った足跡。踏み折られた草。そして人間のにおい。人であった頃は森に生きる狩人。今は半ば獣。知識と鋭敏な感覚によって、森は過去の光景を語りだす。 「このあたりから、足跡はとぎれがちです。テオは大きい若者でしたか」 「上背《うわぜい》は私と同じくらい。ドルクより肩はたくましかった」 「そこの枝先が折れてます。ここを走り抜けたようですな」  折れてると言われても、ドルクが指ささねば見落としてしまう小さな痕跡だ。 「下草や落ち葉の間に白い物があるが」 「魚の骨でしょう。このあたりでは仕掛けで捕らえたサケやマスのうち、食べきれない分は森の木に捧げる事になってるはずです」  肥料ということか。人だけでは深部には運べぬ以上、鳥や獣も協力しているのだろう。それが食べ残しや排泄物という形であるとしても。  川で生まれ森に守られて海に旅立ち、大人となって戻ってくる魚達。その銀鱗に包まれた紅い身を食らって、幹を太らせこずえを天空へ伸ばす木々。 「ところで、どうしてテオを探そうなどと」  ウッドランド城に向かういい口実なのは確かだ。アースラをひたすら案じていた青年を思い出すと、罪悪感も覚える。出来れば見つけて、連れ戻してやりたいが。 「テオのせいで、満足するまで飲めなかったんでしょ。こっそり始末して森に埋めちゃえば、二度と邪魔されないって」  ティアの笑い声が、静かな森に響く。偽悪なのか本気なのか判然としないが、ひどくこの場を冒涜している気分になる。  いつしか森は深くなり、ひと抱えどころか小さな小屋か家並みに大きな幹が見渡すかぎり立ち並んでいた。塔よりも高く先の見えない梢が、宵の空を閉ざす。下草はほとんどなく、落ち葉は厚く積もり、雲の上を歩いているようだ。  一本一本、表情の違う生きた柱に囲まれた緑の宮殿。口を効くのもはばかる荘厳な雰囲気に飲まれる。葉のささやきが何かを告げている。いや、これは女の声と、じれた男の声。 「早くしないと。もう日が暮れちまった。頼む、どいてくれ!」 「城は危険です」 「お前も殺されて彼らの手先にされてしまう」 「子供の様にガンコなお方。いいから私と遊びましょうよ」  幹から半透明の貴婦人たちが湧き出す。緑の葉と光で作り上げたドレスをひるがえして、宙を舞い、笑みかけ、また幹に戻る。声に近づくにつれて、彼女たちは大きくなり、落ち着き上品になっていくように感じた。 「おどろいた。あたしにも見えるわ」  ティアは目を丸くしているが、ドルクは私の意識を介さないと、薄ぼんやりとした光にしか見えないらしい。  それにしても、立派な木々だ。セントアイランド城の広間を支える柱も太かったが、ここまでの威圧感はなく、高さもなかった。この地の木だけではなく、世界から集めた木々に手を加え、知性を与え、数千年の時をかけて育て上げられた生きた柱たち。  つるりとした幹、白い幹、コブだらけの太い幹、細かな枝が広がりドームとなっている茂みもある。  樹皮が曲線に割れてウロコ状となっている太い幹の向こうに、緑の貴婦人に囲まれてあがいている青年がいた。 「ティボルド・ハクスリーさん?」  ドルクが声をかけると、青年はホッとした顔で振り返った。  聞き覚えがない男の声。でも、人間の声だ。助かった。テオは振り返った。そして、ホタルにしては明るい光の粒を掲げてる、金色の髪の女の子と目が合った。  小さな顔は日に焼けてる。化粧っ気はない。着てるドレスは地味で厚くて長い。色気はないけど、生身の女の子だ。  白すぎる肌を薄絹の下にチラつかせる、緑の髪の女たちが急に色あせて見えた。いくら美人でも、ムネがデカくても、まばたきしないドライアドは味気ない。クラっときて触ろうとしても手がすり抜ける。  それに、このまま樹霊に囲まれてたら、明日の朝は百年後。俺はヒゲと白髪に足まで包まれた、ジジぃになってたかも知れない。 「助けてくれ」  女にドライアドの魔力はきかない。掴んで引っ張り出してもらおうと右手を伸ばした。女の子と俺の間に幾つもの緑の髪が立ちふさがる。 「あなた様にこの方は渡しません」 「殺させぬ」 「私らが守るんだから」  森全体が風もないのにざわめいた。葉ずれと無数の女の声。混ざりあって何を話しているのか聞き取れない。甲高い嵐のようだ。  よく見ると、女の子の両脇に人影が二つ。  白木の弓と矢筒を背負った皮チョッキの男は、光とヒゲのせいか獣めいて見えた。腰には手斧。黒金の手甲にスネ当て。この辺では珍しい厚い毛織地のズボン……よそから来た武人かも知れない。  もう1人は日陰のカワズ瓜みたいな細い男。顔も着てるモノもツルっとして薄い。片手で簡単にヒネれそうだ。  ドライアドがまとう緑の光が揺らめいて広がる。女の子は平気でも、横の二人は緑の力に絡めとられるんじゃないだろうか。 「逃げろ。あんたらまで捕らわれるぞ」  叫んで、手を振り回した。  ヒゲの男は背負った弓を指差した。 「わたくしは平気です。トネリコの娘の庇護下にありますから」  あれは……ドライアドが身から削り出した丸木弓。ヒゲのおっさんは森に選ばれた勇士なのか。 「この娘の言う事を本気にするな。その若者を害する気はない」  軽く突くだけですっ転びそうなヤツに、どうにかされる俺じゃない。思わず吹いたら、向こうも笑ってやがった。偉そうなこと言って照れたのかな。 「シリルに連れ帰りたいだけだ」 「俺は帰らない! あいつらをぶっ倒すまでは」  女の子が首をかしげた。 「……死にに行くんだと思ってた。そのデカい剣、銀じゃないし破邪の紋も刻んでないし」 「これでオレは吸血鬼を倒したんだ。切れ味のいい細身の剣だと、すぐに傷はくっつく。だから銀じゃないとダメだ。けど、大剣で骨も身もツブして引きちぎるように振り抜けば、簡単には治らない。首を飛ばして胸を断ち割れば、やれる」  灰になるまでの数瞬は、エグい事になる。あまり気持ちのいい感触じゃない。けど、倒せるのは本当だ。 「なるほどね」  女の子が鮮やかに笑った。 「じゃあさ、優秀な聖女とその他ふたり、いらない?」  灰色の法服に破魔の紋。銀のネックガードにミスリルのスタッフ。腰紐は生成りの白。若いし見習か。でも確かに、テンプルの聖女の格好だった。 「けど、聖女ってのは、もっと神秘的で美人で優しくて」 「そんなにホメても何も出ないって」  無い胸をそらす女の子のカン違いを訂正しようと思って……やめた。女の評価は面と向かって言うもんじゃない。昔、タック伯母さんに叩かれてデカいコブが出来たっけ。  黒服着た細いのが、聖女見習いのソデをつまんで引っ張って話が違うとか文句言ってる。 「あれね、ムリなんじゃない? バックスのヤツ、全然なってないもん。統制取れない手下なんて、何百人いても邪魔」 「なら、どうやって」 「パーシーさんに聞いたんだけどさ。ドラゴンズマウントに竜が一頭、生き残ってるらしいよ」  俺をほったらかしにして意味のわからない事をささやき合ってる。面白くない。 「俺を手伝ってくれるのか?」  大声を上げると、ドライアド達と三人が話をやめて、俺の方をを見た。今まで騒がしすぎたから、あまりに静かで耳鳴りがした。 「どっちかっていうと、手伝ってもらう、かな。教会がマトモだったら耳をそがれるくらいの銀貨を鋳潰して矢じり作ったけど、弓って素早く射てないでしょ。あたしの浄化の術も時間がかかる。こいつの火炎呪もそう。足止め役の、強ぉい剣士か拳士がいたら助かるなぁ」 「テオを盾にする気ですか」  深いため息をついた細いのが、物入れから出した小さい輪を投げて寄越した。 「利き手じゃない方の指にはめて下さい。お守りです」  赤い石か、木を染めた指輪だった。なんでこんな物。 「あたしとおそろいだよ」  聖女見習いが赤い指輪をした手を上げて見せた。投げ返すのを思いとどまって、左薬指にはめる。ゆるかった輪が生き物のように指を締めつけて外れなくなった。 「何だ、これ」 「呪いの指輪……なあんてね」  聖女見習いが笑う。マジ、か? すぐに体温に馴染んで違和感がなくなる。それがかえって無気味だ。 「これで、この男は私の庇護下に入った。森の貴婦人方には手をお引きいただきたい」  俺の前にいたドライアド達が振り返り、呻いてうつむいて、去っていった。最後にカエデの葉を散りばめた緑の髪が首筋をなでて、飛び去る。お前はバカだと捨てゼリフを残して。 「けど、ドライアドたちに案内してもらわないと、城へは」  彼女たちに捕まって半日以上。暴れたいのをずっと我慢していたのはそのせいだ。 「ご案内します、アレフ様」  ビーズの様にドングリをちりばめた、ふくらんだドレスの大女が現れて、優雅に会釈した。結い上げた髪にも茶色いドングリが散っている。  あたりに緑の光が満ちる。穏やかな光の中で森の木々が形を失う。灰色の闇の中で、足元が浮いた。川で溺れたときの様に、どっちが上か下か分からなくなる。  テオはもがいた。  急に、前のめりにこけた。  頬に柔らかな草が触れた。 「御身に幸運を。どうかこの地から憂いをおぬぐい下さい」  緑の光が消えて、闇が戻った。ほのかな光は聖女見習いが掲げていた……違う、もっと青白い光だ。  顔を上げると、月明かりに5つの塔がぼんやりと浮かぶ城館があった。 「これが、吸血鬼の棲み家」  身を起こし、剣帯を握り締める。  ふと、これから一緒に危地に飛び込むのに、互いの名前も知らないのはどうかと思った。 「なぁ、聖女見習いさん、あんたの名前は」 「あたしはティア。そっちの弓使いは……ダーモッド・ブースだっけ。それと」 「アレフ、だよな。さっき樫の女王みたいなドライアドがそう呼んでた」  細い顔が引きつっている。 「名づけ親を恨むなよ。きっと知らなかったんだよ。俺だって、去年までは吸血鬼の親玉がそんな名前だったなんて知らなかったんだから」 「そう、ですね」  暗い顔でアレフがうつむく。ビビってんのかな。でも、俺は怖くない。怖いことなんかあるもんか。  ティアの熱い視線を背中に感じながら、テオは城に向かって一歩踏み出した。  ▽ 第十一章 殺戮の選択 △ 一 塔にかかる月  尖った黒屋根をいただく円柱の高楼をアレフは見上げた。丸みを帯びた大小の石が隙間なく積み上がった様はバフルの石組みに似ている。だが、雨が多いのか単に古いのか、城館の壁には縦筋が多い。無数の気配を宿しながら小さな窓には灯ひとつない。  振り返れば我ら四人を送り出した深い森。高い塀か小山の様だ。その一角に、土と周囲の樹を黒く焦がす火事の跡。北の空に浮かぶ半月が暗いくぼ地を覗きこむ。  そこに根を張り枝を広げていたトネリコが焼かれなければ、ドライアドは人や不死者の命運など、無視したのではあるまいか。  この地から憂いをぬぐえだと?  作られた眷族の分際で不死者を穢《けが》れあつかいか。  ドルクが背負う白木の弓は、トネリコの大樹の娘が、命と引き換えに身から削りだしたもの。バックスに焼かれた母の仇を討ってくれと託された。だが、彼女の言葉は本当か。バックスをグリエラスと間違えたなど……  ティアの話が事実ならバックスは白ヒゲの老人だ。グリエラスは黒髪。壮年の姿のまま時を止めて数千年、森の主であったはず。確かに、別種の個体は見分けがたい。だが、白猫を黒猫と見間違えるものか。  ドライアド達の肉体は樹木だが、精神体は女の姿をとり人語を解す。グリエラスが造りし人の心を持つ長命な眷族。見目のいい男を取り込み、子を成す事もある彼女らに、人の顔の区別がつかぬワケがない。  森を侵し牧草地や畑に変えたせいで不興を買ったという村長の言葉は真実のような気がした。木を植えなおすとしても茶樹やコカラ豆といった換金率の高い木ばかりを育てる、私欲に走った園丁に対する罰。それが、テンプルが造りし吸血鬼を、森に守られた城に受け入れた理由ではないか。  これ以上、人の手で森の在り様がゆがめられては病害虫が発生する。それを恐れて、人に若木を間伐させるように、余分な人を間引こうとしたのではあるまいか。バックスらが広げる不死の呪いを黙認し助長して。  そして、後始末を私に押し付けるか。  始祖を害することが、どれほどの大罪か知らぬわけでもあるまいに。企むだけでも、死罪か鉱山送りだ。  森にあまねく広がる目であり耳であるドライアド共は、見聞きした反逆のきざしを、葉と根で伝え合い、グリエラスに密告していたはず。だからテンプルは、厚い石壁にかこまれた地下の金庫室で、破邪の呪法を編み出し、研ぎあげたと聞く。  だいたい旧法上、秩序を乱した始祖に滅びを与える資格を持つは真始祖ファラのみ。彼女を喪った今となっては、最年長者……私、か?  そんな重荷、とても背負えない。 「おい、足がすくんだのか。おいてくぞ」  ひざ上まで垂れた鎖帷子《くさりかたびら》だけでも重いだろうに、にぶく光る被り物もして、大剣まで背負っているテオ。確かに体格と腕力は一人前以上だが、中身は幼さを感じるほどに単純だ。  その剣で断とうとしているのが何者か、分かっているのだろうか。元は人だったもの。親戚や知人がいるかも知れない。“なりそこない”と違って、彼らの心は失われていない。姿もほぼ生前のままだ。 「ちょっと待ってよ。お腹へってない?」  テオを追い抜き、灰色の法服と蜜色の髪をひるがえして振り向いたティアが、バスケットを突き出す。 「半日食べてないでしょ。もしかして朝からじゃない。森にいる間はドライアドが何とかしてくれてたのかもだけど、この先、パンだの壷シチューだのノンキにパクついてられないと思うの」 「わたくしも夕食に賛成でございます。空腹で倒れた剣士など背負いたくはございません。その重そうな剣を置き去りにしてもいいなら、話しは別ですが」  ドルクは分かっているはずだが、この状況で夕食。日常性が、かえって非現実にすぎる。 「結界は任せたから」  かつては城と森の境界にあった倒れた石柱に腰掛け、ティアがバスケットの中身を広げ始める。城壁に切られたボタン穴のように細長い窓から、敵意ある視線がにじみ出すのを感じた。  仕方なく、六方向の草を結び、方陣で倒壊した石柱をかこむ。  これで、軽い呪法ていどなら弾ける。結界の外からこちらの姿は見えにくくなり、会話はこだまして聞き取れぬはず。  最初は腕組みしていたテオだが、ティアがパンをかじり始めると、ドルクからリンゴを受け取った。やがて黒茶をすすり、ぶつ切りの干し魚や根菜にキノコが絡む壷煮をパンに載せて貪り始めた。よほど飢えていたらしい。 「アレフは食わないのか?」  元々、三人分だ。食べるまね事をしてわざわざ吐くような余裕はない。 「村で食事は済ませてきました」  テオの伯母の味は覚えていない。支配できないイラ立ちと焦りに駆られ、楽しむ余裕はなかった。だが不味くはなかったはず。今のところ渇きは感じない。 「私の分はさしあげます。遠慮なくどうぞ」 「あんた、いい人だな」  表裏のない素直すぎる言葉。  私は善人ではない。人ですらない。苦笑する他なかった。 「さっきさあ、森に立ってたハズなのに、体が浮いたと思ったらココに来ちゃってたよね」  手についたパン粉とシチューをなめとっているティアが、次に放つだろう言葉は予想がつく。先回りして結論を告げた。 「不可能だ」 「仕組み、わかんないんだ」 「あれは実際に見知っている場所か、血の……」  テオがいると話題に制約が増える。ドルクに二枚目のパンを要求している無邪気な剣士を目のスミで捉えながら、言葉を選んだ。 「心が通じ合うほどに親しい知り合いがいる場所にしか、行けない術法だ。私はこの城に招かれた事がない。それにこの人数を包む空間を入れ替えるには力がかなり要る。結界の問題もある」 「不意打ちがムリなら、やっぱオトリかな。異界の生き物の召喚……はイヤなんだっけ。じゃあ、バフルでやった手は?」  既に不死化しているものに、重ねてビカムアンデッドをかけてどうする。 「城全体にホーリーシンボル」  そっちか。中庭からあふれた無慈悲な光柱と、余波で焼かれた肌の痛みが鮮やかによみがえる。だが、この城全体となると、ティアの力でも浄化しきれまい。 「生殺しは賛成しかねる。死に物狂いの死人……それも理性を失っているとなれば、始末に負えない」  正直、見たくない。それに、なりそこないと違って、やがては回復してしまうはず。 「だいたい方陣の交点、等間隔に十ヶ所も何を埋めるつもりだ」 「まわりの木、ドライアドに増幅してもらうの」  理にはかなっているが、彼女らは首を縦にふるまい。 「樹木そのものに害はなくとも、ホーリーシンボルは土と精神体を変容させてしまう可能性がある。断られるはずだ」 「じゃあ、どうしたらいいわけ?」  出来れば何もしたくない。自分と同じ不死者とは戦いたくない。キニルでは手痛い敗北を味わった。怒りで冷静さを失っていたとはいえ、覚悟もなく挑んでいい相手ではない。頭と胸を破壊し灰化させなければ止められない相手と争うなど、正気の者のすることではない。 「……あんたに相談したあたしがバカでした。じゃあさ、この建物そのものはどうなってんの」  水晶球を介して、ケアーに訊いてみる。いびつな台形が青白い光によって地面に映し出された。 「北の大きな塔と方形の建物は透過壁を多用した温室と研究室。ここから見える東の門を備えた2つの塔と棟、南の湾曲した棟と小さな塔は、使用人や贄のための施設。中庭を越えた西の棟と、塔と呼ぶには太すぎる丸屋根は私室に広間に客室」 「便利なモンなんだな、水晶玉の占いってヤツは」  覗きこんでうなづくテオのカン違いを、正すべきか悩んでいた時、ドルクが傍らに置いた弓から緑の光が生じた。漂ってきたホタルの様な光は、図の上で空気を震わせ高い声で語りだした。 「これは過去の姿。外見はあまり変わっておりませんが、主を失った建物はゆっくりと死ぬもの。床や階段の一部は崩れ抜け落ちております」  ドライアドだとは思うが、人の姿を取れないのは結界をぬけた際に力を削られたのか、他の樹の幹からなる弓を介しているので、全ての力を出せないのか。 「そりゃ、二十年もほったらかしじゃあね。で、バックスはどこにいるの?」  ティアの問いに緑の光が明滅する。図では西の塔の二階部分。 「ここの広間で、配下の者を集め王のまね事をしています」 「こっそり近づくとしたら?」  光が移動する。 「南棟の地下通路か、西の壁から」 「やっぱりオトリがいるわね」 「二手に分かれるのは上策とは思えませんが」  最後のパンに、つぼをさらえたシチューをのせながら、ドルクが口を挟む。 「この結界、使えると思うんだ。泥で作った人形に爪とか髪を仕込んで分身作る術ってなかったっけ。声はお節介なドライアドさんにやってもらって、ずっとピクニックしてるように見せかける。で、あたし達は幻術で身を包んで南棟から入る」  ドルクの手から褐色の汁と焦げを盛り上げたパンを奪いながら、ティアが笑った。 「たくさん居るみたいだけど、手強いのはバックス自身と、その取り巻きだけでしょ。なるべく他の者は適当にいなして、魔力も体力も温存。始祖だけをブチのめす」  胸が掴みつぶされるような痛みを覚えた。 「目の前でトドメを刺さなければ、なんとか耐えられるよね?」 「わからない」  手足のふるえと、吐き気をこらえた。  唯一の救いは、始祖が違う血族の心は読めぬこと。人や“なりそこない”の時と違って、手にかけた者の断末魔の苦しみや絶望を、じかに感じる事は出来ない。  まさか、こんな時のためにわざとファラは……いや、そんなハズはない。  アレフは強く首を振って否定した。 「髪をひとすじ下さい。形代《かたしろ》を作ります」  今は考えたくないことより、泥をこねることに専念する。人型にする時間は無い。湿った黒い土を握りしめ体毛を埋め込んで玉にする。方陣を刻み呪を唱えて当人の影に置く。  まずは、笑顔でパンを口に押し込んでいるティア。そして控えめに微笑むドルク。黒い影からなる分身は月の光を透過し、動かず表情も変わらずまばたきすらしない。なんとも不出来な身代わりだが、遠目なら……そして結界ごしなら、しばらくはごまかせる。  暑苦しいほどにたくましいテオの写し身を座らせた横に、己の分身を置いた。不安そうな顔をした映し身は、細く白く頼りなげで、今にも泣き出しそうな顔をしていた。 二 緒戦と誤算  テオは腰のベルトを締め直した。鎖帷子《くさりかたびら》は肩がこる。けど両手で剣をふるうオレにとってはコレが盾の代わりだ。弁当食うあいだは外していた手甲と足甲をつけ、鉄兜をかぶる。最後に剣をかたげて振り返った。 「パーシーさんも言ってたよ。前の時は出会うヴァンパイアを片端から滅ぼしてたから負けたんだって。敵の数が多すぎて疲れちまったんだ。だから俺たちは、あいつらの首領だけを狙う」  ダーモッドは矢を一本一本確かめた後、弓のツルに滑り止めをぬり、皮の胸当てと手袋をつけていた。 「オレの背中を射たないでくれよ」 「大丈夫ですよ、あなたが相手の動きを止めてくださるなら」  ティアって子は髪を三つ編みにして、ヘビのとぐろみたいに後ろ頭にまとめていた。スタッフを軽く振るのを見て安心した。自分で自分の身ぐらいは守れそうだ。  不安なのは鋼の手甲だけをつけて、水晶玉に向かって何かつぶやいてるアレフ。魔法士のクセに態度や言葉づかいは偉そうだ。そのワリに、ビビってやがる。泥玉こねて呪文を唱えてオレとソックリな影を作ったのは正直すげぇと思ったけど、戦いの役には立ちそうにない。 「幻術で包みました。声は誤魔化せないので結界を出たらお静かに」 「あれは? ケアー介した視覚とかの共有」 「それは城に入ってから。長く心と感覚を繋げていると、色々と不都合が」 「よくわかんねぇけど、口きかなきゃ見つからないんだな」 「……多分」  やっぱ頼りない。  草を静かに踏んで城の南側にまわった。城の影に入ると、暗くて足元もおぼつかない。 (ここに石段。そして壊れた扉がございます)  これはダーモッドの声かな。力強い手に引かれて、足先で探りながら階段を上がった。  風の匂いと足元の感触で、城の内側に入ったのはわかった。何も見えない。明りが欲しい。敵は夜目が効く。これでもし不意打ちされたら、全滅だ。  最初にぼんやり目に映ったのは、大きな調理用テーブル。水がめ、壁にかけられた大小のナベ。壁の白いしっくいと黒い木の枠。暗がりに炉。天井から完全に干からびた鹿の半身が下がっていた。ここは台所だったらしい。  目をこらすと床に敷かれた薄いワラや、散らばったソバの粒まで見える。驚いた。目ってこんなに慣れるもんなんだ。 (そんな訳ないって) 「ひっ」  耳元どころか、頭の中にティアの声が響いて、テオは声をもらした。 (静かにして。これは一種の魔法。この心の声は紅い指輪を介して送ってるの。伝えたいって強く思いながら考えると相手に聞こえるらしいよ。指輪してる同士なら)  こうかな。ダメだ。伝わってない。  伝えたいって思いながら…… (こんな、感じか?) (うん、上出来)  ティアに頭をなでられる光景が脈絡もなく見えて、焦った。 (伝わるのは言葉だけじゃないけどね。いま見てる台所の様子も送ってる。これはテオが目で見てるんじゃないんだよ。見えてるはずの物を頭の中に直接映してるの)  まさかと思って目を閉じた。 (見えてる……目をつぶっても)  奇妙だ。でも違和感はない。 (これで、視覚だけは互角。でも油断しないで。ヴァンパイアは耳もイイから)  うなづいて、なるべく鎧や剣を鳴らさないように静かに進む。  城は立派なのに狭い廊下だ。ゆるやかに曲がってて先が見通せない。外れかけた扉の奥は倉庫か物置。  行く手に階段が見えてきた。 (ここは上だよな?)  そう確認した時、何か青白いものが階段から跳び出してきた。とっさに剣を抜こうとして……  ガツン。  火花が目を射る。手がしびれる。刃先が石壁に食い込んでいた。  鼻の丸いおっさんがせまる。廊下の狭さを忘れていたテオをあざ笑う、その口元には鋭い牙。  テオはとっさに体を回転させた。剣は壁をえぐり自由になったが、背中を無防備にさらしてしまうはめになる。それでも諦めず、振り向きざまに、背後に迫る敵をなごうとした。  肩を殴られた。変な音がした。剣から片手が離れる。腕一本では大剣は支えられない。威力を失った刃先は、おっさんのたるんだ手で、掴み止められた。 「お互い生身なら、ワシはかなわなかったろうが……な」  剣ごと突き飛ばされた。尻もちをついたテオの目に、おっさんの指先がせまる。  突然、おっさんの丸い鼻に虹色のナイフが生えた。頭上を黒い塊が跳び越える。おっさんの顔をナイフごと蹴ったのは、アレフか? 床に倒れ、柄まで鼻に埋もれたナイフを抜こうとあがく無防備な胸に、一本の矢が突き立った。 「悪く思わないで下さいよ」  いつの間にかすぐ近くに来ていたダーモッドが、灰と化していくおっさんに一礼した。服も骨も灰になって、残ったのは虹色の柄のナイフと、矢じりが銀色に光る一本の矢。 「この下って牢屋だっけ。見張り……かな」  ティアがナイフを拾って、ソデをまくりあげ、二の腕のベルトに収める。法服の下に刃物ってのが、妙に色っぽかった。アレフが嫌そうに、矢羽をつまんでダーモッドに返していた。 「虜囚を助け出すのは後回しでございます。我々の侵入が知られた以上、一刻も早く目的の場所へ」 「けど、肩が」  外れ砕けた肩にティアが触れた。呪とともに肩が痛く熱くなり、やがてむずがゆくなった。 「……治った、のか」 「喜ぶ前に、動くかどうか確かめてよ」  言われて、尻もちをついたまま、肩を回した。 「なんともない……実は凄い聖女だったんだな」  得意げに胸をそらす笑顔が、輝いてみえた。 「それより、使用人用の狭い通路で大剣を振り回すのは感心できません。これをお貸ししましょうか」  ダーモッドがベルトごと、もろばの斧をよこす。それは木を倒すためのものではなく、人の命を断つための武器だった。  髪飾りのように張り付いている、見えない使い魔にティアはそっと触れた。本物のコウモリと違って視覚も鋭いこいつが目の代わり。テオのカブトにも張り付いてるけど、気付いてないだろうな。屋内でどう戦えばいいか考えてもいないウッカリさんだから。  あたし達が腹ごしらえしている間に、アレフが飛ばした使い魔は他にも八羽。城の内外に散らせて、音で敵の位置を知らせてくれている。  東の棟で警戒していた者の半数、十二人ばかりが中庭を突っ切ってこっちに向かってる。残る十人は窓や塔の見張り台に張り付いてる。泥団子が投影してるあたしたちのニセモノ。ソコソコ役に立ってるみたい。  北棟には誰もいない。少し前まで西日が射してたせいかな。温室だの植物園だのに、誰も関心がないだけかも。あたしなら金になる薬草を根っ子ごと掘り出すけど。  西棟は……広間と階段に集まりだしている。 「ふぅん、バックスって意外とマトモなんだ」  際限もなく吸血鬼を増やしてるから、てっきり破滅的なヤツだと思ってた。残念、自分の手であたしらを殺しにくるような、イカれたヤツじゃなかったか。  やっぱ、こっちから行くしかないな。 「一気に上がるわよ!」  ナイフが鼻骨を砕いて柔らかな脳幹に埋まりこんでゆく感触、なんてモンが残る足先を見つめているアレフの背中を叩く。ほっとくと、相手の過去とか妄想しだして際限なく自己嫌悪とやらにハマってく。考えるヒマを与えないのが一番だ。 「おう」  勇ましい返事を返してくれるのはテオだけか。とっておきの可愛い笑顔でうなづいてやったら、勢いよく駆け上がって……。 「うわぁ」  悲鳴と石が落ちる音。黒い風になってアレフが後を追う。  崩れてる階段って、ここだったんだ。足クジいたかな。首の骨とか折ってたらちょっと困る。狭い階段の下から見上げたら、ふたり折り重なって少し上でヘたりこんでた。テオは肩で息してるけど無事みたいだ。アレフはなぜか固まってる。 「助かったよ。意外と力、あるんだな」  身を起こしたテオが笑顔で手を差し出す。引き起こされながらアレフは困った顔してる。 「いえ、その夢中で」  背中に剣、腰に斧。クサリのヨロイに鉄の防具に男ひとり分の体重。それをあの細い腕で引き上げたら、さすがに人間じゃないってバレるか。 「バァさんが火事になった家から、孫をブン投げるってコレか」  え……そう解釈するんだ。  いや、間違ってはいないのかな。死人の怪力って筋肉や骨が壊れてもすぐ再生するから、無茶が効くだけか。元は人だし。  やべ、アレフと一緒にあたしまで考え込んでた。 「裏階段が使えないなら、右の園遊会用の配膳室から中庭を突っ切るわよ」  抗議を無視して風の呪を唱える。フトコロから出した小瓶の栓を抜いて傾け、聖水をつむじ風に乗せた。  先陣きって走りこんできた三っつの人影が、顔を手でおおって転げまわる。 「火炎呪を!」  炎が引き起こす結果を考えさせないよう、強い口調でうながした。アレフが放った小さな火球が、入り口で怯んで立ち止まった数人をかすめ、中庭の草を燃やす。信じられない。多勢に無勢で、手加減するか、ふつう。  ドルクがひとり射抜いてくれたけど、残り八人をどうしよう。 「オレが叩きのめす!」  オノをぶん回しながら、テオが突っ込んでいった。さっきカッコ悪かったから、その分ムキになってるとしか思えないけど。  しょうがない。  無謀なテオの背中を守るために小瓶を投げつけ、スタッフを構えて配膳台を跳び越えた。上からの一撃を避けられるのは計算済み。方向を変えた下からの足払いですっ転ばせて、喉を潰す。  ここでやっと本気になってくれたアレフが、火球でひとりの頭を焼いた。怯んだ別のヤツに、テオが深手を負わせる。反撃も受けてるはずだけど、いい暴れっぷり。さっき肩をやられた時、あまり痛がってなくて変だと思ったけど、戦ってる時は痛みを感じないタチなんだ。  少し離れてたヤツにオノを投げつけて、テオが中庭に駆け出しながら背負っていた剣を抜いた。重くて長い鉄のカタマリをぶんまわす力は大したモノだけど、やっぱ遅いから避けられてる。  だったら…… 「押しちゃえ!」  風精に命じて突風をぶつけた。踏ん張って重量物を回してるテオはビクともしない。けど体の軽そうなひとりが、よろめいて大剣にかかった。なんとかと刃物は使いよう、かな。 「助けを呼んでこなくてよろしいのですか? お味方はもう半分以下でございますよ」  矢をつがえたドルクの言葉に、浮き足立ってひとり西棟に向けて走り出した。つられた様に残りも逃げていく。 「テオを治したら追うよ!」  草はあまり燃え広がらない。しめってるせいかな。バックスと戦ってる最中に火事になって蒸し焼きに、なんてバカバカしい死に方せずに済むからイイけどね。 「軽い打ち身。かすり傷程度ですね。あんなムチャな戦い方をした割に、筋肉やスジを傷めてない」  治癒呪をかけるアレフに、剣を杖代わりにしてたテオが、ウィンクしてる。 「そんなヤワな体じゃないさ」  ちょっと見直した。  英雄志願の単純バカ。せいぜい消耗したアレフを回復させるための生き血の提供者ぐらいに思ってたけど……これならホーリーシンボルを完成させるまでの足止め役として使い物になるかもしれない。  傷ついたテオを癒していたアレフは、意識に上ってきた真逆の光景にしりぞいた。欲望のままに眼前の若者を捕らえ、喉を食い裂き血をむさぼる浅ましい悪鬼。これは、私の思考ではない。冷やかな視線を向けているティアのものか。  急いでテオとの意識の重なりを再確認する。視界の他は、心話に付随する意識的な思念のみ。他のしもべと同じか。  感情や体感、想像の類まで共有しているのは、ドルクとティア、そして水晶球を解して遠い地から案じているイヴリンのみ。盲点だったダイアナとの絆は意識しなければ通じないよう制限ずみ。  大丈夫。テオには読み取られていない。  カブトを止めるベルトに首をおおう鎖帷子、そして防具と肌の双方を保護するための厚い頭巾《ずきん》。テオを食い物と見るには障害が多すぎる。  たわむれに細かな鉄の編み目ごしに脈に触れてみた。幼子の手の様なものが浮かび出る。樹霊の護りがテオの首を包んでいた。硬いヒイラギならともかく、薄いカエデを牙で貫くのはたやすいだろうが……さすがに無粋か。  ありえぬ想定から生じた妄想を振り払えば、バックスに連なる吸血鬼たちのうめき声が耳に入る。思ったより復元は遅い。闇の子が多すぎるせいだろうか。だが、いずれ憎しみと怒りを抱いて、向かってくるはず。  かといって、とどめを刺して回るほど非情にもなれない。むしろ、ひとりを除いて容易に回復可能な状態であることに、安堵していた。ドルクに心臓を射抜かれ灰化した男も、蘇生の術式と大量の生き血があれば蘇れるはず。 「いくよ」  ティアがスタッフを軽やかに回す。 「本気で、正面から?」  相手に危害を加えてしまった以上、話し合いも逃げ隠れもムダとわかってはいる。だが、余りに無謀ではないか。 「せまいとテオが活躍できないでしょ。その剣であたしたちを守ってくれるんだよね?」  刃こぼれがないか確認し終えたたテオが、誇らしげにうなづき走りだす。ありがたいことに、テオの庇護欲は私にも及ぶらしい。英雄を夢見る剣士の心によぎるは教会の人形劇。死ぬ気ではないだろうし、私もテオを死なせるつもりもないが。 (テオに耐火呪。あたしが風を制御するから、熱をおねがい)  相変らずティアは無慈悲な事を考える。相手にも心や痛覚があると、わかっているだろうに。  だが、心を読めぬ相手と、視覚と思考を我がことの様に感じられるしもべ。どちらかを選べと迫られたら、理性より感情が答えを導く。  たとえ利己的とそしられようとも、道に外れる行いであっても、先行するテオを守るには最良の方法だ。  イモータルリングを中心に、耐火の呪と障壁でテオを包む。呪を唱えながら走り、中空に膨大な熱を集めた。熱を奪われた水蒸気が結露して、周囲にモヤが生じる。すぐ横ではティアが操る風精が旋風を生み、熱気を巻き込む。  始祖バックスを守るよう命じられ西棟一階に集まった者たちの大半は素手。かろうじて数人が火炎呪を唱えだしたが……護身用として教会が教えている初歩の術。放たれた炎がテオに届く前に、ティアが操る旋風が飲み込む。明るい蛇となってうねり、事態を理解していない者たちに襲いかかった。  触媒の油は蒸発し燃焼し、中庭へ開かれたホールを爆風と熱気で満たす。腹に響く轟音。割れ砕ける窓。服と乾いた皮膚を焼き剥がされた者たちの悲鳴は少ない。声を上げようと息を吸い込んだ瞬間、喉も焼かれたはず。  たたらを踏んだテオの背を、ティアが叩く。 「まだ立ってるやつが居たら切り伏せて、上への道を作って」 「……おう!」  威勢はいいが、黒く焼けただれた相手に剣を振るえるものだろうか。  だが、すぐに要らぬ心配だと分かった。立っていた十数人はほぼ無傷。火炎呪が当たり前に習得されているなら、耐火呪を学んでいる者も少なくないか。  まだらに焦げた壁とらせん状にホールを巻く大階段には熱気が残る。風精が建物への被害を抑えたのか、天井のヒビは少ない。シャンデリアは床の上。頭上を案じる必要はなさそうだ。  先行するテオの刃を避けて体勢を崩した者に、ドルクが矢を放ち、ティアが短縮呪のホーリーシンボルを放つ。テオの刃にかかる者はいない。それどころか、短刀を2本操る剣士に手数で押され、テオは致命傷に近い刺し傷を受けてうずくまった。  血色の指輪を介してテオに治癒呪をかける。階段を駆け上がり、テオを跳び越え、トドメを刺そうとする剣士の刃を手甲で受けた。 「貴様は」  驚愕する剣士に笑ってみせた。互いに不死なら遠慮する事もない。  わざと刺させて動きを封じ、下から首を突き折る。鋼の爪かけて階下に投げ落とした。滅ぼす必要はない。しばらく動けなくなれば十分。 「悪い、また助けられたな」  テオにはあいまいに笑っておいた。  不死者に対して決定的な力を持つのは、ティアの破邪呪とドルクの銀の矢。大剣も火炎呪も通用しないわけではないが……テオと私は足止めと補助に徹するのが効率の良いやり方か。  それに猛進するテオのそばにいれば、先に待つ者のことを考えなくてすむ。負けるかもしれない恐れも、勝ってしまった時の事も……  バックスと戦うことの真の意味と、正面から向き合うのを避けるように、眼前の敵が放つ火炎呪を弾き、巻きつくムチを掴んで引く。スキが多いテオの盾となって斬撃を受け、傷の復元に専念する。  上から炎のカタマリが滝のように落ちてきた。味方をも巻き込む大掛かりな火炎呪を障壁で弾き、熱気を氷の呪で中和する。一階の割れた窓から吹き上がる新鮮な風に後押しされるように、最後の数段を駆け上がった。  黒い布が垂れた広間には、強烈な血の香りとわずかな腐臭。闇に集う気配のほとんどは不死者だが、弱った生身の人も幾人かいるようだ。 「我が宮廷に自らの意思で参内した常命の者は、お前たちがはじめてだ。だが、まずは樹霊どもとの約束を果たさねばな」  ひときわ大きな気配は、唯一星空をのぞめる最奥の窓の近く。壇上にしつらえた玉座らしきものに収まった白ヒゲの老人。  その手が力強く窓を指した直後、窓外に幾つかの火柱が立ちのぼった。耳をろうする大木の軋みと破裂音。声無き悲鳴の合唱は、焼かれ行くドライアドのもの。 「なぜ彼女らを焼く?」 「二度目は許さぬと言うておいたのに、我が城へ再び男を引き込んだ、物覚えの悪いアバズレどもへの仕置きだよ」  数千年の時を生き延びてきた年長者への畏れや敬意を全く感じない傲慢で乱暴な所業。不死者の長であっても、バックスは紛う事なくテンプルの者のようだ。 三 祈り 「すまんな、乾燥倉なんぞで夜をすごさせて」  太い樫のかんぬきを下ろし、魔よけを施しながらパーシーは小声で謝った。 「皆で決めたオキテじゃないか。仕方ないさ」  扉の向こうで笑うアースラ・タックは快活だ。  湿気を入れぬ厚い壁。一晩中たかれる火。たとえ心を操られても、内側からは扉を開けられない乾燥倉は、吸血鬼の口付けを受けて生き残った者の夜の待避所。  失血で弱った者にとって過ごしやすい寝所とはいえないが……アースラなら大丈夫だろう。 「昔のあんたなら、テオを探しに森へ駆け出してたろうな」 「そりゃいつの話だい? あたしが森で迷子になったのは、ションベンくさい小娘だった頃だよ」 「でも、エルマー・プライアーに恋をしていた」 「恋に憧れるガキだったんだよ。三十も年上の結婚もできない相手に入れあげて。バカだったねぇ。優しいエルマーさんが死にに行くと親に聞いて、どうにか助けたいと夢中でさ……あんたら若衆組には迷惑かけたね」  深呼吸してから、心を決めた。村人のために出来る事は何でもするのが村長の仕事だ。祖先が残した富も、それで得た知識も、村人のために使わなけりゃ意味がない。 「昔話をしていいか? まだ十二、三だったかな。エルマーおじさん……いや、その頃は二十代の半ばだから、お兄さんか。親がプライアーに頼みこんでくれてな。東大陸への旅に同行させてもらったんだよ」 「うらやましいねえ。二十年早く生まれてたら、あたしもついて行ったのに」 「きっと楽しい旅になったと思うよ。あの頃のプライアーはいつも笑っていた。未来と夢を語ってたよ」 「想像つかないねぇ。あたしはエルマーさんの憂い顔とため息が好きだったから」 「バフルはシルウィアより大きい石とレンガの街でね。けどブドウ畑の中に建ってたお城は、森の城より小さかったかな。それでも、謁見の間なんてトコロに行ったのは初めてだったからね。ガチガチになってたら、プライアーが優しく背中をなでてくれた」  今でも鮮やかによみがえる思い出。忘れるはずのない光景。 「シリルの茶葉や材木と、サウスカナディ領の穀物。バフル経由で行う交易が産む豊かさについて、プライアーは嬉しそうに報告してたよ。この利発そうな少年が未来の村長だ、どうか引き立ててやってくれと、ふたりの太守に紹介してくれた」 「利発? ちょいとうぬぼれが過ぎやしないかい?」 「私じゃない。プライアーがそう言ったんだよ」  今朝方、魔法士の姿を見てから、なぜか思い出せなくなった記憶。胸のもやもやが解消したのは昼前だ。薄暗い寝室で眠る銀髪の男。あれを他人の空似と片付けていいものか。 「他のつまらないおっさん連中と違ってプライアーは子供の話もちゃん聞いてくれたねぇ。まぁ、少し夢見がちなところがあったのは確かだよ。体は歳相応でも、心は若いままだったんだろう。噛まれて“代理人”ってヤツになった時、心を持っていかれちまったのさ」  呼べど応えぬ主への思いを抱えたまま、グリエラスに仕えるようになったプライアーは、シルウィアの事務所を処分してシリルから出なくなった。海を見て里心を呼び覚まされるのを恐れていた。  そして、森の焼滅と人質の虐殺をほのめかすテンプルの呼び出しに応じたグリエラスに従って、村を出て行った。指定された領境の峠に行ったグリエラスもプライアーも、他の衛士たちも……誰も戻っては来なかった。あれからもう二十年はたつ。 「夜が明けたら、乾燥小屋を出てもらうから」 「……そうかい。けっこう快適で気に入りかけてたのに。仕方ないね。オキテだし」  アースラの声が甲高い。不安をごまかす虚勢に聞こえた。 「皆の手前、入ってもらったが……本当は何の意味もないのは分かっている」 「……いくらあたしでも、暗いうちに井戸端で洗濯するような度胸はないからね。夜じゃシミが落ちたかどうかも見えないし」  アースラは服を着て木靴をはいて、洗濯物を握りしめて家の入り口で倒れていた。テオの語った事が本当なら、襲われたのは夜ではない。空を雲がおおわなければ出てこない、森のヤツではありえない。アースラを噛んだのは、晴れた朝に出歩けるほどに歳を重ねた吸血鬼。 「プライアーは言っていたよ。願いは必ず叶う。強い思いは血を介して伝わり、太守の心を変え、世の中を良くしていくと」 「夢見がちなプライアーの言いそうなコトだね」  人が新しい恋人に入れあげ、好みや生き方を変えるように、吸血鬼も新しいしもべには強く影響されるハズだ。 「願ってみないか? かわいい甥を助けて欲しいと。テオを守ってくれと。生かして返せと。繰り返し強く思えば、叶う」  アースラの愉快そうな笑い声が扉越しに響いた。 「テオが駆け出していってから、ずっと無事を願ってるよ。本当に願うだけで叶うなら、テオは何があっても無傷で帰って来るさ」  ブースと名乗る男の頼もしい笑顔を思い出す。昼食を強引にすすめる家主をいなすための、その場しのぎの約束ではないと感じた。豆とキノコのタマゴとじに歓声を上げていた見習い聖女は、ちゃんと話を聞いてたのかどうかも分からないが。 「彼らにテオの事を頼んだ。探して無事に連れ戻して欲しいと。森の加護があるなら、テオを見つけるのは難しくない。ドライアドも彼らには力を貸すはずだ」 「その駄賃が、あたしかい。そりゃ可愛いテオのためなら何でもするさ。けど、むざむざ殺されてやるほど、安い命でもないつもりだよ」  怒りのこもった低い声だった。  アースラの夫は、夜明けに表へ出て行った。不死者となったばかりの身を、自ら陽にさらして消滅した。みなに話したあと、アースラは墓ぐらいは作ってやるかと笑っていた。その笑顔の奥に、どれほどの想いが渦巻いていたのだろう。  胸が詰る。アースラにどれほど酷な事を頼もうとしているか、分からないわけではない。 「グリエラスのように、ひとりに執着して吸い尽くすような事はないと聞いた。だから、アースラが家に居なければ、彼は他の者を襲う」 「防壁になれと言うのかい。いくら年食った未亡人だからって、あたしを丸太の柵あつかいするとは、ひどい村長だね」  耳が痛い。 「……それで、いい男だったかい? 目の前にいる女の子の想いに気付かないほど、エルマーが入れ込んでたんだ。少なくとも中身は酷くないと思ってるけどさ」 「保証するよ。むしろ容姿だけが取り柄だと陰口を叩かれていたくらいだ」  赤い光を感じた。  振り返ると、森をおおうモヤが赤く輝いていた。  夕焼けはとっくにあせ、夜明けにはまだ遠い。それに方角が北だ。 「火事……」 「なんだって?」 「森が燃えている」  歪んだ赤い唇を包む豊かな白ヒゲと、削いだような頬。森を焼く炎の色に縁取られた偽王。傷だらけの紅玉と金で出来た冠が押しつぶす白髪は薄くまばら。真紅の長衣には金糸の縫い取り……不出来だが竜の刺繍らしい。  バックスは本当に高位の聖職者だったのだろうか。派手で悪趣味な装いからは、元の姿を想像できない。学問と命がけの奉仕を望んでテンプルの選抜試験に臨んだ、若く情熱にあふれた時が彼にもあったとは。  赤き偽王の足元にうごめくのは、心を縛られた半裸のしもべ達。滴る血が赤く彩る肌には深さも幅も違う複数の噛み傷。バックスによって転化した闇の公子と公女がつけたもの。そう、少しずつ包囲の輪を縮めてくる牙を剥き出しにした不死者の群れによって。  いや、違う。  街道沿いの小さな駅で関わった、ビアトリスにも感じた違和感。シリルの地下室には心を縛られぬ不死者までいた。彼らは闇の子というより、際限なく転化させた中から生き延びるだけの力と忠誠心を持つ者を集めただけの……奴隷以下の存在かも知れない。  先ほど階段を焼き焦がした広範囲の攻撃呪。幾人かが炎に包まれ、あがき落ちていった。金で売り買いされる身の上の者たちよりも、ぞんざいな扱いだ。  泥じみた服。墓地から這い出して以来、身なりを気にする余裕も与えられなかったか。傷無き肉体同様、意識さえすれば垢染みもほころびも復元できるだろうに。  彼らの表情から見て取れるのは、血と破壊がもたらす刹那《せつな》的快楽の期待。意識して破滅を選んでいるわけではあるまい。ただ、始祖の命じるまま流されるままに、ここに在るようだ。  バックスの視線が外れる。背後に少し遅れて上がってきた、ティアとドルクの気配をアレフは感じた。 「覚えているぞ、治癒のワザよりホーリーシンボルの習得に血道をあげていた出来そこないの聖女。モルの威を借りて余を見下していた小娘か。身の程知らずめ。シロウトを率いて余に挑むか」 「挑む? あんたは単なる予行演習よ」  本戦はモルか。私という可能性がなくもないが。 「その生意気な小娘は余のものだ。男はお前らにくれてやる」  あざけり見下す血走った目。雄たけびとも歓喜ともつかない声をあげて、駆け寄る者たちを物理障壁で押し返した。火炎呪は耐火呪で防ぎ、ツブテのたぐいは身を盾にして止める。  テオは牽制の役には立つが、遅すぎる太刀筋は動かぬ物以外を斬れそうにない。ドルクが射掛ける矢は残り数本。矢筒がカラになれば、あとはティアの力が頼り。  だがティアの詠唱が終わるまで待っててくれるワケもないか。それに短縮呪では力が足りない。始祖を滅ぼすには……  不意に湧き上がった吐き気に集中力が乱れる。障壁がゆれ、延びてきた手に腕をつかまれ、投げ飛ばされた。のしかかってくる数人の不死者。ティアの悲鳴。ドルクの咆哮。テオの焦り。 「英雄にあこがれる愚かな剣士よ。人形芝居やテンプルの飾り騎士の大剣が、実戦で使えるなどと、本気で思っていたか。ショートソードとナイフによる素早い攻撃こそ、真のテンプルナイトの戦い方よ」  剣を掴まれ奪われたテオの驚きと恐怖が指輪を通して伝わる。鎖帷子ごしに殴られ折れる肋骨。息苦しさ。のどに溢れる血。治癒呪をかけても、暴行を受け続けていては立ち上がることも出来ない。 「ほう、獣人がまだ生き残っていたか。だが、速さでも持久力でも不死者には敵うまいに」  矢を射る間合いを失い、斧を振り回してティアを背にかばっていたドルクが、囲まれ足を踏み折られ膝をつく。  体術で捕らえようと伸びてくる手を巧みにかわしていたティアも、大勢を相手にたった一人となれば抗いきれない。捕らわれ羽交い絞めにされて、バックスの元へ連れて行かれるのを感じた。 「余は既に百人以上の命を飲み干し、転化させた者は末端まで入れて数万人以上。間もなく世界をも飲み干す偉大なる王を、人の身で倒せると思おたか」  数万人の命を支える始祖。バックスを滅ぼせば、数万人が共に滅する。吐き気の理由はコレか。 「たった百人? もっと大勢を餌食にしたファラを人は倒してるのよ。アンタ程度の吸血鬼くらい、どうにでもなるわよ」  負け惜しみではない、おそらくティアは至近で、血を吸われながらホーリーシンボルを放つ気だ。  だが、致命傷を受ける可能性も高い。無事ですむハズがない。  主の食事に合わせて、噛みつく瞬間を妄想しながら、笑っている不死者たち。押さえ込んでいる冷たく堅い手首や肌に、首をかしげる者たちを見上げた。  この者たちも、バックスと共に滅ぶ。あの日のネリィのように、不死の源泉を失った者は、融け崩れ灰と化す。その灰も夜明けには分解して二度と復活しない。  たとえ実体のない……既に死んだ姿に宿ったかりそめの命であろうと、作られた闇の命であろうと、かけがえのない命には変わり無い。今、存在する者が、この先も存在し続けようとあがくのは、自然なことだ。彼らの未来を断ち切る資格は誰にもない。ほとんどが被害者。望んで不死者になった者たちではない。  だが、それでも……どれほど罪深く許されざる事であろうとも。  結論は既に出ていた。 四 始祖の戦い  アレフは八羽の見えざる使い魔への指示を変えた。不完全な実体から虚に状態を移し、壁を透過させて広間の下、一階の階段ホールに集める。夜目の効かない二人につけていた使い魔も引き剥がし、床を抜けさせた。 (何すンのよ)  突然、視界を裸眼に限定されたティアが、尖った心話を送ってくる。手足を押さえ込んでいる青ざめた顔の向こう、火事の光が揺れるアーチと寄木細工の天井を、ティアの心に送り返した。 (今なら使い魔の助けがなくとも、広間を見渡せる)  同時に、ティアの体内に組み上げられてゆく破邪呪の方陣を感じた。なるほど、床に描けば気付かれるが、体内に隠せば発動直前までわからない。だが、土の属性がないぶん威力は弱まる。それに呪を唱えなければホーリーシンボルは発動しないはず。 (使い魔を方陣の交点にする)  かつて見た光の方陣を、下の階で梁にぶら下がる透明なコウモリを基点に組み上げた。身が内からただれ崩れる痛みを思いだせば、手足から力が抜ける。だが、己を追い詰めなければ、一番大事な決意と覚悟がなえる。  短縮呪ではない、正式な呪を口にした。 「ほう、在野の魔法士の分際でテンプルの奥義を真似るか。だが、方陣のカケラも浮かばぬようだな」  バックスの油断しきった声に成功を確信した。 (バカ、不死者がホーリーシンボル使って無事に済むと)  思ってない。他の攻撃呪には反動から術者を守る障壁がある。だが、生者には害がない破邪呪に障壁などない。全ての精神力を術式に込めるからこそ、全てを貫く最強の力を発揮する。世界を変えた光の呪法。死人が使えば本来ならひとたまりもない。  それでも……  私とテオの役割は、身をていして真の破邪呪の使い手であるティアと、銀の矢を持つドルクを守る事。 「きさま、一階の天井に方陣を」  階下で倒れ伏すしもべから報告がきたようだが、遅い。 「そやつの息の根を止めろ」  喉を握りつぶし胸を貫こうと一瞬ゆるんだ数本の手から、全力で逃れた。骨が折れ、肩と股関節がありえぬ角度に曲がる。激痛に耐える悲鳴の代わりに空中で呪を叫ぶ。  壊れた人形のように床に落下すると同時に、広間の大半を包む光の噴出が始まった。方陣の基点となった使い魔たちが……分かたれた精神体の一部が、光の中で消失していく。同時に身のうちに存在そのものを解き崩す灼熱を感じた。  バックスとしもべ達の悲鳴。約半数が灰と化し、残る者たちも倒れ伏す。だが、この程度で始祖は滅ぼせない。人から得た血潮以外に力の源泉をもたない不死者が、一度に放てる呪力などタカが知れている。もう光は薄れ始めている。第一、私自身がまだ意識を保っている。 「よくも、この死にぞこないが」  バックスも滅びそこなったか。玉座にすがり、立ち上がろうとしている。すぐそばで気配を殺しているティアを無視して、私の息の根を止めようと足を引きずり近づいてくる。  とどめは灰すら残さず全てを消滅させるティアのホーリーシンボル。準備が完了したティアのポケットに、地の呪を封じた水晶玉を移送した。己自身とテオとドルクの治癒が続く中での、実体を持つ物体の移送。力を使いすぎた。気が遠くなる。  薄れる視界に、バックスの背後に迫るティアの姿が映る。トドメを刺そうとかがみ込む白ヒゲに覆われた首に、灰色の法服をまとった腕が巻きつき、締め上げ、呪を叫ぶ声が耳に刺さる。  赤い衣装をまとった胸に輪状の眩しい光が湧き出した。  悲鳴とあがき。ティアが振り飛ばされる。だが、心臓が消滅すれば、たとえ不死の身でもそう長くは動いていられない。再生には……月単位の時間がかかるはず。  テオの雄たけび。奪われた剣を灰の中からつかみ出し、バックスに向かって振りかぶる。首を落とすか頭を潰せば吸血鬼も倒せると言っていた。これで…… 「余を舐めるな、若造!」  大剣が老人のしわぶかい左手に掴み止められていた。振り下ろそうと両腕の筋肉を盛り上げるテオの額に脂汗がにじむ。  ありえない。あの深手からもう再生したというのか。私はまだ立つことも出来ないというのに。どこからあの再生力が湧いてくるのだ。  テオが片手で投げ飛ばされ、壁に叩きつけられる。気が遠くなりそうな頭の痛み。肋骨が折れ息がつまる。己がキズ以上に、きつい。 (あの者、自らの闇の子を食っています)  ドルクの嫌悪感に満ちた心話。言われて階下やまわりにいた他の不死者の数が、大幅に減っているのに気付いた。魔力を断って……いや、引き戻したのか。気配を感じるのは傷が浅かった二人だけ。他の深手を負った者たちは再生も叶わず灰と化していた。 「なんで、そんな事ができる。心を通じ合える闇の子を、蘇らせた命を、始祖が己の回復のために消滅させるなど」 「妙なことを言うものだな、魔法士に身をやつした司祭よ。このもの共は余がよみがえらせたしもべ。いざとなれば、与えた命を賭して余を守るが役目よ。お前もその列に加えてやろう」  胸倉を掴まれた。しもべに変えるための視線の魔力。渇きを満たそうと剥き出しになった牙。黒く穴が開き抜け欠けた老人らしい歯列の中で、犬歯だけが若く無傷なのがこっけいだった。  さて、始祖が別の始祖に噛まれるとどうなるのだろう。異なる血族の血が毒だという俗説が真実か否か、試してみたい気もするが……互いに何の益もなく終わるのがオチだろう。 「残念だが、お前のしもべにはなれない」  やっと肩が戻り、股関節が回復した。 「貴様……」  呪もなく復元していく体をまのあたりにして、やっと何者を相手にしているのか気付いたらしい。 「眠り姫か」 「その名を男に与えるテンプル流の冗談が、どうにも理解できない。分かりやすく解説してもらいたいところだ」  全身に衝撃が走り、視界が暗くなる。意識できたのは頭と背中の痛み。すさまじい勢いで床に叩きつけられたようだ。 「余は、わたしは、貴様の代わりに、このような呪われた身にされたのだ。貴様さえ、貴様さえ」  ほほ骨が陥没し、喉にコブシが埋まるのを感じた。首の骨がきしむ。だが、力まかせに殴るバックスも無事では済むまい。突き刺さるのは折れて飛び出た手の骨ではないだろうか。  このままでは再生が追いつかず、バラバラに引きちぎられるかも知れない。  テオの傷も深い。振り飛ばされたとき頭を強くぶつけたらしい。耳に響く水音は脳内に吹き出す血か。  ティアも骨を何本か折っている。あれほどの痛みで気絶しないのは、憎しみなのか執着心なのか。 「アレフ様から離れなさい!」  ドルクの射た矢が、眼前で掴まれる。 「ほう、銀の矢じりか」  鼻を鋭い痛みが刺した。高笑いとともに顔に、癒えぬ痛みが増えていく。止めようとオノを手に突っ込んできたドルクが、殴り飛ばされるのを感じた。  このままでは……私は滅ぶ。  だが、バックスが背負う数万の命に比べれば、私が支えているのはドルクのみ。弱く小さな者が、強く大きな者の為に犠牲となる。それが世界の決め事なら、結果を静かに受け入れるべきなのだろう。  とおに視界は闇に閉ざされ、痛みもほとんど感じない。殴り刺し続けているバックスの高笑いも、遠くかすかだ。ふと、アレフは星空にかこまれているのに気付いた。見知らぬ配置の星々はまばらで、星雲からはぐれたように寂しい。  血が止まりかけた脳が見せる幻覚にしては味気ない。別に花園や明るい浜辺、光の通り道といった生身の者達が最期に見る美しい光景を期待していたわけではないが……いや、違う。脈がなく窒息とも無縁な死人の脳が幻覚など紡ぐはずがない。 (再びしもべを見捨て死の眠りに逃げるおつもりですか!)  赤い星が叫ぶ。 (イヴリン?)  意識したとたん、指が白くなるほどに水晶球を握りしめた、海老茶色のドレスの婦人が、眉を逆立てている光景が浮かび上がった。  これら光のまたたきは、星ではなく人の心?  事情も知らないまま、胸騒ぎをおぼえ、心話をおくる東大陸の代理人たち。今まで通り過ぎてきた街道にそって輝く者達の、無事を祈る想い。私より甥を案じる者もいるが。 「ヴァンパイアは個人じゃないんだとさ。心を共有する人の集合体。強い魔力を得るための仕掛けだなんて小難しいことばっか言ってたっけ」 「群れて島を作るサンゴじゃあるまいし。ルーシャの説が正しいなら、あたしも島を作る砂の一粒ってわけ」  これは誰の意識だ? 正気を取り戻したダイアナか。 (人の命を数で考えるなど無神経の極みですが……数十万、いえ百万以上の民に対する責任の一端はまだお持ちのはず。彼らを中央大陸の様な混乱の中に置いて逝くおつもりですか)  焼け落ちる街。生きながら火に焼かれる老人や病人の悲鳴。暴行される女。家畜のように売り買いされる子供。人が人に狩られ奪われるのを防ぐために、めぐらされた強固な壁。 (私たちは弱い。たった十数名のテンプルの者を止められず、主城を落とされ同僚を殺され、王が滅ぼされるのを見ているしかないほどに。そんな弱い私たちを見捨ててゆかれるか)  弱いというなら私も弱い。テンプル流の格闘術を習ったところで、付け焼刃にすぎない。見よう見まねの攻撃呪も一度に行使できる力が限られていては……私にはこれが精一杯だ。 (同じ事をなさればいい。バックスと同じ事を。いえ、ダイアナとかいうテンプルの女にした事を。しもべから力を集めれば、瀕死の者を死のふちから呼び戻し、山をも動かせるはず。それに、私たちは滅びません。生身ですから)  その力でバックスを滅ぼせというのか。  キニルで会ったシャルが共に滅ぶのは、いい気味と思わなくもない。だが光点の中に別の不死者……ビアトリスの気配は無い。彼女はイモータルリングをつけなかったのか。代わりに夫の気配を感じた。お守りだという口上を信じて妻が渡した指輪を、大切にはめたケリーは生身のまま。  ここで、呪いを、悲劇の拡大を止める。  ケリーを、まだ転化していない森の大陸の者たちを守る、唯一の選択。  それが数万の人を殺す事だと。モルの、そしてテンプルの蛮行と同じなのだと承知している。私が40年前に受けた深い心の傷を大勢に与えるのだと、残された者達から正気を奪いかねないと、分かった上で……  始祖を、バックスを滅ぼす。  破壊のために、大量に人を殺す力を得るために、光点に触れ、助けを乞う。心を繋ぎ、幾つもの魂の根源から力を引き出す。渦となって集まる魔力が身の内にあふれた。  体が復元する感覚。これは……ティアの治癒呪。分けた力を仲間の回復に回したのか。  目を開くと、悪態をつくバックスの顔があった。刺された頬が銀の矢じりを抜かれると同時に、きれいに治癒するのがわかった。 「刺しても殴ってもすぐに元通りでは、何をしても空しいか。だが、これが始祖同士の戦いというものらしい」  風を呼び、バックスを弾き飛ばした。  互いに不死では、刺そうが潰そうが焼こうが、全てがムダ。それでも、ティアやドルク、そしてテオから目をそらすために、バックスに挑む。  手甲で打ち、蹴り上げる。生身の者より強靭な肉がつぶれ、骨が砕ける。だが、すぐに復元する。床に倒れ伏しても、即座に起き上がり、足を払いあう。  幸いなことに、バックスの拳術の腕前は、私よりすこし上手い程度。互いに捨て身でやりあうなら、余分な肉がついてない分、早く動ける私の方に分がある。拳の威力や蹴りの重さは、すぐに治癒するなら、関係ない。  バックスに加勢しようとする気配を、ドルクとテオが切り伏せるのを感じた。一定以上の傷を受けると、バックスのしもべ達は力を始祖に奪われ灰化する。これで4対2……すぐに四対一となった。瀕死のしもべの心臓を、ティアがスタッフで打ち抜いた。 「戦いながら幼児のごくと泣くか、惰弱《だじゃく》者め」 「お前のための涙じゃない」  お前が転化させた者たちへの血の涙。滅びの周囲に広がる悲しみと怒り。そして安堵してしまう後悔に傷つく者達への涙。殺す者の偽善だと、奪う者の傲慢だと、非難されてもかまわない。  ドルクの斧がバックスの右脇に食い込む。  テオの大剣が左脇腹からバックスの胸部をつぶす。抜かなければ、異物が体内にあるかぎり、治癒は起きない。そして足元に浮かび上がる鮮やかな光の方陣。  動揺したバックスの首を、手甲の爪で刺しつらぬいた。 「アレフ、離れて!」  ティアの警告に従って、手甲の留め金とベルトを断ち、金属の異物をバックスの首に残したまま、高く跳び離れた。天井すれすれで身を反転させた時、眼下に光に包まれ消滅していく赤い姿が見えた。左右には逃すまいと刃を打ち込んだままのテオとドルク。  断末魔の叫びの残響に、共に消滅していく多くの命が重なる。灰も残さず消える始祖。ファラも、父も、こうだったのだろうか。そして、いずれは私も。  幻聴の様に残る、悲嘆。  ハラワタをかきまわされ、引きちぎられるような熱い哀しみ。  これは眼前で妻に逝かれた駅番のケリー……もうひとりの私の悲しみ。  事情の説明を、私の居所をふくむ詳しい状況を問う、しもべたちの心話を締め出し、ケリーの悲嘆にのみ意識を傾ける。  私には十万以上の悲しみを我がことの様に受け止める度量は無い。想像すらできない。理解できるのは個人的な一つの深い悲しみ。犯した大罪の証として、悲しみと憎しみが心を切り裂くままにする。  世界を変える光をもたらしたと誇らかに胸をはり、君臨するテンプル。編み出した術や己が本拠に、聖《ホーリー》などという美名を被せようと、彼らも大量殺戮者だ。悲しみを増やす者ども。本質的には私やバックスと同じ人殺し。許されざる存在。  不死者が永らえるために血を啜るように、絶えず死と破壊を求める集団。正義だの英雄だのと世迷いごとを繰り返し、人を幻想でいつわり利益をちらつかせて言いなりにするやり口を含め、どこが違う。  本当に悲劇を止めたいなら、根本を叩かねばならない。憂いをぬぐうなら、始祖にあたる源を滅ぼさねばならない。  テンプルの源にあたるものとは何なのか。  嘆きに追い立てられるように思索を深めていった。 五 夜明け後の闇 「明けない、夜はない」  パーシーは黒茶をすすりながら、次第に収まっていく遠い火事の光を見つめた。夜、ひとりきりの館は広すぎて寂しい。物事を悪い方へと考えてしまう。  炎は何者かがドライアドと事を構えた証。テオを探しにいった者達だろうか。木に取り込まれそうになった若者を奪還するために火を用いたとも考えられる。だが丸木弓を持つ森が見込んだ勇士が、そんなムチャはするまい。  城に居ついた白ヒゲの吸血鬼が火を放ったのだとしたら……無秩序で破滅的な悪夢は終わるのかもしれない。ドライアドと組んだ来訪者によって。  だが、何のために彼はこの地にきたのだ。  身分を偽り、海を越えて。  激しく扉を叩く音に、パーシーはカップを置いた。三重の錠をはずす。錠前やカンヌキは気休めだ。一度招き入れてしまった魔物は、体を霧に変えて締め切った部屋にも入り込むという。グリエラスはそうだった。自身も眷属も、城までもが、忽然と現れては消える。 「妹の声が、みんなの悲鳴が」  銅で補強した厚い扉の向こうに、教会地下への格子戸を警備をしていたカータスが立っていた。 「世話になったって、ケニスさんの声が。兄ちゃんって妹の声も。静かになって返事もなくて」  すがって泣く若者の背をパーシーは軽く叩いた。布ヨロイに縫い付けられた鉄片は温かく、あらい呼吸に合わせて指の下で滑る。走ってきたのか。  角灯に火を移し、カギを手に教会地下へ急いだ。  錠前をあけ、恐る恐る地下へ下りる。  格子の向こうは無人だった。細かな灰が、光の中でゆるやかに舞っていた。  夜が深くなる刻限。星と月は霧にかすみ、慣れた道でなければカータスも走れなかったろう。それでも明けない夜はない。空はいずれ、透明で深い青色になる。灰色の霧はやがて真っ白に輝き出すだろう。  しかし夜明けをもたらしたのはテンプルではない。  カータスの次男坊にボダイジュの葉を混ぜた茶を飲ませた。朝まで眠れと送り出したあと、薄い二煎目を味わいながら、理由を考えた。  あの銀髪の魔法士は、秩序と安定を至上とするファラの弟子だ。  かつては理由もなくヴァンパイアを増やすのは禁忌だった。始祖ひとりに数人の公子たち……数千年間、増減はほとんど無かったと聞く。この地に広がった収拾のつかない混沌は、もっとも忌避されるもの。  禁忌を犯した者を排除し、混乱を収拾するために出向いてきた……と考えるのは、さすがに善意に解釈しすぎか。  テンプルがそうだったように、茶葉やコカラ豆、良質の材木といったこの地が産む富を欲しての事と考える方がまだ納得がいく。特に黒茶は万能薬のように扱われていると聞く。  剣や弓の数より火炎呪の使い手の数がモノを言う中央大陸では、魔力を一時的に回復させる手段として、茶葉は高値で取り引きされているらしい。  物だけならいい。人も連れ去るかもしれない。移民に偽装した食用の人間も、重要な交易品だったはず。自領の民には禁欲的な慈悲深い領主の顔を見せ、裏で遺族への配慮や対価を気にせずに貪れる贄を密かに確保するために。  いや、この地を属領にしたいのなら、あの少人数はありえないか。偽名をつかい漂泊の民に身をやつし、泥棒猫のようにアースラを噛んだ。  逃げて……いるのか。  ロバート・ウェゲナーは滅ぼされた。テンプルが差し向ける討伐隊を迎え撃つことがムリなら、逃げるしかない。避難して来たのだろうか。  ドライアドに守られたウッドランド城へは、普通に歩いてはたどりつけない。いまだテンプルの者の侵入を許していない安全な場所。そう思って隠れ家にするために。  先住者を排除してくれたのはありがたいが……魔除けが効かず、日のあるうちも油断できない吸血鬼が代わりに居座るのでは、かえって状況が悪くなった気がする。  グリエラスのように、これと決めた贄をすすり尽すまで他の者に手を出さないというのなら、少しは息がつける。アースラが生きているかぎり、他の者は安全だ。  だがエルマーはアレフ様は殺さないと言っていた。長く生かしておくために、大勢から少しずつ飲むと。移り気な吸血鬼などハタ迷惑だと思ったが、口には出せなかった。  いずれ、どこかへ立ち去ってくれるだろうか。モル司祭が来るまでの辛抱《しんぼう》。  だが、吸血鬼は退治されたとテンプルが思い込み、討伐隊が来なかったら……始末におえない闇をいただく事になる。  朝の光の下で、村は突然の開放に戸惑っていた。祝宴を開いては、という場違いな提案は、肉親が滅びた者たちの視線にあって消えた。  遅い午前、教会地下に遺された衣類や手回り品の整理をしていた時、テオが無事に戻ったと触れ回る声が聞こえた。地上にあがると門は開放され、人々に囲まれたテオが得意気に武勇伝を語っていた。横にいるテンプルの見習いの娘の表情を見るかぎり、かなり誇張がありそうだ。  さらわれ、宴にはべらされる順番を牢獄で待っていた者達が六人、呆然と立っていた。その手当てと、落ち着き先を決めながら、丸木弓のヒゲの男と黒衣の魔法士を探した。  やはり戻らなかったか。  安堵しかけた時、騒ぎから離れた森のほとり、暗いクヌギの下に佇む黒い姿を見つけてしまった。フード越しにテオと娘を見守る青白い顔が、こちらにむく。  目が合えば声をかけないわけにもいかない。だが、なぜ戻ってきた。気付かれていると薄々わかっているハズ。我が家は昼を過ごすのに、安全な寝所とはいえない。  皆の注意を引かないように気をつけながら歩み寄った。 「夜通し大変でしたでしょう。休んでいって下さい」 「ありがとうございます。若いもんと違ってさすがに徹夜は応えます」  ヒゲ男のダーモッドという名も、偽名だろうか。  アニーの心づくしの昼食を青白い魔法士は予想通り断わって寝室に引き取ってしまった。アニーの機嫌を治すため、可哀想にダーモッドは二人分食べていた。  昼過ぎ、しゃべりつかれたテオと、小さな顔を不機嫌にゆがめた娘が報告を兼ねて昼飯を食いにきた。同じ話を繰り返すのはうんざりと、簡潔に話して食べ終えると、ベッドに倒れ込むようにして眠ってしまった。  パーシーも椅子に座ってしばらくまどろむ。  陽光が斜めに傾く頃、目をあけると足音を忍ばせて出ていく灰色の法服が見えた。そのままま夢に落ちかけ……目が覚めた。  客室をのぞくと黒い魔法士とヒゲの男も消えていた。荷物はそのまま。戻ってくる気はあるらしい。  どこへ行ったかは予想がつく。アースラの気丈な笑顔が浮かぶ。昨夜の騒動で渇き切っているなら、口封じも兼ねて飲み尽くしてしまうかも知れない。  椅子で眠ったせいで強ばった体を、力いっぱい伸ばす。じっとしていられず、外へ出た。アニーが井戸端でノンキに話し込んでいる。吸血鬼が今うろついているというのに。  皆に警告するべきか。見てみぬふりをした方がいいのか。  顔を上げると、馬溜まりの積み草にティアとかいう見習いの娘が座っていた。手招きしている。小道の向こうにはテオの家と並ぶアースラの家。考えている間に、勝手に足が向いてしまったらしい。  立ち止まったまま、異変はないかと注視するのもはばかられる。  誘う娘の笑顔を口実に、青臭い小山に腰を落とした。 「いい天気よね」  娘の視線に導かれて見上げると、すばらしい青空だった。風が気持ち良い。 「パーシーさんは、お散歩?」 「ああ、君は?」  問い返して、しまったと思った。  娘が笑う。 「見張り」  さらりとした答えだった。思わず小さな横顔を見つめた。ティアは空を眺めたまま、唐突に生い立ちを口にした。 「あたしね、クインポートの代理人の娘なんだ」 「やっぱり、消えてないねぇ」  アースラは窓辺でため息をついた。まだ若かった頃、夫がシルウィアで買い求めた高価なガラスの手鏡を、のぞき込む。  しのび寄る老いが刻みつけた細い横ジワも哀しいが、頚動脈にそって並んだふたつの赤い痕に気がふさぐ。  教会の地下にいたみんなは滅び、夜明けには灰すらきれいに消えたらしい。でも、あたしの首筋には呪いの印が残っている。  パーシーの言うとおり、あたしを襲ったのは森の吸血鬼じゃないらしい。  英雄気取りで浮かれている甥に、どうごまかしたものか。数日間なら最後に噛まれたからと言い訳できる。でも、その後は?  暮れの光が混ざる空を見上げた時、背後から抱きすくめられた。  冷たい手が口をふさぐ。  手鏡に目を落とした。白い手も上等な黒服に包まれた腕も、目には見えても鏡には映ってない。変にゆがんだ唇と妙なシワが寄った服だけを映していた鏡が、手から落ちて欠けた。  台所へ、暗がりへと引きずられてゆく間、歯を食いしばって蹴りたいのをこらえた。首を力づくで傾けられた。よほど顔を見られたくないらしい。減るもんでもあるまいに。ケチくさい。  わずかに目に入るのは上等のリネンみたいな細くて白い髪。見舞いに来たオリン婆さんが話してた。干し魚を運んできた占い師が変な髪の色をしてたと。さらしたリネンのような色だったと。  喉の傷を探るおぞましい唇。ついうめき声がもれる。  夢見心地にさせる術をかける手間も惜しむのかい。若い娘ならともかく、中年に偽りの恋を仕掛ける気にはならないと?  一度ふさがった傷を開かれる痛みに身をよじったが、頭をつかむ手と胸を巻く腕はビクともしない。鉄の腕《かいな》とはよく言ったもんだ。  熱い出血を首筋に感じた。啜りとる音と、一滴もこぼすまいとうごめく舌と唇の冷やりとした感触。人に化けたヤマビルにはり付かれているみたいだ。 (……なぜ、前の様にあらがわない?)  心の中に聞き覚えのない男の声が湧いた。血の味に溺れそうになるのを抑え、ワナに怯えて、あたりの気配を探っている。戸惑いも不安も、あたしのモンじゃない。 (忠告どおり別の者にすれば良かったのか)  夜だってのにはっきり見える立派な広間。大きなガラス窓。小娘が灰色のそでを振って示す先に、血でまだらに染まった肌もあらわな男や女が積まれていた。死体に見える。だけどまだ息がある者がいるらしい。  同情も欲もなく、ただ目に映る光景。あたしが夫の灰を見つめていた時のようだ。雑巾のように疲れてすり切れた気持ちが、娘の笑い声に引っかき回される。 「失血死させちゃっても、バックスが殺ったことに出来るよ?」  驚きと腹立たしさと愛おしみ。小娘への複雑な思いが静まらないまま、夜明けの来る方へ、放置された温室へ逃れて回想が終わった。 (ワナならワナでもいい)  光の中で消滅する身体。最悪の明日を思い描き、血を啜るのをやめて、治癒呪をつぶやく。染み出した数滴を舐めとりながら、自らをあざ笑う魔物を首筋に感じた。  まったく、その辺のバカな男共とおンなじだ。てめーだけが苦労を背負い込んでいるような気になって。カッコつけるわりに、意気地なしで。 (ワナなん卑怯なマネ、誰がするかね)  心話ってのは、これで良いのかね。エルマーさんの声は、耳に心地よかったけど、話は抽象的で分かりにくかった。小難しい夢みたいなことばかり言ってた。 (口付けを受けたら、おとなしく次の訪れを待つ。他の者に迷惑かけないようにするのが、昔からのオキテだよ)  胸を締め上げ口を押さえていた硬い手がゆるむ。覚悟したフリをして、手を離したら悲鳴を上げるのではないかと恐れながら、少し手が下がる。  そのまましばらく様子を見ているような静けさが続いた。  不意に解放されたアースラは、支えをうしなってよろめき、テーブルに手をついた。 「乱暴して、すまなかった」  違和感をおぼえる感情や思考が心の中から消えてく。反省と敗北感を最後に、心も解き放たれた。  振り向くと白い男が立っていた。幽霊みたいに薄くて細い。こいつがエルマーの片恋の相手。あたしの初恋を邪魔した恋敵かい。死人らしく生気も覇気も感じない。そのまま影に解けて消えそうだ。 「もう、いいのかい」  力なく伏せられる目。 「……ありがとうね」 「礼を言われる理由がない」 「あたしの夫のカタキを取ってくれたんだろう」 「私はあなたの甥を巻き込んだ」 「守って、くれたんだろ?」 「そもそも、私があなたを噛まなければテオは危険を犯さなかった」 「あたしらを助けてくれたんだろ、悪い吸血鬼から」 「不死者となった者達を数万人、消滅させた。それに何をもって悪と分類するのか、私にはわからない」 「でも、呪われた身から救ってくれたんだろ」 「私も、呪われた身か?」  何なんだい、このグジグジと湿っぽく笑うヒネクレ者は。 「グリエラス様に噛まれた娘は、子供心にも幸せそうにみえたよ。だけど、あいつらに噛まれたモンはみんな、辛そうで苦しそうで。あたしの夫なんざ見ていられなかった……楽にしてくれたんだよね」  あたしを噛むまいと、閉じこもった寝室で壁を引っかき、腕を食い裂き、朝日の中にとび出してったバカの背中が頭をよぎった。涙がこぼれないよう目をそらした直後、肩を掴まれた。 「不幸なら死んでいいのか、殺していいのか。幸せだけが命の価値なのか。誰かのために今日を生きねばならぬ者がいたはずだ。どんな状態であっても今日も生きたいと願った者がいたはずだ。なのに、私が……」  痛みの中で、目の色も薄いと変なところに感心していた。間近で見る怒った顔がキレイに思えるのは、いまさら瞳の魔力にかかったってコトなのかね。 「すまない、八つ当たりだ」  肩から手が離れた。白い頭と顔の上半分を黒いフードで隠して、足音もなく狭い家を出て行く、黒い後姿を見送った。  もう来ない気がした。  ほっとしていいのに、少し寂しい。噛まなかった夫を、噛んだあいつに重ねていたんだろうか。浮ついた気分が不思議だった。  陽を吸い込んだ半乾きの積み草は柔らかいが不安定だ。パーシーは落ち着かない気分のまま、ティアの話を聞いていた。 「子供の頃、親父を喜ばせたくて、上がるなって言われてた二階に行こうとして、ブン殴られた。お手伝いしようとしただけなのに。手加減まったくナシ。ホウキ持ったまま階段を転がり落ちた」  ティアが金茶色の髪の毛を分けて、頭を傾ける。 「ココにまだキズが残ってる。二階は親父にとって特別な場所。大事なご主人様の部屋があったから。親父は実の娘より、アレフの方が大切なんだって思い知って……悔しくて泣いて恨んだ」  ティアが見つめる先に、丸く刈り込んだ茶樹とタックの家がある。中で行われている事を思うとパーシーも厳しい目を向けたくなる。 「親父の大切なアレフを滅ぼしてやりたくて、家を飛び出してテンプルまでいった。副司教長さんに直談判して選抜試験受けた。嫉妬ってスゴいよね、一発で受かっちゃった」  ため息をついた唇が皮肉そうに歪む。 「親父を独り占めしたかったんだと思う。妹か弟がいたら、きっとイジワルなお姉ちゃんになってたな」  キッカケはともかく、アレフに強い感情を抱いたティアは、正しく代理人の娘なのだろう。 「モル司祭が東大陸のヴァンパイアを滅ぼしに行くって聞いたとき、志願したの。嫌われてたけどダメもとで。そしたら連れてってくれた。でも船でクインポートについたとき……」  ティアの声が低い。 「モル司祭が町のみんなを焚きつけて父さんを嬲り殺しにした。止めようとした私もヴァンパイアの手先だって決めつけて縛って閉じ込めて処刑しとけって……今から思うとそれが狙いだったのかな。メンター先生から弟子を引き離して始末したかったんだよね」  派閥争いか。大きな組織は厄介で怖い。 「モルはバフルのヴァンパイアを滅ぼした。そして、あたしが滅ぼすハズだったアレフの城に向かう直前に……幸いというか不幸っていうか、この村の騒ぎがモルをホーリーテンプルに呼び戻したけど」  作為を感じないでもないが、問いただしても答えないだろう。 「偶然難を逃れた、悪運だけ、が強いアレフが、忠誠を尽くしてくれた代理人の娘っていう理由で、あたしを助けてくれた」  テンプルの聖女と吸血鬼が一緒にいる理由はわかった。それにしても明け透けな娘だ。 「一応、命の恩人だし。命には命で返さなきゃって思って、護衛としてついてく事にしたんだけど。もう信じらンない世間知らずなのよ。コブシの握り方もケンカの駆引きも知らないなんて、ワケわかんない」  突き出した愛らしいコブシには、不似合いなタコがある。 「あれで何百年も生きてきたなんて奇跡よね。試しに素手で手合わせしたら、勝てちゃったし。こんな奴を滅ぼすために全てをかけて修業してたのかと思うと、何かバカらしくなった」  向けてきた笑顔は、母親の様に温かく見えた。 「でも無能じゃないよ。長生きしてるぶん物知りだから。魔法のこと質問してあげると答えてくれるし。それも楽しそうに。 それで、ラスティルって聖女が考え出した、ヴァンパイアの血を触媒に使う解呪が可能かどうか聞いたら、色々教えてくれた。だから、解呪は出来るよ」 「アースラは助かると?」 「今すぐはムリ。でも数ヵ月後には多分。あのバカがモルに滅ぼされちゃったら、何もしなくても解けちゃうけど」  今なら、聞きたい事をある程度、答えてくれそうだ 「逃げて、いるのか」 「追ってるのよ。カタキ討とうと思って……追い抜いちゃったけど」 「だが、シリルの吸血鬼が退治されたと知ったら、もうココへは」  この村と森を争いの場にはされたくない。昨夜、森が受けた痛手の全容もまだ分からないというのに。 「来ないよねぇ、やっぱ。それに森の城にいるとドンドン落ち込んでオカシくなってく。温室でぼんやり朝まで立ってるし、変な形の実を握りしめて、青い指輪をイチジクにもらったとか言い出すし」  青い指輪……グリエラスが闇の女王から拝領したとかいうアースリングだろうか。 「灰の中から見つけたカギをテオに渡して、捕まってる人を救助させてるスキに、“食事”していいよ、今だけ目をつぶるからって言ってあげたのに……残飯あさりは嫌だ、なんてワガママぬかすし。どうしてもシリルへ戻るってきかないし」 「彼はアースラに執着しているのか」 「呪いを広げたくないからだって。近づく者がいたら引き止めてくれって頼まれたから、こうしてお話してるけど……正体バラすなとは言われてないんだよねぇ」  意地悪そうな視線の先に、タックの家から出てくる黒い姿と、慌てたように駆け寄るヒゲの男が見えた。 「それにパーシーさん、最初から分かってたでしょ」 「若い頃、会ったことがあるからね。私のほうは歳をとって、すっかり面変わりしてしまったが」 「どうする? 自警団の人たち呼んで、とっちめる?」  パーシーはだまって首を横に振った。  ティアが立ち上がり、軽く草の切れ端をはらう。一緒に立ち上がり、黒い姿に駆け寄っていく灰色の背をゆっくりと追った。  歩いてくる三人を改めて見て、ティアの存在が抜きん出ているのを強く感じた。昨日はティアを目くらましだと思っていた。吸血鬼の魔力に捕らわれた哀れな娘だと。だが、間違いだ。魅きつけられとりこにされたのは、娘を見守る黒衣の魔物のほう。  記憶の底から子供の頃聞いた話が浮かんできた。そして失われかけた夢。 「明けない夜はない」  背筋を伸ばす。向こうが一介の旅人に徹するなら、無意味に恐れる必要はない。 「これはパーシーさん、お散歩ですか」  ヒゲのダーモッドが当り障りのない笑みを浮かべて先に声をかけてくる。世慣れ交渉に長けた大人の態度。彼が交渉役を引き受けているのは察していた。ティアは率直すぎる。そして彼女の評価が正しいならアレフはとんでもなく世間知らずだ。 「いえ、あなた方を探していたんです。折り入って頼みたい事がありましてね」  こちらとしてもやりやすい。 「……わたくし共でお役に立てる事なら」  ヒゲ男の声には警戒した響きがにじんでいた。 「シルウィアからバフル行きの定期船が出ていた頃は、シリルにも人がたくさん出入りしてました。宿屋も繁盛してた。あの頃の賑わいを取り戻したい。いや、出来れば昔以上に」  ヒゲ男の目をまっすぐ覗き込む。 「旅慣れているあなた方に、バフルにいってもらって、教会に逆らって貿易を再開する意志があるかどうか聞いてきてほしいんですよ」  一瞬固まったヒゲ男の視線が落ち着かなく動く。 「確かバフルを治めていたご城主は……」 「滅ぼされたそうで。交渉するなら息子さんとなりますか」  目の隅に声を殺して笑っているティアが見える。アレフは超然と見守っている。少し見直した。まさか状況が分かってない訳ではあるまい。 「一介の旅人に会ってくれますかね」  ヒゲ男はトボけると決めたらしい。 「必ず……、と思いますよ。信頼できる筋から人となりは聞かせてもらいましたから」  ティアをちらりと見たヒゲ男が大きくため息をつく。 「どうしましょうか?」  覚悟を決めたようにヒゲ男が黒衣の青年を見る。 「お引き受けしましょう。多分この村の黒茶には興味を持たれると思いますよ」  落ち着いた声と微笑。一介の旅人としての物言いに徹している。 「ありがとうございます。 ところでアースリングとルナリング、昔、闇の女王が二つの大陸の融和を願って下賜したといわれる賢者の石。元は一つの石だとか」  青年が握りしめた指には、黄色い石がはまった古い指輪。 「森のご領主が言っておられました。『ふたつの石はどんな結界をも超えて引き合う』……お役にたちますか?」  座して滅ぼされるより、仇討ちを……ささやかでも反撃を選ぶなら、いずれ結界を越えてホーリーテンプルへいく時も来るだろう。  早いほうがいい。  魔物は時がたつほど力を増す。利息で増える借財のように。 六 武勇歌 「こんな感じでしょうか」  歌い終えた見習い聖女の頬は赤らみ、こげ茶の目はうるんでいる。カン違いしないようにモリスは気を引き締めた。この娘が心動かされているのはオレじゃない。歌に興奮してるだけだ。 「聖堂に響く荘厳な和音になりたいと願ってきたけど……こういう歌もあるんですね。単純なのに力が湧きます」 「はやり歌さ。ただの」  返された紙片には、数行の文字列。ウェンズミートからの速文に書かれていた意味をなさない文字と数字。だが音楽を学んだ者は音を読み取り、心をとりこにする旋律を蘇らせる。書き添えられた詞《ことば》は子供にも分かるやさしさ。  森のおく 五つの塔の 闇の城  見上げるは 金の聖女と 村の若人  月の下を 炎を巻いて 走り行く  真っ赤な悪夢 終わらせるため 「モリス様、お上手です」 「おめぇさんは、若いのに世辞が上手いねぇ」  音符は読めないが、聞いて覚えるくらい誰だってできる。  それにしても耳につく歌だ。子供に鉱夫に野菜売り、酒場だけでなく道や仕事場で、ふと気がつくと誰かが口ずさみ、いつの間にか合唱になっているという報告も、大げさではないかもしれない。 「五番まで旋律は繰り返しです。この音階、夜明け前の古い資料にあった楽譜に似てますね」  そのへんは専門家にしか分からない領域だ。 「これ、手間賃な」  厨房で調達した、蜜で練った炒り麦の菓子を渡すと、聖堂付きの見習い娘は歓声を上げて、駆け出した。あの歌を口ずさみながら。稽古場のスミで様子を見ている仲間の下へ。  キバ光る 死人の群れに いどむ四名  若人が 剣で道を 切り開き  狩人が 雨と降らせる 銀の矢は  魔法士が呼ぶ、風に乗って飛ぶ  モリスも歌いながら庭を突っ切り階段を駆け上がる。心なしか足取りが軽い。ホーリーテンプルの白い建物群が眼下に広がる。今日も良い天気だ。昼には鮮やかな光彩が見られそうだ。  白きヒゲ 紅い衣の 吸血鬼  剣と火を はじく邪悪は 手ごわいが  命かけ 金の聖女は 跳びかかる  捨て身で放つ、光の御ワザ  警護の騎士に目礼し、控え室のミュールに笑みかけ、副司教長室に入る。カーテンをなびかせ書類棚をなでる風は、まだ朝の香りを残していた。 「力強いが物悲しい武勇歌だね」 「おっと、お耳汚しを」  ハト小屋から回収した速文をメンターに渡した。 「最後は村に平安をもたらした聖女と村の剣士の愁嘆場」  他人の色恋沙汰と失恋は、ヤジウマ連中の大好物だ。 「教会が文字を人に広める前。吟遊詩人の素朴な歌声が、過去と他所の出来事を知る唯一の手段だった時代の旋律だね。流行りそうかね」 「禁じるかい? 攻撃呪を使えぬハズの聖女が、吸血鬼を倒すなどありえない。人心を惑わす、間違った歌だって」  事実だろうがな。  若い娘のクセにたった一人でキニルにたどり着いた強運と意思。ティアならやりかねない。  キニルでは行方不明者と不審死を遂げる者の数が少し減り、施療院に収容されていた犠牲者たちのうち、三人の呪縛が解けた。間違いなくバックスは滅びた。 「リュート弾きに、アレフの口付けを受けた者がいたか。特定できたところで、もうウェンズミートには居ないだろうね」 「こっちが全文。少しずつ違う歌もあるらしいが筋はだいたい一緒。……けど、なんでティアと村の剣士なんだい。どうして作らせたテメー自身をホメたたえさせない?」 「作った者は武勇歌にふさわしい真実を伝えたかっただけで、ご機嫌取りのつもりは無いのかも知れんよ。むしろアレフが関わっているのを隠そうとしているようにも読める」  魔法士に触れているのは一行だけか。 「今、モルの銀船は?」 「スフィーを出て南下していると思うが……すぐに無駄足だと気付くんじゃねいか」  メンターの眉間のしわを観察していたモリスは、不意に笑い出した上司に面食らった。 「印刷部にいって、教会の数だけ刷ってもらってきてくれ。森の大陸以外には速文で通達。教宣用の人形劇と武勇歌の主役にティアをすえる」 「本気か?」 「人々は悲恋を好むが、若き英雄も大好きだ。モルよりティアの方が十ばかり年下だ」 「だが、女だ」  天敵を……吸血鬼という口減らしの道具を失ったなら、女の数は抑えられねばならない。女は罪深きもの、愚かなもの、男より価値なきものと貶《おとし》めて、赤子のうちに間引くよう民に仕向けねば、人は際限なく増えて大地を食い尽くしてしまう。 「ファラを滅ぼし、夜明けをもたらした英雄モルの教えに逆らうのか」 「敵役も英雄も、制御できるに越したことはない。ティアは……出自さえ明かせば、いつでも魔女の烙印をおして、引きずり下ろせる。だが、モルはそうはいかん」  藍色のストールをもてあそびながら、メンターが笑う。 「何より、教会の勤めは全ての知を万民と共有する事。森の大陸を救った真実の物語を隠すのは、我々の存在理由をないがしろにする大罪ではないかね」 「けど、カンジンの聖女様がどこにいるかわかんねいぞ。ダイアナの呪縛は解けてねいが……」  もう警戒されてる。ムリに聞き出したところで、ウソを掴まされるに決まっている。 「私も、金を産む奇跡の癒し手を、煙花漬けにしろとは言わないよ」  借り上げたキニルの施療院は、画期的な治癒呪の開発と実地研修をしていると、えらく評判が高い。寄付金もたんまり集まっている。  血の絆によって刷り込まれた再生呪を使うなど、ダイアナ自身は不本意の極みだろう。だが、目の前に助けを求める者がいるなら、フテ腐れてばかりもいられねぇ。 「今どこに居るかはわからなくても、どこに行きつくかは分かっている。それで十分。ティアにそれ以上は望めない」 「ここに帰って来るかねい」 「帰ってきたときは……今の世の終わりの始まりだ」  終わりの始まり。嵐の前のような高揚感をおぼえる言葉だった。 『夜に紅い血の痕を』 十一〜十五章 了  十六章へ続く  * * * * 本作は、2007年8月〜11月にかけてブログ上で連載小説として掲載したもののダウンロード用改訂版です。 連載していたブログ http://akaitinoato.blog.shinobi.jp/ HTML版(まとめサイト) http://members.at.infoseek.co.jp/nayuka_aaaa/novel/akai_mokuji.html ご意見ご感想・誤字脱字等のご報告などありましたら、ブログのコメント欄、Web拍手に付属したメッセージフォーム等に頂ければ狂気乱舞します。  本作をお読みくださってありがとうございました。 2008.11.11 久史都子(ひさふみ みやこ)   作品の無断複製・無断転載はご遠慮くださいませ。